第四章 「紙片」
1
秋山陽祐にとっての四月六日は、いささか騒々しく明けた。七時にセットした時計のベルが鳴る以前の目覚めだったが、それは関係ない。旅行に出たり、引っ越したりする度に毎回繰り返してきた自らの醜態が原因だった。
朝を迎えたとき、部屋の様子やベッドの寝心地に違和感を覚えると、陽祐は思わず軽い混乱状態に陥る。布団を蹴飛ばす勢いで跳ね起き、慌てて周囲の様子を窺う。そして、そこが宿泊先の客室や入居したばかりの自室であることを知って、ようやく安堵に胸を撫で下ろすのだ。ご多分に漏れず、今回もそうした恒例の儀式を済ませ、陽祐はようやく意識をしっかりと覚醒させることができた。
溜息を吐きながらベッドから下りる。冷たいフローリングの床を素足で歩き、部屋を出た。そのまま自室の斜め向かいにあるトイレに入る。失念していたが、スリッパの類を用意しなければならない。畳にカーペットを敷いた借家の一室ではなく、ここは全部屋フローリングの新たな住まいなのだ。何から何まで勝手が違う。トイレが一階と二階に一つずつあり、そのどちらもがウォシュレットを完備していることからしてもそうだった。
トイレから出て流れていく水の音が収まると、不思議なほど静けさが陽祐を包みこんだ。開かれた廊下の窓から、塗り替えたばかりのペンキの匂いが漂ってくる。射し込んでくる朝日に照らされ、微かに舞っている埃の姿が見えた。その気もないのに、何故か小鳥の鳴き声に聞き入ってしまう。
安アパート住まいだと、壁一枚隔てた隣家からそれなりの騒音や生活音が聞こえてきたものだ。真上に位置する部屋に小さな子供がいれば、彼らが元気に駆け回る音が朝から鳴り響いてくることも珍しくなかった。それを迷惑に思ったことは数知れない。しかし完全に失われてしまったことを知る今は、何故か一抹の寂しさを感じてしまう。恐らく、ひとりきりで生活するには、一戸建てのマイホームは広過ぎるのだ。
気分を切り替えて一階に下り、洗顔を済ませる。再び自室に戻って登校の準備にかかった。クローゼットを開けて、ハンガーにかけた制服一式を引っ張り出す。八時半から、白丘第一高等学校の始業式が始まる。陽祐は転入生としてそれに出席しなければならないのであった。
慣れないカッターシャツをまとい、真新しい紺のブレザーに腕を通す。そこまでは良かったが、ネクタイを締める段に至って陽祐は途方に暮れることになった。これまでの一七年間、ネクタイとは縁のない暮らしを続けてきたため、締め方が全く分からない。前の学校にも制服があったが、これは学生服だった。
とりあえずタイをポケットに入れると、叔母か大作に助力を請うため隣接する井上家に向かうことにした。どの道、両家の取り決めで朝食は井上家で済ませることになっていたし、道順に明るくないため学校まで大作に案内してもらう手筈になっていたのである。
自宅玄関を施錠すると、一ブロック程度の距離を歩いて井上家に辿り付く。隣接するといっても同区画内に背中合わせで建っている格好のため、余所の家々を迂回しなければ両家の玄関を結べないのである。
表札横に取りつけられたインターフォンを鳴らすと、すぐに大作が出た。予測していたより随分と早い訪問だったらしく、彼は多少驚いた様子を見せた。鍵は開いているから入って来いと言う。彼らのためにポストから朝刊を抜き取り、庭を横切って玄関に向かう。ドアノブを捻ると、確かに鍵はかかっていなかった。
「おはよう、陽祐。早かったね」
扉の内側で大作が待っていた。彼は挨拶と共に薄っすらと微笑んで見せると、手振りで陽祐に上がるよう指示した。
「俺もさっき起きたんだ。陽祐って、毎日こんな早起きなの?」
「お前はどうなんだよ」
さっきとは言っても、着替えるだけの時間は充分にあったらしい。制服姿の大作を見て陽祐はぶっきらぼうに返した。
「俺は部活の朝練の関係でいつも今ぐらいに起きるんだよ。もう癖になってる。――それより鍵開けとくから、明日からはベルなんか鳴らさないで直接入ってきなよ」
答える代わりに、門脇のポストから取ってきた新聞の朝刊を手渡した。朝食の準備が整っているのか、廊下の向こうから微かにコーヒーの匂いが漂ってくる。大作についてダイニングルームに通じるドアを潜ると、その香りは一層濃くなった。
「おはよう、陽ちゃん。またえらく早起きしたね」
右手にあるキッチンカウンター越しに、小柄な女性が嫣然と微笑みかけてきた。一見した限り、年齢は三〇半ばから後半といったところか。良く笑うのだろう、目尻と口元に深めの皺が刻まれていた。様々な経験を経てなお失わなかった陽気さとユーモアを、優しげな双眸が証明している。陽祐の父方の叔母であり、大作の実母、井上友子である。
「転校初日だからかな、勝手に目が覚めたんですよ」
「そうね。初日だもんね」流し台に立つ友子は、濡れた手をタオルで拭きながら小さく頷いて理解を示した。「朝ご飯、食べるよね」
「いただきます。なにか手伝いますか?」
両家の保護者がどういう目論みで決定したことかは知らない。だが毎日の朝食を井上家で世話してもらうことになった以上、陽祐としても出来る限りのことはするつもりだった。
「いいの、いいの。これ、陽ちゃんの分。適当に座って食べてね。もうすぐパンも焼けると思うから」
そう言って手渡されたトレイ――井上家の朝は洋食らしい――を運び、大作の向かいに座る。母子家庭のわりに、井上家の食卓は大きかった。ドッシリとした楕円形のテーブルがフローリングの床に鎮座している。それを取り囲むように六つの椅子が並べられていた。恐らく、まだ大作の父が健在だった頃に購入したテーブルセットなのだろう。そして当時の彼らは、陽祐が座る席に大作の妹弟《きょうだい》の姿を思い描いていたに違いなかった。
「食べないの、陽祐?」
席に着いたはいいが、妙なことを考え込んでしまっていたようだった。フォークを持ったまま動きを止めていると、大作が怪訝そうな表情で問い掛けてくる。
「いや、いただきます」
取り繕うように早口で返した。軽く手を合わせてからフォークでブロッコリィを突き刺す。新鮮な手ごたえが伝わった。
「そう言や、さっき朝練って言ってたな。もしかして今日は俺のために休むつもりだったのか?」
「そう言えないこともないけど――」コーヒーカップを持ち上げた手を止め、大作は一瞬考えこむような仕草を見せた。「もともとウチの部の朝練は自主参加なんだ。始業の時間まで道場を開放するから、来たい人は早めに来ると練習できますよって感じで」
だから大した問題ではない、と主張したいのだろう。だが、大作が部の副長という責任ある立場に就いたことは周知の事実だ。彼の性格上、率先して早朝練習に参加することを当然の義務として捉えているに違いない。
「しかし、休みあけの初日から朝練とは空手家も大変だな」
「違う違う。休みの間からずっと朝練なの」
「はあ、流石に全国レヴェルの部ともなると気合の入り方が違うわけか」
陽祐は思わず嘆息した。感心からくるものでもあったが、呆れ混じりのものでもあった。
「うちの部が地区レヴェルで常勝を誇ってるのは、きちんとした練習をしてるからだよ。やった分だけ伸びて、ちゃんと結果が出るから楽しいし、人気もあるんだ。陽祐も入る?」
「三年になりかけた新入部員って? 遠慮しとくよ」思わず苦笑する。「それよりお前、俺は構わないから朝練出たら。せっかく早起きしたんだし、俺も一緒に行けばいいだろう」
「それは有り難いけど、でも始業式が始まるまで陽祐はどうするの。俺の朝練でも見学する?」
「空手に興味はない」ベーコンエッグと格闘しながら、陽祐は即答した。「ただ、誰もいないうちに校舎の中を見まわっておくのも悪くないでしょ。どこに何があるかとかさ」
「そうだね。陽祐、転校生だしね」大作は何が嬉しいのか満面の笑みを浮かべる。「わかった。じゃあ、一緒に行こう」
「ああ、その前にさ」陽祐は肝心なことを思い出して顔を上げた。
「なに?」
「俺にネクタイの結び方を教えてくれないか」
2
陽祐は腰を折り、膝に両手をつきながら酸欠と戦っていた。運動不足がたたり、軽く走っただけなのに横腹が痛い。乾いた口内を唾液で潤し、深呼吸する。微かに感じる吐き気を押し殺しながら、白丘一高の敷地を見渡した。学舎群は、想像よりも豪奢な外観をしていた。校門を潜ってすぐの左手には近代的な造りの綺麗な体育館が、右手には良く整備されたグラウンドが見える。その間を縫うようにして煉瓦敷きの洒落た坂道が伸びていて、奥に構える四階建ての建物まで続いていた。恐らく、それが本校舎なのだろう。
「よかった、なんとか朝練に間に合いそうだよ」
陽祐はその声で我に返った。見ると、大作が軽く息を弾ませながら腕時計を覗きこんでいる。陽祐からすれば余裕がありすぎるほどの登校時間なのだが、空手道部の早朝練習を控えた大作にとっては遅刻寸前だったらしい。おかげで甚だ不本意なことに、陽祐は彼に付き合わされて初登校からいきなり早朝マラソンを強いられることになった。
「ここが俺の学校」
大作が柔らかく微笑んだ。流石に空手道部で鍛錬しているだけある。体力の差は歴然としているようだった。
「思ってたより良い感じだな」
荒い呼吸を整えながら、なんとか笑顔を返した。始業式が始まるまで、まだ一時間以上ある。そのせいか校門付近は閑散としていた。グラウンドにジャージ姿の人影が幾つか見える以外、人気はほとんど無い。
「副部長、遅れるぞ」
不意に背後から男の低い声がした。振り向くと、黒髪を短く刈り込んだ制服姿の男子生徒がいた。良く見れば、その背に隠れるようにして女生徒も一人立っている。この時間帯に登校してきたことと大作を副部長と呼んだことを考えれば、恐らく空手道部関係の人間なのだろう。彼らは真っ直ぐに陽祐たちの元へ歩み寄ってきた。
「あと八分だ」男子生徒が、そっけなく告げる。
「あ、おはよう」二人と面識があるらしく、大作は男女に親しげな笑顔を投げかけた。
近寄ってきた見知らぬ男子生徒は、大作とは対照的な外見の持ち主だった。一口に言えば精悍。一八〇センチメートルを超えるであろう長身と、切れ長な鋭い眼が印象的だ。無表情であるにも関わらず、眼を向けられると睨まれているように感じるのもそのせいに違いない。髪質が固いらしく、大雑把に刈られた頭髪は半ば逆立っていて、それが外敵を威嚇するハリネズミを連想させた。硬い口調や態度を見ても、およそ社交的とは言い難いタイプだと思われた。一方の女子生徒は彼を盾のようにして後ろに控えているため、その姿貌を窺うことはできない。
