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 第五章 「予兆」


    1

 気付くと、陽祐は夢の部屋で佇んでいた。自宅の私室と同じくらいだから、六畳前後の広さだろう。窓も家具も一切存在しない、ただ白いだけの不可思議な小部屋だった。
 陽祐は自分が眠っていることを、まるで他人事のように認識することがある。肉体が自室のベッドに横たわっていることも、自分の意識が夢の中にあるのだということも理解した上で、ある一定の時間をその泡沫の世界で過ごすことがあるのだ。
 珍しくはあったが、丸っきりの初体験というわけでもない。陽祐は奇妙な落ちつきを払って、夢の世界を観察していた。
 今いる部屋に見覚えはなかった。辺りは完全な静寂に包まれていて、身動ぎする度に微かな衣擦れの音さえ聞こえてくる。
 室内には、どうやら三つの物しか存在しないようだった。そのうち二つは、向かい合う壁に一つずつ取り付けられた何の変哲もないドアである。とってを捻って実際に確かめたわけではなかったが、鍵はかかっていない筈だ。その気があれば、自分はどちらのドアでも自由に開くことができるだろう。根拠はないが、陽祐は何故かそれを確信できた。
 しかし三つ目の存在に関しては、何も確かなことは言えなかった。何しろ異様な物体だ。少なくとも陽祐は、似たものを現実世界で見たことがない。ただ、人間を丸呑みにできる大蛇でもいればこんな感じかもしれないな、とぼんやり思うくらいだ。
 それは地を這う巨大なパイプであった。太さが尋常ではなく、抱え込むためには両手を使う必要があるだろう。どうやら有機体で構成されているようで、薄い肌色をした本体には静脈そっくりの青い管が幾筋も絡みついており、鈍く脈打っているのが分かる。触れると人肌のような生暖かさが伝わってくるに違いなかった。
 このグロテスクな管は、緩く蛇行しながら部屋の真ん中を突っ切っていた。向かい合って存在する二枚のドアを貫通しているところを見ると、どうやら外部へと伸び続いているらしい。生理的な嫌悪感を覚えながらも、陽祐はこれに強い興味を持った。どちらかの――或いは両方のドアを開けて、この血管もどきの集合体がどこまで続いているのかを確かめてみたい。
 少し迷った結果、右側のドアを開けてみることにした。夢の中だからか、感じて然るべき不安や緊張の類はなかった。意識そのものが半分眠っているかのようにぼやけている。
 ドアの前に辿り付くと、迷わずノブに手を伸ばした。金属製のそれは握るとひんやり冷たい。常識的に考えれば、極太の管がドアを貫通している以上、普通に力を込めても扉を開くことは困難だろう。押し引きするよりドアそのものを叩き壊さなければならないかもしれない。だが陽祐は、目の前にしたドアがそうした力学上の問題や物理的常識を一切無視した存在であることを知っていた。
 ノブを捻り少し押してやれば、ドアは管をすり抜けるようにして簡単に開くだろう。大切なのは法則ではない。この血管に似たパイプがどこまで伸びているか。このドアの向こうが、どこのどんな世界に繋がっているかなのだ。
 陽祐はノブを握った手に力を込め、ドアを一気に押し開いた。
 そして目覚めた。
 ――目蓋を開くと、思っていた通り室内は暗く、夢の世界と同じような耳が痛くなるほどの静けさに包まれていた。
 しばらく天井を眺めた後、蛍光塗料を頼りにベッドサイドの時計で時間を確認した。午前四時四五分過ぎ。針の傾き具合から察するに四六、七分といったところだろう。
 起きあがってカーテンを開けみたが、期待していた白い朝日は全く射し込んではこなかった。陽光を浴びれば健康的にも見える小洒落た住宅街も、薄闇に閉ざされた世界ではひっそりとどこか不気味に映る。街並みの向こう、西部の果てを彩る広大な森林地帯は一見しただけではそれとは知れず、暗闇に溶け込んでそこだけ空間が無くなってしまっているかのようだった。決して爽快な朝とは言えない。
 高校の始業は八時三〇分からだった。それまでまだ四時間近くある計算になるが、もう一度眠り込めるとは思えない。仕方なく登校の準備を始めることにした。
 卓上スタンドのスイッチを入れ、その淡い明かりを頼りに制服を身にまとう。相変わらずネクタイの結び方は覚え切れないままだった。そもそも必要性に納得がいかないから、頭が記憶したがらないのだ。また友子に手伝って貰わなければと考えつつ、タオルのように首からぶら下げておく。
 一階に下りて洗顔を済ませたあと、サンダルをつっかけて外に出た。新聞の朝刊は来月から定期購読する予定であるため、入手しようと思うなら小売店にまで買いに行く必要がある。幸い、一ブロック先に地方紙 <岩手日報> の営業所があるため、ここ数日はそこで買い求めることにしていた。
 制服姿でエリアセンターを訪ねる若者が珍しかったのだろう、すっかり顔なじみになった店主と挨拶を交わし、朝日新聞との契約を取りやめウチに乗り換えろ、という彼の提案をやり過ごしてから自宅に戻った。キッチンに直行し、コーヒーをいれるために薬缶をコンロにかけると居間のソファに座り込む。
 その日の朝刊は、予想通り江刺市の幼児連続誘拐殺人事件の続報を第一面で大々的に取りあげていた。陽祐がわざわざ朝刊を買いに走ったのも、この記事を目当てにしていたからである。全国的にも高い関心を呼んでいるこの事件は、実際それに値するたいへんに不可解なものだった。
 TVニュースや新聞から得た情報を信じるならば、事は四月一日に一〇歳の男の子が行方不明になったことから始まったという。その二日後には、九歳の少女が「友人の家に遊びに行く」と言って自宅を出たきり忽然と姿を消した。いずれも江刺市に住む小学生で、放課後に遊びに出たきり戻らなかった点でも両者は共通していた。
 警察は二件の行方不明事件の関連性を疑いつつ、誘拐の線も含めた大掛かりな捜査を開始。県警と所轄署による特別合同捜査本部も設立されたという。江刺では近年まれに見る大騒動となった。
 四月五日、行方不明になっていた少女の死体が見つかった。江刺市ではなく、水沢を挟んだ隣市である白丘市の路地裏に、絞殺された姿で倒れているところを発見されたらしい。その後速やかに行われた司法解剖により、少なくとも死後一日が経過していること、別の場所で首を絞められて殺されてから運び捨てられたことなどが判明する。
 犯人と思われる男が逮捕されたのは、一昨日――四月九日の午後だった。その日は第二土曜日にあたり学校が休みだったため、陽祐は自宅にこもって一日中TVゲームに勤しんでいた。頭を空っぽにして、そうしていたかったのである。
 だから被疑者が逮捕された件に関しては、翌日の朝、井上家の朝食の席でようやく知ることとなった。
 後にTVニュースと新聞で確認したところによると、逮捕されたのは森本忠雄という三二歳の男だった。全国チェーンを展開するファミリィ・レストランの厨房で働いていたという。
 井上家に届けられた陽祐宛の怪文書はこの逮捕劇を予見し、全てを見事に的中させていたのだった。それを理解したときの戦慄は、一夜明けた今でも消えてはいない。
 突然、キッチンから聞こえてきた汽笛の鳴るような音で、陽祐は我に返った。湯を沸かしていたことを思い出し、新聞をソファに置いてコンロの火を止めに向かう。用意してあったカップにドリップコーヒーをセットして湯を注ぎ、薬缶に余った分は保温ポットに移した。カップを持って居間に戻ると、再び朝刊を広げてソファに腰を落とす。
 ――今朝の記事によれば、逮捕された男は二件の殺人を認める供述を始めているという。これは昨夜のTVニュースでも報じられていた事実で、二件の行方不明事件を直接関連付ける決定打となった。つまり、先に行方不明になった一〇歳の少年も同じ男に誘拐され殺されていたのだ。
 しかし、そこからがおかしい。森本容疑者は二人の子供を殺したことは認めているものの、犯行後に、その死体を「なくしてしまった」と言い張っているというのだ。自宅が両件の犯行現場だが、眼を離した隙に遺体が忽然と消えてしまったと主張しているらしい。したがって亡骸の行方は知らず、もちろん白丘市に遺棄するような真似はしていない。未だ見つかっていない小学生男子の身体の在り処にも心当たりがなく、自宅から出てこないのなら誰かが自分から盗んだのだ、と森本は意味不明な説明を繰り返しているとのことだった。
 この常軌を逸した自供内容が話題になり、――容疑者が逮捕され事件が一応の決着を見せたにもかかわらず――本件の巻き起こした騒動は一向に鎮静化へむかう兆しを見せずにいる。当局は森本容疑者の精神鑑定などを検討しているようだから、事件が一段楽するまでしばらくかかるだろう。
 一通り関連記事を読み通すと、陽祐は畳んだ新聞を傍らに投げ出してソファに身体を埋めた。背もたれに後頭部を乗せるようにして天井を仰ぐ。壁掛け時計の秒針が時を刻む音を静かに聴きながら、深く息を吐き出して眼を閉じた。
 少年の遺体の在り処を示す怪文書が自宅に郵送されてこないことを真剣に祈りたかった。そんなものが送られてきて、万一にも死体の第一発見者に祭り上げられるようなことになれば、発見に至るまでの道筋を警察へどう説明したものか。
 犯人逮捕や死体の放置場所を告げる手紙がどこからともなく届いた――等と言ったところで、誰がそれに耳を傾けるだろう。自分で信じられないのだ。狂人だと思われるか、事件の関係者や森本の協力者ではないのかと疑われるのがオチである。それは犯人しか知りえない情報なのだ。
 陽祐は姿勢を正して、飲みかけのコーヒーに手を伸ばした。カップの中を覗き込むと、琥珀色の水面が小さく揺れている。しばらく待ったが波紋は消えなかった。消える前に新たなそれが生まれてくる。恐怖か、不安か、それらを含むもっと別のものか、身体が心情を察して正直な反応を示しているのだった。
 残ったコーヒーを一気に呷り、のどを刺激する過剰な苦味に顔をしかめながら立ち上がった。いつか大作が言っていたように、考えて結論が出せないと分かっている問題については、あまり深く思考してはならない。頭を切り替える必要を感じながら、居間を出て階段に向かった。
 二階に上がりながら、今週から本格的な授業が始まることをふと思い出した。だが、使っている教科書が前の学校と違うにも関わらず、新しいものはまだ陽祐の手元にない。担任の話だと明日の午前中に業者から届くそうで、それまでは用意できる物と言ってもノートと筆記用具の類だけしかなかった。それでも登校の準備をしなければならないことに違いはない。
 日の出はどうやら五時以降にしか訪れないようで、二階の廊下はまだ夜同然に暗かった。夜目を頼りに慣れない屋内を歩くのは危険と判断し、スイッチを探って明かりを灯す。
 電灯が煌煌と辺りを照らし出した瞬間、陽祐はあまりの眩しさに思わず眼を閉じた。廊下の天井からぶら下げられている新品の電球は、位置が若干低いせいで居間などのそれより随分と明るく感じられる。
 眼を開いたとき真っ先に見えたのは、フローリングの廊下に落ちている白い紙切れだった。先ほど通ったときは、寝ぼけ眼をこすりながらだったため気付かなかったのかもしれない。
 近付いてみると、二つ折りにされた何の変哲もない真っ白なメモ用紙だった。
 ある予感が過る。
 摘み上げ、折り目を広げてみた。予想通り、そこには見覚えのある黒い明朝体の印字が並んでいた。

