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 第六章 「選択肢」


    1

 ドアは音もなく開いていった。遮るものが失われ視界が開ける。陽祐の眼に見えたのは、無限に続くかとも思われる長大な廊下だった。壁自体が淡い白光を放っているので通路は過不足なく明るいのだが、それでもあまりに距離があるため、先が霞んで見えない。
 廊下は不思議な材質で出来ていた。左右の壁、床、天井、どれもが同じ何かで構成されている。それはコンクリートなのかもしれないし、大理石やリノリウム、或いは未知の鉱物なのかもしれなかった。いずれにせよ陽祐にはその判断がつかない。ただ、どことなく学校の廊下に似た雰囲気があるような気がした。そのことに微かな安堵を感じている自分に気付く。
 通路の中心には、思っていた通り、小部屋から飛び出た巨大な血管の集合体が這い伸びていた。廊下がどこまで続いているのかは定かでなかったが、その終着点までこの管も途切れることはないのだろう。否、むしろこれは、通路の向こう側からこちらへ伸びている存在なのだ。樹木の張った、いわば根に近しいものなのである。自分はそれを逆向きに辿っているに過ぎない。
 陽祐はドアを開け放ったまま、廊下に足を踏み出した。この奇怪な有機体のパイプがどこまで続き、何に接続されているのか見届けなければならない。そんな使命感があった。
 静かな廊下に硬質の足音が淡々と木霊する。それを耳にしながら、無言で歩き続けた。左足を出し、それを軸に右足を出す。その右足を軸に再び左足を出す。延々と続く単調な作業の繰り返しだった。どこまで行っても景色は変わらない。いくら歩こうとも全く疲労しないせいで、自分がどれだけ足を動かし続けているのかも分からない。前に進んでいるかすら疑問に思えてくる。既に人の一生分に匹敵する時間進み続けたようにも思われたが、小部屋を出てから数分しか経っていないような気もした。
 不安はなかった。この通路に終わりがあることは分かっていた。その確信通り、程なくして終着点に辿りついた。廊下が唐突に途切れ、目の前に白い壁が現れたのだった。
 特別な感情はなかった。安堵も歓喜もない。当然の結果を、ごく自然に受け入れただけであった。そして静かに、行く手を遮る眼前の壁面を観察した。
 壁は廊下を構成する不可思議な物質と、全く同じもので出来ていた。染み一つない乳白色をしていて、自ら微弱な蛍光を放っているように見える。ソフトキャンディのような丸みと柔らかさを感じたが、触れると実際には硬いことが分かっていた。壁の中央には小部屋に付いていた物と同じドアが一つあり、やはり血管の集合体はそのドアの下部を貫通して向こう側に消えていた。
 このドアの先に答えがある。陽祐は迷わなかった。ドアノブに手を伸ばし、それを捻って押し開く。ドアは少しの軋みもあげず、自らを貫く有機体パイプの存在を無視してゆるやかに開いていった。
 瞬間、陽祐の鼓膜を金属質の甲高い大音響が襲った。狂人が巨大な釣鐘を乱打しているかのようだった。意識が夢の世界から遠退き、水中から急浮上するかのように覚醒へと向かう。
 陽祐はベッドサイドに手を伸ばし、時が来たとがなり立てる目覚し時計のベルを止めた。小さく呻きながら眼を開く。時刻は、セット通り七時一五分だった。
 しばらく寝ぼけ眼で佇んだあと、ベッドから抜け出した。トイレと洗顔を済ませて制服に着替える。低血圧の気があるため、動作の全てが寒さで凍えた恐竜のように緩慢だった。
 シャツに腕を通す時、左腕に走った鋭い痛みのせいで完全に目覚めた。顔を顰めながら何事かと窺ってみると、肘から手首にかけての部分が大きく腫れあがり、しかも内出血でどす黒く染まっている。一瞬で昨夜の出来事を思い出した。一日眠れば痛みも引いているだろうと思ったが、昨夜よりも状態が悪くなっている気がしないでもない。山下の忠告に従って、病院に行って診てもらった方が良いのかもしれなかった。
 着替えに関しては、もう一つネクタイという問題があった。大作や友子の話によれば様々な結び方があるらしいが、その一番簡単なものでさえ未だに修得しきれていない。しかし、結び目を解かず形を崩さないままにしてあったので、そのまま首輪を嵌めるようにして首元を締めつけていけば苦労することもない。陽祐は鏡で具合を確かめて、出来に満足した。
 業者の手違いのせいで一人だけ届くのが遅れていた教科書は、今日の午前中に届くことになっている。持ち帰る時のことを考えて大き目のバッグを用意し、とりあえず筆記用具だけを放りこんで登校の準備を整えた。
 井上家には七時半には到着した。大作は既に部の早朝練習に出たのだろう、玄関には靴が見当たらなかった。
「おはよう、陽ちゃん。今日は早起きじゃないみたいだね」
 ダイニングに入ると、キッチンカウンター越しに友子が笑顔を覗かせた。彼女には及ばないまでも、陽祐は笑顔を作って挨拶を返す。
「大作はもう行ったんですか」
「そう。せっかくなんだから一緒にご飯食べて、一緒に行ければいいんだけどね。あの子は部活があるから」
「その部活で怪我した時なんかに、大作が行く病院ってないかな」
 殴る蹴るといった要素を少なからず含む空手を続ける以上、大作は生傷の絶えない生活を送っているに違いない。そういう思考から出た自然な質問だったのだが、友子は何故かビクリと大きく身体を震わせた。
「病院って?」
「ああ、ちょっと怪我したんで。良い医者がいたら紹介してもらおうかな、と」
 陽祐は左腕のシャツを捲り上げて、腫れあがった部分を見せた。同時に、話すと心配されそうな部分を端折りつつセメントブロックに誤ってぶつけてしまった傷であることを説明する。
「これは酷いね、痛いでしょう。骨は大丈夫かな」
 友子は傷の様子を見ると、湿布を持ってきて丁寧に貼ってくれた。
「やっぱり病院に行ったほうが良いと思う?」
 陽祐が問うと、友子は曖昧な表情で小さく頷いた。
「多分そうした方がいいとは思うけど、保険証はあるの」
「保険証?」
 聞いたことはあるような気がしたが、詳しいことは知識になかった。記憶にも残っていない幼い頃、おたふく風邪と水疱瘡で小児科に連れ込まれたのを除き、陽祐は病院の世話になったことがない。数少ない自慢の一つだった。
「健康保険証よ。陽ちゃんは兄さんの扶養家族だから、社会保険ね。手帳くらいの大きさのやつだけど、預かってない?」
「どうかなあ」陽祐は首を捻った。保険やら年金やらという言葉はニュースで耳にすることはあるが、直接自分には関係しないものだと考えていた。長く必要としなかったので、英文も管理を御座なりにしているのかもしれない。 
「困ったね。陽ちゃんのは遠隔地用の保険証なのかしら。あれがないと、医療費を全額自己負担しなくちゃならなくなるの」
「あったら幾らになるんですか」
「普通は三割自己負担だから、七割引になるかね」
「七割? 凄いな」陽祐は眼を見開いた。「医療界って年中バーゲンみたいなことやってるのか」
「シンガポールに電話して、兄さんに訊いてみたほうが良いかもしれない。大切なものだから。お金だって借りられちゃうのよ」
「じゃあ、帰ったら連絡してみようかな」
 陽祐は湿布の礼を言うと、ダイニングの食卓についた。既に友子の手によって朝食の準備は整えられている。スクランブルド・エッグズにトースト、生ハム、林檎、バターで炒められたらしきアスパラガスがメニューであった。
「――ああ、そう言えば陽ちゃんにも言っておかなきゃね」
 さっそくトーストに齧りついていると、友子が再びキッチンから出てきて言った。手には自分の朝食をのせたトレイを持っている。彼女もこれからすぐに出勤なのだろう。
「実はね、明日から会社の研修の関係でしばらく家を空けなきゃいけなくなっちゃったのよ」
「え、叔母さんが?」急な話に、陽祐は少なからず驚いた。
「そうなの」友子は陽祐の斜め向かいに腰を落とすと、小さく手を合わせてからナイフとフォークを握った。「この前の夜、うちに電話がかかってきたでしょう。陽ちゃんを晩御飯に呼んだ時だけど」
「そう言えば、なんか仕事関係でトラブったとかなんとか言ってましたね」
「あれがその話だったの。研修自体がもう少し先の話だったし、参加するかどうかの返事も時間をかけて考えてからでいいって言われてたんだけどね。企画を早めることになったから、早急に決めてくれって」
「へえ――」陽祐は感心しながら頷いた。小さな会社ではあるが、友子は勤め先で責任ある仕事を任されていると聞く。その人間に研修の話が持ち上がったということは、更なるステップアップのチャンスを与えられたということなのだろう。「で、研修って?」
「システム管理関係のね、海外でも通用する資格があるんだけど、それを取得するの。英語でやる試験だから、語学研修もセットでやるんですって」
「聞いたのは失敗だったな。全く理解できない」
 機械関連に疎い陽祐は、話に「システム」という言葉が含まれただけで、それが高尚なものだと思い込んでしまう。それだけ、パソコンやコンピュータは大の苦手としていた。先日も、明子に連絡先を教えてもらったはいいが、携帯電話にうまく登録できず結局は泣きついて本人に代行してもらったくらいだ。
「ま、良い話みたいだし。遠慮なく行ってきたら?」
「確かに良い話なのよ。扱える仕事の幅も広がるし」それによって開ける明るい未来を思ったか、友子の表情がぱっと明るくなった。だがそれも一瞬のことで、たちまち彼女は萎むように落ちこんだ。「ただね、研修期間が長いのよ。三ヶ月近くも」
「三ヶ月? 確かに、そりゃちょっと長いな」
 なんとなく数日から一週間程度と考えていたのだが、三ヶ月というのは意外な長さだ。大作は学校と部活、それに受験勉強で忙しい。友子のサポートがそれだけの長期間失われると苦労もあるだろう。
「でも言われてみれば、語学研修ってのは何日とか何週間とかじゃ効果は出ないな。むしろ三ヶ月でもまだ短めかもしれない」
 陽祐は一度だけ海外生活を経験したことがある。一年に満たない短い期間だったが、言葉の問題では色々と苦労させられたものだった。何とか英語で日常会話をこなせるようになるまで、たっぷり半年はかかったはずだ。
「で、大作は?」
「あの子は、頑張れって応援してくれたけど――」友子は申し訳なさそうに眼を伏せた。「陽ちゃんは大丈夫かしら」
「俺は構わない。何なら、大作の晩飯の面倒だって見てやってもいいですよ。どうせ、昔から父さんの分と合わせて二人前、俺が毎日作ってたんだ」
 陽祐は頭の中で計算しながら言った。自炊をするなら、一人前より複数分を一気に作り上げた方が、かえって経済的なこともある。その割に手間はほとんど変わらないし、材料費を幾らか友子に補助してもらえれば、充分にやっていけそうだった。
 それに、もし可能であるならば、自分のような消極的な生き方を他人にはしてほしくなかった。 <摩り替わり> に台無しにされる恐れがないのだから、一般人はあらゆるチャンスを積極的に受け入れるべきだ、と陽祐は考えていた。せっかく普通に生まれたのである。そうでなければ勿体無いではないか。
「ずっと一人で子供の面倒見てきて、やりたいことも全然できなかったんだ。大作が構わないって言うんなら、俺は叔母さんの好きにすればいいと思う」
 英文の姿を見てきた以上、友子の苦労を想像するのは容易かった。否、仕事を持っていなかったことを考えれば、その負担は英文のそれを超えるものだったかもしれない。それでも彼女は、女手一つで大作を立派に育ててきた。もういい加減、解放されてもいい時期だろう。
「うちの親父だってワガママ通して念願のマイホーム建てた。叔母さんも見習って、少しくらい好きに生きた方がいい」
 それを聞いた友子は、驚いたように眼を小さく見開いた。そして一瞬だけ、言葉に詰まったように俯く。
「まさか陽ちゃんにまで、そんな風に言ってもらえるとは思ってなかったね」そう呟くと、彼女は顔を上げて微笑を浮かべた。それは何故か、少し寂しげなものにも見えた。「兄さんが安心してシンガポールに行けた理由が分かった気がする」
 それはどうだろうか、と陽祐は胸の内で苦笑した。帰って来た時、自分に家の管理を任せていったことを英文は大いに後悔するかもしれない。――だが、せっかくお褒めの言葉をいただいたのである。ありがたく頂戴しておくことにした。
「陽ちゃん、ありがとね」小さく鼻をすすると、友子は言った。「じゃあ、お言葉に甘えて行かせてもらうことにしようかな」
「絶対それが良いよ。大作なら大丈夫だろうし」
「私がいない間、あの子を助けてあげてね」
「俺が逆に助けられるかもしれないですけどね」
 そう言うと、友子を安心づけるように陽祐は微笑んだ。