「――先に行ってるから」
彼はチラと陽祐を一瞥するも、大して興味を抱いた様子もなく武道場らしき建物に向かって歩み去っていった。女子の方もその後を急ぎ足に追って行く。
「誰よ、今の」二人の後姿を見送りながら、陽祐は訊ねた。
「男子の方は、山下君。俺と同じクラスの人だよ。クラス変えがあるから、今年はバラバラかもしれないけどね」
「空手部の部員?」
「うん。山下君は強いよ。一年の頃からずっと全国大会の常連」
言いながら大作は歩き始めた。道場に直行した山下とは違い、陽祐を案内するために校舎の方向へ向かっている。
「女子のほうは」
「あの人もクラスメイトで、渡瀬さん。山下君と付き合ってるみたい」
「女子も空手をやんの?」
「ううん」大作は振り返らずに首を左右した。「ウチの学校に女子空手道部はないよ。でも渡瀬さんは、いつも道場に来て見学してる。山下君のマネージャーみたいな感じかな」
二人が付き合っているという話を聞いても、特に意外性は感じなかった。陽祐自身、特に女子――渡瀬の振る舞いから、それらしい雰囲気を感じたものだ。ただ、あの山下と恋人として付き合っていくのはなかなか根気のいることだろうとも思う。言葉一つ引き出すのさえ苦労しそうだ。
校舎へと続く煉瓦畳は、緩やかな上り坂になっていた。大した距離はなく、暫く歩くと昇降口に辿り着く。規模の差はあれ、こういう部分はどこの学校も変わらないらしい。規則正しく並ぶ下駄箱の列、土間に傷だらけの簀子、それに土埃にも似た独特の湿気と香りが周囲に漂っている。初めて訪れる転校先の学校にありながら、何か懐かしさすら感じるものがあった。
「とりあえず、俺のクラスに行く? 週番の人が来てるかもしれないから、案内を頼んでみてもいいけど」
靴を上履きに替えると、大作は学生鞄とスポーツバッグを抱え直しながら言った。
「週番なんてシステムがあるのか。こんな早くに学校に来て何するわけ」
陽祐には、もちろん割り当てられた靴入れもロッカーもない。脱いだ学校指定の革靴は、持参の袋に放り込んでおくしかなかった。改めて、この場所で新しく居場所を造っていかなければならないことを自覚させられる。
「陽祐の学校にはなかった? 二人一組の当番制になっていて、クラスの雑務をこなすんだよ。週番は皆より一足早く来て、教室の鍵を開けたり日誌をつけたりしないといけないんだ。こっち、二階だよ」
先導する大作の後に、陽祐は大人しくついて行った。校内は慣れ親しんだかつての学校と比較して、随分とこざっぱりとしていた。壁は新築のそれに近いくらいに白い。廊下に購買部のパンの包装が落ちていることもなかった。歴史の違いか、或いは生徒たちの素行の差がものを言っているのかもしれない。一口に高校と言ってはみても、システムと校風が違っただけでこれだけの差が出るということだ。転校は初めての経験ではなかったが、それでも軽いカルチャーショックは受ける。そもそも陽祐が知る高校という組織は、放課後の教室を施錠するようなお上品なものではなかったし、週番といった考え方も持たない存在だった。
「生徒は、何人くらいいるんだっけ」
「そうだねえ」大作は少し考え込む仕草を見せる。「全校生徒がどれくらいかは分からないけど、各学年にクラスは五つずつくらいかな。一クラスはだいたい三、四〇人くらいね」
そうなると、一クラス四〇人と考えて学年あたり二〇〇人。全校だとその三倍になる。
「多分、俺のところの半分以下だな」
ボソリと呟くと、大作は大袈裟に反応した。
「陽祐の学校って、そんなに沢山生徒がいたの?」
「俺のところは学科で分かれてたし、クラスは一〇前後あった。大体、ここより大きな校舎が三つあったよ」
「三つも」
なにやら大作は衝撃を受けたらしく、しきりに感嘆の声を上げていた。次いで陽祐に羨望と尊敬の念の入り混じったような視線を投げてよこす。お門違いである。学校の規模が大きかったのは、地域人口の絶対数に格差があるからであって、当然ながら陽祐が偉大であったからではない。
「東京ってのは欠点の方が多い場所だよ」陽祐は呟くように言った。「特に、無駄に人が多過ぎるって点は誰もが認めてる。だから出て来たんだろうな、俺たちは」
大作が昨年まで帰属していた二年四組の教室は、昇降口正面の階段を上りきったすぐの場所にあった。遅刻寸前で時間に追われている人間には、都合の良い場所だろう。
廊下の窓は、四組の向かい側に位置する部分だけが全て開け放たれていた。教室の中から小さな物音がすることから考えても、週番とやらは律儀に登校してきているらしい。大作が戸に手をかける。予想通り、それは既に開錠されていてスムーズにスライドしていった。
「あれ、井上君だ。今から空手部?」
教室に足を踏み入れると、机の配置を整えていたらしき女子生徒が虚をつかれた顔で陽祐たちを見やった。女性にしては長身の部類に入るだろう。一七〇センチ強の陽祐と背丈はほとんど変わらない。背中の半ばまで伸びる黒髪を無造作に後ろで束ねている。多少気の強そうなところはあるが、パッチリとした大きな眼をアクセントに、全体的に整った顔立ちをしていた。
着用しているのは勿論のこと学校指定の制服で、男子のスラックスをそのまま長めのスカートに変えたものだった。上半身は白い無地のブラウスに、緑色の縁取りがされた黄色いセーターを着ている。先ほどすれ違った渡瀬は更にブレザーを羽織っていたが、週番の彼女は室内ということもあって脱いでいるようだった。
「おはよう。俺は部活の朝練だけど、もう来てるってことは持田さんが週番?」大作が訊く。
「と、亜紀がね。でもあいつ、きっと忘れてると思う」
そう言って、持田と呼ばれた週番生徒は屈託なく笑った。どうやら外見と喋り方から推測できるように、竹を割ったような性格をしているらしい。付き合いやすそうな娘ではある。陽祐の第一印象だった。
――と、彼女と眼が合う。見慣れない顔を不思議に思ったのか、少しだけ首を傾げたように見えた。その何気ない仕草に、陽祐は何か既視感のようなものを覚えた。
「友達?」と、持田が大作に問う。
「うん。今日からの転校生なんだ」
大作は自分の席に向かいバッグを下ろしながら、陽祐のことを簡単に紹介した。陽祐はドアの前に立ったまま、ぼんやりとそれを眺める。いつだってそうだが、陽祐は初対面の人間とのこういうやりとりが苦手だった。人間関係が広がるのは結構なことかもしれないが、その関係を構築するまでの過程に煩わしさを感じてしまう。
「秋山……」
名前を聞いた瞬間、持田はじっと陽祐を見詰めながら何か思案するような素振りを見せた。実を言えば陽祐も、先程の奇妙な既視感の心当たりを探っている最中だった。が、何も思い出せることはない。
「もしかしてTVとかに出てる人?」
持田は不思議そうに小さく首を傾げた。その発想がどこから出てきたものかは分からないが、陽祐は生憎と俳優でもタレントでもなかった。
「いや、TVに映ったことは今まで一度もない」
「そう。まあ、いいや。私、持田|明子《あきこ》です。宜しくね」
あまり深刻に物事を考えないタイプなのだろう、持田はあっさりと思考を放棄して微笑みかけてきた。
「――宜しく」
とびきりの笑顔に少し戸惑いながらも、陽祐は返す。
これで、この学校に早くも二人の知り合いを用意できたことになる。大作の話だと、現在のクラスは進級に従って一旦解散され、希望する進路ごとに再編成されることになるらしい。転校生である陽祐がどこに配置されるかは分からないが、彼らのどちらかとでも一緒ならば少しは周囲に馴染みやすくなるかもしれない。なんとなくそう思った。新たな環境での生活に無意識の不安を感じている自分を、今更ながらに再認識する。
「ねえ、持田さん。時間があったら陽祐に校内を案内してあげてくれないかな」妙案を思いついたという表情で大作が言った。「本当なら俺がそうしたいとこなんだけど、部活があるから」
別に放っておいてもらって構わない、そう口を挟もうとしたが持田に先を越された。
「いいよ、もうやることもないし」
即答だった。考える素振りすら見せない。
それを受けて満足そうに頷くと、大作は彼女に礼を言い残して教室を出ていった。慌しく駆け去って行く足音から察するに、従兄をここまで案内した分だけ遅刻の危機に迫ってしまったのだろう。
「で、秋山君だっけ。どこから見たい?」
気付くと、いつの間に距離を詰めていたのか持田がその大きな瞳で陽祐の顔を覗きこんでいた。
それから数分もしないうち、彼女に案内を任せることになった自分の悲運を、陽祐は大いに呪うことになった。人は良いが、詮索好き。家族構成から転校に関する事情、果ては趣味や異性の好みに至るまで、洗いざらいを持田に白状させられたのである。
陽祐にしてみれば、あとは彼女が詮索好きなだけで噂好きではないことを祈る他なかった。
3
梓が熱を出した。一七時半に病室を訪れたときから既に顔が若干赤らんでいたため心配はしていた。体調を訊くと、本人が「大丈夫だよ」と微笑んで見せたため気にしないようにしてはいたのだが、一八時に用意された夕食をほとんど口にしなかったため再び気になりだした。額に手を当ててみると、明らかにそれと分かるほど身体が火照っている。それも七度前後の軽いものではない。高熱だった。一言も喋らず、潜水を終えて浮上してきたかのように喘ぎ出した娘を見て、悟子は看護師を呼び出した。
すぐに飛んできた若い看護婦が検温の準備を整えているのを見守りながら、悟子は壁に寄りかかってこの状況について思案していた。
梓が高熱を出すのは珍しいことではない。彼女の病気の特性を考えれば、むしろ頻繁に起こり得ることだった。
問題は発熱そのものにはない。それが二日前に、とある少女の口から予告されていたということに意味があるのだ。ふらりと病室に現れ、梓の名前と <第四の選択肢> という一文が添えられた奇妙な紙片を置いていった娘だ。梓本人に確認してみたが、どうも友人知人の類に思い当る子はいないらしい。
