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 第七章 「四捨」


    1

 やかましい目覚ましベルを切った後、秋山陽祐は例の夢を見なかったことに気付いた。ドアが二つある小部屋から始まり、果てしなく続くかに思われた長い廊下を経て、延々と太い血管の集合体を追って行くという、あの夢だ。
 決して寝覚めの良いものではなかったから、夢を見ずに朝を迎えられたことは喜ばしくもある。だが、今回に限って運良く回避できたに過ぎないのかもしれない。これで全てが終わったとも思えなかった。
 聞くところによると、夢とは内面の鏡であるという。何らかの願望や強い感情などが、形を変えて夢の中で再現されるらしい。では、あの脈打つ有機体パイプの束は一体何を象徴していたのだろう。それを辿り源を探ろうとする行為には、どんな意味が込められているのだろう。洗面所で濡れた顔にフェイスソープを擦り付けながら考えたが、結論は得られなかった。
 次に気付いたのは、五枚あるカッターシャツの替えが残り一枚にまで減っているという事実だった。四月四日に引っ越してきてから既に一週間以上が経過している。が、考えてみればまだ一度しか洗濯をしていなかった。英文の分の負担が完全になくなったからと気を抜き過ぎたのだ。
 陽祐は慌てて洗濯室に向かい、溜まった洗濯物の状況を確認した。籠の中にうずたかく積み上げられているのは、ほとんどがブレザーの下に着用する白いカッターシャツと毎日取りかえる肌着類、靴下、バスタオルなどだった。それらをまとめて全自動洗濯機に放り込むと、洗剤をセットして、洗い、すすぎ、脱水までが連続して行われるよう設定した。全行程が完了するまで一時間前後かかるだろうが、その間、井上家で朝食を済ませてくれば問題ない。大作と今後のことについて話す必要があるため、彼に合わせて早起きしたのが幸いした。
 洗濯は朝してしまうに限る。これは古くからの陽祐の持論だった。登校前に洗濯して干してしまえば、陽光をたっぷり利用して気持ちよく乾燥させることができる。高校から帰りつくのと日暮れのタイミングは重なることが多いから、取り入れるのはその時でいい。帰宅してから洗濯する方が朝ばたばたせずに済む分よろしくもあるが、それだと永遠に天日干しを諦めなければならないのだった。今日もまた良い天気になりそうなので、夕暮れどきには気持ちよく乾いた衣類を取り込めることだろう。そんなことを漠然と思いながら井上家に向かった。
 庭で洗濯物を乾かすために必要な <物干し台> が無いことに気付いたのは、大作と挨拶を交わした直後のことだった。自分の馬鹿さ加減に呆れながら、従弟の背中を追ってダイニングキッチンのドアを潜る。
「悪いね、陽祐。俺の都合で早起きさせちゃって」
 エプロン姿の大作は言葉通り申し訳なさそうな表情で謝ってから、朝食の準備を進めるためにいそいそとキッチンカウンターの裏側に回った。
「なんか、部活とか母さんのこととかで迷惑ばっかりかけてるような気がしてきたな。本当なら時間を見つけて、俺が荷物の整理を手伝ったりしなくちゃいけないのに」
「気にするな。少なくとも今日は、早起きしたおかげで溜まってた洗濯物を片付ける余裕を持てた」陽祐は苦笑しながら付け加えた。「まあ、肝心の物干し台がないおかげで外に洗濯物を干せないことが発覚したんだけどな。さっき」
「え、じゃあ前はどうしてたの?」
「前って言っても、越してきてまだ一回しか洗濯してないからな。その時は、雨が降ってたから乾燥機使って乾かしたよ。小物はハンガーにかけて室内で吊るした」
「そうじゃなくて、前のところだよ。引っ越してくる前に住んでたところではどうしてたのかなって」
「ああ、前のアパートには天井から物干し竿を吊るせるような仕掛けがあってさ。フックっていうのか? だから台はいらなかったんだよな」
「なるほど。じゃあさ、ウチの庭に持ってきて干せば?」
「その手もあるけど――まあ、ちょっと面倒だよな」
 陽祐は大作に続いてキッチンに入り、手を洗うと料理を手伝うことにした。まだブロックをぶつけられた箇所の痛みと腫れが引いていないため、左手はほとんど使えない。結局、右手で自慢の包丁さばきを披露することにした。ベーコンと一緒に炒めるつもりだというキャベツをざく切りにして、手早く大作に渡していく。左手は指先を鉤爪状に曲げ添えるだけなので楽だった。
「今更だけど、陽祐って結構大人なんだね。自立してるっていうのかな」
 キャベツを全て片付け、次にトマトを切り分けようとし始めたとき、フライパンを小刻みに振る大作が感心したように言った。眼で問い返すと、彼は珍しく真剣な顔をして続ける。
「二人家族って意味じゃ同じような環境で育ったのに、俺は炊事も洗濯もほとんどしたことがない」
 陽祐は家の状況を理解し、仕事を持つ父親の負担軽減の意味も含めて家事を引き受けている。全てを母親に押し付けてきた自分とは大きな違いがあるのではないか、と大作は身を縮めた。
「そうでもないさ」陽祐は小さく肩をすくめると、思った通りの感想をそのまま口にした。「それは各家庭なりの個性で語れる範囲のこったろうよ」
「――そうかな」
「そうさ。お前は、同性同年の人間が包丁使ってる姿を見慣れてなかっただけだろ。生き方を考え直すほどのことじゃない」
 こういう話題はあまり好きではなかった。コミュニケーションを密にすることで回避、または解決できる問題は意外に多いものだが、逆に幾ら意見を交換し合っても決して解決し得ない問題もやはりある。英文も言っていた。社会人のやる会議は単なる時間潰しだ。
 確かに大作は経済的にも、また日常生活を営む上においても自立しているとは言いがたい。だが自分を客観的に見て、そこから自らに科すべき課題を見出そうという努力はしている。自分が同じことをやれているかと問えば、陽祐は否と答えるしかなかった。どう考えても分の悪い話である。
「俺は色んな問題を棚上げにして、どうにか毎日をやっていってる。傍目にどう見えてるかは知らないが、今の世の中じゃ一番多いタイプの人間だよ」
 謙遜などではなかった。自分の生き方を胸張って誇ることもできなければ、大作の空手のように真剣に打ち込める何かがあるわけでもない。自信も矜持もないから、自分で自分を好きになれない。そういう人間を――自ら言うのも恥ずべきだろうが――自立した人間だとはとても言えないはずだった。
「何か悩んでることでもあるの?」
 言葉の裏に何かを感じ取ったのだろう、大作はフライパンを揺らす手を止めて心配そうに陽祐の顔を覗き込んできた。
「俺でよかったら、話を聞くくらいはできると思うけど」
「悩みなら売るほどあるな。全部お前に愚痴ってたら、それだけで人生終わっちまうよ」あまり追求されても困るため、陽祐は軽い口調で雰囲気を変えた。「そう言うお前こそ、何か心配ごとでもあるんじゃないのか。今日は覇気がない」
「別に心配事ってわけじゃないんだけど」
 大作は少し躊躇うような様子を見せた後、コンロの火を消した。そしてエプロンの胸に付けられた巨大なポケットを探り、はがきのようなものを取り出す。
「いつ言おうか迷ってたんだけどね、陽祐にまた前みたいな手紙が来てたんだよ。で、思わず中身見ちゃった……っていうか見えちゃったんだけど」
 申し訳なさそうにそう言うと、大作はおずおずとそのはがきを陽祐に差し出した。
「またかい。もう、いい加減うんざりだな」
 やはり明子に助言を求めたのが正解だったのか、また例の紙片が届いたと聞いても、これまでのような無様なまでの動揺はなかった。自分では対処しきれなかった不可解な現象の数々を彼女は論理的に検証し、適切に噛み砕いた形で返してくれたのだ。問題を他人と共有したことで気持ちが楽になったというのもあるのだろう。
 それでも払拭し得ない若干の不快感はあったが、陽祐はそれほど取り乱すこともなく大作から紙片を受け取ることができた。
 もしかするとサイズに僅かな違いがあるのかもしれないが、一見した限り、それは何の変哲もないはがきのように見えた。表には宛名として陽祐の名前が書かれている。他には送り先の住所や差出人氏名、切手、消印など普通郵便にあって然るべきものは全く存在しなかった。
 手首を捻って裏面を向ける。即座に、これまでと同じ書式による文書だと分かった。印刷されたと思わしき黒インクの明朝体で、短い文章が縦書きされている。そこには叔母の名が記されていた。改行した左横には <第三の選択肢> という言葉が添えられている。それだけだった。
「それ、どう考えても母さんの名前だよね」
 大作が否定の言葉を期待するような調子で言う。
 そうなのだろう――と答えようとしたが、唾液に絡め取られたかのように、声が咽喉に詰まって上手く出てこない。その間に、大作が自分の言葉を重ねた。
「選択肢ってどういう意味なんだろ。それ、まさか母さん本人が送ってきたわけじゃないだろうしね」
 彼は第一、第二の選択肢に関連する紙片の存在を知らないのだった。首を捻りたくなるのも当然である。
「大した意味じゃないよ、たぶん。気にするな」
 陽祐は顔を上げて大作と視線を合わせた。その人好きのする顔には困惑したような表情が浮かんでいるが、青ざめたような様子も必要以上に取り乱した感もない。
「でもさ、前に陽祐に来た手紙と同じパターンじゃない。あのときのは誘拐犯の逮捕を予告するみたいなのでさ、結局的中したよね?」
「それはお前がそう思いたがってるだけだよ」
 陽祐はなんとか笑い飛ばすような調子を演出すると、明子に言われた通りの理屈を繰り返した。言葉のどれもが暗示的で、そう望むのならどんな出来事とも関連付けられるような悪戯書きの原理だ。
「最近の悪戯とか詐欺とかはな、無駄に手が込んでるものなんだ。仕掛け人は、それなりに獲物の情報を集めてから計画を実行に移す。調査をもとにした情報でリアリティを醸し出すからこそ、相手を引っ掛けられるんだよ」
 これも明子の受け売りだった。差出人を偽ったり、手違いによる送信に見せかけた迷惑電子メール。トラブルに巻き込まれた身内を装って銀行口座に金を振り込ませる詐欺。いずれもが、事前に入念な下調べが行われることや手口の巧妙化、人間の心理を上手く利用していく点で共通しているという。
「この手紙だってそうなんだよ。身内の名前が書かれてたくらいで慌てることはない。叔母さんはここの家長で世帯主なわけなんだから幾らでも名前は調べられるだろ」
「まあ、そう言われると確かにねえ」大作は顎をさすりながら、のんびりと言った。「よく考えてみれば、前みたいに逮捕がどうとか書かれてるわけでもないからね。どっちにしても、人畜無害な母さんが逮捕される心配なんてないし」
 もともと根が単純で、物事を深く考えようとしない男である。持田明子を真似て並べたてた陽祐の理屈を受け入れ、大作は既に朗らかな笑みさえ浮かべようとしていた。
「ちょっと前まで研修に行くか行かないかで悩んでた時期もあったみたいだけど、結局はもう行っちゃったからね。だからこうして自分で朝ごはん作ってるわけだもんなあ」
「まあ、そういうことだな」
 陽祐は努めて明るく言うと、紙片をズボンのポケットに突っ込んで再び包丁を握った。
「あ、そうだ。詐欺で思い出したけどさ、陽祐んちの保険証見つかった?」
 完全に思考を切り替えたらしく、口元にいつもの微笑を湛えながら大作は言った。陽祐からすれば、ちょっと信じられない神経である。同時に少し羨ましくもあった。
「いや、ちょっと探したけどなかった。シンガポールにはまだ問い合わせてない」
「でも、腕は早いうちに病院で診てもらった方が良いよ。骨折はないにしても、小さいヒビとか入ってるかもしれないし。俺の保険証があると思うからさ、それ使ってみたらどうかな?」
 陽祐は一瞬だけトマトを切り分ける手を止めた。友子から聞いた話では、保険証を提示するだけで医療費の七割分が支払いを免除されるという。逼迫した台所事情を抱える陽祐にとって、大作の提案は渡りに舟だった。
「しかし、それって問題ないのか?」
「あるけど、バレなきゃ大丈夫っぽい気がする。俺が行ったことなくて、これから行く予定もない病院だったら良いんじゃないのかな。歳は同じなんだし、保険証は写真とかついてないから簡単に誤魔化せるよ」
 コンロの火を消した大作はフライパンを持ち上げ、炒めたベーコンとキャベツを並べておいた二つの皿に盛り付けた。陽祐は等分に切ったトマトをその傍らに並べていく。
「まあ、今回は遠慮しとくわ。なんかヤバそうだ。後で保険証持って行ったら払い戻してくれそうな気がするしな。とりあえず無しで行ってみるよ」
「そう?」大作は、フライパンにへばり付いたキャベツを菜箸で剥ぎ取りながら言った。「その方が無難かもね」
 完成した朝食は簡単なものだったが、味の方は悪くなかった。焼きあがったトーストとコーヒーを運び、大作と一緒に食卓を囲む。自ら朝の準備を整えたことが、よほど刺激的な経験だったらしい。大作は終始上機嫌で、友子が欠けた寂しさを微塵も感じさせなかった。