    2

 四月一二日火曜日、諸岡悟子は勤務先を早退し、午後からTUT付属病院に向かった。梓の移植に関して、重要な報告があると告げられたからであった。連絡してきた事務員は詳しいことを言わなかったが、用件に察しはついている。移植関連の調整を司るデータバンクから照会結果が通達されたのだ。
 梓に必要な造血肝細胞移植というのは、その名の通り、他人から造血幹細胞を分けてもらい、病気に犯されて機能しなくなった梓のそれと交換する治療のことだ。点滴のような輸注で済むためイメージは全くことなるが、原理的には心臓や腎臓などの移植と大きな違いはない。相性が悪いと拒絶反応が起こり、移植が失敗するだけでなく患者の命に危険が及ぶあたりも同様だ。
 だから梓と相性の良い造血幹細胞を持つ人間を探し出し、移植のために提供してくれるよう交渉しなければならないのだが、これを個人レヴェルで実行するのは困難である。そのため有志が国からの補助金を得てデータベースを作り、一手にコーディネートを代行するシステムを構築した。現在の日本では、このデータベースを介さないと第三者からの提供による造血幹細胞移植は実現しない。
 梓はしばらく前から移植の準備を進め、データベースに提供者の検索とコーディネートを依頼していた。恐らくその結果が出たのだろう。相性の良い造血幹細胞の持ち主を見つけ、交渉に入ったという報せか――或いは条件の合う提供者を見つけることができなかったという報告かは分からない。いずれにせよ、梓にとっては運命を決する告知となる。
 小児病棟に辿りつくと、悟子はすぐに看護師の案内で棟内の小会議室に通された。 <ムンテラ> と呼ばれる病状の説明や治療方針に関する説明、またカンファレンスなどを行うための小部屋である。かつて、もう移植でしか梓を救えないだろうという告知を受けたのもこの場所だった。
「どうも、お待たせしまして」
 ほどなくして、主治医の田中教授が姿を現した。名古屋から引き抜かれてきたという小児癌の専門医で、既に初老の域に達して久しい男性医師だった。顎にたくわえられた山羊を思わせる髭も、歳の割に豊かな頭髪も、まるで生まれた時からそうだったように真っ白く染まっている。その容貌と温厚な性格から、患者の子供達に「サンタ先生」と呼び親しまれているベテランだった。
 彼は三〇代半ば程度と思われる女医を引き連れていた。確か助教授で、名前は森緒といったはずだった。彼女ともう一人の研修医を含めて、梓の治療チームは構成されている。
「今日わざわざお越しいただいたのは、諸岡梓ちゃんの今後の治療方針について少しお話する必要があると思ったからです」
 悟子に椅子を勧め、自らもテーブルを挟んで向かい合う位置に腰を落ちつけると、田中教授はおもむろに口を開いた。
「前にもお話した通り、梓ちゃんの病気を根本から退治して完治させるためには、移植という治療を選択するのがもっとも効果的である――と我々は判断しました。この二年間で最初は効果をあげていた免疫抑制療法や、 <抗リンパ球グロブリン> だとか <シクロスポリン> だとかいった薬があまり効かなくなってきたからです」
 田中医師は、専門知識を持たない患者家族でも理解しやすいよう、なるべく医学用語や難解な表現を避けて噛み砕いた説明をしてくれる。普段は有難いと思うが、今日ばかりはそれに苛立ちを感じた。早く結論を知りたい。 
「それで梓ちゃんやお母さんにもそのことを説明し、移植を前提とした治療を行っていくことを決めた次第です。ですが、移植をするためには適当な条件を備えた提供者――いわゆるドナーを探してこなければなりません」
 悟子は了解していることを示すため、また話の続きを促すために小さく頷いてみせた。田中医師も悟子のその心中を察したのだろう、間を置かずに再び口を開いた。
「そこでバンクにHLAデータを渡し照会を求めたのですが、結論から申しますと、梓ちゃんと相性の良い適合ドナーは見つかりませんでした」
 衝撃を受けたり、極度の緊張状態に陥ったりすると胸の鼓動は早まるものだ。しかし、この時ばかりは逆に感じられた。世界の全てが凍てつき、自分の鼓動さえもがその動きを止めてしまったかのような錯覚に襲われたのだった。
「それは最終的な結論なのでしょうか」悟子は言った。
「残念ですが書面による正式な回答です。最終的な結論と考えてさしつかえないでしょう」
「日本以外にも――」悟子は食い下がる。「アメリカやオーストラリア、ブリテンなどにもドナープールはあると聞きますが」
「今回の結論は、それを含めたものです」
 医師は苦渋の表情を浮かべていたが、返答そのものは極めて無慈悲なものだった。
「国内のことに関しては、数日から数週間で結論が出ます。実際、我々は先週中にその返答を受け取っていました。ですがそれがネガティヴなものでしたので敢えて伏せさせていただき、こちらで勝手に海外のデータバンクに照会を依頼させてもらっていた次第です」
 既に台湾とアメリカのデータバンクから「該当者なし」の回答が返っているという。ドナープールは、他にも韓国や香港、ニュージーランド、EU諸国、北欧、カナダ、タイなどにも存在する。しかし日本が提携を結び、迅速な対応が期待できる相手は限られているのが現状だ。その上、海外のデータバンクは登録者にばらつきがあり、人種も異なるため良い結果が出る可能性は低いだろう、と医師たちは付け加えた。
「しかし、僅かでも可能性があるならそれに賭けたいのです」
 諦めるわけには断じていかなかった。ここで歩みを止めることは、すなわち梓そのものを見放すことになるのだ。この問題は、彼女の命と直結している。
「もちろん」田中教授は何度も頷いた。「当然、その通りです。可能性が潰えたわけではありません。まだ検索結果が出ていない韓国のドナープールにも、急ぎ結果を求めるつもりです」
「しかし、趨勢が見えつつある以上、私たちはドナーが見つからなかった場合のことを考えて、それに備えておくべきだと思います」
 女医が、師父の言葉を補足するように言った。
「それは、梓の移植が実現しなかった場合のことを考えておけ、ということですか」
 相手の言葉を、表現だけ変えてそのまま繰り返す。普段の悟子が無能の証として侮蔑する類の行為だったが、今は自らがその轍を踏まずにはいられなかった。
「言いにくいのですが、そう受けとっていただいて構いません。アジア諸国の場合はドナープールの歴史が浅いですから、まだまだ登録者を稼ぎ切れていません。いずれにしても、各数万程度の小さなデータバンクです。期待はしますが、分の悪い賭けであることは否定できないでしょう。森緒先生の言うように、万が一の場合の備えはしておいた方が良いと思います」
 確かに、移植を望みながら様々な障害に阻まれ、その実現を断念する患者は多い。現に国内のデータベースには、移植希望の患者から毎月三〇〇〇件を超えるドナー待ち登録があるというが、造血幹細胞移植の実施件数は年間七五〇件弱と、ニーズの三分の一にも達していないのである。
 ドナープールに提供者の捜索を依頼する者の多くは、移植という治療に最後の望みを託した重病患者だ。移植を行えなければ助からないケースが多い。このTUT院内でもドナーを見つけることができず、移植を断念して死亡していく患者が跡を絶たなかった。悟子も幾度か、提供者を見つけられなかった親子が、死に逝く我が子をなす術なく見送る姿を見かけたことがあった。
 日本人の多くは、こうした現状を知らない。だから充分な技術と経済力を持ちながらデータバンクを充実させることができず、治療して生きたがっている何千何万という患者を見殺しにしている。
 アメリカは既に二〇〇万人を超える提供希望者のデータを集めているが、日本のそれはまだ二〇万程度だ。イギリスのボランティアグループはたった六週間で一〇万人分のデータを集めたが、同じ人数の協力者を日本のグループが集めるまで六年以上の歳月を費やした。自分である必要はない、どうせ他人がやるだろう、という論理で協力を拒む人間が日本人の大多数を占めるからだ。
 梓も彼らの無知と無関心に少なからず影響され、そして死ぬかもしれない。その可能性が高まった、と医者達は告げているのだった。
「我々が考える限り、梓ちゃんに残された方針は大きく三つあると思います」しばらくの沈黙を挟み、田中教授は言った。「一つは条件の良いドナーを見つけ出し、理想的な移植を行うことです。ただし、現時点においてこれを実行することは不可能です」
 悟子は身動ぎ一つせず、唇を固く結んだまま言葉の先を待った。
「二つ目は、移植を強行することです。相性ピッタリとは言わないまでも、部分的になら合うという提供者なら比較的簡単に見つけられるはずです。梓ちゃんの場合、身体が小さめなので臍帯血というものを使った移植も可能でしょう。条件にさえこだわらなければ、これを行うことはすぐにでも可能だと思います」
「では――」悟子は思わず腰を浮かしかけた。
「しかし、この選択には大きなリスクが伴います」森緒助教授が素早く指摘した。「臍帯血を使った移植は、まだ国内において実績が少なく病院によって評価がばらついています。また相性が合わない骨髄の場合、梓ちゃんの身体に定着しない可能性があります。輸血回数の多い患者さんの場合はなおさらです。いわゆる拒絶反応の影響なのですが、これが起これば移植が失敗に終わる確率は非常に高くなるでしょう」
 しかも、移植を受ける患者は例外なく免疫機能が低下するため、普段は何でもない病原体にも悪影響を受けやすくなる。移植の失敗は梓の身体に深刻な悪影響を与えるだろう、と彼女は続けた。実際、失敗後に感染症で亡くなる患者は非常に多い。
「三つ目はなんでしょうか」悟子は絶望的な思いで訊いた。
「三つ目は、私たち専門医が <支持療法> と呼んでいるものです」
 支持療法。その言葉は悟子にも聞き覚えがあった。梓の病気が発症したばかりのころ、別の病院の医師に聞かされた話にあったものだ。だがそれは場当たり的なもので、積極的な治療案ではなかったはずである。
「支持療法というのは、病気の根本的な治療ではなくその症状を改善するだけの治療のことです。貧血や血小板の減少には輸血、白血球の減少に対してはホルモン剤の投与、また敗血症や肺炎には抗生物質で対応していくというやり方です。最後の時が来るまで、梓ちゃんの負担と苦痛をなるべく軽減しようというのが主な目的です」
「待ってください」その声は奇跡的に、上ずることも悲鳴のように甲高くなることもなかった。「それはどういうことですか? 私たちは梓を救う方法を考えているのではなかったのですか。私は梓を助けたいんです。あの子をどうやって死なせるかなどに興味はない」
「諸岡さん」田中教授は辛そうに眼を細めた。「どんな親でも、子供にはできるだけ長く生きて欲しいと願います。どんなことをしてでも生かしたいと考えるものです。ですが、そのために辛い治療を行うのは子供自身なんです。我々大人が望む治療を、子供が同じように望んでいるとは限りません」
「親が、子を生かしたいと願うのはエゴですか」悟子は挑みかかるように医師たちを睨みつけた。「だったらそれでも構いません。私はどんなことがあろうとも、娘に生きていて欲しい」
「私たちは今、少し感情的になり過ぎているのかもしれませんね」
森緒医師が静かに指摘した。「現在の話題となっていることは、この場で早急な回答が求められる種のものではありません。少し時間をかけて、親族の方やご友人などと一緒に考えられてはどうでしょうか。お望みなら同じ経験をなさった方々のコミュニティを紹介することもできますし、違う考え方をするかもしれない医師を紹介することもできます。色々な人の意見を聞いて、結論を出すのはそれからということで構いません」
「時間はどのくらいあるんでしょうか」
「多分、来週には移植調整部国際担当を通して、各国からの照会結果が集まるでしょう」答えたのは田中教授だった。「もしドナーが見つかれば、それから本格的な準備にはいります。見つからなければ、その時点から方針を変えて治療に望まなければなりません」
 つまり、来週までに梓の今後をどうするのか決めて来い、ということだった。
「――分かりました。それまで少し時間を下さい」


    3

 授業が終わり一〇分間の小休止が訪れるたび行動に出ようとしたが、渡瀬啓子が実際に動けたのは、四時間目が終了し昼休みに入ってからだった。普段ならこの時間には、山下と一緒に中庭で弁当を食べることにしている。この日はその例外だった。少し遅れてから行く旨を告げて山下を教室から送り出すと、啓子は秋山陽祐の席に向かった。都合の良く、彼の周囲には人影がない。仲の良い井上副部長は学食へ向かったようだし、持田明子も女友達のグループで外に出たようだった。話しかけるには絶好の機会である。
 ――昨夜は眠れなかった。やはりあれは、山下の言うように通り魔の仕業だったのだろうか。見たこともない若い女が突然現れ、帰宅中の自分たちに襲いかかってきたのには心底驚愕した。山下に玄関前まで送り届けてもらうと、ほとんど直行という感じで自分の部屋に駆け込んだが、幾ら深呼吸しても動悸は収まらず、全身を襲う小刻みな震えも止まらなかった。気がつけば終わっていたという感じで、詳細は何も覚えていないに等しいが、それでもひたすら怖かった。
 昨夜ほど山下と一緒に登下校する習慣に感謝したことはない。もし彼と一緒でなかったら殺されていたかもしれないのだ。
 否、もしかしたら山下と一緒にいたからこそ、啓子は襲撃現場を目撃することになったのかもしれなかった。これは秋山が指摘していたことでもあるらしいが、あの通り魔は最初から山下一人に狙いを絞って行動していたような気がする。だとすれば、一体どうして彼が標的に選ばれたりしたのだろう。
 何にせよ、啓子は怯えて立ち竦むばかりだった。最初に何か叫んだあとは恐怖で声帯が機能せず、悲鳴の一つすらあげられなかったのである。その一方で、相手が通り魔とはいえ、空手の有段者が一般人に拳を振るえば大変なことになるかもしれない――そう冷静に判断し、己の危険も顧みず山下を押し止めてくれたのは部外者である秋山陽祐だった。
 啓子を守るために構えを取ろうとした山下、その山下を案じて無関係の事件に介入した秋山。誰もが他人のことを考えて行動したのに対し、啓子は自分の恐怖に翻弄されるだけで精一杯だったのであった。自分の面倒すら見られず、一方的に保護されたのだ。
 しかも、そのことに気付いたのは今朝方のことだった。一晩恐怖に苛まされ、朝になってようやく落ち付きを取り戻すに至って、啓子は初めて冷静に事件を振り返ることができたのである。いかに自分のことだけしか考えていなかったかの証明だった。自分が情けなくて涙が出てくる。
「――あの」
 傍らまで寄ると、啓子は勇気を振り絞った。弁当の包装を解くのに集中していた彼は、ようやくその声に顔を上げる。何か言われる前に、啓子は思い切って頭を下げた。
「昨日はありがとうございました」
「渡瀬さんだっけか」秋山は疲れたような笑みで言った。「昨夜の話だろ。あれから大丈夫だったか?」
「山下君が送ってくれたから」
「そうか。何にしても丁度いい。昨日のことでちょっと訊きたいことがあったんだ。良かったら前の席、座ったら」
 秋山の勧めを丁重に断ると、啓子は話の続きを促した。どうせ山下は、啓子を待つまでもなくさっさと昼食に箸をつけるだろう。少しくらいなら秋山の話に付き合うのも構わないはずだった。
「訊きたいのは山下のことなんだけどさ」秋山はコンビニ弁当を広げながら言った。「昨日みたいなこと、前にもあった?」
「ううん」啓子は慌てて首を左右した。「はじめて」
「じゃあ、あの辺にああ言う通り魔みたいな奴が出るって聞いたことは?」 
 啓子は再び首を横に振る。連続通り魔事件なら数年前にもあったが、あの時はもっと騒がれた。小学生が刃物で斬りつけられるというショッキングな話だったせいもあるだろうが、保護者や自警団が臨時パトロールをはじめたし、学校でも注意を促されたものである。もし似たような事件が起こっているのなら、何かしらの動きが周囲で見られるはずだった。
「当然、警察や学校には報告してないんだよな。家族の人には話したりした?」
「話したら、たぶん心配するから」
 遅くに生まれた一人娘であるためか、啓子の両親は我が子を過保護に育ててきた。特に母親はその傾向が顕著で、山下と会うことにすら難色を示している。彼が中学時代に起こした暴力事件の噂を聞きつけ、山下剛という人間を偏見に満ちた目で定義してしまったせいだ。以来、彼女はすっかり、山下と付き合うことが啓子にとってマイナスにしかならないと信じきっている。山下に巻き込まれて通り魔に襲われたかもしれない、などと告白すれば二度と会わせてもらえなくなるかもしれなかった。
「渡瀬さんも色々大変みたいだな」
 啓子の表情から何かを察したか、秋山は同情の笑みを浮かべた。
「――昨夜もちょっと言ったと思うけど、あの女は俺の後ろ側から現れたんだ。なのに俺には目もくれず、真っ直ぐに山下に向かっていった。何で近くにいた俺を追い抜いて、山下に行ったんだろう。襲う相手が誰でも構わないなら、近くにいた俺に襲いかかればいい」
 同意を求めるように、秋山は上目遣いに啓子を見詰めた。思わず首肯して賛意を示す。確かに彼の分析には理があった。
「俺は、あの女が最初から山下を標的にしていた可能性が高いと思う」
 きっぱり宣言すると、彼は啓子にその心当たりを訊ねてきた。だが、どう考えても山下があの女に襲われる理由などありそうになかった。プライヴェートな時間を全て空手の稽古に費やしている山下には、あの年頃の女との接点などどこにも見当たらない。啓子が知らないところで関係が持てたとも思えなかった。狙われたり襲われたりする必然など、当然ながら生じ得なかったはずである。
「渡瀬さんは、 <第二の選択肢> って言葉に聞き覚えはない?」
 脈略のない質問に啓子は小首を傾げたが、少し考えた後、正直に何の聞き覚えもないと答えた。それに秋山は微かな落胆の表情を見せた。が、すぐに気を取りなおして言う。
「現時点では何もはっきりしたことは言えない。だけど、山下は身辺に少し注意するべきだと思う。昨夜の一件だけで相手が満足したっていう確証はないんだからな」
 言われてから、啓子は初めてその可能性に気付き身を強張らせた。何故、今の今までそのことを考えなかったのだろう。秋山の言うように、例の女が何らかの理由で山下を狙っているなら、第二第三の襲撃が将来的に行われても不思議は無い。秋山の力を借りて昨夜は退けたが、それで全てが終わったとは限らないのだ。
「昨日の態度を見た限りじゃ、山下は俺の忠言なんぞに耳を貸しはしないだろうからな。渡瀬さんがそれとなく注意してやってくれ」
「でも……」
「付き合ってるんだろ、渡瀬さんたち」
 だったら、それくらいの面倒は見てやれ。秋山は言外にそう語っているようだった。当然といえば当然の要求である。そもそも秋山陽祐という男は、昨夜の一件に運悪く巻き込まれただけの存在なのだ。彼は山下を庇うために飛び込み、その上、好意でこうした助言をくれている。その心遣いには感謝してもしたりないくらいだった。
「あの――」
 そもそも勇気を振り絞って彼に声をかけたのは、その親切に礼を言うためであることを啓子は思い出した。改めて頭を下げる。
「山下君のこと心配してくれて有難う」
「そんなに言わなくて良いよ」秋山は困ったような曖昧な笑みを浮かべる。「俺も気になるからさ。別に山下のためだけじゃない」
「私、山下君にもお礼を言うように言っておくから」
「いいって、そんなことしなくて」煩わしそうに手をひらめかせると、彼は真顔に戻って言った。「それより、何かあったら絶対に俺に教えてくれ。感謝の言葉なんかより、そっちの方が俺は良い。とにかく安全が保証されるまで山下に張りついて、身の回りを警戒してやって欲しいんだ。気付いたことがあれば遠慮無く言ってきて欲しい。できることなら相談にものるから」
「どうしてそんなに助けてくれるの?」
 啓子はずっと胸にあった疑問を思いきってぶつけた。
 持田明子の話によれば、山下が中学時代に停学処分を受けた事件に関しても、秋山は不公平だと憤ってくれたという。これまでの言動から見ても彼が悪人でないことは既に明らかだったが、それにしても、なぜ自分や山下にここまで肩入れしてくれるのかは分からない。
「助けるって言っても、俺は単に気付いたことを指摘してるだけだけど」
「でも、昨日は怪我するかもしれないのに私と山下君を助けてもらって……」
「俺、基本的にあんまり頭の回転がよくないから。危ないとか自分が怪我するかもとか、そういうことは全然考える余裕なかったんだ」
 恐怖を覚え、それを克服した上での英雄的行為などではなかったのだと付け加え、秋山は自嘲的な笑みを見せた。
「とにかく、俺のことはいいから山下と自分のことをしっかり考えてくれ。もし何かあったら、たとえアイツ本人から口止めされていても報告してくれると助かる。俺に借りがあると思うなら、是非そうしてほしい」
 不審に思えるほどの熱っぽい弁に、啓子は気圧されるようにして何度も頷き返した。


