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 第九章 「世界が変わるまでは」


    1

 恐れていたような反応はなかった。打ちのめされ、深い悲哀の表情を浮かべてはいるが、暴れも泣き叫びもしない。陽祐の見る限り、持田明子の親類を名乗る男女が理性的な装いを崩す気配はなかった。ただ重たい沈黙と共に、狭い室内に一つだけ置かれた寝台を見つめている。そこに眠る彼らの姪は、凄惨な事件に巻き込まれた者とは思えないほど、穏やかな表情をしていた。
 なんで、と婦人が呟いた。意図せず漏らした言葉なのだろう。彼女は真っ赤な眼で鼻を啜り、傍らに立つ夫の腕に頬をすりつけた。明子の母親と、どこか面影が重なるところのある女性であった。姉妹だというから、当然といえば当然である。全体的にかなり肉付きのよい人物であったが、悲嘆に暮れた今はその姿もどこか頼りなげに見えた。
「理子さんたちのことは――」
 細君の背に手を回しながら、明子の叔父は陽祐の顔をぼんやりと見つめた。
「両親のことを、明子ちゃんは知っているんですか」
 小さく首を振って返す。「いや、知りません」
「それにしても、どうしてこんなことになったのか」
 眼に憎悪にも似た激情が宿り、それが真っ直ぐに自分に向けられるのを感じた。彼も、陽祐を責めるのがお門違いであるとは思っているのだろう。相手は自己紹介しか済ませていない、初対面の、しかも事件に巻き込まれた被害者の一人だ。だがこのような場合、往々にして人は怒りのやり場に困る。不条理と知りながら、身近に居合わせた人間に感情をぶつけずにはいられなくなることもある。
 陽祐は少し頭の中で整理してから、自分が見聞きした一部始終を彼ら夫妻に話した。ただし、常識の範囲内で語れない部分については省く。犯人の心当たりに関しても話を避けた。
「――足が痛いとは言っていましたが、重傷という雰囲気ではありませんでした。結局、ヒビが入っていただけのようです。その後、トイレに連れて行けというので、その通りにしてやりました。僕はそれから一階におりて、警察に通報して、また二階に戻った。彼女はちょうどトイレから出てくるところで、僕の姿を認めた瞬間、また気を失いました」
「それから、ずっと?」婦人が顔を上げて言った。
「いえ。救急車の中で眼を覚まして、病院についてからはしっかりした状態で検査を受けました」
 彼女は全身のレントゲンをとった。着衣の乱れもなかったし、本人も特に暴力を受けた記憶はないと証言したが、医師の助言もあって主に頭部の精密な検査も行った。幸いなことに、見つかったのは右足の大きなヒビだけであった。とはいえ、当局が現場検証を終えるまで自宅には戻れない。結局、警察と医者から様子見の入院を勧められ、彼女はそれに従ったのだった。
「ベッドが用意された直後、もう朝になりかけてましたけど、彼女はすぐに寝ました。その後のことは、僕も警察の取調べを受けていたので良く分かりません。もう医者から聞かれたかもしれませんが、それから一度も眼を覚ましてないそうです。身体には問題もないし、ただ眠ってるだけなんだそうですが――」
「でも、もう丸一日以上寝てるんでしょう?」
 その通りだった。反射的に、室内に置かれた小さな時計に眼をやる。昼を過ぎていた。四月一六日。明子が襲われた夜から二度目に訪れた昼である。彼女は三〇時間以上眠っているのだった。
「さっき、医者の先生から聞いただろう」明子の叔父が、労わるように妻の肩を叩いた。「心的に強いストレスを負った人間には、たまに見られることだって。身体はなんとも無いんだ、しばらくしていれば眼を覚ますよ」
 そのまま何度か彼女の肩を叩くと、男は陽祐に視線を転じた。一瞬、その眼に複雑な色が過ぎる。やがて、それも揺れる水面が落ち着くように静まった。彼は小さく頭を下げて言った。
「秋山さん、色々とご迷惑をおかけして済みませんでした。私も失礼なことを言ったような気がします」
 それは全くの気のせいだ、と即座に返した。彼が小さく微笑む。
「私たちは、通夜の準備に戻らないといけません。申し訳ありませんが、明子ちゃんのこと、よろしくお願いします」
 言われて初めて気付いた。完全に失念していたことだった。誰かが死ねば、通夜がある。葬儀をあげなければならない。当たり前のことである。死者が顔見知りであっても事情は変わらない。たとえ持田明子の両親であろうともだ。そうして人は他人の死に区切りをつけ、日常に帰っていく。
 親友と呼べる者の家族が失われたのだ。最低でも葬儀には参列すべきだろうと思われた。だが、喪服など持っていない。学生服ならまだしも、色の明るい白丘一高のブレザーではまずかろう。香典は幾ら包むべきなのか。袋にはどんな字を書けばいい?
 死んだのはドラマの登場人物でも、TVゲームのキャラクターでもない。持田家の崩壊が現実であるということに、はじめて気付かされたような気がした。
「あの――」ドアに向かいかけた彼らを慌てて呼び止めた。
「お通夜とか、葬式とか、どこでいつ頃やるんですか?」
「通夜は今夜です」振り向いた明子の叔父が言った。「家があんな具合だから、水沢市にある斎場を借りました。ばたばたすることになりますが、葬儀も身内だけで明日の昼から挙げるつもりです」
 彼は斎場の名前と所在地を告げた。遺体は既に明子の母親――理子の分は帰ってきており、警察の話では父親のそれも明日には戻るそうである。ただ、父親の分は警察からそのまま火葬場に持っていくよう勧められているとのことだった。恐らく、遺体の損傷が激しいからだろう。
「もし良ければ、焼香だけでもさせていただきたいのですが」
「ありがとう。でも、一昨日からほとんど休まれてないのではないですか? 少しお疲れのように見えますよ」
 その通りだった。例の夜以来、満足に睡眠をとっていない。警察に取り調べで長時間拘束されたし、明子の容態を見守り、こうして遺族に事情を説明する必要もあったからだ。疲労は間違いなくある。が、眠気はないし、眠る気にもなれないのだ。暇もなかった。
 彼は年長者としての労わりを込めた微笑を浮かべた。
「明子ちゃんのことをお願いしておいてなんですが、もしそうなら君も少し休みなさい。それでは気がすまないかもしれないけど、こういうことは大人に任せてやってくれませんか」
 もう一度頭を下げると、夫妻は静かに部屋を出ていった。再び、小さな個室に耳の痛くなるような静寂が戻る。婦人のつけていた香水と思わしき匂いが微かに取り残されていた。
 明子の頼るべき親類が、彼らのような人間でよかった。二人の消えていったドアを見つめながら強くそう思った。残された者たちは、これから互いの助けを必要としあうに違いない。
 ふいに、たとえようもない疲労感に襲われた。眉間を摘むように揉みながら天井を仰ぐ。眼を閉じて深く嘆息した。この街に来てからのことを順序だてて脳裏に思い浮かべていく。
「俺はもう、おかしくなりそうだよ」
 どう考えても、近くで人が死に過ぎていた。殺伐とした事件が起こり過ぎている。山下剛は、脳死か植物人間かといった命に関わる大怪我を負わされた。その加害者である通り魔は死んだ。そして持田明子の母親と父親が何者かに惨殺された。全てがこの白丘市で、一週間以内に発生した出来事だ。
 顔を戻して、眠る明子に視線を落とした。
「お前も、そう思うようなことがあるか?」
 その声は、部屋の静寂に染み込むように消えていった。明子は柔らかに眼を閉じたまま、何も答えてはくれない。
 しばらくその寝顔を眺めてから、何か飲んでくる、と彼女に断って病室を出た。入院病棟には、いたるところに自動販売機が設置されている。種類も飲料水に限らず様々であった。紙コップ式の販売機を選び、濃いブラックコーヒーを購入する。
 一昨日は、この紙コップから溢れ出すような量の鮮血を見た。元が人間であったとは思えないような死体と対面したはずである。それにも関わらず、自分のこの落ちつきようは何なのか。のんびりコーヒーを啜っていられる神経はどこからきているのか。
 感覚が麻痺しつつあるのだった。人が傷つくに慣れ、心に突き刺さる衝撃とそれがもたらす痛みに鈍感になりつつある。発狂しかけている、と言い換えても良い。人間はこうして壊れていく。致命的ではないが、二度と回復できない歪みを抱えることになるのだ。
 一度も口をつけていない紙コップを持ったまま、近くのトイレに直行した。洗面台に中身をぶちまけ、琥珀色の染みが消え去るまで蛇口を捻り続けた。両手で流れる水をすくい、顔に叩きつける。真に必要なのはコーヒーではない。もっと別の液体であることはわかっていた。
 水滴を服の袖で乱暴に拭いながら、明子の病室に帰った。彼女は微かな寝息さえたてず、生れ落ちたときからそうし続けてきたように眼を閉じていた。警官、医師、看護師、身内の者、そして陽祐と、無数の人間が病室に出入りしても眉ひとつ動かさない。陽祐の分まで眠ろうとしている気さえする。
 部屋の片隅に折り畳んで置かれていたパイプ椅子を掴み、ベッドの傍らまで運んだ。開いて腰を落とす。申しわけ程度につけられた西側の小窓に眼を向けた。すりガラスが閉めきられているため景色は全く見えない。陽光と樹木の緑色だけがぼんやり見えた。
 学校を休むのは、木、金、土と、もう三日目になる。日常を象徴するような学窓が、かつてこれほど遠く感じられたことはない。自分が学生であるという身分すら過去の幻だったように思える。
 少し、大作のことを思った。従兄がどのような状態にあろうと、彼は今日も真面目に通学したのだろう。ただ、しばらく会っていないため確かなことは分からない。事情を話し、彼の夕食の世話をするという話を一定期間なかったことにしてもらってさえいた。ここ数日は、ほとんど警察署かこの病室で過ごしている。自宅にはシャワーを浴びて着替え、また仮眠をとるだけに戻る程度であった。
 持田明子に向き直る。両親の死を伝えるのは誰の役目になるのか、またそのタイミングをいつと心得るべきなのか考えた。警察関係者に任せるのが一番楽だが、彼らの無神経さ、無慈悲さを考えるとこれは避けたいところであった。人間であることよりハイエナたることを選んだマスコミは論外である。そうなると身内の者が打ち明けるべきだろう。許されるなら、自分が伝えたい――と思った。それがきっかけで彼女から恨まれたり、憎まれたりすることもあるかもしれない。しかし、全てを見届けた自分がやるべき仕事であるように思えた。
「お前は、彼女に憎悪されることが怖くはないのか?」
 素朴な疑問をそのまま口にしたような声が聞こえた。一瞬、自分が無意識に発した言葉であることを疑う。が、すぐに違うと気付いた。声の方に顔を向ける。部屋に存在する唯一の出入り口。ドアに背を預けるような格好で、男がひとり立っていた。
 彼が入室してきたことに全く気付かなかった。少なくとも戸を開閉する音を聞いた覚えはない。軽い驚愕と共に男を凝視する。
「誰だ、あんた」
 二〇代半ばか、青年といえる年齢だろう。背格好は陽祐とさほど違いはないが、肌が幾らか浅黒く、全体的に引き締まった身体つきをしている。黒いスラックスと灰色のシャツ、スラックスと同じ色の薄いジャケットをまとっていた。特に力を込めている風ではないが、猛禽のように眼光が鋭い。加えて、その眼には三千世界の全てを見てきたような深みがあった。若い肉体をまとった老人。そのような印象を受ける。
「木曜の夜、俺の目的が何だか訊いたな。秋山」
 陽祐の誰何を全く無視して、男は言った。
「この病棟の一五階に第二会議室という部屋がある。そこに全員を集めた。知りたがっていたことを教えてやる。来い」
 衝撃のせいか、無意識に椅子から腰が浮いた。弾みでバランスを崩す。視界が揺れ、斜めに傾いた。パイプ椅子ごと転倒しかけたところを、床に手をついてなんとか持ちこたえる。
「お前――」
 体勢を立て直し、男の方に向き直った。視界から彼の姿を外したのは一瞬のことだったはずである。それにも関わらず、男は忽然と消えていた。信じられないことではあるが、刹那的な機会を利用して素早くドアを開け、音もなく出て行ったとしか考えられない。
 陽祐は慌てて戸口に走った。扉を開け放ち、男が飛び出していったはずの廊下に視線を巡らせる。いない。近くを通りかかった夜着姿の老女が、乱暴に押し開かれたドアに眼を丸くしている。すぐに咎めるような表情に変わった。男を見たか、その行方を尋ねられるような雰囲気ではない。
 一五階、第二会議室。
 陽祐は戸口に立ったまま、振り返って病室の中を見た。寝台の明子は、白いシーツに包まれて穏やかに眠り続けている。眼を細めてしばらくその寝顔に見入った。彼女がこんな場所で寝込む原因を作ったのも、山下剛に障害が残るような怪我を負わせたのも、恐らくは、あの男なのだ。少なくとも関連はある。
 後ろ手にゆっくりとドアを閉じ、階段に足を急がせた。