 学校についたのは、始業ベルがなる七分前だった。朝食の後片付けをし、手抜きの弁当をこしらえて来たにしては、悪くない時間である。夕食の献立を考えながら、生徒の群れに混じって校門を潜った。例の手紙については、できる限り何も考えずにいたい。どうせ考えるのは得意ではないのだ。できれば、明子にまた知恵を借りるつもりだった。
「なあ、なんか今日、雰囲気変じゃねえ?」
 昇降口で靴を履き替えていると、いきなり声をかけられた。声の方に眼をやる。すぐ隣に、クラスメイトの見慣れた顔があった。教室で、陽祐の一つ後ろの席に座る男子生徒だった。原口という苗字をかろうじて覚えている。必要が生じて二、三度言葉を交わしたことがあった。
「どうかしたか?」陽祐は義理で返した。
「いやさ」原口は顔をしかめる。「なんか、変な感じしないか」
「そうだな――」
 言いながら、陽祐は改めて辺りを見渡した。実際、校内がどこか騒然としていることには薄々だが気付いていた。さっさと教室に向かってしかるべき生徒たちが、立ち止まって話しこんでいる姿は確かに普段と比較して目立つ。校門を潜った時点から、漠然とした違和感がまとわりついて離れないのも事実だった。
「原口。今日、一人でも教師を見かけたか? 生徒は普通にいるけど、なんか先生は誰もうろついてないような気がする」
 教室への廊下を歩きながら、陽祐はそのことに気がついた。言われて合点がいったのだろう、原口も驚きながら同意した。
「そう言えば、生活指導のやつも門のとこにいなかった」
 いつもいるはずなのに、と彼は呆然とする。かつてなかった事態だった。
 教室に入り、始業ベルが鳴った後も事情は変わらなかった。担任がホームルームに出てこない。挙句、全校に向けた校内放送が、緊急職員会議のため一限目の授業を自習とする旨を伝える。教室はちょっとした騒ぎになった。この時点で既に、原口が最初に口にした「何か雰囲気が変だ」という言葉は、その日の校内流行語になっていた。
 受験生ではあるものの、クラスのムードそのものが「大人しく自習を――」といった感じではなかった。陽祐はしかたなく大作と二者会談を行い、友子がいない間の家事の割り当てを決めることにした。夕食については陽祐が準備、大作が後片付けを担当するということで落ち着く。このときの言動から、大作が今朝の手紙の件を全く意識していないことが明らかになった。彼はそれが存在すらしなかったように振る舞い、事実、もう手紙が送られてきたことなど忘れていたのだろう。校内に蔓延する不穏な空気にも、特にこれといった印象を抱いた様子はない。マイペースもここまでくれば尊敬すらできそうだった。
 逆に、手紙の件に大きな反応を示したのが持田明子であった。昼休みに第四の紙片に関する報告を行うや、彼女は陽祐に現物を見せるよう要求し、個人を特定する具体的な記述があったことに着目したのである。
「陽ちゃん、これ大きいよ」
 一読するや、彼女は興奮した様子で言った。
「大きい?」
「そう。これを足がかりに色んな分析ができるようになるよ」
「まあ、確かにそうなんだろうけど」
 これまでも <メーコ> 、 <剛> といった人名と思わしき言葉はあったものの、今回ほど確定的なものではなかった。こうなると、三枚の紙片はいずれも誰かを名指ししていたものではないか――という考えが現実的になってくる。陽祐は自分の考えをまとめ、それについての彼女の見解を求めた。
「それか、そう思わせようという意図による、心理的な工作なのかもしれないね。陽ちゃんの結論に飛びつく前に、私はまずそっちの可能性も考えたいな」
 明子は紙片を凝視したまま言った。その隙をついて陽祐は彼女の弁当箱から幾つか惣菜を盗み、証拠を素早く胃袋の中に消した。明子は全く気づかずに続ける。
「今回、陽ちゃんの叔母さんの名前をフルネームで出すことによって、それ以前の曖昧な分も同じように人名だったんだと思わせる。複数の嘘の中に一つだけ真実を混ぜておくと、他の嘘まで真実に見えてくることがあるでしょ。原理としては似てるね」
「なるほど。今回のフルネームでの名指しは、前のもそうだったと思わせるための誘導装置って風にも考えられる、と」
 陽祐は感嘆の証として小さく唸った。奇術師が演出する幻想的な世界を、明子はロジックをもって打ち砕く。舞台裏に隠されたタネや仕掛けを暴いて見せることにより、幻惑されかけた人間の意識を日常の領域に引き戻すのだ。それによって得られる安心感を、最近の陽祐は持田明子という人間に求めつつあった。彼女と共有する時間が日に日に増しつつある理由の一つだ。
「でも、結構分かってきたような気がする。この紙を送ってくる人、やっぱり陽ちゃんを困らせるのが目的なんだよ。あくまで陽ちゃん個人を標的にしてるね」
 数学の授業で方程式の解を発表するように明子は言った。
「人としてどうかとは思うけど、頭が良い人だと思う。タイミングとか相手の心理をきちんと計算して、うまく陽ちゃんを混乱させるように考えてるもん。陽ちゃんのことをかなり深く研究してて、しかもあまり良い感情を持ってない証拠だよ」
「明子さん、あまり不気味なこと言わないでいただきたい」
「でも、たぶんそうだと思うよ」彼女は真顔で言いきった。「憎いっていうのは、好きの延長線上って部分があるもんだよ。どうでもよかったら関心すら持たないもん」
 明子は、第一の紙片にあった <メーコ> という記述こそが、陽祐への強い執着を示す証拠だと主張した。これはかつての陽祐が明子を呼ぶときに使用していた愛称であり、その時期の陽祐を知らなければ得ようのない情報である。すなわち手紙の送り主は、陽祐本人さえ忘れていそうな古い記憶を共有している人間か、あるいは調べだす熱情を持った人間だと考えられる。
「自分は陽ちゃんのこんなレアなデータまで持ってるんだぞ……ってことアピールしたいんだね、つまり。抑制された陽ちゃんへの愛憎が無意識に作用した結果かもしれない」
「勘弁してくださいよ。本気で怖くなってきた」
「良いこともあるよ」明子はえくぼを見せながら明るく言った。「相手はあくまで陽ちゃん一筋。心理的にも視野はかなり狭まってるはずで、同時に別の何かを行えるような器用さは失われてると思うわけ。だとすれば、やっぱり山下君は無関係だね。例の通り魔も偶然それっぽく現れただけだと思うよ」
「なんでわかる?」
「陽ちゃんが仲良くしてる人を襲うことならあり得るんだよ。私はこんなに陽ちゃんのことを知ってるのに、井上君とかとばっかり仲良くして!……って焼きもちでね。もしかすると私に来る可能性もあるかな。でも山下君とはほとんど話したことすらなかったんでしょ?」
 確かにその通りだった。初めて山下と会話したのは、通り魔に襲われた直後のことだ。そもそも彼に関心を抱き始めたのは、第三の紙片に <剛> という人名と思わしき記述があったからである。それは陽祐と山下を引き離すどころではなく、逆に接点のなかった両者を結びつける効果をもたらしたのだ。悪戯の主が明子の見るような人間なら、理屈が通らない話であった。
「陽ちゃん、どっかの女の子を散々弄んだあげくボロ雑巾みたいに捨てちゃったこととかあるんじゃないの? そういう愛憎の半ばした怨念みたいなのを感じるんだよね」
「また人聞きの悪いことを」
「これは歪んだ愛だよ。かわいさ余って憎さ一〇〇倍だよ。そういう意味じゃ、井上君たちのストーカー説は正しいかも」
 一瞬、 <摩り替わり> のことを考えた。知らないうちに、また違う世界に迷い込んでいたとしたらどうだろう。その移動後の世界が、明子の言ったような「陽祐が誰かに恨みを買った」という条件を備えたものであれば――
「気にくわねえけど、話は合うのかもな」
 ただ、それでも最大の問題は残る。自分を恨むようになった人物が誰か、ということだ。引越しの日に最初のメモが届いてから常に考え続けてきたものの、やはり心当たりは全くない。
「なに、身に覚えがあるの」
 明子の表情に陰が兆し、その両眼がすっと鋭く細められた。
「いや、ない。心当たりも、そんな甲斐性もない」
「まあ、そうだろうとは思ってたけどね」
 再び表情を一変させると、明子は呵呵と笑う。
「なんだよ。人を弄んで喜んでるのはお前じゃねえか」
「女はちょっとくらいなら許されるんだよ。男のお守ができるってだけで世界に貢献してるんだから」
「凄い理屈だな」
「そんなことよりさ、今日ってなんだか雰囲気変じゃない? なんか先生たち忙しそうだし。職員会議って何だったんだろうね」
 形勢不利を悟ったか、彼女はあからさまに話を逸らした。が、教員たちの様子がおかしいのは事実だった。二時間目以降ようやく姿を見せはじめたは良いが、どうにも表情が固く、動きが慌しい。これで不穏なものを感じるな、という方が無理である。生徒たちの間でも広く話題になっていることだった。
「そう言えば、渡瀬と山下も二人仲良くご欠席だしな。一時間目の自習といい、変わったことが多い日ではあるのかね」
 例の通り魔事件以来、陽祐は彼らの動向に注目していたのだが、休みとあっては様子を窺うことすらできない。
「啓ちゃんはともかく、山下君が休みってのも珍しいよね。駆け落ちでもしたのかな」
「さてね」
 結局、放課後に至っても学校側は何のアナウンスも行わなかった。噂好きの明子が「スーツ姿の団体客を見かけた」という証言や「駐車場に見慣れない車が停まっていた」などという話をどこからともなく聞きつけてきたが、確実なことは何一つ分からず終いだった。積極的な生徒が職員室を訪ねもしたらしいが、門前払いに近い扱いを受けたという。まるで戒厳令でも敷いたような物々しい対応に首を捻りながらも、陽祐は大人しく帰路についた。


    2

 ベーシックなスタイルの組織や集団には、規模の大小に関係なくリーダーが必ず存在するものだ。井上友子は入院初日にして、病棟の大部屋にも同様のセオリーが通用することを早くも発見していた。
 友子のベッドが用意された放射線治療科の四人部屋の場合、主として君臨しているのは肺癌を患った七〇代の老婆である。
 矢野と名乗った彼女は何十年も前に夫を見送った寡婦で、三人の子供をほとんど一人で育ててきた俗にいうシングルマザーであった。癌を患うまでは、パートで化粧品の配達をしていたらしい。
 その患者の人間性を知るには、ナースたちの対応を見ていることだ。彼女たちもやはり人間であり、好感の持てる患者とは積極的に接し、世間話や冗談なども気軽に交わしていく傾向にある。反対に、扱いにくい患者には腫れ物に接するような対応を見せることが多い。ナースたちが矢野老人に見せるのは、典型的な前者の姿勢だった。
 小柄で感性が二〇歳は若く、口数はあまり多くないが、人生を楽しむ術を心得た者の陽気さが彼女にはある。反面、皺の中に埋もれかけた小さな眼と静かな佇まいに、どこかしら諦観の念を漂わせた女性でもあった。二、三度話せばその聡明さが直ちに知れるタイプで、友子が持ち込んだノート型パソコンに強い関心を示すなど好奇心が強い。知識と技術にものを言わせる治療より、心を込めた看護の方がより重要で高度な医療行為だと信じている様子で、医師には厳しかったが、看護師たちには立場が逆転して見えるほど親切だった。
 彼女はもう何年も闘病生活を経験しており、癌の影響で骨密度が極度に低下したせいで、一時は寝たきりに近かったという。現在は身動き程度ならできるまでに回復しているが、転倒すれば骨折は免れないため車椅子を利用している。原発は肺。だが、既に癌は脳にも転移し、これの治療のために放射線治療科に入院している。他にも視神経に近い部分に放射線を照射する必要があるので、慎重に少量ずつ回数を重ねるやり方で治療を進めていくほかないこと――癌以外にもリウマチや高血圧、不眠症などを抱えていることなどを、彼女は淡々とした口調で友子に明かした。
 病歴の長さ、室内における年齢順位、病状の深刻さ。友子の考えが正しければ、この三大要素を一つでも多く備えている者が大部屋の首領格として認められるようだった。矢野老人は、全てを兼ね備えた文句なしの部屋長なのである。恐らく、他の大部屋でも彼女と似たような立場にある人間が、場を取り仕切っているはずだった。
 ただし、全ての長が矢野老人のように皆から慕われているというわけではあるまい。敬意を受けつつ人の上に立つというのは、非常に難しい。病棟の外でも言えることであった。
「井上さんは、どうされたんですか?」
 しばらく寝食を共にする同室患者と挨拶を交わすと、友子はさっそく彼女たちに取り囲まれた。もちろん矢野老人の姿もある。恐らく新顔が入ってくる度に行われる恒例行事なのだろう。
「癌なんです。喉のところにできたらしくて」
 友子は身を縮めながら言った。命に関わる病である反面、癌とはいっても自分のそれは大げさな外科手術を受ける必要があるものではない――という意識がある。生きるか死ぬかの闘病なのだから胸を張ってこの場にいるべきだと考える一方で、喉のちょっとした腫瘍程度で大騒ぎするのは、真に大病を抱えた人間に申し訳ないという気持ちもあった。
「ノドですか。甲状腺とは違うんですよね」
 二〇代半ばから三〇前半程度と思われる若い娘が、首を傾げながら言った。治療のせいで顔がむくみ、眼が充血しているように見えたが、本来は整った綺麗な顔立ちをしていそうである。若いせいか、言葉は限りなく標準語に近い。彼女は悪戯っぽく続けた。
「私も、実は甲状腺なんです。去年の暮れに摘出して」
「甲状腺ですか。すみません、前立腺とはどう違うんでしょう」
 友子が問うと、イヤだ、と言いながら娘と矢野老人が笑う。彼女たちが言うには、前立腺は男性にしか存在しないらしい。したがって前立腺癌という病気も、男性しか発病し得ないとのことだった。
 話を聞くと、室内最年少の娘は二八歳の大学院生で、去年から学校を休学して闘病生活を続けているとのことだった。
 彼女の癌が見つかった甲状腺というのは、喉仏付近にある蝶ネクタイのような形をした内分泌腺で、これは身体の調子を管理するホルモンの働きを制御している。
 本人の話によれば、彼女は癌を取り除くために甲状腺を丸ごと摘出するという大きな手術を受けたという。指摘されて初めて気付いたが、確かに首の皺に沿って術後の傷跡が見て取れた。
「喉の臓器を丸ごと切り取ったんですか」
「そうです」娘は憂いなく言った。「だから、私の身体には甲状腺はもうないんです」
 盲腸でもあるまいし、人間の身体に不必要な臓器がそうそうあるとは思えなかった。ホルモンの分泌を制御する役割があるというなら、甲状腺はなおさらである。それを全摘出して、どうやって生きているのか友子には不思議でならなかった。
「私は、 <RI> っていう放射能を飲み込む検査を受けなきゃいけないんです」娘は、朗らかだった表情を一瞬で曇らせた。「隔離室っていう、何もない所に何日も閉じ込められるみたいで」
「放射能を飲むんですか」友子は驚いて聞き返した。
「普通、放射線は外側から身体に当てますよね。それの逆で、身体の内側に放射性物質を取り込んで治療したり検査したりするのがあるんです。アイソトープ。私がやることになったのはそれ」
 誰かに聞いて欲しくて仕方がなかったのだろう。娘は時間が限られてでもいるかのように、勢い込んで言った。
「放射能人間になるから、他の人に害が及ばないRI病棟の部屋に閉じ込められるんです。核廃棄物みたいな扱い。ドアが二枚もあって、部屋中に放射能汚染対策のビニールとか貼ってあるらしいんです。そういうのの専門管理区域だから、家族も中に入れないんですよ」
 友子は驚きながら話を聞いていた。同じ癌といっても、壮絶な治療もあるものである。
 分かってはいたことだった。一歩この放射能治療科――通称 <放治科> に足を踏み入れたときから、友子はそこが戦場であることを理解していた。
 放射線による治療を必要とするのは、その大部分が癌患者である。癌になるのは比率として年配の人間が多いため、やはりフロアを行き来する人間や、待合室に並ぶ者には相応の年齢を重ねた者が多かった。中にはエジプトのミイラのように全身を包帯で巻き覆われた者や、矢野老人のように車椅子で移動する者もある。頭にバンダナを巻いている人間も男女を問わずよく見かけた。病室を案内してくれたナースに理由を問うと、頭部に放射線を当てるとき頭髪を剃り落としたり、抗癌剤の副作用で毛が抜け落ちたためだという答えが返ってきた。
 脱毛するほど強力な副作用を持つ薬など、かつて聞いたこともなかった。しかしそれは、癌病棟では決して珍しくないものなのだ。頭髪が抜け、視力が落ち、口内にカビが生え、味覚が無くなり、声が失われ、臓器が欠け、薬の副作用で別の新たな癌を患う。それが闘病なのだった。放治科とは、命を繋ぐために相応の代価を支払うことを覚悟した人間の住処である。
 友子はようやく、自分の患った癌という病の重さが理解できたような気がした。