  剛
  第二の選択肢

 危惧していた内容でなかったことへの安堵もあったが、それ以上の恐怖が陽祐を震え上がらせた。早鐘のように鳴り出した左胸に手を当て、自分を落ち着かせるために何度か深呼吸を繰り返す。
 床に就くためこの廊下を通ったのは、たった五時間ほど前のことだ。その時にはこんな紙など存在しなかった。もしあったなら確実に気付いたはずである。
 となると、誰かがこの家に侵入したのだ。就寝中のことだとも考えられたが、新聞を買いに出た隙を狙われたのかもしれなかった。ほんの五分程度の外出だったため、玄関の鍵を開けたまま出かけたのだ。
 いずれにしたところで、これが単なる悪戯の領域を越えたものであることに違いはない。侵入者が誰であれ、その気になれば無防備な住人の背後に忍び寄り危害を加えることも出来たのだ。下手をすれば命に関わる問題に発展したかもしれない。
 ――いや、完全にその危機が回避されたといえるだろうか。
 侵入者がまだ家の中にいる可能性も否定しきれなかった。それにもしこのメモが「置かれた」ものではなく「落とされた」ものであるなら、侵入者は落失に気付き、今にも探しに来るかもしれない。鉢合わせになれば、それこそ口封じに殺される危険性もあった。
 想像した瞬間、両腕の肌が粟立った。胸の高さにある、階段と廊下の仕切りに手をかける。関節が白く浮き上がるほどの力が、無意識に込められていた。身体が強張り、うまく呼吸できなくなる。息苦しさを無視して、注意深く周囲を窺った。もちろん誰の姿も見当たらなかったが、部屋は二階だけでも三つあり、階下――キッチンや居間は確認済みだが――に潜んでいるとも考えられる。
 少し迷った後、陽祐は苦労して仕切りから掴んだ手を引き剥がし、自分の部屋に戻って武器になるものを探した。ペーパーナイフしか見つからない。それでも全くの丸腰よりかはましだった。
 再び廊下に出ると、二階の残り二部屋から家中の点検を始めた。恐怖もあったが、完璧に確認しておかないと安心して登校準備というわけにもいかない。
 トイレ、来客用の空き部屋、そして英文の書斎兼寝室と近い順から確かめていったが、いずれの部屋にも誰かが潜んでいる様子はなかった。また、窓ガラスが破られているなど何者かの侵入の形跡も見当たらない。少しほっとしつつも点けた電気をそのままに、今度は階段を下りて一階のチェックに入る。
 こちらは二階と比較してドアが多く、身を隠しやすい場所に富む。ペーパーナイフを構え、細心の注意を払いながら見回って行く。階段向かいのトイレ、その隣の洗面所とバスルーム、和室、念のために先ほどまで使っていたダイニングキッチンと居間も確認した。全部屋の電気を片っ端から点けて回るのに、かなりの時間をかけた。
 最後に玄関を見に行ったが、ここにも人影はない。上下に取りつけられた鍵が新聞を買って戻ったとき以来、施錠されたままであることを確かめ、念のためチェーンをかけた。ロックが成立したカタンという甲高い音を聞くに至って、陽祐はようやく安堵に胸を撫で下ろした。
 護符のように握り締めていたペーパーナイフをポケットに戻す。動悸はまだ収まらないが、気分のほうは大分落ち着きつつあった。
 喉がカラカラに乾いていることに気付き、キッチンへ向かった。冷蔵庫から烏龍茶のペットボトルを取りだす。直接口をつけてラッパ飲みした。冷たい水分が身体中に浸透し、養分を補給してくれているかのような感じがした。しかし極度の緊張を強いられたせいか、どっと押し寄せてくる疲労感まではなかなか癒えない。口元を拭いペットボトルを戻すとふらふらとリヴィングまで歩き、倒れ込むようにしてソファに横になった。
 まだ渇きを覚えていた。水では充分でない。別の液体が必要だった。腹に落ちていく熱さを思い出す。ジンジャーの風味と、鼻腔をくすぐっていくチョコレートのような甘い香り。今こそ必要なのではないか。そんな内なる声を意思の力で押さえ込む。
 眼を閉じて、一時でいいから自分の頭を悩ませる一切合財を頭から振り払いたかった。それが無理なら半世紀ほど眠りたかった。忘れたころに発生する <摩り替わり> に対応するだけでも精神の負担は充分に深刻なのだ。この上、得体の知れない人間の恐怖に怯えながら暮らそうなどということになれば発狂しかねなかった。
「この家……広過ぎる」
 電源を入れたまま移動を繰り返したため、一階の全部屋で照明が灯っている。これを今度は消して回らなければならないことに気付くと、陽祐はますます気落ちした。
 そもそもこんな家を建てたのが間違いだったのだ。英文はそれでいいかもしれないが、自分はどうせあと何年もすれば独り立ちして出て行くことになるのである。これは父のものであり、マイホームなどではない。   
 それにしたところで、どうして自分ばかりこんな目にあうのか。考えないよう努めてはいても、思考は自然とそちらへ流れていく。引越しの混乱に紛れこんで妙なメモを送って来たり、家に入り込んで悪戯をしかけたりと、首謀者は一体何を考え何を目的としているのか。
 ――これは布石だ。
 突然、誰かに耳元で囁かれたような気がして、陽祐は驚いた。が、すぐにそれが自分の直感の声であることに気付く。言われてみればその通りにも思えてきた。
 引越しの時に現れた覚えのないメモ、井上家に届けられた差出人不明の手紙、そして今回発見された三枚目の紙片、これらは恐らく全て同一の人物から送られて来たものなのだろう。だがこの送り主は、決して何の目的もなく悪戯を繰り返しているわけではない。恐らくこれは一種の意思表示であり、実力証明なのだ。自分が何をやろうとしているか、どこまでやるつもりでいるかを段階的にこちらに見せつけるつもりなのである。
 端からは科学的根拠を欠いた結論と見られるだろうが、陽祐はそれを有力な仮説として認識しつつあった。
 間違いなく紙片の送り主は何かを始めるつもりなのだ。それが何なのかは分からないが、今後送られてくることが予測される第四、第五の紙片で、それも徐々に明らかになっていくのだろう。 
 心理学や精神分析の手法などに明るくない陽祐だったが、何故だかこの紙片の送り主の思考だけは手に取るように理解できた。送られてきた何枚かのメモ用紙を通し、その誰かと意識が接続されたかのようでさえある。
 陽祐は家中の照明をオフにし、重たい足を引き摺るようにして自室に戻った。机の上に放り出してあった件の紙片を取ると、ベッドに腰を落とす。ベッドサイドの電気スタンドをつけて、もう一度メモを睨んだ。
 ――剛、第二の選択肢。
 これまでと同様、なにを訴えたいのか全く理解できない。ただ気になるのは、 <第二の選択肢> という意味深な記述だった。最初に送られてきたメモに <第一の選択肢> とあったことを考えると、何らかの関連性が示唆されていることは間違いあるまい。また <第一の選択肢> という一文に添えられていたのがメーコという人名であったことからは、この剛いう文字も同様に誰かのファーストネームを意味しているのではないか、という仮説が成り立つ。これが正しければ、恐らく読みはゴウ、或いはツヨシだろう。日本人の男性名と思って間違いなさそうだ。
 明子にはそれとなく注意を促しておいたが、相手は陽祐が思っていたよりも性質の悪い人間かもしれない。再度この件の危険性について言い含めるべきだし、もしこの剛というのが何処かの誰かであるのなら、探し出して同様の警告を与えなければならないだろう。第一、第二に続く第三の選択肢が秋山陽祐であり、自分はこの三人の候補の中から悪戯相手に選ばれた――という話かもしれないのだ。だとすれば、残りの二人にも被害のいく可能性がある。
 警察に相談するのも手だったが、実害が無い以上、本腰を入れて対応してもらえるとは思えなかった。彼らが人員を割き、自分や持田家に二四時間体制の警備網を敷いてくれるなら別だが、そうした待遇はとても望めそうにもない。
 今は出来るだけの注意を払いつつ様子を見るしかなかった。とりあえずは、家中の鍵をより強固なものに変えることから始めるべきだろう。陽祐は放課後、ホームセンターを見つけて頑丈な鍵を購入してくることを心に決めた。


    2

 他人事には干渉しない主義である山下剛だったが、毎日顔を合わる相手の異変だけは流石に気にしないわけにもいかなかった。今度の場合、それは渡瀬啓子だった。そもそも彼女という人間は、ちょっとした出来事ですぐに気落ちしてしまう厄介な性格の持ち主だ。年明けにクラス編成が行われると聞いた時も、また見知らぬ他人に周囲を囲まれることになると憂鬱そうな顔をしていたのを覚えている。新学期が始まってまだ数日。新しい環境と、最上級生であり受験生である身分になったことへのプレッシャーが彼女を神経質にしているのかもしれない。山下は漠然とそう考えて静観を決めこんでいた。
 それが自分の考え過ぎであったと明らかになったのは、四月一一日、月曜日の朝だった。その日も山下は空手道部の朝練に参加し、いつものように軽く汗を流していた。当然のように啓子も見学に来ていたのだが、一年生部員の姿はまだ見えない。彼らは今日の放課後練習から本格的に部に合流し、翌日から早朝練習への参加を許されるのだ。恐らく最後になるであろう、熟練者のみによる静かな朝の練習風景だった。
 啓子が遠慮がちに声をかけてきたのは、その早朝練習に解散の号令がかかってからのことだった。
「私たちって、どうなのかな」
 彼女の第一声は要領を得ない、しかも小さく聞き取りにくいものだった。質問の意味が分からなかったので問い返すと、啓子は一瞬躊躇する様子を見せながらも、結局口を開いた。
「付き合ってるのかな、私たち」
 山下は道場の天井を仰ぎ深く嘆息した。なるほど、彼女が世界中の悩みごとを一身に背負いこんだような顔をしていたのは、このせいだったのだ。
 思い返してみれば、学年が変わるたびに彼女は似たような質問を繰り返し山下に向けてきた。新しくクラスメートになった連中が自分たち二人の噂を聞きつけ、その事実関係の確認のために啓子のところへ向かったのだろう。それに満足に答えることができなかった彼女は、責任を山下に転嫁しようとしているわけだ。
 誰と誰がどういう人間関係を構築しようが、自分に関係ないなら首を突っ込む必要はないはずだ。少なくとも山下にはそう思える。だが、世の中にはどういうわけか他人事に進んで首を突っ込みたがる暇人が多い。
「前にも同じことを訊かれたような気がするけどな」
 山下は多少うんざりしながら、そう返した。
「うん。でも、あれは二年の頃だったから。ごめんなさい」
 啓子は体を縮こまらせて顔を伏せた。こうなってしまえば、以前は貝のように口を閉ざしてしまったものだ。が、このところは少し事情が違う。暫くすると顔を上げ、彼女は再び言った。
「最近、また良く訊かれるようになったの。山下君と付き合ってるのって」
 案の定か、と思いつつ山下は胸の内で再び嘆息した。
「外野は外野だ。第一、付き合うって言葉の意味がいまいち良く分からない。なんでいちいち人間関係の形態をそうやって定義づけなきゃいけないんだ」
 柿添のように、動物など下等な獣でしかないと思う人間もいる。そうかと思えば、啓子のように家族同然の存在にもなり得ると考える人間もいる。対人関係も同じだ。その数分だけの形態があってしかるべきであった。そしてそれは当人たちのみが理解しうるものであり、下手に言葉で表現しようとしても陳腐なものにしかなりえないだろう。山下はそう考えていた。
「じゃあ、山下君はどう思ってるの」
 周囲に人影がないせいか、啓子はいつになく積極的に突っ込んできた。自ら相手に結論を求めかかるような話の運び方は、彼女にとっては非常に珍しい。
「私って、山下君にとってなに?」
「――分からない」少し考えてから、山下は正直に答えた。「俺はこういう問題を感覚的なものだとばかり思ってた。そうじゃなくて、もっとはっきりした言葉にして考えなきゃいけないものなのか?」
「ううん。ただ、少しだけ気になっただけ。ごめんなさい」
 山下としても、彼女の心中に全く想像が及ばないわけでもなかった。渡瀬啓子は人一倍、周囲の眼に敏感な女だ。男と女がある一定以上の距離を詰めて付き合う場合、その関係は明確な恋愛感情を根拠としていなければならない――といったような認識がクラスメイトの間にある以上、啓子がそれに影響されるのも仕方がないのかもしれない。単なる友人でもなく、かといって恋人でもない。そんな中途半端な関係は、思春期まっさかりの一般高校生にとって許されないものなのだ。
「あまり考えなかったことだけど」
 そう前置きした上で、山下は静かに言った。顔だけでなく身体ごと渡瀬と向き合う。
「言われてみれば、お前にはかなり世話になってるような気がする。最初は素人の手伝いなんて不要だと思っていたし、今でもそう思ってるはずなのにな。いつの間にかお前にタオル渡されるのが当たり前になって、喉が乾いたときお前を探すのを当然みたいに思い始めてた感じはしてる。だから突然お前がいなくなったりすると、前みたいに全部を一人でやる自分に戻るまで少し時間がかかるかもしれない。そういう意味では、渡瀬に感謝してる部分はある」
 彼女の介入を許したことには同じくらいの後悔もあった。しかし、それは敢えて口にはしない。恐らく彼女自身、そのことに気付いているはずだった。改めて言葉にする必要はない。
「今はそれくらいにしかまとめられない。……もう、いいか?」
「あ、うん」渡瀬は急いで頷いた。「ごめんなさい、引き止めて」
 山下は無言で踵を返すと、そのまま更衣室へ向かった。既に部員の大半は着替えを終え道場を後にしている。急がなければ始業ベルに間に合わないかもしれなかった。
 ――しかし自分は、人付き合いというものにつくづく向いていないらしい。山下はそう痛感していた。生き方も空手も、ある意味では同じなのだ。いずれにも、他人との関わり合いや摩擦を通して己を鍛錬する方法と、それとは逆に他人との接点を一切断ち意識を己のみに向ける鍛錬の方法とがある。どちらも一長一短、何が正しいという絶対的な答えはない。前者は戦う相手を己のうちに見出さなければならないときも、常に他人へ殴りかかっていこうとする。後者は、相手にすべきものが外にあるときでさえ、内に閉じこもってしまうのが難点だった。そうした致命的な罠に陥らないよう心がけることができれば、あとは自分の性格や好み、主義思想などに合わせて選択するだけのことである。
 自他共に認めるように、山下は後者に適性を示していた。とにかく外部との関わりを否定し、己が内面の研磨を以って成長を語るほうが向くのだ。自分の内面が変われば、外に対する眼や認識も変わる。法則や仕組を変えるのではなく、向き合い方を調整することで世界を変える。これが山下のスタイルなのである。だから、それがたとえ家族や友人であっても、彼にとっては邪魔にしかならない。渡瀬啓子にしたところで例外ではないはずだった。
 もちろん山下も、異性には人並みの興味を持っていた。しかし彼女たちとの関係には、耐えがたい面倒がついてまわるのも事実だ。先程の啓子とのやりとりは、まさにその象徴的事例だった。やはり自分には向かないと思う。
 ――いや、断言はできないかもしれない。本当にそう割り切れているのなら、ここまで彼女との関係が続いてくることもなかっただろう。山下自身、なぜ今のような状況が出来あがったのか不思議に思っていた。或いは、啓子の存在そのものが山下のやり方の限界を示しているのかもしれない。
 いずれにしても、いつまでも今の曖昧な関係が続けられるとは思わなかった。相手が明確な結論を求めている以上、早晩、啓子との関係には何らかの決着をつけなければならないだろう。動くなら早い方が良いかもしれない。
 山下は制服に着替え終えると、己の両頬を勢い良く叩き意識を引き締めた。