    2

 第二入院病棟はすぐに見つかった。建物の高さや外観こそ異なるものの、TUT付属病院の施設内部はレイアウトの面でほとんど相違が見当たらない。エレヴェータホールも案内板を見ずに探し出せた。待機していた無人の箱に乗り込み、一五階のボタンを押す。渡瀬啓子は手首を返して腕時計の時刻を確認した。一三時四〇分。指定された時間の、ちょうど二〇分前であった。
 この病院に足を運ぶのはこれで三度目だった。が、前回までのことは思い出したくない。特に二度目の訪問は散々であった。まだ記憶に新しい、一昨日のことだ。啓子は、救急救命センターから一人部屋の特別室に移された山下と対面した。彼はまだ意識を取り戻しておらず、機械の助力を得てなんとか命を繋いでいる状態だった。見るからに痛々しい姿であったが、眼を逸らさないと決めていた。恐る恐る見極めた。そこにいたのは間違いなく山下剛であった。
 束の間の対面が済むと、医者と山下隼人から、彼の置かれている本当の状況を聞いた。
 山下剛さんの場合、特に問題となっているのは頭部の怪我です。医師は、東証株価指数を伝えるアナウンサーのような口調で言った。
 よく交通事故で頭を強く打った人が運ばれてきますが、彼らの状態と似たところがあります。脳挫傷があまりに酷いと我々としても手の施しようがなく、患者さんは脳死状態に陥ってしまいます。珍しくはないことです。しかし山下さんの場合は、減圧開頭術や脳圧降下剤の効果が強くでました。脳死は免れたと言って良いでしょう。ただ、意識の回復については依然として厳しい状況ですね。このまま植物状態に、という可能性も否定できませんし、意識が戻ったとしても場合によっては若干の障害が残ることも考えられます。
 ――耳を疑った。何かの間違いだと思った。障害など、冗談ではない。
 医師は何も理解していなかった。山下はトップアスリートだ。僅かな肉体的不調が致命的な打撃になる。選手生命に関わる。空手は彼の全てなのだ。これまでの一七年間の全てを注ぎ込んできた一大事業なのだ。そのことを正しく理解していれば、障害や後遺症のことなど簡単には口にできないはずである。
 だから啓子はそのままを口にした。泣いて喚いたというべきかもしれない。困るんです。そんなの。空手ができるように治らないと意味がないんです。必死に訴えた。が、重症患者を前に取り乱す身内など、救命センターの医師には見慣れたものでしかなかった。日常風景の一部なのだった。彼はただ、駄々をこねる子供を見るように啓子を見つめていた。
 ふいに電子レンジの鳴るような音がして、啓子の思索は中断された。眼の前の壁が二つに割れ、それぞれ左右に開いていく。それでようやく、自分がエレヴェータに乗っていたことを思い出した。頭上の電光表示を見上げる。指定階に到着したことが示されていた。
 慌てており立った一五階フロアは、病室の一切存在しない特別な空間であるようだった。エレヴェータホールに掲げられた案内板を見る限り、会議室やリフレッシュルームといった変わった部屋名ばかりが並んでいる。普段は誰も立ち入らないエリアなのだろう。その証拠に、辺りには全く人気が感じられない。
 少し歩くと、目的の部屋はすぐに見つかった。最初に第一会議室のプレートを下げた部屋が姿を現し、その隣に第二、第三と会議室が続いている。第二会議室のドアは施錠されておらず、押すとすんなり開いた。不安と緊張に動悸が激しくなるのを感じながら慎重に足を踏み入れる。電気はついていなかったが、南側の壁一面に大きな採光窓がずらりと配置されていた。室内は充分に明るい。渡瀬家の居間とダイニングを合わせた程度の大部屋だった。中心部には重厚で艶のある巨大な木製円卓が置かれている。その周囲を取り囲むように並べられた椅子は一〇脚程度。出入り口のドアと対面する壁にはホワイトボードが埋め込まれていた。
 後ろ手にドアを閉めると、ドアに背を預けながら人知れず安堵の吐息を漏らした。無人の世界に放り出されると、立ち入り禁止区域を侵犯しているような後ろめたさを感じる。
 吐き出した分を取り戻そうと唇を開きかけたとき、ふいに室内の空気が揺れた。心臓が垂直に飛び跳ねる。慌てて顎をあげ、改めて辺りに視線を巡らせる。はじめて先客がいたことに気づいた。気配を全く感じさせず、オブジェのごとく部屋の風景に溶け込んでいたせいだろう。ドアを開けた瞬間、網膜に入り込んでくる位置にありながら、その姿を認知できなかったらしい。驚愕のあまり悲鳴を上げそうになる。
 啓子が必要以上に狼狽させられたのは、それが呼び出し主の秋山陽祐ではなかったからだった。黒いパンツスーツに身を包んだ、明らかに女性と分かる長身が窓際に立っている。全く初対面の人物であるということを理解した後は、混乱で頭が真っ白になった。女医である可能性はありそうだったが、患者や看護婦には見えない、と辛うじて判断する。どう反応すべきか。なんと言い繕うべきか。背中の後ろで握り締めていたドアノブが、汗で滑りだす。
「貴女は?」
 突然、透き通った声が啓子の鼓膜を振動させた。幻聴かとも思う。対面している女性が喋ったのだと気付くまで、数瞬の間を要した。
 ほとんど反射的に謝罪の言葉を口にしていた。
「あの、すみません。私、ここで待ち合わせしていて――」
「待ち合わせ?」女性は形のよい眉を微かに歪めた。眉だけではない。若く、驚くほど整った外貌の持ち主であった。
 彼女はブラインドの閉まった大きな窓のそばに、ごく自然な姿勢で立っていた。片方の肘を窓縁に軽く添えている。本人、全く意識せずにとった格好であることは明白であった。しかし啓子の眼には、カメラマンがシャッターを切るのを急ぐべき姿に映る。
「申し訳ないけど、私もこの場所にいないといけない。同じように待ち合わせで」
 軽く交差させていた脚を元に戻し、彼女は足音を立てず静かに歩き出した。啓子との距離を少しずつ詰めてくる。
「偶然とは思えないな。失礼だけど、貴女の待ち合わせの相手を聞かせてもらえる?」
 意志の強さを窺わせる切れ長の眼で見据えられた。彼女の眼つきは、山下剛のそれに良く似ているような気がした。
「秋山陽祐って人です。クラスで、あの、友達で……」
 彼女の足が止まった。そうすれば相手の思考を透かして見ることも可能だ、というような表情で啓子の顔に目線を固定する。しばらくすると再び足を進めはじめた。手を伸ばせは触れられる位置まで啓子に近寄り、スーツの内ポケットからパスケース大の何かを取り出す。
「貴女、名前は?」名刺のようなものを差し出しながら彼女は言った。気付くとそれを受け取り、同時に名乗っていた。初対面であろうと関係ない。命じられれば抗いようのない種の相手であった。
「渡瀬さん、ね。秋山陽祐とは友達と言った?」
 頷いて返す。それから、恐る恐る自分の右手に移った紙片に眼を落とした。ようなものではなく、名刺そのものだった。 <クラタパートナーズ> 事業部企画営業課、諸岡悟子とある。
「今から言う名前に聞き覚えは?」
 そう言って、彼女――諸岡悟子は三つの人名を挙げた。最初に井上友子。次いで山下剛、持田明子と続く。そのラインナップに多少の驚きを感じながら、最初の女性名は井上副部長の母親かもしれない、と思った。以前、空手の試合会場で紹介されたような気がする。あとの二人は言わずと知れていた。いずれもクラスメイトで、啓子にとっては最も身近な人間である。ほとんどその通りのことを素直に話した。
「クラスメイト、か」諸岡は険しい表情で呟いた。「なるほど、繋がってきたな」
「あの――」会ったばかりの人間に、問われるまま理由も聞かず回答していったのだ。説明を求める権利くらいはありそうな気がした。
 諸岡は無言のまま、テーブルの上に放り出してあった新聞を掴み取った。そのまま啓子に手渡す。昨日の日付が入った、地方紙の朝刊であった。
「その一面の記事に」彼女は静かに言った。「知っているでしょうけど、持田明子とその両親の事件が扱われている」
 言われて手元の新聞に眼を落とした。一面には大きな活字が印象的に躍っている。 <一家三人殺傷 猟奇的犯行> 、横にはサブタイトルのように「白丘市でまた殺人」と添えてある。
一四日未明、岩手県白丘市飛鹿の持田さん宅に何者かが押し入り、会社員、持田誠一郎さん(39)とその妻、理子さん(39)が殺害された。二人は暴行を加えられ、一階居間で倒れているところを知人に発見された。事件当時、二階には長女、明子さん(17)もいた。明子さんは軽症を負ったが命に別状はなく、現在は病院で治療を受けている。岩手県警は白丘警察署に捜査本部を設置、殺人事件として捜査を開始している。
「うそ……」
 手にした新聞紙が大きな音を立てた。力を込めたつもりはなかったが、破り切ってしまうほど握る手に力がこもっている。なぜ、持田明子の名が新聞の――しかも事件記事などに載っているのか理解できない。自分の見ているものが信じられなかった。思わず顔をあげ、助けを求めるように諸岡を見つめる。
「知らなかったみたいね」意外そうな声が返った。
 無論、知らなかった。ここ数日というものTVニュースはもちろん、新聞も読んでいなかったのだ。山下剛の容態が思いのほか深刻であることを知り、それどころではなかったからだ。彼の名前を見つけてしまうのが怖くもあった。
「仙台からの列車の中で、私はその記事を見つけた。昨日の朝刊だから大したことは載ってない。今日の新聞には、持田明子が大きな心的ショックを受けて入院したことが書かれている。この病院である可能性もあると思って、知り合いの関係者に調べさせた。それで分かった。持田明子はこの病院にいる」
「持田さん――持田さん、大丈夫なんですか」
 諸岡悟子は、啓子の問いを全く無視して言った。
「これで、貴女に心当たりを訊いた人間は全員がTUTに入院したことになる。しかもほとんどが重症患者として。井上友子は上咽頭癌。山下剛は例の通り魔事件で重傷。持田明子はいま言った通り。そして私の娘も、ここに入院している。二年も前から」
 えっ、と口を開きかけたとき、背後でドアの開かれる音がした。不意をつかれたせいもあるだろう。その蹴り破らんとするような勢いに危うく飛び上がりかけた。慌てて振り返ると、血相を変えた若い男が息を弾ませながら飛び込んできた。秋山陽祐だった。
「秋山君」
 その剣幕にいささか鼻白みながらも、自分が彼に呼び出されていたことを思い出す。腕時計の時刻は、間もなく一四時になろうとしていた。他ならぬ秋山本人が設定した時間である。
「渡瀬?」部屋中に巡らされていた彼の視線が、啓子の姿を捉えた。と、なぜか怪訝そうな表情が浮かべられる。あり得ないことだが、啓子がこの場にいるのを不審がっているようにも見えた。驚いたことに、実際その通りのことを彼は口にした。
「なんで渡瀬がここにいるんだ」
「えっ、だって――」
 呆然と秋山の相貌を見返した。よほどの速度で駆け続けたのか、まだ呼吸は落ち着いていない。眉をひそめ、真剣に啓子の存在を疑問に思っているような顔をしている。
 ふと諸岡悟子がこの事態をどのように受け止めているか、気になった。結局、彼女は誰と待ち合わせしていたのだろうか。まさか秋山陽祐が二股をかけていたとも思えない。横目で窺うと、諸岡は至って冷静に構えていた。ただ、啓子と秋山陽祐とのやり取りに興味を持ったようではある。静かに事の成り行きを見守っていた。
 啓子は新聞と名刺を円卓に置き、肩に下げたポーチから件の便箋を取り出すことにした。秋山陽祐の署名と共に、待ち合わせの日時と場所を指定してきた手紙である。
「秋山君、これ」彼に手渡した。文字を追う相手の表情を観察しながら続ける。「それ、秋山君がくれたんじゃないの?」
「なんなんだ、こりゃ。俺じゃないよ。俺は送ってない」
 身に覚えのない請求書を扱うような手つきで、秋山は便箋をひらつかせた。と、沈黙していた諸岡悟子の長身が視界を横切っていった。そのまま、ごく自然な動作で秋山の手から便箋を抜き取る。素早く内容を検《あらた》めると、彼女はゆっくり顔をあげた。
「渡瀬さん」その鋭い眼が、真っ直ぐ啓子に向けられた。「貴女、この手紙をいつ、どこで、どんな方法によって受け取った?」
「えっ――?」慌てて記憶を掘り起こした。印象深い出来事であっただけに苦労はしない。「えっと、木曜日にこの病院に来たとき、預かったって人がいて」
 啓子は、そのときの状況を簡単に説明することにした。が、途中で諸岡から幾つか質問を挟まれる。的確かつ効果的な追求であった。気付けば、洗いざらい全てを話すことになっていた。忘れかけていた些細な記憶すら、彼女の誘導によって掘り起こされた気がする。
「どうなってんだ? 俺は本当に何も知らないぞ。待ち合わせなんて考えてもなかったし、大体ここに来たのだって――」
 秋山はそこまで言いかけて、はっとしたように口を噤んだ。微かに赤らんでさえいた顔色が真っ白に急変していく。
「そうだ。俺もここに呼び出されたんだ。明子の病室にいたら、変なやつがいきなり入ってきて」
「どうも、その誰かが私たちをここで会わせようとしたらしい」
 諸岡は、険しい眼差しを出入り口のドアに向けた。
「老若男女、出力装置の形態は違っても同じものと繋がっている。私の場合、昨夜かかってきた電話でここに来るよう呼び出しを受けた。秋山陽祐に会わせてやると言って」
「俺に?」
 秋山が素っ頓狂な声をあげたとほぼ同時に、小さな音がして再びドアノブが回り出した。戸の向こうに人の気配を察知し、啓子を含めた全員の視線がそちらを向く。扉は、前回とは比較にならないほど控え目に開かれていった。大人一人がようやく通れるほどのスペースを設けると、静かに動きを止める。既に注目を集めているとも知らず、気配の主は首から上だけを隙間に差し入れた。偵察するように室内の様子を窺う。覗き出たその人懐っこい童顔、そして運動部らしい短髪には見覚えがあった。
「井上くん?」思わずその名を口にしていた。副部長本人には届きようのない小声であったが、表情が微かに揺れたのを見ると諸岡悟子には聞こえたらしい。
「あ、やっぱりここで良かったんだ」
 秋山陽祐の姿を認めた瞬間、空手道部副部長、井上大作は安堵の笑みを浮かべた。扉の影から隠していた胴体を引っ張り出して、今度は堂々と全身を露にする。
「病院にこんな部屋があったなんて知らなかったな。なんか、中から話し声が聞こえたような気がしたから間違えたかと思ったよ」
「大、作……?」呆気にとられていた秋山が、ようやく声を取り戻した。「こんなとこで何やってんだよ、お前」
「なにって、大事な話があるとかで、陽祐が来いって言ったんじゃないか。さっき携帯メールでさ。違うの?」
「だから違うって」秋山はうんざりしたように両手を広げた。もう好きにしてくれ、という責任放棄のアピールにも見える。
「誰かが俺の名前使ってメールやら手紙やら、ばら撒いてるらしいけどな。俺は何もしてないし、お前も渡瀬も呼んだ覚えはない。用もない。――大体、お前ら学校はどうしたよ」
「陽祐、寝ぼけてるの?」副部長は呆れ顔で嘆息する。「今日、土曜日じゃないか。もう昼の二時だよ。とっくに放課後だし、陽祐こそ、何日もサボってる人間が胸張ってなに言ってんのさ」
「もう、そういうレヴェルの問題じゃねえんだよ」
 秋山は従弟の正論を勢いでねじ伏せると、送られてきたという電子メールを見せるよう要求した。井上はおとなしくそれに従う。だが、井上大作ほど善良な人間も珍しい。秋山のように確認するまでもなく、副部長の証言が事実であることは分かりきっていた。
 予想していた通り、すぐに「手紙の次はメールかよ」という秋山の悪態が聞こえてくる。
「総合すると、いま来た子、井上大作というみたいだけど。もしかして井上友子の息子なの?」
 諸岡が、最寄の啓子にだけ届く抑えた声で言った。彼女は軽く腕組みした姿勢で、秋山と副部長の口論にも似たやりとりを静観している。それから、ゆっくりと啓子に視線を移した。その言葉が自分への質問であったと解釈し、啓子はしばしの間を置いて、そうだと答えた。秋山陽祐と親類関係にあり、同時に級友の間柄でもある事実を補足説明する。
「なるほど」思考的沈黙を挟み、諸岡は呟いた。右手の人差し指を鉤爪のように曲げ、上唇にそっと押し当てる。「こうなると、関係者全員を集めるつもりなのかもしれないな」
 ――関係者。その言葉に、啓子は首を捻った。
 先ほどの新聞の内容と諸岡の言葉を信じるなら、確かに第二会議室に集った人間たちには共通項が存在する。身近な人々が入院患者になったという事実がそれだ。
 そういえば一昨日の午後、この病院の中庭で井上大作とその母親を見かけた。見舞ったばかりの山下のことで頭がいっぱいだったため深くは追求しなかったが、そもそも彼らはなぜ大学病院にいたのか。癌を患った母親の様子を、親思いの息子が訪ねていたのだとしたらどうか。話は綺麗に通る。
 それはそれで良い。問題は、たった一つしかない共通項から、この部屋の人間たちにどのような関係が生まれたかである。知人の中から怪我人、病人の類が出たからといって、顔をつき合わせて握手を交わす必然性は生じない。それで山下の意識が回復するわけではないのだ。
 そこまで考え、思考に没頭していた啓子は我に返った。誰かが息を呑む気配がそうさせた。
 顔を上げると、何事が起こったのか、かつてない緊迫感が室内に充満していた。秋山、井上、そして諸岡までもが、揃って目つきを険しくしている。彼らは呼吸さえ忘れた様子で一方向を凝視していた。無意識のうちに彼らの視線の先を辿る。廊下へと続く第二会議室唯一のドアが、三度開かれていた。そこに立つ小柄な老人を見た瞬間、自分の表情がこわばっていくのを啓子は感じた。
 考えれば当然の話であった。面子として、井上大作が最後の一人であるはずなどなかったのだ。差出人を偽って手紙やメールを出し、この場をセッティングした者がある以上、その張本人が姿を現さなくては何も始まらない。四人目が必ず存在するはずなのだった。
「全員、揃ったみたいだな」
 室内に集った顔ぶれを確認していくと、四人目は口ごもるように言った。ドアを閉め、足を引きずるようにして啓子たち三人が作った人の輪に歩み寄ってくる。老いた女性であった。そうすることが本能的規範としてあるように、井上大作が彼女に駆け寄っていく。見知った仲というわけではないらしい。相手が歩行に不自由していると判断した場合は、誰にでも手を貸すのだろう。
「ありがとう。助かった」
 充分に集団との距離を詰めると、老婆は片手をあげて副部長を労った。また、いつでも言ってください、と微笑んで井上は元の位置に戻る。
「婆さん、何者だ。誰かに呼び出されたとか?」
 秋山陽祐は、従弟と対照的な眼を老人に向ける。相手が無垢な赤ん坊であれ、この場に現れた未知なる人物には警戒してかかる気なのだろう。
 正直なところ、啓子も似たような心理状態にあった。特に目の前の老婆には生理的な嫌悪感に近いものさえ抱きつつある。一昨日の午後、青年から預かったといって例の手紙を渡してきたのは、間違いなく彼女であった。皺とシミに覆われた死人のように青白い肌。ひび割れのように浮き上がった黒い静脈。――疑う余地はない。
「私は誰にも呼び出されていない」
 老人は能面のような無表情で淡々と告げた。
「この会合をセッティングした、主催者が私なのだ」
 その言葉は、場に動揺をもたらした。諸岡の双眸が鋭く細められる。井上副部長は事情を把握しきれていないらしく、困惑顔で視線を揺らしていた。
「そりゃ、どういうことだよ」
 秋山の眼差しには、既に明確な敵意が宿っているように見えた。
「病室に無断で入ってきた奴はどうした。若い男だったはずだ」
「普通、問題になるのは郵便を届けた配達人ではない」
 己に向けられた悪感情を、老婆は意に介した様子もない。
「郵便物の内容とその送り主が重要なのだ」
 啓子はこのときになって、彼女の口ぶりが二日前と全く異なっていることに気付いた。あれほど強かった岩手訛りが完全に消え、声からも老人特有の震えが消えている。衰えが明らかな肉体とは反対に、発せられる言葉にはしっかりとした芯が窺えた。
 あのとき、彼女は素朴な地元の高齢者を演じていたのだろうか。そんな疑念が俄かに沸き起こってくる。自分に警戒心を抱かせぬよう、確実に手紙を受け取らせるよう、彼女は故意にあのような人格をまとっていたのではないか。
 その考えが頭の中で纏まった瞬間、全身の筋肉が硬直した。うなじから背中にかけての産毛が一気に逆立つ。
「――だったら、早くその本筋の説明を始めたらいい」
 胸の辺りで軽く両腕を組み合わせた格好のまま、諸岡が口を開いた。その眼には老人しか捉えられていない。
「この茶番には、いい加減うんざりしてる」
「そうだな。私も、別にもったいぶるつもりはない」
 老人は若い欧米人のように両肩を小さく持ち上げ、落とした。
「本題に入ろう」