 一八時になると、友子は同室の患者たちに引っ張られて、院内食堂に向かうはめになった。原則として病棟での食事は自室と食堂のいずれでもとることができるが、今日は歓迎会の意味も含めて全員で食堂を選択するのだという。友子は矢野老人の車椅子を押した。
 放治科の食堂は、広く清潔感のある大部屋だった。採光性に優れた大きな窓が幾つもあり、柔らかいパステルイエローの壁紙がアットホームな空間を演出している。大人六人が余裕をもって座れる長テーブルが三セット置かれていて、部屋の隅には卓袱台が設置された四畳半ほどの和式スペースもあった。他にもTVや自動販売機はもちろん、小さな冷蔵庫、流し台、給湯器、電子レンジ、使い方の簡単な電気ポットなども揃っている。お茶やコーヒー程度なら自分で淹れることもできるようだった。
「普通の食事ができるのもこれが最後だな」
 甲状腺癌の娘が、箸で大根のそぼろ煮を突きながら嘆息した。
「どうしてですか?」
「低ヨード食というのがあるの」
 友子の問いに答えたのは、本人ではなく矢野老人だった。闘病生活が長く、また大部屋の主として大きな人的ネットワークを誇る彼女は、院内の事情に深く通じている。様々なケースを見届けてきており、娘が受ける予定のRI検査にも詳しかった。
 彼女と娘本人の話によれば、RI検査を受ける者はその数日前から下準備を行う必要があり、ヨードの摂取を一切禁じなければならないらしい。ヨード――すなわちヨウ素は海草や魚介類、また卵などにも含まれるので、これらを利用した料理を全く口にすることができなくなるのだった。
「井上さん、榎本さんのことは許してあげてね」
 内陸部特有の岩手訛言で、矢野老人は呟くように言った。表情こそ変わらないが、まるで自分の責任であるかのように眼が悲しみに揺れている。
「彼女、具合が悪いんですか?」
 友子が問うと、老人と娘は何とも言えない沈黙でそれに答えた。
 榎本靖子は、友子が入った四人部屋の入院患者である。年齢は、恐らく還暦を超えているだろう。ずっとベッドに寝たきりで、挨拶をしたときも「どうも」の一言しか返さず、その後も部屋仲間たちの会話に一切関わってくる様子がなかった。この夕食会にも一人だけ参加していない。
 意識がないというわけではなかった。衰弱しきった様子ではあったが、眼に意志の力が宿っていたのを友子は確認している。本人の気持ちの問題なのだ。
「――榎本さんは、私と同じ肺の人なのだけどね」
 矢野老人は寂しそうに言った。
「あの人の場合は見つかったときから末期で、開いて取るということもできなかったの。私はモルヒネが良く効くけど、あの人は逆の体質みたい。吐き気が特に酷くて、食事ができなくなってね」
 矢野老人は直接的な表現を巧みに避けたが、癌のもたらす苦痛が闘病患者の人格を変えてしまうことがある事実を暗に語った。
「看護婦さんたちも気の毒で。彼女たちが言うには、とても明るくて感じの良い人だったそうなのよ。冗談で人を良く笑わせてね。皆に好かれていた。努力家で気骨のある方だったし、体力もあったから治療にも一生懸命だったそう。だから歩けなくなって、立てなくなって、当たり前にできたことが一人ではできなくなったことがとても辛かったんでしょうね」
 自立心が強かっただけに、人一倍苦しんだのかもしれない。吐き気止めもほとんど効果を見せず、鎮静剤も役に立たなかった。稀にそういう気の毒なケースが見られるのだ、と老人は続けた。
 それでも気丈に振舞い続けた榎本女史だったが、次第に気力を萎えさせ、ついには小言を呟くようになった。看護婦の些細な態度に難癖をつけ、最終的にはかつて見せなかった形相でスタッフたちを罵倒するようになった。
「だんだん酷くなってね、一月前まではご家族も良く顔を見せて楽しそうにしていたんだけど、少しずつ足が遠退きはじめて。今ではもう、ご主人がたまに顔を出されるくらい。それでも会話もなくてね。看護婦さんたちもやることだけはやって、後は触らぬ神に……ってなるでしょう。どんどん独りになってね」
 色々な患者を見て来たが、彼女のような場合は最も辛いものだ、と矢野老人は締めくくった。
 誰が悪いわけではないのだろう。本人の意思が弱かったのではない。癌という病は、時に肉体だけではなく人の精神まで蝕んでいく。それに抗うことができないこともある。そういうことなのだ、と友子は考えた。
「病気って難しいんですよね」
 禁ヨード食や隔離室のことで無邪気に騒いでいた娘は、一転、神妙な顔つきで言った。深刻な問題を抱えているのが自分だけではないことに改めて気付かされたのだろう。それは友子も同じだった。
「転院した人のことなんですけど、私と同じくらいの歳の患者さんがいたんです。子宮に悪いでき物があったそうなんですけど、それが難しい上に珍しいケースで、治すためには子宮を全部取り除かないと駄目だってことになったらしくて――」
 彼女はわかめの入った味噌汁に視線を落とし、箸で中身をゆっくりとかき混ぜながら続けた。
「子供を欲しがってる人でした。だから旦那さんとも色々揉めたらしいんですけど、結局、そうしなきゃ自分が助からないからって子供を諦めて。凄くショックを受けてるみたいでした」
「気の毒に――」
 自身、大作に妹か弟を作ってやりたかったが、夫の死で諦めざるを得なくなった経験がある。自分の比ではなかろうが、友子にはその患者の無念が分かるような気がした。
「その人、たまに一人でゴメンねって、思い出したみたいに誰かに謝ってるんです。最初分からなかったけど、今思えば、産めなかったお子さんに謝ってたのかもしれないなって……」
 新しい命と自分の命を天秤にかけ、嫌でもどちらかを選択しなければならない人間もいる。そのことに自分も衝撃を受けたのだ、と娘は語った。
 そうしなければならないような雰囲気があったので、友子も自分の知っている話を一つだけ披露した。学生時代の友人の話である。
 法学部の学生であったその男性は、成績の優秀な将来を嘱望される若者だったが、父親が癌に倒れたという知らせを受けて学校を辞め、田舎に帰った。
 既に末期で余命数ヶ月と宣告された彼の父親は、入院ではなく自宅での死を望んだ。母親も身体が弱かったため、彼が両親を一人で看護する形となった。余命幾ばくもないと思えば、彼はそれも当然の務めだと思って努力した。
「いい話じゃないですか」娘が微笑む。
「そう、とても良い人たちなの。最初は休学で済ませるつもりだったけど、やっぱり何も考えないで側についていてやりたいからって、その友達が退学を決めたときは私も感動してね。友達の間でカンパ集めたりして」
 ところが、父親は死ななかった。五年半生きた。
「残り数ヶ月だって言われてたところを、一年生き延びたって時には皆が大喜びしたのよ。二年間生きられたときもそうだった。でも、三年経って四年が経って、それでもまだ生きてる。そうなってくると、家族としても少し微妙な気持ちになってくるみたいなんです」
「癌は転移の仕方なんかによって、随分と進行の早さが違ってくるもんだからね」
 矢野老人には、既に友子の話の行き着く先に察しがついていたようだった。遠くを見るように視線を宙にさ迷わせている。
「そうなんです。彼のお父さんは、通院を続けながら皆の予想より何年も長く生きたんです。それは喜ぶべきことだったんだけど、残された短い時間を幸せに生きてもらうためにって、自分の将来を捨ててまで帰って面倒みてきた息子さんは複雑なんですね。五年も生きられるなら、学校を辞めずに卒業してから帰ることもできた」
「無理に生かす、諦めるっていう問題もあるものね」
 老人がしみじみと言った。
「事故で頭打って、意識が戻らなくなった若い人がいるらしんですよ。ここの病院には救命センターがあるから、そういう人が良く救急車で運び込まれてきてね。植物状態っていうのかねえ。身体には傷もなくて綺麗なものなんだけど、全然意識がもどらない。お医者様にも、明日眼を覚ますのか、ずっと戻らないのかは判断がつきにくいこともあるそうでね」
 患者が子供であったりすると、親は絶対に意識は戻るものだと信じたがる。だが、TUT病院は基本方針として、三ヶ月間経過しても意識が戻らなかった場合、呼吸器を外すよう助言するのだという。意識を失って三ヶ月を経験した患者は、ほとんどの場合、永遠に意識を取り戻すことがないからだ。
「でもねえ、看護婦さんなんかに話を聞くと、時々は奇跡みたいなのが起きるみたいでね。実際、半年近く寝ていて眼を覚ました若い娘さんもいるそうなの。そういう話を患者の親御さんが聞くとね、自分の子もそうだって、なかなか諦める気になれなくてね。人情としてはどんな姿でも長く生きていて欲しいものね。逆に、本人を無駄に苦しませないためにも呼吸器を外して楽にしてやるべきだって言う身内も出てくる。結論を任された人は大変」
 どちらが正しいというわけではない。恐らく選択者はいずれをとったとしても罪悪感を禁じえず、自分の決定は本当に正しかったのであろうかと長く悩み続けることになるだろう。
 後悔しか生まない選択もある。そうと分かっていながら択一しなければならない局面が人生にはある。
 日本人の半分は一生のうちに何らかの形で癌を患い、三人に一人は癌が原因で死ぬのだ、という統計上のデータを矢野老人は披露した。即ち、命の選択は決して他人事ではなく、誰もが一度は経験する類の問題なのだ。
 なのにどんな時も、選ぶというのは辛く難しい。
「なんか私、何日か隔離室に入るくらいでキャーキャー言って」
 食事を終えて病室に戻る途中、矢野老人の車椅子を押しながら甲状腺癌の娘が言った。恥じ入るように顔を伏せている。
「隔離室に入るのは不安でしょうからね」
 老人が車椅子の上から言った。視線を廊下の奥に固定したまま、淡々とした口調で続ける。
「でも病気になってしまったら、誰でも大変な思いをする。軽いとか重いとかじゃなくてね。幸せを比べあっても意味ないでしょう。大変なことも同じ」
 彼女は月ものの話を引合いに出した。自分は大したことなどなく、それほど苦痛に思わなかったが、妹は違ったという。月経の重さは人それぞれ違う。自分が苦痛に思わないからといって、他人がそうであるとは限らない。
 病も事情は変わらないのだ、と彼女は言った。おなじ名前の病気でも、経過や痛み、苦しみは患者によってまったく異なる。問題は教科書の示す五年後の生存率や病名などではない。
「だから、誰が誰より大変とか、辛いとか必要以上に考え込まなくて良いの。お互い、一生懸命頑張っていかないとね」
「――はい」
 娘は治療のせいで充血した眼をさらに赤くしながら頷いた。
 彼女も友子も、矢野老人の病を知っていた。肺癌が大きく育ち、全身の骨にまで浸潤して空洞化を引き起こし、脳にも転移している。助かる見込みはないだろう。遠からず最期の時がくる。恐らく本人を含め、誰もが承知していることだった。
 その彼女の言葉だからこそ、意味があった。
 人間、四〇を過ぎて人生も下り坂に入れば、酸いも甘いも噛み分け、人の世を知り尽くしたような気になる。だが眼の前にいる七〇の老女に触れていると、真の達観や諦観といったものが、もっと別の場所にあるのではないかという気がしてくるのだった。
 人間ひとりが生涯のうちに見聞きし、認識できる情報など高が知れている。一人格が価値観や思想を並列的に複数維持することは大変な困難であるし、多様性が人間社会を形作っているのなら、人は結局、主観というフィルター越しにその側面を覗いているに過ぎないことになる。
 世界は未知に満ちている。それを実感し、七〇になっても謙虚でいられる者は限られているだろう。
 自ら死に至る病を抱えてなお、数日で検査を終え、放治科から去っていくことが分かっている若い娘に対し、「皆それぞれに辛いのだ」と言える懐の深さは、今の友子には及ぶべくもなかった。
 井上友子の患った上咽頭癌の五年生存率は、教科書通りなら約五〇パーセント。大作が社会に出て行くのを見届けられる可能性は、それほど高くない。
 それでも断固として戦い抜くには、矢野老人のような強さが必要なのだった。