    3

 検査結果が出た、という病院からの連絡を受け取ったのは先週の金曜日の晩だった。陽祐を交えた三人で食卓を囲んでいたとき、その団欒を打ち壊すように鳴り出した電話の呼び出し音は、今思えば何かの暗示のようですらあったような気がする。それを裏付けるように、受話器の向こうの看護師は「月曜日、ご家族とご一緒にいらして下さい」と事務的に告げてきた。患者である友子だけではなく、家族同伴で来いと言うのだ。さすがの彼女とて、それが決して良くない報せであろうことを充分に予測できた。
 そんな思いが表情に出たのだろう。電話を切って席に戻った友子に、大作と陽祐は心配そうな顔を向けてきた。その時は仕事上のトラブルだと誤魔化すのが精一杯だった。
 午前九時、東北技術科学大学付属病院の窓口が開くと同時に、井上友子は受付を済ませた。休み明けということもあってかしばらく待たされたが、様々な想像を巡らせて悶々とする友子には時の流れなどに気を配る余裕もない。気付くと順番が回ってきていて、案内のナースについてフラフラと診察室に足を踏み入れた。
 こじんまりとした室内には、四〇半ば程度だろうか趣味の悪いセーターに白衣を羽織った小太りの男性医師と、その背後に立つ若い研修医風の医師の二人がいた。年輩の方は既に安っぽいスチール製の椅子に着席していて、友子は彼に勧められるままに向かい合わせる丸椅子に腰を落とした。遅れて若い看護婦が入室してきた。手にメモのようなものを持ち、ドア付近に立ったまま姿勢を固定する。
「できればご家族の方にも一緒に聞いていただきたいお話があるのですが、今日は?」
 全てが親指に見えるほどずんぐりとした両手の五指を絡ませ合うと、医師は穏やかに口を開いた。
「息子が一人おりますが、あの子は学校がありますので」
 続けてご主人は、と訊かれたので友子は首を小さく左右して見せた。それをどう解釈したのかは分からない。しかし、医師たちがそれ以上の質問を重ねてくることはなかった。
「電話でもお報せしたように、検査の結果が出ました」
 その言葉を待っていたかのように、後ろに控えていた白衣の青年医師が、バックライト付きのボードに幾つかの巨大な写真を貼り付けた。鈍く黒光りする薄いセロファン状のものだった。中央に小さな円形の奇妙な模様が描かれている。幼稚園児が、黒い画用紙にホワイト・クレヨンで落書きをしたような代物であった。
「これは前回の精密検査で撮らせていただいた頭部の画像です。縦に割ったものと、横に割ったものの二種類の断面画像になってます」
 彼はデスクの片隅に置いてあった小さな頭部の断面模型を持ち出し、「大体、この辺りですね」と、太い指で喉から鼻にかけての部分を示した。そして再び写真に注目を促す。
「この部分を見てください」医師の口調は、まるで天気図を指す気象予報士のようだった。「白く見えている部分があるのは分かりますね。これは咽頭塊という細胞で、先程の模型にあった部分――専門的な言い方をすれば上甲介と蝶形骨洞の間に見られます」
「咽頭……?」
「上皮細胞由来の、いわゆる悪性腫瘍です」
 二人の医師が、自分の表情と反応を窺っているのが分かる。だが当の友子は、まるで状況が掴めずにいた。無意識に受け入れることを拒絶でもしているのか、医師の言葉は右耳から入れば左耳から通り抜けていくように、全く頭に入ってこない。
「治るんですか」
 しばしの沈黙を挟み、結局出たのはそんな陳腐な一言でしかなかった。口に出してしまった途端、何故か羞恥を感じ友子はそれを後悔した。
「治療はできます。しかし、それがどういう結果に至るかはどんな医師にもはっきりとしたことは言えません。患者が一〇人いれば一〇通りの経過が見られる病気です。ただ、場所が場所ですので喉の病気のなかでは比較的難しいケースであることは言えると思います」
「それは、どういうことでしょうか」
 はぐらかされているような気がして、即座に訊き返した。
「咽頭というのは、医学では鼻腔の奥から食道の最上部を含む漏斗状の部分を指し、パーツによって上・中・下に分けられます。井上さんの場合、腫瘍が発見されたのは上の方、つまり上咽頭です。これが中咽頭や下咽頭であれば、切除手術もある程度やりやすいのですが――」
 腫瘍。切除。手術。なんのことだか全く理解できない。何故こんな話になっているのか。順番を間違えて診察室に入ったのではないだろうか。自分は今、他人の診断結果を誤って拝聴してしまっているのではあるまいか。不思議と、唇が微かに震えだした。
「これは女性よりも本来は男性に多い病気なんですが、男女いずれの場合も年代的には井上さんくらいの方から、それ以上――比較的お歳を召された方に多く見られます。
 ただ絶対に手術が必要な病気、というわけでもありません。特に井上さんのは低分化の扁平上皮というタイプのもので、これには放射線がたいへん良く効きます。治療も耳鼻咽頭科ではなく、当院の放射線科で行っていただくことになると思います。初期のものなら放射線だけで完治した例もありますので安心してください」
 話の内容は理解できる。だが、どうしても実感としてそれを掴むことは出来なかった。そもそも自分には、「低分化」だとか「耳鼻咽頭」だとかいう難しい医学用語が関係するような病気にかかる理由がない。
 彼は一体何を言っているのだろう。おかしいのは自分ではなく、彼らの方なのではあるまいか。友子は、逆に医者を心配するような視線で話に耳を傾けていた。
「――しかし完全な治癒を目指すとき、多くの場合の咽頭癌で手術治療が基本となってくるのは確かです」医師は淡々と続けた。「ところがこれは下咽頭、中咽頭に限る話でして、上咽頭の腫瘍は頭の骨につながっているせいで切除手術がかなり難しい、という特別な事情があります。また再発率が高いこともあり、どちらにしても手術による治療実績は芳しいものではありません。やはり一般的な上咽頭癌の治療法として、放射線で治していくのがベストでしょう。
 残念なことですが、井上さんの場合は腫瘍の位置が脳に若干近いような気がします。放射線と薬がどれだけ効くか、という運の問題も絡んでくるでしょう。腫瘍の発生場所と種類が、治療を難しくしていると言わざるを得ないのが現状です。これは――」
 医師の声が、今まで押し殺していた感情に微かに揺らいだような気がした。
「井上さんのご病気は上咽頭癌と呼ばれる、ガンの一種なんです」
 その瞬間、友子はようやく全てを理解した。せざるを得なかった。
 ガン。それは旧世紀末から、人間が最も聞きたくない種の病名として存在してきた。だが、それは年輩の人間や飲酒喫煙の過ぎる人間が患う病であって、自分とは無縁のものだと信じきっていた。もし関係するにしても何十年も先の話だと、そう思っていた。
「勿論、現代医学が何の役にも立たないということはありません。化学療法は日々進歩していますし、原発病巣には放射線治療を行って、首などへの転移に対しても放射線や切開手術で対応していけば進行を遅らせることは充分可能です」
 ――だが、遅らせることは確実に出来ても、止めることが出来るかどうかは分からない。友子の耳に、医師の言葉はそう聞こえた。
「あの、それは通院で可能なのでしょうか?」
「井上さん、それは無理です」医師は厳格な表情で首を左右した。「ベッドが空き次第、入院していただくことになるでしょう」
「入院、ですか」
 咄嗟に思い浮かんだのは、大作と兄から預かった陽祐のことだった。彼らは自分が責任持って世話を見なければならない。癌だ入院だと騒ぎ立て、逆に迷惑をかけるようなことだけはあってはならないことである。長期の出張が入ったという理由で、入院している間、留守にすることをなんとか誤魔化せないだろうか。
「あの、それで入院ということになると費用はどのくらいかかるのでしょうか」
 予想外の質問だったのか、二人の医師は思わずといった様子で顔を合わせた。
「普通の社会保険でしたら、負担金は三割ですね」若い方の医師が考えながら、といった調子で口を開いた。「医療費の個人負担は保険が適応される範囲でなら月の上限が決められていたはずですから、それをまず基本として、あとは食事代その他の諸経費ということになるでしょう。個室や特別室に入ったり、保険対象外の治療を行うならその分の料金も必要です」
 今まで考えたことすらなかった、傷病手当や簡易保険、ガン保険の入院給付金といった言葉が次々に脳裏を過っていく。
「それで、入院期間はどのくらいになりますか?」
 何故だかこのとき、友子は家族に癌のことを知られまいと必死だった。彼らに全てを隠し通すことが、足元から崩壊しかけている日常を死守することに繋がるような気さえしていた。
「まずしばらくは、更に詳しい検査をさせていただきます。その後の治療は悪い部分を放射線で殺しつつ、シスプラチンや5‐FUという薬で他に転移したり広がったりするのを防ぐという方法で行うことになると思います。これには平均的に二ヶ月から三ヶ月くらいかかるでしょう。この間ずっと入院が必要というわけではありませんが、少なくとも状態が落ち着くまでの何週間かは院内で過ごしていただくことになると思います」
「三ヶ月も」思わず声が高くなった。ぼんやりと想定していた最悪の数字より三倍分も長い。「それは困ります。仕事もあるし、子供になんて説明すれば――」
「井上さん」医師は表情を幾分厳しくして言下に言った。「申し上げにくいのですが上咽頭癌というのは大変難しい病気です。肺や肝臓、脳などに遠隔転移することもあります。今の自分の状態をご家族と一緒に正しく認識して、きちんとした体勢の元で集中的に治療しなければ命に関わりますよ」
「そんなに……悪いんですか」
 諭すようなその言葉に、友子は顔を蒼白にして言った。掠れたような声だった。
 二人の医師は顔を見合わせる。友子には、彼らが何かを逡巡しているように見えた。やがて、年配の方が友子に向き直って口を開いた。
「本当に一緒に話を聞かれるご家族はおられませんか?」
「おりません。夫は亡くなりましたし、子供も話を理解できるような年齢ではありませんから」
 事実を言えば、大作なら話をほぼ完全に理解できることだろう。今日も、本来なら学校を休んでもらって一緒に連れて来るべきだったとは思う。だが、友子はそうしたくなかった。
「分かりました。では、ご本人も気をしっかり持っておられるようですし、率直に申し上げます」
 本来ならこういうことは時期を見計らって明かすものなのだが――と前置きした上で、医師は言った。
「井上さんの病気は着実に進行しています。先ほども申しました通り、腫瘍のある場所は喉と脳の境目という際どい位置です。このまま治療をしなければ、これから三年間健康でいられるかはかなり微妙です」
 鈍器で頭を殴られたような、という表現がある。この瞬間に受けた友子の衝撃がまさにそれだった。一瞬意識が飛び、閃光に視界を焼かれでもしたかのように目の前が真っ白になる。何か反応を返そうと唇を動かすが、なかなか声が出てこない。
「私は、死ぬんですか」
 漸く搾り出したその声は、わずかに震えていた。
「入院して徹底した治療を行わない限り、いずれはそうなります」
 いま死ぬわけにはいかない。反射的に脳裏に浮かび上がったのはその一言だった。自分が死ねば、大作は一人残されてしまうことになる。彼に母親の助けが必要な期間は、残りの高校生活一年間と大学卒業までの四年間。せめて社会に出るその時まで、生きて我が子を支えなければならない。そうでなければ先立っていった夫に顔向けできないではないか。
「入院して然るべき治療を受ければ、あと五年は生きられますか」
 自分には使命がある。生きてすべきことが一つだけある。それを意識した瞬間、友子の視界は晴れた。もう一瞬たりともうろたえている余裕などないことを悟った。
「そうですね――」医者が小さく唸った。口を開くべきか、また戸惑っているのが窺える。
「私には面倒を見るべき子供もいます。どうか率直に、現実的なお考えを聞かせて下さい」
 患者の真摯な態度に決心を迫られたか、医師はおもむろに口を開いた。
「過去の統計で見たとき、ノドの癌において五年後の生存率が一番高いのは、喉頭癌という井上さんのものとは少し場所の違う病気です。さらに下咽頭、中咽頭、上咽頭の順で助かる確率は低くなります。放射線の効き方や転移の有無、再発するか否かなど運の要素も大いに関係してきますが、今のところ五年後に井上さんが元気でいられる確率は五割から六割くらいではないかと思います」
 自分が癌のせいで死ぬかもしれないという恐怖は、不思議とあまり強くは感じなかった。若くして伴侶を亡くし、人の死や家族の死に関して現実的に考える機会が多かったからかもしれない。あのとき、残された者のために己の死に備えておくことの重要性を骨身に染みて理解した。愛情や言葉は、社会に対して何の武器にもなり得ない。彼の死にしても、代償として保険金や見舞金が転がり込んでこなければ大作を大学にやれたかどうかも怪しいものだ。あの家もローンを完済できず売りに出すことになっただろう。
 浩に続き、もし自分までいなくなったら……。そのことは、幾度か考えたことがあった。今、それが現実のものになりつつある。用意は既にしてあるが、だからといって易々とその現実を受け入れてしまうわけにもいかない。死にたくないのはもちろんだが、それ以上に死ぬわけにはいかない。まだ死ねないのだ。
 友子は入院して己の病と戦うことを決心した。