    4

 まさか四〇の若さで癌を宣告されることになろうとは夢想だにしていなかった井上友子は、入院を明日に控えその準備と仕事の引継ぎに忙殺されていた。
 息子と甥には、会社が企画する急な研修に参加すると言い含めて家を出てきた。二人は何の疑問も抱かず話を聞き、友子の我侭を応援してくれさえした。そんな彼らを欺くのは辛かったが、真実を伝えて傷つけるよりかは幾分かましだろう。これは必要な嘘、許される嘘だったのだと自分に言い聞かせる。
 それにしても、陽祐の今朝の言葉には驚かされた。まさか疎遠にしていた他人同然の叔母に、あんなにも思いやりに満ちた言葉をかけてくれるとは思いもしなかったのである。
 陽祐は、自分が実の母親に半ば捨てられた存在であることを知っているはずだった。自分の誕生が両親の離婚の決定的な切っ掛けとなったことも、心無い母親から直接聞かされて知ったらしい。本来なら、この世に存在するあらゆる女親に憎悪を抱いてもおかしくない立場であった。
 そんな陽祐のあたたかい言葉には、不覚にも目頭が熱くなった。癌を告知され半ば絶望していただけに、人の情というものが何より心に有難かった。
 だが、浮かれてばかりいるわけにはいかない。自ら真実を伏せ、孤独な闘病という道を選んだ以上、やっておかなければならないことは山とあった。
 友子はまずTUT病院で診断書を発行してもらうと、それを片手に事務所に向かい休職許可を求めた。癌になったという告白に所内は一時騒然となったが、その後は誰もが極めて同情的に接してくれた。井上家が母子家庭であることを知る者が多かったせいもあるだろう。休職はすぐに許可され、更に様々な立場の人から激励を受けた。
 ただ休職とはいっても、事務所にしばらく顔を出さずに済むようスケジュールの調整と事務的な手続きをしただけだった。仕事自体は、可能な限り続けるつもりである。病名は上咽頭癌だが、自覚的な症状としては、微熱やだるさ、断続的な難聴などがあるだけだ。脳をやられて意識が朦朧としたり、薬漬けになって激痛を抑えなければならないというような状態ではない。病室にパソコンを持ち込めば、CG製作や映像素材のエディット、ウェブサイトのデザイン、構築といった仕事は充分行えるはずだった。
 基本的に土日には治療がないそうなので、必要があれば病院を抜け出して事務所に顔も出せる。専門の大型装置が必要な仕事など、入院しているとどうしても不都合が生じる話だけを後任に託すだけで、友子は請け負っていた仕事のほとんどを病室にまで持ち込むことにした。
 問題はこうした業務上のものではなく、入院に必要な連帯保証人の確保と保険に関する手続きだった。入院生活が長期に渡ると必要なコストは莫大な額になるため、病院側も後の精算に関する確かな保証を欲しがる。そのための連帯保証人制度なのであるが、友子には頼れる他人に心当たりがなかった。
 両親はとっくに他界しているし、親族の類もほとんどいない。肉親と言えば兄の英文が唯一の存在だが、シンガポールにいる彼に心配や迷惑をかけるわけには断じていかなかった。もし英文に相談すれば、彼は必ず帰国すると言い出すだろう。彼に限らず、友子の周囲には複雑な事情を抱えた人間が多い。陽祐や大作は受験を控えた大切な時期だし、いずれも片親を失った経験を持っている。これ以上、彼らに無駄な心労を負わせるわけにはいかなかった。自分の癌なのだ。自分一人で治し、生活を元に戻さなければならない。
 結局、保証人は <ビフロスト・システム> の社長に引き受けてもらうことになった。友子は旗揚げ当初からの古株であったし、少ないが設立資金として幾らかの出資をしていたのが幸いした。やはり信用があったのだろう。友子が自ら頼みこむまでもなく、創立初期のメンバーたちが「もし良かったら」と保証人の話をもちかけてくれたのだった。
 保険の給付金請求手続きの準備は、難しくはないが手間と時間をとられる作業が続いた。友子はまず加入している保険の契約書を引っ張り出し、その内容を確認すると各社に直接手続き方法について問い合わせた。
 生協の共済を含めると、井上家が収める保険料は月額二万五〇〇〇円を超える。生命、医療、ガン、損保、学資などの各種保険に加入しているからだった。それは良いとしても、複数の保険会社と契約している上、同じ手続きでも書類の記入方法が社によって異なったりする。長期入院ともなると、給付金一つ請求するにしても手続きは非常に複雑で面倒なものになるのだった。誰も頼らないと決めた以上、友子はこれを一人で片付けなければならなかった。
 その苦労の分、今回の入院で入ってくる金額は大きかった。月に五〇〇〇円近い掛け金を支払っている一〇年満了のガン保険からは、診断給付金として四〇〇万円がおりる。これは診断書を持っていけば一時金として直ぐに支払い請求が出来るらしく、当座の軍資金に充分なり得るはずだった。また入院期間は、一日あたり約一万円の保証金が出る。退院後の支払い請求になりそうではあるものの、これは差額ベッド代や見舞い返しなどの助けになるだろう。
 雑務に一応の区切りをつけると、友子は一度自宅に戻って、入院のための荷造りをした。午後二時の井上家は、当然ながら無人である。子供たちが学校にいるこの時間帯が、おそらく一日の内で最も静かなときなのだろう。物悲しくなるほどの静けさの中、友子は黙々と準備を進めた。二週間分の着替え、ノートパソコンや各種資料など仕事に必要な道具一式、必要になりそうな日用品などをまとめ車につめ込む。大作に必要となる当座の生活費として、銀行からおろしてきた五万円を居間の引き出しに入れておくのも忘れない。
 大作と陽祐には、研修は東京で行われると話してあるので、適当なホテルをピックアップしてその名前と電話番号をメモしておいた。子供じみてはいるが、架空の研修が存在することを信じさせるための小細工だった。何か緊急の要件が発生しても、彼らがこのホテルに電話を入れることはあり得ない。恐らくは有効に働くことだろう。TUT病院は福岡の九州大学病院に次ぎ、去年から病室での携帯電話の使用を全面解禁している。大作たちには、何かあったら携帯の方に直接連絡するよう言ってあった。
 準備を全て整えると、一四時半に担当医の話を聞く予定があったため車でTUT病院に向かった。病院までは片道一〇分強の道のりだった。約束の時間まで少し余裕がある。せっかくの機会を利用して院内を見て回ることにした。
 TUT病院の敷地は驚くほど広かった。中心部に憩いの場となる芝の広場があり、これを取り囲むようにして幾つもの病棟や研究施設、医学部校舎などが林立している。これらの建築物にはめぼしい識別点がないため、案内板がなければ自分の病棟を探すのさえ難儀しそうだった。
 天気が良いせいか、中央広場には多くの人影が見られた。外へ羽を伸ばしに来た患者の姿もあれば、白衣をまとった研修医らしき集団も見られる。仲間たちとボール遊びに興じる小学生程度の小児患者もいた。あんな子供でさえ、何らかの事情を抱えて入院生活を送っているのだ。しかも彼らは自らの病を正面から受けとめ、その一瞬一瞬を大切に生きているように見受けられる。ここでは癌を宣告された人間など、何も特別な存在ではない。大変なのは自分だけではないのだ。ずっと以前から闘病を続けてきた先達たちに学ぶべきところは多そうだった。
 友子は伸びをして蓄積された肩の凝りをほぐすと、喉の乾きを癒すため近くの自動販売機に向かった。これも癌の影響なのか、それとも単に気温が上がってきたためなのか、最近良く喉が乾く。院内の売店で購入すると高くつくだろうから、近くのスーパーで適当な飲料水をまとめ買いしてくるべきなのかもしれない。
 自動販売機には先客がいた。友子の鳩尾あたりまでしか背丈のない子供だった。髪を男の子のように短く刈りこんでいるが、そのスカート姿を見る限り女の子なのだろう。頭髪が短いのは、衛生上の観点から切り落とされたからなのかもしれない。
 彼女は遥か頭上にあるジュースのボタンを押そうと、先ほどから何度も飛び跳ねていた。
「ボタンを押せないの?」
 腰を少し折ると、揺れる小さな背中に問いかけた。子供は動きを止め、驚いたように友子の相貌を見上げる。大きな瞳とふっくらとした唇が印象的な、ビスクドールを思わせる愛らしい少女だった。
「おばさんが代わりに押してあげるね」
 そう言って微笑んで見せると、少女は警戒を解いたのか柔らかく笑い返してくれた。
「これかな。アップルジュース?」
 適当に当りをつけて訊いてみた。少女は嬉しそうに首を縦に振る。果汁一〇〇パーセントを謳った小さな缶ジュースだった。既にコインは投入してあるようなので、友子はそのボタンを押してやった。すぐに甲高い音を立てて取り出し口に缶が現れる。少女は飛びつくようにしてそれを手に取った。
「ありがとうございます」
 少女はじっと友子の相貌を見上げながら、はにかんだような笑みと共に言った。身体は小さいが、もしかすると中学生くらいの年齢なのかもしれない。見かけより随分と落ちついた感じのする娘である。
「それ美味しいの?」
 友子の問いに、少女はこくりと頷いてから「美味しいです」と小声で付け加えた。もっとも、ジュースの缶を宝物のように抱える彼女を見れば答えは聞くまでもなかった。
「じゃ、私も同じのにしよう」
 友子は苦笑しながら、少女と同じアップルジュースを購入した。
「おばさんね、明日からこの病院に入院するんだ」膝を屈めて缶を取り出すと友子は言った。「あなたも入院してるの?」
 少女は小さく頷いた。そして真っ直ぐに斜め後方の病棟を指し示す。恐らくは小児病棟なのだろう。
「あそこに入院してるの」
「そう、お互い大変だね。おばちゃんは、多分あっちの病院に入るんだと思うの。建物は違うけど仲良くしてね」
 相手が同じ入院患者と知ったためか、少女は完全に緊張を解いたようだった。二人は近くのベンチに場所を移し、一緒にジュースの缶を開けた。
「おばさんね、井上友子っていうの」
 りんごの甘酸っぱい果汁で喉を潤すと、友子は隣に腰掛ける少女に名乗った。「そうだ、名刺あげるね」
 ハンドバッグから自分の名刺を取り出し、少女に差し出す。氏名に <ビフロスト・システム> 制作部主任の肩書きと、事務所の住所、電話番号、それに電子メールのアドレスを添えた正式なものだ。
 もっぱら大人同士がやりとりする物だと思っていたのだろう。名刺を受け取った少女は、満面の笑みを浮かべて何度も礼を言った。よほど気に入ったのか、大金が振り込まれた通帳を見るようにじっと眺めている。片手に持ったアップルジュースの存在すら忘れているようなので、友子はそのことを指摘してやった。少女はハッとした表情で我に返ると、慌てた様子で喉をこくこくいわせながらジュースを啜った。その愛らしさに友子は思わず眼を細める。
 もし浩――夫が健在であったなら、大作に妹を産んでやりたかった。椅子が六脚もあるテーブルセットを購入したのは、浩も自分も賑やかな大家族を望んでいたためだ。面倒見の良い大作のことである。弟や妹がいれば大切にしてくれただろう。だがそんなヴィジョンも、今は儚い夢となって久しい。
「あなたは、なんていうお名前なの?」
「諸岡梓です」少女は素直に名乗ったが、直後、眉をハの字にして顔を伏せた。「名刺はないけど……」
 せっかくの機会に、初めての名刺交換を体験してみたかったに違いない。その幼い発想に友子は思わず苦笑した。
「大きくなって格好良いキャリアウーマンになったら、梓ちゃんも名刺を作っておばさんに頂戴ね」
「はい」梓と名乗った少女は、生真面目な表情で頷いた。きっと現時点の彼女にとっては神聖な誓いなのだ。
「でも、梓ちゃんって可愛い名前よね。おばさんも、梓ちゃんみたいな女の子が欲しかったな」
「おばさんは子供いないの?」梓は不思議そうに友子を見上げた。
「子供はね、高校生の男の子が一人いるよ。高校生って分かる? 凄く大きなお兄ちゃんのことだけど」
 そうは言っても、友子からすれば、大作もつい最近まではこの娘と大差のない幼子だったのだ。子供というのは、本当にあっという間に大きくなる。その分、自分も歳をとったということなのだろう。何せ癌を宣告されるくらいなのだ。
「そういえば、梓ちゃんは幾つなのかな」
「一一歳です」
「あら、じゃあまだ小学生? しっかりしてるから、おばさん中学生だと思ってた」
 世辞ではなかった。小学校も出ていない幼女だとするなら、梓は実に利発な喋り方をすることになる。ときおり浮かべる笑顔に疲労の色が見え隠れするせいだろうか。何かに対する諦観のようなものを、彼女はこの歳で既に持っているような気がした。
 そう言えば梓の動きは、元気盛りの一一歳児にしては少し緩慢に見える。躍動感に欠けるとでも言おうか、歳相応の弾けるような若さが伝わってこない。あらゆる動作を必要最小限にとどめている感があるし、自動販売機の前で飛び跳ねている時も着地してから次の動作に入るまで多少時間がかかっていたようであった。
 入院を強いられるほどなら、梓の具合はそれなりに深刻なものなのだろう。目立った外傷がないことから、恐らくは内科の世話になっていると思われた。いずれにしてもそうしたシリアスな環境は彼女の精神に望まない発達をもたらし、一一歳児にふさわしい爛漫さを奪ってしまったのかもしれない。他人の心配をしている立場ではなかったが、それでも友子は同情を禁じえなかった。
「――あ、お母さん」
 不意に、隣で梓の小さな声が上がった。俯き加減にしていた顔を上げると、確かに友子と梓の座るベンチに近寄ってくる人影がある。紺色のパンツスーツに身を包んだ長身の女性だった。遠目にも、日本人離れして脚が長いのが分かった。
 梓はゆっくりベンチから立ち上がり、笑顔で彼女を迎え入れた。
「お母さん、先生とお話終わった?」
「終わったよ」
「良くなってるって言ってた?」
「残念だけど」女性は微かに眼を細めた。娘の肩に優しく手を添える。「今日はそういう話をしたんじゃないんだよ」
 梓は不思議そうに小さく首を傾げたが、すぐに、傍で聞き耳を立てている友子のことを思い出した。ジュースのボタンを押してもらったこと、自己紹介のとき名刺を貰ったことなどを母親に報告する。
 娘の話を聞いたスーツの女性は、警戒色を浮かべながら友子に視線を移した。そして辛うじて会釈と解釈できるくらい頭を下げる。
「この子の母です。娘がお世話になりまして」
 友子はベンチから腰を浮かせ、それに丁寧に返した。
「いえ、入院患者の心得をお嬢さんに教えてもらっていたところなんです」
 正面から向かい合わせた梓の母親は、まるで銀幕から抜け出してきたかのような佳人だった。化粧は、ほとんどしていないに等しい。二〇代後半だろうか、それで通用する肌の張りがある。だが、経験でしか身につけられない落ち着きが既に見られるのも確かだ。整った相貌と、自然体でありながら隙のない佇まい。友子は何故だか清冽という言葉を思い浮かべた。
「梓、何をいただいたの?」
 母が問うと、梓の小さな手が友子の名刺を差し出した。諸岡はそれを受け取り、あまり関心を持った様子もなく目を通す。瞬間、彼女の表情が俄かに強張った。眉間に小さな皺がよる。
「井上友子さんと仰るのですか」
 面を上げ友子と視線を合わせると、彼女は言った。
「そうです。珍しくもない名前ですけど」
「失礼ですが、北区一丁目にお住まいの井上さんですか」
「ええ……はい」友子は些か狼狽しながら答えた。「でも、どうしてご存知なんですか?」
「以前、仕事の関係であの一帯にダイレクトメールを送るよう手配したことがあるもので。その時に同じ氏名をお見かけしたような気がします」
 確かに住宅地にダイレクトメールや広告を配って回る業者は多い。友子の勤める <ビフロスト・システム> でも似たようなことをしたことがあったし、それを別にしても毎日のように不動産関係や清掃会社、ピザの宅配などのチラシがポストに投げこまれるものである。
「でも凄い。それだけでよく覚えていらっしゃいましたね」
「記憶力に優れることだけが私の唯一の取柄ですから」
 諸岡は、にこりともせずに言った。梓には表情を和らげて接するようだが、他人はその限りにないらしい。
「梓。そのジュース、まだ残ってるの」
「うん」母親の関心が再び自分に戻ってきたのが嬉しいのか、梓は笑顔で頷いた。
「じゃあ、座って飲みなさい」そう言って軽く娘の背を押してから、彼女は友子を一瞥する。「隣、構いませんか」
「ええ、どうぞ」
 友子は微笑んで返すと、その必要はなかったが身体を少しずらしてパークベンチの端に腰を落とした。
「入院と仰られていましたが、井上さんもどこかお加減が?」
 梓と揃って腰を落ちつけると、諸岡は間に挟んだ娘越しに友子へ問いかけてきた。
「ええ。恥ずかしながら、喉に悪性の腫瘍が見つかったようなんです」
 友子にすれば些か勇気のいる告白だったのだが、諸岡は何の表情も浮かべず一度頷いてみせただけだった。少し気になったが、彼女も入院患者を娘に持つ母親なのだ。眼の前に癌の人間がいたところで大した衝撃ではないのかもしれない。そう考え、構わず友子は続けた。
「癌だなんて思ってもないことを言われて、最初はもう、自分でもみっともないくらいに狼狽えてしまいました。六歳の梓ちゃんが立派に頑張ってるのに、いい歳した大人が情けない話ですよね」
「おばさん、がんなの?」
 大人しくジュースを飲んでいた梓が、大きな眼を精一杯に見開いて友子を見上げた。彼女くらいの子供は癌という言葉自体は聞き知っていても、それに秘められた意味は解していないものだ。だが、院内で長い時間を過ごしてきた梓は違うのかもしれない。或いは、病室を同じくした小児癌の友人を見送ってきた経験があるのかもしれなかった。幼い相貌に浮かぶ驚愕の表情からもそれは窺えた。
「癌だけど、治りやすい癌なの。それにおばさんは強いから、きっと良くなるってお医者さんも言ってたのよ」
 そんな事実はなかったが、梓は信じてくれたらしく安堵の笑みを浮かべた。今朝の陽祐といい、この諸岡梓といい、今日は思いもしなかった人からの優しさに心を動かされる機会に恵まれている。
「でも、まだ高校生の子供もいますし。自分に対してどういう風に事実を納得させていいのか。何が慰めにすべきなのかも分からなくて」
「――私が貴女なら、癌になったのが自分で良かったと思うことで、己の慰めにするかもしれません」
 呟くようにそう言うと、ゆっくりと首を捻って諸岡は友子と視線を合わせた。
「梓は国に難病指定を受けている血液の病気です。発症から二年経ちました。もう考えられ得るほとんどの治療を受けてきたと言って良いでしょう。小児病棟には、同じ境遇の子供を持つ親たちが大勢います。彼らは皆、代われるものなら代わってやりたい、病気になったのが自分であればどれだけ良かったか、という風に必ず一度は思うものです」
 諸岡は感情を交えず淡々と語り、幼子が苦痛に悶える姿を見ていることしか出来ないのは存外辛いものだ、と締めくくった。
 確かにその通りだった。諸岡親子が抱えている苦悩に比べたら、自分の癌など小さな物だ。そう思った。
 たとえ最悪の事態に陥り自分が死んだとしても、大作は生き残るではないか。万が一のことを考え、友子には多額の保険金がかけてある。死んだとしても何千万円というその給付金が、大作の将来を支えてくれるだろう。彼の成長を見届けることができないのは残念だが、大作の将来そのものが閉ざされるわけではない。もし癌だと宣告されたのが我が子の方だったとしたら、友子は正気ではいられなかったに違いない。自分のケースは、まだ恵まれている方なのだ。病院という場所には、もっと理不尽な不幸を抱えた人たちが大勢いる。自らに叱咤の声を浴びせてやりたくなった。
「――すみません。出過ぎたことを言いました」
 思考に伴う友子の沈黙をどう解釈したのか、長い睫毛を伏せて諸岡は謝罪の言葉を口にした。友子は慌てて手を振り、それを否定する。
「とんでもない、私が軽率だったんです。こういうところにいる以上、みんなそれぞれの事情を抱えているのが当然なのに」
 友子はベンチから腰を上げた。医師との約束の時間が迫っている。
「有難うございました、諸岡さん。おかげで気持ちを切り替えて治療に臨めそうです」
「そうですか。どうぞお大事に」
 梓にも笑顔で別れを告げると、友子は踵を返して病棟へと向かった。