    3

「諸岡さん、お待たせしました」
 助手の深町が重たいガラス戸を押し開いて、小走りに駆け寄ってきた。後ろに、スーツ姿がまるで様になっていない青年を二人引き連れている。今回、研修の名目で現場への同行を命じられた新入社員たちだ。いずれも四年制大学を出たばかりの二二歳、男性である。
「――吉田」諸岡悟子は新人の一人を見据えた。「見ての通り、ここが今回、経営再建を任せてもらった <野沢商店> よ。今の時点で貴方が指摘できる、この店舗最大の特性は?」
 五秒ほど待って、悟子は視線を横にスライドさせた。もう一人の新人に同じ質問を繰り返す。今度は二秒間与えたが、思考するばかりで口を開こうとする気配はなかった。
「なんのために運転手と一緒に駐車場まで行かせたかを考えた?」
 悟子は入社二年目の助手に顔を向け、彼に先輩らしく振舞う機会をやることにした。
「深町。初回訪問の際、ドアを開けようとする時点までに発見しておくべき最大のポイントはなに」
「車による来店の不便さです」
 この商店街は、自動車がすれ違う際は互いが速度を落とさなければならないほど道幅が狭く、駐車場も数が少ない上に規模が小さい。しかも全てが有料ときている。半世紀前、歩行者を主体とした商店街として成立したためだった。一〇〇メートル近く離れた有料駐車場まで運転手につきあうよう研修員たちに命じたのは、そうした事情を実感させたかったからだ。
「現在、このような個人経営の小売店から顧客を奪う大型店や百貨店は、三桁クラスの自家用車を収容できる大型駐車場を備えているのが特徴の一つ。田舎は公共の交通運賃が高い上に利便性が低く、車社会が成立しやすい。にも関わらず商店街の構造上、野沢商店が駐車スペースを新たに確保するのは物理的にも金銭的にも不可能。この店が抱えるウイークポイントの一つは、深町の言うように自動車による買い物客を望めないことよ」
 もっとも、これは昔気質の商店街が宿命的に抱える特徴に過ぎず、駅に通じた大通りにあるという地理的条件を加味すれば致命的な欠点にはなり得ない。
 初歩的で単純な理屈だが、その講釈に新人たちは無邪気な感嘆の声を漏らした。悟子は手振りで彼らを黙らせる。そして、今後いかなるタイミングでどのような質問を受けても迅速に意見できるよう、眼に映る全ての物事を観察し、分析し、適当に処理するよう指示した。
「今日は責任者と一緒に店内を回って、そうした外的な要因によるものではない、当店が抱える固有の問題点を抽出していく」
 悟子は三人についてくるよう命じ、二階の事務室へ向かいながら続けた。
「それを持ち帰って対応策を練り、店舗改築案やシステム改善案にフィードバックさせるのが現段階における我々の仕事。研修中とはいえ給料貰ってるんだから、その分はきっちり働いてもらうわよ。自分が任された仕事だと思って眼と頭を使うように。明日、レポートを提出。及第点をとるまで研修は終わらないと思いなさい」
 事務室をノックした悟子たち四人は店主と挨拶を交わし、彼を連れて再び一階の売り場に戻った。午後二時の店内は客足も疎らで、本来あるべき活気や喧騒などがまるで感じられなかった。暇をもてあましたパートの店員が好奇の眼を悟子たちに向けてくる。閑古鳥が鳴いてますね、と他人事のように呟く店長の声を無視して、悟子は最寄の売り場へ雛鳥たちを先導した。
 小売店の経営建て直しにおいて最も難しいのは、新システムの構築でも店舗としての個性の獲得でも、商品力の強化でもない。経営者の意識に変革をもたらすことだ。他は金と理屈でどうとでも変えられるが、人間の心の持ちようを新たにさせることは難しい。
 それは野沢商店の場合も同じだった。不況の中でも立派に生き残る小売店はある。結局のところ野沢商店を傾かせたのは、経営者の手腕と意識に問題があったからなのだ。しかし、経営者という名のクライアントは、自社スタッフと違い無能だからといって切り捨てるわけにも、挿げ替えるわけにもいかない。
「――まず、こういったプライスカードです」
 悟子は、店長と新人たちをコショウなどの小型調味料を陳列したコーナーに引き込んだ。各商品の下には値段を表示するプライスカードが並んでいるが、色あせて黄ばんでいるものがあるなど新旧が入り乱れている上、紙の種類や表記方法に統一性がなかった。中にはインクが薄れたり滲んだりして、値段や商品名を正確に読み取れないものまである。
「紙や表記方法は統一してください。見にくく、見苦しくもあります。古いカードの上にシールを重ね貼りしていくのもタブーです。定期的にチェックを入れて、値札の位置がずれていないか、古くなっていないかなどを確認、管理してください」
 悟子の言葉に、店長の野沢は恐縮した様子で何度も頭を下げた。が、神妙な面持ちをしているだけで、己の不備がもたらす弊害については真に理解が及んだ様子もない。一度、売り場の管理を徹底して行っている個人経営のスーパーに引っ張っていき、その格差を実感させる必要があるかもしれなかった。意識改革にはカルチャーショックをもってするのが効果的である場合もある。
「このPOPカードもそうです」
 悟子は一行を精肉コーナーに引っ張っていき、パック詰めされた豚肉に埋もれかけているPOPを掘り出した。雑然と並べられているのは、 <いわてやまと> と言われる特産品で、資料添加物を使わない肥料で育てられた質の良い豚肉である。いわゆるブランド品なので、どこの店でも置けるというものではない。野沢が、かつて隆盛を極めた老舗であるからこその一品といえる。コーナーの目玉として強くプッシュすべき商品だが、扱いの悪さで商品価値が殺されていた。
「POPの素材、ペンの種類にもこだわるくらいの気持ちを持ってください。書き方にもセオリーがあります。また、寝かせて置くとお客様が商品を触れ回しただけで埋もれてしまいますので、スタンドを利用して見やすく、また売り場の入り口から見えるよう立体的に配置してください」
 店内演出は単なる飾りではない、と悟子は繰り返し訴えた。ディスプレイも内装も、全ては販売促進活動の一環に過ぎないのだ。これに効果をなさなければ何の意味もない。重点商品の在庫を適度に確保し、これを適切な時期に適切な場所へ配置して、速やかに販売目標を達成するのが小売店の基本なのだ。
 次に、悟子は再建案の要になるであろう惣菜の売り場に足を進めた。手作りと一目で分かる様々な惣菜が、無秩序に放り出された一帯だった。パッケージが地味で、持ち上げて裏面のシールを見なければ値段以外の商品情報が全く分からない。
 年中変わらないラインナップなのだろう。日替わりメニューも貧弱なら、季節感を出すために旬な素材を使った商品を出そうという気も窺えなかった。二時に揚げたてのトンカツを出して誰に買わせるつもりなのだろう。五時に夕餉の食材を求めに主婦が集ったときには既に冷え切っている。
「個人経営のスーパーが最大の武器とすべきは惣菜です」
 悟子は全商品を観察し、そのポテンシャルを確かめながら言った。
「深町、その理由は?」
「はい。惣菜は大量生産が難しく、地域密着型の商売に向きます。購入場所を統計的に見ても、デパートやコンビニと比較してスーパーの比率は断トツです」
 流石に二年間仕込んできただけあって、彼の反応は早かった。もっとも、これは悟子がかつて語ったことの受け売りなのだ。評価するほどのことでもない。
「野沢店長、惣菜の強みは他にもあります」悟子は幼児に諭しかけるような口調で言った。「粗利益率は六割以上を見込めますし、在庫を抱えるリスクもありません。設備投資もスチームコンベクションオーブンが精々で手軽。女性の社会進出、単身赴任や高齢者の一人暮らしの倍増など、惣菜に対するニーズは年々高まりつつあります」
 大型店舗やデパートでは大量生産と安全管理を両立させる必要があり、どうしても惣菜の品質を落とさざるを得ない。その点、地域密着型の野沢商店は、丹念に作り上げた手作り惣菜で個性をアピールできる。
 それに、惣菜を買うのに車はいらないのだった。この商店街は自動車が入りにくい反面、駅への通り道であることから徒歩の通行人が多く、登下校中の学生や仕事帰りの社会人の利用を見込める。遠くから足を運ぶデパチカといった雰囲気ではなく、日に複数回利用できるコンビニ感覚を演出し、質の高い焼き立てパンと店内で調理した商品をそのまま並べる惣菜の店としてアピールするのだ。野沢に行けばパンから惣菜まで新鮮な手作り料理が豊富に揃う――そうしたイメージを定着させるのが、野沢商店再建計画における悟子の基本戦略であった。
 半時間近くかけて店内をざっと見て回ったあと、全員で二階の応接室に戻った。次に悟子が始めたのは、平面図のラフスケッチを用いた店舗改築における基本方針の確認である。幾つかの素案を提示し、それぞれの特徴を解説して意見を募る。いずれの案においても、惣菜コーナーとインストア・ベーカリィをオープンキッチン構造にし、狭苦しい出入り口の幅を広げるという点に関しては共通していた。
 どの場合でもそうだが、クライアント側が一番はりきるのが改装案を具体化するときだ。マイホームの間取りを決めるのと似た感覚で、自分の城造りに好んで首を突っ込みたがる。野沢の店主もこのときばかりは積極的に意見や要望を出し、ディスカッションは午後五時まで続いた。
「ちょうど良い時間帯だから、貴方たちは店先で通行人の流れを良く観察しておきなさい」
 野沢商店を辞去して通りに出た悟子は、二人の研修生に命じた。それから助手の深町を促して駐車場に向かう。
「諸岡さん、これから娘さんのところですか?」
 慌てて後を追ってきた彼が、隣に並びながら言った。
「ええ、悪いけど。――明日は仙台でセミナーの講師役をやらされる予定だから、揃えといた資料を確認しておいて。時間が許せば例の太白のカフェと、名取の <サントウレ> の様子を見て回るつもりだからその分も。あと、明日一番にレポートを出すよう研修の連中に言って、受け取っておくように。貴方は私が帰るまでにそれを採点しておくこと」
 その他に幾つか指示を出し、新人たちと充分に距離をとったのを確認してから、悟子は一万円札を二枚、深町に渡した。
「今夜もし都合が良ければ、彼らを飲みにでも連れて行ってやって頂戴。ただし、私の名前は極力伏せるように。話題にするのも法度」
「諸岡さんの奢りなのに」深町は紙幣を懐にしまい込みながら不思議そうな顔をした。「何でです?」
「指導員は嫌われて何ぼ。話せる上役は貴方ひとりで充分よ」
 駅まで乗せていくという申し出を断り、悟子は深町が車ごと消えていくのを見送った。腕時計で時間を確認してから、来た道を折り返してバス停に向かう。TUT付属病院に到着したのは五時半だった。既に、頭の中には梓のことしかなかった。
 梓の患ったもののように、国が難病指定し、その研究対象とする病気がこの世には幾つかある。そうした指定難病の患者は、助成金などの特別給付が受けられる半面、代償として面倒な書類による手続きを行わなければならない。臨床調査個人票、重症度認定申請書兼診断書、世帯調書などはもちろん、生計中心者の所得状況を証明する書類に至るまでを保険所に届け出る必要があるのだ。
 保険会社も病状の変化にはナーヴァスで、入院日数の証明や医師による所見、予後の見通しなどを細かに知りたがる。本当に入院する必要があるのか、その気になれば通院に切り替えられるのではないか、不必要な治療を行っていないか等々、モラルハザードを警戒する彼らは自社の顧問医療団にそれを確認させなければならないのだ。
 就職したての新人が、最初の仕事として職場での書類の書き方から覚えなければならないように、一端の闘病者としてやっていくためには煩雑な事務手続きに慣れる必要があった。
 そのことを初めて知ったのは、もう何年も前のことだ。証明書類の発行を依頼しに外来病棟へおもむく度、悟子はいつも当時のことを考える。
 一月ぶりに足を踏み入れた外来病棟の一階フロアは、平日の日暮れ時だというのに混雑していた。そこらを駆け回る子供や無言で肩を寄せ合う二人連れ、携帯電話に語りかけるスーツの男と、多種多様な人間が集っている。誰かが咳き込み、その音が辺りに反響した。
 必要書類はあらかじめ受け取り、自宅で記入を済ませている。悟子はスーツのポケットから財布を出し、梓の診察券を抜き取りながら整理券発行機前にできた順番待ちの列に並んだ。
 外来病棟の雰囲気は、市役所にどことなく似ていた。古くなった蛍光灯が瞬く薄暗いフロアには、それを取り囲むように各セクションの受付カウンターが配置されている。その様は、病院という非日常的空間に迷い込んだ人間たちを包囲し、自らの体内に取り込もうとしているようにも見えた。実際、悟子たちはもう何年も非日常の世界に囚われて抜け出せずにいる。
 並んでいた順番待ちの列が縮み、悟子がそろそろ最前列に至ろうとしたときだった。
「――秋山さん」隣の窓口の受付が、フロアに向けて小さな呼び声をあげた。「秋山ようすけさん」
 応じてカウンターに歩み寄ったのは、二〇歳前後の若い男だった。青年というよりは、どちらかというと少年に近く見える。紺色をした無地のシャツに青いジーンズという簡素な装いが、まるでその格好で生れ落ちたかのように良く似合っていた。中肉中背、髪は黒く、短くも長くもない。あまり身嗜みに頓着しない性格なのか、後頭部のあたりに微かな寝癖のあとが見てとれた。しきりと周囲に視線を巡らせているあたり、病院という場所に不案内なのかもしれない。
 悟子は順番待ちの列を離脱し、ホールの片隅で愛用のシステム手帳を広げた。付箋を付けておいたページを開くと、四人分の氏名と四つの住所がリストにされている。二日前に受け取った怪文書の内容を、編集して書き写したものだった。一覧の最後に、秋山陽祐とある。住所は白丘市北区一丁目六の四。ここから遠くはない。
 悟子はもう一度、少年の後ろ姿を窺った。彼がリストにある秋山陽祐である確率はどれほどあるだろう。秋山という姓と、ヨウスケという名は別個に考えればさほど珍しいものではない。だがセットとして見るなら、白丘市内で二人以上見つけ出すのは難しいだろうと思われた。
 悟子はカウンターに並べられた案内書を物色する風を装って、少年に接近した。困惑したような表情を浮かべて受付係と交渉する彼は、悟子の存在を気取った様子もない。肉声を拾える距離に至ると、歳のわりに落ち着いた少し低めの声が耳朶に触れた。初診、紹介状といったような言葉が切れ切れに届いてくる。
 しばらくすると、秋山のジーンズのポケットで携帯電話が振動しだしたのが分かった。同じことに気付いた彼は、抗議を諦め渋面でインフォメーションを離れていく。そのまま人気の無いロビーの隅に早足で向かいながら電話に出た。後を追おうかとも思ったが、屋外にまで出ようとは思っていないらしい。その場に留まり、距離を置いた観察を続けることにした。
 結局、彼はものの数分で通話を終えて、フロアの中心部に戻ってきた。様子がおかしいのはすぐに分かった。溺れた人間が酸素を求めるような勢いで、大型TVの設置されたコーナーに走りよっていく。
 悟子はこのときになって初めて、秋山の目指す先に不自然な人集りが形成されていることに気づいた。薄型液晶TVの周囲に設けられた椅子は全て埋まり、立ち見の人間までが四方八方から詰め寄せている。しかも、何となく眺め観ているといった感じではない。誰もが食い入るようにして画面を注視していた。
 悟子は、秋山と適当な距離を維持しつつ人の輪に加わった。最近は仕事に闘病にと忙しく、TVを視聴したり新聞を読んだりという日常からは遠ざかっている。時事に関しても知らないことの方が多い。為替相場も知らなければ、人気のドラマにも話題のニュースにも心当たりがなかった。
 真下に「医学部卒業生寄贈」のプレートをぶらさげたTVは、夕方のニュース番組を映し出しているようだった。マイクを片手にした民放の女性レポーターが、強張った表情で屋外からの生中継に挑んでいる。画面右上には、 <白丘市で若い男女 死傷> という真っ赤なテロップが印象的に踊らされていた。
 要約すれば、この病院からそう遠くない公園で、血塗れの二人の男女が発見されたという事件らしかった。女の方は発見されたとき既に死亡しており、遺体などの様子から二、三日前に絞殺され、公園に運び捨てられたと見られているようだった。二〇代と思われる若い女だったそうだが、身元の方はまだ明らかになっていない。
 もう一人、同じように倒れているところを発見された男だが、こちらは既に山下剛という市内の高校生であったことが明らかになっていた。彼は背中をナイフで刺され、更に頭部を含めた全身数箇所を強打されていたというが、幸いにも命までは奪われなかったようである。
 ロビーの客たちが騒然としているのは、重傷を負った彼が、このTUT病院に搬送されたと報じられたからだろう。検屍や司法解剖が一般の外部機関に委嘱される地方の事情などを考えると、殺された女の身柄も一旦はTUTの法医学教室に引き取られた可能性がある。陰惨な殺人事件の被害者が自分たちのいる施設内に運びこまれたと聞けば、ロビーの野次馬たちに広がる動揺も理解できるような気がした。
 悟子は画面から一旦視線を引き剥がして、群集から距離をとった。秋山がまだTVに釘付けになっているのを横目で確認しつつ、思考に徹して本件のポイントを素早く三つに絞る。
 最も注目すべきは、この病院に運び込まれ緊急手術を受けたという山下剛が、恐らく手元のリストに名を連ねた <山下剛> と同一人物であろうことだ。
 二日前に受け取った怪文書のオリジナルによれば、山下剛は七月一六日に外傷を遠因にして死亡するとある。
 報道内容を信じるなら、山下は重傷を負って大変危険な状態にあるらしい。一晩かけて行われたオペは成功したと発表されているが、それはあくまで医学上の技術的な問題だ。彼はなおも集中治療室に置かれており、意識の回復には至っていない。なるほど、容態が悪化するなり植物状態に陥るなりして、三ヵ月後の七月に息を引き取ってもなんら不思議はない状況だと言えた。話は合う。
 二つ目のポイントは、例の手紙に何らかの形でその名が記載された五人――すなわち持田明子、山下剛、井上友子、秋山陽祐、そして梓のうち、既に三人までがTUTに入院しているという事実だ。
 山下の件は裏を取る必要があるが、井上友子に関しては本人と話した上、病院側に入院の事実を確認してある。咽喉の疾患で入院した井上友子を見舞いたいと申し出るだけで、受付は放射線科にある彼女の病室を教えてくれた。井上友子は咽頭癌なのだ。
 梓に関しては今更どうこう言うまでもない。
 つまり、死亡が予見されている四人のうち、持田明子を除く全員がこの病院にいて、実際にいつ最悪の事態に至ってもおかしくない状態にあるということになる。もはや偶然で片付けられる範囲を超えていると言えるだろう。
「あの手紙、ブラフではなかった――?」
 思わず口をついて出たが、それを断定できる段階にはまだなかった。慌てて結論を引っ込める。ただ確率が高まっただけだ。
 気付くと、乾燥のあまり張り裂けそうなほど口内が乾いていた。バッグからミネラルウォータの五〇〇ミリ型ペットボトルを出して、一気にあおる。半分ほど残っていた中身を飲み干しかけたとき、視界の端に置いていた秋山が動いた。TV周辺に出来た人の輪から離れると、彼は土気色の顔をしてふらふらと出口に向かっていく。ペットボトルを仕舞って、気付かれないよう――足取りを見ればその心配は皆無に近かったが――慎重に後を追った悟子は、彼が駐輪場に停めていた自転車に跨るのを確認した。
 秋山はそのまま正面ゲートを潜り、病院敷地外へ姿を消した。一瞬迷った後、悟子はロータリィになった外来病棟前のタクシー乗り場に引き返した。空車表示の一台に乗り込み、行き先として秋山陽祐の自宅住所を指示する。白丘北一丁目といえば、TUT付属病院からだと五キロ近い距離がある。彼が真っ直ぐ帰宅するとしても、タクシーを使えば充分先回りできる計算だった。
 会社勤めの帰宅時間に当たったためか、通りは混雑していて車の流れは終始悪かった。タクシーの中で、携帯電話を使って病院に連絡を入れた。看護婦の辻本を呼び出し、仕事の都合で一時間から二時間ほど顔を出すのが遅れることを説明した。梓に一人で食事をとれと伝えるよう、言付ける。
 二〇分かけて到着した北一丁目界隈は、中流階級が身を寄せ合う住宅街で、無個性な一戸建てが密集して建ち並んでいた。日が沈みかけた時間帯では、余計に個々の識別が難しそうだ。それでも電柱の番地表示を頼りにして、悟子は秋山家を見つけ出した。新築なのか、近づくとペンキの匂いが漂ってきそうなほど白い壁をしている。それを除けば、近隣の二階建てと大差はない。
 周囲は薄闇に没しつつあるが、照明がつけられた部屋は見あたらなかった。この時間帯に家内が無人なのだとすると、両親は共働きなのかもしれない。
 この捜索は、同時に井上友子の住居の発見にも繋がった。秋山家を捜し求める過程で得た、偶然の産物である。住所の関係から近いところにあるのは知っていたが、意外にも両家は背中を合わせる格好で並び建っていたのだった。この地理的な距離も何か意味深に思える。秋山家同様、井上家も無人のように見えた。
 斜陽が西に連なる奥羽の山並にその姿を完全に隠しかけた頃、病院の秋山少年が姿を現した。コンビニのビニール袋らしきものを片手にして、自転車を漕いでいる。通りを見通せる小さな喫茶店からそれを目にとめた悟子は、ティカップを置いて外に出た。素早く行動に移れるよう、先に支払いを済ませていたのは正解だった。
 少年は車庫に自転車を停めると、一旦通りに出てから玄関へ回り込んだ。間違いなく、マークしていた秋山宅の門を潜っていく。悟子は通行人を装いながら軒先を横切り、彼が鍵を使って玄関ドアを開け、中に入っていくのを見届けた。やがて一階の居間と思わしき部屋に明かりが灯される。
 これで、病院の少年が秋山陽祐であったことは証明された。
 深く息を吐き、近くの電柱に背中を寄せた。携帯電話でタクシーを呼びながら暗くなった空を仰ぐ。少し状況を整理したかった。
 問題になるのは、やはり病院でも考えかけた第三のポイントだった。すなわち、手紙を送ってきた人物の素性である。
 梓の病室に突然現れた娘と、二日前に看護婦を仲介して手紙を送りつけてきた少年とは、恐らく何らかの繋がりがあるのだろう。両者がいずれも幼児であるらしい、ということは大した意味を持たない。二人を単なるメッセンジャーとして使役している人間の存在が想像されるからだ。
 悟子は今日まで、それが秋山陽祐である可能性を疑っていた。しかし今日の病院での様子を見る限り、彼はシロだと考えた方が良さそうである。あの血相の変えようは、明らかに今日のTVニュースで事件の存在を初めて知った人間のそれだった。彼もまた、悟子と同じように情報量の少なさから翻弄される側の人間なのである。彼が想像する以上の人間で、同じ空間に居合わせた悟子の存在を察知し、その上で演技をしていたというなら話は別だが。
 それから、もう一つ気になることがある。
 山下が命の危険にさらされることを告げる手紙が届いたのは二日前だ。山下が実際に暴行を受け、病院に搬送されたのは昨夜。手紙の送り主は、まるで山下が何者かに襲われることを事前に予測していたかのような振舞を見せている。――これをどう考えて良いか、頭の痛いところだ。
 単純に考えれば、手紙の送り主こそが山下襲撃の犯人だということになるのだろうが、だとすれば隣で死んでいた身元不明の女というのが余計だ。彼女の何者かに殺害されたもの見られている以上、県警は捜査本部を設置し、本腰を入れて事件にかかるだろう。山下一人が被害者であれば、傷害容疑か殺人未遂罪が精々である。警察もそうむきにはならなかったはずだ。そこを考えると、死体を脇に添えて、わざわざリスキィな状況を作り出す理由が分からない。
 或いは、彼女がリストの中で唯一確認のとれていない持田明子であり、何らかのハプニングで早く死なせてしまったのか。
 ――いずれにせよ、何かが起こり始めている。
 それを認めないわけにはいかなくなりつつあった。