    3

 諸岡悟子は気を引き締めた。目の前にいる老人が何者であろうが、彼女はひとりではない。目的は一つしかないと仮定しても、それを共有する連中は確実に複数、存在するのだ。まず、梓の病室に現れた幼女がそうだ。それからナースに怪文書を預けていったという少年、電話でこの会合に参加するよう言ってきた老いた女の声。悟子に接触してきた人間だけでも確実に三人いる。
 他にも、持田明子の病室を訪れ、秋山をこの場に連れ出したという青年。井上大作に差出人を偽ったメールを送った者。渡瀬啓子に手紙を渡した老婆と、それを認《したた》めた人物。
 これらから年齢、性別を根拠に、重複し得ない人間を抽出していくと、最低でも四名以上の個人が浮かび上がる。幼女、老女、少年、青年と老若男女、まったく統一性がない。或いは、血筋や境遇を同じくする人々なのだろうか。思想や哲学的な結びつきだけで、これらの人間をまとめあげるのは困難だろう。
 いずれにしても、この場に出てきた老婆は疑似餌でしかないのかもしれない。相手が組織であることを考えれば、今この間にも裏で何らかの動きを見せている可能性がある。
「ここ最近、自分の身辺が俄かに騒がしくなり始めた。そういう印象を持ったことはないか?」
 老人が喋り始めた。昨夜、電話で聞いた声に限りなく近い。恐らくは同一人物である。彼女が悟子をこの場に呼び出したのだ。
 そのとき、いま気付いたというように秋山が面をあげた。
「その声……どっかで聞いたな」
 衝撃に打たれているのだろう、半ば呆然とした顔をしている。そうするうち何かに思い当ったのか、彼は大きく眼を見開いた。死んだ人間と再会したような表情で老婆をまじまじと見つめる。
「あんた、まさか――」
 次の瞬間、彼の驚愕は殺意すら漂わせた憎悪と憤怒に取って変わっていた。噛み締められた歯の隙間から、獣のような唸り声が微かに漏れだす。隣に立つ従弟に制止する暇《いとま》も与えず、秋山は老婆に向かって猛然と駆け出した。そのままの勢いで相手の胸倉を掴み、乱暴に捻りあげる。力が全く制御されていないのは、老人の踵が浮き上がりかけていることからも如実に窺えた。
 突然の暴挙に、井上大作が眼を丸くしながら従兄の名を叫ぶ。しかし、本人に届いた様子は全くない。込められた力は緩まない。逆だった。腕部の筋肉が膨れ上がり、血管が浮き上がってくる。
「てめえか、電話をよこしたのは」
 秋山は老人の顔を引き寄せ、怒号をあげた。小柄な身体を吊り揺さぶる。「言え。明子の両親をやったのはてめえか!」
 途端に、全員の眼が揉みあう二人に集まった。誰もが秋山の言葉の意味するところを理解する。仲裁に入ろうかタイミングを見計らっていた悟子は、踏み出しかけていた足を引っ込めた。
「電話で聞いたのはお前の声だった。てめえだったんだろ」
「そうだ。二人とも私が殺した」
 老婆は平然と言った。二人とも自分が殺した。全く苦労はなかった。そう付け加えさえする。窒息して当然の状態にありながら、筋一つ動かさない。眼の前で騒ぎ立てる若い男を、試験管の中の化学反応を観察するような眼で見下ろしていた。
「大事なら守れと言ったはずだ。お前には無理だったな?」
「お前は――」
 秋山の背中が小刻みに震えた。激情のあまり言葉を失ったのだろう。刹那、手が緩んで老婆が解放されかける。慌てて力を込めなおした彼は、そのまま押し出すようにして老婆を投げ捨てた。
 綺麗に並べられた円卓の椅子に、老人の小さな身体が接触する。轟音があがった。ボーリングの球がピンの群れに激突したようだった。衝撃は津波のように広がり、周囲にあった椅子をなぎ倒していく。秋山は肩で息をしながら、それでも老人を睨《ね》めつけていた。
「どうしてそんな平気な顔でいられるんだ。お前は人を殺したんだ。二人も殺したんだぞ。なんで……」
 言葉が紡がれていくに連れ、彼の表情は変化していった。砕けそうなほど噛み締められていた奥歯が、少しずつ緩んでいく。噴出していた怒気も徐々に萎えていった。やがて張り詰めていた全身の筋肉が弛緩し、面が伏せられる。怒号は嘆き声になっていた。
「あいつ、良い子じゃねえか。小父さんも小母さんも気の良い人たちだった。俺は好きだった。俺に無いものを山ほど持ってる人たちだった。ウチもあんなだったらって、ガキの頃、いつも思ってた」
 秋山は、泣きそうな顔で拳を握り締めた。
「なのに、なんで滅茶苦茶にするんだよ。あんなに良い家族、なんで平気な面して壊せるんだ。あいつ、傷つくに決まってる。死ぬほど傷つくこと、分かってるのに。俺が気に入らないなら、何で俺に来なかった。俺を殺せばいい。なんであいつの……」
 あいつに何て言えばいい――
 答えを懇願するように、秋山は問いかけた。両親がいなくなったことをどう伝えればいい。どんな顔をして、なんて言えばいい?
 教えてくれ。彼はうわ言のように何度も繰り返す。人を簡単に殺せるくらい偉いのなら。殺したのなら。教えてくれ。
 途中からは、聞き取るのが困難なほど声が細っていた。消えかかりそうな囁きだった。凍え震えているように膝が揺れていた。崩れ落ちないのがむしろ不思議に思えた。空をさ迷う虚ろな眼には、もう明確な意思の力は宿っていない。
 もんどり打って倒れた老婆に駆け寄ろうとしていた井上大作は、既にその足を止めている。いまは彼女と従兄のどちらに歩み寄るべきか、両者の間で視線をさ迷わせていていた。
「陽祐、本当なの? 本当に、あの人が持田さんの――」
 言いかけて、彼は言葉を呑みこんだ。散乱した椅子に半ば埋もれた格好の老婆は、仰向けになったまま微動だにしない。背中からまともに落ちたのである。肉体年齢があと三〇若くても、しばらくは身動きできないだろう。
 彼女の状態は問題ではなかった。二件の殺人に関与したことを認める発言があればそれで充分である。法廷で三人もの人間が証言できる。悟子はスーツのポケットから速やかに携帯電話を取り出した。左脇で呆然と立ちすくむ渡瀬啓子が、それを不思議そうに眺めている。この部屋で見聞きした全てが、彼女にとっては刺激の強すぎる事件であったのだろう。意図的に認知力や脳の解析速度を落とし、心理的な負担を軽減させようとしているのが分かった。渡瀬のような種の人間が良く見せる反応である。
「何をしている」
 その声に全く苦痛の色が窺えなかったことには、流石に驚かされた。昼寝から目覚めた者が、布団の中から近くの人間に時間を聞くような口ぶりであった。思わず電話を握った手を止める。見ると、こちらに足を向けて倒れた老婆が、首だけ持ち上げ悟子の手元に視線を向けていた。
「警察に通報している」言いながら一、一、〇と順番にボタンを押した。「資本主義や乗用自動車の方が、よほど深刻な大量殺戮を日常的にやっている。個人レヴェルの殺人なんて、そういう意味ではかわいいものなのかもしれない。でも、あんたみたいなのに梓の近くをうろつかれると困るんだよ」
 老人が拘留され尋問を受ければ、彼女と協力関係にある連中の素性やその目的も割れるだろう。上手くいけば組織そのものを壊滅に追いやれるかもしれない。しかも、それは全て捜査当局が行ってくれる。悟子や梓には全く負担がかからないのだった。
「やめておいたほうが良い。貴女のためだ」老婆が言った。
「得意のブラフか。往生際が悪いな」
 無視して電話を耳元に近づけた。呼び出し音が鳴りはじめる。
「山下剛を襲ったと思われる女が、なぜ彼と一緒に死体で見つかったと思う。梓嬢の病室を訪れたのが、江刺市で誘拐されて殺された女児であったことに、貴女は気付かれたか?」
 県警本部の通信司令室に電話が繋がった。男性オペレータの声が聞こえてくる。一一〇番です。どうされましたか。
「この老婦人は、名前を小川裕美というらしい」
 言いながら、老婆は力尽きたように起こしていた首を元に戻した。ゴトリと、頭蓋骨がリノリウムの床に当たる音が響く。
「和賀郡の民家で一人住まいをしていた。年齢は七一歳。四月一三日の午後五時二六分、急性心不全で死亡。典型的な孤独死だった。湿った畳に敷かれた布団の上で、誰にも気付かれず事切れた」
「それで自己紹介のつもりか」
 秋山が一歩、小川と名乗った老女へ足を踏み出した。
「三日も前に死んだ人間が、なんでここにいる」
 言っても信じないだろう。彼女は静かに答えた。理解できるかも怪しい。しかし、お前が小川老人の遺体に暴力を行使したことは事実なのだ。
「疑うなら確認してみればいい。脈を取ってみるといい」
 どうされましたか。もしもし、こちら一一〇番。岩手県警通信司令室です。こちらの声が聞こえますか。電話の向こうで、オペレータが辛抱強く繰り返していた。
 無言のまま終了ボタンを押し、悟子は電話を持った手を下ろした。それから、相手の言葉に従った場合のリスクパターンを考える。自分が死体だと主張し、相手から接近してくるよう促すことで小川が得るメリットは何があるだろう。そうした獲物の狩り方をする虫や食虫植物の類があったような気がした。
 覚悟を決め、細心の注意を払いながら倒れた老体に歩み寄っていった。井上大作が少し遅れて後ろに続いてくる。もっとも警戒しなければならないのは、油断して近付いたところを襲われることだ。彼女の周囲には凶器になる椅子が散乱しているし、武器を隠し持っている可能性も皆無ではない。利き腕を右と想定し、そちら側から接近した。老婆の手の届きそうな範囲にある椅子を蹴り、片っ端から遠ざけていく。
 警戒心というものがないのか、井上大作は悟子より大胆に行動した。左サイドから大またで小川に近付き、さっさとその傍らに肩膝をつく。遠慮がちに手を伸ばし、皺にまみれた彼女の左腕を取り上げた。素人らしく、手首に親指を当てている。脈を探るつもなのであろうが、経験者ならば人差し指から薬指までの三本を用いるはずだった。しかもそれは、悟子に言わせれば確実性に欠けるやり方である。その気になれば、腕部に向かう血流をせき止めることは容易い。頚部から脈を窺い、鼻先と口元で自発呼吸の有無を確認するほうが良いと判断した。緊張感を持続させたまま、悟子はその通りに作業を実行した。
 小川裕美の身体には、まだ体温の名残があった。つい先程まで血が通っていた証拠である。だが、呼吸はなかった。心臓も鼓動しておらず、首筋からも両の手首からも脈は取れない。虚ろに開かれた両眼は確認の間、一度もまばたきをしなかった。白目が腐った魚のように黄色く濁り、瞳孔は散大しはじめている。ライターの火を近づけてみたが、全く対光反射を見せない。
「これ、どういうことですか」
 井上大作が、困惑顔で悟子に助けを求めてくる。だが、相手も答えようがないことを知っているのだろう。すぐに老婆に向き直り、その両肩を揺すって呼びかけた。
「大作、どうした。なにやってる」
 秋山が怪訝な顔つきで小走りに寄ってくる。その従兄を振り仰ぎ、老人に脈がないのだ、と井上は告げた。心音も聞こえず、息もしていない。本当に――彼は言葉にするのを一瞬躊躇し、だが結局は言い切った。本人の主張通り、本当に死んでいるように見える。
「そうだ、人工呼吸――蘇生しないと」いや、医者か看護婦を呼ぶべきか。言いながら、井上は立ち上がった。内線で連絡できると考えたのだろう、ドア近くの壁に設置された電話機に駆け寄っていく。
「待ちなさい」
 余計なことをされると、状況が複雑になるだけだと判断した。小川裕美が本当に和賀郡で孤独死するような人間なら、呼びつけた医者や看護師たちに対する説明が面倒になる。なぜ、そんな田舎町の老人が大学病院にいるのか。どんな理由で一般患者が入り込まないようなフロアを訪れたのか。この部屋で何が行われていたかも追求されるに違いない。悟子たちが居合わせた事情も含めて、だ。
「五分で戻る。貴方たちはここで待っていなさい。その老人には触れるな。室内の物にもできるだけ触れないように」
 言い含め、理由を問われないうちに部屋を出た。エレヴェータを呼び、地下一階に下りる。コンビニエンス・ストアで三〇〇ミリのアルコールと脱脂綿を二箱買って、再びエレヴェータにのった。
 第二会議室に戻ると、井上と位置を入れ替えた秋山が、老婆の傍らにしゃがみ込んで青い顔をしていた。渡瀬啓子は、部屋を出るときに見た場所から一歩も動いておらず、彫像のように立ち竦んでいる。放っておけば半日でもそうしていそうな様子であった。
「どけ」ショックを受けているらしい秋山を押しのけ、遺体の側に寄った。彼女の状態は全く変わっていない。念のため確認したが、やはり脈はなく、瞳孔も開ききっていた。唯一の相違点は体温であった。血液の循環が止まったことが原因なのだろう。さっきより確実に低下し、死体のそれとして相応しい値に近付きつつある。
「私が外している間、これに触った者は?」
 首を捻って少年たちに問う。二人は揃って首を左右した。
「あの――その人、本当に亡くなってるんですか」
「そのように見える」
 井上に答えながら、買ってきたアルコールのボトルキャップを捻りあけた。口を少し傾け、一緒に揃えた脱脂綿を湿らせる。悟子は、それで小川裕美の身体を拭き始めた。両方の手首、肘、こめかみ、頸部。余さずやらないと意味がない。
「縛ったり圧迫したりすることで、腕や脚に血が流れるのを止めることはできる。そうすれば、一時的に橈骨動脈等から脈を取られるのを防げるとは思う」
 だが、頚動脈やこめかみの脈を誤魔化すのは難しい。心臓の鼓動を止めるのも同様だ。人によっては自らを意図して仮死状態に追い込めるというが、この老婆がそれをやり遂げたと考えるよりかは、素直に死んでいるとした方が思考の流れとしては自然だろう。瞳孔の拡散はある種の薬品を持って演出できるだろうが、それにしたところでリスクが高すぎるような気がした。
「あの、それって治療してるんですか?」
 恐る恐るといった様子で井上が言った。
「指紋を拭き取ってるんだよ。貴方と私の。この女が本当に死んでいるなら、死体は行政解剖に回されて死因を特定される。それはいい。問題は、さっきの告白が事実だった場合。こいつが持田夫妻を殺害した実行犯だった場合のことを考えてみなさい」
 持田家の現場に指紋でも残していれば、そこから小川老人と夫婦殺害との関連性が明らかになるだろう、と悟子は続けた。持田のケースに絡んでいると考えられれば、この老婆の死体は通常の行政解剖では済まず、徹底して調べられることになる。その結果、べたべた触れ回したらしき第三者の指紋が検出されたらどうなるか。警察は血眼になってその人間を捜し始めるかもしれない。
「心情的にはドアノブも拭きたいけど――」
 必要箇所を拭き終えると、悟子は立ち上がって出入り口の扉を見やった。「逆効果になるでしょうね。そこまでやると」
 再びリスクパターンを考えた。最後にハンカチで簡単に払ったが、脱脂綿の繊維が老人の身体に残っているかもしれない。発見されたときには蒸発しているだろうが、科学班がアルコールの使われた僅かな痕跡を見つけ出す可能性も否定できなかった。最も怖いのはその二点である。
 いずれも成分が分析されれば、下の売店で買い求めたものだと分かるだろう。捜査員が聞き込みに行くまで、恐らく二、三日かかる。そのときまで、店員は脱脂綿と酒を買っていった女の存在を記憶しているだろうか。土曜日であることを考えれば、今日の客の数は普段より多いかもしれない。だが、諸岡悟子の容姿がどれだけ目立つか、他人にどれほどの印象を与えるかは自覚するところだ。
「ちょっと待ってくれ」
 秋山陽祐の声で、悟子は思考を中断した。彼は自分を含めた全員の正気を疑うように、室内の人間の顔を順に覗き込んでいる。
「あの老いぼれの言うことを信じるのか? 仮にも人を二人も殺した狂人だぞ。自分は何日も前に死んだとかワケの分からないこと言ってるが、実際、この部屋に自分の足で歩いてきただろう」
 確かに脈は見つかりにくい体かもしれないが、腐っても硬直してもいない。彼女は通報されるのを恐れ、でたらめを並べて自分たちを混乱させたがっているに過ぎない。秋山の主張には、常識的に頷ける点も多かった。
「通報など恐れてない。したければしろ」