    4

「陽祐、お昼どうするの」
 四時間目の授業が終了すると、大作が歩み寄ってきた。彼の言葉で、今日から午後まで授業があるのだということを思い出した。話によれば、これから五〇分間の昼休みが始まり、一般的な生徒はこれを利用して昼食をとるものなのだそうだ。昼食は、自分で作るか買うかして弁当を持ち込むか、学内に設けられた学生食堂を利用するかを選択するのが普通らしい。こういう部分は、陽祐の前の学校と大して変わらない。きっとこの時間帯に学食が混み合うのも同じなのだろう。
「お前はどうすんのよ」
「俺は学食」大作はにっこりと微笑む。「一緒に行く?」
「いや、来る前にコンビニ弁当を買ってきた」
 証明するように、鞄に入れておいた弁当をビニールごと机の上に引っ張り出す。
「え、陽ちゃんお弁当? じゃあ、一緒に食べよう」
 大作との会話を耳聡く聞きつけたらしい明子が、小さな包みを片手に駆け寄ってきた。手にしているのは持参の弁当なのだろう。
「今、陽ちゃんって言ったよね」大作は不思議そうに陽祐と明子の間で視線を往復させた。「もう名前で呼び合うようになったの?」
「そうだよ。私と陽ちゃんは、既に深い仲なの」
 明子は明らかに状況を楽しんでいることを窺わせる笑みを見せた。
「へえ、そうだったんだ。やるね、陽祐」
「信じるな。単に古い知り合いだったことが判明しただけだよ」
 相手が大作とはいえ無用の誤解を招く必要はない。そこから何か面倒事に発展していく可能性も否定できないのだ。陽祐の考えが正しいなら、互いの性別を意識し出した男女こそもっとも厄介な摩擦を生む存在なのだった。――もう見知らぬ人間が突然恋人を名乗り出すのも、恋人がある日を境に突然他人になってしまうのも御免蒙りたい。
「ふうん、陽祐と持田さんって知り合いだったんだ。良かったじゃない、陽祐。また友達がみつかって」
「そうか?」
「うん。だって、友達が多いのは良いことだろ」
 陽祐はそうは思わなかった。昔の友達が、七年経った今でも友達であるとは必ずしも限らない。環境や人間を変えてしまうに、七年という月日は充分過ぎる時間だろう。だが、それをここで大作に指摘しても詮無きことだった。
「じゃあ、俺は学食行くね。早くしないと、席が無くなっちゃうし」
 そう言い残すと、大作は近くの生徒たちと誘い合わせて教室から出ていった。それを見送る視線の隅に、山下と渡瀬が肩を並べて食事の用意をしているのが分かった。これから場所を移して、二人で弁当を突つくつもりらしい。
「弁当ってのは、みんなどこで食べてるわけ?」
「好きなところで食べて良いんだよ」
 その好きなところを、明子は陽祐の向かいの席と決めたらしい。姿の見えない主に一言断ると、彼女はその机を動かして陽祐のそれにピタリとくっつける。
「中庭とか屋上とかにも出られるけど、この時期は結構混むから避ける人も多いんだ」
 もっともな話だと思った。白丘市は内陸部に位置するだけあり、冬は大変に気温が下がり、家屋が埋もれるほどの豪雪にみまわれることもあるという。しかし春真っ盛りの今聞いては、それもイメージし難い。日が落ちると流石に多少冷え込むものの、週明けからは天候にも恵まれ心地よい春の陽気が続いている。屋外に出てちょっとしたピクニック気分を味わってみるのも悪くはないだろう。そう多くの生徒が考えるに違いない。
「陽ちゃん、食べないの?」
 気付くと、明子は既に自前の弁当箱を広げて準備万端整えていた。五〇〇ミリリットル程度の魔法瓶を傾けて、お茶を注ぎながらこちらを窺っている。
「お前、毎日弁当なのか」
「うん。これ私のお手製なんだけど、美味しそうでしょう」
 明子は朗らかに笑って、自分の弁当箱を陽祐の方に少し傾けて見せた。やはり彼女も女子生徒ということか、陽祐からすれば少し容量が小さいような気がしたが、それでも色取り取りの食材を詰め込んだ、なかなか見栄えのする弁当であることは否定できない。陽祐も料理は粗方こなせるものの、レパートリィでは彼女に敵わないだろうと判断した。
「お前、料理なんて出来たのか。いつ覚えた」
「高校から。こっちって、中学生まで給食があったのよ。でもこの学校に上がってからは自分でお弁当作れるようになったよ」
「キャリア二年でここまでか――」
 陽祐はキャリア五年を数えるはずだが、やはり意欲の差か、既に彼女を見上げる位置に甘んじてしまっているようだった。
「メーコのくせに、なかなか侮れないな」
「どう、見直した?」明子が冗談めかして言う。「いつまでも昔の私だと思ってたら痛い目見るよ」
「肝に銘じておこう」
 陽祐は言いながら、弁当をがんじ搦めにしているラップを剥がしにかかった。購入時に電子レンジで温めてもらったはずの唐揚げ弁当は、既にその温もりを失ってしまって久しい。そこを考えると、明子の弁当は熱を失っても味わえる食材を意識的に選択して作られているようだった。その辺りを計算できるのも腕の内なのだろう。陽祐に足りない部分でもある。
「それ、日誌?」
 明子の机の脇に、古めかしい黒表紙のバインダーを見つけた陽祐は、箸を咥えたまま訊ねた。
「そう。週番がつける業務日誌。全く、クラスが変わったのにまた週番になっちゃってさ」
「良かったら、ちょっと見せてほしい」
 汚さないでよ、と言いつつも明子は大人しくそれを寄越した。紙の束にパンチで二つ穴を開け、それを黒い表紙と共に紐で綴じた実に簡素なものだった。別に普通のノートで代用してもよさそうな気がしたが、「日誌」という言葉が教師になにかしらの懐古的なイメージを与えているのかもしれない。
 表紙を開くと、一ページ目は出席簿になっているようだった。左端にクラスの構成員が縦向きに並べられていて、ページの横に向かって日付が並んでいる。欠席したり遅刻したりした生徒がチェックされるらしい。名簿はどうやら五十音順にソートされているようだった。陽祐はゴム印を持たなかったため、最後尾に手書き追加されている。青木正人という生徒がいるから、本来なら秋山陽祐はその後ろ、出席番号二番を与えられるはずだったのだろう。井上大作は四番だった。
 女子のほうはというと、これは男子の番号とは独立しているようだった。彼女たちも氏名で五十音順に並べられ、改めて一番から番号を振られている。転校前の高校では、女子には男子からの続き番号が与えられていた。そのためか、少し新鮮に見える。
「陽ちゃん、行儀悪いよ」
 食べながら日誌を捲り始めた陽祐を、明子は軽く睨みつけてきた。
「一人でメシ食うのに慣れると、行儀も悪くなるもんだよ」
「あ、そうか。陽ちゃん独り暮しなんだったっけ」
 もちろん明子は、秋山家が昔から父子家庭であったことを知っている。同情でもしたのか、少し彼女の声が気遣うようなものになった。
「いつも一人でご飯食べるのって寂しくない?」
「別に。行儀が悪いなんて注意してもらえるうちが華なのかな、なんてのは少し思うけど」
 そういうのを多分、家族の会話と言うのだろう。陽祐にとっては未知の領域だ。
「ねえ、陽ちゃん。今度の日曜日、何か予定ある?」
 少し重くなりかけた雰囲気を払拭するつもりもあったのか、明子は明るい声で話題を変えた。
「日曜? 別に、特にこれといって予定はないけど」
 日誌に並べられている生徒の名前に、知っているものを探しながら答える。女子一六番、持田明子。女子十八番、渡瀬啓子。――渡瀬と言えば、あの無愛想な空手部員、山下の恋人だ。名は啓子というらしい。
「じゃあさ、私が街を案内してあげる。で、家にも遊びに来てよ。お母さんも陽ちゃんのこと覚えててね、会いたいって言ってたよ」
「良いね、お前の家はともかく、街の案内はありがたい。大作に頼もうかと思ってたけど、あいつ忙しいみたいだしな」
 次に山下の名前を指で探しながら、陽祐は言った。
「じゃあ、決まりね」
「でも、それって今日じゃ駄目なのか? ホームセンターかどっかで買いたいものがあるんだけど」
 山下――あった。男子一五番、山下剛。
「……剛?」
 思わず身体が強張った。剛。これは偶然だろうか。様々な可能性を探る。確かに剛という名はそこまで珍しいものでもない。だが、少なくとも陽祐の交友範囲に同じ名前を持った男は存在しなかったし、名簿にも剛の名は一つしか見当たらなかった。
「陽ちゃん?」
 様子がおかしいことに気付いたのだろう。明子は少し心配そうに眼を細め、探るように問いかけてきた。
「なあ、メーコ。このクラスに山下っていたよな。大作と同じ空手部の」
「うん、いるね。それからメーコじゃなくてアキコだよ」
 当人の姿は、既に教室内には見えない。やはり渡瀬と出ていったのだろう。
「そいつ、名前は剛っていうのか?」
「どうだったかなあ。男子の名前はあんまり覚えてないし。名簿にそう書いてあるなら――」
 既に明子の言葉は耳に入っていなかった。ただ、脳裏に繰り返し浮かんでくるヴィジュアルがある。それは暗闇にぼんやりと浮かび上がる、一枚のメモ用紙だった。皺一つない真っ白な表面に、綺麗に印字された黒の明朝体が栄える。今朝、自宅の廊下に置いてあるのを発見された、それは第三の紙片だった。