    4

 陽祐が自分の基本的な失敗に気付いたのは、東北技術科学大学――TUT付属病院に入った後だった。
 眼の前にあるのは、イメージにあった病院などというものではなく、一つの町のように見えた。敷地は陽祐の背丈より高いコンクリートの壁に囲まれており、手入れの行き届いた広大な芝の庭を不審者から守っている。その面積たるや、試みさえすれば野球の試合会場にさえなりそうだったが、実際には寝間着姿の患者が日光浴を楽しみ、子供がボール遊びに興じ、白衣を羽織った若者たちが缶コーヒー片手に談笑していた。遠くには、陽祐の学舎に匹敵する規模の建造物が何棟も聳え立っている。その内のどれかには、急患用のヘリポートさえ備えられているに違いなかった。しかも、どう見たところで喫茶店としか思えない店や花屋、美容院、コンビニらしきものまである。建物の数が多く、受付で来意を説明するために、まずどこに向かえば良いのかさえ分からない。
 陽祐は物置の奥から引っ張り出してきた自転車を止め、降り、しばらく呆けたあと、通ってきたばかりの道を引き返したい衝動と戦った。
 TUT病院は、腕に軽い打撲を負った程度の人間が気軽に訪れるべき場所ではないようだった。レントゲンを撮って、腕に湿布をはるだけのために少なくとも町は必要ない。掘っ立て小屋一つで十分なのだ。
 陽祐はしばらく逡巡したあと、自転車に跨った。五分ほど敷内の舗装道路を走り回り、ようやく外来病棟という施設に当りをつける。正門から最も近い場所にある建物の一つだったが、大学病院の規模に圧倒されているうちに素通りしていたらしい。近くの駐輪スペースに自転車を停め、車寄せで乗客を待つタクシーを横目にしながら入り口に向かった。
 外来病棟の内部には、どことなくホテルのロビーに似た雰囲気があった。ガラス張りの自動ドアを二回潜り抜けると、吹き抜けになった大きなホールが広がっている。ホテルと違うのは、受付カウンターが無数に存在することだった。内科、外科という大雑把な分類だけでなく、脳神経外科や泌尿器科、皮膚科というように細分化されており、その科別に受付が分かれているらしい。思っていたより客が多く、どの受付の前も雑然としている。
 軽い混乱とともに視線をさ迷わせていた陽祐は、小児科カウンターの隣に <初診受付> というプレートがぶら下がってることに気付いた。唯一、順番待ちの並び客がいないスペースである。近寄ってみると、記帳台に氏名と住所、症状などの記入を求める書類が置かれている。銀行にあるような整理券発行機は鎮座するだけで稼動はしておらず、受付係の席は無人だった。
 回れ右しておとなしく帰れ、と内なる自分が囁いていたが、ここまで来たのを無駄足にしたくはなかった。外来診療申込書なる書類に必要事項を記入し、ボールペンを置いて近くのソファに座る。予想が当たっていれば、順番が回り次第、受付に呼び出されるはずだった。――しかし、整理券の機械が止まっているのはなぜか。
 定期テストの答案が返ってくるのを待つように、全く落ち着かない心境だった。無意識に揺すり始めていた右足に手を置き、動きを封じる。どこからか、飛沫感染を心配したくなるような激しい咳の音が聞こえてきた。咳き込むというよりは、もはや嘔吐する感じに近い。音の主を探したが、それらしい人影は近くに見あたらなかった。
 ロビーには見慣れない物しかなかった。中心部には、銀行のATMに似た機械が設置されている。横面に <再来受付機> と書かれていた。次回があれば、あれを利用する必要があるのかもしれない。
 その筐体《きょうたい》の脇をすり抜けるようにして遠ざかっていく後姿に、陽祐は思わず目を止めた。歩き方や体重移動、手の振り方などの細かい動きが、あまりにも知人の一人に良く似ている。少なくともその一瞬は間違いなく井上友子だと思った。
 彼女は、病院の奥へ続く廊下に進路を取っているようだった。方向を変えるときに一瞬、横顔が見える。やはり叔母のようにしか見えなかったし、背丈や身体つきもそっくりだった。服も彼女が好んで選びそうな、落ち着いた中にも控え目な主張の見える組み合わせである。
 追いかけて声をかけようと腰を浮かしかけたとき、彼女が会社の研修のため東京に出ていることを思い出した。井上友子がこの場にいる理由はない。似ていても別人なのは確実だった。
 落胆してソファに座り直す。ほとんど間を置かず、受付の方から名前を呼ばれた。立ち上がってカウンターに歩み寄ると、白衣姿の若い女が、椅子に座らず中腰の姿勢で陽祐を待っていた。陽祐が提出した書類にちらちらと視線を落とし、何か困惑したように顔をしかめている。
 声をかけると名前を確認されたので、本人だと認めた。
「当院で初めて診察を受けられるのですか」
「そうですけど」相手の口調から、嫌なものを感じた。
「申し訳ありませんが、当院の初診受付は八時半から二時半までとなっております」
「二時半って、昼の?」驚いて訊き返すと、受付嬢はそうだと答えた。「病院が銀行より早く受付を締め切るんですか」
 彼女は形だけの謝罪をよこすと、記帳台の隅に貼り付けてある案内書を示しながら、何とかしてやりたいが規則なので自分にはどうしようもないと訴えた。言葉とは裏腹に、早々に陽祐を追い払い、別の場所で待っている自分本来の仕事に戻りたがっているのが態度で分かる。
「お手数ですが紹介状をお持ちになって、後日もう一度お越しください。受付時間は、平日ですと午後二時半まで、土日は午前一一時までとなっております」
「あの、診てもらうためには紹介状がいるんですか?」
 受付係はその言葉で、自分の相手にしている客が病院通いに慣れていない全くの門外漢であることを理解したようだった。注意していなければそれと分からないほど微かな溜息を吐き、辛抱強く大学病院の特異性についての講義を始めだす。
 曰く、大学病院というのは生死に関わる難病や大怪我をした患者を相手にする機関であり、お前のような人間が来る場所ではない。そもそも高度な医療サーヴィスを提供するため、原則として他の医療機関から紹介を受けた患者を優先して診ることにしている。紹介状を持っていない人間からは、特定療養費と称した別料金を毟り取るようにしているので気をつけろ。――それが陽祐の理解した彼女の助言であり、忠告だった。
 全てが初めて耳にする知識だった。一部に理不尽を感じて抗議しかけたが、知らなかった人間が悪いのも事実である。揉めたところで受付時間が変更されるわけもなく、陽祐は渋々口を閉じた。
 そのタイミングを待っていたかのようにマナーモードにしていた携帯電話が着信を告げ始めた。やむなく交渉に見切りをつけ、受付に礼を言ってからその場を離れた。ホールの端に電話ボックスが並んでいる一帯を発見し、そちらに足を向けながら応対に出る。持田明子だった。
「陽ちゃん、今どこにいる?」
 開始ボタンを押した瞬間、彼女がいきなり言った。興奮しているのか声量のコントロールができていない。陽祐は思わず耳から電話を遠ざけ、眼をしばたいた。距離を戻す。
「なんだ、いきなり? 病院だよ。受付のあるフロア」
「ニュースで――TV観てる? ニュース」
 先ほどまで溺れていたかのように、息継ぎのタイミングをまるで考えない喋り方だった。いつも飄々とした彼女としては珍しい。
「見てないよ。なんだ。何かあったのか」
「山下君が刺されたんだよ。昨夜、誰かにやられたみたい。何かで頭も殴られてて、病院に運ばれたけど重体だって」
 説明するため情報を整理するうち、彼女は落ち着きを取り戻したようだった。文脈がしっかりし、口ぶりが滑らかになる。
「ちょっと待て、何を言ってるのか全然分からない」反対に、今度は陽祐が混乱しつつあった。「お前、何の話してるんだ。病院にいるのは俺だぞ」
「違うって。山下君が誰かに襲われて大怪我したの。で、病院に運ばれたんだよ。近くにTVない? 昨夜の事件だから、夕刊にも載ってるかも」
 何かを言いかけたが、喉の奥から生温かい吐息を漏らすだけに終わった。どんなことを口にしようとしたのか自分でも全く分からない。明子が続けた。
「陽ちゃん、聞いてる? 山下君が倒れてた場所で、別の人の死体も見つかってるらしいんだよ。首を絞められて殺されたらしいって。だから警察もマスコミも大騒ぎしてる」
「死体?」
 無意識に出たそれは、掠れた小声にしかならなかった。耳に届かなかったのか、明子は鼻息も荒く自分の話に夢中になっている。
「そっか。で、山下君たち学校に来てなかったんだね。このこと、たぶん朝の時点で先生たちは知ってたんだ。感じが変だったのは、私たちに伝えるかも含めて対応に困ってたからだよ。放課後、先生たちが大勢通学路に出てたのは、だからだ。
 じゃあ、出入りしてたお客さんっていうのは警察か教育委員会かも。PTA幹部とかマスコミってこともあるか。どういうやり取りがあったか分からないけど、事情を明かして校内で生徒を混乱させるよりは、帰らせて自宅で事情を知ってもらう方を選んだんだね」
「誰が死んだんだ」
「――え?」明子の鼻白んだ様子が電話越しにも分かった。「ああ、若い女の人だって。身元は分かってないみたい。まだ」
「渡瀬も今日、休んでたな」
 ようやく回り出した頭で言った。明子は、こちらの考えを理解したに違いない。息を呑むような間を挟み、重たい沈黙が返る。
「ちがうよ。絶対にそんなことない」低い声で彼女は言った。
「渡瀬はいつも山下のそばにいる」
「そんなことあり得ないよ。あ、そうだ。ほら、ニュースでも女の人が亡くなったのは何日か前みたいだって言ってたし」
 明子は自分の言葉に安堵したらしく、声音を柔らかくした。
「そうだよ。啓ちゃん、昨日も一昨日も学校来てたもんね。やっぱり啓ちゃんじゃないってことだよ。陽ちゃんが変なこと言うから、私まで焦っちゃったじゃない」
「そうか。でも、誰かが殺されたことに変わりはないんだな」
「うん」明子は神妙に認めた。「それは陽ちゃんの言う通りだと思う。全然喜べることじゃなかったよね」
「とにかく俺の方でも情報を集めてみる。話はそのとき改めてだ」
 後で連絡を入れることを約束し、陽祐は電話を切った。
 山下が刺された。重体で意識を失っている。伝えられた事実を無言で繰り返すが、まったく実感を掴めない。現実に起こった出来事だとは信じられなかった。金メダルを胸にぶら下げたオリンピック選手が、時としてカメラのフラッシュと突き出されたマイクの群れを不思議そうに眺め、同じような感想を口にする。似たような感覚なのかもしれなかった。――もっとも、後の彼らを待っているのは歓喜である。陽祐の場合は、もっと違ったものであるはずだった。
 携帯電話をジーンズのポケットに仕舞うと、フロア中央に設置されていたTVで、明子の話が嘘でなかったことを確認した。とは言え、思考が麻痺しているせいで、ある程度以上の内容は頭に入ってこない。映像と音は届くが、意味ある情報として処理はされなかった。
 知り合いとつまらない賭事をした結果、負けた代償として無理に安酒をたらふく飲まされたことがある。その時に経験した悪酔いと似た感覚に襲われていた。急に重たく感じられるようになった身体を引き摺るように、外来病棟の出口に向かう。
 しばらくして我に返ると、自転車に乗って向かい風を浴びていた。開き放しにしていた眼が痛い。景色から、一時間ほど前に通った道を逆走してることが分かった。どうやら帰宅しているらしいと気付いた瞬間、外来病棟を後にして自転車に跨った記憶が、夢の中の出来事であったように曖昧に思い出される。
 腕の痛みや、その治療のことは既に頭から消えていた。物干し台を購入する予定があったことに関しても、今は全く考える気がしない。頭を空にしたまま、ペダルをいかに早く回転させるかだけに集中した。
 自宅まで数分の所に至ったとき、コンビニに寄ることを思いついた。最初に目に付いた店に飛び込み、並べられている夕刊を全国、地方紙を問わず全て購入する。再び自転車を飛ばして家に辿り着くや、居間に駆け込んで食卓の上にそれをぶちまけた。
 明子の予想通り、山下が関係する事件の記事は全紙に何らかの形で取り上げられていた。とは言え、内容自体は表現や切り口に微妙な差はあれど代わり映えはせず、TVニュース以上のものではない。それでも同じ記事を記憶するまで何度も読み返し、必要なものはハサミで切り抜いた。
 来客を告げるチャイムが鳴ったとき、ハッとして見上げた時計は信じられないことに午後七時近くを示していた。左手にはハサミと皺くちゃになった新聞の切れ端が握られており、微かに汗で湿っている。来客が誰かを考え、すぐに大作との約束を忘れて夕食の準備を怠っていた事実を思い出した。不審に思ったか、或いは痺れを切らした彼が様子を見に来たに違いない。部活でのハードな鍛錬を追え、大作は極度の空腹を抱えているはずだった。
 左手の物をテーブルに放り、インターフォンを取らず直接玄関へ走った。ドアを開けると、小さな庭を挟んで鉄製のささやかな門が見える。その向こう側で街灯の淡い光を背に受けているのは、想像に反して井上大作ではなかった。一目で背格好の違いが分かる、スーツ姿の男が二人立っている。逆光のせいで顔は見えなかった。
「秋山さんですか。夜分すみません。警察の者です」
 一人が勝手に門を開け、庭に脚を踏み入れながら言った。後ろの男も当然のような顔をして続く。
「警察?」
 サンダルをつっかけドアを開けた体勢のまま、陽祐は身体を強張らせた。刹那、約束を反故にされた大作が通報したのではあるまいかという、見当違いな考えが頭を過った。自分が混乱していることを知る。ここ数日、色々なことが一度に起こりすぎている。
「秋山陽祐さんはご在宅ですか」
 ドアを挟み、陽祐と握手を交わせる距離まで近づくと片方の背広が言った。扉の隙間から漏れ出す明りに照らされ、二人の相貌が明らかになった。いずれも壮年の男性で、世故に長けた者であることが佇まいから如実に窺い知れた。慇懃な振舞ではあるが、自分が主導権を握っていることを相手に忘れさせるつもりが無いのは明らかである。腰は低くとも相手を威圧するような何かがその雰囲気にはあった。
「陽祐は自分ですが」戸惑いながらも返す。
「そうですか。失礼、私は岩手県警の新田と申します」
 そう言ったスーツの片割れは、上着の懐を漁り名刺を差し出した。条件反射的に受け取り、内容を確認する。岩手県警察刑事部捜査第一課、新田正幸とあった。階級は警部補であるらしい。
「彼は――」名刺の刑事は、身体をほんの少しだけ逸らして背後の連れを一瞥した。「白丘警察署の木戸巡査部長です」
「どうも」にこりともせず、木戸と紹介された男は頭を下げる。
「それで、秋山さん。山下剛という少年をご存知ですね」
 陽祐に向き直ると、新田警部補が言った。質問というより基本事項の確認といったような口ぶりだった。
「クラスメイトに、そういう名前の者がおりますが」
「では――既にTVや新聞で報道されていることですが――彼が何者かに襲われて怪我をされたことは知っていますか?」
「ついさっき知りましたよ」陽祐は顔を顰めた。「滅茶苦茶な話だ。わけが分からない。あいつは本当に刺されたりしたんですか」
「山下さんは、襲われる直前に渡瀬啓子という娘さんと電話で話しています。我々は彼女に会いました。話によると、月曜日に通り魔のような女性に襲われたそうですね。秋山さんもその場に居合わせたとうかがいましたが」
 その言葉で、陽祐はようやく警官が自宅に押しかけてきた理由を理解した。彼らは渡瀬から一昨日の話を聞き、今回の事件と例の通り魔事件との関連性を明らかにしたがっているのだ。
「彼女が何を言ったのかは知りませんが、一昨日の夕方にそういう体験をしたのは事実です」
「今夜はその件でお邪魔しました。よろしければ、ここで立ち話というのもお互い人目を引きますし……」
 警部補は眼で家の中に入れろ、と訴えてくる。少し迷った後、素直に応じることにした。ドアを開けたままノブから手を離し、二人を居間に招き入れる。新聞の山に占拠された座卓ではなく、椅子のあるダイニングのテーブルセットに席を用意した。刑事たちは並んで腰を落ちつける。
「コーヒーで?」
 お構いなくという声が返ったが、カウンターを回りこんでキッチンに入ると三人分のカップを出した。ポットのぬるま湯を薬缶に移し、ガスコンロで温めなおす。
「白丘市にはいつからお住まいですか?」
 あちこちに残っている未整理の段ボール箱から、秋山家が引越しを経験したばかりであることに刑事たちは気付いたようだった。住み始めて、まだ一月に至らないと答える。
 彼らは陽祐が散らかした新聞にも興味を持ったらしく、これについても訊かれた。とは言え、特別な意味のない世間話のつもりであることは口調からも明らかだった。
「どの新聞にも、重傷を負って病院に運ばれたとしか書かれていない。山下は大丈夫なんですか?」
 戸棚を開け、ブルーマウンテンの缶を取り出しながら訊ね返す。
「手術は成功したと聞いています」
 警部補は事務的な口調で言った。今は穏やかだが、その気になれば相手を芯から震え上がらせるような怒号を上げることも可能なのだろう。喉ではなく腹で発するような、低く深い声だった。
「とは言え、まだ救命救急センターにいます。意識も戻ってませんね。まあ、ほとんど交通事故みたいな状態ですな。頭部骨折に脳挫傷。最初は脳死か……とも思われたそうですが、治療が上手くいってなんとかそういう状態からは脱したらしいです。ただ、今後の経過は何とも言えない。元気になるかもしれないし、意識が戻らないかもしれない」
「意識が戻らないって、植物状態とか?」愕然としながら訊いた。
「渡瀬啓子さんには言わないでください、これ。ショックを受けるだろうからということで、被害者の親御さんからも口止めされてまして。彼女には、手術が成功したことと意識が戻ってないことしか伝えてないんですよ」
 だが実際は、のんびり構えていられる状態ではないという。医師は山下剛のようなケースだと、大半が植物状態のまま最後を迎えることになるらしい。目覚めても障害が残る可能性もある。
「あいつは全国でもトップクラスの空手の選手だった」
 濾紙にすり切り二さじ半の粉を入れながら、陽祐は呟いた。薬缶のお湯が沸騰しかけたところで火を止める。温度が九〇度前後であったほうが好ましいことを知っていた。
「そう聞いてるし、実際、通り魔にあったときの山下の反応は凄かった。まるで隙が無かったし、冷静に相手の動きを見切っているのが分かりましたよ。でも、ニュースじゃナイフで刺されて滅多打ちにされたと言ってます。僕にはどうもイメージがつかない。犯人は大勢のグループだったんですか」
「犯人は複数かもしれません。しかし単独であった可能性もあります。今頃、七時の会見をやって発表しているでしょうが、現場は公園の出入り口で、ここには階段があります」
 状況を総合して考えると、山下はこの階段を上って公園に入ろうとした瞬間を狙われ、まず背中をナイフで刺された可能性が高い――と警部補は語った。