一言一句を覚えているわけではない。しかしその少女は、確かに二日後の夕方に梓が熱を出すこと、それが三九度まで上がるであろうこと、解熱剤で翌朝には平熱に戻ること、目覚めたときアップルジュースをせがまれるであろうことを予言していった。そのことは状況が異常だったせいもあり良く覚えている。
腕時計に目をやる。一八時二七分。解釈次第では、まだ夕方の範疇にあると言っていい時間帯だった。そうなると最初の項目――二日後の夕方に発熱するというのは、取り敢えず的中したことになるだろう。
偶然と考えることも容易だったが、悟子にはそう割り切ってしまうことが戸惑われた。突然やって来たあの黒髪の少女は、未来を予見する言葉を他にも数多く残していった。かなり具体的な言及もされており、その中には梓の死亡日時といった無視し難いものもあった。これらをはっきりとした数字で示したのは何故か。的中することに確信を抱いているからではないのか。
測定の結果、もし梓の体温が三九度だったと言われたら。解熱剤で明日の朝に平熱に戻ったら。そして目を覚ました彼女にアップルジュースを所望されたら。あの少女の言葉を信じるべきなのだろうか。そしてその提案について真剣に検討してみるべきなのか。
否、たとえ彼女の予言が全て的中しても、その程度ならまだ偶然の一致の範囲内で片付けられる。それに、院内の販売機で購入できる果汁一〇〇パーセントのアップルジュースは梓の好物だ。そういった情報を集めて細かく分析すれば、ある程度の未来を予測することは不可能ではなくなる。いずれにしても、確証を得るまでの話ではない。
だが、そう考えてもまだ気になることはあった。「判断材料はこれから追い追い提供させてもらう」という少女の言葉を悟子は覚えている。あの娘は、今後なにを仕掛けてくるつもりなのか。何を目的として梓に接近してきたのだろう。
「はい、いいよ」
看護婦の猫なで声で我に返った。聞き落としたが、測定終了の電子音が鳴ったのだろう。二〇半ば程度の若い看護婦は、梓の左脇から体温計を取りそれを覗きこんでいる。
「あ、ちょっと高いですね」
彼女は悟子と目を合わせて言うと、持参してきたクリップボードの用紙にペンを走らせた。恐らく体温を記録しているのだろう。
「高いというと?」
無論、具体的な数値を確認しておく必要があった。
「三九度ちょうどです」看護婦は体温計をケースに戻しながら言った。「梓ちゃん辛そうですし、解熱剤を用意しておきましょうね」
後半の言葉は、優しく梓に言い聞かせるものだった。看護婦は汗で湿った梓の髪を撫で、乱れた毛布をかけなおすと、「ちょっと待っててね」と言い残してそのまま退室していった。すれ違うとき女性の甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「親切な看護婦だね」
「ミエちゃんだよ。辻本美絵子で、ミエちゃんなの」
りんごのような赤い頬をして、梓は言った。言葉と共に熱い吐息が漏れているのが分かる。熱に慣れつつある彼女は、ここまで熱が上がってもまだ喋るだけの余裕があるようだった。
「いっつも遊んでくれるよ」
「そう、良かったね」
この病院の関係者たちは、何故だか知らないが異様なほど愛想が良い。良すぎて困惑させられたり、時に迷惑に思えたりするほどだった。彼らは悟子にも、まるで患者を相手にするように優しく丁寧な接し方をする。コーヒーを差し入れてくれることもしばしばだし、梓の様子をうかがいに来てしばらく話しこんでいくことも、ナースステーションを横切ると取り囲まれて往生するのも珍しくないことだった。
悟子がいないところでも梓には非常に良くしてくれているらしく、今日はこんなことをした、あんな話をしたという娘の報告からすると、暇を見つけては遊び相手や話し相手を務めてくれているようである。気配りの行き届いた、優秀なスタッフが整っている。大学病院のシステム、ひいては医療体制そのものになら不満は腐るほどあるが、少なくともその中で望める最良の環境がここには揃っているのではないか。それが悟子の当院に対する印象だった。
「それにしても三九度は高いな。辛いでしょう、今夜はゆっくり休みなさい」
娘の傍らに歩み寄ると、その小さな額に手のひらを乗せた。こうすると梓はいつも喜ぶ。悟子の手は冷たいらしく、熱があるときに触れられると心地よいのだそうだ。
「看護婦が解熱剤を投与すると言ってた。明日の朝にはきっと熱も引いてるよ。目がさめたらジュースを買ってあげる。喉が乾いてるだろうから」
梓は力なく微笑んだ。熱で朦朧としているのだろう。こういうときは思考もうまく働かないものである。考えずに眠れという身体の主張なのかもしれない。できるなら、自分もあらゆる思考を放棄して休みたかった。これ以上思案に暮れていると、触れるべきではない何かに触れてしまうような気がしていた。
三九度ジャストまで上がった熱。そのタイミング。そして解熱剤。少女の言葉は、現状で確認できる範囲内では全て現実のものとなった。恐らくは明日の朝、梓の熱はきれいに引いていることだろう。そしてアップルジュースのことを言い出すに違いない。彼女の予言通りに。認めたくはないが、なんとなくそう思えてくる。
先にジュースのことを話題にしたのは、梓がそのことを口にする必然性を作りたかったからだ。これで少女の言葉がなくても、梓がアップルジュースを欲しがる可能性は高まる。せめてもの抵抗だった。
――しかし、なぜ分かったのだろう。どうしてこれらのことを二日も前から見通すことが出来た?
なにか裏があるはずだった。自分が知らない何らかの手段で、発熱のタイミングをある程度までは予測しうる方法があるのかもしれない。否、あるのだろう。それは同じ病気にかかった人間の統計的なデータから算出したものかもしれないし、免疫学上の専門知識や薬剤の副作用などから計算できるものかもしれない。
いずれにせよ、夕方に出た熱なら解熱剤の投与で翌朝までに平熱に戻せる公算は大だ。合わせれば、あの少女と同じ予言ができる。トリックとは常にインフォリッチとインフォプア、つまり人によっての情報量の格差を突くものなのだった。だまされる側がタネや仕掛けを知っていたら、マジックはショウとして成り立たない。この場合も恐らく同じことが言えるのだろう。
仕掛け人は誰か。医学に通じていることは大前提だった。また、梓の病状や予後の経過、薬剤との相性、それに加えて性格、食べ物の好みなどを把握している人間でなければならない。条件に合致する者は極めて限られてくるだろう。梓ほどの大病となると、カルテだけでは窺い知れない部分も出てくるはずだ。だとすれば、直接的に梓の治療に関わっているスタッフということになる。具体的に言えば主治医を務める三人の医師、それに看護師たちか。
問題は、そこにあの見知らぬ少女の姿が浮かび上がらないことだ。彼女は明らかに医療関係のスタッフではなかった。恐らく誰かに命じられてメッセンジャーの役割を果たしただけなのだろうが、そうだとすると何故そんな役者を使ったのか、という疑問に突き当たる。代理人の口を使わなければならない理由。つまり、直接自分と顔を合わせるわけにはいかなかったからだろう。何故なら、その顔は既に悟子に知られたものだったからだ。
この説なら、色々な面で話が合う。やはり当面は、この件の裏に当院の関係者が関与していると考えるべきかもしれない。
悟子は、今後その面からもスタッフたちを厳しく観察することを決めた。
4
この世は恐らく面倒事で成り立っていて、生きるということはその処理の連続なのだろう。秋山陽祐は、そう思っていた。物心ついた時には既に母親がいなかったことも、父親が急に海外転勤になったのも、それに伴い北の辺境の地で独り暮しをすることにったのも、きっとその一環に過ぎないのだ。もちろん、思い出したように発生する <摩り替わり> はその最たる例である。問題は、そうした面倒事、厄介事が引き起こす環境の変化に、どう対応していくかだった。自分が、決してそういう意味で器用な人間だとは思わない。それでも、経験によって培ってきた己の適応能力にはそれなりの自信があった。
当然、転校などという生易しい環境変化は、もはや事件の内にも入らなかった。しかもそれは現実に起こりうる、因果関係のはっきりと知れた出来事なのだ。処理もお手のものである。
それにしたところで、高校に入ってから初めての転校――その記念すべき初日は、陽祐が想定していたそれより随分と順調に事が運んだように思われた。
抱えている諸々の事情もあり、陽祐は人的ネットワーク維持、拡大を意図的に抑制している。だが、今回はどうだろう。大作がもたらした縁のおかげもあってか、既に何人かの顔見知りができていた。クラス編成の結果、彼らと同じ三年二組に編入されたことも大きな幸運だった。或いは不運か。
今日一日で、新しく知った顔と名前とを思い浮かべてみる。自分でも驚いてしまうほどの数だった。大作と同じ空手道部に所属する山下を筆頭として、その恋人である渡瀬。数学を受け持つという担任の本間龍二。なにより、フルネームを覚えてしまうほど仲良くなってしまった持田明子だ。
週番で早めに登校していた彼女は、部活の関係で何かと忙しい大作よりも、結局一番長く同じ時間を共有することになった相手ではないだろうか。分かりやすい性格もあって、彼女の人間性をある程度理解することはそう難しくはなかった。今の段階で「持田とはどんな人間か」と問われたとしても、自分なりに何か一言くらいは解答を返せるかもしれない。
無人の自宅に帰り着くと、陽祐はそんなことを考えながら大雑把に一日を振り返っていた。無意識に緊張していた部分もあったのか流石に多少疲れてはいたものの、概ね順調な滑り出しだったと言えるだろう。カメレオンのように慌てず騒がず周囲に溶け込んでしまえる技術のおかげもあるが、お節介で世話好きな大作や持田の存在もある。クラスには思っていたよりすんなり馴染めそうな気がした。明日からもきっと上手くやっていける。