  剛
  第二の選択肢


    5

 目標にしていると言うと奇妙に聞こえるかもしれないが、山下剛とはまた別の意味で尊敬できる同年代の人間が、渡瀬啓子の中には一人だけ存在した。同学級のクラス委員を務める女子生徒、持田明子である。出身中学は同じだったらしいが、一度もクラスが重ならなかったため、彼女とは高校入学以来の付き合い――つまり、知り合って今年で事実上二年目の間柄でしかない。しかし去年と今年、同学級に配置されてからは、席が近いこともあり、また相手が気さくな性格の持ち主であることも関係して随分と懇意にさせてもらっていた。
 山下の生き方に感化され、多少は対人関係にも積極性を持つようになってきたといえ、啓子の交友範囲は同級生たちのそれに比較してまだ狭く浅い。その中にあって、気がね無く付き合える明子の存在は非常に貴重なものだった。
 啓子にとっての持田明子とは、自分にない意志の強さや精神的な余裕、個人としての明確な思想と理念を持った大人の女性だった。たとえそれが教師であっても下級生の子であっても、彼女は柔軟に対応し、歯切れの良い言葉で誰とでも和やかな会話を交わすことが出来る。また、啓子なら条件反射で避けて通ってしまう相手との衝突や議論討論を、明子は少しも恐れない。相手の見解や価値観に敬意を払いながら、しかしそれが賛同しかねる論であればきっぱりとその旨を表明するのだ。啓子をいつも感心させるのは、それでいながら険悪なムードのまま会話を終わらせない、その卓越した手腕だった。たとえ双方の主張が平行線を辿るとしても、明子は巧みに場をまとめて双方がなるべく気分良く議論を打ち切ることができるように演出してしまう。持田明子はコミュニケーションの達人なのであった。
 初対面の人間に声をかけるという発想すら持たない啓子にしてみれば、どうして明子のように笑顔で友人知人を量産していける人がいるのだろうと、不思議でならない。
 その明子が、少しだけトーンを落とした声で密やかに話しかけてきたのは、五時間目の体育の授業時間中だった。ここ最近のメニューは体育館で行うバドミントンであった。二本のラケットを六人前後のグループの中で回しながら、適当にラリーを演じる。
 啓子と明子は同じグループに振り分けられていて、揃いの体操服に身を包みながらコートの外に並んで座り、自分たちの出番を待っているところだった。運動音痴を自覚する啓子にしてみれば、永遠に順番など回ってこなくて結構。他の人間たちで勝手にやっていてもらいたいものだったが、対照的に明子は己の手にラケットが手渡される瞬間を心待ちにしているようだった。
「ねえ、啓ちゃん。山下君ってさ、どんな人?」
「――えっ」
 明子の言葉は、啓子の意表をつくには充分過ぎるものだった。今までに交わされた明子との会話の中で、彼の名前が出てきたは一度もなかったはずだ。
 日頃から薄々気付いていたことだが、明子は啓子と山下の間柄を非常に微妙なものとして捉えている節があった。だから本来の詮索好きの性を押し殺して、山下に関係する話題を意図的に避けていたのだろう。それが今になって、山下の名が彼女の口から出てくるとはいかなることか。
 もしかしたら、明子も山下に異性としての興味を抱いているのではあるまいか――という危惧の念がわいてきた。だとすれば、自分などでは到底太刀打ちできないだろう。確かにこの四年の付き合いの中で、山下の性格だとか食べ物の好みだとかをかなりの部分まで把握するようになってはいた。しかし、相手が持田明子となると半年足らずで追い付かれてしまいそうな気もする。
 得体の知れない恐怖と不安が、胸の中で急速に膨らんでいく。山下を巡って争うことになったとき、自分に有利に働く物は何があるだろうかと必死に考える。だが、何も思い浮かびはしなかった。
「あ、そんなんじゃないよ。私が山下君に特別な興味があるわけじゃないの」啓子の表情から何かを察したのだろう。明子は両手を慌しく振りながら早口に言った。「ほら、転校生のね、陽ちゃん。秋山くんだけど。知ってるでしょう?」
 同じクラスだ。勿論、知っている。啓子は訊かれて随分経ってから、ようやく一つ頷き返した。
「その陽ちゃん、なんだか山下君のこと気にしてるみたいで。友達にでもなりたいんじゃないかな、と私は思ってるんだけどさ。陽ちゃんって、ああ見えてわりと小心者なところがあってね。自分から友達作るのってあんまり上手くないと思うんだ」
 だから私が色々と間を取り持ってあげようと思ってさ、と明子は照れたように微笑んだ。
 噂になっている当の山下や秋山陽祐たち男子は、別の小さなジムに向かって、そこで卓球に勤しんでいるはずだ。あまり学校が金を持っていないので、やはりラケットや卓球台の数は限られているに違いない。女子のバドミントンと同じように、一本のラケットを何人かでリレーしながらやっているのだろう。
「まあ、そういうのを別にしても山下君って色々と噂の人だしさ。友達が友達になろうとしてるんだから、事前にリサーチしておかないとね」
「リサーチって」明子の思考は、啓子の理解の範囲を超えていた。
「リサーチって言ってもそんなに大したものじゃないんだよ。ただ、色んな評判や噂話を集めてるくらいで。ほら、啓ちゃんって、むかし犬飼ってたんでしょう。でもその子が、その……」
 啓子の胸中を察してか、明子は少し言いよどんだ。が、相手の表情がさほど変化しなかったのを見て取ったらしい。慎重に言葉をつぐ。
「死んじゃってさ。凄く可愛がってた犬だったから、啓ちゃん、随分落ちこんだんだって話は聞いてる。そのことで中学校の先生に苛められてたのを、山下君が助けてくれたんでしょう。で、そのとき山下君がその先生を殴っちゃって、停学になったり空手が出来なくなったりしたっていう話も聞いたよ」
 随分と簡単なまとめられ方ではあったが、大筋で否定するような部分はない。啓子は、その噂の内容を肯定する意味をこめて、一度首を縦に振って見せた。
「あ、やっぱり本当のことだったんだ」
 本人も幾ばくかの信憑性は感じ取っていたのだろう。明子は納得したように一瞬だけ微笑む。
「その話を昼休みにしたらね、陽ちゃんは、その先生が一方的な被害者になっちゃって、結果的に全責任が山下君にいったって結末が相当気に入らなかったみたい。なんだかしらないけど怒ってた」
 それは当時の啓子も同じだった。最初に拳をふるったのは間違い無く教師側であったし、彼は以前から行き過ぎと思われる体罰を頻繁に行っていた事実がある。その辺りの事情がまったく考慮されず、山下が一方的な処罰を受けたことには、当然ながら啓子も釈然としないものを感じたものだ。
 春休み明けに突然として現れた秋山陽祐のことは、既に名前も忘れかけていたくらい遠い存在であった。が、山下のことで憤ってくれたのだ。良い人なのかもしれない、と啓子は思った。
「結果だけが注目されちゃってさ、山下君本人に聞かせたくないような噂も色々あるみたいなの。やっぱり、そういう噂って偏ったり誇張されたりするみたいだね。先生を殴って停学だなんてニュースとかドラマとかでしか知らないから、みんな無責任に盛り上がるみたいでさ」
「顔は少し怖いかもしれないし、無口だし、いつも不機嫌そうな表情だけど、でも、山下君は優しいよ。こっちが何もしてないのに酷いことするような人じゃないよ」
 こんなことを言ってしまって大丈夫だろうか、と思いつつも啓子はそれを口にした。明子が相手なら、勢いに任せて本音を出そうとも状況が悪くなることはない。そんな不可思議な信頼感のようなものが、彼女にはあった。
「うん。多分、そうだと思ってた」
 明子は啓子と視線を合わせて微笑んだ。
 話好きの明子は、本人も意識しないところで方々の人間から様々な情報を集めてしまうところがある。噂好きというべきか、詮索好きというべきか、意外とミーハーなのかもしれない。だが、それでいて彼女が周囲から敬遠されないのは、他人のプライヴェートな話を決して吹聴して回ることがないからだ。どんな話を聞いても、それを無意味に他言することはないし、また態度を妙に変えてしまうことも無い。そういう事実の積み重ねが、彼女に一種の信頼をもたらしているのだろう。
「まあ社交的じゃないのは事実かもしれないけど、山下君って結構やさしい人なんじゃないなって、私も考えてはいたんだよ」
 確かに、山下はお世辞にも社交的とは言いがたい。彼は人間関係に対する考え方が非常にドライだ。欲求や期待などではなく、必要性を以ってしか他人との接点を開こうとはしないのだ。啓子が唯一、山下に不満を抱いているとすれば、まさにその部分についてである。
 そんな啓子の思いを知らないままに、明子は上機嫌に続けた。
「あのね、私たちが教室で固まって喋ってるとするじゃない。何人かグループでさ。その時、一人だけ座る椅子がなくて立ってる子が近くにいたりすると、さり気無く立ち上がってどっかにいっちゃうこととか良くあるんだ。他の人はあまり気付いてないみたいだけど、私にはあれって山下君が席を譲ってくれてるようにも見えるのよね」
「……それは、ただ周りがうるさくなってきたから、余所に避難しただけだと思う」
 山下君、騒々しいのが嫌いだから、と啓子は付け加えた。
「そっか。そうかもね」明子は大きな目をくりくりさせながら笑った。「それよりさ、山下君って本当にパンチ一発で先生を病院送りにしちゃったの?」
「うん」
「じゃあ、空手が強いっていうのも本当だったんだ。一時期、『空手部インターハイ出場』って垂れ幕があったもんね。校門入って真ん前の校舎に」
「山下君、私が知ってるころから凄く空手強かった。本来なら、中学の空手部でもエース格として活躍してたはずの人なの。去年はついに全国大会までいったけど、中学時代も部活を続けていられたなら、もっと早く全国制覇は達成できてたんだと思う」
 啓子に言わせれば、部内の立場にも同じことが言えた。今の空手道部長と副部長は竹之下と井上が務めているが、実績や実力を鑑みれば、山下君がその地位にあったとして全くおかしくはなかった。
「実際、そういう話も出たことあったの。結局その去就問題については、山下君自身が過去の処分の話を持ち出してすぐに蹴っちゃったけど」
「ふーん」明子は感心したように頷いた。「山下君って、やっぱりハードボイルドな人なんだねえ」
 明子のいうハードボイルドというのが何かは知らなかったが、山下が自分の周囲に他人を置きたがらないのは、要するに責任を負う立場にありたくないからだろう、と啓子は考えていた。
 たとえば教師を殴った時、もし彼が空手部の部長であれば連帯責任として部全体が処分されていたかもしれない。自分ひとりなら容易に行動に移せることも、誰かと連帯している状態であれば実行が難しくなる。それは往々にしてあることだ。だからこそ、山下はなるべく我侭を貫けるポジションに自分を置こうと考えているわけだろう。
 それはある意味で、子供じみた逃避なのかもしれない。しかし啓子は、生き方の一つとして認めるつもりだった。少なくとも自分の行動に伴う責任に無頓着な人間には出来ないやり方だからだ。
「アキちゃん、次だよ」
 明子がコートの方から呼ばれた。軽く息を弾ませたジャージ姿の女子生徒が、ラケットのグリップをこちらに向けながら歩み寄って来る。それに明るく声を返すと、高い運動能力を見せ付けるような身のこなしで明子は立ち上がる。啓子たちのグループは、ラリーを止めるミスを五回犯した者からラケットを置くというルールを設けていた。
「じゃ、啓ちゃん。活躍してくるね」
「うん。行ってらっしゃい」
 笑顔の明子に、啓子は小さく手を振った。