 渡瀬の話によれば、山下はいつも自転車を肩に担いでこの階段を上る。公園内を横切ると大幅なショートカットになるかららしい。
「彼は自転車を持ち上げていた無防備な状態を襲われたのでしょう。階段に点々と残った血のあとからも、これはまあ間違いない。しかし、自転車は階段を上りきった場所にきちんと停めてあった。彼は刺された後も階段を上り続け、自転車を置いたんですな。そして多分、自分でナイフを抜き取った。柄からそういう付着の仕方をした彼の指紋が検出されています。で、そのあと犯人と格闘した。血の散らばり方から見て、かなりの大立ち回りをやったようです。まあ確かに、並の人間じゃあ背中を刺された状態であそこまで暴れるのは無理でしょうね」
「そうですか」
 フィルターに薬缶の湯を注いだ。中心部から周縁部へ向かって、 <の> の字を書くように熱湯を落としていく。たちまちコーヒーの粉が熱せられ、水分を含み、泡立ちながら膨らみ始めた。だが、あまりにも急激過ぎる。やがて膨張の度が臨界点を越え、中央の山が内側から弾けた。一転、火山の噴火口のように陥没し始める。稀に見る典型的な失敗だった。普段ならあり得ない。
「あまり美味くはないでしょうが」
 トレイに全員分のカップをのせ、ダイニングルームに戻った。二人にコーヒーを勧め、向かい合う席に腰を落ち着ける。名刺をよこさなかった方の刑事が、メモを取るためか小さなノートを広げていた。
「秋山さん。一昨日のことを改めてお伺いしたいのですが、記憶の方はまだしっかりしていらっしゃいますか」
 新田警部補はコーヒーに手をつける様子もなく、先ほどまでの世間話と何ら変わらない口調で切り出した。
「大体のことなら覚えてると思います。渡瀬さんは違ったんですか」
「彼女の話の内容は、ここでは出さない方が良いでしょう」
 記憶の混乱が起こり得るからだ、と新田は説明した。信号が赤だったか青だったか思い出せないとき、隣にいるもう一人の証人が「赤だった」と断言すると、それが真実であったように思い込んでしまうことがある。警察が求めているのは、他人の話を参考にして記憶を補正した結果の証言ではなく、曖昧なものは曖昧なまま吐き出される話なのだ。
「だから、我々は同時に二人以上の方から話を聞くことはないんです。事前に証人同士で話をさせることも避けます。常に一人ずつ。――まあどの道、渡瀬啓子さんはほとんど月曜日のことを覚えていないようでしたけどね。相当ショックを受けていたようで」
 陽祐は話に納得したことを示すため一つ頷き、眼で質問を受ける意思があることを伝えた。助手のようなポジションにあるらしき所轄の刑事が、おもむろにペンを取って構える。県警が再び口を開いた。
「改めて言いますが、昨夜の一〇時頃に山下剛さんが何者かに襲われて重傷を負いました。彼が会社帰りのサラリーマンに発見されたとき、隣には若い女性も倒れていたわけです。山下さんはまだ息がありましたが、女性の方は既に亡くなっていました」
 刑事は、現場に山下の父親と渡瀬啓子が現れたこと、彼らの証言から山下の方の身元が割れたこと、女性の方の身元は未だ分かっていないことなどを簡単に語った。
「女性は首を絞められて殺されていました。遺体と現場の状態から、別の場所で殺されて公園に捨てられたのではないか、と考えられています。別の考えもありますがね。――女性と山下さんとの繋がりは分かりません。しかし、状況から見て何らかの関連があったと見る方が妥当でしょうな」
 陽祐は話を聞いた瞬間、女の死体を公園に捨てに来た人間が、山下にその瞬間を目撃されて犯行に及んだ、というシナリオを思い描いた。質問の形でそのまま刑事たちに伝える。
「それも考えられますね。しかし死体を捨てに来た人間が、ナイフや鉄パイプで武装していたというのは考えにくい。階段を上っていた山下さんを後ろから不意打ちして刺したというシチュエーションにも説明がつかない」
「なるほど」
 自分が考えそうなことには優秀な捜査当局の人間たちが既に気づき、検証を重ねている。陽祐はこの件に関して、下手に思考を働かせるのを止めることにした。
「我々は現在、女性の件と山下さんの件を分割して考えています。それぞれについて調べ、もし存在するなら、繋がりを見つけ出す。そこでまず、一昨日に山下さんを襲ったという通り魔について知りたいわけです」
「そいつが、また山下を襲ったのかもしれないと?」
「可能性の問題です」
 警部補は初めてカップを持ち上げ、コーヒーを一口啜った。それから礼を失しない程度にリラックスした態度で、通り魔に出会った正確な時間と場所を陽祐に問うた。
 記憶通りに回答する。その途中、ファミリィレストランで彼らを見かけ、興味があって尾行していたという事実を馬鹿正直に話すわけにはいかないことに気付いた。
「霞台の方というと、このご自宅からは距離がありますし、単なる住宅街で他には何もなかったですな。なんでまたあんな所に?」
「道に迷ったんですよ。さっきも言ったように越してきたばかりなもので。商店街を見て回っていたんですが、路地に入った途端に方向感覚が狂って」
 自分は方向音痴なのだ、と陽祐は自嘲的に笑いながら付け加えた。
「では、彼らと会ったのも、通り魔に遭遇したのも偶然?」
「全部が完全な偶然とは言えないかもしれない。道に迷って困ってたとき、山下たちの後姿を見たと思ったんです」
 道に迷ったというのは完全な虚言だった。だが相手が警察なら、嘘で何かを隠し通すのは難しいかもしれない。適当な真実を混ぜ合わせて、うまく誤魔化すべきと判断した。
「もし本当に彼らなら、道を教えてもらおうと思って後を追いかけました。その途中で、通り魔が現れたんです」
「なるほど」警部補は一応、納得したような顔を見せた。「それで、その通り魔のような人物はどういった現れ方をしましたか」
 ここから先のことについては、真実を隠す必要は全く無かった。正直に自分の知っているままを話す。
「渡瀬にも言いましたが、事前に山下を標的として設定していたとしか思えない近づき方でした」
「なるほど。近くにいる秋山さんを素通りして、一直線に山下さんへ向かったというなら、そう思えても仕方ないですな」
「そのように見えました」
「それから貴方はどうされましたか」
 渡瀬から聞いているはずだったが、刑事たちは陽祐の口からそれを改めて言わせたいようだった。望み通りに、山下が空手の経験者であり過去に暴力事件を起こしていた事実を思い出したこと、同じことが繰り返されるのを防ぐために気付くと走り出していたことなどを話した。
「勇気がありますね」特に感心した様子もなく刑事は言った。「普通なら面倒に巻き込まれるのを嫌がったり、緊張で身体が動かなくなったり、怖くて逃げ出したりするものですが」
「それはどうも」
 微笑を作って見せたが、あれが勇気ある選択であったとは全く思っていなかった。勇気とはリスクや恐怖を理解した上で、それらを克服して行動できる気概なのだった。リスクを考える余裕がなく、恐怖を感じる前に動き出した人間にふさわしい言葉ではない。
「それで、その女の顔や格好は思い出せますか?」
「インパクトがありました。よく覚えてます」
 陽祐は手元のコーヒーカップを覗き込みながら言った。琥珀色の水面に、あの女の姿が浮かび上がってきそうな気がする。覚えているというよりは、忘れられずにいた――という方が真実に近かった。
「髪が長くて、たぶん背中くらいまで伸びていました。色は黒です。かなり荒れていたというか、もつれたりしてグチャグチャしていました。そういう印象があったから、年は良く分かりませんでした。二〇代くらいだと思いますが、違うかもしれません」
「夜で辺りは暗かったんでしょう。よく観察されましたね」
「街灯があったので。山下の間合いの取り方も、いま考えれば絶妙だった。あのときは気付かなかったけど、明るいところにおびき出すような距離のとり方をしていた気がします」
「襲ってきた女性の身体つきはどうでしたか。背とか体型とか」
「正確なサイズは分かりませんが、全体的に細長く感じました。平均より背が高くて、痩せている方なのかもしれない。肌が異様に白かったのは確かです。服は青っぽいワンピースを着ていて……靴を履いてなかったので驚いた覚えがあります」
 刑事たちの様子が変わった。顔こそ見合わせなかったものの二人は同時に表情を変え、意外な発見の確認をとろうとするかのように陽祐を注視した。
「女は靴を履いてなかった。裸足だったんですか。両足とも?」
「そうです」少し鼻白みながら言った。「足音が変だったから確認したんです。確かですよ。あと、片手でブロックを鷲掴みにしていましたね」
 刑事たちは今度こそ顔を見合わせた。小声で二、三囁きあう。
「もう一度会ったとき、その女のことが分かると思いますか」
 メモを取っていた控えの男が初めて口を開いた。
「見分けられるかという意味なら、恐らく可能でしょう」
 その返答は、刑事たちに少なからず衝撃を与えたようだった。二人は陽祐の存在を忘れたように顔を近づけあい、再び何か相談事に没頭する。
 やがてメモを取っていた方が立ち上がり、中座の非礼を侘びながら廊下に出た。ドアにはめ込まれたガラス越しに、彼が懐から携帯電話を取り出したのが分かる。
「――これはちょっとあり得ないことなんですがね」
 陽祐の意識を引き付けるつもりがあったのか、テーブルに残った新田警部補が穏やかな口調で言った。顔を正面に戻し、彼に視点を固定する。
「我々が把握している人物の中に、秋山さんがおっしゃった通り魔らしき女がですね、いるかもしれないようなんですよ。それで、もし上の許可が下りるようでしたら、秋山さんにそれを確認していただけたらと思いまして」
「それは、今から白丘警察署に同行せよということですか」
 警部補はそうだと答えた。程なく、どこかとの連絡を終えたらしい廊下の刑事が帰ってきた。元の席に戻ると、警部補に「冒険は終わって帰ってきている。許可は取れた」というようなことを報告した。陽祐に聞こえるような声量で言ったのは、隠語を含めた素人には分かりにくい言葉を使ったからだろう。事実、何を言っているのか全く理解できなかった。
「では、秋山さん」警部補が立ち上がりながら言った。「もしよろしければ、白丘署までご足労願えますか。すぐ終わりますので」
 今夜はどうも、ただでは眠れそうにない。何となくそう思った。
「構いませんが、夕食を一緒にとる予定だった従弟《いとこ》に一言断ってから行きます」
 刑事たちはそれを認めた。陽祐は二人を伴って家を出ると、玄関に鍵をかけて門を出た。すぐそばに、刑事たちの覆面パトカーが停められている。彼らに井上家の場所を伝え、そこまで車を回すよう指示してから、陽祐は一足先に大作に事の次第を伝えに行った。
 大作は既に部活から戻り、シャワーで汗を流した直後であるようだった。玄関に出てきた彼の頭髪は、まだしっとりと濡れていた。山下の事件に関してはまだ何の情報も仕入れていないようだったので、診察が長引き帰りが遅くなったこと、急用でこれから出かけなければならないことなどを簡単に説明した。行き先が警察であることは伏せる。
「なんか大変そうだね。腕の方は大丈夫だった?」
 深く追求してくる様子もなく、大作はのんびりした口調で言った。
「ああ、問題ないみたいだ」
「でも困ったね。夕食は結局どうするの」
「メシか。どうしたもんか……」
 バタバタしていたせいで、食事のことは全く考えていなかった。言われてはじめて、自分がかなりの空腹を感じていることに気付く。
「時間が時間だからな。仕方ないから、帰りに弁当でも買ってくるよ。待てるようならお前の分も買ってくるけど、どうする? ちなみに、俺のおごりだ。約束守れなかったからな」
「お腹空いてるけど、あと一時間くらいなら何とかなるよ。冷凍の枝豆でも食べながら待ってる」
「そうか、悪いな。ゴージャスな弁当買って帰るから良い子で待っててくれ」
「買ってきてくれるなら、俺は質より量を追及する派だから」
「分かった」踵を返しかけた陽祐は、苦笑しながら振り返った。「お前の弁当はボリュームを優先して選んでくるよ」
 指示していた通り、警官たちのパトカーは井上家の玄関前でアイドリングして待っていた。後部座席に乗り込み、従弟との話がついたことを報告する。アクセルが踏み込まれ、車は静かに走りだした。
 道中、運転席でステアリングを握る所轄の刑事から、参考人としての予備知識を授けられた。
 それによると、参考人として警察署で取り調べに応じ、調書作成に協力した者には日当が支払われるという規則があるらしい。しかし県の条例では、参考人が児童または学徒であった場合、例外としてこれを渡さないことになっているという。
 この話を聞いたとき、陽祐は生まれて初めて学生の身分を呪った。帰りの弁当代は警察からの日当ではなく、自分の財布から出さねばならない。
 白丘警察署までの所要時間は約一五分と聞かされていたが、実際には一〇分で到着した。TUT病院や駅からさほど遠くない。急に口数の少なくなった刑事たちに導かれ小綺麗な本館に入り、階段で地下に下りる。交通課のある賑やかな地上一階とは違い、奇妙な静寂が漂うフロアだった。ぼんやりとした蛍光灯の光を受け、リノリウムの床が不自然なほどの艶を出している。会話が欲しかったが、適当な言葉が見つからなかった。
「秋山さん、無理に結論を出すことはありません。確かだと思うことだけを言ってください。断言できなかったり、曖昧にしか分からないなら正直にそう言ってもらって構いません」
 警部補は予め言い含めると、小さなドアの前で立ち止まりノブを捻った。勧めに従って彼の後から一歩部屋に足を踏み入れた瞬間、そこが霊安室であることが分かった。アルコールと得体の知れない薬品のような匂いが鼻腔をつく。部屋の中央には簡素な寝台のようなものがあり、女性の遺体が寝かせてあった。胸の上まで白いシーツが被せてあるが、首から上は素のままだ。
「どういうことです」説明を求める権利があるはずだった。「通り魔の確認じゃなかったんですか」
「秋山さん、まずはこの女性に見覚えがないか確認していただけますか。詳しい説明はそれからということで」
 警官たちは部屋の隅に寄り、陽祐のために場所を空けた。強引なやり方に腹が立ったが、素直に従ったほうが早く帰れそうな気がした。
 異常な出来事が連続したせいで、神経が麻痺し始めているのかもしれない。自らの精神状態に室内同様の静けさを感じながら、陽祐は彼女の傍らに歩み寄った。
 頬に大きく無残な擦り傷があったが、全体的に綺麗な顔立ちをした女だった。黒く長い髪は、綺麗に梳き整えられシーツの奥に流れている。眼を開き、血色を取り戻して微笑めば多くの異性を魅了できただろう。だが、彼女が二度と笑えないことは、頸部を見れば一目瞭然だった。化粧で誤魔化してあるが、首を絞められた痛々しい痕跡を完全に消すことはできなかったらしい。閉じられた眼の周りには、そばかすのような斑点が無数に浮かんでいる。睫毛には霜を思わせる白いものが付着していた。或いは、最近まで冷凍保存されていたのかもしれない。静脈だろうか、頬のあたりに蜘蛛の巣のような黒っぽい網目模様が微かに見えた。それだけだった。
「――分かりません」
 しばらく眺めた後、陽祐は言われたとおり正直な感想を口にした。あまりにも綺麗にまとめられすぎている。仮に彼女が一昨日の通り魔だったとしても、身体を清められ、髪を梳かされ、化粧まで施されたのでは見分けようがなかった。陽祐の見た女は薄汚れ、爆発したように髪を乱し、涎をたらしながら充血した眼を見開いていたのだ。
「大学で死体を調べるための解剖が終わるとですね、消毒して傷を縫い合わせて、綺麗に整えて、それから遺族がいれば彼らに返すんですよ。今の彼女は、その状態です」
 警部補が、遺体と陽祐に近づきながら言った。
「見つかったときは、当然そんな風じゃありませんでした。服も、いまは仏さんに着せる白い浴衣みたいなのですが、発見当時は血のついた青いワンピースを着ていたんです。靴は履いてなかった。どこか屋内で殺されて、外に運び捨てられた死体は靴を履いていないことが多いんですがね。彼女の場合、どうもそれだけじゃないらしい。足の裏がかなり荒れるんですよ。皮がズタズタになって血が出ている」
 見てみるかと訊かれたため、陽祐は慌てて首を左右した。
「調べてみると、裸足で歩き回った時にできた傷が無数についてるんですね。もちろん、生きている間のものです。変な話でしょう。他にも、この死体にはおかしな点がどうも多い。まず死亡推定時刻からして、はっきりしないんですな」
 女性が絞殺されたことは間違いないという。首を絞められて窒息した証拠が、毛細血管の破綻に起因する点状出血という形で眼の周囲や骨などに複数出たからだ。そして検屍の結果、これは昨日の時点で少なくとも二四時間以上前につけられた痕跡だということが分かった。
「昨日の時点で二四時間以上前ということは――今日、一三日の水曜でしょう?――つまり一一日の月曜日、或いは日曜には既に殺されていたということです。貴方がたの前に通り魔が現れた頃には、もう亡くなっていた計算です。ところが、昨日の夜に山下さんと格闘したとしか思えない痕跡が、彼女の身体からは幾つか出てきてるんですな。両足の膝あたりから、彼の靴紐の跡が幾つも見つかっています。蹴られて内出血して、痣になったんです」
「もしかして――」
 今頃になって、陽祐は眼の前の死体が何者なのかを察した。眼を見開きながら、再度遺体に眼を落とす。
「彼女は、山下と一緒に見つかったっていう女性なんですか」
「そうです。しかし、それだと辻褄が合いませんでしょう。殺されて何日も経った死体が、動き出して山下さんと格闘できるはずがない。蹴られて痣をつくることもあり得ない。血の循環が止まってるはずですからな。でも、昨夜時点の生活反応が出てる」
 警部補は手にしていたクリアファイルから、引き伸ばされた大判の写真を抜き取った。遺体の白いシーツの上に丁寧に置いていく。同じ被写体を様々な角度から撮ったそれらは、全部で四枚あった。
「彼女が発見されたときの写真です。よく写ってるでしょう」
 それを見た瞬間、陽祐は無意識に一歩後退りした。
 青いワンピースを着た若い女が、仰向けに近い格好で倒れていた。服に点々と赤黒い染みがついている。両足は正座に近しい格好に折れていた。靴を履いていない足の裏が見え、皮膚がはがれて血だらけになっているのが分かった。
「ここに寝ているのと同じ人物です。見覚えがありますか?」
「こいつだ……」
 陽祐はようやくそれだけ搾り出した。
 荒れ果てた長い黒髪、血管が透けて見えそうなほど白い肌、腐った魚のような黄色く濁った眼。見間違えようなどなかった。出会ったその時の戦慄が蘇り、腕に鳥肌がたつ。
「こいつだ、というのは?」刑事が言った。
「一昨日の女です。こいつが、あのときの通り魔だ」