制服を脱ぎ服を部屋着に替えると、陽祐は一階に下りて夕食の用意にかかった。学校は始業式だけだったので、午後には解放された。大作は式が終わると空手道部に直行したため、下校は一人だった。途中見つけたラーメン屋で軽い昼食をとって街をぶらついて帰ってきたのだが、帰宅してみても昨日シンガポールに旅立った英文の姿は当然ながら見られない。朝食は別だが、今後は一人きりで食事をとる機会が増えるだろう。
昨日のうちに様々な食材を買い集めたため、冷蔵庫の中身は充実していた。とりあえず適当な食材を選び出し、今日のところは自炊して何か見繕うことにする。昼食に限っては持田に案内してもらった学食で済ませるか、購買部でパンを買うかすればいい。だが、夕食はこうして自分で拵える日々が続くことになりそうだった。もっとも、父子家庭で育った陽祐にとっては、自炊するのも一人で食事をするのも極めて自然なことではある。
陽祐は、食材豊富な冷蔵庫に麺とソースを発見した。あり合わせの野菜と豚肉を混ぜて焼きそばを作ることにする。フリーザから豚肉を必要な分だけ取り出し、適当な大きさに切る。キャベツや人参などの野菜も刻んだ。フライパンはダンボール箱の中からすぐに見つかった。薄く油を引いて、まず一番火の通りにくい豚肉から炒める。静かなダイニングキッチンに、油の弾ける小気味の良い音と豚肉の焼ける香ばしい匂いが充満した。
その時、稀にしか見られない出来事が脳内で起こった。自分が、何気ない作業中にこそ直感的な閃きを得やすい性質であることは知っている。その典型的な一例となる現象に見舞われたのだ。
軽く水を振りながら麺をほぐし、ソースをかけるタイミングを見計らっていた瞬間である。突然、まるで外部から恣意的に挿入されたかのように、「持田明子」の四文字が脳裏に浮かび上がった。同時に、幼い頃の記憶が断片的に――だが鮮明に蘇る。
陽祐には幼稚園から小学三年生に至るまで、非常に懇意にしていた人物がいた。アパートの隣室に住まう一家の一人娘だった。陽祐より一年近く遅く生まれたものの学年は同じ。当時、家族ぐるみの付き合いもあり、二人はいつも仲良く一緒に遊んでいた。花の咲くような笑顔。くるくると良く変わる表情。そして愛嬌ある大きな瞳が印象的なその彼女に、もしかすると陽祐は淡い憧憬の念さえ抱いていた。
小三の終了式直後、彼女が両親の仕事の都合で遠い北の街に引っ越していくまで、両家の交流は絶えることなく続いていたはずだ。その娘が家まで迎えに来てくれて、毎朝一緒に登校したのを覚えている。忘れかけていた、だが懐かしくて大切な思い出だった。チャイムの音を聞いて急いで靴を履き、玄関のドアを開く。瞬間、そこに覗く幼く陽気な笑顔が――今朝見た、持田明子のそれと重なる。
脳天から突き刺さり、爪先に抜けていくような戦慄に鳥肌が立った。もどかしくコンロの火を消すと、全速力で二階に与えられた自室に向かって走った。二段越しに階段を上り、力任せにドアノブを捻って部屋に飛び込む。向かったのは新品の黒い学習机だった。電気スタンドさえ置かれていない卓上には、無造作に放置されたメモ用紙がある。駆けつけたままの勢いで覗きこむと、紙片に刻まれた明朝体が網膜に焼きついた。
旧知のメーコ
第一の選択肢
なぜ忘れていたのか、自分でも信じられない。一昨日見たときに気付くべきだったのだ。生温い汗が、焦れったいほどゆっくり背中を伝っていった。
メーコ。確かに、幼い日の陽祐は彼女のことをそう呼んでいた。恐らく六歳、小学一年生に上がったばかりのことだ。持田明子の「明」の字がアキとだけでなくメイとも読めるという事実を国語の授業で習った。新鮮な発見だった。それがきっかけで、彼女の呼び方を変えた。何でも良いから覚えたての音読みを活用してみたかったのだ。もちろん、本人はそれを歓迎しなかった。当初は渋い顔をしていたような気がする。それでも彼女は、陽祐の呼びかけに振り向いてくれたのだった。
分かってるよ。いちいちメーコはうるさいな。メーコ、宿題見やった? 今日二日で、ぼく出席番号二番だから先生に当てられるかも。メーコ、帰ろうぜ。ぼくがチビなんじゃなくて、メーコがデカいんだよ。メーコ、引っ越すって本当か?
メーコ、メイコ。明子。
何度彼女をそう呼んだことだろう。その度に、彼女はいくつの微笑を返してくれたことだろう。持田明子は、秋山陽祐にとって常にメーコだった。この紙片は、まさにそのことを指摘している。
旧知のメーコ――すっかり忘れていたが、確かに陽祐は彼女を知っていた。まるでこの紙片の記述にそう導いたかのごとく、メーコこと持田明子と、今朝およそ七年ぶりの再会を知らぬうちに果たしていたのである。
5
友人に良く指摘されることであったが、井上大作の朝は早かった。理由を言えば、誰もが納得する。白丘一高空手道部副部長として、部の早朝練習を監督する義務があるからだった。起床は決まって六時ちょうど。長年守り続けた習慣であるため、今では目覚し時計や他人の助けをかりなくても、時間が訪れれば身体が勝手に目覚める。
四月八日も、大作は定刻通り起床した。普段と比較すると、あまり良い寝覚めではなかった。天気が悪いのかもしれない。外が曇っていたりすると、良くあることだった。
頭を軽く左右し、ベッドから抜け出した。身体に染み付いた習慣的動作にまかせ、手早く登校の準備を整える。このあと最初に取りかかるべき仕事は、庭先まで新聞を取りに行くことだった。いつものように玄関のドアを開け、門の脇に取り付けられたポストに向かう。
案の定、今年度はじめて迎える週末の朝は生憎の雨模様だった。全天に暗雲が垂れ込め、辺りはまだ夜明け前のように薄暗い。静かに降る小雨は街を濃い灰色に変えていた。湿り気を帯びた空気がまとわり付いてくる不快感に、思わず微かに顔をしかめてしまう。濡れないよう小走りに駆け、ポストの裏蓋を開けた。ビニール袋に入れられた朝刊を手早く引っ張り出す。水滴の付いた雨除け越しに、一面を飾る記事の大きな見出しが眼に入った。江刺市で先週から話題になっている、幼児連続行方不明事件の続報であるらしい。
雨が入り込まないうちにすかさず裏蓋を閉めようとしたが、ポストの中に白い郵便はがきのような物が一枚、取り残されていることに気付いた。正月の年賀状でさえ朝の六時に配達されるということはない。流石に訝しく思ったが、母親が昨日、気付かずに取りそこねたものだと判断した。その郵便物をポストから取り出し、新聞と一緒にブレザーの懐に庇いながら家に戻った。
短い廊下を歩いてダイニングに続くドアを開けると、部屋には明かりが灯っていた。耳には、TVから流れてくるニュース番組の軽やかなBGMが聞こえてくる。
「おはよう、大作」
キッチンから、少し篭ったような友子の声がした。彼女はいつも、息子が新聞を取りに行っている間に起き出してくる。既に一通りの身支度を済ませ、いつものように朝食の準備に取りかかっているようだった。
「おはよう。母さん、手紙が来てたよ」
「手紙? 誰から」
その言葉で、大作は手にした郵便物を改めて観察してみることになった。サイズや紙の質感から、それは何の変哲もない官製はがきに見えた。最初に眼に入ったのは裏面らしく、黒い文字が横書きにしてある。読む気はなかったのだが、短い一文が記されていただけなので無意識に頭の中に刻み込まれてしまった。それは「四月九日」という明日の日付に、「被疑者確保 三二歳男性 飲食店従業員」というメモのような書き込みが添えられたものだった。手書きではなく、明らかに何らかの手段で印刷した文字である。
表に返してみると、そこには「秋山陽祐様」と大きくあった。恐らく宛名のつもりなのだろうが、その他には郵便番号や宛先の住所、差出人の氏名、切手の貼られた形跡や消印の跡なども全くなかった。
「陽祐に来たはがきみたいだね。でも差出人の名前がないな」
それを聞いても、友子はさほど興味を持たなかったようだった。ダイレクトメールの類は日頃から多いし、引っ越してきたばかりということもあって、ポスティングのスタッフが誤配することもあり得るだろう――とでも考えたに違い。
「陽ちゃんが来たら渡してあげると良いよ」
母のその言葉に頷き返すと、タイミング良く玄関のカウベルが鳴った。次いで「おはようございます」という、陽祐のあまり景気が良いとは言えない挨拶が聞こえてくる。廊下に続くドアを開けてやると、彼はまだ眠気が抜け切らない顔でのっそりと姿を現した。ネクタイの締め方を未だに覚えられないらしく、首からタオルか何かのようにぶら下げているのが滑稽だった。新品同様のブレザーの肩には、弾かれた雨粒が数滴散っている。
「また今日も早いね」大作は壁掛け時計を確認した。「まだ七時三分だよ」
「俺、学校大好きだからな」
陽祐は全く説得力のない表情と口調とで言った。恐らく低血圧なのだろう。ここ数日で明らかになった――もしくは再発見した――ことだが、朝早くの陽祐は口を開くのさえ面倒だというような顔をしていることが多い。声をかけても、返って来るのは仏頂面から発された機嫌の悪そうな声ばかりである。
「今日もお前と一緒に行くから」
勧められるより早く、陽祐は自分から椅子を引いて食卓についた。平時の彼はどちらかというと礼儀正しく、控えめなところがある。起き掛けのときばかりは、その限りにないようだった。
「なんで?」
大作はテーブルセットを回り込んで、陽祐の対面に当たる自分の定位置に腰を落ちつけた。キッチンから炒め物の音が聞こえてくることからも分かるように、朝食の準備はまだ整えられていない。卓上にはティセットが並んでいるだけだった。
「持田って女子がいただろ。あいつにちょっと話があるんだ。昨日の話によれば、なんの不幸かまた週番に当たったらしいからな」
「なるほど。持田さん、可愛いもんね」
「不細工じゃないのは認めるが――」陽祐は低い声で言いながら、牽制するように鋭い視線を向けてきた。「そんなんじゃない」
「そう? 昨日でかなり仲良くなったように見えたけど」
ティポットを持ち上げ、カップに二人分のコーヒーを注ぐ。片方を陽祐に渡した。彼は無言でそれを受け取り、顔をしかめながら一口飲んだ。
「あいつはお前と同じなんだ。誰とでもすぐに仲良くなれる」
それは何をもって仲が良いとするかにもよると思ったが、陽祐とそのことで議論するつもりはなかった。それよりも優先して伝えるべきことを思い出す。