    6

 野沢商店の二階応接室には、場違いなほど芳ばしい香りが充満していた。一階の奥に入っているベーカリィコーナーから、焼きたての試作品が何種類か運びこまれたのだ。諸岡悟子は、そのうちの一つ、ベーシックなアンパンを取り上げて試食していた。隣では助手の深町がクリームパンを頬張っている。その様子を店長とコーナー主任が期待に満ちた眼差しで見守っていた。
「このパンは、一個一四〇円でしたね」
 悟子は紙コップのお茶でパンを飲み下すと、ナプキンで口を拭ってから言った。
「はい。税込み一四〇円です」主任が素早く答える。
「素晴らしいと思います」
 世辞ではなかった。アンパン一個で一四〇円と聞けば多少高めの価格設定と思われるかもしれないが、サイズとこの味を考えれば安い。素材に拘った最高級の商品として売り出せば、ニ〇〇円をつけても売れるだろう。他にもジャムパンやピロシキ、変わったところではカレーナンなどの商品もあったが、いずれもかつて味わったことの無い風味と食感、絶妙な味わいを持っていた。
 パンコーナーは当店の自慢です、という野沢店長の言葉を全く信じていなかった悟子だが、試食した瞬間、認識を改めざるを得なかった。これは確かに強力な武器となる。近年ベーカリィは、品揃えで他店との差別化を図り、固定客作りに繋げることができる有力な商材と見られている。悟子は、再建計画の要としてこのベーカリィコーナーを取り上げることを決めた。
 提出された資料によると、野沢商店のインストア・ベーカリィの売上は、一日あたりの平均で八万円超。規模を考えると、これは採算がとれるか否かのボーダーラインに位置する数字である。もっとも、立地条件を考えればこの程度の水準に甘んじているのは売り方が悪いからに他ならず、改装に伴いベーカリィコーナーを前面に出していくようにすれば売上倍増も夢ではないように思われた。
「今、ベーカリィ売り場は店の奥にあるようですが、これを入口すぐの場所に持ってきましょう。焼きたてパンの芳ばしさは、それ自体が強力な宣伝効果を持っています。現在は殺されていますが、これを有効活用しない手はありません」
 悟子は立ち上がりながら言った。自らドアに向かい、店長と主任に外に出るよう指示する。廊下に足を踏み出すと、彼女は吹き抜け部分から一階の売り場を見渡した。
「レジは当然のこと、窓口も他の売り場とは独立して設けてみてはどうでしょう。店舗に入らなくても通勤通学途中の人々が簡単に買い求めるように出来れば、今まで流れていた客層を取り込める可能性があります」
「と言うと……」店長は混乱したように口篭もった。
「もともとインストア・ベーカリィは、それ自体が半独立した存在であるはずです。その傾向をもっと強めるんです。まず、通りに面する位置にショーケースを設け、往来の人々が一目でメニューを確認出来るようにします」
「ドライヴスルーのような思想ですか?」深町が横から言った。「店の外から直接買物できるみたいな」
「そう」悟子は小さく頷いた。「値段は据え置いたままで、改装後は売上の倍増を目指します。そのためにはファーストフード店並の合理化を図らなければなりません。ピロシキなどはどのみち大量生産は不可能でしょう。個数限定アイテムとして購買意欲と飢餓感を煽りつつ、他の量産アイテムと合わせて効率よく商品をお客様にお渡しできるシステムを構築します」
 悟子は念のため、設備と冷凍生地の安定供給を確保すれば倍の商品を供給することができるかを主任に問うた。環境さえ整えば、技術的には無理ではないという答えが返る。彼が不安視しているのは、それだけの個数を現実に捌けるかという問題だけだった。
「流石に四〇年の歴史を誇るだけあって、これだけ質の高いパンを出す店はそうありません。立地条件も最高。まずはそのことをスタッフたちが認識し誇りに思うこと、同時に一般にも同じこと広く知ってもらう必要があります。更にイメージとシステムが改善されたことをお客様に上手く印象付けることが出来れば必ず売れるでしょう」
「売り方を変えるというと、やはり営業時間を延ばすんでしょうか」
 店長が不安そうに悟子の顔色を窺った。悟子は彼の不安を理解した。現在、野沢商店は朝九時から営業、夜九時に閉店している。これを変えると手続き上の問題や、人件費といった話も絡んでくるため厄介なのだ。
「営業時間の延長は必要ありません。最も供給が望まれる時間帯に必要な分を売りに出せるよう、少しシフトさせれば良いんです。朝の九時店を開けても、通勤通学する人々の手元には渡りません。七時か、最低でも七時半には開店しておく必要があります。その分、夜はだらだらと続けることなく一九時にはシャッターを閉めて構いません」
 かつて、焼き立てパンを早朝提供するのは難しかった。生き物である生地を傷めずに保存する手だてがなかったからだ。だが最終発酵に至った生地を急速冷凍する技術が確立されると状況は一変した。ホイロ後冷凍生地を製造しておけば、わずか一五分で焼きたてパンを供給できるようになったのだ。また発酵コントロール機のプルダウン能力向上は、翌日準備のための待ち時間を大幅にカットし、生産性をアップさせることに成功した。既に、朝の七時にオーブンから取り出したパンを店頭に出すことは夢ではなくなっている。
 売り上げ目標は日商一五万円。繁忙タイムにパートを入れ、個数は冷凍成形生地で稼ぎ、目玉となるアイテムをガラス張りの実演販売で捌く。条件を揃えても確実な成功を見込めない難しい分野だが、経営再建のためにインストア・ベーカリィの再生は欠かすことのできない要素だった。
「取り敢えず、この線でやってみましょう」
 店長たちの了解を得ると、悟子は週末までにインストア・ベーカリィの件を含めた店舗改装素案を幾通りか用意することを約束し、野沢商店を辞去した。
「諸岡さん、今日もまた娘さんのところですか」
 店を出ると深町が言った。今や社内では、娘が命に関わる難病と戦うため入院しており、悟子が毎日彼女を見舞に行っていることを知らぬ者はいない。
「ええ」悟子は頷くと踵を返した。「それじゃあ、明日」
 水沢市から白丘市までは、鉄道を利用するのが一番早い。商店街からバスで約一〇分、JR水沢駅に到着するとローカル線を利用して胆沢方面に向かう。二駅先が目的地となる白丘駅で、運賃二〇〇円。本数が少ないのが欠点だが、タイミングさえ合えば所要時間は五分足らずだ。
 深町に病院まで車で送らせることも出来たが、公共の交通手段を用いれば、一人でいられる時間を僅かながらも確保できる。悟子はこれを、思索をふけるための一時として大切にしていた。責任を伴う仕事と過酷な闘病生活を両立させるには、全てを忘れて力を抜ける、こうした息抜きの瞬間が重要となるのである。
 電車を降り、小さいが小綺麗な白丘駅を出ると、東北技術科学大学――TUT付属病院までは徒歩一〇分の距離だ。駅を基点に南北へ伸びるメインストリートを真っ直ぐ南方面に向かう。
 セントラル・アヴェニューなる珍妙な名称があるらしいが、悟子が知るこの通りは、いつも変わらず賑わっていた。午後五時半という時間帯のせいか、仕事帰りのサラリーマンや放課後を繁華街で過ごす学生の姿が目立つためだ。
 あと何回、この道を歩いて病院まで通うことになるだろう。この道を歩く理由を失った時、梓はどうしているだろう。移植を成功させ、憂いの晴れた歳相応の笑顔でいるか。それとは全く違った結末を迎えているのか。――時々、そんなことを考える。
 TUT付属病院は、造血幹細胞移植を可能とする高度な設備を備えた医療機関だ。クリーンルームなどを始めとする環境の充実ぶりだけを見れば、東北地方有数の大病院とも言えるだろう。問題は歴史の浅さに起因する実績不足だが、これは各方面から招かれたその道のエキスパートたちの経験で充分にカバーされている。設備の不充分を理由に梓は一度転院を経験したが、ここにくればその必要もない。つまり、どんな形であれ決着はこのTUT病院でつくということだ。
 そして多分、その日は遠からずやってくるだろう。
 梓は移植を前提とし、既にそれに備えた治療法を導入している。また国内外のデータベースに、相性の良い造血肝細胞の提供者を探してもらうよう依頼もされていた。条件が揃いさえすれば、医師団はすぐにでもGOサインを出すに違いない。準備期間は約三ヶ月。移植が現実になれば、それに伴う治療が約半年。梓が今年の誕生日を迎えることができたなら、それは十中八九、病の克服を意味する――という計算になる。
 だが、もし移植に必要な造血幹細胞の提供者が見付からなかったら。そして移植の話が御破算になったら。
 言うまでもなく、それは最悪のシナリオである。同時に、決して無視できない確率で現実になり得るシナリオでもあった。
 全ては梓と自分の運次第。転がるダイスの目で決まることなのだった。
 午後六時前、悟子は病院の正門に辿りついた。ただ、TUT付属病院は、広大な敷地内に幾つもの専門施設と複数の病棟とを構えたマンモス病院だ。梓のいる小児病棟までは、正門から徒歩で五分近くもかかる。
 悟子が到着するこの時分はちょうど夕食時で、院内がもっとも賑やかになる時間帯でもある。中には満足に食事をとることすら出来ない重病患者もいるが、多くの子供たちは親と一緒に過ごす夕餉の一時を楽しみにしているものだ。もちろん、梓もその一人だった。
 小児病棟に入ると、悟子は外来専用のエレヴェータで四階に上がった。扉が開くと、子供用の低い手摺が取りつけられた大きな廊下が目前に開ける。小児病棟らしく、白い壁には薄いパステルカラーでディフォルメされた動物の絵が描かれていた。この廊下を右に折れれば遊戯室に、左に折ればナースステーションに突き当たる。通い慣れているため、もう眼を瞑ってでも梓の病室まで辿り付くことができそうだった。
「諸岡さん、ちょっと良いですか」
 ナースステーションの前を通りかかった時、駆け出てきた看護婦に呼びとめられた。いつだったか、自分たちを <看護師> という言葉で括ってしまおうという今の風潮には一言ある、と聞きもしないのに鼻息荒く語っていた娘だ。
 相手が看護婦だと、女性患者も安心して自分の身体を預けられるし、奇妙な羞恥心を抱くこともない。母親だって相手が女性であるほうが安心して子供を任せられるらしい。看護婦というのは男性看護師とは別格の、特別な意味を持つ称号なのだ。性差をどうこう言って呼び方を変えるくらいなら、職場での待遇を改善して給料を上げてくれ。彼女の主張は大方そのようなものだったと記憶している。
 あまり頭は良くなさそうだったが、梓に親切にしてくれているようなので顔と名前は覚えていた。確か辻本とかいったはずだ。
「私に何か」悟子は足を止めて彼女を待った。
「諸岡さんにお手紙を預かってるんですよ」
 小走りに駆けよって来た彼女は、そう言って微笑むと白衣のポケットを探った。悟子はその隙に胸のネームプレートを確認した。やはり記憶は正しかったらしく、そこには辻本の二文字があった。子供にも読めるように、ひらがなの読み仮名までついている。
「お見舞いのお客さんが、これを渡してくれって」
 辻本が差し出してきたのは何の変哲もない普通の封筒だった。確認してみると、確かに手書きの字で諸岡悟子様とある。裏返したところ、差出人は秋山陽祐となっていた。
 知り合いに該当する名の持ち主はいない。だが、秋山という苗字には聞き覚えがあった。秋山という男に会え、というあの少女の言葉が脳裡に甦る。
「この手紙を預けていったのは、どんな人でしたか」
 表情と声音に揺らぎを出さないよう、悟子は静かに問うた。
「小さい男の子でしたよ。梓ちゃんよりちょっと大きめかな。小学校の高学年くらいだったと思いますけど」
 ――男の子。そうすると、先日病室に現れた例の少女とは別人ということになる。本当に単なる見舞い客だったのかもしれない。
「この病棟の子ではないのは確実なんですか?」
「どうでしょうねえ」辻元は小首を捻った。「普通の服着てたし、元気だったし、多分患者さんとは違うと思いますよ。梓ちゃんのお友達じゃないんですか?」
 たとえそうでも、情報が少ないため特定は難しい。悟子は封筒に書かれた字をもう一度読み返してから、辻本と視線を合わせた。
「その子がこれを渡していったのは何時ごろでしたか」
「四時半から五時くらいだったと思います。いきなり私のところに来て、これを梓ちゃんのお母さんに渡してくれって。でも、梓ちゃん本人には会わないで帰っちゃいましたね。私、お話していかないのって訊いたんですけど、病気をうつしちゃまずいからって言ってました」
 しかし感染の恐れがあるウイルス性の病気を患った子は、まず例外なく個室に入院することになる。自分は個室の小児患者の顔をほとんど全て知っているため、彼が当院の入院患者でないことはその辺りからも明らかだろう、と彼女は付け加えた。
「――そうですか、分かりました。手紙は確かに受け取りました。ありがとうございます」
 悟子は小さく会釈すると、踵を返して梓の病室へ向かった。
 精神衛生上、あの少女のことはあまり深く考えない方が良いような気もする。それにも関わらず気に留めてしまうのは、それがたとえ口からでまかせの戯言であれ、彼女の持ちかけた話が今の悟子にとってあまりに魅力的なものだからだ。純然たる運の要素でしか決まらない勝負に、自分が介入できるのではないかという望み。自分の努力如何で結果を変えられるかもしれないという希望。梓を救いたいという、ひたすらな願い。そうした心の隙に付け入るようにして、あの少女は現れた。
 だが冷静に考えてみれば、彼女の言動はどう考えても悪質な悪戯だったとしか思えない。すぐにでも忘れてしまった方が良いに決まっていた。甘い声に惑わされてしまえば相手の思う壺だ。
「梓、入るよ」
 小さくドアをノックしてから、悟子は娘の病室である四〇一五号室に足を踏み入れた。声がしなかったのでベッドを覗き込んで確認してみると、案の定、梓は小さな寝息を立てて眠っていた。
 病気そのものの影響や薬の副作用のせいで、梓は絶えず倦怠感や眩暈、微熱、動悸、吐き気、眠気、急な出血などと戦わざるを得ない。眠っている時間だけが唯一の安息の時とも言えるだろう。だから悟子は、できるだけ眠る我が子を起こさないよう心がけてきた。身体もそうだが、休める時に精神を休ませておかなければ、長い闘病生活を乗り切ることは至難だ。
 ジャケットを脱ぎ、ソファに腰を落とした。腕時計で確認すると、時刻は一七時五一分だった。まだ夕食まで若干ながら時間がある。少し迷ったが、件の手紙を読んでみることにした。手で糊付の封を破り、中身を取り出す。収められていたのは無地の白い便箋が一枚きりだった。開いてみると、そこには宛名や差出人のサインとは違いプリンタで印刷された文字が並んでいた。
 一、持田明子。白丘市飛鹿区二丁目三の一。七月三日。
 ニ、山下剛。白丘市霞台南一丁目二の一三。七月一六日。
 三、井上友子。白丘市北区一丁目六の一二。七月二八日。
 四、諸岡梓。白丘市TUT付属病院内。七月二一日。
 右の四名は、指定された日時それぞれに永逝が予定される。
 一および二は外傷を遠因とし、三は悪性腫瘍、四は血液難病にその死亡原因を求められる。ただし <選択者> の介入を受けた場合は、この限りにない。
 <選択者> は、次の一名とする。
  秋山陽祐。白丘市北区一丁目六の四。
 悟子はその全文を四度読み返し、特に日時と固有名詞に関する部分は暗記するまで見詰め続けた。手紙の内容は異様としか言いようがなく、荒唐無稽なものだった。したためた人間の正気を疑わずにはいられない。
 だが、我が子の名が死亡者のリストに加えられていては、簡単に無視してしまうこともできなった。またそれを別にしてみても、奇妙に気の引かれる何かを秘めていることは確かである。
 何度も記憶を探ってみたが、リストアップされている梓以外の名前や、差出人と同姓同名の秋山陽祐という人物には全く心当たりがなかった。一度覚えた名前をなかなか忘れない性質である。そのことから考えても、面識すらない赤の他人である可能性が高い。差出人の秋山というのが誰であれ、何を目的にこんな物を送りつけてきたのか想像も出来なかった。
 だが、それを確認する足掛かりは得られた。この手紙には秋山という人物を含め、リストアップされた人々の連絡先が併記されている。これを手掛かりに彼らを調査し、事実関係を明らかにすることは不可能ではないはずだ。悪戯ならば――そうに決まっているが――法的な意味も含めて断固とした処置をとれば良し、そうでないのなら秋山本人に事情の説明を直接求めれば良い。
 悟子は手紙を元のように折り畳み、封筒に戻した。誰の介入を受けずとも、梓は死なない。己に言い聞かせながら立ち上がった。静かにベッドへ歩み寄り、茜色の陽光に照らされた娘の髪を撫でる。
 梓は死なない。一二月一七日の誕生日だって無事にむかえる。そして院内学級ではなく、一般の小学校に復学することになるだろう。何故なら彼女は移植を受け、病を克服するからだ。そしてスタッフたちに笑顔で見送られてここを退院する。あの大通りを通って盛岡市のマンションに帰る。途中、ショッピングセンターで三〇〇円のおまけつき菓子を買って。
 絶対に現実のものとしなければならない未来だ。その実現のためにも、周囲の雑音に無様に踊らされている余裕など、諸岡親子にはありはしないのだった。