    5

 白丘市を俯瞰すると、街をほぼ等分に四分割する巨大な十字線が存在することに気付くはずだ。このうち赤道よろしく街の中心を真横に走る緯線は、白丘駅を中心とするJRの路線である。それと直交するようにして、セントラル・アヴェニューと呼ばれる中央商店通りが南北に伸びている。これが市を分つ十字線の縦軸にして、市内最大の繁華街だ。
 放課後、陽祐は持田明子をこのセントラル・アヴェニューへ連れ出すことに成功していた。ただし、出てきた瞬間から陽祐は引っ張られる側に回った。街に越してきてまだ一週間足らず、地理に不案内な陽祐を地元の子である明子が案内して回るといった形だった。
 セントラル・アヴェニューは、瑞々しい緑の街路樹に彩られた美しい通りであった。足元にはヨーロピアン・スタイルを意識した洒落た煉瓦畳が広がっており、両側に並ぶ様々なテナントを横目にぶらつくだけで楽しい、絶好の散策コースである。
「本当は大作のやつも誘ったんだけどね」
 並んで歩く明子を横目に、陽祐は半時間前の従弟とのやりとりを思い出しながら言った。
「たまには部活サボって街にくり出すのも、良い気分転換になるだろうと思ってさ」
 通りは想像よりも随分と混雑していた。セントラル・アヴェニューが歩行者を優遇するような構造をしているせいか、自動車の姿は極端に少なく徒歩の往来が激しい。学校帰りの学生や陽祐と明子のようなカップルの姿も目立った。辺境の田舎街には娯楽的な要素が乏しいため、遊ぶためにはここに出てくるしかないのだろう。
「井上君は副部長になったとかで、ますます真面目になったからね。陽ちゃんみたいにはいかないよ」
「それだけじゃないんだぜ」陽祐は肩を竦めた。「邪魔しちゃ悪いから、とかワケの分からないことを言ってたよ。気を利かせたつもりなんじゃないの、あいつなりに」
「――はあ?」
 全く理解できませんとばかりに、明子は首を傾げた。何かを考えるときに無意識に出てしまうらしい、彼女の昔からの癖だ。他人に指摘されると認めたがらないかもしれないが、陽祐は以前から明子のこの仕草がなんとなく好きだった。
「お前って、そういうことには本当に疎いな。鈍いと言うか、何も考えてないと言うか、ぼーっとしてると言うか」
「陽ちゃん、陽ちゃん。それ、ちょっと言い過ぎ」
「そうか? そりゃ悪かった」
「まあ、でも……うん」明子はくすくす笑いながら認めた。「確かに良く言われることではあるんだ。失礼しちゃう話だけど」
 陽祐が良く知る頃から、彼女はそういう繊細な部分を欠いた人間だった。他人事に首を突っ込むのが好きなくせ、彼らとは相容れない一癖も二癖も違った特異な価値観を誇る。本来あって然るべき色恋沙汰への興味や関心なども、彼女には若干欠けているように見えた。否、それに怯えているのかもしれない。
「お母さんにもなんか心配されちゃうのよ。あんたは、いつになったら色気づくのかねえとかさ」
 そういうものは無理したって出てくるものではないのに、と不満そうに明子は呟く。だが陽祐としては、彼女の母親の気持ちも理解してやれるような気がした。今の彼女の態度一つとってみても、その根拠に充分なり得る。同年の異性と二人きりで外出するとなれば、普通なら脳裏を「デート」の三文字が掠めるくらいはして良いだろう。なのに、明子にはそんな気配が全く窺えなかった。それが周囲からどのように認識されているか考えもせず、誘えばホイホイ後をついてくる。敢えて指摘こそしなかったものの、流石の陽祐も苦笑を禁じえなかったものだ。
「まあ、らしいと言えばらしいんだろうがね」
 半ば諦め混じりに、陽祐は嘆息した。
「しかし、彼氏が欲しいとかそういうことは全然思わないわけ、お前。俺は入って来たばっかりだから良く知らないけど、周りに男と付き合ってる友達とか結構いるんじゃないの」
「いるけど、私にはどうもね」明子は唇の先を少し尖らせた。「全部がそうとは言わないけど、ああいうのを見てると、なんか作為的なものを感じちゃうのよね。ただ彼氏とか作ってみたいから、悪くないって思える子と付き合ってみることにしました、って風に」
「へえ――」
 明子のその言葉に陽祐は少し驚いていた。彼女が年頃の娘らしいことを小なり考えた上で今のような態度を取っていることが意外だったのだ。
「私だって思うよ。付き合うってどんな感じなのかな、とか。好きな人と一緒にいるのって楽しいのかな、とか。でも私の友達なんかは、そういう興味が先行しちゃって結局は恋愛ごっこやってるように見えちゃって」
 そういうものを見せられると奇妙に気分が萎えていく、と明子は呟いた。
「そう片意地張ることでもないさ。良いんじゃないのか? そんなのでも、本人たちにとっちゃ青春の謳歌なんだ」
「良い悪いの問題じゃなくて、私は単にそういうのが嫌なの。そりゃ、他の人がどんな恋愛しようが自由だし勝手よ。ただ、私に彼らと同じことをやれとは言ってほしくないだけ。自分が何やってるのかも分からないままその瞬間さえ楽しめればいいって、それ丸っきり子供じゃない」
「俺はまだ、自分を子供だと思ってたんだけどな」
「自分が子供だって認識した瞬間から、子供だから……なんて言い訳は無効よ。それは大人が使う逃げ文句でしょ」
 何やらこの件に関しては一貫した主義主張を有しているらしく、明子は言下にピシャリと言い返してきた。賛同するかどうかを別とすれば、彼女の言い分にも一理くらいはあるのかもしれなかった。
「お前、黒い魚の話を知ってるか」
 明子は片眉を吊り上げながら陽祐に眼を向け、火星人に声をかけられたような困惑を露にした。
「それだけじゃ分かんないよ。どんなの?」
「黒くて小さい、はぐれもんだった魚の話だ。小さいのは他の仲間も同じだが、連中の身体は赤くてさ。それが普通だったんだ。だから黒い魚は、一匹だけ群れの仲間に入れなかった。そんな話」
 陽祐はポケットの中からシュガーレスガムを取り出し、明子に一枚勧めてから――彼女は受け取らなかった――自分の分を口に放り込んだ。
「海ってのは生存競争が苛烈だろ? 小魚たちにとってはなおさらだった。だから奴らは、遠くから大きな魚に見えるように密集して泳ぐことを思いついた。大きな魚だと思わせれば天敵たちを追い払えるって考えたわけだな。で、そのとき黒い魚は思った。自分の身体は黒いから、大きな魚の眼の役割を演じられるかもしれない。自分なら、赤くて大きな魚の黒目に見えるかもしれない」
 陽祐は風船を膨らまそうとしたが、シュガーレスガムでは上手くいかなかった。明子が不思議そうに小首を傾げ、陽祐の横顔を窺う。
「それで?」
「人間も魚と大差ないってこった。違いがあるとすれば、人間は自分の身体が何色で、どんな役に立てるのかを見極める前から、とにかく群れに加わりたがるってことだ。ときに自分の身体を群れの色そっくりに染めちまうことすら厭わない。日本じゃ特にそういう例が多いんだろう」
「自分の価値観や信条を歪めてでもマジョリティに加わりたがるってこと?」明子は大きな瞳をさらに大きく見せた。「なんでそこまで」
「きっと寂しいんだろ。だからそう目くじら立てないで、少しくらいは連中の好きにさせてやりな」
 携帯電話に電子メール、TVゲームにインターネット。常に誰かと繋がっていないと安心できない。人との刹那的な接触の中でしか、孤独から目をそらせない。それがママゴトであろうと馴れ合いであろうと、本当の自分を見ないで済めばそれで良いのだろう。
 他になにがある。人間関係に別の在り方や可能性を見出せるなどと、世の誰も教えてはくれないのだ。ならば、その世相にもっとも適した形態を作り上げていくしかない。
 だが明子にしてみると、それが気に入らないらしかった。
「私はそんなの嫌だな。ちゃんと考えて、時間がかかっても自分の色なりの生き方したいし。付き合うって話にしても、子供のうちはオママゴトで少しずつ勉強していくって面もあるのかもしれないけどね。私は、別に見学してるだけで今のところは満足だよ」
「お前、変な奴だって言われるだろ」
「そうなのよね。酷い話だよ、みんなして変人変人って」
 プラプラと茶色い革のリュックサックを振り回しながら、明子は軽く笑った。そしてふと陽祐と目を合わせる。
「陽ちゃんは? 向こうでそういうことなかったの。一夏の思い出とか」
「――俺?」思ってもみなかった話の展開に陽祐は狼狽した。「そうだな。別にないよ」
「本当にぃ」明子は疑わしそうに目を細める。「でも、女の子に興味がないわけじゃないよね。これから行く店でも、怪しいヴィデオとか借りたりするつもりなんじゃないの?」
「知り合いからタダで借りるならまだしも、女の身体に金まで払うのはちょっとな。俺は夕刊を我慢して、しかたなく朝刊だけとって暮らしてるような人間だからな。貧乏なんだ」
 歩道の脇にダストボックスを見つけた陽祐は、噛んでいたガムを銀紙に包んだ。神奈川県川崎市に比肩し得るとも囁かれる白丘市の自治は、ゴミの分別回収にも力を入れていた。公共の場に設置されている全てのゴミ箱は可燃、不燃、生ごみ、プラスティックで投入口が分かれている。
 ボックスにペイントされた分別基準の図解を参考に、陽祐は可燃ゴミの口に銀紙を投げ込んだ。ポケットから新しいガムを取り出しながら続ける。
「大体、それこそお前のいう興味先行ってやつなんじゃないのか。刹那的な癒しって意味じゃ、ベクトルはそう変わらないだろう」
 もっとも、男はそうした刹那的な慰めや肉体的関心を理性より先行させてしまいがちな生物であるのかもしれない。
「言われてみると、そうかもねえ」明子は腕を組み、何やら感心した様子で何度か小さく頷いて見せた。
「ま、色々と考え込んでみるさ。聞く話じゃ、若者ってのはそういうものらしいからな」
「モラトリアムの特権だね。お互い」
「なるほど」陽祐は小さく肩を揺らした。「確かに、子供の皮被った別物の台詞に聞こえるな」
 やがて二人は、レンタルヴィデオ、レンタルCD、そして古書と中古のTVゲームソフトを扱う総合店に入った。この街が岩手県内陸部の田舎であることを考えると、規模はそこそこ大きめだと言えるかもしれない。特に音楽用CDを良く借りる習慣のあった陽祐が、いずれ利用することになるだろうと案内を頼んだのである。
「――ただ、やっぱ自分には無理そうだ、ってのもあるかもな」
 店内をゆっくりと周り、品揃えや店の傾向などを確認しつつ陽祐は言った。明子は眼に付いた商品を時々手にとって眺めたりしながら、大人しくついてきている。少なくとも退屈している様子はない。多少、安心しながら言葉を続けた。
「失敗例を間近で見せられた挙句、それでさんざん迷惑かけられた身の上じゃ捻くれたくもなる。死が二人を別つまで、病める時も健やかなる時も、だぜ? どの面下げて言ったんだか」
「えっ、陽ちゃんって彼女と付き合うとき、いつも結婚を前提に考えてる人?」
「いやいや、そういうことを言いたいわけじゃなくて」陽祐は言いたいことを上手く言葉に出来ず戸惑った。「まあとにかく色々と難しいもんなんだよ。人間、別れる時のほうがエネルギィいるんだ」
「親が片方いないのって、やっぱり大変?」
 恐る恐るといった様子で、明子は訊いてきた。陽祐は苦笑して首を左右する。そして切なげな彼女の顔に、少し昔を思い出した。
 陽祐は母親がいないという自分の境遇を哀れんで涙したことは一度もない。その代わりというわけでもないだろうが、明子が泣いているのを何度か見たことはあった。確か幼稚園に通っていたころか、小学校に上がったばかりの話だ。時期をはっきりと思い出せないほど幼く、古い記憶である。
 陽祐と明子は、成長するに従って秋山家に母親が存在しない、そして今後も現れ得ないであろうという現実を理解するに至った。明子は明子なりに、その事実に理不尽を感じたのだろう。陽ちゃんにだけお母さんがいないなんて変だよ。そう主張しながら、小さな彼女は大粒の涙をこぼして泣いていた。悲しみのものというより、それは憤りの涙であったのかもしれない。
 いずれにしても、物心ついてからの明子はとても人間関係に慎重な人間になったように見える。それはつまり、深い絆で繋がれた者同士の離別を恐れた結果なのだろう。いつかは壊れてしまう人間関係を儚む思いが影響してのことであるような気がする。
 そのルーツを探っていけば、やがては自分の歪な家庭環境に行き着くのではないか。ふと、陽祐はそう思った。存在して当然だと思われた家族の一員が何らかの形で欠けた姿。共にあるべきとされながら、それがままならないという現実。秋山家を通してそれを幼いうちに見せ付けられた明子は、どこかでそのことに強い反発を抱くようになったのかもしれない。
 他人はどうだかしらないが、自分は絶対に壊さない。壊れない人間関係を築こう。理想と強迫観念の入り混じった、そんな明子の思いが刹那、彼女の言葉から透けて見えたような気がした。
 自分は、彼女に大きな負い目を作ってしまったのだろうか。そう思えば、陽祐の気は沈んだ。
「俺は父子家庭のガキで、他にも色々と変わった経験してるしな。さっきの話からすりゃ、黒い方の魚ってことになるのかな」
 陽祐は自分の考えを振り払うように、少し口調を早めて言った。
「黒い魚は、自分の身体が黒い理由を考えたりはしなかった。それより、赤い群れの中でどう生きていくかを悩んだ。俺も同じだ。片親がどうとかじゃなくて、父子家庭ってやつの中でどうやっていくかを考えた方が話も早い」
 言いながら再確認する。やはり大切なのは環境そのものではなく、それに如何様にして順応していくかだ。世界は人間個人の意思とは無関係に変わっていく。抗うにしても限界がある。だが、環境適応能力は自らの鍛錬によって向上していくものだ。そしてこれが高まれば、どのような世界でもやっていける。自分の世界に必死になってしがみつくよりも、効率は良いだろう。
「陽ちゃんは、どうして小父さんと一緒にシンガポールに行かなかったの?」
「前に言ったろ、小学校五年の時はついて行ったよ。語学研修だとかで、あの時もシンガポール行きの話が持ち上がってたからさ。でも、あれで充分だと思ったよ」
 環境が変わってしまうことは受け入れるが、自ら進んで環境を激変させようとは思わない、と陽祐は続けた。
「苦労して赤い群れにとけ込んだ黒いやつが、次は青い魚の群れに引っ越そうなんて能天気なことを考えると思うか?」
 二人は店を出て、再びアヴェニューに戻った。明子が半歩先行し、今度は市内最大のショッピングモールに案内するという。
「なんか、もったいないな。私なら、シンガポールで生活できるなんて話が出てきたら迷わずのっちゃうけど。外国で暮らしてみたいし……ねえ、シンガポールの公用語ってなんだっけ」
「マレー語と英語。華僑が多いから、中国語もよく使われる。俺はでたらめな英語と漢字で通したけどね」
「じゃあ、英語の勉強もできるじゃない」明子はリュックを右肩に担ぎなおしながら、夢見るように言った。「違う文化も刺激になるだろうしさ」
「刺激に思えるうちなら良いさ」
 だが、それが連続すれば――望まない変化ばかりだったら。いずれは刺激だったものが苦痛になってくる。そして異世界に適応する能力を高めるために、自然と自らの個性を削っていくはめになるのだ。それは決して、楽しいばかりのことではない。
 それとも眼の前を歩くこの快活な娘ならば、それとはまた違った生き方を見出すことができるのだろうか。異世界に迷い込むたび、新しい環境を楽しめるものなのか。陽祐はその背中を眺めながら思った。
「お前、大作なんてどうよ?」
「――えっ」足を止め、彼女が振り向く。
「付き合うって話。大作なんてどうかな、と思ってさ。あいつは気の良いやつだよ。信用できるし一緒にいて楽しいと思う。刺激っていうなら、あいつと付き合うってことでも得られそうじゃないか」
「井上君ねえ」その口調から察するに、明子はその可能性を考えたことすらなかったようだ。「良い人だとは思うんだけど、全然そういう風には思えないかな。そういうのだったら、陽ちゃんの方が良いよ」
 突然の言葉に、陽祐は一瞬身を強張らせた。
「陽ちゃんってさ、私とは考え方とか性格とか全然違うけど、でも分かるっていうか、素直にそういうのもアリかなって思えるでしょ。だから安心して付き合えるわけじゃない。それって、人間関係で言えば理想的なのかもしれないなって最近思うよ」
「人間関係ねえ」
 彼女の言うように、秋山陽祐と持田明子の人間性にはかなりの相違がある。だが両者は、互いのそれに理解を示し合ってきた。少なくとも今まではそうだった。個性を認め合いながらやっていけるというのは、言われてみれば理想的な他人との関わり方なのかもしれなかった。
「じゃあ、あれだな。俺たち結婚するしかないな」
 陽祐は、先を行く明子と肩を並べながら冗談めかして言った。
 彼女が笑う。
「うん。結婚だね、こうなったら」
「――でも、プロポーズの前に話しておかなきゃいけないことがある」
「なに?」明子が小さく首を傾げる。「黒じゃなくて、実はピンクの魚だったとか」
「そんなもんかな。何にしても、どこかで落ち着いて話そう。これから行くモールだかにも喫茶店くらいあるんだろう」
「もちろんあるよ。そこにする?」
「そこにする」
 陽祐は明子に先導されて一〇分ほど歩き、市内最大のショッピングセンターに入った。オープンテラス式のファーストフード店を横切り、ショートカットしてエスカレータまで辿り付くと、そのまま地下一階に降りる。彼女に案内されたのは、木材を多く取り入れた内装の、 <ボヤージュ> という小綺麗な喫茶店だった。
 陽祐と明子は程よく賑わった店内を進み、一番奥のテーブル席を選んだ。二脚ある椅子に、テーブルを挟み向かい合って座る。陽祐は明子にコーヒーを奢ることになり、自身はジンジャエールを注文した。
「で、話ってなに。悪いこと?」ブレザーを脱いで背もたれにかけると、明子は改めて陽祐と視線を合わせた。
「あまり喜ばれるようなことじゃない。話すかどうかも結構悩んだんだ」
 陽祐は下校の時、一つの賭けをした。大作を誘い彼が一緒に来ることを選ぶなら、陽祐の勝ち。明子には何も打ち明けず自分の胸の中に全てを収める。逆に、大作が誘いを拒んで明子と二人きりになってしまうことになれば、包み隠さず全てを話す。
 結果は出た。こうして話すと決めた以上は、手札を全部開けて素直に彼女と向き合うつもりだった。どうせ自分より相手の方が勘も鋭ければ頭も良い。下手な駆け引きは裏目に出るだけだろう。
「まずは、これを見てくれ」
 陽祐はブレザーの胸ポケットを探った。転居後に届くようになった三枚の紙片を摘み出し、明子の方を向けてテーブルに置く。