「そう言えば、陽祐に手紙が来てたよ」テーブルの片隅に置いておいたそれを、卓上を滑らせるようにして陽祐の前に持っていった。「どうも配達した人が間違えたみたいで、ウチのポストに入ってたんだ」
それからの陽祐の反応は、ちょっとした見物だった。それほど興味を持った様子もなく最初は面倒そうに取り上げたのだが、内容に目を走らせた途端、彼はその表情を激変させた。誰が見ても明らかな驚愕の表情である。同時に、ただでさえ優れなかった顔色がほとんど土気色と言えるまでに失われていった。
「どうかしたの」
心配になってきて問うたが、しばらく答えは返らなかった。こうなると、大作は彼が落ちつくまで待つよりほかない。数分後、キッチンカウンターの向こうからベーコンの焼ける香ばしい匂いが広がり始めた頃、陽祐はようやくその重たい沈黙を破った。
「これ、いつ見つけた?」
「さっきだよ。陽祐が来る何分か前」
「お前が書いたんじゃないんだな」
陽祐は俯くようにして手紙に視線を落としたまま言った。
「なんでそんなこと訊くのさ? 俺が書くわけないよ」
「確認しただけだ」陽祐は自棄にやったような口調でテーブルにはがきを放り出した。「読んでみろよ」
「これがどうかしたの」
大作の代わりにそう訊ねたのは、出来あがった朝食をトレイに載せて運んできた友子だった。彼女は物珍しそうに陽祐のはがきを覗きこんでいる。釣られるようにして、大作も再びそれを読み返した。
四月九日
被疑者確保 三二歳男性 飲食店従業員
「被疑者って、警察用語で犯人のことでしょう?」友子が誰に問うでもなく呟いた。「なんか、ニュースみたいな手紙だねえ」
「でも日付は明日のもんですよ。これがニュースなら、一日未来からタイムスリップしてきたことになる」
陽祐が幾分声音を和らげながら指摘した。
「変な手紙だね。飲食店従業員ってことは、レストランとかで働いてる男の人が犯人ってことかな」
「なんの事件の?」大作の言葉に、友子は不思議そうな顔をする。
「そんなこと俺に分かるわけないよ」
「とにかく、俺にはこんな郵便が送られてくる心当たりなんてない。誰がしかけた悪戯かは知らないけど、朝のクソ眠いときにこんなもん見せられれば気分だって悪くなるよ」
陽祐が不機嫌そうに訴える。
「そうかもしれないけど、でも俺が書いたわけじゃないしなあ」
「分かってる」陽祐は汚物を見るような眼でハガキを睨んだ。「多分、これを書いたのはお前じゃない。叔母さんでもない。だから不気味なんだろ。誰だか知らないが、何だってこんなワケの分からないことをやるんだ」
「陽ちゃん、それストーカーとかいうのじゃないの?」
友子が毛虫を見たときそっくりの表情で言った。彼女は足が無いのに前進する生物と、足を六本以上使って前進する生物を極端に嫌う。
「そうだ。そうかもしれないよ、陽祐」
この際、自分の嫌疑が晴れるなら何でも良かった。渡りに船と、大作は母の仮説に飛びつく。だが当の陽祐は浮かない顔だった。
「ストーカーか。そんな可愛いもんなら良いんだけどな」
「陽祐は、何かストーカー以外に心当たりがあるの」
「ないさ」陽祐はじっと紙面に視線を向けたまま言った。「それを言うなら、ストーキングされる謂れだってないだろう。引っ越してきたばっかりなんだしな」
「じゃあ何だろうね」
「分からない」彼は何か考えこむような様子を見せながら、低く呟いた。「なんであろうと、こいつは気に入らないね。陰湿な悪意を感じる。気に食わねえよ」
6
持田明子は開け放した窓から顔を突き出し、朝の新鮮な空気を可能な限り肺に満たした。貸切状態の教室では、何の遠慮もいらない。つま先を伸ばし、両手をあげて大きな伸びをする。
天気は悪かったが、気分はそれほど悪くなかった。あまり続けば話は変わってくるが、そもそも雨は嫌いではない。
何かを嫌いになるより、好きになる方が得意だった。週番の仕事もそうだ。皆は嫌うが、自分はそれほどでもない。朝早く校舎に足を踏み入れ、その静けさに浸るのも悪くないではないか。何しろ、その一時だけは世界を独り占めしているような錯覚を味わえる。
週番でない日に睡眠時間を削ってまでこれを得ようという気にはなれないが、当番が回ってきたときは存分にこれを楽しもう。それが明子の考え方であった。
だから今朝も、明子は気分良く登校した。学校に着いたのは七時半。直接向かった職員室で鍵を受け取ると、教室のロックを解除し室内の窓という窓を開いて空気を入れ替えた。朝の空気は、やはり日中のそれとは違った味がする。たっぷりそれを味わった後、蛍光灯のスイッチを入れて机の列を整えていった。手早くそれらの作業を終えると、窓際に寄ってそこから見下ろせる無人のグラウンドを眺める。今日は生憎の雨模様で、いつもなら早朝練習に勤しむ部活動の生徒も見当たらない。代わりに空手道部が使用している武道場から、薄い橙色の明かりが漏れ出しているのが見えた。
週番は本来なら二人一組で担当する規則なのだが、チームを組んだ男子生徒が姿を現す気配はなかった。春は冷暖房を入れる必要もなく、放課後施錠したと見せかけて鍵をかけないまま帰宅すれば、朝の仕事をサボタージュできる。そのせいで、生真面目に責務を果たそうとする者がある一方、一度もその責任を全うしない生徒も出てくるのだった。
別にそれでも良い、と明子は思う。どんな考えを持ち、どんな生き方をするかは人それぞれだ。閉口したくなったり、眉をしかめたくなったりすることもあるし、時に憤りさえ覚えることもある。が、他人のそうした部分に口出しすることは避けたい。是非を問うことはしたくない。自分とは違った価値観や考え方を否定したり排除したりしようとする姿勢は嫌いなのだった。他人の振りは、自分の振りを直すための物だと考えれば良い。あとは、自己嫌悪や後悔をすることのないよう己の行動のありかたを考えるだけである。どうせ週番の仕事は別に嫌いではないし、相棒役をすっぽかされても負担はそうないのだ。めくじら立てることもないだろう。
そんなことをぼんやり考えていると、突然、背後で扉の開く音がした。まだ予鈴が鳴るまでには随分と時間がある。週番の相棒が登校してきたのかと振り返ってみたが、そこには週番とは全く関係のない男子生徒が立っていた。彼も明子に気付いたらしく一瞬眼が合う。だがそれも一瞬のことで、彼はすぐに視線を逸らし自分の席に歩いていった。
背の高さは一七三センチの明子と同じか、気持ち高いくらいだろう。髪の長さやセット、流行のカットなどにはまるで興味がないらしく、無造作に切り揃えられた長くも短くもない頭には寝癖のあとが微かに残っていた。目鼻立ちは可もなく不可もなくと言ったところか。細く真っ直ぐな眉はくっきり目立ち、そのすぐ下に一重の目蓋と切れ長の瞳がある。洗練されているとまでは言わないものの、首都圏から越してきただけあって地元の同級生たちより幾分垢抜けした雰囲気があるような気もする。
「秋山君、おはよう」明子は友好的な微笑を浮かべ、転校生の席に向かった。記憶が確かなら、彼は始業式の日も随分と早く登校してきていたはずだ。「ホームルームが始まるの八時半だよ」
「知ってる」
「じゃあ、何でこんなに早く来たの」
少し躊躇ったが、結局彼の一つ前の椅子を引き横向きに腰掛けた。転校生と向き合う格好になる。
これも週番の役得の一つだった。思いがけず早く登校してきた生徒と、二人きりでゆっくりと話が出来る。明子の記憶する限り、これが機会となって友人付き合いするようになった人たちが何人かいた。
「もう一人の週番は? 二人一組なんだろ」
そう言って彼は周囲に視線を巡らせた。
「まだ来てない」明子は肩を竦める真似をしてみせた。「すっぽかす気かもしれないね」
「じゃあ、ちょうどいい。ちょっとあんたに話があったんだ」
「私? なんの話」
相手の思いのほか真剣な表情に、思わず居住まいを正す。彼は一瞬言い淀んだような仕草をみせてから口を開いた。
「俺の名前、知ってるよね」
「秋山君でしょ?」
「違う、氏名の名――ファーストネームだよ。俺の下の名前は陽祐っていうんだ。字は太陽の陽に、祐天寺の祐」
祐天寺と言われてみても、明子はそれを知らなかった。浄法寺町に天台寺という大きな寺があるが、これとは全く関係のない、恐らくは東京の寺院なのだろう。
「あんたさ、ガキの頃、メーコって呼ばれてたことないか」
「えっ」
「メーコだよ。そういうあだ名を付けられたことないか?」
一瞬、自分の体が打たれでもしたかのように跳ねあがったような気がした。――メーコ。その言葉が、散りばめられていた情報の断片を急速に接合させていく。既視感めいたものを通じ、一昨日から明子に何かを伝えようとしていたイメージだ。
メーコ。秋山。転校生。ようすけ。転居。かつての愛称。
やがてそれは、ジグソーパズルが組み合わさっていくようなプロセスを経て、脳裏に形となった。忘れていたのではない。諦めることを恐れ、記憶の深層に封じ込めていたことだった。
「え、じゃあ――秋山君があの陽ちゃんなわけ?」
確かに小学生の一時期、アパートの隣の部屋に住む同い年の子にメーコと呼ばれていたことがある。あんな奇妙なニックネームを付けられたのは後にも先にもあれ一回きりだった。
「うそ、本当に?」
明子は眼を見開いて叫んだ。同時に、食い入るように彼を注視する。言われてみれば、面影は残っているような気がした。井上大作に紹介されたときに得た奇妙な感覚は、つまりこのことを告げていたのだ。
「陽ちゃん、か。確かにお前たちはそういう風に呼んでたよな」
彼は懐かしさ故か、照れたような苦笑を見せた。
「凄い偶然じゃない。どれくらいぶりだっけ」
勢い込み、思わず身を乗り出すようにして問う。
「分からないな。六、七年は経ってると思うけど」
「驚いたなあ、もう。信じてもらえないかもしれないけど、陽ちゃんのこと時々は思い出したりもしてたのよ。今ごろ何してるかな、とか。どんな風になったかな、とか」
事実、離れ離れになった後も手紙や年賀状で連絡をとろうと試みた。だが、そのうち何通かには返信があったものの、いつからか転居先不明で郵便物が送り返されてくるようになったのである。番号が変わったのか、電話も通じなくなった。あの時は、ついに関係が断絶したのだと子供心にも悲しく思ったものだ。
「信じるよ。俺は昨日思い出すまで忘れかけてたけど」