    7

 冬場なら、午後の授業が進んで放課の時刻が近付いてくると、外はもう完全な夜の闇に包まれている。月と街灯の明りがなければ、まっすぐに伸ばした自分の手の先さえ視認することは難しい。
 渡瀬啓子からすれば、これは今さら騒ぐにも値しない事実だった。中学生の頃から、帰路は暗いものだと相場は決まっている。たとえ春であっても、一九時前後まで続く空手道部の練習から解放された時には、外はもう夜の装いだ。真夏を除いて、年中変わらないことであった。
 しかし、山下にとっては事情が違った。もともと関西の人間である彼は、雪国の昼の短さに馴染むまで時間がかかった、と自ら語ったことがある。
「危険じゃないのか?」
 付き合わせているという意識があるのかもしれない。心配する山下は、部活が終わるといつも啓子を自宅まで送り届けてくれるのだった。もちろん、相手が堅物の山下剛だ。普段は道草を食うこともなく真っ直ぐに帰宅する。――だが、その日は違った。
 今日、これから少し付き合ってくれないか。放課後、帰り支度を整えていた啓子は、彼に突然そう言われた。
「これから?」
「部活は休む。部長には、もう断ってきた」
「何かあったの」
 少し不安になりながら訊ねた。何か特別な事情がなければ、山下が自分から部活を休むわけがない。四年間かけて培ってきた経験則に照らし合わせても、それは確かであった。
「色々、話したいことがあるんだ。こういうのは早く片付けておきたい」
「どこに行くの?」
 慌てて鞄の中に教科書とノートを積めこみながら、啓子は言った。
「セントラル・アヴェニュー」
 校門を出ると、言葉通り真っ直ぐ商店街に向かっていく山下に、啓子は黙って続いた。空手に費やすはずの時間をつぶし、こうして二人して繁華街に赴くのは言うまでもなく初めてのことだった。よほど大切な話があるのだろう。早鐘のように鳴りだす鼓動を収めようと思いつく限りの努力をしたが、それらの試みは全くの無駄に終わった。
 先導するように一歩先を歩く山下は、道中終始無言だった。一五分ほど歩いて大通りに入る。そこかしこに、同じく学校帰りの高校生たちが制服姿のままたむろしていた。部活や学習塾に縁のない彼らにとって、放課後とは繁華街に雪崩れこんで刹那の快楽をむさぼるための時間なのだろう。そうした人波を鬱陶しそうにかきわけながら、山下は適当なファミリィレストランのドアを開けた。最初から場所を決めていたという風ではなく、適当にそれらしい場所として選択したといった感じだった。
 店内も学生たちのテリトリィだった。と言うより、この通り自体が彼らの領域なのだろう。少なくとも本人たちはそう錯覚しているに違いない。
 啓子は自分とは全く異なった世界に住まう彼らに恐怖しながら、ウェイトレスに案内された一番奥のテーブル席に山下と向き合うようにして腰を落ちつけた。
「今日はおごる。何か頼んでくれ。晩飯の注文をしてもいい」
 山下はそう言って、コートをたたむ啓子にメニューを差し出してくる。
「そんなに長くなるの?」
「お前の反応次第では、そうなるかもしれない」
 膨らみ出した不安を抑えながら、啓子はチーズケーキとコーヒーを注文した。山下のオーダーはサンドウィッチセットと紅茶だった。
 注文の品が運ばれてくる前に、山下はさっさと要件を切り出した。
「朝練のとき、俺たちの関係がどうとか言ってただろう。お前」
「――うん」少し間を置いて、啓子は頷いた。
「そのことで、今さらだけど俺とお前との間に意識のギャップがあることに気付いた」
 山下は啓子の表情を一瞥して確認する。いつもと変わらない口調で話を続けた。
「良く考えてみれば、そういう話を俺たちは一度もしたことがない。それで意思の疎通がはかれるはずもない。だから、今朝のをきっかけにその辺のことを話しておこうと思って、お前を誘った」
「うん」言葉の意味をゆっくりと咀嚼しながら頷く。
「まず最初に訊いておきたい。お前は俺のやり方を間違っていると思うか?」
 質問の内容を良く理解しきれなかったので、啓子は具体的に説明してくれるよう言った。山下は少し思考してから、それに応じる。
「俺は他人と関わり合うことで発生するメリットとデメリットの両方を排除して、自分のことだけに集中できるような環境を作ってきた。それで問題ないと思っていた。でも、もしかしたら間違ってないと思ってるのは俺本人だけかもしれない」
 そこまで言うと、山下は最初の質問を再び繰り返した。
「たぶん、皆が正しいと思う人付き合いの仕方ではないと思う」
 啓子は考えながら、しかし言葉を慎重に選んで言った。
「でも、山下君のやり方を絶対に間違ってるって言うのも間違いだと思う」
 それを聞いた山下は軽く笑った。啓子にはそれが苦笑いにも自嘲的な笑みにも見えた。
「否定しないと分かってる奴に聞くのは反則だったな」
「どういうこと?」
「――いや。本題に入ろう」山下は真顔に戻ると言った。「人間関係なんて壊れる時には簡単に壊れるもんだ。その一番の原因になるのがコミュニケーションの不足なんじゃないかと俺は思ってる。すれ違いって言うだろう。多分、それだ」
 そもそも親しい人間など啓子にはいなかったから、誰かとの関係が疎遠になることもなかった。だが、山下の見解に特に文句をつける個所はない。黙って話の先を促すことにした。
「他人と付き合うとき、無意識に理想みたいなのを持ってしまう奴が多い。友達ってのはこうで、親とか家族はこんなもんだっていう、自分なりの先入観やイメージだ」分かるか、といった調子で山下が眼で問いかけてくる。啓子は頷き返した。「多分だが、渡瀬と俺とではそれが違うんじゃないか?」
「そう……かな」
 少し混乱した。自分と山下との間に思想や価値観の相違があるのは確かだろう。そのギャップを、コミュニケーションを通して確認し合い、埋めようとしてこなかったのも事実だ。だが、認めてしまうのは怖かった。さりとて、相手が山下ではうやむやにして逃げることもかなうまい。啓子は半ば観念して、彼と視線を合わせた。
「俺はあまり他人とべたべたするのが好きじゃない。誰かといるにしても、ひとりでいる時間を適度に確保しておきたい」
「それは、なんとなく気付いてた」
 言われるまでもなく、山下を少し観察していれば容易に知れることだ。彼はそうなんだろうなと一つ頷き、先を続ける。
「俺は、このさき誰かと一緒にやっていくとするなら、自分と対等かそれ以上の実力を持った人間がいいと思ってる。吸収できる要素を持たない人間は御免だ」
「実力って、どんな実力?」
「言葉にするのは難しい」考えるように少し目を泳がせると、山下は言った。「人間性のことなのかもしれない。強い人間、弱い人間って表現がある。そういう意味で、自分と同じくらいかそれ以上の強さのある人間ってことだろう、多分」
「でも、それじゃあ……」
 それでは、自分など歯牙にもかけられないのではないか。啓子は膝の上で握り締めた両拳に力を込めた。重く俯きながら、恐れていた言葉を何とか口に出す。
「私じゃ駄目ってこと?」
「お前は駄目じゃない。少なくとも評価されるべき部分はある」
 啓子は驚愕の表情を浮かべながら面を上げた。丸く目を見開いて、まじまじと山下を凝視する。俯いていたため確認できなかったが、今のは本当に山下その人の口から放たれた言葉だったのか。それとも何かの錯覚か。
「お前は多分、自分のことを嫌ってる。だから自分を変える必要があると思っていて、そのために努力しようと考えてるはずだ。俺の後をついて回ってるのが半分はそのためだってことも知ってる」
 ウェイトレスが、トレイを抱えて近付いてきた。一言断ると、啓子の前にチーズケーキとコーヒーを、山下に紅茶のカップを並べていく。サンドウィッチセットの出来あがりまでは、まだ時間がかかるようだ。
 ウェイトレスが一礼して充分に離れていったのを確認してから、山下は再び口を開いた。
「変わろうっていう意思があって、実際にそのための行動を起こせる奴は強くなる。俺が知ってる競技の世界だと、そういう奴は伸びる。怖い敵になる。お前は、そういう人間なんじゃないか。この何年かで随分明るくなったし、俺の練習に口出しできるくらいの知識とか眼もついてきた」
 変化という言葉が、常にポジティヴな意味合いを持っているとは限らない。だがこの場合、山下は変化という言葉を成長とほぼ同義のものとして扱っているように聞こえた。
「欠点の無いやつが強いんじゃない。色々ある欠点をどうやって補ったり克服したら良いかを知ってるやつが強いんだ。空手の中じゃそれは確実に言えるし、そもそも空手道ってのはそういうことを目的にしてる」
 啓子が認識する限り、それを口にするのは山下の主義に反するはずだった。自分の目標や行動理念などは、言葉にするのではなく体現する。語り表せるものでないからこそ、彼は時間と労力を費やして静かに空手に打ち込んできたのだ。
 啓子は、他ならぬ自分のために山下が主義を曲げてくれたのだということに気付いた。誰もその価値を理解し得ないだろうが、啓子には分かった。
「俺はあまり頭が良くないみたいだから、自分のことを上手く他人に伝えられない。自分自身にもできない。でも色々やってみて、空手を通してだったら何か説明できそうな気がしたから続けてきた。出来なかったことが練習で出来るようになった。色々分かったこともある。だから同じように思って、そういう生き方を実践してる奴とは気が合う」
 淀みない話ぶりとは世辞にも言えなかった。彼は言葉を選びながら、とつとつと語った。
「お前はそういう奴の一人だと思う。だから俺はお前が好きだし、良い奴だと思ってる」
「嘘……」
 啓子は反射的にその言葉を拒んでいた。まったく思考の介在しない、まるで防衛本能による反応のようだった。
「お前を鬱陶しいと思うことは良くあった。ありがたいと思ったこともある。お前は両方だった。メリットとかデメリットとか、そういう計算できるような感じ方とは違う。多分、それより少しマシなものだ」
「なんでそんなこと言うの」
 戸惑うしかなかった。どの言葉からどのように反応していけば良いのか分からない。啓子の知る山下は、寡黙で禁欲的な人間だった。胸の内をストレートに言葉にすることも少ないはずだった。
 だが、そんなイメージを粉砕するかのように、山下は信じられないような言葉を矢継ぎ早に繰り出してくる。その情報の量と性質の異常さに、啓子は処理能力の限界を超えて半ばフリーズしつつあった。
「今まで言う必要がないと思っていたから言わなかった。でも、このまま何も伝え合わずにギャップを大きくすると、修復不可能な事態に陥りかねない。だから言うしかない。だいたい――」
 山下は恨みがましい眼で、啓子を睨めつけた。
「お前だろう、俺との関係をはっきりさせたがってたのは。態度や雰囲気見てれば、彼氏とか彼女とかそういう分かりやすい枠に嵌めたがってるのはすぐに分かる。そのために何が必要かっていえば、まさにこういう時間とやりとりなんじゃないのか」
 お前が望んだことだろう。俺はそれに応えただけだ。山下の眼は、言外にそう語っていた。確かにそれは正しいのかもしれない。
 男女の間で友達関係が成立するかは知らない。興味もない、と山下は続けた。ただ、もし成立するというのなら、少なくとも恋愛感情を完全に排除、或いは封印する必要があると考えられる。
「どっちかがそういうことを意識し出した時点で、もう駄目だ。不自然になる。何らかの決着がつくまでは、普段通りにお友達で……ってわけにもいかなくなるだろう。小学生じゃないんだ。お前ももう少し現実的に考えてくれ」
「ごめんなさい」
 俯きながら、啓子は反射的に謝っていた。確かに、自分はあれこれと理想や幻想を抱くだけであったのかもしれない。そこに至るまでに何が必要であるか、どんな行動を起こす必要があるかといった現実的な問題を全く考えようとしなかった。それは指摘の通り、まさに子供の反応だというのも分かる。
「それで、どうする」
 えっ、と顔を上げる。正面から山下と眼が合った。
「セッティングはした。俺なりの考えも一応は言わせてもらった。結論くらいはお前が出せ。それくらいしないと、完全に俺主導で完結しちまう。それは対等な立場同士の人間がやることじゃない」
「うん……」
 結論だけこちら任せにするのは卑怯な気もした。同時に、山下の言葉に一部の理があることも理解できた。
 いつだってそうなのだ。彼は人より常に一歩先に大人になり、啓子にはまだ見えない遠くを見据えている。そんな彼に憧憬の念を抱き、彼の後を追ってみたい、彼と伴走できるまでの人間になりたい――そう思って山下の背について回ってきた。その努力は一方で実を結びもしたが、一方ではまだ満足できる成果をあげてはいない。
 山下は己の限界がどこにあるか、自分という人間にどこまでの事が成せるかを一大テーマとして、日々自己の探求に勤しんでいる。そんな彼と肩を並べられるようになるためには、自分も渡瀬啓子としての限界を見るまでの努力が必要となってくるのだろう。
 まだそれは遠い。だが、彼と一緒にそこに辿り着けたらとも思う。これから、長い時間をかけて。
「――山下君」
 啓子は顔を上げて、向かい合う男に視線をぶつけた。言うのだ、と己に念じる。恐らく、山下と出会う前の自分にはとても言えなかった言葉だ。だが、今なら言える。それは確実な成長の証となるだろう。自分に示さなければならない物だ。その実感の積み重ねが、やがては確固たる自信となっていくのだろうから。
「これからも色々、私と一緒でもいいですか」
 日本語になっているのかすら微妙な言葉だった。思わず頭に血が上るのが分かったが、自分でも驚くほど凛とした口振りで言えた。山下には伝わると思った。自分の声が、少し好きになれそうな気さえした。
 どのくらいの時間を置いたのかは分からない。即答だったのような気もするが、充分な間を取ってからの言葉だったのかもしれない。いずれにせよ山下は、試練を超えた高弟を迎える師父のような口調で言った。
「これから、よろしく頼む」