  A 0406 旧知のメーコ 第一の選択肢
  B 0408 四月九日 被疑者確保 三二歳男性 飲食店従業員
  C 0411 剛 第二の選択肢

「余白部分に鉛筆で書いてあるアルファベットと数字は、送られてきた順番を分かりやすくするために俺が書き加えたもんだ。A、B、Cの順番で届いたって意味。横の数字は届いた日付だ。それ以外の部分には全く手を入れてない」
 明子は怪訝そうに眼を瞬きながら、差し出された三枚の紙片を順に手に取り内容に眼を通していった。
「なにこれ。手紙?」
「分からない。Bのやつは確かに手紙っぽい届き方はしたけど」
「Aのに私の名前がある――」彼女は説明を求めるように陽祐を見詰めた。「この <旧知のメーコ> って私のことだよね?」
「確かなことは言えない。そうじゃない可能性もある。だけど、俺はお前と同じように解釈した」
「その次の <第一の選択肢> っていうのは? そう言えば心当たりがあるかって陽ちゃんに訊かれたよね」
「そう。だけどお前は何も知らないって言った。今もそうか?」
「何のことだかサッパリだよ」
 ウェイターがオーダーの品をトレイにのせて運んできた。それぞれ受け取ったが、陽祐にも明子にもそれを口にする余裕はなかった。
「Aの紙は、引越しの時に紛れこんでた空のダンボール箱の中に入ってた。父さんにも作業を手伝ってくれた井上家の連中にも確認してみたけど、誰も自分の仕業じゃないと証言した」
「気味が悪いね」明子はあからさまに顔を顰めた。感情をストレートに表現するのが彼女の大きな特徴の一つなのだろう。「陽ちゃんが言ってた、誰かの悪戯ってこれのことだったんだ」
「そう。二通目のBは、始業式の日の早朝に井上家の自宅ポストで見つかった。恐らく前夜か当日未明に投函されたんだろう」
「誰が、いつ見つけたの?」
 明子の質問からは、彼女が一時の感情やパニックにとらわれず論理的な思考を維持していることが窺えた。陽祐はそれに少なからず安堵しながら言う。
「大作が朝の七時前に見つけた。少なくとも本人はそう言ってるし、個人的な見解を言わせてもらえればそれは充分に信用できる」
「そうだね。私も、井上君は変な嘘を吐くような人じゃないと思う」
「新聞の朝刊をポストまで取りに行くのは、井上家では大作の役割と決まってるそうだ。始業式の日も新聞に取りにいって、その時に見つけたらしい」
「九日っていったら先週の土曜か。何かあったっけ?」
 明子はようやくコーヒーを飲む気になったらしく、ホイップクリームを垂らしてスプーンで掻き混ぜ始めた。
「江刺でガキが二人、続けて行方不明になる事件があっただろ。あれの犯人が捕まった。三二歳の男で、飲食店の店員だった。子供は死んでたよ」
「そっか。うん、私もその事件は知ってる」
 明子はスプーンを持った手を止めたが、それは一瞬にすぎなかった。
「確かに不思議な符合だけど、この書き方はちょっとずるいよ」
 陽祐が意味を問い返す前に、明子はスプーンを置いて自ら続けた。
「文字の配置からしてまず曖昧じゃない。四月九日っていうのは犯人が逮捕される日を予告してるのかな。それとも犯罪が実行された日付? そもそも今年の四月九日なのかどうかもわからないよ。被疑者、三二歳男性、飲食店従業員――この三つも全部が犯人の特徴を示しているのか、それとも三二歳のウェイターが被害者になった事件だって言いたいのか、もうどのようにも解釈できるよね。占いと同じ原理だよ」
「確かに占いみたいな内容ではあるけど……」
「誰にしたって未来を予知することはできないんだよ、陽ちゃん。占いだって、みんなそのことを前提とした上で受けとめてるでしょ。だから陽ちゃんもそうすべきなの」
 そう断言した上で明子は自説を補足し始める。まず彼女は、意味不明の手紙を送られれば誰でもそれについて少しは思考してしまうものだ、と指摘した。内容を掴もうとするだろうし、誰が何の意図で送ってきたかを知りたがるだろう。しかし、情報不足で謎は解けない。受け取り人はストレスを蓄積させていく。
 相手をそうした欲求不満の状態に導けばしめたものだ。これに不可思議な数字の羅列、「第〜の選択肢」といった意味深な言葉などの演出を加えてやれば、あとは受け取った側が勝手にあれこれと辻褄の合う説明をでっちあげてくれる。
 今回も似たようなケースであることが考えられる、と明子は付け加えた。未来を予測するような思わせぶりな内容のメモを送りつけ、相手にそのことを意識させる。あとは、相手がその日出会った印象的な出来事とメモの内容とを適当に結びつけてくれるのを待てば良い。所詮は心理トリック。――要約すれば、彼女の主張は以上のようなものだった。
「今年の四月九日に逮捕された人は、全国に何人いるだろうね。この紙の内容は国内に限定してないから、世界的に見ることもできる。きっといっぱいいるよ。で、きっと八割くらいは男の人だね。統計的に犯罪者は男に多いから。その犯人自身が三二歳だったり、関係者に三二歳の誰かや飲食店店員が関わってる可能性は? こじつけようと思えば幾らでもできると思うよ」
「確かに」陽祐は思わず頷いた。「飲食店での強盗事件とかだったら、即条件を満たしちまうだろうな。三二歳の客が一人くらいいてもおかしくないし。店員は幾らでも見つけられる」
「どうとでも解釈できる文章は、受け取り方次第でどんな出来事とも関連付けられるものだよ。言ってしまえば、必ず的中するものなの。今日の運勢は最高ですって占いを見た人は、何か良い出来事に遭遇したら占いが当たったんだって喜びたがる。そういう心理ってあるんじゃないかな」
「なるほどな……」
 思わぬところから出てきた新解釈に、陽祐は感嘆の呻きを漏らした。井上家の連中と雁首揃えて考えても、これまで出てきたのは陳腐なストーカー疑惑だけだった。だがこれに明子の仮説を付け加えれば、ほとんどの現象と相手方の思惑に納得のいく説明がついてしまうような気がした。
「お前、頭良いんだな」
「私だって伊達にお喋り女やってるわけじゃないんだよ。色んな人を通して色んな話を追いかけていくとね、情報が人にどういう風に伝わって、どういう風に認知されていくかが見えてくるの。変化、劣化、曲解、誤解、もうなんでもござれだよ。伝言ゲームの要領ね。そういうのを何ていうのかは分からないけど、凄く面白い素材だから専門的に研究してる人もきっといると思う」
 そう言うと、明子はコーヒーを一口含んだ。それに倣うように陽祐もジンジャエールのグラスを傾ける。
「俺は三番目の――Cって書いてあるやつな、それは山下剛のことが書かれてるんじゃないかと思ってたんだ。選択肢ってのが何なのかは全然分からないけど、Aのメーコってのはお前のことだと思うし。だから、剛ってのも人名じゃないかってね」グラスを揺らし氷の鳴る硬質な音を聞きながら、陽祐は続けた。「で昨夜な、山下と渡瀬が通り魔みたいな女に襲われてる現場に出くわしたんだ」
「え、嘘――」明子は眼を見開き、小さく口を開けた。
「本当なんだ。気味の悪い女だったよ。駐車場にあるような灰色のブロック持っててさ、背後からいきなり襲いかかっていったんだ。しかもその女は、近くにいた俺を素通りしてわざわざ山下に向かっていったんだぜ。どう見てもあいつが狙われていたとしか思えない」
「本当にそんなことあったの?」
「嘘じゃない」陽祐はその証を見せるため、左腕のブレザーとシャツを捲って見せた。どす黒く変色し大きく腫れあがった内出血の痕が現れる。「止めに入った時、その女にブロックで殴られた箇所だ。少なくとも俺が夢を見てたんじゃないことの証明くらいにはなる」
「酷い……痛そうだね」
 明子はまるでその痛みが半分伝わったかのように眉をしかめた。
「だから、お前のことも心配になったんだよ。山下が襲われたんなら、お前のところにも行くかもしれない。まあ、普通に考えれば神経質になり過ぎってことになるんだろうけどな。お前の話を聞いてる限り、確かに心理トリックに踊らされて強引に全てを関連付けてしまってるだけって感じもしてきたし」
 人は理解できないこと、理不尽なことに遭遇した時、自分の納得できる理由をつけて安心したがる――明子の言う通り、確かにそんな部分はあるのだろう。陽祐自身、身に覚えがないこともなかった。 <摩り替わり> を自覚するようになってから、周囲に起こるあらゆる異変をつい <摩り替わり> と関連付けて考えしまうようになったのだ。 <摩り替わり> そのもののメカニズムは解明できないが、理不尽なできごとを全てその現象のせいにしてしまえば、ある程度の諦めがつくからである。
「俺はどう考えるべきなんだろう。なんか、何が正しいのか分からなくなってきた」
「現時点では、このCの手紙に書いてある <剛> っていうのが山下君だとする確証はないね。名前に同じ文字が使われている人は、探せばいっぱいいるだろうし。山下君が通り魔に襲われた事件も、Cの手紙と結びつけて考えるのは少し強引過ぎるよ。因果関係を証明できる要素は何もないでしょう。冷静に考えれば、神経質になった陽ちゃんが必死になって関連性をでっちあげてるようにしか見えないもん」
「言いにくいことをズバッと言ってくれるな」
「だって、陽ちゃんは曖昧な答えなんて望んでないじゃない」
 悪びれた様子もなく、明子はあっさりとそう言った。確かにその通りである。
「でも、完全に無関係ってことが約束されたわけでもないよな」
「そうだね。それは陽ちゃんの言う通りかも」明子は頬杖をつくと考え込むように宙を睨んだ。「完全に無視して構わない程度の些細な問題でもないようだし、難しいとこだよね」
「それにさ、言い忘れたけどCのメモは俺の家の二階にある廊下で見つかったんだ。しかも夜明け前の変な時間帯にだ。誰が、どうやって置いたのか未だに分からない。一時は無断で家宅侵入されたんじゃないかって死ぬほど焦ったよ」
「二階の廊下ぁ?」頬杖から顔を上げると彼女は素っ頓狂な叫びを上げた。「間違いないの、それ」
「間違いない。変な夢を見て真夜中に起きたんだ。もう五時近かったから、どっちかっていうと朝かな。とにかく、そのとき落ちてるのを見つけたんだ。寝る前に廊下を通った時は確かになかったもんだ」
「どういうことなんだろう。誰かが家の中に入って来たって考えが一番分かりやすいけど、でもそうまでして二階の廊下に手紙を置くメリットが分からないし、その必要性もないよね。Bのやつみたいに、ポストに放り込んでおけば良いんだもん。陽ちゃんをより怖がらせるためって考えることもできるけど、それにしたって見つかる危険性もあるし、その場合のリスクを考えると悪戯としては割に合わない」
「俺に言わせれば――」陽祐は残りのジンジャエールを一気に飲み干すと言った。「悪戯自体が割に合わない、エネルギィの無駄使いなんだがね」
「つまり、悪戯をするような人のことを論理的に分析しようとしても無駄だってこと?」
「そうまでは言わないけどさ。山下のやつが言ってたみたいに、通り魔やらストーカーやらのことを知ろうとしても、あまり得られるものはないのかもしれない」
「そんなことないよ。論理的アプローチっていうのは、要するに客観的に物を考えるための最善の方法なんだよ。陽ちゃんも私も、この件に関しては当事者なんだから感情的になりやすいの。だからなるべく冷静に物を見るようにしなきゃいけないでしょ」
 憮然とした表情で明子は一気に捲くし立てた。飄々としているように見えるが、案外短気で激情的な部分もあるのかもしれない。
「お前が俺より頭が良いのは分かったよ。でもな、ナイフを振り回す奴の心理だとか行動原理を科学的に分析してみても、いま振り上げられているナイフそのものを止めることはできないんだぞ」
「それはそうだけど……」
「俺はあり得もしない最悪のパターンを考えて、一人で鬱になるような馬鹿だ。でも、その臆病さに命を拾われることだってたまにはある。俺が怖いのは今回がそのケースだったときだ。相手は夜中に他人の家に忍び込む奴かもしれないし、背後から脳天にセメントのブロックを叩き落そうとする奴かもしれない。万が一のことが起こればお前だってただじゃ済まないだろう」
「陽ちゃん、私のこと心配なんだ」
 明子は場違いにも嬉しそうな微笑を浮かべた。彼女も事の深刻さは理解しているのだろうが、どうにも性善説を信奉するかのような無邪気さが同時に感じられてしまう。陽祐にしてみれば、それがまさに不安の種になっていた。
「心配したくもなるよ。お前は端から見るより大人なんだろうけど、結局は <幸せ村> の住人でしかあり得ないのかもしれない。少なくとも世の理不尽についちゃあ、ボンクラの俺と比較してさえまだ理解が及んでない部分がある」
「理不尽って?」
「人間は簡単に悪魔みたいになれる。でも、聖人にはそうそうなれるもんじゃない。神様を信じる気にさせてくれるような奇跡は滅多に起こらない。でも、悪魔の実在を信じたくなるようなことは、世の中にごまんとある。まあ、そういうこった」
 抽象的なその表現に、明子はしばし考え込むような仕草を見せた。
 陽祐は世界を好意的に、また楽観的に捉えて生きていこうという考え方が好きだった。自分には真似できないが、そうした人間が未来に希望を持って日々を送っている姿は見ていて気分が良い。きっと明子も本質的にはそうした人間の一人なのだろう。
 だが、この世には彼らの想像を超えた理不尽や悪夢が確かに存在する。そのことは、陽祐が <摩り替わり> と呼ぶ現象で証明できるはずだった。
 もし明子の身にも <摩り替わり> が起こったとしたら、彼女はどのような反応を示すだろう。最近、陽祐はそのことを良く考える。やはり得体の知れない恐怖に発狂しかけるのだろうか。絶望し、疲れ果て、消極的な生き方をするようになるだろうか。或いは陽祐とはまた違った受け入れ方をして、それでも前向きに生きていくのだろうか。
 確かなことは何も言えない。でも彼女なら、陽祐が思いもしなかった何かを見せてくれるような気もしていた。
 時間はかかるだろうが、いずれ自分なりに <摩り替わり> に対する何らかの決着がつけられたなら、明子に直接訊ねてみたいと思った。その時、彼女が何を口にするかが楽しみであり、怖くもある。
「――お前にはさ、いつか話すことがあるかもな」
 陽祐は微笑しながら静かに言った。
「え、何のこと?」
「さ、話したいことは全部話したし、もうそろそろ行こう。せっかく来たんだ、どこに何の売り場があるのか見ておきたいしな」
 きょとんとする明子を尻目に、陽祐は伝票を手にして立ち上がった。
 こいつだけは、俺とは違う。もしかするとそう信じ込むことで、自分を慰めようとしているだけなのかもしれない。そうした疑念も確かに陽祐の中にはあった。それは幻想に過ぎず、実際は持田明子も秋山陽祐とそう違わない人間なのではあるまいか。
 仮にそうだとしても、今はまだ知らなくて良いことだ。これから長い時間をかけて少しずつ確かめていけば良い。
「ねえ、ちょっとそれどういう意味なの」
 明子が席を立ち、慌てた様子で追いかけて来る。陽祐はこみ上げてくるものを噛み殺しながら、何も答えずレジへと向かった。