「それって酷くない? 私はちゃんと覚えてて、心配とかもしてたのに」
唇を尖らせて見せながらも、明子は自分が思わぬ偶然に興奮しつつあることを自覚していた。同時に、転校生――秋山陽祐が不自然なほど落ちつきを払っていることにも気付く。最初は、ドラマでもあり得ないような再会劇に戸惑っているのかとも思った。が、注意深く観察してみると、どうもそれだけではないような気がしてくる。自分が喜ぶことを、相手も同じように受け取るとは限らない。明子は、自分たちの年齢が物事を必要以上に複雑化してしまうことがある事実を知っていた。アプローチの方法を変え、相手がこの状況をどのように受け止めているか、まずは確認しなければならない。
「で、今まで何してたの」明子は口調を落ち着けて問うた。「どうして転校してきたんだっけ」
「一昨日、散々そのことを喋らされたような気がするのは俺だけか」
陽祐は溜息をつきながら、呆れたような視線を向けてくる。
「あ、そうか。あれからシンガポールに引っ越したんだっけ。道理で年賀状が届かなくなるはずだよ」
「シンガポールだけじゃない。埼玉にも行ったし、東京にも引っ越した。うちは引越しが多いんだ」
彼はぶっきらぼうにそう言うと、見慣れたコンビニ袋から缶コーヒーを取り出した。学校の真向かいにある店で登校途中に買ってきたのだろう。
「俺は――」陽祐は、プルタブに指をかけたまま動きを止める。少し戸惑った様子を見せながら言った。「どこか変わったか」
「顔は凄く変わった気がするね」言いながら、無遠慮に彼を観察する。「昔は可愛いとか良く言われてたじゃない。でも、今はちゃんと男の人って感じ。前は俺じゃなくて僕って言ってたし」
少し神経質すぎるくらい周囲の反応に敏感で、たえず正体の無い脅威に気を張る、怯えた小動物のような少年。それが、周囲の認知する秋山陽祐であった。少なくとも明子の知るかつての彼はそうだったはずだ。しかし今の陽祐には、そうした脆さのようなものは見受けられない。韜晦が巧みになったのか、同情や憐憫の情を買うような危うさは払拭されるか、或いは鳴りを潜めたようだった。
「五年もあれば、人間って本当に変わるものなのかな」
「どうかね」
陽祐は、薄く微笑み返してくる。純粋に喜んでいるようにも見えたが、どことなく落胆しているようにも見えた。
「ねえ、前みたいに陽ちゃんで良いよね。呼び方」
「別に良いけど、昨日は普通に苗字で呼んでただろう。それじゃまずいわけ?」
思春期を挟んだ男女の友人関係というのは複雑だ。恐らく陽祐はそう言いたいのだろう。確かに、ある時までは親しげに名前で呼び合っていた仲が、突然ぎくしゃくし出すことは珍しくもない。互いを意識しすぎるあまり、他人行儀な苗字の関係になるのだ。
だが、それは一般論だった。自他共に認めるところだが、明子はそれにこだわるような性格ではない。
「いいじゃん。せっかく、昔の友達だって分かったんだし」
「じゃあ、それだと俺はメーコって呼ぶわけか」
「え、高校生にもなってそれはないんじゃない? 音読みできるのを喜ぶ歳でもないし、そろそろ明子に戻してよ。そもそも幼稚園まではメーコじゃなくて、ちゃんとアキコだったんだよね」
「その頃に戻るのか。それじゃ幼児退行だな」
相手の弁に一理あることを認めたのか、陽祐はひとしきり笑いながらも、明子を愛称ではなく正確なファーストネームで呼ぶことに同意した。
「――そう言えば、ちょっと訊くけどさ」
雰囲気も打ち解けてきたこともあり、頃合だと考えたのかもしれない。真顔に戻った陽祐は、持ち出そうと機会を窺っていたらしき話題を、何気ない調子を装って切り出した。
「お前、 <選択肢> って聞いて何か思い浮かばない?」
「選択肢ぃ?」おうむ返しにした自分その声は、我ながらどことなく素っ頓狂なものに聞こえた。「なんの選択よ」
「いや、心当たりがないなら良いんだ。昨夜見た夢に、なんかそんな言葉が出てきたような気がしてさ。ちょっと気になってただけ」
当てが外れたとみると、陽祐はそう言って誤魔化した。滞りなく出てきたあたり、予め用意していた言訳だったのかもしれない。気にならないでもなかった。とはいえ、好奇心旺盛で詮索好きという自分の性格を警戒してのことだったのだろう、と判断する。追求は控えた。
「そう言えばさ。井上君に聞いたけど、いま独り暮しなんだって?」
明子は、彼のために話題を変えた。かつて一番仲の良かった、親友と言ってもいい人物と再会したのである。固執せずとも話したいことや聞いておきたいことは山のようにあった。
「小父さん、シンガポールに単身赴任になったんだよね」
「まあね」陽祐は安堵の表情を浮かべながら頷いた。そして、隣家に住む井上の叔母が保護者代わりを頼まれてくれていることを付け加える。「隣に親戚がいる生活を独り暮しと呼ぶかは微妙だが」
「いとこなんだっけ。それにしては、井上君と全然似てないよね」
「似る理由が無い。いとこなんて、遺伝的にはほとんど他人みたいなもんだろう。だからこそ日本の法律じゃ結婚だってできる。男女であれば」
「そんなもんかな」
「そんなもんだよ。それよりお前、最近身の回りでなんか変わったことないか」
唐突な問いに、明子は眼を瞬いた。「変わったことって?」
「いや、別にこれといったことじゃないけど」逆に陽祐は返事に窮したようだった。早口で取り繕うように言う。「ただほら、苛められてるとか、近所に不審者が出没する噂があるとか、ストーカーにつきまとわれてるとかいうことは無いかな、と思ってさ」
「そんなのないよ」
少し考えみたが心当たりはない。それよりも、なぜ陽祐がこんな話を持ち出したかの方が気になった。眼を細め、少し身を乗り出して陽祐の相貌を覗き込む。相手が少したじろいだのが分かった。
「さっきから何が言いたいわけ。何か隠してるでしょ」
「別に隠しちゃいないよ」不自然に視線を逸らしながら、陽祐は言訳するように言った。「俺にだって良く分かっちゃいないんだ」
大体、何年かぶりに再会したばかりだというのに、隠すほどの何があるというのか――と、陽祐は小声で弁明を続ける。
「とにかく、俺とこの話をしたことは忘れないでくれ。何も起こらなきゃそれでいい。ただ、何か異変があって俺の話と関連がありそうだと思ったら、どんなことでも良いから報告してくれるか」
「何が何だかさっぱり分からないよ」明子は眉間に皺を寄せて不平をあらわにした。「雲を掴むような話じゃない」
「そんなことは分かってる。言っただろ、俺だって自分が何言ってるのか良く分かってないんだ。ただ、最近変な悪戯が身の回りで良く起きてるんだよ」
「悪戯って、たとえば?」
「まあ、無言電話みたいなもんだけど」
その様子から、陽祐が故意に曖昧な表現を用いていることに明子は気付いた。全くの嘘でもないが、真実を全て語っているわけでもない。そんなところだろう。
「とにかく、これといって実害はないから、それはそれで別に良いんだけどさ。他人が巻き込まれるとそうも言ってられないだろ。だから、お前も気を付けてくれってことだよ」
「そっちは大丈夫なの?」
不意に心配になってきて、明子は眉をひそめた。悪戯や嫌がらせの類が本当にあり、それが陽祐個人を標的にしたものだとするなら、それは引っ越してきたとほぼ同時に始まったことになる。確かに、白丘市は東北内陸部の田舎街だ。余所者に対する排他的な思考が、都会と比較して強く働くこともないではない。だが、それにしたところで性質が悪いような気もした。転居間もない人間が、悪戯をされるほど周囲の反感を買うようなことをできたとも思えない。それとも土地の売買や、日照権などの問題で付近住人と揉めたのだろうか。地価の変動を巡る問題では、ときおり摩擦も起こると聞く。
「俺は大丈夫さ。本当に俺を対象にした悪戯かどうかも確かじゃないし、さっきも言ったけど実際に何か害が及んだわけじゃない」
「でも独り暮しなんだし、何かあったらちゃんと誰かに言わないと駄目だよ。私でも力になれるかもしれないし、近くに井上君の家があるなら、そっちに相談しにいっても良いし」
「分かってるよ。それより、俺はお前に気を付けてくれって言ってるんだ。何かあったら早めに教えてくれよ」
「うん。私も言うから、そっちも大事なことは周りの人に報告するんだよ」
言っているうちに、明子はかつての陽祐のことを思い出してきた。幼い日の彼も、今のように他人に心配ばかりかける子供であった。自身に降りかかった問題は、例外なく己ひとりで解決しなければならないと思いこんでいる節があったのだ。だから彼は処理能力の限界を超えた物事すら黙って抱えこみ、最終的にはどうしようもなくなって重荷に潰されてしまう、というような事件を度々起こした。
その事後処理を押し付けられるのが誰かと言えば、いつだって明子たち隣人なのだった。そんな隣人たちからすれば、事態の収拾が難しくなる前に相談してもらった方がかかる迷惑も軽くて済むというものである。かつての陽祐は、それを全く理解しようとはしなかった。恐らく、今でもそうした部分は変わっていないのだろう。
「まったく、思い出したら腹が立ってきた」
明子は一人で頬を膨らませた。思わず陽祐を睨みつけてしまう。彼は一八にもなろうというのに、まだ自分は一人でも生きていけるというような幻想にしがみ付いているのだった。
「陽ちゃんは昔と全然変わってないね。ほんとに、どうしてそんなに捻くれて育ったんだろ。陽ちゃんはその気がなくてもね、陽ちゃんが潰れちゃったら迷惑する人が周りはいっぱいいるんだから。そうならないためにも、誰かの助けを借りるっていうのは大事なことなんですからね」
「俺も思い出したぞ」陽祐は不貞腐れたように言った。「ほとんど一歳近くも年下の癖して、お前はいつもそうやって姉貴風吹かせてただろ。俺は良く知らないけどな、お前の口やかましさはきっと母親ってやつそっくりに違いないんだ」
「陽ちゃんがそうやって頑固者だから、私が心配しなくちゃいけないんじゃないの。陽ちゃんは一人で何でも出来てるつもりかもしれないけど、知らないところで色んな人に支えてもらってるんだからね」
「俺は支えてくれなんて頼んだ覚えはないね」