 しわがれた小声が室内に響いた。無言で身を縮めていた渡瀬啓子が、驚いたように大きく震えた。無理もない。全員が、驚愕すべき光景を目の当たりにしていた。小川裕美の身体が動き出し、難儀そうに上体を起こそうとしている。
「次の傀儡を見つけて、もう一度この場をセッティングしなおすだけのことだ。それで気が済むなら通報すればいい」
「お前――」秋山は丸くなりかけていた眼を逆に鋭く細めた。「やっぱり死んだまねか」
「そう思いたいなら思え。どう説明しても受け入れない人間もいるだろう。お前の <摩り替わり> と同じだな、秋山」
 老婆は横倒しになった椅子を枕に見立て、自分の頭部を預けた。高齢者らしく重たそうに身体を引きずっている。立ち上がるだけの力は、もう残っていないのかもしれなかった。
「そういう連中は、自分の常識にしがみつくだけで未知を絶対に信じない。なにか適当な理由をつけて、現象そのものを否定しようとする。逆の立場になれば、お前も他人と変わらないというわけだ」
 秋山の表情が凍りついた。顎を落とし、今度こそ驚愕に眼を見開いている。なんで、という呟き声が漏れたが、老人はそれを完璧に無視して続けた。
「とはいえ、相応のコストをかけて設けたこの場を無駄にはしたくないのも事実だ。今度こそ本題に入らせてもらおう」
「身体、本当に大丈夫なんですか」
 相手が凶悪犯であれ、体調がすぐれないようなら面倒は見る。井上大作はそのような人間であるようだった。ポーズではなく、真剣に相手を案じているように見える。老婆はそれも無視した。顔の向きは固定したまま、目玉だけ動かして悟子を見る。
「貴女には渡していたものがあった。私の話に少しは関心が持てたのなら、いま秋山にそれを渡してもらいたい。それではじまる」
 関心が持てたのなら――。
 なら、ではない。彼女は悟子の出した結論を知っているはずだった。全く乗り気がないのなら、そもそも今回の呼び出し自体に応じるはずがない。この場に姿を現したことが、既に諸岡悟子の内に芽生えた関心を証明している。そう考えているのだろう。事実、それは正しかった。
 悟子は携帯しているシステム手帳を開いた。挟み込んであった二通の手紙を取り出す。一つは名刺大の厚紙、一つは白い封筒に収められた一枚の便箋であった。歩み寄って秋山に手渡す。彼は無言でそれを受け取った。
 秋山は不審そうな顔をしつつ、厚紙の方から眼を通した。途端、眉間に深い皺が寄る。顔を上げて悟子を一瞥すると、また紙上に視線を戻した。厚紙を後ろに回し、今度は封筒を開く。眼球が便箋の文章に沿って上下を繰り返すうち、その顔から見事なほどに血の気が引いていった。
 井上大作と渡瀬啓子は不安そうな面持ちのまま、だが大人しく成り行きを見守っている。
「それらはいずれも私が認め、そこの諸岡女史に渡したものだ。小さな方は今月の五日に直接手渡し、便箋の方は一一日に送った」
 抑揚のない声で小川裕美の口が語りだした。
「重要なのは便箋の方だ。内容を要約すれば――山下剛が、七月一六日に外傷を遠因として死亡するであろうことが記されている」
 山下の名が出た瞬間、渡瀬啓子の身体が敏感に反応した。
 構わず、老いた嗄れ声は続ける。
「同じく持田明子は七月三日、死亡。井上友子は癌で七月二八日、諸岡梓は血液難病で七月二一日にそれぞれ死亡する。ただし、秋山陽祐に指名された者はこの限りにない――そのように書いた」
「陽祐、ちょっと見せて」
 井上大作は従兄に近付き、力なく垂れ下がった手から便箋を受け取った。素早く内容に眼を通す。老人が言った通りの文面であることを確認したのだろう。困惑と混乱の露な顔をあげた。
「なんですか、これ。こんなの、とてもじゃないけど」
「信じられない、か」老婆は井上の言葉を先取りして言った。「どうあれ、飲食店の従業員が逮捕されるという予測は的中した」
 悟子には話が見えなかったが、井上と秋山には思い当たるところがあるらしい。同時にはっと息を呑んだ。
「じゃあ……」乾いた唇を舌で湿らせ、井上は声を喉から搾り出した。「陽祐に変な手紙を送りつけてたのって、もしかして」
「すこし、分かってきたな」
 老人は毛ほども表情を変えない。だが、口調から彼女が笑っていることは明らかだった。恐らく、この場の誰もが理解している。
「私はその便箋を先週の一一日に送ったと言った」
 全員が老人の人格そのものに不信感を抱いている。裏を取るつもりなのだろう、子供たちの視線が自分に集中しているのを悟子は感じた。
 諸岡さんにお手紙を預かってるんですよ。看護婦が、そう言ってきたのは今週の月曜だった。すなわち四月一一日である。
 悟子は首を縦にして認めた。「その日の午後だった」
「同じ日に、井上友子は癌の告知を受けた」老人が続ける。「山下剛が重傷を負ったのがその翌日の夜。持田明子が眠って起きなくなったのは、更にその数日後のことだ」
「信じるな、大作。渡瀬も」言下に秋山が鋭い声を飛ばした。「こいつは馬脚を現した。叔母さんが癌の告知を受けたなんざデタラメもいいとこだよ。あの人は今、会社の研修で東京にいる。叔母さんが癌で三ヵ月後に死ぬなら、俺の親父は二ヵ月後に風邪で死ぬだろうよ」
 秋山の切った啖呵に、渡瀬啓子は安堵の吐息をもらした。今まで呼吸するのを忘れていたかのような緊張の解き方であった。
 対照的だったのは井上大作である。彼は完全に表情を失い、重たい沈黙を背負っていた。何も知らない前者と、真実を知る後者とで反応がくっきりと分かれた格好だ。
 しばらくして、秋山は両者間の温度差をようやく気取った。自分と渡瀬に同調してこない従弟へ、怪訝そうな顔を向ける。
「井上家には隠し事があったようだ」老婆が冷たく言った。
 無言の時が続いた。井上大作は頭を垂れ、自分に向けられたあらゆる視線を拒絶しているように見える。その従弟を、秋山は呆けたように見つめていた。唇が震えながら動き、まさか――と結ばれたような気がした。声を伴わない囁きであった。
「ごめん、陽祐」やがて井上が口を開いた。「機会をみて話そうとは思ってたんだ。でもここ何日か、お互い色々あったし」
 彼は自分の母親が癌で入院していること、研修の話はそれを隠すための欺瞞であったこと、正式な病名が判明したのが今週の頭であったことを告白した。謝罪の言葉を何度も添える。
「叔母さん、本当に癌なのか」
 秋山の微かな戦慄き声に、井上は小さく頷いた。東京には行っていないのか、という問いにも首を縦に振る。
「ここの病院にいるんだ。放射線科ってところに入院してる。三日前から。俺にも内緒で準備を進めてた。俺も知ったばかりなんだ」
「井上友子の件はそれで良いとして、山下剛のケース、持田家のケースについてはどんな説明をつける?」
 仕切りなおすつもりで悟子は口を開いた。
「特に持田家の襲撃は、私が手紙を受け取った後に行われた。実行犯が事前に予告状を出し、その通りに計画を実行したことになる。あくまで予告状にしかなっていない。予言書ではなく」
「確かに、普通はそう思われるのだろう。私も、いまの段階で全てが受け入れられるとは考えていなかった」
 だが、言葉とは裏腹に老婆の声は自信と確信に満ちている。オープンにしていない切り札を幾つも隠し持つ者の口ぶりであった。実際にそうしたものは存在するに違いない。この幼稚な茶番劇を仕組んでいる連中は揃いも揃って狂っているが、計算はできる。
「期日までまだ二ヶ月半ある。ここで私が言葉を重ねなくても、それまでに嫌でも信じることになるはずだ。状況は否応無くその方向に向かっているのだ。――ただ、信じるなら早いほうが良い。それだけ優位に立つことができる」
「御託はもういい」秋山は苛立ちもそのままに言った。「俺は警察を呼ぶ。続きは取調室なり法廷なりで好きに叫べ」
「秋山君、まって」
 制止の声をあげたのは、意外にも渡瀬啓子だった。彼女は秋山をなだめ、どこか決然とした表情を老婆に向ける。開き直れば大胆に行動できる種の人間なのかも知れない。彼女に対する認識を改める必要がありそうだった。
「お医者さんは、山下君がこのまま植物人間になるかもしれないって言ってました」渡瀬は言った。「そういう患者さんは、この病院だと三ヶ月を目処にしてるって。それを過ぎたら、諦めるべきかもしれないって言われました」
 似たような話は、院内の誰かから悟子も聞いたことがあった。意識の戻らない患者は機械の力で生かし続ける必要がある。そこで浮上してくるのが金の問題、ベッドの数の問題なのだった。物に限りがある以上、見込みの薄い患者を永遠に寝かしておくわけにもいかない。そのため、結論を先延ばしにしたがる患者家族に、病院側はいつか決断を迫らねばならないのだ。TUT病院の基本方針としては、それが三ヶ月。今月入院した山下剛の場合、七月がその時となるだろう。小川の予見する死亡予定日――七月一六日は、その意味で限りなく現実的な数字なのであった。恐らく、渡瀬啓子はそれに気付いたのだろう。
「知ってるなら教えてください。山下君の意識がずっと、三ヶ月以上経っても戻らないかもしれないって、本当なんですか」
 小川の口は即座に開かれた。「医者も内心では意識の回復など信じていない。実際の話、山下のような場合、普通はそのまま植物状態になる。例外がないでもないが、奇跡はそうそう起こらない」
「でも、じゃあ、秋山君に選ばれたら助かるっていうのは」
「そこにいる秋山陽祐は、山下剛、持田明子、井上友子、諸岡梓の四人から一人を選択する権利がある。秋山が選んだ者には救済処置が施される。山下が選ばれれば、彼の意識は戻る」
「いい加減なことを言うな」横から秋山が怒鳴り込んだ。「俺にはそんな力なんてない。神でも仏でもない」
「あるだろう。可能性が摩り替わればいい」
 その言葉は、秋山に液体窒素をぶちまけるような効果をもたらした。本当に全身が凍りついたように見える。その劇的な反応には、井上や渡瀬までもが仰天したようであった。
 ――摩り替わり。ここにきて奇妙に繰り返されるようになった言葉だった。今のところ秋山陽祐と小川老人の間でしか通用していないが、何か無視できない大きな意味があるらしい。
「特異的な現象に対して、お前より巧みに順応している者もあるのだ、秋山」
 言うと、老婆は椅子とテーブルを支えにして段階的に立ち上がった。膝が震えているが、何とか二本の脚で自身を支えている。最後の力を振り絞っているような感じだった。
「四人のうち、最初に結果が出るのは持田明子だな。七月三日の午前八時六分。期限はそれまでということになる」
 ここにいる人間たちは、それぞれ選択肢となった人間の代理人として選ばれた。老婆は全員の顔を見回しながら言った。
「代理人たちが行うのは一種プレゼンテイションだ。恋人、娘、母親。それぞれを秋山に売り込ねばならない。そして、選ばせなければならない」
 現時点で、選択者に対し最も強い影響力を持っているのは持田明子である、と彼女は指摘した。持田を抜き、最終時点で首位を走っていなければならない。
「ある意味でこれはレースなのだ」
「意味が分からない」俯いたまま、秋山がぽつりと言った。「なんで俺が選ぶんだ。レースってなんだよ。お前の言うことが本当だったとして、何でこんなことを仕組む? これがお前にとって何になるんだ」
 同じ疑問は悟子の中にもある。恐らく、この場の誰もが共有するものだろう。何を根拠に自分たちが選ばれたのか。名指しされた人間たちは本当に予定日に死ぬのか。だとしたら、その情報をどこから仕入れたのか。例外を設けることができるとして、その手段は。秋山に選択権が与えられたのは何故なのか。
「あんた、知りたがってることを全部教えるって言ったな。約束守れ。何で俺たちをこんなことに巻き込んだ? 何がしたいんだ」
「それを理解するためには、段階を踏まなければならない。今のお前のように頭をのぼらせていては、正常な判断はできない」
「――それで」悟子が割って入った。「私たちが、そっちの言い分を丸呑みにして踊らなくちゃいけない理由はどこにある」
 小川裕美の顔が、悟子に向けられた。
「貴女の場合、明日が来れば自動的にその気になるのではないだろうか。担当医と会う約束をしていたはず。回答はもう分かっているのだ。適合|提供者《ドナー》は見つからない。移植はできない。諸岡梓を根治に導ける治療法はもう無いと言われるはずだ。そうなれば、貴女にはこの話をおいて他にすがるものはなくなる」
 返答に窮する指摘であった。もっとも現実的な未来予測。そう認めざるを得ない分析である。
 彼女の言うように、医者とは明日、会う約束をしていた。その場で悟子は、今後の治療方針に対する決定を伝えなければならない。もし移植が行えない場合、どのような選択をするか。道は二つだ。梓をできるだけ長く生かすために、今後も負担と苦痛の大きな治療を続けるか。或いは、短くても残りの生涯を静かに過ごすため、最低限の処置を行うに留めて退院するか。
 いずれの場合も、恐らく梓は数年もつまい。
「私は藁よりましなものを提供しているつもりだ」老婆が言った。「その時が近付いてくれば、嫌でもそのことに気付くだろう。この場にいる者は、自分が溺れかけていることに気付いている。今は突っぱねても、いずれはそれにしがみつかざるを得なくなる」
「あんたのいうレースはいつから始まる?」
「もう始まっている」老婆の白い唇が微かに歪んだ気がした。微笑したのかもしれない。「貴女の場合は、早く娘と秋山を会わせることを考えるべきだろう。顔も知らないようでは、選択者も選びようがない。うまく売り込まねばならない。手段や手法を問わず」
 井上と渡瀬が顔を見合わせた。相手が、この話をどこまで信じたのか探り合っているようにも見える。
「――話は以上だ。それぞれ、自分の受け持つ患者の部屋に戻ると良い。機会を提供する。意識のなかった者も、一時的に容態を回復させるだろう」
「山下君が!」最も過敏に反応したのは渡瀬啓子であった。勢い良く顎をあげ、噛みつくような勢いで老婆に詰め寄る。
「山下君、意識が戻るんですか。今から」
「数十分ほど戻る。山下の声を聞くのは難しいが、お前の言葉は通じる。覚醒後、しばらくまてば理解するようになる」
 これは持田明子にも共通することだが、と老人は続けた。意識レヴェルの変動に機器は反応しない。医者を呼ぶのは自由だが、二人で話したいことがあるならナースコールはしないほうが賢明だろう。
 その言葉が終わらないうち渡瀬啓子は走り出していた。井上大作が呼びかけたが全く反応しない。耳に入っていないようだった。彼女の意識は、既に山下の病室に飛んでいる。身体はそれを追いかけることしか考えていない。渡瀬はもどかしそうにドアノブを捻り、そのまま廊下の向こうへ姿を消した。慌しい足音が遠ざかっていく。
「本当に明子は起きるのか」
 しばし訪れた沈黙を、青い顔の秋山が破った。その声に先ほどまでの気勢はもうない。衝撃の連続に疲労しきっているように見えた。
「行って確かめればいい」
 老婆は円卓に手をつきながら歩き出した。部屋の奥、ホワイトボードの設置された壁に向かっていく。ボートの脇に見える電話機が目的のようだった。室内に二つあるうちの一つである。
「お前たちも行け」彼女は、悟子と井上大作を交互に見やった。聞き取るのが困難なほど、声が掠れてきている。「望みどおり、これから警察に通報する。場所が場所だけに、救命センターの連中が先に飛んでくるかもしれない。この場にいては面倒なことになる」
「でも、本当に――」
「あんたが捕まった場合、そっち側との連絡はどうなる」
 放たれかけた井上の言葉を遮り、悟子は口を開いた。
「選択者が自分の意思を決めたとして、それを誰にどうやって伝えるのか聞かせてもらいたい」
「心配しなくていい」痙攣するように震える手で受話器をとり、老婆は言った。身体にどんな異常な反応が出ようとも、能面のように表情だけは変わらない。良くできた人形が動き、喋っているようだった。
「突然死する人間は山のようにいる。私は全員の動向を観察し、必要ならばあらゆる姿をとって選択者、あるいは代弁者たちとの接触を持つだろう」