    8

 放課後、明子に教えてもらったホームセンターに向かった陽祐は、結局手ぶらで店を出た。当初は、家中の鍵をより強固な物に取り替えて不審者の侵入を防ごうというつもりだった。しかし、防犯製品のコーナーで新型シリンダー錠だのイスラエル製最新ロックシステムだのを物色しているうち、自分の行為が急に莫迦らしく思えてきたのだ。奇妙なメモや手紙が連続して送られてきたからといって、鍵の買い替えを検討するのは流石に過剰反応だろう。少し被害妄想に過ぎるし、とてつもない暴走行為に思えてきて恥ずかしくもある。
 あれが必要だ――と思い立って買いに走ったはいいが、金を払って家に帰る頃には、「本当に必要だったのだろうか」という疑念にかられ、購入したことを後悔することが陽祐には良くある。もう少し時間をかけて、冷静になってみる必要があるような気がした。今回の件も、蓋を開けてみれば、近所の子供や井上家の連中が軽い悪戯を仕掛けるつもりでやったことかもしれないのだ。特に友子と大作には、緊急時を想定して合鍵を預けてある。あれを使えば、施錠された秋山家に出入りし、三番目のメモを二階廊下に置き帰るのも容易であるはずだった。
 そもそも、本当に家宅侵入されたかどうかも怪しいものなのである。存在しないはずのものが現れただけで、逆に何かが盗まれたような形跡もない。メモ用紙くらいなら窓から投げ入れられる。自分の背中に悪戯で貼られた物が、自宅二階で剥がれ落ちただけかもしれない。その可能性の方が現実的で、いかにもあり得そうである。
 大作の言う通り、少し神経質になり過ぎていたのだろうと思われた。常日頃から <摩り替わり> に対応するため周囲の異変には人一倍敏感になっていることもある。今まで二〇年近く続け来た父子家庭が英文の単身赴任で崩壊したこと、それに伴い初めての独り暮しが始まること、受験を控えた年に転校が重なったことなどが、自分で考えるよりも強いストレスになり、精神にネガティヴな影響を与えていたことは充分に考えられる。
 陽祐は意識的に、例の紙片の件を頭から振り払うことにした。
「――迷子のお報せをいたします」
 不意に鼓膜を襲ってきた大音量に、陽祐はもう少しで飛び上がりそうになった。顔をしかめながら周囲に目をやる。隣に電柱のような金属性の柱が立っていた。はじめて、自分が街頭スピーカーの真横を歩いていたことに気づく。電柱の頭頂部に設置されたスピーカーは、耳障りなノイズを混じらせながら、訓練された女性の声を周囲に木霊させた。
「水色のトレーナーに白い長靴をはいた、二歳くらいの男の子をお預かりしております。お心当たりの方はセントラル・アヴェニュー南ゲート、インフォメーションセンターまで起こし下さい。迷子のお報せをいたします」
 そこはセントラル・アヴェニューと呼ばれる市内最大の繁華街、その中心部だった。考え事をしながら歩いているうちに、いきなり景色が変わっていたという印象だった。どういうルートでここまで辿り着いたのか、全く記憶にない。
 腕時計は一八時半を少し回った辺りを示していたが、通りは既に夜の装いだった。等間隔に並ぶ街頭とテナントが掲げる看板のイルミネーションが煌煌と輝いている。周囲を行き来する人々は一般の買い物客や子連れの主婦に代わり、会社帰りのサラリーマンやOLの姿が目立つようになっていた。
 いつの間に日が落ちたのか、陽祐は全く気がつかなかった。西に聳える奥羽の山陰に日が没するのは、この時期だと一八時前後だということなのだろう。やはり首都圏と比較すると若干早いようだった。陽祐の生まれは熊本県だったが、九州では四月だと一九時近くにならないと日が暮れることはない。振り仰げば、上空には既に幾つかの星が瞬いている。どこかで若い女性のグループが上げる弾けるような笑声が、夜の始まりを告げていた。
 陽祐は通りを適当に歩き、全国にチェーン店を展開する二四時間営業のファミリィレストランのドアを押した。腹を満たして夜の街に繰り出していくつもりなのであろう、制服姿をした同じ高校生の集団が店内には多く見られた。彼らの大半は、誰かが口を開くたびに揃って大きな笑い声をあげ、片や携帯電話を操作してどこかにメールを送っている。
 他者との刹那的な接触を繰り返すことでしか己を維持できない人間。それを遠くから蔑むことで己を正当化するしか能のない人間。果たして真に滑稽なのはどちらなのだろう。そんなことを漠然と考えながら、目に付いたメニューをいい加減に注文する。
 食い慣れたファミリィレストランの味は、今日も乾いて素っ気無かった。日常がもし食えるのならば、きっと似たような味がするに違いない。働きの鈍った頭に浮かぶのは、お得意の自嘲癖からくる面白くもない妄想だけだった。
 もそもそと怠惰な咀嚼を繰り返しぼんやりと窓の外を眺めているうちに、いつしか一時間半もの時間が流れていた。腕時計を見詰めながら、そろそろ帰路につかないと井上家の人々を心配させてしまうという事実に気付く。家が隣接しているから、部屋に照明がついているかいないかを確認するのは容易なのだ。叔母の友子は生真面目な性格をしているから、保護者代行の責任を全うしようと常に秋山家の様子を窺っているに違いない。冷めきったコーヒーを飲み干し軽く嘆息すると、陽祐は店を出ることにした。
 席を立ちながら伝票に手を伸ばしたとき、今まさにレジで勘定を終えて店を出ようとしている高校生カップルの姿が目に入った。見覚えのある制服、見覚えのある顔の二人だった。後から入ってきたなら気付いたはずだから、恐らく陽祐が来る前から他の高校生の群れに紛れてどこかの席に陣取っていたのだろう。
 気付くと足早にレジに向かい、店員に千円札を握らせてカップルの後を追っていた。外に出た途端に春特有の突風が襲いかかってくる。その勢いに眼を細めながら探すと、目的の後姿はすぐに見つかった。両手をズボンのポケットに突っ込み、おもむろに二人を追って歩き出す。方向は、生憎と自宅とはほぼ真逆だった。
 夜の繁華街を歩くのは初めてであった。客層の違いはあれ、辺りは昼間と変わらない賑わいを見せている。市民が組織するという自警団のワゴン車が、回転灯の黄色い光を放ちながら道の中央をゆっくりとした速度で進んでいく。白丘市は比較的自治の進んだ街で、こうした市民活動やボランティアも盛んらしい。自警運動もその活動の一環だという。彼らは日が暮れると繁華街を巡回し、特に若者が犯罪に巻き込まれないよう注意を払う。その自警団の車が横を通り抜けたとき、ライトに照らされてカップルの顔が鮮明に浮かび上がって見えた。既に疑っていなかったが、やはり山下剛と渡瀬啓子の二人だった。
 明子から、二人が自分と大作のような隣人関係にあることは聞いていた。迷いの無い足取りと道筋から察するに、帰宅しようとしているのだろう。陽祐の中で、彼らが付き合っているという話が噂以上の信憑性を持ち始めていた。肩を並べて夜の街を歩く二人は、どこからどう見ても文句のつけようがない男女の仲に見えた。
 不思議なのは、山下の部活についてだ。明子の話が本当なら、山下という男は相当な空手馬鹿だということになる。恋人と繁華街を歩くためだけに練習をすっぽかすというイメージからは程遠い。ならば、こんな時間のファミリィレストランで彼らは一体何を話していたのか。考えてみたが、当然ながら何も分からなかった。
 流石に地元の人間と言うことか、二人は周辺地理を隅々まで熟知しているようだった。陽祐が存在さえ知らなかった小さな児童公園を横切り、また街灯もないような細い裏道を潜り抜けて真っ直ぐに目的地へと向かっていく。おかげで土地鑑がない陽祐は方向感覚を幾度か狂わせてしまいそうになった。なんとか、市の南東部に広がる高級住宅街に向かっているらしいことだけは理解する。
「――しかし、何やってるんだ。俺は」
 呟きながら、陽祐は自分の馬鹿さ加減に呆れていた。
 身辺に不審者の影を感じ取り気味悪がっていたはずの人間が、今度は夜道のカップルを尾行する側に転じている。端から見れば、間違いなく陽祐の方がストーカーだということになるだろう。しかも、彼らの後を追うに至った明確な理由はないのだ。例の紙片にあった <剛> という記述が、眼の前を行く山下剛その人を示しているという確証はない。もしそうなら、何かしらの危険が彼に及ぶかもしれない、というだけの話である。他人に説明し、理解を得るのは困難だろう。
 半時間ほど歩いただろうか。気が付くと、周囲の眺めはもう完全に閑静な住宅街のそれに移り替わっていた。それに合わせ、尾行は困難になりつつある。曲がり角を折れる回数が増えてきたからだ。両人の自宅からそう遠くない所まで来ているのだろう。辺りは、切れかけた街灯が点滅する音すら聞こえてくるほどの静けさに包まれていた。
 そんな中、微かな足音と荒い息遣いが自分の後方から近付いてきていることに陽祐は気がついた。場所と時間を考えれば、健康にうるさい中年がランニングをしているとも思えない。何かと後ろを振り返ろうとした瞬間、視界を青白いものが横切った。それは瞬く間に陽祐に追いつき、一呼吸後には追い抜いていったのだった。
 街灯が照らし出すその後姿は、ワンピースらしき服をまとった髪の長い女のように見えた。奇妙なことに、セメントのブロックを片手で鷲掴みにしている。陽祐は自分の見間違いを疑ったが、アスファルトの上を走っていくその足は靴の類を履いていない――素足のようだった。
 何か異様なものを感じ、陽祐は思わず足を止めた。寒さとは明らかに違う理由で腕に鳥肌が立ちはじめる。頭のどこかで、本能が盛んに警鐘を鳴らしていた。
 女は既に山下と渡瀬の背後に迫りつつあった。流石に空手の経験者といったところか、山下が逸早く後方の気配を察知する。だがタイミングとして、それは些か遅過ぎた。
「山下君!」
 夜のしじまを、渡瀬の悲鳴のような叫び声が切り裂く。陽祐も、彼女に先を越されなければ似たような声をあげていたに違いなかった。嫌な予感はそのまま的中していた。青白い女は駆け寄った速度もそのままに、体ごと山下にぶつかっていった。更には手にした灰色のブロックを振り上げ、不意打ちによろめいた山下に向けて打ち下ろそうとしている。命中すれば、誰もがただ事では済まないと理解できる暴力だ。
「渡瀬、下がれ」
 大振りなその一撃を躱すのは、空手有段者の山下にとってそう難しい注文ではなかったのだろう。彼は軽やかに女の打撃を回避すると、相手を正面から睨みつけたまま怒鳴った。やや間合いをとって態勢を整えた山下は、拳を構えて臨戦体制に入っている。もし山下剛が明子の語る通りの男ならば、恋人と自身の安全を守るためにその拳をふるうことを躊躇わないだろう。だがこの場合、それが誰にとっても好ましくない結果を生むことに陽祐は気付いた。最悪のケースに至れば四年前の繰り返しになる。
「よせ! 山下、よせッ」
 陽祐はようやく我に返ると慌てて駆け出し、山下と女との間に割り込んだ。自らの身の危険に思考が回る前の、ほとんど反射的な行動だった。
「山下。お前、空手部だろう。被害者とはいえ女相手に暴れたらヤバイことになる」
 山下は突然の闖入者に幾らか驚いているようだった。渡瀬啓子に至っては何事が起こっているのか理解さえしきれていないらしい。立ったまま気絶したかのように身動ぎ一つしない。陽祐は構わず、彼らの盾になるように身体を張りながら叫んだ。
「過剰防衛でまた処分されて、今度は二度と空手ができなくなるぞ。手は出すな」
「そんなこと言っている場合か」
 山下は陽祐の肩を掴み、力まかせに押し退けようとした。万力のような握力が伝わってくる。陽祐は渾身の力をもってそれに抗った。ここで山下を前に出すのはまずい。
「なんなんだよ、お前」陽祐は視線を正面に戻し、目の前の女に怒鳴りつけた。「なんでこんなことするんだ」
 対峙する女は、改めて観察すると異様としか言いようのない容姿の持ち主だった。華奢で背が高いせいか、その体躯は異様に細長く見える。黒い静脈が罅割れたように走る肌は病的なまでに青白く、背中まで伸びる長い黒髪は滅茶苦茶にもつれ、壮絶に荒れ果てていた。面容には生気がまるで感じられず、まるで蝋人形のようだ。しかもこれだけの行動に及んでいるのに、殺気はおろか如何なる感情の起伏も感じられない。腐った魚のような眼が、ただ惚けたように宙を漂っている。
「誰だよ、あんた。下手すりゃ傷害事件だぞ。これは」
 陽祐の声に反応したのか、端に無数の泡を付着させた女の唇がゆっくりと捲れ上がった。同時に、黄色く濁った両眼が陽祐に向けられる。――視線が合った。
 首筋の産毛が爆発的な勢いで一気に総毛立った。出かけた悲鳴が喉につかえ破裂しかける。後ろからも同様の気配が伝わってきた。
 女は能面のような表情をそのままに、口だけを大きく裂き開いて狂人そのものの甲高い笑い声を上げた。住宅街の夜の静寂を切り裂き、それはアスファルトや周囲の塀に跳ね返って反響する。
 やがて俄かにそれが止むと、女のガサガサに荒れた唇が動き「アキヤマ」と結んだような気がした。陽祐は、無意識に後退りする。瞬間、女は人が変わったように俊敏な動きを見せた。素早く振りかぶり、鷲掴みにしていたセメントブロックを投げつける。無造作にも見えたが、恐るべき速度が出ていた。本能が、直撃を食うと命に関わるダメージになることを逸早く悟る。空気が切り裂かれる唸るような音と、微かな風圧が顔面に迫る。陽祐は咄嗟に両腕で頭部を庇った。左腕を鋭い痛みが走る。骨が軋むような衝撃だった。堪えきれず、尻餅をつくように後へ倒れこむ。
「待て!」山下の鋭い声が、周囲に木霊した。
 痛みと混乱の中、女が走り去っていく気配を感じた。ひたひたという、素足の微かな足音が確実に遠ざかっていくのが分かる。それはすぐに聞こえなくなった。痛みをこらえるのに必死な陽祐には、追いかけようという発想すら沸いてこなかった。
「――大丈夫か」
 一瞬だけ追撃の構えを見せるもすぐに諦めた山下は、陽祐に歩み寄ってきた。傍らにしゃがみ込むと、ブロックの直撃を受けた陽祐の左腕をとって「見せてみろ」と命じてくる。
「何なんだ、あの女は」言われた通り山下に左腕を突き出しながら、陽祐は訊いた。「お前の知り合いかよ」
「違う。全くの初対面だったはずだ。通り魔か何かだろう」
「後ろから見てたけど、あの女、わざわざ俺を追い越してお前を狙ったんだぜ。標的は間違い無く決まってたんだ。お前が目的だったんだよ」
「どうせ変質者の仕業だ。俺には関係無い」大した怪我ではないと判断したらしい。興味を失ったように陽祐の左腕を放り出し、山下は立ち上がった。「連中を理解しようとしても無駄だ」
「ああ、そうかい。で、お前は怪我しなかったのか?」
 痛みをこらえて陽祐も立ちあがる。
「ない。あの女じゃ、刃物を持ち出しても俺に怪我は負わせられない」
「そっちの彼女はどうよ」
 渡瀬啓子は少し離れたところで未だに呆然と立ち尽くしていた。気の弱そうな外見からは容易に予測できる種の反応だ。どう見ても突発的な事態に対して器用に立ち回れるタイプの人間ではない。
「秋山だったな。あんた、全部見てたんだろう。渡瀬は大丈夫だ」
 山下は後ろに佇む恋人に一瞥くれた。言葉を介さない二人だけのやりとりが成立したらしく、彼女は小さく頷いて見せた。怪我はない、ということらしい。
「それで、どうするよ。警察に通報するか?」陽祐は言った。
「別に熊に遭遇したわけでもない。必要ないんじゃないか」
 山下は一端言葉を切ると、陽祐の左腕を顎で示しながら続けた。
「どっちにしても、怪我したのはあんただけだ。自分が被害者だと思うなら、勝手に届け出ればいい」
「まるで俺には全く関係ありませんって言いぐさだな」
「俺に責任を求められても困る。迷惑したのは俺たちもだし、過失と責任はあの女のものだ」山下は一瞬だけ件の女が消えていった闇の向こうを睨みつけたが、すぐに陽祐に視線を戻して続けた。「何にしても、警察より病院に行って怪我の具合を見せたほうがいい。骨に異常はないように見えたけど」
「医者じゃないから責任は負えない、か?」
 確かに山下の言葉には理があった。だから余計に腹が立つ。こっちは、山下の立場を危うくしないために介入したのだ、という思いもあった。もう少し労るような言葉があっても良いのではないか。
 だが結局、その類の言葉を山下の口から聞くことはなかった。彼はショック状態にあるらしい渡瀬を連れて、さっさと姿を消した。警察に届ける気がない以上、そうするのはある意味で当然だった。自分でもそうしたであろうことを理解はできるものの、陽祐は己の憮然とした表情を隠せずにいた。去り際に、渡瀬が小さな会釈をくれたことが唯一の慰めだった。それ以外に残されたのは、通り魔の女が放り投げていった無骨なセメントブロックと、腕の鈍い痛みだけだ。
 彼ら二人の尾行を再開する気には、もうなれなかった。




to be continued...
つづく