    5

 足早に去っていく従兄の後姿を見送ると、井上大作はドアを閉め、施錠せずに玄関を離れた。そのまま脱衣所に戻って、放り出してあったバスタオルを再び手にとる。シャワーを浴びて出たばかりだった。外気に触れたせいか少し肌寒い。
 陽祐は急に外出する用事ができたことを理由に、夕食を作るという約束を反故にせざるを得なくなったと侘びた。電話で済ませることもできたはずだが、わざわざ顔を見せに来て頭を下げたのだった。律儀な男である。記憶にある限り、幼少期のころからして彼は既にそういう性格をしていた。責任感が強く、融通がきかない。彼は大作を、子供の頃から全く変わらない人間だと評したが、陽祐本人にも部分的には同じようなことが言える。
 苦笑しながらタオルで濡れた頭髪を拭き、キッチンに向かった。少し迷ってから大型冷蔵庫の冷凍室フリーザを開ける。記憶にあった通り凍った枝豆が入っていた。友子が研修で留守にしている間は、冷蔵庫の食材を自由に使ってよいことになっている。パック詰めの冷凍肉の狭間から引っ張り出して、手で袋を破り開けた。
 それほど家事に協力的ではない大作だったが、時には食器類の片付け程度なら引き受ける。鍋の在り処くらいは知っていた。所定の場所から、大きなステンレスの鍋を引っ張り出す。浄水器を通した冷水を張り、コンロにかけた。袋の中には五〇〇グラムの枝豆が入っていた。手を突っ込んで鷲掴みにし、大半を鍋の中に放り込む。
 フライドポテトと同じくらい、枝豆には塩が合う。多くの人間がそう考えているだろうし、大作もそうだった。調味料と薬味を並べた棚から食塩の小瓶を取る。問題は量であった。いつか適量に関するデータを友子の口から聞いたような気もしたが、既に記憶から失われて久しい。分厚いサヤに覆われた豆に味をつけるには相当な量が必要だろう。しかし、過分に入れすぎると辛くて食べられなくなる。健康にも良くない。悩んだ結局、勘に任せて大さじ五杯分を投じた。
 コンロの火力を中火に設定すると、ダイニングを横切って居間に行った。歩きながら壁掛け時計で時間を確認する。七時を少し回っていた。古い26型のTVに近付いて、本体の電源を入れる。普段からTVを見る機会は少なく、特に贔屓にしている番組もない。最初に表示された <教育テレビ> の海外ホームドラマを、そのままBGM代わりにすることにした。画面の向こうでは、ブロンドの少年が割れた花瓶を修復すべく奮闘している最中だった。自分の失敗を隠すためであるようだったが、大作は少し違う理由で似たようなことをした覚えがある。小学生の頃、誤って友子が大切にしている陶器の皿を割ったのだった。いつかの結婚記念日に両親が購入した品であった。母親を悲しませたくなかったため必死に謝罪し、同じくらい真剣に修復を考えたが上手くいかなかった。友子は笑って大作を慰め、息子が割れた破片で怪我をしていないかを心配した。
 東京にいるはずの彼女は、いまごろ何をしているだろうか、と考えながらキッチンに戻った。縁に小さな気泡が無数に生まれ始めているが、鍋の水はまだ沸騰していない。コンロのつまみを回し、少し火力を強めた。
 友子は、大作を四年制大学に上げるつもりでいる。それが自分に課せられた使命である、と信じている節すらあった。気持ちは大変に有難かったし、彼女の努力がなければ今の生活は維持できなかったであろう。母は様々なものを犠牲にし、家族――即ち自分のために尽くしてくれる。しかし時に、その事実を「重い」と思うこともあった。苦労をかけている以上、母親の期待を裏切るわけにはいかない。息子を立派に育てなければならないという強迫観念にも似た友子の情熱は、同時に大作の中にも、母の想いに応えなければならないというプレッシャーを生む。
 ――どこにでもある話だ、と大作は自分の思考を笑い飛ばした。陽祐も似たようなことで悩むことがあるだろう。もっと大きな心理的圧力を抱えながら生活する者もいるだろう。結局は恵まれ過ぎた者の贅沢なのだ、と己を戒めた。そうでなければ、このような考えを度々抱く自分に嫌悪してしまいそうだった。
 救いをもたらすように、ダイニングの隅に設置してある電話が呼び出し音を鳴らし始めた。念のために鍋の火を再び弱火に戻してから駆け寄る。陽祐からかもしれない、と思った。
「はい、井上です」
「遅くに申し訳ありません」
 年配の女性を思わせる、低く落ち着いた声が聞こえてきた。微かな掠れから察するに、或いは老婆と呼べる歳なのかもしれない。
「東北技術科学大学医学部付属病院の竹之下と申します。失礼ですが、井上友子さんのご家族の方ですか?」
 竹之下。一瞬、空手部の部長を思い出した。同じ苗字だ。恐らく字も同じなのだろう。
 問題は、相手が病院関係者を名乗ったことだった。思わず聞き返しかける。東北技術科学大学医学部付属病院と言えば、市内最大の大学病院として知られるTUT病院のことだ。
「――友子は僕の母ですが、何か?」
「息子さんと仰いますと、井上大作さんで間違いありませんか」
「そうです」しばらく考えてから、結局、素直に答えた。
「井上友子さんは、現在当院の放射線治療科で入院治療を受けておられます。このことはご存知でしょうか」
 女の言葉が意味するところを理解するまで、どれくらい時間をかけただろう。ただ、自分が双方にとって落ち着かない沈黙を生み出したことだけは分かった。頭部に恐ろしい勢いで血が集まっていく。熱を感じた。
「母は」言葉が喉に絡んだ。急いで唾を飲み込み言い直す。「母は、仕事の都合で東京に長期滞在しています。そちらの間違いだと思うのですが」
「私どもがお預かりした保険証には、お宅の電話番号が記載されておりました。井上友子さん、昭和四〇年五月九日生まれ。住所は白丘市北区一丁目六番地一二となっておりますが?」
 このようなやりとりに慣れているのかもしれない。女性の口ぶりにはまったく淀というものがなかった。そして彼女が並べ立てたのは、間違いなく大作の知る井上友子の個人情報に他ならない。
「それは、変です。母は研修で東京に行ってるんです。海外で通用する情報処理の資格を取る予定で」
 それは会社側も保障している。彼女から研修の話を聞かされた日、 <ビフロスト・システム> の取締役から電話がかかってきたのだ。彼は気の良い老人で、友子とは事務所創設当初からの付き合いが続いている。数えるほどの回数だが、他の社員たちと一緒に井上家で夕食を共にしていったこともあった。電話で彼は、受験を控えた大切な時期にある青年から、研修の名目で母親を引き離す決定を下したことを侘びた。
「あの、母は本当にそちらに入院しているんですか?」
「はい」電話の相手は即答した。「私共は重要な診断結果を告知させていただく際、ご家族の方を同伴されるよう患者様に申し上げることにしております」
 しかし、友子はこれを拒否し、あくまで診断結果を聞く人間が自分ひとりしかいないという主張を貫き通したのだという。
「一応、そのような場合、ご家族の方に確認のご連絡をさせていただく規則になっておりますので、このような形でお電話差し上げた次第です」
 大作は気付きかけていた。もし会社からの電話が、友子の手回しによって行われた工作だったとすれば――?
 秋山家が越してきた日前後から、友子の様子が少しおかしかったのは事実だ。体調が悪いのにそれを隠そうとするとき特有の仕草が良く見られるようになった。食欲が落ち、上手く誤魔化してはいたがちょっとしたことで疲れやすくなったようだった。人目を忍んで溜息を吐く回数が増えた。
 友子は周囲の人間に心配をかけるのを極端に嫌う。少しくらいの体調不良や面倒ごとなら、じっと耐えて無かったことにする。
 では、入院が必要な病におかされたときはどうするか。
 確かなことは分からないが、長期的に姿を消せる何らかの理由を用意し、その裏でひそかに治療を行うというようなことを考えるかもしれない。そして今回、それが実際に行われたのかもしれない。大作と友子は似た性格の親子だと言われる。自分ならそうする可能性を否定できない、と大作は認めざるを得なかった。
 頭に血が上っていく一方、首から下の体温が一気に下がったような気がして、大作は身震いした。耳に当てた受話器が小刻みに動き、何度か頬を打つ。口を開いたが、言葉が実際に出るまでしばらくかかった。
「もしも入院しているのが本当に母だったとして、どうしてそんなことになったんですか。具合は大丈夫なんでしょうか」
「井上友子さんは、喉の病気で放射線治療科に入院しておられます。詳しいことに関しては電話ではお伝えしかねますので、お手数ですが当院にお出でになり担当医の方に直接お訊ね下さい」
「いまから行けば母に会えるでしょうか」
「はい――」少し対応を考えるような間を挟み、竹之下を名乗った女性は続けた。「面会時間は午後八時までとなっておりますので、それまでに放射線治療科のスタッフステーションで受付をしていただければ、面会することはできます」
 リヴィングの壁掛け時計を見た。七時一〇分を過ぎている。自転車を飛ばせば恐らく八時前に病院へ着くはずだ。
「分かりました。ありがとうございます。すぐ行きます」
 ほとんど相手の返答を聞き流し、タイムリミットの迫った時限爆弾を手放すように受話器を置いた。無意味に数歩うろつき、それから方向を変えてキッチンの流し台まで走った。最初に目に付いたグラスを手に取って、溢れるまで水を注ぎ込んだ。口の端から零れ落ちるのも構わず一気に呷る。胸元がびしょ濡れになり、水が気管に入り込む。グラスを持ったまま身体を <く> の字にして咳き込んだ。こんな乱暴な物の飲み方をしたのは生まれて初めてだった。
 グラスをシンクに置き、両手で流し台の縁を掴む。虚空を見詰めながら冷静になろうと努めた。だが、冷静なときの自分の姿を思い出すことができない。代わりに頭に浮かぶのは、かつて部活で経験した苦い思いだった。何かが駄目になるときは、状況が一気に狂い出す。一つずつ順を追って、ということはない。スランプ、対外折衝、怪我、精神の疲弊。全てが一度に押し寄せ、気がつけばどん底に突き落とされている。抗う術もない。もがくだけ深みにはまる。ここから抜け出せる日が来るのかと絶望的な気持ちになる。そういうものだ。
 なぜ、電話の女は友子の容態を告げなかったのだろう。詳しいことを話せないのは分からなくもない。が、大したことがないのならそう伝え、こちらを安心させることはできたはずだ。
 いま、自分たちは似た状況にあるのかもしれない。落ちかけているのかもしれない。そう思いはじめていた。
 ふと、視界の端で何か青白いものが小さく揺れた。顔を向けると、鍋を温めているガスコンロの火だった。いつの間にか水は沸点に達し、凍って白っぽく見えた枝豆は鮮やかな本来の緑色を取り戻していた。ゆっくり一歩半移動して火を消す。
 居間に戻ってもう一度、時間を確認した。七時一五分になろうとしている。温められた豆が元の色に戻ったように、凍り付いていた思考が解けだし、あるべき焦燥感が全身を支配し始めた。母親が秘密裏に入院していたのである。悠長に水など飲んでいる暇などなかったのだ。
 財布を持ち、部屋中の電気を消して外に出た。玄関は施錠しない。その時間すら惜しかった。門を出ると真っ直ぐ車庫に向かう。日はとっくに暮れていた。街灯のぼんやりとした光がアスファルトを照らしている。愛用のシティサイクルは一〇年も前に買った旧型だった。タイヤの摩擦熱を利用するライトを点灯させれば、スピードが出ない。無灯火でスタートさせる。罪悪感と戦いながら知る限りほとんどの交通法規を無視し、全力でペダルを漕ぎ続けた。
 大通りに出たところで、運良く空の個人タクシーを見つけた。機会を窺いながら必死に併走し、相手が信号停車した瞬間、自転車を捨てて後部ドアに走った。客がどのような現れ方をしても驚かないほどの経験を積んでいるのだろう。運転手は速やかにドアを開けた。安堵しながらも、急いでシートに身体を滑り込ませる。ドアが閉まりきる前に、可能な限りの速度でTUT病院に向かうよう頼んだ。やはり、どのような命令にも適応できるだけの経験を彼は積んでいるようだった。壮年の男性運転手は静かに了解を示し、信号が青に変わるのを待ってから静かにアクセルを踏み込んだ。
 車の流れは概ねスムーズだった。タクシーがTUT病院に到着したとき、車内の時計は一九時三四分をさしていた。サイドブレーキが引かれドアが開かれるや、財布から抜いてあった三枚の一〇〇〇円札を運転手に渡した。釣りを受け取っている暇がないことを伝え、そのまま降車する。ライトアップされている案内板を頼りに放射線治療科のある病棟を全力疾走しながら探した。
 団体戦で、仲間の絶望的な試合を見守っているような心境だった。実力差は明らかであり、こちら側の勝率などグアムに雪が降る確率より低い。だからあらゆるパターンの奇跡を想像し、祈る。相手の実力からは考えられないミスの発生を願う。仲間選手が、一〇年に一度しか起こりえないようなラッキーパンチを繰り出すシーンを夢想する。頭の片隅で、帰ってきた仲間にかける慰めの言葉を考えながら。
 確かに、全国にまでいく人間の試合とその結果には、非常に大きな意味と影響力がある。だがこの場所――病院には、勝ち負けが即座に命の問題と直結してくる立場の人間も大勢いるのだ。勝負に敗れれば、彼らは帰ってはこない。かけられる言葉などない。
 放射線治療科の病室が第二入院棟にあることを突き止め、実際にそこへ辿り着くまでたっぷり五分はかかった。中に入ると、守衛詰め所らしき場所に向かって案内を請う。ガードマン風の制服を着た若い男が丁寧に対応してくれた。エレヴェータを利用し、七階まで上がるよう指示される。
 院内は八時近いというのに、意外に思えるほど人が多かった。何の目的があるのか、老若男女問わず様々な人間が絶えず廊下を行き交っている。エレヴェータホールも混雑していた。逡巡した後、大作は階段へ続く鉄製のドアを押し開けた。思った通り、階段には人気配が全くない。二段飛ばしで一気に駆け上った。流石に大腿筋が高熱を帯び始める。七階のフロアに転がり出たころには、肩で息をしていた。
 どこも同じなのだろうが、放射線治療科には清潔感があった。磨きこまれた幅の広い廊下には塵一つ落ちていない。なるべく明るい雰囲気を作りたいのか、ガラスを多用した造りになっており、窓も全てが標準以上の大きさに設定されている。階段のすぐ横にはエレヴェータホールがあり、廊下の向かいには食堂か談話室のように見える広い部屋がある。廊下の左方向に、受付のものと思わしきカウンターがあった。近付いてみると <スタッフステーション> とある。近年ではナースステーションをこのように呼ぶのかもしれなかった。とはいえ、実際には若い看護婦の姿しか見えない。大作は呼吸を整え、額の汗を拭いながら彼女たちの一人に声をかけた。スタッフに電話をもらったことを告げ、友子の病室を訊ねる。
「当院には竹之下という者はおりませんが」
 茶色がかった髪の看護婦は、訝しげな表情で言った。念のためか通りかかった同僚を捕まえ、小言で確認をする。第一内科に武田って先生ならいるけど、という返答が大作にも届いた。茶髪の看護婦は、同僚のその言葉で自信を深めたらしい。竹之下なるスタッフは存在しないと繰り返した。
 大作は、狼狽しながら名前を聞き間違えた可能性を考えた。だが、相手の発音は明瞭だった。耳にした瞬間、空手部の部長と同じ苗字だと分かったので印象にも残っている。間違いはないはずだった。
「あの、じゃあ、この科に井上友子が入院しているということもないのでしょうか」
「少々お待ちください」ナースは言って、手元の端末に向かった。
 彼女の答えを待つ必要はなかった。スタッフステーションの奥に掲げられた時計で時間を確認し、病室の位置を掴もうと辺りに視線をめぐらせた時、全てが自ずから明らかになった。食堂から出てくる患者の群れの中に、大作は探していた人物の姿を見つけた。あって欲しくなかった光景だった。
 子供のように小柄な老婆が、大人しく車椅子に座っている。それを優しく押してやる若い娘がおり、井上友子は彼女たちの隣を寄り添うようにして歩いていた。患者仲間と談笑し、大作の方へゆっくりと近付いてくる。息子が同じフロアにいることには、まだ気付いていない。彼女は入院患者用の夜着を身につけていた。
「お待たせしました。井上さんは確かに入院されております」
 検索を終えた看護婦が言った。だが、大作は既に彼女の方に顔を向けていなかった。
「病室は、ここを左に真っ直ぐ行った――」
「もう良いんです」彼女に背を向けたまま大作は言った。「本人を見つけましたから」
 車椅子に合わせているせいか、三人の進行速度は遅い。それでも確実に距離は詰まっていた。会話が途切れたのだろう、友子が何気なく面を上げて正面を見る。眼が合った。
 不思議と何も感じなかった。母親が足を止め、驚愕の表情をしめしても気持ちは静かだった。精神は、自分を守るために必要な処置を良く知っている。この場合、何も感じないことが最善の道だった。
 大作は動きを止めた母親に、自らの足で近付いていった。車椅子の老婆と若い女性患者が、突然凍りついた友子を訝しげに見詰めている。友子の視線の方向を辿り、やがて彼女たちも大作の存在に気付いた。
 二メートルほどの距離を置いて、大作は立ち止まった。友子は突然現れた息子の姿を、信じられない物を見るような眼で凝視している。部外者たちは二人の間にある不穏な空気を察知し、固唾を呑んで様子を窺っているようだった。
 大作は三人の女性を順々に眺めた。最後に母親に視線を戻し、ゆっくりと口を開く。
「母さん。これ、どういうこと?」