    4

 密閉型のヘッドフォンが奇妙な雑音を発したような気がした。怪訝に思い、井上友子は耳を澄ました。しばし待つ。再び、小石が窓にぶつかるような硬く微かな音が鳴った。聞き違いではない。ヘッドフォンを外しながら顔をあげた。
 瞬間、若い娘の顔が視野いっぱいに広がった。驚いて声をあげかける。手からヘッドフォンがすり落ちた。心拍数の急上昇した左胸を押さえ、ベッドの上で後じさりする。
 友子の反応に、向こうも驚かされたようであった。小さな悲鳴をあげ、鳩が豆鉄砲を食ったように眼を瞬いている。見ると、甲状腺癌のを患った同室の患者仲間であった。ノイズの正体は、彼女の指がヘッドフォンを叩いた音だったらしい。他人の呼びかけに気付かないほど作業に没頭していたのだろう。右脳を使う仕事である。良くあることだった。
「井上さん、凄い集中力」
 呼んでも全然気づかないんだもの、と娘は感心したように呟いた。その後ろでは、部屋主である矢野老人が微笑んでいる。恥ずかしいところを見られたような気がして、友子は少し身を縮めた。
「ごめんなさい。仕事の時は、たまにこうなるんです」
 ヘッドフォンを拾いながら頭を下げる。
「こっちこそ、お邪魔してすみません。――でも、井上さんのお仕事ってどんなのなんですか? デザイナーさんなんですよね」
 禁ヨード食がもたらす体調不良と疲労感も、娘の好奇心だけは殺しきれなかったらしい。友子は、彼女がパソコンの画面を覗きたがっていることに気づいた。思わず苦笑する。娘にも見えるよう、端末の位置をずらしてやりながら言った。
「デザインと名のつくものなら何でもやっちゃうの。今はDVDのメニュー画面を作ってたんですよ。これは素人さんから頼まれた、一番かんたんな種類の仕事になるのかな」
 DVDのメニュー製作なら素人でもできるが、市販されているソフトには機能的な限界がある以上、小回りがきかない。 
「最近は年配の方が、趣味でヴィデオの撮影なんかを始めることも増えてきたでしょう。でも、撮るのと編集するのは別なの。編集してからメディアにするのもまた違ってね。全部を上手にやるのは、慣れないと難しいんですよ。だから私たちに頼まれるの」
「簡単じゃない仕事って、どんなのを作るんですか?」
 友子は別のソフト――3Dモデリングツールを起動した。読み込み時間を利用して簡単な機能と用途を解説する。しばらくすると、画面上にNURBS曲面による骨組《サーフェイスモデル》が表示された。まだマッピングが完了していない、作業中のアイテムである。
「これ、自動車ですよね。模型ですか?」娘が不思議そうな顔で液晶画面を眺める。なんだかプラモデルみたい、と首を傾げた。
「これは自動車の展示会場で使われるんですよ」
 デモンストレーション用の映像資料として用いられるのだ、と説明した。現在は骨格だけであるが、これから皮膚にあたる物を被せていき、本物に良く似せたCGの自動車を作り出す。それに別の専用ソフトで動きをつけ、展示会の大型スクリーンで上映するに相応しく仕上げるのだ。映画の中で走り回る架空の乗り物も、同じコンピュータ・グラフィクスで製作されていることが多い。
「そういうのって、井上さん一人で作れるんですか?」
「作れることもありますよ。でも、今は無理」友子は冗談めかして顔をしかめて見せた。「このパソコンにはそれだけの性能がないし、道具も入ってないから。この車は基本部分だけを作って、あとは事務所の別のスタッフに任せるの。細かい仕上げとか、他の車や背景と合成したり動きをつけたりっていうのは、ハードとソフトがそれなりに充実していないと大変だから」
 半分も理解した様子はなかったが、娘は満足した様子で画面から顔を離した。井上さんって、できる女って感じですね、と拳を握り締める。本人は真剣に言っているのだろう。しかし、友子には最近聞いたうちで最も斬新な冗談に聞こえた。思わず吹き出す。
「それで、私になにかご用だったんですか?」
「あ、そうそう」娘は思い出したよう言い、背後の矢野老人を振り返った。「もう三時だし、一緒にお茶でもどうかと思って」
 悪くない提案だった。良い息抜きになるだろう。少し待つよう頼んで、友子は周囲に展開していた機材を片付けはじめた。
 それを黙って見つめていた矢野老人が、しばらくして不意に口を開いた。私も色々な患者さんを見てきましたけどね、と少し遠くを見るように言う。口元には微かな笑みが浮かんだ。
「でも、病室で貴方みたいに働くひとは初めてね」
 指摘を受け、改めて辺りを見回した。確かに、病室であることを完全に無視した散らかし方であったかもしれない。寝台に座ったままパソコンを広げ、周囲には絵コンテや参考資料、プリントアウトしたA4用紙をばら撒いている。サイドテーブルにはペンタブレットやデジタルカメラ、四種類の携帯電話のほかに、自作の素材集を収めたメディアボックス、外付け式のハードディスクなどを積み上げている。床は床で配線用の各種ケーブルと自動車のバッテリィが占拠しているありさまだった。まさに足の踏み場も無い。
 看護婦や医師たちからも、既に再三にわたって注意を受けてきたことだった。特に、「改造した自動車のバッテリィを持ち込んでいいか」と持ちかけたときは流石に眼を丸くされた。電力の確保ってなんですか。井上さん、ここは病院ですよ。安静にして治療に専念するために入院されてるんです。
 入院三日目にして、友子の存在は放治科中に広く知れ渡るようになったらしい。看護婦たちが、この病室を <井上オフィス> と呼び出した、等という噂も耳に入ってくる。
 準備を整え、お待たせしましたと声をかけた。お茶と言っても、病棟を出てカフェテラスに向かうわけではない。放治科の談話室で本当にお茶かコーヒーを飲むだけだ。夜着として通している薄いブラウスとコットンパンツのまま二人に合流する。
 大作が現れたのは、三人でドアに向かいはじめたその時だった。走ってきたのかもれしれない。彼の呼吸は少し速く、顔色も優れないように見えた。自ら宣言した通り、大作は毎日のように見舞いに来てくれる。今日も既に一度顔を出し、昼食時であったため一緒に食事をとった。
「どうしたの、大作。帰ったんじゃなかった?」
 様子がおかしいのは明らかであった。友子の隣に患者仲間の姿を見出せば、普段なら笑顔で会釈くらいはしたはずである。しかし今は眼中にさえないようだった。にこりともせず俯いている。
「母さん、ちょっと話せるかな」
 彼は低い声で言った。何かあったのか、再度問う。陽祐のことなんだ、と同じ声で答えが返った。それで大方の事情を察した。恐らく、研修の事実をでっちあげ入院を隠していたことが陽祐に露見したのだろう。それが元で、二人の少年の間に何かしらのトラブルが生じたのかもしれない。人の命に関わる重要な情報を隠匿されていたのだ。陽祐が井上家の人間に悪印象を抱いても不思議はなかった。
「分かった。どこか静かなところに行きましょう」
 友子は矢野老人と娘に謝罪し、先に行くよう頼んだ。もし加われるようなら後から追いかける。二人は理解ある態度でその提案を受け入れた。気を使ってくれたのだろう、何も聞かず速やかに談話室へと向かっていく。彼女たちの背中を見送った後、友子は人気のない場所まで無言の大作を引っ張って行った。選んだのは、矢野老人から教えてもらった穴場だった。自動販売機と二つのソファが置かれた小さな休憩所だが、肝心の商品の品揃えが悪く機械自体も不調とのことで、普段は誰も近寄らない。
 友子は、自ら動こうとしない息子を、がたの来た古いソファに無理やり座らせた。それから、唯一飲めると言われていたレモネードを二人分買う。大作と並んで座り、片方を彼に渡した。
 このような場合においては、無理に話を促したりペースを押し付けたりしない方が良い。大作の扱い方は心得ている。相手が自分から喋り出すのを静かに待った。
「母さん、治療はどんな具合?」
 やがて彼は、気の重くなるような沈黙を破って言った。
「いやね、この子は」軽い口調を装って返す。「土日は基本的に治療はないから、本格的なのは月曜日からだって昼間に言ったばかりじゃない。具合も何も、まだ始まってさえいないわよ」
 大作は顔をあげ、「そうだったね」と力なく微笑んだ。再び沈黙が訪れる。しばらくして彼は、あのさ――と小さく続けた。
「癌の人って、病気が見つかって何ヶ月ってスピードで死んじゃうこともあるのかな」
「私のこと心配してくれてるの?」
 問い返すと、彼は遠慮がちに微笑んだ。そうでもある。だが、それだけではないのだ。そう語るような笑顔だった。
「そうねえ」友子は天井の蛍光灯をぼんやり見上げた。「母さんに修平おじさんっていう、歳の離れた従兄がいたんだけどね。ほとんど親子くらいに歳が違って、その人も癌で亡くなったんだけど。大作が小学生のときだったかな。胃がんが見つかって入院してね」
 彼の場合は、見つかった時点で既に末期であった。手術が行われたが、手に負えないことが判明しただけだった。何もせずに彼の腹は閉じられた。その後、その従兄は一日ごとに衰弱していった。一月半で別人のように痩せ細った。三月目に入ると意識が朦朧としだし、四ヶ月で亡くなった。
「私はわりと早くに見つかったし、転移も大したことないみたいだから、あの人みたいなスピード展開はないわね。大体、私は若いからね。まだ」
「そう――」大作は安堵したのか、微かに顔を綻ばせた。「なら、良かったよ」
「大作の試合と一緒ってことよ。空手もそうでしょ。すぐに勝負がついちゃうこともあれば、長期戦の試合になることもある」
「上手いこと言うね、母さん」
 当然よ、と胸を張って見せる。それから一息吐き、ソファの空いた席にレモネードの紙コップを置いた。声のトーンを若干変えて切り出す。
「もし私のことで陽ちゃんと何かあったなら、本当にごめん。変に遠慮とかしたら駄目よ。母さんのところに全部持ってきて良いんだから。私が蒔いた種なんだから、私がなんとかする」
「うん。分かってる」
 大作は俯きながら小さく頷き、ありがとう、と呟いた。
「ただ、伝わり方が悪かったんだ。俺がなかなか言い出せなかったから、こんなことになったのかな。もしかしたら陽祐のこと傷つけちゃったかもしれない」
「どうしたの。大作が伝えてくれたんじゃないの?」
「俺は言ってない」大作は首を振る。頭を整理しながら、といった様子で彼は言った。「詳しくはちょっと話せないけど、とにかく陽祐にはバレたんだ。で、当然だけど俺、追及されちゃって」
 続く言葉によると、そもそも陽祐はTUT病院で友子の姿を見かけたことがあったらしい。そのときは別人だと思ったらしいが、状況が進むにつれて彼の考えも変わった。
「腕を怪我したじゃない、陽祐。それで病院に行く行かないって話になったよね。で、実際に行ったらしいんだ。向かった先がここだったみたい。そのとき、外来病棟ってとこで母さんらしき人を見たらしいよ。いま考えたら、やっぱり本人だったんだろうって」
 考えもしなかったことだ。「いつの話、それ」
「俺が知った日。だから、水曜日になるのかな」
 水曜日といえば、一三日。三日前の話だ。友子が正式入院した当日である。確かにその日、事務手続きのため外来病棟に寄った覚えがあった。夕方近くのことだ。ちょうど、学校帰りの陽祐が病院を訪れるのに都合が良い時間帯である。
「母さんは――」
 大作が口を開いた。思考の整理を中断して顔をあげる。彼と眼が合った。逡巡するような態度があったため、無言で先を促す。
「母さん、大丈夫だよね。元気そうだし、早期発見だし。七月になっても八月になろうともさ。母さん、夏バテしたりしないタイプだもんね。ちゃんと元気になるよ、絶対」
「当たり前じゃない」言って、息子の背を景気良く叩いた。
「うん」一応は納得した、という表情で大作は頷いた。「なんか色々あって大変だけどさ。母さんって本当に病人みたいな感じしないしね。また病室散らかしてたし。顔見たら、やっぱり安心した」
「でも、言いたいことがあったら言ってよね」
 遠慮などする必要はないのだ、と付け加える。大作は話をまとめにかかっていたが、友子には釈然としない部分があった。何か、口にしかけて呑みこんだような話題があるような気がする。持ち出したかった全てを語ったわけではない。それが何となく分かるのだ。だが、大作は無理に聞き出そうとして喋る人間ではない。
 じゃあ、明日また来るね。そう言って大作は立ち上がった。友子もソファから腰を浮かせる。
「学校のほう、どう?」
「うん。まだちょっと混乱してる。最近、わりと殺伐としたニュースが多いみたいだからね」
「そうなの?」入院以来、ほとんど外界の情報には触れていない。
「健康な人間でも気分が悪くなるようなことばっかだよ。母さんは知らない方が良かな。病は気からって言うしね」
 仕事、ほどほどにしないと駄目だよ。最後に笑顔で残し、大作は廊下の先へ消えていった。