    6

 普段と違って、ベッドに潜り込んでも渡瀬啓子に眠気は訪れなかった。山下の早朝練習に付き合うようになってから、健康的で規則的な生活が身についた。二三時に床に入れば、自然と目蓋が重くなるのが当たり前になっていた。しかし、ここ数日は事情が違う。
 闇の中、眼を凝らして少し離れたDVDプレイヤーに眼を向ける。液晶パネルが表示する時計は、二三時三四分を示していた。就寝を決めてから半時間が経過した計算だった。
 眠たくなかったし、可能だとしても眠りたくなかった。夢を見たくなかった。ベッドの中で眼を閉じると、月曜日のことを思い出さずにはいられないのだ。
 通り魔に襲われたのは、もちろん初めてのことだった。山下や秋山陽祐は女の顔まで良く見たらしいが、実を言えば啓子はあの時のことをほとんど記憶していない。後ろから荒々しい誰かの息遣いが聞こえてきて、それが首筋に吹きかかるような不快感があって――気付いたら、自分のあげた悲鳴のような声に自分で驚いていた。
 それからはもう、意識が半分飛んでいたらしい。災害現場を生中継する、TVカメラのぶれた映像を見ているような感じだった。眼の前を幾つもの影が横切り、天地が分からなくなるほど世界が揺れ、怒号や悲鳴ばかりが脳に直接入り込んで来るように聞こえていた。
 ようやく我に返ったときには、全てが終わっていた。女も秋山もいなかった。誰かと会話したような気もするが、単なる記憶違いかもしれない。山下に腕を引かれ、ただ人形のように家路を歩んでいた。
 もっとも、問題はこうした表面上の情報の有無などではなく、むしろ心の奥底に刻まれた極めて原始的な恐怖感だった。満足な記憶は留めていないくせ、非日常的な恐るべき体験をしたことだけは心が勝手に覚えこんでいたらしい。眠ろうとすれば、不意にそのとき見た光景の断片が脳裏に蘇ったり、自分の悲鳴が耳の奥で反響しているような気がしたりする。これが、近ごろ流行語のように乱用されている精神的外傷《トラウマ》というものなのかもしれない。そんな漠然とした不安があった。
 いい加減、寝るのを諦める気になった。小説でも読もうかと電気スタンドに手を伸ばしかける。そのとき、スリッパの足音が近づいてきてドアが小さくノックされた。
 嫌な予感がする。両親が真夜中に娘の部屋を訪れることなど、滅多にあることではなかった。
「啓子、起きてる?」母、可奈子の遠慮したような声がした。
「うん」ベッドサイドの明りをつけて身体を起こす。「なに?」
「山下君の親御さんが見えてるんだけど」
「え――」
 闇に慣れた眼を光に馴染ませながら、もう一度、時計を見た。二三時三六分。間違いない。
 スリッパを履き、ドアを開けた。廊下の柔らかい照明を背に受けながら、可奈子が複雑そうな表情で立っている。その眼差しには、なぜか啓子を批難するような色が含まれているような気がした。
「親御さんって? なんで」
「どうも、息子さんがまだ帰ってないみたいなのよ」可奈子は眉間に皺を寄せて迷惑そうに言う。「あなたが何か知らないかって」
「うそ」
 思わず飛び出しかけたが、夜着姿であることを思い出して留まった。着替えてから応対すると母に告げ、一旦ドアを閉める。トレーナーとストレートパンツに素早く着替えて部屋を出た。ドアの傍で待っていた可奈子と一階に下りる。
 玄関には、大樹を思わせる巨躯の男が真っ直ぐ立っていた。畏まった軍人のように姿勢が良いが、それでいて固さの全くない自然体の構えである。何かの競技の選手だった経験があり、しかも相当に肉体を鍛錬した人間であることは身体つきから一目で分かる。反面、年齢に関しては曖昧な部分があった。顔には相応の歳を重ねた証として刻まれたものがあるが、肌には張りとつやがあり、微動だにせずとも全身から躍動感のようなものが伝わってくる。
 顔のつくりに息子との共通点を見出すのは難しいものの、筋肉の付き方は親子だけあって酷似している。山下剛の実父、隼人だった。
「啓子さん、夜分お騒がせして申し訳ない」
 啓子の姿を認めると、彼は礼儀正しく頭を下げた。慌てて会釈を返す。隣近所ということもあり、何度か顔を合わせた仲だった。
「あの、山下君がどうかしたんですか?」
「それが、この時間まで空手の稽古から戻らなくてね」
 わざわざ訪ねてきたわりには、随分と落ち着いた口調だった。表情から啓子のその思いを読んだのだろう、あれも夜遊びくらいする歳ではありますから、と彼は付け加える。
「ただ、私に似てあまり遊びの上手い人間ではないのも確かでしてね。妻がたいへん気にしている。啓子さんとは随分と懇意にさせてもらっているようだから、もしかしたら一緒にいるか、そうでなくても何か聞いているのではないかと思ったんですが」
「あの、携帯電話は……」
「妻が何度もかけたんだが、全く繋がらない」
 思わぬ返答に、啓子は思わず首を傾げた。生真面目な山下は、確かに場所をわきまえて携帯電話の電源を良く切る。しかし、自転車で移動しているときにまでそうするかは疑問だった。
 怪訝そうにしているのが分かったのか、山下氏に眼で問われる。
「私、ちょっと前に山下君と携帯で話したんですけど」
「本当なの?」
 沈黙を守っていた可奈子が、咎めるような調子で横から口を挟んだ。彼女は中学時代の暴力事件以来、山下の存在を好ましく思っていない。普段は控え目な女性だが、自分なりの定義を一度固めてしまうと、なかなかそれを改めようとしない頑固さのようなものがある。啓子は母親のそうした部分を侮蔑していたが、同様の性質を彼女から直接受け継いでいることも認めていた。
「その電話は何時ごろのことかな」隼人が言った。
「九時二〇分ちょうどです」
 山下は通常、二〇時五〇分に花巻駅を出る上り普通列車に乗る。彼が下車する水沢駅までの所要時間は約三〇分。改札を出て自転車置き場に向かう間を狙い、タイミングよく電話を入れるのが自分の習慣であることを啓子は説明した。
「九時二〇分……」山下の父親は鼻と唇の間に拳を当て、少し考え込むような仕草をとった。「それで、何分くらい話したかは覚えていますか」
「二、三分だと思います。最初に私が、今どこにいるのって訊いて、山下君が水沢駅だって言って、その後ちょっと雑談して――」
 言葉の途中、唐突に一昨日のことを思い出した。二一時の電話でも、通り魔のことが話題にのぼったのである。山下は全く問題にしていないようだったが、秋山陽祐に留意するよう再三要請されていたこともあり、渡瀬は気になって仕方がなかった。胸騒ぎさえしていた。
 なぜ山下は帰ってこないのか。その答えが一瞬、脳裏にちらついた。必死に否定しようとするが、身体は正直に反応する。肌が粟立ち、全身を不気味な浮遊感が襲った。
 山下の自転車は恐ろしく速い。二一時二〇分に水沢駅に着いたのなら、半時間程度で帰宅できるはずだった。途中でタイヤがパンクするなどして徒歩に切り替えたところで一時間前後。二二時半には帰ってしかるべきである。
 山下はあの女に遭遇したのかもしれなかった。出会ってしまったからこそ、彼は帰ってこないのではないのか。
「啓子、どうしたの?」
 気付くと、可奈子に肩を軽く揺すられていた。山下隼人も心配そうに啓子を見詰めている。思わず母親に縋りつきたくなったが、なんとか堪えた。傍目に分かるほど身体が震えていないことを願う。
「ちょっと、電話で話したことを思い出してただけ」
 通り魔の話はするべきではないと思った。少なくとも今は避けたい。口にしてしまえば、山下が戻らない理由としてそれを認めることになるような気がした。
 山下は強い。空手の有段者だ。先の全国大会でも、直前に行われた実戦派の練習試合で脚を捻挫するというアクシデントを経験しながら準優勝を飾った。常人なら歩行にも難儀する怪我を負いながらの快挙だった。通り魔などに、しかも女性などに不覚をとるはずがない。そう言い聞かせた。彼は何度も、自分は大丈夫だと言ったのだ。山下剛は守れない約束をしない男である。
「しかし、水沢まで来て寄り道ということも考えにくいな」
 隼人が幾ぶん表情を険しくしながら、呟くように言った。確かに、夜半遊ぶというのなら大きな街の方が都合が良い。花巻に留まるか県内第二都市である北上市などで途中下車するほうが適当だろう。
「啓子さん、剛が今日のような日に通る道をご存知ですか」
「はい」渡瀬は自信をもって頷いた。「駅まで自転車で行ったときは、山下君、いつも同じ道を通ります」
「もし良かったら、今から私と一緒にその道を見回ってもらえないだろうか」そう言ってから、彼は恐縮したように母へ頭を下げた。「こんな時間に非常識だとは思いますが、お嬢さんを少し貸して下さい。帰りは、責任をもってお送りしますので」
「でも……」
 可奈子は渋面で難色を示す。山下がこの時間まで帰らないことに何ら関心を持っていないのだ。彼女にとって、山下剛は他人に暴力を振う悪童であり、過去に中学で停学処分を受けた危険人物なのである。どんな事件を起こしたところで驚かないのだろうし、逆にそうした事態がやがて訪れるであろうことを予感していたような顔をするに違いなかった。
「私、上着をとってきます」
 啓子は客人に小さく会釈すると、踵を返して階段を駆け上った。母は押しに弱い。勢いで乗り切るしかなかった。
「ちょっと、啓子。待ちなさい」
 可奈子が語気も鋭く、後を追ってきた。無視して自室に飛び込む。クローゼットからウインドブレイカーを引っ張り出して羽織った。
「啓子、待ちなさい。何であなたが行かなくちゃいけないの」
 部屋から出ようとしたところを押し留められた。流石に玄関まで届かないよう声量を絞っていたが、可奈子の表情と口調は厳しい。彼女はこの件を、真夜中に持ち込まれた迷惑な他人事としか認識していないのだった。
「なんでって、お母さんは心配じゃないの?」
「ちょっと落ち着きなさい、啓子。あなたが行ってどうなるの」
「どうって……小父さんの道案内くらいにはなるよ」
「いい加減気付きなさい。こんな時間まで外をほっつき歩く人間なのよ。それが本性ってことでしょう」
「違うよ。お母さんのは偏見だよ」
「違いません」可奈子は言下に切り捨てた。「あの子のことをどう思ってるのかは知らないけど、あなたくらいのときは、ああいうタイプが良く見えるだけなの」
「そういうのとは違うよ」
「そのときは、みんな自分だけは違うと思うの。お母さんも子供のときはそうだったから分かります。お願いだから、今はとにかく言うことを聞いておきなさい」
 学校でもそうだ。山下は過去の話もあって、周囲から遠巻きにされている感がある。本人も黙して語らず、あえて誤解を正そうとする気配もない。言葉ではなく、日々の言動をもって己の証を立てるのが彼のやり方だからだ。
 だが相手が何も言わないのを良いことに、無責任な他人たちは必要以上に山下を過小評価して嘲笑の対象にする。彼が示そうとするものを見ようとしない。見たいものを見たいようにしか見ない。
 理由は分かっていた。山下には打ち込めるものがある。自分が何をすべきであり、何がしたいかを知っている。禁欲的で、意思の力が強かった。だから、そうでない者は山下の姿を見ると焦燥感や劣等感に苛まされるのだった。山下を自分たちと同じところまで引きずり落とさなければ安心できない。
 知ろうとも理解しようともせず、偏見と先入観で相手の評価を決めつけ、それが絶対の真理であるかのように振舞うのはそのためである。理由こそ異にするものの、血を分け合った自分の母親までがクラスメイトと似たような反応を示していることを思うと、俄かに腹が立った。
「分かってないのはお母さんたちだよ」可奈子を睨み返す。「私たち、付き合ってるんだから」
 可奈子が眼を見開いて驚愕を露にした。「あなた、まさか――」
「山下君のこと理解するつもりがないなら、お母さんはそれでもいいよ。でも私はちゃんと見て、ちゃんと評価する。私はお母さんとは違うの」
 呆然としている母親の横を半ば強引にすり抜け、足早に部屋を出た。階段を下りかけたとき、腕を掴まれる。また睨み合いになった。
 これだけ正面から意見を戦わせたことはかつてない。どちらも場の雰囲気を悪くしないため、持論を明らかにさせなかったり、させても適当なところで退く術を心得ていたはずだった。
 親と激論を戦わせる自身の意外な姿に、啓子は戸惑う。山下と付き合っていると、自分さえ知らなかった己の新たな一面が次々と明らかになっていくのだった。今回のケースもその一例なのだ。これは良いことなのだ。そう決め込んで、勢いに任せることにした。
「私たち、遊んでるんじゃないよ」怯んではならない、と自分に言い聞かせながら啓子は言った。「山下君は私のこと真面目に考えてくれて、大事なことはちゃんと二人で話し合ってくれた。家族とだってできないくらい。だから、お母さんが言うみたいに私に間違いがあったとしても、それで良いと思ってる」
 母は保守的な人間だった。女はなるべく傷つくべきではなく、汚れるべきではないと考えていた。そうしたものが、女として人間としての価値を落とすと啓子に教えてきた。
 全てが間違いだとは思わない。自らを卑小化することにしかならない傷つき方や汚れ方も、恐らくこの世にはあるのだろう。だが、それを一から他人に教えられるのではなく、自ら学びとる道を進みたかった。間違っていたとしても、自分で選びたかった。
 母親の手の力が一瞬、緩んだ気がした。一歩踏み出すと、それは自然と腕から離れていった。一気に階段を下り、山下隼人に準備が整ったことを告げる。可奈子はもう呼び止めなかった。
「良いのかい?」玄関で待っていた隼人が、困惑顔で言った。
 問題ないと答え、啓子は靴を履いてドアを開けた。外気に触れた途端、身体が跳ね上がるように大きく震える。緊張か興奮か、それとも恐怖のせいか。寒さを感じたからでないことだけは明らかだった。
 隼人を引き連れ、砂利を敷いた短い小道を歩き門を出る。夜風に身体が馴染み始めたころには、母親のことはもう念頭になかった。山下のことだけを考えていた。
「車を出した方が良いだろうか」
 通りに出ると、遠くに見える繁華街のイルミネーションを眺めながら彼が言った。丁寧な口調に、明らかな敬意が感じられる。自分が知らない息子の一面を見詰める人間として、氏から認められていることに啓子は気づいた。対等の存在として扱われている。こんなときでなければ、感動したかもしれなかった。
「歩いた方が良いと思います。いつも通りなら公園の中を横切ったりするはずですから」
 彼は頷き、改めて啓子に協力と案内を請う。啓子は市の中心部に向かって歩き始めた。山下の道順設定は単純で、出発点から目的地までの最短距離を、できるだけ直線的に突き進むというものだった。途中、自転車を担いで短い階段を上り下りするようなことさえ厭わない。これを逆に辿って行けば、どこかで山下と遭遇できるはずであった。
「小母さんはどうされてるんですか?」啓子は訊いた。
「妻は自宅待機だ。あまり大勢で動いても仕方がない。入れ違いになるかもしれないし、電話がかかってくるかもしれないからね」
 二〇分ほど、周囲に気を配りながら歩いた。山下には出会わなかった。行方の手がかりになりそうなものもない。心配でないはずはないのだが、山下隼人はそれを感じさせない口調で言葉を繋ぎ、啓子に沈黙思考する余裕を与えなかった。黙り込めば、どうしても悪い想像をしてしまう。彼はそうした心理を良く理解していた。息子と同様、トップアスリートに必要な条件を備えていたのである。
 やがて市の中心部からやや南に外れた中央公園に近づくと、周囲の様子が心なしか変わった。公園内部とその周縁部は、季節によって暇を持て余した恋人たちが逢瀬を重ねる場に利用することもあるらしいが、それにしても騒然としすぎていた。ときおり、コンサートの開演時間に遅れそうな客のように、どこかを目指して走り去っていく人の姿を見かける。皆が、示し合わせたように同一方向を目指しているのが気になった。
「剛は、近道のためにこの中を横切るんだね」
 うんざりしたように隼人が言った。啓子は首を縦に振り、そうだと答える。特別な事情がない限り、今夜も変わらないはずだった。
 人間一人の捜索範囲として考えると、中央公園は広過ぎた。かなりの観客を収容できる本格的なスタジアムやサッカー場が敷地に含まれていたし、テニスコートや市民の健康的な憩いの場となる芝のグラウンドもある。外部と繋がるゲートは大小無数に存在し、主だった箇所には守衛の詰め所が設けられていた。駐輪場や大型駐車場も完備されている。これらの外周をジョギングコースやサイクリングコースなどか縁取っていた。
 空間の大部分は闇夜と融合しているように見えるが、等間隔に立ち並ぶ実用本位の電灯に照らし出される部分だけは、昼間のそれに近しい色を維持している。
「この明りだけを頼りに探し回るのは難儀そうだが、それにしてもどうして真夜中なのに人がこんなに多いのか」
 山下隼人は、拳で鼻を押し上げるような仕草を見せた。思考するときの癖らしい。
「みんな、同じ方向に行ってるような気がします」
「何かあったのかもしれないな」
 同感だった。暗さのせいでその表情を窺い知ることは出来ないものの、恐らく彼も啓子と似たりよったりの顔をしているのだろう。
 隼人が先に立ち、人々が集う先へ足を向けた。広場の円周を縁取る小道は、ゴムのような弾力のある素材が敷き詰められている。途中、何人かの若者に追い抜かれたが、軽やかに駆けていく彼らの足音はほとんど周囲に響かなかった。
 常緑樹に彩られた大きなカーヴを曲がり南東のゲートへ続く短い直線に入ったとき、啓子の前で規則正しく揺れていた大きな背中が急に動きを止めた。群集が発するざわめきが耳に届いてくる。見ると、出入り口付近に火事場見物の野次馬のような人集りができていた。
 照明機材が持ち込まれているのか、公園内に設置された電灯とは明らかに違う光源が周囲を照らし出している。円形の舞台で何らかのイヴェントが行われ、それを観衆たちが取り囲んでいるようにも見えた。
 時間が時間だけあって、出遅れた人間が間に割り込めないほどの集いではなかった。先客たちに頭を下げ、何度か肩をぶつけ合いながら黒山の最前列に辿り着く。
 視野が開けた途端、立ち入り禁止のプレートを下げた黄色いロープが眼前に現れた。それは腰の高さのポールに繋がれ、人々の行く手を阻んでいる。何故か制服姿の警官もいて、群集たちが現場に足を踏み込むのを阻止しようと、制止の声を張り上げながら身体を張っていた。
 彼らが守ろうとしているのは、下り階段に続く踊り場のような空間だった。そこに眼をやった瞬間、隣で山下隼人が小さく息を飲んだ。コンクリートに染み付いた夥しい量の血痕が広がっていた。人間の出血によるものだとすれば、尋常ではない。まさに血の海といった様相だった。
 不意に、閃光で網膜を焼かれたような気がして、啓子は思わず眼を閉じた。手で庇いながら、恐る恐る目蓋を開く。それがカメラのフラッシュであったことに気付くまでしばらくかかった。
 血溜まりの周囲には、紺色をした作業服姿の男たちが何人もおり、盛んにシャッターを切って現場を写真に納めていた。背広に腕章をつけた私服刑事らしき人間たちが、後ろからその様子を険しい表情で見守っている。彼らの更に後方、階段を下った通りの路肩には複数のパトカーや警察のワゴン車が停まっていた。
「失礼、何があったのかご存知ですか」
 どこか頭上の方で、山下隼人の声が聞こえた。野次馬たちの喧騒の中、誰かがこれに答えたような気がしないでもない。
 いずれにせよ、啓子はそのとき既に無音の世界にいた。
 階段へ続く銀色の手摺のそばに、一台のマウンテンバイクが立てかけられている。血飛沫を浴びたのか、紅い斑点のようなものが無数に浮いて見えた。山下剛の自転車だった。