    6

 井上家には明りがついていなかった。どの部屋からも全く光が漏れ出していない。陽祐は門の前に佇み、しばしインターフォンを鳴らすべきかを考えた。心身ともに疲れきっているせいか、状況に素早く対応できない。電気が消えていることについては幾つかの可能性が考えられそうなものだが、鈍った思考力はどんな仮説も提供してくれなかった。もうなにも考察したくない。人知れず遠い場所で、ただ時間が流れに身を任せていたい。
 風の音がわかるほど、夜は静かだった。どこの間抜けもやらないような調子で、ぼんやりと闇色の井上家を眺め続ける。どれくらいそうしていたか分からない。ようやく、大作が待ちくたびれて寝てしまったのではないか、と思いついた。とはいえ、極度の空腹を抱えた人間が簡単に眠り込めるかは怪しいところだ。約束の時間を六〇分も超えて現れた人間を、大作はどのように迎え入れるだろう。
 結局、インターフォンは鳴らさないことにした。門を開け、玄関ドアに直接向かう。重たい身体を引きずるような歩き方になった。門から玄関までの距離がやけに長く感じられる。
 ひんやりと冷たいノブを捻ると、案の定、扉はすんなり開いた。中に入り、無言のまま靴を脱ぐ。今のところ、大作の気配は全く感じられなかった。
 三個の弁当と二個のサラダセットを購入してコンビニを出ようとしたとき、店内の時計は九時を少し過ぎていた。あれから井上家まで一〇分ほど歩いたが、それにしても高校生の標準的な就寝時刻には早すぎる。廊下から声に出して大作の名を呼んだが、応答はなかった。弁当の入ったコンビニ袋を持ち直し、空いた右手で廊下の電気スイッチを探る。あまり苦労はしなかった。一瞬にして辺りが明るく照らし出される。そのまま居間に向かった。ドアを開ける前から、そこに誰もいないことが何となくわかった。思っていた通り、室内には物悲しくなるような無人の静寂が巣食っていた。
 ついこの間まで、ここに友子がいたことを思い出す。彼女は、はじめて陽祐のために料理を振舞ってくれた女性だった。彼女の隣にはいつも、息子の姿があった。なにが楽しいのか、大作はいつも笑っていた。今では遠い昔に見た幻覚であったような気がする。
 ダイニングルームにも大作の姿はなかった。キッチンの蛇口から、水が滴り落ちてシンクを打つ音が聞こえてくる。陽祐はレバーを起こし、水を完全に止めた。隣に眼をやるとコンロには鍋が置いてあり、中に緑色の枝豆が大量に入っていた。陽祐によって弁当が届けられるまで、枝豆を食べながら待っている。記憶が確かなら、大作はそう言っていた。なぜ、彼はそれを実行しなかったのか。
 ダイニングのテーブルに、袋のまま弁当を置く。念のため二階の部屋も覗いてみたが、大作はどこにもいなかった。彼のベッドは、持ち主の性格を示すようにきちんと整えられている。学習机にも主の姿はない。トイレも無人だった。陽祐はようやく、大作がこの家の中に存在しないことを認めた。最後に、思いついて玄関に向かった。学校指定の革靴は揃えて置かれていたが、大作愛用のスニーカーが消えている。彼が何かの用で外に出たのは、もう確実だと考えてよいだろう。約束の時間を過ぎても陽祐が戻らないため、自分で食べ物を買いに出た可能性も高い。
 ダイニングに戻り、メモ用紙に書置きを残すことにした。留守のようなので約束の弁当を置いて帰る。好きに処理されたい。帰宅の連絡は不要のこと。これに、約束を破ったことへの謝罪の言葉も添えた。メモをコンビニ袋の中に入れ、井上家を出た。
 自宅までたどり着くのが限界だった。なぜこれほどに――と思うほど、絶望的な倦怠感が押し寄せてくる。ここ数日で抱えることになった精神的疲労が、一気に肉体的なそれへ転化したとしか思えない。大気を構成する粒子の一つひとつが、鉛ほどの重さを持って全身に絡み付いてくるようだった。
 不意にラジコンを思い出した。昔、ラジコンが欲しくてたまらなかった時期があった。一〇年近い昔の話になるだろう。誕生日に念願のそれをプレゼントしてくれたのは、記憶が確かなら持田明子の母親であったはずだ。あれは嬉しかった。喜んで持ち歩き、色んな場所で走らせた。だが、ラジコンの操作は困難を極めた。全く機体が言うことを聞いてくれない。イメージ通りに操れない。ときどき、コントローラを地面に投げつけたくなるような衝動にかられた。今の自分の身体は、あの時のラジコンそっくりだ、と思った。もどかしくなるほど制御が上手くいかない。なんとかリヴィングまで身体を運び、ソファの上に放り投げることに成功したときは、心の底から安堵した。
 暗がりの中、静かに目蓋を閉じた。深く息を吐き、しばらく待つ。期待した眠りは一向に訪れなかった。確かに空腹はある。だが、それは問題ではないような気がした。自分の分を含めた三つの弁当を全て井上家に置いてきたのには、それなりの理由がある。故意によるものだ。どの道、食事が喉を通らないのは分かっていた。
 それより、もっと切実に必要なものがある。恐らく、警官たちと覆面車に乗る前から知っていたことだった。今日はアルコールが必要になる。その助けが不可欠な夜になる。そう思ったのだ。予測は正しかった。
 同じことは、これまで四度経験している。一度にあまりにも多くの物事が起こり過ぎたとき、言葉でも行動でもどうしようもなくなったとき、その力を借りてきた。かつてシンガポールに、そのことを教えてくれた人間がいたのだった。治安が良く清潔感のある国のように思われがちなシンガポールだが、それは観光客が訪れる南部に限られたイメージに過ぎない。彼女は、旅行者たちとは無縁の北社会に住まう、年老い、薄汚れ、疲れ果てた華僑だった。それでも陽祐を惹きつける何かがあった。子供心にも、彼女が特別な女性であることを感じた。あんな風に魅力的であった女性には、二人と出会ったことがない。これからもそうだろう。
 彼女は簡単な英語で言った。子供だって、大人と同じものを背負ったときは、同じものに頼っていいはずよ。それが世のなか不公平なりの公平ってもんじゃない。
 あのとき、急性アルコール中毒にならなかったのは奇跡だったのだろう。だが、定められていたことでもあったような気がする。極少量ではあったが、子供には度の強い酒だった。喉を焦がすように流れていく熱い液体。鼻を抜けていく仄かな香り。
 あんた、私の弟《ディーディ》にならない?
 義姉というよりは、義理の祖母に近い年齢だったに違いない。陽祐を日本人扱いも、子供扱いもしなかった初めての人間だった。こちらの話に耳を傾け、また色んな話を飾り気のない言葉で聞かせてくれた。なぜ、彼女がそんな気になったのかは分からない。名前すら知らない。だがその日、陽祐は全てを忘れて安らかに眠れたのだった。
 ――ソファに横たわりながら、不思議に思った。さっきから、昔のことばかり思い出している。過去には、ろくなことなどなかった。逃げ場になるほど輝かしい記憶があるのなら、アルコールも必要ないだろう。それでも過去は、この先にある現実よりはましな物なのかもしれない。それが分かっているからなのかもしれない。
 陽祐は苦労して眼を開き、その倍の努力と引き換えにソファから身体を起こした。墓から起き出した死体のようにキッチンまで歩き、食器棚の一番上から <ワイルドターキィ> のボトルを引っ張り出した。ラッセルのケンタッキィ・スピリット。一〇代の者が飲むには高い酒である。父親の名前を使い、通信販売で手に入れた秘蔵の品だった。二年前、封を一度破っている。これをストレートで飲む。安酒ではこのような扱いに耐えられない。空腹を保ったのは、少量で酔えるようにするための配慮であった。
 ソファに戻って、グラスに最初の一杯を注ぎ込んだ。ボトルを新聞の散乱したテーブルに置く。
 ふと、未成年者の飲酒を禁止する法を思い出した。気の利いたルールだった。アルコールの摂取は、未発達な肉体に悪影響を及ぼす可能性がある。誰もが教えてくれることだ。だが、そうした気の利く連中も、アルコール抜きで世の中を生き抜いていく術までは教えてくれない。
 それに、たとえ法を遵守していても、 <摩り替わり> が起これば全ては台無しだ。飛んだ先の世界では、法律が違っているかもしれないからだ。アルコールそのものが存在するとも限らない。
 飲酒が違法だというのなら、いっそ捕まえてもらっても構わないのだ。むしろ、そうすべきだろう。罪状は飲酒に限らず何でも良い。怪奇的な現象を幾度も経験し、もはや正気を保っているとは言いがたい人間なのである。拘束服を着せ、手枷足枷をはめて、窓の無い独房に放り込めばいい。
 それでも、何年かすれば <摩り替わり> が発生するだろう。行く先の秋山陽祐は、カトリックの神父として知られているかもしれない。警官の職を持っているかもしれない。そういう狂った世界に、自分はいる。
 重たい音がして、我に返った。右手からグラスが消え、代わりに空を掴んでいる。薄闇の中、手の色がいつもと違って見えた。恐らく、指先まで真っ赤に染まっているのだろう。しかも冗談のように震えている。
 リヴィングのカーテンは引かれていなかった。大きなガラス戸から青白い月明かりが差し込んでくる。その光で、床にグラスが転がっていることに気付いた。割れてはいない。だが残っていた中身がこぼれ、素足の爪先を濡らしている。知らぬ間に相当の量を飲んだようだった。視界が歪み、頭の芯を締め付けられるような痛みが走った。身体が燃えるように熱い。ボトルの中身はほとんど残っていないように見えた。
 またゆっくりとソファに倒れこむ。このまま死ぬまで眠りたいと思った。それが無理ならば、せめて朝までは静かにいたい。
 この春から、東北の田舎街で生活することになった。――だからなんだ。父親がまたシンガポールに赴任した。どうということはない。何年かぶりに従弟と再会し、持田明子ともまた会った。秋山陽祐を憎悪する、得体の知れない人間も現れた。その人物から奇妙なメモや手紙が送られてくるようになった。頭のいかれた女に襲われた。二日後、通り魔は死体で見つかり、その隣でクラスメイトが半殺しにされていた。生まれて初めて刑事の訪問を受け、生まれて初めて死体を見た。
 滅茶苦茶だった。狂っているとしか思えない。だが、もう何もかもがどうでも良かった。知ったことではない。全部忘れて眠るのだ。そう思った。アルコールがそれを助けてくれる。
 思考がぼやけ始め、やがて望んでいた眠気が訪れた。底の無い沼へ引きずりこまれるように意識が沈んでいく。静けさに包まれる。
 セスナ機のエンジンを止め、風の流れに身を任せて柔らかに蒼穹を漂う。無人の海原に仰向けで横たわり、穏やかな波に優しく揺られる。そんな眠りだったような気がする。魔力を得た、安らかな時だった。
 だが、終わりのときは来た。どこか遠くで虫が鳴いている。鈴が鳴るような音だった。長い時間をかけて、それが徐々に大きくなる。耳に近付いてくる。最後には、陳腐な電話の呼び出し音になった。
 ゆっくりと目蓋を開く。不快感は多少あったものの、不思議とあまり腹は立たなかった。酔いは醒めていた。その魔力が失われるのと引き換えに、人格が再生されたような気がした。
 世界は暗く、奇妙に傾いて見える。まだ夜は明けていないようだった。街灯の微かな光を頼りにして、横に長いガラス戸が見えた。室内の調度品は、ほとんど墨のように真っ黒いシルエットとしてしか認識できない。電話の音は、どうやら本当に鳴っているようだった。もしかすると、もう随分と長いこと続いているのかもしれない。
 陽祐は慎重に身体を起こし、ソファに座り直した。それほど恐れてはいなかったが、飲酒に伴う頭痛の類はなかった。学生時代の母親は、有名なうわばみ女として知られていたらしい。アルコール類への強力な耐性は、恐らく彼女から受け継いだ体質によるものなのだろう。
 眼を凝らしてTV台のヴィデオデッキを見ると、デジタル時計は午前四時半を示していた。たぶん五、六時間は眠った計算になる。
 足元にはロックグラスが転がっていた。拾い上げ、テーブルに置く。しばらく、糸の切れた操り人形のようにその場に佇んだ。低血圧の人間には時おり見られる現象である。端からは、魂が抜けてしまった抜け殻のように見えるに違いない。
 何分かして我に返った後、ソファに座ったまま電話にでるべきかをぼんやり考えた。真夜中に延々となり続ける電話が、まともな用件を伝えてきたことなどない。そもそもまともな精神の持ち主なら、こんな時間に電話をかけようとは思わないだろう。
<ワイルドターキィ> のボトルを引き寄せ、グラスに少量注いだ。肩の部分に蛇腹のような装飾のついた奇妙なボトルだ。誰がデザインしたのだろう、と何気なく考えながら、酒を舐めるように啜る。
 鼻を抜けていく甘めの香りが消えるまで待ち、グラスをテーブルに戻した。立ち上がって電話に向かう。立ち暗みもなく、身体は思いのほか軽かった。日付が変わる前までの倦怠感が嘘のように消えている。若さというのもまんざら捨てたものではない。
 受話器を取り上げるとき、液晶パネルの放つ蛍光が微かに滲んで見えた。醒めたと思っていたが、まだ酔いは残っているのかもしれなかった。体の奥で、墨がくすぶるように仄かな熱を発している。
「はい、秋山です」
 言ってから、非礼を承知で深く息を吐き出した。アルコールを含んでいるときは、いつも溜息を吐きたくなる。自らの吐息に強い酒の匂いを感じながら、この時になってはじめて、英文がシンガポールからかけてきた可能性を考えた。とはいえ、向こうと日本との時差は一時間である。こちらが真夜中なら、シンガポールも深夜であることに違いはない。
 応対に出ても、受話器の向こうの人間はなかなか口を開こうとしなかった。無言のやりとりが不自然なほど長く続く。電話が鳴っていたように思ったのは、酔いがもたらした幻覚だったのかもしれない。自分は今、存在しない相手のために受話器を握り締めているのではないか。そんな疑念さえ沸いてくる。
 深呼吸しながら、空いた手で眉間を揉んだ。冷静に考え直す。幾ら強い酒を飲んだからといって、幻聴はありえない。間違い電話か、或いは意味のない悪戯電話であると考えた方が現実的だろう。
 もう一度、深く息を吐き出した。結論が出た途端、寝起きのぼんやりした頭でも、流石に腹が立ってきた。これ以上は時間の無駄と判断して受話器をフックに戻しかける。
 瞬間、その声は聞こえてきた。
「もうじき、あんたに会いに行くよ」
 女の声だった。乾き、かすれている。酷く年老いた人間が、肉体に負担をかけない方法で喋ろうとしているようであった。
 知り合いではない。だが、悪戯でも間違いでもない。直感的に分かった。あいつだ、ともう一人の自分が心のどこかで盛んに叫んでいる。――その通りだった。間違いない。
「なにを安心している? 秋山陽祐」
 受話器の向こうで、女は言った。
「選択肢はすべて人名だよ。あした、全部揃う」
 体内に残っていた酔いが一瞬にして霧散した。気化したアルコールが、火照っていた体からごっそり熱を奪っていく。全身を駆け抜けた寒気のせいで、脳が萎縮したような気がした。
 陽祐が戦慄するそのさまが眼に見えているかのように、相手が唇を歪めた。声を立てて笑ったわけではない。だが、なぜか陽祐にはそれが分かった。
「――俺だよ。あの夜、二階の廊下に紙を置いたのは」
 感電したように身体が大きく跳ねた。脇の下を冷たい汗が伝っていく。既に分かってはいたが、なにを言われたのか理解したくなかった。心臓が早鐘のように鳴っている。なのに、息は全くできない。呼吸の仕方を思い出せない。
 電話越しにではなく、部屋の中で誰かが直接語りかけてきているような気がしていた。暗いリヴィングの片隅に、声の主が気配を殺して潜んでいる。そんな錯覚に襲われる。存在しないと分かっていても、視線をめぐらせてその姿を探さずにはいられなかった。
 いない。どこにもいない。或いは闇に溶け込んでいる。紙片の送り主は存在したのだ。声を持っている。姿は見えないが、もうじき会いに来ると宣言している。実在する。
 受話器を持つ手が滑った。てのひらは汗まみれだった。ようやく呼吸の仕方を思い出す。肺の空気を嘔吐するように出し、貪るように新鮮な酸素を吸った。
 電話はもう、切れていた。


to be continued...
つづく