    5

 山下剛は適度な孤独を好む。それは啓子も知るところであった。しかし、今の環境は流石の彼にも苦痛に思えるだろう。導尿カテーテル、点滴ライン、人工呼吸器。冷たい天井と無表情な壁に囲まれ、身体にはスパゲティのように絡まりあった大量の管が差し込まれている。あんなに活動的な人間が、身動き一つできず寝台に括りつけられているのだ。その上、耳朶を刺激するものは心電図モニタの発信音とレスピレータの低い唸り音だけときている。何もかもが、あまりにも無機的すぎるのだった。
 自分がいてやらなければならない。啓子は強く思った。彼の意識を戻す助けにはなれずとも、傍らにいて、自分の体温で部屋を温めてやらねばならない。いま本当の意味で彼の助けになれるのは、自分を置いてほかにないのだ。そんな確信がある。
 山下のことを何も知らない医者たちは、もはや何の頼りにもならない。彼らは半ば狂っている。正常ではない。救命センターという戦場で、あまりにも多くの死を見つめすぎたのだ。技術と経験、それに知識はあるが、心を忘れてしまっている。
 意識を持たず、世話をしても反応一つよこさない。元気付けても、言葉を返せない。一度も眼を開けて自分を見ない。そんな生ける屍のような患者ばかりを相手にするうち、心の歯車が微妙にずれてくるのだろう。歪が生じるのも無理はない話だった。
 だが、自分は違う。看護師にとって山下は何十人いる受け持ちの一人に過ぎないが、啓子にとっての山下は唯一無二の存在だ。それに、自分は彼の禁欲さを知っている。努力に関する無類の才を知っている。彼の頑健さを知っており、決して諦めない人間であることを理解している。彼が蘇る姿が見えている。回復を望みながらどこかで諦観し、意識は戻るまいと心に保険をかけている看護婦たちとは違うのだ。
 だから啓子は、囁くように呼びかけ続けた。その声に彼の目蓋が震えはじめても驚くことはなかった。あの老婆も保障したことである。一定期間ではあるが山下は意識を取り戻すだろう。お前の呼びかけに応えるだろう。その通りだ。最初から微塵も疑ってなどいない。
「山下君、気づいたの? 山下君、聞こえますか」
 今や目蓋の痙攣は顕著であった。自分の声に反応している。啓子は呼びかけを続けた。大声である必要はない。どんな小声でも彼には聞こえている。当然のようにそのことは分かっていた。
 揺れはやがて収まり、目蓋は徐々に開かれはじめた。山裾から朝日が昇っていくように、少しずつ瞳が露になっていく。同時に呼吸器が微かに曇り出した。浅く小さくはある。しかし、自発呼吸が復活したのだ。ずっと信じていたことだった。
「山下君――」啓子は薄く微笑んだ。涙で視界が歪む。
 第二会議室の老人が予見していた通り、意識レヴェルの回復や心拍数の変化に、機械はまったく反応しなかった。何故かは分からない。グラフの波形パターンは揺らぐことなく、数字も一定範囲内で上下を繰り返している。そんなことはどうでも良かった。山下剛が目覚めた。その事実だけで充分だった。
 半開きにされた彼の双眸は、まだ焦点があっていない。単なる睡眠から目覚めるようにはいかないようだった。辛抱強く何度も名前を呼び続けた。自然な抑揚で、彼を驚かさないように。大声を出して、ナースたちに気づかれるわけにはいかない。意識が戻ったことを知られれば、彼女たちはすぐに駆けつけてくるだろう。啓子は即座に部屋から追い出され、検査を理由に二度と近付かせてもらえなくなる。
 やがて呼びかけの甲斐が見えはじめた。深い湖の底から浮上してくるように、意思の力が彼の瞳に蘇ってくる。視線が合った。山下の意識が渡瀬啓子の存在を認識した。
「山下君、私がわかりますか」
 彼はゆっくり目蓋をとじ、しばらくしてから開いた。頷く代わりにそうしたのだと理解できた。なにか筆舌しがたい温かさが胸に広がっていく。そこはもう、肌寒い無機的な病室ではなかった。
「ここ病院だよ。入院して、もう四日も寝たままだったんだよ。山下君、ひどい怪我したの。覚えてる?」
 先ほどと同じ瞬きが繰り返された。YES。覚えている。お前の言っていることが分かる。彼はそう言っているのだ。
 歓喜に胸が打ち震えた。かつて山下と初めて言葉を交わしたとき、啓子は恐怖しか感じなかった。愛犬の啓太を亡くしたばかりで散々な状態だった。本来そのとき得るはずであった感動が、時を経て胸に巡ってきている。
「山下君が寝てる間、色んなことがあったんだよ」
 啓子は急いで言った。少しでも言葉を途切れさせると、彼がまた眠りに就いてしまいそうな気がした。
「私、山下君の小父さんと仲良くなったの。いっぱい話して、山下君が小さい頃のことも教えてもらった。お隣さんなのに、私、全然知らないことばっかりだった。それでね、山下君のことでお母さんと喧嘩したりもしたんだよ。大喧嘩しちゃった」
 山下は眼を細めたまま、静かに啓子の言葉に耳を傾けていた。意識を回復したばかりの重症患者とは思えない、穏やかな表情であった。
「たぶん、一番気になってることだと思うし――ウソ教えたりしたら山下君、あとで絶対おこると思うから。だから怪我のこと、今から正直に話すね。いい?」
 山下は眼を閉じ、そして開いた。彼も事実を知りたかっている。そう判断し、医者から聞いたことをほとんどそのまま伝えた。体中に打撲や骨折があるが、こちらは驚異的な速度で回復が進んでいる。やがて完全に治るだろう。しかし、頭部の怪我はたいへん酷く、脳組織の挫傷が見られた。当初は脳死の危険さえあった。後遺症が残る可能性も未だ残っている。包み隠さず話した。
 すべてを話し終えた後、微かな衣擦れの音が聞こえた。音のほうに顔を向けると、山下の右手が小さく震えている。やがて手首から先が、明らかな意思を窺わせる動きを見せはじめた。人差し指から小指までが軽く曲げられ、親指は何かを叩くように上下の律動を繰り返している。しばらくしてそれが、携帯電話で文章を打つ仕草であることに気づいた。慌ててポーチを探り、自分の携帯電話を掴みだす。山下と揃いの機種だ。
 携帯電話を持たされることになったんだが――そう言って、彼が相談を持ちかけてきた日のことを思い出した。お前の、何度か貸してもらったことがあっただろう。使い勝手が良かった。同じのにしようと思ってる。機種名、教えてくれるか。
 身体の使い方や感覚の掴み方に長けた彼は、すぐに画面を見ずとも正確に文字を打てるようになった。購入してから数日でマスターした。指が動くなら、その能力を利用して筆談ができるかもしれない。
「携帯電話?」山下の眼前にかざして見せた。操作できそうか、と訊ねると例の瞬きを返してくる。
「メールの新規作成画面を表示してあるから。すぐ打てるよ」
 彼の右手に携帯電話を握らせた。カーソルは <宛先入力> のアイコン上にある、と付け加える。三つ下に動かせば <本文入力> に移動する。言いかけて、啓子は口をつぐんだ。山下は既に文章を打ち始めていた。いつもの精彩を欠く、緩慢な指の動きだった。震えてさえいた。だが確実に作業を進めていく。
 山下の傷が癒えたわけでも、後遺症が残らないと決まったわけでもない。それでも言い知れぬ幸福感を覚えた。どちらか一方が口をきけなくなってさえ、自分たちは意思の疎通を図れる。通じ合える。四年間の付き合いは、二人の間にそれだけ強い結びつきをもたらしたのだ。
 ――このままでも良い。一瞬、そう思った。腕一本さえ持ち上げられない身体でも、自分が彼の面倒を見よう。彼を守ろう。きっとやっていける。そんな歪んだ希望が脳裏を影のように過ぎっていった。
 数分後、山下の手が止まった。顔を覗き込むと、眼を右手の方に向けている。打ち終えたということなのだろう。一言断り、その手から携帯電話を抜き取った。抵抗はなかった。
 最初に「もうしわけない」とあった。改行を挟み、続けて「ありがとう」と綴られている。「つきそい」「おまえでよかった」。
 目頭に熱がこもった。普段は素直に例など言わない男である。ありがとうなど、ほとんど聞いたこともない。なぜ、こんな大事な時を選んでそんな言葉を使うのか。なにも考えられなくなる。胸がいっぱいになる。
「私なら大丈夫だから」啓子は眼を擦りながら言った。「気にしなくていいから。山下君、自分が元気になることだけ考えないと。すごく上手くいっても、リハビリとかしないと駄目みたいだし」
 文章をメモリに保存し、画面を元に戻した。再び彼の手に電話を握らせる。指が動き出した。
 きをつけろ、という警告で次の文章ははじまっていた。とおりま、おまえのいうとおり、おれねらってた。
「――うん。そのこと、秋山君に教えてもらってたの。山下君、狙われてるかもしれないから気をつけろって。俺が言っても聞かないだろうから、私が注意して見てるようにって」
 思えば、あの時もっと真摯に聞き入れるべきであった。秋山の言葉を信じ、最大限の注意を払っていれば山下を危険から救うこともできたはずなのだ。何事も中途半端にしてしまう自分の悪癖が、山下を今の状態に追いやった。そう考えることもできる。
「秋山君、私たちのこと付き合ってると思ってるみたいだったから。彼女なら、それくらい当然だって思ったのかもしれないね。本当に当たり前のことだったのに。私、なにもしなかったから」
 改めて山下の姿を見つめる。無残だった。意識のない間は、自力で呼吸することも食事をとることもできない。排泄までもが身体に差し込まれたパイプを通して行われる。異性の看護師に身体を拭かれ、喀痰の吸引をされる。その事実を山下は後に知るだろう。自尊心を傷つけられるに違いなかった。
「――ごめんなさい」電話ごと彼の手を握り締めた。
 今更ながら、自分の不注意がもたらした現実の重さに気づいた。彼に礼を言ってもらえる立場などにはなかったのだ。喜ぶ資格などなかった。何を浮かれていたのだろう。
「もし後遺症が残ったら、もう山下君、空手できない……私がやることやらなかったから。中途半端だったから」
 山下の手が震えるように動いた。文字を打ち出す。長い間つづいた。それに見合う長文が綴られていた。
「こういしょうはこわい」山下はそのように書き出していた。「でも」と続く。しょうがいあっても、からてはできるとおもう。じぶんのよわいところとたたかう。おれのもくてき。ちょうしにのっていた。ぜんぶじぶんのせきにん。
 声を漏らすわけにはいかなかった。患者の容態急変に迅速な対応がとれるよう、この部屋はナースステーション近くに置かれている。右手で口元を塞いだ。それでも嗚咽が漏れかける。必死に噛み殺した。胸のうちで何度も彼に謝った。たとえ一瞬であれ、治らなくても良いと思った自分が許せなかった。
 絶対に治すのだ。山下はそのつもりでいる。結果として後遺症が出るかもしれない。障害が残ることがあるかもしれない。しかし、それは問題ではないのだった。環境が変わっても、やるべきことは変わらない。克己心の追求を続けるだけだ。
 ふと、山下が「気に入った」と言っていた格言を思い出した。彼が読む本は年代記と伝記に限られる。その言葉は、ダランソンという中世フランス王国の貴人が歴史書の中にひっそりと残していた。
 ――恐怖心の芽生えは好機と心得るべし。我々はなぜなら、克己の機会を見出したのである。
 以来、それは山下の座右の銘となった。
 怖いと思うものを見つけたら、チャンスだって考えるんだ。啓子が向けるある種の問いに、引用して答えるようになった。克服したとき、自分は一つ強くなったんだって胸張って言えるから。
「頑張ってよくなって、リハビリして――」涙を拭いながら言った。「また空手ができるようになったら、それも力になってるよね」
 たとえ後遺症で障害が残っていたとしても、そうなのだろう。大会で記録を残すのではなく、人に鮮烈な記憶を残す選手となる。
 山下は瞬きし、意図して柔らかに眼を細めた。啓子をじっと見つめてくる。時として奇跡と呼ばれる現象は、恐らく彼のような種の人間が起こしてきたに違いない。
「がんばろうね。私、リハビリのこと勉強するから。今度こそ、ぜったい役に立つように努力するから」
 教師への暴行で山下が中学空手部を追われたとき、彼の支えになろうと思って練習に付き合いはじめた。気づくと、支えられていたのは自分の方だった。
 いつも守られていた。啓太が死んだとき、励ましてくれたのは彼だった。学校を休んで教師に責められたとき、最初に立ち上がったのは山下剛であった。自分の主義を曲げて気持ちを口にしてくれたとき、とても嬉しかった。記録していたデータの有用性を認めてもらったとき、はじめて自分を誇りに思った。
 下校の途中、通り魔に襲われた日のことも覚えている。閉じていた眼を開くと、そこに彼の背中があった。盾のように立っていた。いつの間にか庇護されていた。
 守ってやる。言葉にするのは簡単だ。恋人に格好をつけてみせるだけなら、どんな男にもできる。山下はなにも言わない。その時が来たら、ただ迷うことなく示す。当たり前のようにそうする。
「――できること、そんなに無いと思う。でも私、自分にやれることは全部やるって決めたから。山下君のためだけじゃなくて、自分のためにもそうした方が良いんだって、いま思ったから」
 今度こそ自分が返すのだ。決意だけでなく、最後までやり遂げるのだ。その是非は、いずれ結果が教えてくれる。
 啓子は、第二会議室でのことを抽象的に話した。あまりに荒唐無稽な部分、現実性から乖離した部分については、ぼかして伝える。ただ、主催者が山下が意識を取り戻すタイミングを言い当てた事実だけは聞かせた。
「最初は信じられないと思ったし、本当はやっぱり騙されてるだけなのかもしれない。けど私、なんとかやってみるから。だから大丈夫だよ。色んなこと試してみて、ぜったいに山下君のこと元に戻して見せる」
 携帯電話を持たせた山下の右手が動き出した。先程とは違い、短時間の作業だった。受け取った電話のディスプレイには、「むりするな」とあった。
「無理なんかしないよ」微笑んで見せる。「普通のことを普通にするだけ。山下君みたいに、妥協しないことにしただけ」
 電話を握らせると、山下はまた文字を打ち込みだした。また短い一文が返る。「すこしつかれた」と書かれていた。
「うん、ゆっくり休んで」布団をかけなおし、しわを伸ばしながら言った。「私、ちゃんと傍についてるから。怪我が治ったらリハビリがんばろうね。山下君、迷惑かもしれないけど手伝わせて」
 彼は一度、頷く代わりの瞬きをよこした。そして静かに眼を閉じる。呼吸が浅くなりだした。上下する胸の揺れが少しずつ小さくなっていく。束の間の奇跡が、二人の間から去ろうとしている。それが分かった。
 しばらくして、担当の看護婦がケアのために訪れた。バイタルサインと点滴を慌しく確認し、渡瀬を労ってドアに向かっていく。意識、戻ると良いですね。彼女が呼びかけるのが一番だと思うから、がんばってね。でも無理しちゃ駄目ですよ。よくがんばり過ぎるご家族とかいるから。そう言って、看護婦は部屋を後にした。
 結局、彼女は山下に何の変化も見出さなかった。先程までの一時が幻であったかのように、彼は昏睡していた。
 啓子は面会時間ぎりぎりまで傍らで見守ったが、もう山下の目蓋が開かれることはなかった。