    7

 山下剛が花巻市の実戦派空手道場に通い始めたのは、四年前、暴力事件を起こし中学校の空手部を追われたときだった。部活動を禁じられたため、新たな練習の場を一般の空手道場に求めた結果であった。だがそれは、単なる切っ掛けでしかなかったのかもしれない。空手の幅を広げるため、山下はかねてから実戦派の道場で学んでみたいと考えていたのである。
 空手は寸止めを基本とする伝統派と、実際に殴る蹴るの要素を認めた実戦派に大分される。しかし、中学高校の空手部はその大半が伝統派に属するというのが現状だ。そのため、山下は一〇年以上のキャリアを持ちながら、もっぱら伝統派の世界しか知らずに育った。
 空手の世界は総じて保守的閉鎖的で、同じ空手の看板を掲げていても、実戦派と伝統派は思想的な相違もあり長く犬猿の仲が続いている。また近年は打撃に加え投げ技、関節技の要素を含めた総合格闘色の強い新たな空手も誕生しており――山下に言わせれば、それは既に空手を名乗れた存在ではないが――、ますます空手というものを定義し難くしていた。だからこそ山下は、様々な流派に触れ自分なりの空手を再認識してみたいと考えるようになったのだった。
 毎週火曜日と木曜日、放課後に行われる高校空手道部の練習を休んで、花巻市花北地区のコミュニティセンターへ通うことにしているのもそのためだ。ここで一九時から二〇時三〇分までの間、じっくりと実戦空手の指導を受ける。この時ばかりは啓子が同行することもなかった。道場は入会希望者の見学を歓迎してはいるが、彼女のようなマネージャーもどきはその限りにないのである。
 山下はその日もいつも通り稽古に精を出し、定時に解放されると一人でコミュニティセンターを出た。最近はダイエットのためか、山下と同年代の娘や仕事を終えたOLなどの参加者も増えてきた。集団を作った彼女たちが黄色い声をあげながら通りの反対方向へ消えていく。山下はそれを尻目に北上川の支流を渡り、大通りを通ってJR花巻駅へ向かった。距離にして数百メートル。辿りついた東口から駅の構内に入ると、毎回利用している二〇時五〇分の上り普通列車を待った。これを逃せば、次に適当な列車が来るまで一時間半も待たなければならない。この辺りは、電車の本数が絶対的に少ないのだった。
 無事に予定していた列車に無事乗り込んだ山下は、約半時間かけてJR水沢駅に向った。白丘市を目的地とする多くの者は、この水沢でローカル線の鈍行に乗り換える必要があった。
 定刻通りに到着した列車から下り、ホームの階段に向かおうとした時だった。まるでタイミングを見計らっていたかのように携帯電話の呼び出し音が鳴り出した。実際、山下の乗る列車が二一時一九分に水沢駅に到着することを知っている人間の仕業だ。ディスプレイの表示は、それが渡瀬啓子からの通話であることを語っていた。
「――はい」
 開始ボタンを押して応答すると、すぐに彼女の声が聞こえてきた。
「お疲れさま、渡瀬です。山下君、練習終わった?」
「いつも通りだ。今、水沢にいる。お前の方はどうだった」
「ちゃんといつもと違う道を通って帰ったよ。何もなかった」
「そうか。良かったな」
 予想していたことだったが、それでも山下は安堵した。今日は一緒に下校できないため、啓子に既定のルートを変更して帰宅するよう指示していたのである。通り魔に再度襲われることを警戒してのことだった。
「山下君も気をつけて帰ってきてね。昨日のあの人、もしかしたら山下君を狙ってたのかもしれないから」
「俺は問題ない」山下は階段を上りながら言った。「だけど、なんで俺が狙われてるなんて思う」
「あの人、近くにいた秋山君を素通りして真っ直ぐに山下君に向かって来たでしょう。だからそう思うの。秋山君じゃなくて、山下君じゃなくちゃいけない理由が何かあったのかもしれない」
「なるほど」
 啓子は物事を単純に捉える女だ。こうした深読みをするタイプではない。恐らく自分の知らないところで秋山陽祐に何か吹きこまれたのだろう、と山下は判断した。それに、あの転校生から情報を得なければ言えないことを彼女は口にしている。
 しかし山下は敢えてそのことに触れず、話を続けた。
「仮にお前の言う通りだとしても、それは相対的な問題だった可能性が高い」
「どういう意味?」
 山下は思わず嘆息した。面倒だが、論理的根拠を示さないと彼女は納得しないだろう。最近分かってきたことだが、啓子は意外に頑固なところがある。それを表向きにすることはないものの、納得のいかない問題はいつまでも忘れることなく自分の胸にしまい続けておくのだ。
「ああいう連中は、自分なりの法則に従って行動するもんだ」
 あの日は背の高い男を襲うつもりだったのかもしれない。女と並んで歩く人間が標的だったのかもしれない。髪が短めの人物を狙う予定だったと考えることもできる。山下は具体的な可能性を列挙し、そうした何らかの条件が合致して、あの女は自分を選んだのではないかと結んだ。
「じゃあ、基本的には誰でも良かったってこと?」啓子はようやく理解したようだった。「山下君を知っていて狙ったんじゃなくて、秋山君と比べられてたまたま選ばれただけなの?」
「少なくとも俺という特定の人間を標的にしていたって考えよりかは現実的だろう」
 階段を下り、回数券を潜らせて改札を抜けた。ローカル線を利用してJR白丘駅に向かうのも手だったが、山下はJR水沢駅から自宅までの区間を自転車で移動することにしていた。距離はそこそこあるが、その方が運動になるし交通費の節約にもなる。本数の少ない電車を待つより自転車を走らせたほうが時間を有効に使えるというのも理由の一つだった。
「とにかく、その件はもう忘れた方が良い」
 あの女が何だったのかは知らないが、もう会うこともないだろう。昨夜は商店街に寄っていつもより帰宅の時間が遅くなったから、偶然あのような災難にみまわれたのだ。もし部活に参加して普段通りの時間に帰っていたなら襲われることもなかったはずである。要するに運が悪かっただけなのだ。
「うん。でも、山下君気をつけて帰ってね」
「分かった。もう切るぞ」
「お休みなさい」
 携帯電話をしまうと、山下は駅の駐輪場に向かった。預けてあったサスペンション付きのMTBに跨り帰路を急ぐ。稽古の後は決まってかなりの空腹状態になるものだ。家に着いてからの夜食が待ち遠しかった。
 視界が悪くなるため夜はあまりスピードを出し過ぎないようにしているが、それでも山下の漕ぐ自転車の速度は時によって原付バイクの法定制限速度を大きく超える。啓子は随分と心配していたようだったが、仮にあの女が襲ってきたところで容易に振り切れるスピードだった。素人の一人二人なら実力で退けられる自信もある。通り魔云々に関して、山下は既に何の危機感も抱いていなかった。
 三九七号線沿いの脇道を北北西に向かうこと三〇分、田舎そのものの水田地帯を抜けると、突如として高級住宅の建ち並ぶ閑静な住宅街が開ける。白丘市の東南端に辿りついたのだ。
 その住宅街をしばらく進み市の中心部へと繋がる緩い上り坂に入ると、山下は俄かに自転車の速度を落とした。間もなく右手に常緑樹に囲まれた公園が見えてくる。階段の上に広がるそこそこ大きな広場で、これを横切ると大幅なショートカットになるのだ。階段は二〇段程度、五分近い時間を節約できるため山下はいつもこの公園を通り抜けることにしていた。
 自転車を止めると身を翻してサドルから下り、右肩に担ぎ上げるような格好で車体を持ち上げる。それなりの金額と引き換えにしただけあり、アルミフレームの自転車は見た目より軽量だ。ウェイトトレーニングを欠かさない山下にとって、それは大した負荷ではなかった。
 ――そういえば、かつて父親がこのように自転車を担いで歩いている光景を見たような気がする。階段をのぼりながら、ふとそのことを思い出した。
 山下の父、隼人は、大学時代に全国制覇を成し遂げた経験を持つ空手の有段者だった。今でも隼人の書斎にはそれを証明する数々の優勝カップやトロフィー、賞状の類が展示されている。一時は空手で飯を食っていこうかと考えたことすらあったと聞く。今より生活が苦しくなったかもしれないが、本人さえその気ならそれは決して不可能な話ではなかっただろう。
 山下は自分がいつから何のために空手を始めたのか、はっきりとは覚えていない。気付けば道着を身につけ稽古をするようになっていた――という感じだったのだ。だが、それに父親の影響が関係していたであろうことは想像に難くない。誰より大きく、誰より屈強に見えた隼人の存在は、長い間山下にとっての目標だったのである。
 あれは確か、小学校に上がったばかりのことだっただろう。自転車の後輪をロックしたあと、山下はその鍵を紛失してしまい途方にくれたことがあった。しかもそれは父と商店街へ買物に行ったときの出来事だったのだ。もちろん、ロックを解除しなくては帰るに帰れない。だがいくら探しても鍵は出てこず、山下は困り果てて立ち竦むばかりだった。
 その時、息子を笑って慰めながら、隼人が自転車をひょいと担ぎ上げたのである。幼い日の山下にとって、それは信じ難い光景だった。隼人は右手に息子の子供用自転車を担いだまま、もう一方の手で自身の自転車を押して歩き始めた。山下は父親の見せる力に惚けながら、その背中を必死に追いかけた。いつか自分もあんな風に強くなって、自ら道を開けるような人間になろう。危急の際、誰より頼りになる人間になろう。そう思った。
 あれから一〇年が経つ。今ではあの日の父親の行為を自ら再現することすら難しくない。空手の腕も、全盛期の隼人に比肩するまでになったはずだ。だがそれでも、まだ父親を見上げる場所に甘んじているような気がするのだった。何が足りないのだろうか。絶対的な人生経験の差か、或いは最近になって啓子の存在に学び始めたようなことに関係するのであろうか。まだ答えは出ない。
 そんなことを考えながら、残り二段となった階段を上り切ろうとした瞬間だった。背中に重たい衝撃を感じ、山下は思わず顔を顰めた。近くでガス爆発でも起こり、その振動が大地を通して伝わってきたような感覚だ。身体が揺れ階段から転げ落ちそうになるところを、脚力で何とか踏みこらえる。
 何にしても階段の途中では危ない。足を速めて残り二段を上り切った。公園の入口に到達すると、肩から自転車を下ろし改めて自分の背中に眼をやる。しかし盛り上がった肩の筋肉と背筋が邪魔をして良く見えなかった。仕方なく手探りで、衝撃を感じた背中と腰の境目あたりを探ってみる。