そう言って顔を逸らす陽祐の仕草は、まさに拗ねた子供そのものだった。身勝手な言い草に腹を立てながら、彼のそうした部分はどことなく愛らしくもあった。仕方のない話である。秋山陽祐は、手のかかる利かん坊の弟にしか見えないのだ。
そんな明子の心情も知らず、彼は膨れ面のまま未だに悪態をたれていた。
「父さんもあの女と早めに別れて正解だったぜ。こんなに口喧しいのが四六時中家の中にいたら神経参っちまうよ」
7
東北自動車道を水沢インターチェンジで下り四号線に入ると、車窓を流れる景色は目まぐるしく変化し始めた。水沢市北部は、金ヶ崎バイパス等の主要幹線道路が整備されると共に、多くの団地が構えられるようになった住宅地帯である。反面、胆沢川と北上川が形成する胆沢扇状地に位置した、県内有数の大穀倉地帯でもあった。城跡など歴史的遣産も数多い。市は「新旧文化の融和」を謳って一帯の開発を進めているらしいが、現在のところは統一感を欠く混沌とした雰囲気の方が先行しているように見える。
助手席からそうした風景をぼんやりと眺めているうち、諸岡悟子は車が目的地に近付きつつあることに気が付いた。いつの間にか、周囲に昔ながらの商店街を思わせる眺めが広がっている。
水沢市のほぼ北端に位置するこの商店街は、聞くところによると市内でも屈指の歴史を誇るらしい。車が擦れ違うのにすら難儀する細い石畳はそれを証明するかのように荒れ果てていて、徐行前進しているにも関わらずタイヤが四角くなったような振動を絶えることなく伝えてくる。
しばらくそれを堪えていると、やがて車は古いスーパーマーケットの店前で停車した。悟子は、他の通行車両の邪魔にならないよう素早く降車する。ドアを閉める寸前、助手として連れてきた深町光一の「車、置いてきます」という言葉に小さく頷き返した。
もともと歩行者を主体とするこの通りでは、自動車の存在は冷遇されている。駐車場の類が極端に少ないこともあり、深町もたっぷり一〇〇メートルは離れた場所まで駐車スペースを求めに行かなければならないはずだった。
悟子はブリーフケースのグリップを握り直すと、目の前に構えられた二階建てのスーパーに足を向けた。軒先には、 <野沢商店> という野暮ったい看板が掲げられている。旧世紀――それも昭和を感じさせるデザインだった。それだけで、この店が傾きかけた老舗であることが分かる。
小さなガラス張りのドアは自動でなく、手で押し開けなければならなかった。古いせいか、高齢者への挑戦であるかのように重たい。踵を返したくなった。
店内には、外観から想像されるよりも随分と大きな売り場が広がっていた。とはいえ、面積と老舗としての歴史的優位があるにも関わらず、店の中は閑散としている。午後四時という時間を考えれば、なおさらその印象は強い。
悟子はざっと店内全体を見渡すと、視線を正面に戻した。入店すぐのスペースには野菜の束が漠然と山積みされている。そのレイアウトは視界を損なうばかりであった。入口付近からどのような売り場があるかを見渡そうとする行為を阻害している。まるで壁のようだ。
話にならない、というのが第一印象だった。この空間は、入店後の客がまず最初に眼にする箇所だ。店の看板とある意味同義。ここをどのようにショーアップするかで店舗に対するイメージが変わってくる重要箇所――いわゆるゴールデン・スペースなのである。店主はこうした基本中の基本すら理解していないらしかった。
悟子は閉口しながらも、野菜コーナーに歩み寄って商品を幾つか検分した。キュウリにしてもトマトにしても、そのほとんどが袋詰になっていた。バラで買えるようなシステムは整えられていない。核家族化が進む前ならばこれで良かったかもしれない。しかし、一人から三人で構成される家庭が大半を占めるようになった現代社会では通用しないだろう。最近はその家庭の消費量に合わせた、無駄のない買物が好まれるのだ。選択の余地がないというのも嫌われる。
外観と入口を見ただけで、その店の程度は大体知れてしまうものだ。この <野沢商店> は、スーパーマーケットとして見たとき底辺に位置すると考えて良いだろう。反面、立地条件といい、売り場面積といい高いポテンシャルを備えていることも確かだった。経営再建を請け負った経営コンサルタントとしては腕の鳴るところであるが、知識と意識を決定的に欠落させた店主に店舗運営のノウハウを叩き込むのには難儀しそうだった。
「諸岡さん、お待たせしました」
背後のドアから、車を駐車しに行っていた深町が現れた。
「別に待ってたわけじゃないよ」
悟子は彼を一瞥してそう言うと、店主がいるはずの二階事務室へと向かった。深町が慌てて追いかけて来るのが、背後からの気配で分かる。
階段へ向かう途中、小さな女の子を連れた女性客が、菓子類の陳列棚で娘に商品を選ばせている姿が眼に入った。思わず梓のことを思い出す。今月中旬に一二歳の誕生日を迎える梓は、ご多分に漏れずスナック類やソフトキャンディをはじめとする菓子を大好物としていた。二年前に倒れ闘病生活を始める前は、良く二人で買物に行ったものだった。
もちろん、その度に何か買ってくれと彼女は無言で訴えかけてきた。実際に声に出さず、眼と仕草だけでねだって来る辺りがあの娘らしい。悟子は、自分の頬が自然と緩んでいくのを感じた。
梓は、物質的な意味で手元に残る物に高いプライオリティを置いているらしかった。ひとつだけ菓子を買ってやると言うと、必ず安っぽい小型玩具やプラスティック製のミニチュアモデルなどが付属しているものを選んだ。入院中の今も、差し入れに何を望むかと問えば、大抵オマケ付きの菓子を所望する。最近の彼女のお気に入りは、少女アニメのキャラクターをモデリングしたフィギュア付きの菓子であった。三〇〇円もするそれは、どちらかというと付属品であるはずのフィギュアの方がメインと見なされているらしく、しかもそれが何種類も存在するとかで、梓はこれを収集する楽しみを覚えたようである。何度か、そのコレクションを披露してもらったことがあった。なるほど子供用の菓子に付いてくるオマケの品とは思えないほど精巧な人形ばかりであった。
「諸岡さん、どうかしました?」
遠慮がちな深町の声で、悟子は我に返った。無意識のうちに足を止め、親子の姿に見入っていたらしい。
「貴方、この店をどう思う」
「案外広いですね。交通の便もわりと良いし、やりようによってはお客が入りそうな気もするんですけど――」関係者に聞こえたら角が立つと考えたのか、深町は声のトーンを落とす。「正直、今は完全に閑古鳥が鳴いてる感じですね」
「そう」小さく言うと、悟子は再び歩き出した。
深町が口にしたのは、その辺の主婦が井戸端会議で呟くような感想でしかない。悟子としてはもう少し聞けるコメントを欲していたのだが、所詮は入社二年目といったところか。二四、五の新人は、まだ運転手程度の使い道しかないということだろう。
スーパー <野沢商店> は吹き抜け構造になっていた。内壁に張りつくようにして存在するコの字型の二階部分は、見たところ完全な関係者専用のエリアとされている。実際に上って来て確認してみたところ、事務室のほか、店長の個室や応接室、休憩室、物置、職員用のトイレなどが並んでいるようだった。
「失礼します。 <クラタパートナーズ> の諸岡ですが」
開け放たれているドアから、事務室と思われる部屋に呼びかけた。室内は雑然としていて狭い。スチール製デスクを大小合わせて三つ並べただけで既に窮屈そうだった。部屋の主は書類整理を不得手としているようで、デスクと壁際に置かれたキャビネットの大部分は、積み上げられた書類の山に埋め尽されていた。
その山を書き分けながら、作業服そっくりの制服を着込んだ男が姿を現した。中年太りした腹を難儀そうに抱え、狭い通路をすり抜けて部屋の奥から近付いてくる。四〇代後半から五〇歳前後と思われる、気の弱そうな男だった。
「お待たせしました。 <クラタパートナーズ> の方ですね。今回はお世話になります」
男は悟子と深町に卑屈な笑みを見せると、慇懃に頭を下げた。
「はじめまして。諸岡です」
悟子は名刺を差し出した。深町もそれに倣う。相手が気の利いた人間ならここで双方交換ということになるのだろうが、残念ながら男は自前の名刺を持っていないようだった。
「失礼ですが野沢さんですか」
「はい、そうです」何故か困惑したような笑みと共に頭を下げ、彼はそれを肯定した。「私が当店の店長、野沢ひさしです」
野沢は何度も頭を下げながら、一応ながら応接室があると告げ、諸岡と深町をそこに案内した。応接室は物置になっているらしい大部屋を挟み、事務室の隣にあった。八畳程度の狭い部屋で、安物の応接セットを除いてこれといったものはなかった。普段は使われることがないのだろう。部屋全体に薄っすらと埃が堆積しているような感がある。
「まさか若い女性の方が担当されるとは思ってませんでした」
細君らしい中年の女がお茶を運んで来ると、それを悟子たちに勧めながら野沢は微笑んだ。彼と同世代の男には、確かに悟子のような最前線で働く女の存在は物珍しくも見えるのだろう。
「その意外性と若さを、一種の可能性と解釈していただければ幸いです」
「はあ――」
解することが出来なかったのだろう。野沢は惚けたような表情で曖昧な返答を寄越した。この覇気のない男なら、相続した店を傾かせ、コンサルタントに泣き付いてくるのも分かるような気がした。
元々この店は、現店長である野沢ひさしの父が古くに開業したものなのだそうだ。店名が昭和初期から一度も変わっていないことからも分かるように、先代は頑固に昔ながらの商売を守り続けてきたという。それでも客足が途絶えることなどなく、時代が移り変わってもそこそこの繁盛を続けていたらしい。だが、それも二〇年前までの話だった。バブル崩壊直後に先代が亡くなり息子が店の経営を引き継ぎ出す頃には、周囲に大型ディスカウントストアなど幾つも建設され、客は全てそちらに取られた。業績は下降の一途を辿り、既に抜き差しならぬところまで来ているという。彼らも彼らなりに努力したらしいが、再建計画はいずれもが失敗。蓄えを食い潰すだけの結果に終わったという話だった。
悟子の仕事は、経営コンサルタントとして <野沢商店> の経営状態を立て直すこと。またソーシャルプランナーとして野沢家の財政面の危機を救い、彼らの人生計画が潤滑に進められるよう手助けすることにある。