    6

「いえ、さっきも言いましたが本人も同意しています」
 視界の端に明子の姿をとらえながら、陽祐は同じ主張を繰り返した。記憶が確かなら、もう三度目になるはずであった。
「ですから、本人はいま、誰とも話したくないと言っているんです。僕を信用しろというのが無茶な言い分であることは理解しています。しかし信じてもらうしかありません」
 明子のような経験をした場合、親類ではなく第三者といる方が気分的に楽でいられることもある。そう続けた。身内の者といると、どうしても両親を思わずにはいられない。全く血縁から外れた赤の他人が、慰め役として適任であることもあり得るだろう。
 持田の親族も、一部は陽祐の言い分を認めていた。しかし、しばらく明子を引き取るという提案には難色を示し続けている。彼らの立場を考えれば、充分に頷ける反応ではあった。仮にも二人は若い男女であり、また未成年者なのである。事情も複雑だ。
「はい、うちには寝室は多数あります。二人きりになるという事実は認めますが、同衾するわけじゃありません。こちらも、彼女の心理的な状況は理解しているつもりです。もう過分に傷ついてる。そのうえ身体まで傷つけようとは思いません。思えもしない」
 明子は、かなり距離を置いた待合室のソファに座っていた。空間を隔てる壁の類はないが、電話コーナーの話し声が彼女の耳に届くとは思えない。仮に音が耳に入っても、明子の意識はそれを認識しないだろう。身じろぎもせず佇み、ぼんやりと虚空に視線をさ迷わせている。ギプスに覆われた右足は無造作に放り出されていた。
「――ご存じないかもしれませんが、幼い頃、僕らは隣人どうしでした。数年間、家族ぐるみの付き合いがあったんです」
 陽祐は受話器を握り直し、カードの残り度数を確認した。まだ充分に時間は残されている。しかし、このまま説得が長引びけば、もう一枚カードを購入する必要に迫られるかもしれない。
「彼女の両親のことも良く知っています。母親がいなかったので、僕はよく彼女の家に転がり込んだ。何日かに一度はなんらかの形で食事をご馳走になっていた。学年は同じですが、誕生日は一年近く離れている。僕にとって彼女は身内のような存在なんです」
 その言葉で、ようやく相手側の態度が軟化した。あるいは持田家の人間から聞かされていた昔話と、陽祐との存在が重なりあったのかもしれない。住所と電話番号を教え、頻繁に連絡を取り合こと、明子の身の安全を保障することなどを約束して受話器を置いた。
 座って待つ明子の元に戻る。彼女は、まだ夢の中にいるような顔をしていた。声をかけるまで陽祐の接近にも近付かない。
「話はついた。いこう。立てるか」
 手を差し伸べると、明子は老人のように緩慢な動きでそれに掴まった。何十時間も筋肉に運動を与えなかったため、彼女の身体機能は一時的に退化している。ただ歩くだけでも、ときどき足をもつれさせるのだった。右足を負傷しているという悪条件も重なっている。
 ――夢を見ていた。そう言って、彼女が眼を覚ましたのはつい三時間前のことであった。話を聞く限り、事件当夜のことは良く覚えているようであった。意識もしっかりしている。ただ、あれから二日間しか経っていないことを知ると、彼女は微かに驚いたような表情を見せた。
 私、夢で何ヶ月も過ごしたんだ。でも起きたら二日しか経ってない。ウラシマ効果みたいだね、という陽祐には分からない比喩を持ち出し、明子は笑った。疲労をおし隠すような薄い微笑だった。
 話によれば、彼女は眠っている間に様々な体験をしたらしい。現実と同じように、両親との死別もあったという。そして自らの死すらも経験したのだ、と彼女は語った。夢の中で、私、死んじゃったんだよ。
 医者たちは、そうした夢語りに関心を示さなかった。彼らが知りたがったのは主に肉体的な問題の有無である。そのため頭部に重点をおいた再検査が時間をかけて行われた。異常ないことが確認されると、医師は明子に帰宅の許可を出した。
 夢というのは情報の整理を行うためのものです。また、強く印象に残った出来事を象徴的に再現するものでもあります。持田さんの見た夢は、彼女の体験したことを考えればそんなに出所の不思議なものではないと思います。
 彼らはいつでも、もっともに聞こえる理屈を考え出す。
「やっぱり、松葉杖、借りてきたほうが良かったんじゃないか」
「だいじょぶだよ。全然ちからが入らないわけじゃないから」
 明子は壁の手すりに手を添えながら、片足跳ねするように歩いた。エレヴェータで一階におり、時間をかけて病棟の外に出る。間もなく日暮れという時間帯であった。西の空は茜色に染まりはじめている。
 乗り場でタクシーをつかまえ、明子と一緒に乗り込んだ。目的地として自宅の住所を告げる。院内の乗り場で客を拾うことに慣れているのだろう。運転手は、ギプスをして出てきた人間の扱いを心得ていた。控え目な速度で、身体に負担のかからない走り方をしてくれる。料金を支払うとき、陽祐は釣銭をチップ代わりに渡した。肩を貸し、明子の降車を手伝う。
「お越しやす」タクシーの排気音が遠ざかっていくのを聞きながら、陽祐はおどけて言った。「散らかってるが、まあ我慢してくれな」
「これが陽ちゃんの家――」
 明子が独り言をつぶやくように言った。最初に狭い庭を見渡し、次に二階のバルコニィあたりに視線を投げる。
「ひとりで住むにしては、なかなかのもんだろう。しかも書類上じゃ、この歳で世帯主ときてる。一国一城の主ってやつだ」
 明子を残して門を開き、玄関の鍵を開けた。戻って肩を貸し、再度同じ道を辿る。
「いらないと思ったけど、松葉杖、借りてくれば良かったね」
 言葉とは裏腹に、さほど後悔を感じさせない調子で彼女が言った。悪いけど、なるべく息を止めていて欲しい。昨日、お風呂はいれなかったから。
「そのことは俺も少し考えたけど、さすが婦女子は違う。風呂を一日パスしても問題ないんだな。野郎だとこうはいかないよ」
 黙って微笑む明子を連れ、居間に向かった。ソファに座らせる。TVをつけるか、という質問に彼女は首を左右した。シャワーを使うか、という問いには、後で貸して欲しいと答える。とりあえずトイレの位置を含めた、簡単な部屋の間取りを説明した。自分の家だと思ってくつろいで欲しい。彼女は小さく頷いた。
 少し待つように言って、陽祐はキッチンに回った。カウンター越しに明子の様子を窺いながら、小さな鍋を取り出す。彼女は物珍しそうに室内を見回しているが、その挙動はどこか覇気に欠けていた。誰にも見向きされない、色褪せたポスターのようだった。頼りなく、彩りを失っている。
 用意した鍋に二人分のミルクを入れてコンロにかけた。同時に、包丁でビターチョコを適当な大きさに刻む。熱したミルクに溶かしていくと、甘い香りが周囲に漂った。最後にリキュールを加えてカップ注ぎ分ける。リヴィングまで運び、片方を彼女に差し出した。
「まだ晩飯には早いからな。とりあえず、それでも飲んでくれ」
「良い匂いだね」マグカップに鼻をよせ、明子は柔らかく眼を細めた。「陽ちゃんの特製ココア?」
「ホットチョコレートだ。ココアとはちょっと違う」
 自分の知識にはないものだ、と彼女が告げたため簡単に説明した。もともとチョコレートは飲料であり、どちらかというと薬に近い存在として扱われていた。これに改良が加えられココアや菓子としてのチョコレートが誕生したが、元の形はホットチョコレートとして残っている。スペイン人などは日常的に飲み、フランスやイタリアあたりでもカフェの定番メニューとして存在する。
「生クリームを添えたりもするんだが、俺はクリームが嫌いだ」
「いまでもなんだ。昔からそうだったよね」
 明子は一口すすり、甘いね、と笑いながら感想を口にした。でも美味しい。作り方、教えてもらおうかな。
「――それでな、話さなきゃいけないことがあるんだ」
 一服すると、陽祐は切り出した。マグカップをテーブルに置く。絨毯の上で居住まいを正し、ソファに座る彼女を見上げた。
「悪い話と、最悪な話の二つだ。もし予感みたいなのがあって、今はとても聞けそうにないって言うなら後に回す。でも、あまり先延ばしにはできない。いつかは知らなきゃいけないことだ」
「最悪なほうは、私が思ってるのと同じ話かな」そちらから聞かせて欲しい、と明子は続けた。落ち着いた声だった。
「最悪な話は、お前の両親が亡くなられたことだ」
 予想は的中していたということだろう。彼女は全く表情を変えなかった。ただ、視線を手元のマグカップに落とす。微かな湯気をあげるチョコレート色の中身をじっと見つめていた。
「今晩が通夜だ。葬儀はあした。密葬っていうのか、身内だけで静かにあげるらしい。知らせを受けて飛んできたお前の親戚のうち、何人かと会って話をした。彼らが全部やってくれるそうだ」
「お父さんと、お母さんが――」
「ああ。二日前、お前の家が停電になったときだ。誰かが家に入った。警察は物取りが目的じゃないと考えてる」
 両者ともその犯人に襲われたのだ、と続けた。苦痛はなかった。それは調べた医師も認めている。即死であった。
 しばらくの沈黙のあと、明子は彼らの死因について訪ねてきた。自分からは話さないつもりだったが、問われれば答えるしかない。言葉を慎重に選び、なるべく細部を曖昧にしながら事実を話した。母親は、首の骨を熊のような力で握り折られていた。彼女が先にやられた。父親の方は後頭部を鷲づかみにされ、そのままTV画面に叩きつけられた。いずれに関しても一瞬で終わった。苦痛はなかったはずだ、と再度強調して締めくくった。
「……そっか。私、みなしごになっちゃったか」
 囁くような声が聞こえた。いきなり親の数、陽ちゃんより少なくなっちゃったね。そう言って、明子は自嘲するような笑みを浮かべる。口元は確かに微笑の形を作っていた。だが眼は違った。あっけらかんとした口ぶりは装われたものであった。
「俺の、ミスだ。――詫びの言葉もない」
 それを認めるのは、多大な苦痛を伴う作業だった。だが逃れようの無い事実である。彼女に顔を向けられなかった。
「責任の一端は俺にある。俺を狙っていた奴が、そっちに行ったんだ。とばっちりでこんなことになったんだ、お前の家族は」
 警戒するよう言いはしたが、充分ではなかった。相手があれほど大胆な行動にでるなどとは考えもしていなかった。
 だが、全てはいいわけに過ぎない。自分の不注意が彼女の家庭を滅茶苦茶にした。自分が不快感を受けるだけで済む問題が、持田夫妻親の死にまで発展した。そうさせてしまった。
 ほかならぬ自分が、彼女の両親を死に追いやったのだ。そんな考えが頭にこびりついて離れなかった。論理的とはいえない考えである。最大の責任は殺害犯にあるのだろう。そう分かってはいるが、どうしようもなかった。
 明子は謝罪を受け入れるつもりがないのか、無言で俯いている。陽祐の言葉が届いているのかすら微妙な様子であった。しばらくして、思い出したようにホットチョコレートを一口飲んだ。
「――私、なんでここにいるんだっけ」ぽつりとつぶやく。
 どう答えれば良いのか分からなかった。苦労して言葉を捜す。
「話を聞いてもらうためだ」なんとかそう言った。「お前の家は、その、現場なんだ。事件の。警察が調べまわってるし、現場検証が終わっても周りにはマスコミの連中がまだ張り付いてる」
 そっか、と言って彼女はまた無言に戻った。表情はほとんど変わらない。衝撃で呆然としているというふうでもない。何を思って、何を考えているのか全く見当がつかなかった。
「ね、シャワー貸してもらえるかな」
「え――ああ、そうだな」慌てて頷いた。「少し待ってくれ。着替えとか用意するから」
 あらゆる種の時間が必要だった。一人になる時間、気持ちを整理する時間、現実を受け入れるまでの時間。なるべく落ち着いた環境をつくり、彼女にそれを提供しなければならない。
 明子を居間に残し、二階に向かった。男所帯の秋山家にも、女性用の物が全くないわけではない。離婚の際に母親が持ち出し忘れていった荷物がそうだ。小物がほとんどであったが、洋服や下着の類もあったはずだ。大半は引越しのときに捨てたものの、新品は不要物をまとめたダンボール箱に詰め込んだ覚えがある。日の目を見るときが来た。
 記憶は正しかった。ダンボールからは、真新しいTシャツと未開封のショーツが見つかった。サイズは分からないが、彼女が妊娠して着られなくなったと判断したものだろう。クローゼットから洗い立てのジーンズも引っ張り出し、一階に戻った。
「タオルとかは、見れば場所は分かる。消耗品と合わせて自由に使ってくれ。シャワーなんかの操作も感覚的に掴めると思う。お前には好きなものを好きなように使う権利がある」
 着替えを手渡しながら言った。キッチンから取ってきたラップも沿えた。ギプスに巻きつければ、水滴を弾いてくれるはずだ。
「物だけじゃなくて、俺のことも使ってくれていいから」
「ありがとう」頬に小さなえくぼをつくって、彼女は言った。
 踵を返してバスルームへ歩いていく。廊下へ続くドアを潜る寸前、俄かに立ち止まった。逡巡の末、ゆっくりと陽祐を振り返る。
「どうかしたか?」
「ねえ――私、酷いやつかな」
 適当な表現を探すように、彼女は言葉を途切れさせた。そしてまた口を開く。その口調は他人事を話すように淡々としていた。
「悲しいのに、あんまり辛くないんだ。涙もでない。ぼーっとしてる。何が起こったのか本当に分かってるのかな、私」
 分かってないのかもしれないね、と明子は寂しげに笑む。
「それは、たぶん酷いとかそういうことじゃない」
 自分のことを思い出しながら、陽祐は思ったままのことを言った。
「本当に物がなくなって、もうどうしようもないって分かったとき、そんな気分になることがある。前、俺もそうなったよ」
 日が暮れて、閉園時間の訪れた遊園地だ。誰もが家族や恋人と影をひとつにして帰っていく。遊具は動きを止め、黄金色の夕日に照らされて長い影を落とす。祭りのあとのような寂寥感が漂う。そんな場所に、ひとりだけ取り残される。去っていく人々の背中を、黙って見送り続ける。そんな気分だ。
「まだガキの頃、俺は冒険にあこがれてた。で、離婚してどっかに消えたむかしの母親を、誰にも秘密で探しに行った。どんな風に迎えいれられるかどきどきしてさ。それが冒険だと思ってたんだ」
 明子は瞬きもせずに聞いていた。無言で続きを求めているのが分かる。初めて口にする話だった。
「母親は見つかった。住民票やら戸籍やらを辿って見つけた。俺は中学一年になったばっかだった。大人の仲間入りした気でいた」
 彼女は既に再婚していた。姓もとっくに変えていた。現実は、漠然と想像していた再会とは似ても似つかないものだった。
「彼女は、何をしに来たのか詰問口調で訊いてきた。俺はうまく答えられなかった。それが相手を苛つかせたらしい。まあ、はじめから苛ついた顔で現れたけど――とにかく、胸を突き飛ばされて、帰れって言われたよ」
 彼女は、もともと子供が嫌いだったらしい。産まないつもりだった。おろすつもりでいた。それに英文が反対したため、離婚したのだと金切り声をあげた。お前が会いに来たのでは、全く別れた意味がない。やはり産んだのは間違いだった。生かしてもらってありがたいと思うなら、せめて自分に迷惑をかけるな。二度と近付くな。英文ともそのように約束したはずなのだ。
 彼女はそう言ってドアを閉めた。三分もたたずに再会の時は終わった。それが冒険の結末だった。
「結末に驚くとか、悲しいとか、そんなの通り越してた。とにかく何も分からなかったよ。でも、これで本当に自分から母親の存在が無くなったんだってことは良く分かった」
 西日が引いていく廊下には、薄闇がおりようとしていた。その瞬間に相応しい沈黙があたりを包み込む。しばらくして、陽祐は俯けていた顔をあげた。ほとんど同時に、少し掠れた明子の声が聞こえた。
「そんなこと……あったんだ、陽ちゃん」
 明子の左頬に一筋、涙が伝っていた。
「なくすって、そういうことなのかな。そんなふうに酷いことされて、陽ちゃんみたいな思いになること?」
「分からない」自然と口元が綻んだ。自分でも不思議なくらい、優しい表情をしているような気がした。「そうなのかもしれない」
 彼女に歩み寄った。凍えたように震えている肩に手を置く。途端、彼女の額がみぞおちの辺りにぶつかって来た。嗚咽をこらえるような声が聞こえはじめた。
「こういうときって、自分じゃ泣けないもんなんだよな」陽祐は続けた。「周りの人間の方が的確な感情表現を見せてくれるもんなんだ。俺の経験則ではそうだ。お前が泣いてくれてるのもそうだろ」
 引き裂かれるのではないかと思うほど、シャツの胸元を強く握り締められた。手のひらから伝わってくる震えが大きくなる。
「交代制なんだ、たぶん。自分が当事者のときは他人が泣いて、他人が当事者のときは自分が泣く。だから、お前が特別つめたいやつってわけじゃない。お前は良く分からないでぼーっとしてるのが役目で、泣くのは俺とか身内とか、友達に任せとけばいい」
 かなりの時間待った。涙声で「うん」と返るまでには、それが必要だった。やがて胸元の締め付けがゆるみ、彼女の体温が離れていくのが分かった。
「シャワー、浴びてくるね」素早く背を向けて明子は言った。
「そうしてくれ。その間、俺は買い物に行ってくるよ。晩飯、何が食いたい?」
「なんでも良いよ。美味しいのなら」
「知ってるか。なんでも良いって答えが一番困るんだ」
 その背を軽く叩き、廊下で彼女を追い越した。どんな形であれ、涙が流せたのならそれは吉兆である。食事も喉を通るかもしれない。考えるべきことは山のようにあるが、いまは彼女のことだけを心配していたかった。他のことは全て忘れて。
 陽祐は、財布を取りに二階へ向かった。