 痛みが全くなかったため気付かなかったが、何かがそこから生えているようだった。生えている――いや、違う。山下は自分の表現を訂正した。これは生えているんじゃない。刺さっているというのだ。
 左手でそれを握り一気に引き抜いた。焼けつくような激痛が背筋を走り抜ける。喉の奥から無意識のうちに微かな呻きが漏れ出した。
「――なん、だ」
 左手が抜き取ったのは小さな果物ナイフだった。刃の長さ――確か「刃渡り」という表現で良かったはずだ――は手首から指先くらい。十数センチから二〇センチといったところだろう。先端から半ば過ぎまでの部分が、てらてらと光る赤黒い血で濡れている。たぶん、自転車を担いで階段を上っている途中、無防備な背中に突き刺されたのだ。
 誰に?
 ようやくその疑問に行きつき後方に首を捻った瞬間、蜘蛛のような俊敏さで階段を上り詰めてきた人間と眼が合った。荒れ放題に荒れた黒髪を更に振り乱し、その女は右手に長い鉄パイプを構えていた。薄ぐらい街灯を頼りにしても、身にまとった青いワンピースに返り血の紅いシミが見て取れる。
 それは間違いなく、昨夜襲ってきた女だった。
「お前……」
 驚愕に眼を見開く山下に、女は獣のような咆哮を上げて襲いかかってきた。振り下ろされる鉄パイプを反射的に回避する。勢い余ったそれはコンクリートの地面を激しく叩き、夜のしじまに耳障りな金属音を撒き散らした。が、この時間帯の公園は無人だ。たまに暇を持て余した中高生が溜まり場にすることもあるが、知性の欠片もない喚声が周囲に木霊していないところを見ると、今夜は彼らも来ていないらしかった。
 自分でなんとかするしかない。気付くと、大振りの攻撃で体勢を崩した女めがけ、山下は半ば無意識に左の中段蹴りを返していた。教本に載せたくなる、と人々に称えられる完璧なフォームから繰り出されたそれは、女の右肩に綺麗にヒットする。重たい一撃をまともに受け、相手は鉄パイプごと横倒しになった。
 好機と見るや、山下は迷わず踵を返し自転車に向かった。戦えば勝てるだろうが、手負いの今では手加減できそうにもない。相手を大怪我させてしまったり、下手をすれば殺してしまう可能性を否定しきれなかった。
 が、今や凄まじい痛みを発し始めた背中の傷のせいで身体が思うように動かない。サドルに跨るより早く、背後で何かが振り上げられる気配を感じた。真横に身体を投げ出す。次の瞬間、さっきまで山下がいた空間を鉄パイプが鋭く切り裂き、再びコンクリートの地面を激しく叩いた。刹那、赤い火花が散る。
 山下はそのまま地面を転がり間合いを広げて立ち上がったが、女は武器を構えたまま即座に距離を詰めてきた。仕方なく拳を構える。真横に振り払われる女の一撃を後ろに軽くスウェーして躱し、相手の体勢が崩れたところへ左のローキックを放った。女の右足が感電したかのように跳ねあがったところへ、更にもう一発。鞭打つような乾いた音が甲高く響き渡った。
 生憎と山下は女を相手に戦ったことがない。経験を積んだ同性選手が相手なら、どのくらいの打撃にどの程度の耐久性があるかを判断できるが、華奢な異性だとそれも不可能だった。山下の得意とする側頭部を打ち抜くような蹴りは、女の頸椎を折ってしまうかもしれない。拳によるちょっとした打撃――多くの流派で禁じ手とされているが――も頭蓋骨を叩き割ってしまう恐れがある。脚をやって動きを封じ、その隙に逃げるしかなかった。
 このプランに無理はない。だがそれでも、山下は得体の知れない焦りを募らせつつあった。背中を伝う冷たい汗が止まらない。
 この女は下段蹴りの捌き方の基本さえ知らないド素人で、既に自分のローキックを何発もまともに食らい続けている。それなのに、一向に動きを鈍らせないのはなぜだろう。時に木製バットを数本まとめて叩き折る蹴りだ。経験者でさえこうまで蹴られ続けたら、真っ赤に腫れあがり満足に膝を曲げることすらできなくなるはずだった。
 去年の話だが、一九〇センチ近い身長と一二〇キロを超える体格の持ち主を、山下はローキック数発だけで倒したことがあった。その男は激痛に顔を歪めつつ崩れ落ちるようにして倒れ、そのまま立ち上がれなくなった。見かけは地味かもしれないが、下段蹴りにはそれだけの破壊力がある。確かに巨体の持ち主は重い体重が負担となって膝を壊しやすいものだが、そんな理屈を抜きにしたところでこの女の耐久性は不自然ではないか。
 それにさっきから視界がぼやけ始めているし、大して動いていないのに息切れもする。全身がやけに熱っぽい。女も異常だが、自分の身体もちょっと普通ではなさそうだ、と山下は判断した。もうあまり長くは動き回れないかもしれない。
「もう気が済んだだろう。この辺で満足して帰れ」
 山下は荒い息の合間を縫って言った。言葉を発した瞬間、なぜだか吐き気がこみ上げてくる。じわりと血の味が口内に広がったような気がした。
「これ以上はまずいんだよ。洒落にならないことになる」
 山下が心配しているのは女の安全だった。脚を崩せないなら、ここから先は山下も本気で相手をせざるを得なくなるだろう。そうなった場合、五体満足に帰してやれるとは保証できそうにない。
 祈るような気持ちで、山下は女の様子を窺う。だが相手はあくまでやる気のようだった。口の端から涎の糸を引きつつ、吼えるような叫び声を上げて襲いかかってくる。山下は舌打ちし、振り下ろされた鉄パイプを受け流した。
「――莫迦が」
 背中全体に広がりつつあった激痛を噛み殺し、渾身の右上段蹴りを繰り出した。瞬間的な衝撃力はちょっとした交通事故にも匹敵する、素人相手に使うことを躊躇し続けていた蹴りだった。視界の外から突如として相手を襲うそれは、防御という言葉を知らない女の左側頭部を完璧に打ち抜く。
 骨が砕けるような嫌な感触を残し、女は車に撥ねられたマネキンのような勢いで吹っ飛んだ。そして頭からコンクリートの地面に着地し、花壇の淵にぶつかってようやく止まる。手から離れた鉄パイプがコンクリートの上で激しく跳ねまわった。
 確かな手応えを感じ取った山下は、深く息を吐いた後、膝の力を抜いてその場に座り込んだ。荒い息のままズボンのポケットを探り、携帯電話を取り出す。どうも出血が酷いらしく、周囲には血溜りが広がっていた。腰から下は痺れたように感覚がない。携帯を持った手の指も、小刻みに震えて上手くボタンを押せなかった。
 まさかこんなことになるとは思ってもみなかった。結果的に啓子の危惧が現実のものとなったわけだ。彼女の忠告を真摯に聞き入れていれば、こうした事態は避けられたかもしれない。山下のミスだった。
 だが、こうなることを予測することは誰にもできなかっただろう。第一、あの女はどこから現れたというのか。時速三〇キロメートルを超える速度で走り続けて来たのだから、駅から尾行するにしても自動車かバイクを使わなければならないはずだ。しかし、人気のない田舎道で自動二輪や四輪の駆動音が後をついてきたなら、すぐにそれと気付くはずである。結論として尾行はなかったことになる。
 だとするとあの女は、山下が毎週火曜日と木曜日のこの時間に、公園を通って近道することを知っていたのかもしれない。昨夜の襲撃に失敗したため、ここに張り込んで機会を窺っていたのだ。
 確かに自転車を担ぎ階段を上っている間は、その絶好のチャンスだ。車体が揺れて音を立てるため気付かれずに背後から接近するのも難しくない。ナイフと鉄パイプを使い分けていたところを見ると、計画的な行動であったことも窺える。
 ちょっと空手を使えるからといって、思い上がっていた部分があったのかもしれない。――山下は冷静に自己を批判した。その慢心が啓子や秋山の忠告から耳を塞ぐ結果になり、こうした事態を招いた。そのように考えられないこともないわけである。
 とにかく刃物沙汰になった以上、もはや警察に通報しないわけにはいかなかった。後ろからナイフで刺されるというのは立派な傷害罪になるだろう。この女を放置しておいて、更に被害を広げさせるわけにもいかない。
 問題は山下自身にもあった。正当防衛とは言え素人の女相手に暴力で抵抗したのはまずかったかもしれない。法的に言えば、空手の経験はほとんど凶器と同義に扱われるとも聞く。特に最後のハイキックには、かなり鈍い手応えがあった。本当に頚椎を破壊してしまった可能性もある。もし殺してしまったのなら、もう二度と空手ができなくなることも考えられた。
 大丈夫だろうか。少し心配になり女に眼をやった山下は、思わず我が眼を疑った。あるべき姿がなかった。さっきまでは確かに、うつ伏せに倒れ死んだように身動きしなくなった女の身体があったはずだった。側頭部にあれだけの衝撃を受ければ、熊でも脳震盪を起こす。動けるはずがない。
 しかしどういうわけか、近くに転がっていたはずの鉄パイプまでもが忽然と消えていた。わけが分からず愕然とする山下は、不意に真横から聞こえた物音でハッと我に返った。金属とコンクリートが擦れ合う微かな音が、確かにすぐそばからした。
 顔を上げると、鉄パイプを両手で振りかぶった女がいた。
 なんで、こいつが……。
 答えが出る前に、山下は自分の右腕がへし折れる嫌な音を聞いた。振り下ろされた一撃を無意識に防いだらしい。激痛で力が緩み、手にしていた携帯電話が湿った音を立てて血溜りに落下した。
 立ち上がって移動しようにも、下半身の感覚はすでに全くなく、その存在すら認識できないありさまだった。
 女は怪鳥の鳴き声にも似たけたたましい笑い声を上げ、再び得物を振りかぶった。がさがさに荒れた唇は大きく裂けていて、粘着質の涎を幾筋も垂れ流しにしている。半ば飛び出たようにも見える大きな眼は、死んだ魚のように濁っていて焦点が定まっていなかった。それは宙をさ迷う狂人の眼にも、山下の打撃で半分意識を失った眼にも見える。いずれにしても、女は明らかに異常だった。
 あの頭部への上段蹴りは完璧に入った。動けるはずがない。同じものを食らえば、山下だってしばらくは立ち上がれないだろう。誰もがそうだ。動けるわけがないのだ。
 もし動けると言うのなら、こいつは――
 次の一撃で左腕の骨が折られ、勢い余った鉄パイプの先端は山下の鎖骨をも破壊した。女の腕力は明らかに常識的範囲を逸脱している。そう言えば、鉄パイプが振り下ろされたと同時に筋だか腱だかが断裂するようなブチブチという音が聞こえたような気がした。あれは自分の肉体が打ち砕かれたのではなく、この女の筋肉が限界を超えた酷使に上げた悲鳴ではなかったのか。
 霞む眼で三度振りかぶった女を見上げながら、山下はようやく悟った。
 ――渡瀬、こいつは人間じゃない。
 やがて、水気を含んだ破裂音が周囲に木霊した。


to be continued...
つづく