手始めとして店舗の運営情況を現場から調査、その問題点を指摘すると共に改善策を提示し、これに基づいた店舗全面改装に着手する。改装にかけられる費用は総額で約五〇〇〇万円。古臭い店のイメージを一新し、大手ディスカウントストアや大型ショッピングモールとも勝負できる存在にまで再生させる。無論のこと容易な話ではない。しかし、古くから商店街に君臨しつづけてきたという歴史を始め、様々な武器がこの店にはある。やってやれないことはないはずだった。
仕事にある程度の見通しが立つと、悟子の思考は決まって娘のことへと飛ぶ。否、正確には「帰る」と表現すべきなのかもしれない。悟子の心中は、常に娘に関することで占められているからだ。
遣り甲斐があるし楽しくはあるが、それ以前に仕事とは梓の治療に必要な金を得るための手段に過ぎない。それで梓の命が救われるのなら、仕事などいつ放り出しても構いはしないのだ。仕事は失っても取り返せる――その自信はある――が、なくなった命は永遠に戻りはしないのだから。
今の梓は、それだけ危険な状態にある。病状そのものは安定しているが、いつまでもその状態を維持し続けていられるわけではない。やはり辛い闘病生活から解放されるためには、体内から病を根絶するための抜本的解決策を捻り出さねばならない。現在のところ、それは造血幹細胞の移植以外にあり得ないと言われていた。他の治療は既にやり尽くし、満足に効果が上がらなくなってきているからだ。
梓を蝕む病気は、害虫に非常に良く似た性質を持っている。我々は害虫を駆除しようと殺虫剤をばら撒くが、これで彼らを排除することが出来るのは最初のうちだけだ。やがて害虫たちはその殺虫剤に耐性をつけはじめ、従来の殺虫剤では殺せない存在になってくのだ。メーカーは害虫が新たな耐性を得る度に新種の薬品を開発しようとするため、ここに終わりのないイタチごっこが始まることになる。問題は、殺虫剤の種類ほど梓の前に提示された治療方法が豊かでない、ということだった。梓に残された選択肢は、この二年でどんどん少なくなっていった。今ではもう完治を望める希望は、移植にしか託せないまでになっている。
自分はこの仕事を成功させるだろう――悟子はそう確信しつつあった。 <野沢商店> を見事再建させ、これを確かな実績とし社内での地位をますます確固たるものにしていくだろう。
だが、自分は母として梓を救い切れるだろうか。そう考えたとき、悟子はたとえようもない不安と恐怖に苛まされる。この件に関しては、一度たりとも確信など抱けたことはなかった。悟子と梓は、もうとっくに人の手ではどうにもならない領域に足を踏み入れているのだ。ここから先は、いかなる意志も才能も努力も通用しない。純然たる運だけが全てを左右するのであった。
悟子はこれまで神を必要としたことがなかった。自分に備わった才と努力、それに若干の幸運さえあれば乗り越えられないものなどなかったからだ。夫の遼平をなくし、幼い梓を一人で育てなければならなくなった時も、誰かに縋りつこうとは思わなかった。
しかし、今は祈りたかった。出来ることは、もうそれしか残っていないのである。
8
井上大作はパスタを満載した大皿を抱え、キッチンカウンターを迂回してダイニングの食卓へ向かった。六人掛けのテーブルセットには、既に贅を尽くした数々のイタリア料理が宴を始めんとばかりに並べられている。大作がその真ん中に配置した大皿にも、アマトリチャーナ、ボロネーゼ、ペペロンチーノと三種のパスタ料理が盛ってあり、食欲をそそる香りを辺りに漂わせていた。全てが友子の手料理である。我が母親ながら、大した腕であった。
井上家の夕食は、特別な場合を除いて帰宅後の友子が主となって作る。この日も一九時に帰った彼女が、自らの実力を見せ付けるようにその腕をふるった。今夜は隣家から陽祐を招いたこともあり、特に力が入ったようだった。
「凄いな、これは」所狭しと並べられた料理を眺め、陽祐が感嘆の呻きを漏らした。「お前、毎日こんなの食ってんの」
「そんなわけないだろ」
大作は苦笑した。いつもこの調子なら、食費だけで井上家は破産する。父の死によって得られた保険金や見舞金は、この家のローン返済に費やされた。日々の生活費は、友子の稼ぎによって賄われている。そう贅沢ができる環境ではなかった。
「今日は陽ちゃんの歓迎パーティだからね。そんな感じでしょう?」
調理を終えた友子がグラスとシャンメリィを乗せたトレイを片手に、ダイニングへと歩み寄ってくる。
「へえ、じゃあ今日は俺が主役なのか」
「その次は私が主役ね」友子が笑う。「あまり嬉しくないけど、来月誕生日だから」
「幾つになるの、叔母さん」
片眉を吊り上げ、おどけた表情で陽祐が訊ねる。この種の質問をされたときの友子の答えは、いつも決まって同じだった。もちろん今夜もその例外ではない。
「一八よ」
彼女のその言葉に一頻《ひとしき》り笑い合うと、全員が思い思いの席に腰を落ちつけた。友子に言われ、大作はシャンメリィの詮を抜いた。景気の良い破裂音が周囲に響く。友子にボトルを渡すと、彼女は手際よく三つのグラスにそれを注ぎ分けていった。
「叔母さん、それシャンパンなんじゃないの?」
「ノンアルコールの炭酸飲料よ。二人ともまだ未成年だからね」
嫣然と微笑みながら、友子は陽祐にグラスを渡した。
「さ、冷めないうちに食べて食べて」
GOサインを待っていたのか、陽祐は言葉と共にピザに齧り付き至福の表情を浮かべる。部活後の自分ほどではあるまいが、彼もそれなりに空腹だったのだろう。そのがっつきぶりに「お預け」の命を解かれた犬の姿を連想して、大作は思わず吹き出しかけた。
一方で、母親の食は思いのほか進んでいないようであった。歳の割に、友子は若者が好むようなファーストフードを好んで口にする人間だった。最近こそ大分控えるようになってきたものの、今夜の食卓に並んだようなスパゲティやピザなら喜んで平らげていくのが普通である。それが今回は少しばかり様子が違った。
このことを別にしても、大作は最近、母親が体調を崩しかけているのではないか――という疑念に度々とらわれることがあった。確かに、彼女の口元から笑顔が絶えることはない。機嫌も良さそうに装われてはいる。しかし、ときおり深呼吸でもするかのように、長く深く息を吐き出す仕草を見せるのは気になるところであった。蓄積した疲労を誤魔化し、陽気に振舞おうとする時の彼女の癖だからだ。
周囲に心配をかけまいとする努力だと思われるので、大作も余程の事態に発展しない限り気付かないふりをしつつ様子を窺うことにしていた。だが、こうした状態が長引くとその心配も徐々に大きくなってくる。今は、いつ声をかけるべきかタイミングを見計らっている状態だった。
ここしばらく、周囲の誰もがおかしかった。友子もそうだが、山下と渡瀬との間も何かぎくしゃくしたものが見られる。クラスメイトの持田明子は、最近妙に陽祐と仲が良い。その陽祐は陽祐で、とても意味があるとは思えない間違い手紙に神経質になったり、ふいに憂いたような表情で何かを考えこんだりしている。現に、今の彼がまさにその状態だった。三日ぶりに食事にありついたというような勢いはすっかり失われ、今はぼんやりと視線を宙にさ迷わせている。フォークを握った手は完全にその動きを止めていた。どのような角度から見ても、何か悩み事があるとしか思えない。
「どうしたの、陽ちゃん。美味しくなかったかな?」
陽祐の異変を友子も気取ったのだろう、様子を窺うように声をかける。
「いえ、ちょっと考えごとしてただけです」
陽祐はハッとした様子を見せると、慌ててそう言い繕った。
「疲れてるんじゃない? 荷物の整理は進んでるの」
「ああ、うん。まあボチボチかな」
困惑したような表情で、陽祐は曖昧に答える。その直後、電話が鳴り出したのは彼にとって幸運だったに違いない。追求を避けられたと思ったのか、あからさまな安堵の表情を浮かべた。
電話に一番近い位置に座るのは大作だった。だが椅子から腰を浮かせるより早く、「はい、はい」と言いながら友子が応対に向かった。
「こんな時間に電話なんて珍しいな」
思わずそう呟くと、向かいに座る陽祐が不思議そうな顔をした。
「そうなのか?」
大作はオニオンスープをすくいながら、黙って頷いた。
「もしかすると、仕事の電話かもしれないね。でも、普通は母さんの携帯に直接かかってくるんだけどな」
「そう言えば、大作。お前、携帯電話持ってんの?」
「あるよ、一応。でも全然使わないから最近は携帯してないけど」
それは既に携帯電話じゃないだろう、と陽祐に笑われたところで友子が戻ってきた。俯き加減なので良く分からないが、彼女には珍しく少し険しい表情をしているように見えた。同じことに陽祐も気付いたらしい。問おうとしたことを先に口にされた。
「何かあったの、叔母さん。仕事のトラブルとか?」
「えっ」友子は一瞬、虚を衝かれたように顔を上げた。が、すぐに微笑む。「うん、ちょっとお仕事のお話でね。困ったことになりそうかもしれないって」
「大丈夫なの、母さん」スプーンを持つ手を止め、大作は母親を上目遣いに見詰めた。「まさか、リストラとか」
息子の情けない声と百面相に、友子は吹き出す。
「大丈夫よう、そんなに心配しなくても」彼女はパタパタと手を振りながら言った。「私がいない <ビフロスト・システム> なんて、ハンバーグの入ってないハンバーガーみたいなものだから」
「それは詐欺だ」陽祐がすかさず言う。
「そう、詐欺会社になっちゃうからね。だから私をクビにするなんて無理よ」
陽祐はその言葉を信じてすっかり納得した様子だったが、大作は母親の言い分を半信半疑で聞いていた。彼女の会社では社内連絡のほとんどを電子メールで受け渡ししていると聞くし、危急の用件ならば確実に相手を捕まえられる携帯電話を使うはずだった。これまで仕事関連の電話が自宅のそれに直接かかってきたことなど、数えるほどしかない。
友子は何かを隠しているのかもしれない。或いは息子に告白する切っ掛けを掴めず、それを口にできずにいるのかもしれない。大作は改めて、母の様子をつぶさに観察する必要性を感じていた。