    7

 学校の判断により早朝練習が中止されていても、身体は六時に起床することを覚えていた。そのときがくれば自動的に目覚める。井上大作は寝台から起き上がり、いつものように登校の身支度を整えた。制服に着替え、新聞を取りに行く。自分で朝食を調理するのにもそろそろ慣れてきた。トーストを焼き、コーヒーをいれ、炒卵をつくる。ダイニングの食卓につき、TVニュースを眺めながら食パンに齧りついた。
 CM明け、一部の隙もなくスーツを着こなしたアナウンサーが慇懃に頭を下げた。四月一八日、月曜日。午前六時二〇分になりました。画面が切り替わり、ビル屋上から望遠撮影された盛岡市の様子が映し出される。県庁近く、岩手公園の桜並木が見えた。ソメイヨシノの見ごろは今月下旬になるだろう、と解説が入る。
 カメラがスタジオに戻る。トップニュースが伝えられはじめた。
「――今月一四日、岩手県白丘市で発生した一家殺傷事件の続報です。一六日の午後、容疑者とみられる女が、同市にある東北技術科学大学医学部付属病院から死体で発見されました」
 キャスターは手元の原稿をめくりながら、固い表情で続ける。
 死体で見つかったのは和賀郡湯田町の小川裕美容疑者、七一歳。捜査当局の調べによると、白丘市の事件で殺害された持田理子の遺体からは、犯人のものと思われる指紋が検出されており、これが小川裕美の指紋と一致した。岩手県警は小川が事件に何らかの形で関与していたとして捜査を進めている。
 所持していた保険証から身元は判明したものの、小川容疑者がなぜTUT病院にいたかは分かっていない。彼女は入院病棟の部屋から発見されたが、そこは病室ではなく、そもそも小川はTUTの患者ではなかった。他に明らかになったのは死因のみ。これは心不全であったことがはっきりしている。ただ、死体の状態には不自然な点が多く、死亡推定時刻も明確にはされていない。彼女が使われることの少ない無人の部屋で何をしていたのかを含め、様々な角度から調査が行われる予定であるという。
 昨夜の時点で、既に広く報じられていた事実であった。先ほど取ってきた朝刊を広げる。やはり同事件には多くの紙面が割かれており、事件の詳細が記されていた。
 ニュースになっている女性が、第二会議室で会った小川老人であるとは既に疑いようがない。まったく現実感を伴ってはいないが、彼女は実在した。土曜日の出来事は実際に経験されたことなのだ。夢や幻どころか、警察沙汰の騒ぎになっている。
 彼女が電話をとり、自ら警察に通報したところまでは大作も見届けている。問題はその後だが、忠告に従って部屋を離れたため、詳細については何も分からない。報道内容を見る限り、起こるべきことが起こったようではある。
 あれから二日。今のところ、小川老人の言葉はことごとく真実にその姿を変えていた。例外は一つもない。
 ただ、持田明子にしても、癌で入院している友子にしても、とても三ヵ月後に死を迎える間には見えないのだった。このまま例の老婆の言葉が実現していけば、七月三日に持田がまず死亡することになる。それを皮切りに続々と死人が出ていき、二八日には友子の番が回ってくる予定だ。俄かには信じる気になれない展開である。
 とはいえ、俄かには信じられない話がここ最近、連続して発生しているのも事実だ。なにを信じ、なにを根拠に判断を下すべきか。考えて結論が出せるような問題ではなかった。
 芸能関係のニュースが終わり、まもなく星占いのコーナーがはじまろうというとき、予期せず廊下に通じるドアが開いた。キャスターの声をBGM代わりに新聞を読んでいたため、誰かが家に入ってきたことにすら気づかなかったのだ。
 姿を現したのは、制服姿の陽祐であった。
「びっくりした。心臓に悪いな、声くらいかけてよ」
「よう、久しぶり」悪びれた様子もなく、彼は勝手に手近な椅子を引き、どっかりと腰を下ろす。大作の斜め向かいの席であった。
「久しぶりって、昨日も会ったじゃないか」
 そうだったか、と陽祐は片眉を吊り上げる。朝は例外なく不機嫌そうにしている男だが、今日はさほどでもないようだった。
「週末の間、お前を必死に避けまわってたからな。昨日も軒先で偶然出くわしただけだし。それで、長いこと会ってなかった気がするんだろ」
「なるほど」彼が自分に会いたがらなかった理由は、聞かずとも分かるような気がした。顔を合わせれば、どうしても話題にしなければならないことがある。従弟ではなく、陽祐はその話に触れたくなかったのだろう。「――で、気持ちに整理はついた?」
「つくか、そう簡単に。もう一週間は引きこもってるつもりだったんだ。明子に発破かけられたから、しかたなく来たんだよ」
「で、その持田さんは?」苦笑しながら訊いた。
「あいつは寝てるよ。昼まで起きないだろうな」
 退院後の彼女が、秋山家に転がり込んだという話は聞いていた。親戚が引き取るという話もあったそうだが、しばらく血筋の近い者とは顔をあわせたくない、と当人が拒んだらしい。だからといって、両親が殺された家に一人で帰らせるわけにもいくまい。
 陽祐の元に身を寄せたのは、ベストとは言えないまでもベターな選択ではあったのかもしれなかった。彼は弁えた男だ。魅力的な異性と二人きりであっても、一時的な感情に身を任せるようなことは絶対にしないはずであった。そこは信用できる。
「様子はどう、持田さん」
「飛び回ってる」陽祐は両肩をすぼめた。「結局、通夜にも葬儀にも出たし、身辺整理とか自宅の片付けとか率先してやってるよ。警察の取調べにも積極的に応じてる」
「そっか――」
 少し驚きもしたが、さもありなんといった気もした。
 とにかく動き回りたい。働いて頭を空っぽにしていたい。そんな心理が働いて不思議のない状況に持田明子はいる。
「昼間、人の倍の仕事をするんだ。で、夕方になると帰ってくる」
 食卓の上にコーヒーポットを発見すると、陽祐は勧められもしないうちに自分の分を注ぎはじめた。勝手知ったる他人の家。食器棚のどこにカップがあるか、彼は既に熟知している。
「帰ったらすぐに風呂はいって、飯食って、人の二倍寝る」
「愛を育む間もないね」
「お前もなかなか言うようになったじゃないの」
 陽祐はカップを持ち上げて唇の端を微かにねじった。続ける。
「いずれにせよ、あいつは刹那的な欺瞞の積み重ねで状況をしのごうってのはしないタイプからな。それがプライドなんだ。そういう人間じゃなけりゃ、簡単に自宅に招いたりできないよな」
「学校にはまだ当分、来られないのかな」
「そうだろうな」言って、彼はコーヒーに口をつけた。「ちなみに俺のほうは今日から出るよ。雰囲気の偵察を頼まれたしな。流石のあいつも、今回ばかりは周りの眼が気になるらしい」
「山下君の件もあるからね。部活とかもまだ禁止状態だし」
 彼らの危惧するとおり、いまの白丘一高は雰囲気的に普通ではないところがある。持田家の事件も当然、大きな話題をさらっていた。
「当事者だからね。持田さん、学校来るの勇気いるだろうな」
 まあな、と呟き、陽祐は残ったコーヒーを飲み干した。軽く息を吐き、カップを食卓に戻す。
「――で」視線と一緒に下がっていた顎が、元の位置に戻される。陽祐は表情を引き締めていた。「そっちはどうなんだ」
「そっちって、母さんのこと?」
 沈黙が返った。それ以外になにがある、と訴えているのは双眸を窺えば明白であった。避けられる話題ではない。
「土曜日も少し言ったけど、母さんは本当に入院してる。陽祐に謝りたがってるよ。色々、隠しごとしてたから」
 訊ねられる前に、病棟と病室の番号を教えた。シンガポールの英文には絶対に教えないで欲しい、という彼女の希望も合わせて伝える。陽祐はそれらを黙して聞き、おもむろに口を開いた。
「お前たち井上家ってのは、とことん秘密主義が好きみたいだな」
「心配させたくないし、迷惑かけたくもないんだよ」
「心配させて、迷惑かけあうのが家族だ」陽祐は言下に切り返してきた。「少なくとも俺がいう家族ってのはそうだ」
「母さんがしたことについては申し訳ないと思う。俺ももっと早く打ち明けるべきだった。でも、陽祐、前に言ってたよね。家庭にはそれぞれ個性があるって」
 陽祐は長いこと黙り込み、やがて根負けしたように嘆息した。険相がわずかに緩む。
「済んだことだ、情報を伏せてたことはもういいよ。それより、叔母さんの容態はどうなんだ。本当に――」
 口に出しかけ、彼は慌てたように言葉を飲み込んだ。みなまで聞かずとも分かる。本当に、七月に死ぬほど悪いのか。そう訊きたかったに違いない。
「末期ってわけでもないからね。何年っていう単位の長期戦になるんじゃないかな。少なくとも本人はそう言ってるよ」
 彼女には手術の必要もなく、治療が放射線の照射をメインに行われることを説明した。陽祐はイメージがつかないようであったが、それは大作も変わらない。ただ、メスで腹を切り裂く必要がないと聞けば、幾ばくかの安堵感を得られるのは確かである。手術の必要が無いのなら、彼女の癌は大したことがないのではあるまいか。そう思えてくるのだ。そして、そう思いたい。
「良かったら会いに行ってやってよ」
 立ち上がり、食器を流しに運びながら言った。TVの画面上に表示されている時計は、間もなく七時を指そうとしている。
「母さん、本当に会いたがってた。謝罪も釈明も、自分の口からしたいだろうしね。持田さんのことで陽祐も忙しいだろうけど」
「会いに行くよ。どの道、状況を考えれば会わざるを得んだろ。叔母さんもそうだけど、諸岡梓って女の子ともさ」
 蛇口に伸ばしかけた手が、意図せず止まった。
 諸岡梓。正確な病名は覚え切れなかったが、難病と戦う一一歳の少女だ。土曜日に出会った諸岡悟子の実子であるという。必要な治療が状況的に行えず、現在は生命の危機が現実的なところまできているらしい。略歴を知るだけであるが、その闘病生活は過酷なものであった。綴られた文章だけでそれは分かった。
「やっぱり、陽祐のとこにも来た? あの履歴書みたいなの」
「――ああ」彼は大作を一瞥し、ややあって重々しく頷いた。「ということは、お前も受け取ったわけだ」
「土曜日にね。病院から帰ってきたら、ポストに入ってたよ」
 俺のところもだ、という声が返った。恐らく渡瀬啓子と諸岡悟子の元にも届けられたのだろう、と続けられる。同感だった。
 第二会議室に呼び出された日、帰宅するとそれは届けられていた。大型封筒に収められた分厚い書類の束である。中には秋山陽祐、持田明子、山下剛、渡瀬啓子、そして諸岡親子と大作、友子に関連する個人情報が収められていた。それぞれの連絡先、家庭環境、家族構成、収入、経済状況、略歴。その人物の半生を大雑把に把握するには充分な資料であった。よく調べられていた。
「俺もここ何日か、ただ明子を眺めてたわけじゃない。ボンクラなりにいろいろ考えてみた」
 陽祐は二杯目のコーヒーをカップに注ぎながら言った。
「あの死体女の指定した通りのタイミングで、明子は狙い済ましたみたいに目を覚ました。ハッタリが偶然を味方につけて現実になっただけかもしれないし、それが何だってわけじゃないけどな。
 とにかく、あの女の話が嘘であれ真実であれ、関係者にはちゃんと会って話をする必要があると思う。特に、名前さえ知らなかった諸岡親子については、もう少し知らなきゃならんだろう」
「山下君もだよ。あの後、ほとんど言われてた通りになったって。一時的に意識が戻って、それからまた元に戻ったみたい」
「本当か、それ」陽祐が眼を見開く。
「俺も信じられなかったけど、本当みたい。昨日、電話で渡瀬さん本人に聞いたんだ。彼女、その気みたいだったよ」
 陽祐は顔をしかめた。「その気って?」
「乗り気だってこと。全部を信じるわけじゃないし、騙されてるかもしれないことは認めてはいたけどね。でも、例の話に賭けてみるつもりだって言ってた。相当、思いつめてた感じだった」
「渡瀬が」その表情が凍りつく。「そう言ったのか、本当に」
「言ってたよ。陽祐を何とか動かしてみるつもりだって」
 足を怪我したが、持田明子の肉体に大きな損傷はないと聞く。資料を見る限り、友子の癌も三ヵ月後にどうこうという状況ではない。つまり真に生命の危機にさらされているのは、山下剛と諸岡悟子の娘だけなのだ。ならば、確率は二分の一。陽祐は山下を選択してくれるかもしれない。それが渡瀬啓子の主張であった。
「たぶん、みんな半信半疑って状態なんじゃないかな」
 大作は、スポンジに洗剤を馴染ませながら言った。
 常識的に考えても、老婆の言うことを頭から信用することはできない。人がいつ死を迎えるか。これを予測するのは言うまでも無く困難である。何ヶ月も前から、日時を正確に言い当てることに至っては不可能と断言できる。それを意図的に操作するのも然りだ。
「でも、あの人はなんか変な部分があったじゃない。凄みっていうのかな。あり得るわけないけど、でも、もしかしたら……って思わせる雰囲気っていうか。みんな、そういうのは感じたと思う」
 山下が奇跡的確率をものにして覚醒し、持田明子もまた同様に目覚めたとなれば、なおさらである。
「お前は、信じるのか」
 陽祐は面を伏せ、大作から顔をそらしつつ言った。なにか躊躇するような素振りを見せて、結局は続ける。
「もし、俺が本当に一人を選べるとして――あの女の言うことが本当だったと仮定したら。お前、どうする」
 それは、あの日から常に考え続けてきたことだった。
 迷いが全くなかったと言えばうそになるだろう。しかし、結論は出ていた。渡瀬と同じく、ほとんど時間をかけずにである。
「俺は、別にいいよ」
 本心をそのまま口にした。陽祐が眉間に深くしわを寄せる。どういうことだ、と睨めるような視線が向けられた。
「俺たちのことは考えなくていい。陽祐は、他の三人の話を聞いてやってくれればさ。あの話がうそでも本当でも、俺は乗るつもりはないってこと。何もしないよ。できたとしても、母さんをそれで助けようとは思ってない」
 ほとんど反射的な動きで、陽祐は椅子から腰を浮かせた。信じられないものを見るような眼で凝視してくる。
「お前……正気か」
「ちゃんと考えて決めたんだよ」コーヒーカップをすすぎ、スポンジで擦りながら言った。「だから、俺たちのことは心配しなくていい。母さんのことは、なんて言うのかな。成り行きっていうか、自然の経過っていうか、それに任せるつもりだから」
「あいつの話が本当だったら、叔母さんは死ぬんだぞ。しかも、あと二ヶ月ちょいで。それでも無視か。死ぬって分かってる母親を助けられるのに、何もしないのか」
「しないよ。自然に助からないなら、それは仕方ないことなんだ」
「なんだ、それは」その声に剣呑なものが含まれだした。椅子を蹴り、乱暴な足取りでカウンターを回りこんでくる。全く想定していなかった回答に狼狽しているようでもあった。
「かかってるのはお前の母親なんだぞ。お前、それが分かって悟ったみたいなこと言ってんのか」
「変かな」手元で作業を続けながら言った。皿二枚にカップ一つ。少ないためすぐに終わる。手の水を切り、タオルで拭った。改めて彼に向き直り、薄く微笑んでみせる。
「結局、あの話ってさ、言ってた本人も認めてたけどレースなんだよね。一等には賞品として延命権みたいなものが与えられるってだけでさ。俺はそういう命の競い合いみたいなので、他人を蹴落としてまで母さんを助ける気にはなれないんだよ」
「命がけの話をへらへら笑ってするな」
 鋭い声と共に、陽祐の右腕がに伸びてきた。払い避けることもできたが、あえて無防備な状態を維持する。制服の胸倉を掴まれ、乱暴に捻り上げられた。
「お前はこんなときにまでお利口さんかよ」紅潮した彼の顔が近付いてくる。「母親が死にかけてるってのに仲良し村の理屈か」
「離してよ、陽祐」
 彼は大作の声を完全に無視して捲くし立てた。
「てめえはいつもそうだな。どんなときも、にっこり笑って優等生面。質問する価値すらない。いつも答えることは分かりきってるんだ。聞かなくたって、教科書通りの反応が返ってくることが分かってる。仲良し村のマニュアルを棒読みしてくれる」
「離してくれ、陽祐」
 音は届いているが、それを意味のある言葉としては聞いていないようだった。声帯を自ら痛めつけるような怒鳴り声がひそみ、低く囁くようなそれに彼は口調を変えた。静かに続ける。
「血の通った人間なら、どっかに手本があるようなことばかり言うなよ。本当に大事な物が失われかけたら、必死の形相でしがみつく。何かを犠牲にしてでも守ろうとする。他人を蹴落としても、と思う。それが人間としてリアルな反応なんじゃないのか」
「なんだよ、それ」
 力を込めて右手を振り、陽祐の腕を打ち払った。
「それは陽祐の勝手なリアリティだろ。押しつけないで欲しいな」
「押しつけだ? 俺がなにを押しつけた」
 腕を薙ぐのに手加減をしなかった。傷めたのかもしれない。陽祐は右手首を押さえて顔を歪ませていた。苦痛がそうさせているようにも、激情がそうさせているようにも見える。
「勝手に人間を定義しないでよ。誰もが普段は演技したりウソついたりしてる、とか主張する人もいるみたいだけどね。隠されてる影の部分こそが、より本質に近い人格だって。陽祐もそのクチ? 暗部こそが真実って思ってるの」
 陽祐は答えなかった。相手の動きを分析し、反撃の時期を慎重にはかろうとするかのような沈黙であった。
「極限状態に陥った人間は、普段は見せない意外な側面を必ず披露しないといけないものなのかな。そうやって二面性を垣間見せないと、陽祐にはリアルな人間として認めてもらえないの?」
「そう言いきるわけじゃない」
「充分に言いきってたよ、陽祐は」微笑みながら指摘した。
 一般に、人間は多面的、多元的な存在であると言われている。しかし、多面的でないものなどこの世には存在しない。人間だけが特別に複雑なわけではない。恐らく、森羅万象はシンプルそのものなのだ。それを認知する側が物をややこしく捉えているに過ぎない。物事を好んで複雑にしているのは、他ならぬ観測者であるのだ。
「俺に言わせればね、陽祐。影の部分とか何とかはさ、中途半端なスポットライトの当て方が生み出したものなんだよ。人間はボールみたいなものだと思うんだ。いっぺんに全方向から光を当てないと、絶対に影ができる。だからね、見てる人間の限界が、見られてる人間に影を作っちゃってるんだと思うんだよ。意外性とか暗部とかそんなのは、人間が自分の観測能力の限界を棚に上げて喚いてる愚痴みたいなものなんじゃないかな」
 いまや陽祐は、故なく頬を叩かれ呆然としている人間のようだった。それだけ大作の反撃は、彼にとって思わぬものだったのだろう。ある意味で、彼の望んだ意外な一面を披露したことになる。
「ねえ、陽祐はさ、俺がどういう人間なら満足なのかな」首を傾げながら訊いた。「小学生のころ、実は万引きの常習犯だったって言えば、リアルな人間だって思ってもらえるの?」
「お前――」
「そうだよ。人間、思いもしない部分があるもんだよ。母さんは虫も殺さないように見えるけど、怒り出すと荒れてね。子供の頃は、いわゆる幼児虐待ってのを俺にやってた。今でも、熱いフライパンを押しつけられた火傷のあとが背中に残ってるよ。見る?」
 意図的に抑揚をつけず、淡々と言葉を紡いだ。
「持田さんには援助交際をしてたって噂がある。清楚で真面目そうな雰囲気があるけどね。歓楽街っていうのかな。そういう場所を色んな男の人と歩いてたって、色んな人が見かけてる。父親くらいの人とだよ。俺の友達も、ひとり決定的なシーンを見かけてる。そういうことじゃ絶対にウソを吐かない人だからね。信用できる」
 陽祐は幾度か口を開き、その度に無言のまま閉じた。何を言うべきか、どの言葉を選択すべきか決めかねているようだった。それでも何とか声を搾り出そうと苦心し、彼はようやくにしてそれに成功した。うそだろ、と弱々しい声音でつぶやく。
「うん。もちろん、うそだよ」
 必要以上に彼を苦しめるつもりはない。即座に認めた。
「井上家はウソが上手いんだよ。でも、陽祐みたいな人は思ったんじゃないかな。生々しいだけにリアルだ、とかさ」
 図星だったのだろう。あるいは、初めて指摘されることに衝撃を受けているのかもしれない。陽祐はあごを落とし、呆けたように口を半開きにしていた。
「印象とかイメージとかをさ、打ち砕くようなものってあるよ。確かに。でもそれを見たときにさ、これが現実なんだって、それこそ悟った気になっちゃうのは常套的すぎないかな」
 それは一定のプロセスを経ることで、自分は真実を知ったのだと満足感を得ているだけだ。続けてそう指摘した。
 何がリアルか、どこまでがリアルか。それを設定するための根拠になるのは、恐らく経験だろう。しかし経験というのは諸刃の刃だ。大作に言わせれば、副作用が存在する劇薬にほかならない。適量を守っていれば役立つが、度が過ぎれば思考や人格の硬化に繋がる。老化と言い換えてもよい。
 現代社会は <経験> という概念を過剰に持ち上げる傾向にある。それがもたらす副作用については誰も語ろうとしない。日本人は神話を作り上げるのが好きだという。その特性が作り上げた、いまは経験バブルの時代なのかもしれなかった。
「……それが、お前の考えか」
 陽祐がかすれた声で言った。声に全く力がない。第二会議室の時と同じであった。打ちのめされている。最近、彼を傷つけることばかりが起こっている。少し胸が痛んだ。だが、言わねばならない。
「うん。これがレースだっていうならリタイアする。俺は母さんを助けない。それが俺の考え」
「そう、か」何を言っても無駄と判断したのだろう。彼は肩を落とし、虚無感を吐き出すように嘆息した。わかった、と呟く。
「お前の言ってること、正論なのかもしれない。たぶん、正しいんだろう。でも、俺にはどうしても納得できない」
「それは分かるよ。仕方ないことだと思う」
 陽祐は真意を窺うように大作の顔を見つめ、やがて無言のまま踵を返した。重たい足取りでダイニングのドアに向かっていく。
「陽祐の言うことこそ、本当は正しいんだ」
 その背に言葉を投げかけた。彼の足が止まる。
「間違ってるって分かってても、それをやらざるを得ない……って良くあることだし。人間として自然な姿だって思う。でも、その結果って分かりきってるじゃない。絶対にみんなが傷つくことになる。自分も、他人も、結局はみんな一つも幸せになれない」
 だから自分は正論を取るのだ、と続けた。それがもっとも後悔を生みにくい選択なのだ。幾多の時代を跨ぎながら、それでも正論が正論として認知されてきたことには理由がある。
 臆病者は正論にすがり、勇気ある者は敢えて正論を選ぶ。井上大作がいずれであるかの判断は、見る者に委ねるつもりであった。
 ドアノブを回す音がした。立ち止まりこそしていたが、結局、陽祐は一度も振り返らなかった。大作の言葉が空間に拡散して消えていくと、再び足を進めだす。廊下をいく静かな足音が聞こえた。
 つけ放しにしていたTVから、賑やかなBGMに彩られた芸能ニュースが流れてきた。どんなときにも、個人の事情とは無関係に世界は回り続ける。



低反響により打切り