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 第三章 「諸岡悟子」



    1

東北技術科学大学(TUT)付属病院の小児病棟において噂の人物だった。と言っても彼女は医局のスタッフではなく、さりとて入院患者でもない。それでも独身の男性関係者を中心に彼女の話題が過熱傾向にあるのは、要するにその容姿が人並み以上に優れているからだった。
 TUT付属病院は、岩手県白丘市内において最大の規模を誇る総合病院である。大学の医学部自体が近年開設されたばかりであるため誇るほどの歴史はないが、市民の間ではもっとも頼れる地元の医療機関として既に認知されるに至っている。それだけのスタッフは多方面から招き寄せていたし、設備も充実していた。
 その小児病棟の一室に、諸岡梓を名乗る少女が入院患者として姿を見せ始めたのは、一昨年のことだ。彼女は一時的な退院や外泊を許されることはあったが、この二年間の大半を病室で過ごしてきた。
 その間、毎日のように彼女を見舞い、看護し続けたのが諸岡悟子という女だった。
「あ、そっか。田島さんって諸岡さんのこと知らないんですよね」
「――ええ」
 ナースステーションの片隅で夕食後薬と眠前薬の準備をしながら、田島加世子は頷いた。田島は、幼い一人息子を育てるためまとまった育児休暇をとり、四月から復帰したばかりだった。以来の一週間で職場の雰囲気にはかなり慣れたが、留守中に亡くなってしまっていた患者に対する感情的な処理にはまだ幾分の時間を要するかもしれない。プロとして、ある程度は心のコントロールの仕方も心得てはいる。それでも割り切れないのが人の生き死にだ。とくに小児病棟のそれは辛い。あまりウェットに過ぎるのも問題ではあるのだろう。しかし、人間としての揺らぎを微塵も持たない者に看てほしいとは患者も思うまい。
「今、話題の人なんですよ。諸岡さんって」
「らしいわね。どんな人なの?」
 振り返って処置係の辻本に問うと、彼女はキャビネットの前で両手を握り締め、力説の構えを見せていた。無駄話の時間を稼ぐためなら、ベテランでも驚く仕事ぶりを見せる娘だ。既にカーデックスから必要な情報を仕入れ、メモをとり終えたらしい。田島は、少しこの話題にのったことを後悔した。
「それが超カッコ良いんですよ。無口でクールな人なんだけど、でも毎日娘さんには会いに来て」
「娘さん?」田島は、脳内のデータから諸岡の姓を検索した。復帰直後とはいえ、業務リーダーを何日か務めていれば、入れ替わりする分も含めて、自分の担当する患者の名を完全網羅するのはそう難しくない。そうした能力は充分に訓練してきたつもりである。
「じゃあ、諸岡梓ちゃんの身内の方?」
「梓ちゃんのお母さんですよ」
 その諸岡悟子とやらの顔でも思い浮かべているのか、若い看護婦は惚けたように宙に視線を漂わせている。既に作業の手は完全に止まってしまっていた。
「あたしたちにはニコリともしてくれないんですけど、梓ちゃんにはとっても優しいんですよねえ」
「へえ。凄く綺麗なひとだって聞いたけど」
「そうなんですよ。もう、あれは女優ですね。女優。それかモデル。それもスーパーモデルですよ。間違いありません。そんなもんだから、若い先生たちなんか、彼女が来てるって聞くと姿勢が途端に変わるんですよね。格好つけちゃってさ、無理だってのに」
 辻元が、同性の話にこれだけ熱を込めるのも珍しい。彼女にとって興味があるのは、自分の結婚相手になりそうな男だけである。そのライヴァルとなりかねない女の存在は敵以外のなにものでもないのだ。自分より少しでも顔やスタイルが良い同性、一歳でも若い娘を、辻本はほとんど無条件に嫌悪する。諸岡という女性が噂ほど容姿に優れているのなら、本来、辻本がこうして笑顔で話題にするわけがないのだった。
「でも何だって、よりにもよって女なんかに生まれてきたんでしょうねえ。もし諸岡さんが男だったら、ただで帰したりしないのに」
 辻本はすっかり諸岡が男だったら、という仮定に夢中らしい。口元を弛緩させて妄想に没頭し始めた。
「でも、仮に彼女が男だったとしてもよ、梓ちゃんっていう娘さんがいることになるのよ?」
「そんなの大したことないじゃないですか」
 辻元はあっさりと言い切った。言われてみればその通りなのかもしれない、と田島は認めた。最近の若い看護婦には、相手が妻子持ちだろうが構わないという者も多い。と言うのも、未婚の母であったり、自身に離婚経験があったりする人間が多いからだ。そうした彼女たちの多くは、相手側の事情にあまり頓着しない。結局、そういう女性が一人で生きていくために必要な要素を備えているということなのだろう。看護婦というのは。
 確かに、と田島は少し考えてから胸の内で首肯する。看護師の仕事はハードだが、医療関係者ということもあり社会的な評価も低くはない。看護学校へは高校を卒業していなくても入学できるため、様々な理由から学校を中退した者などの進路にもなりやすいのだった。しかも大学病院ともなれば――所にもよるが――将来を嘱望される若い医師の卵たちも周囲に多い。稼ぎもある程度は保証されるわけだ。多くの病棟ではその限りに無いものの、整形外科あたりだと、例外的に若く活きの良い男性患者との出会いも期待できる。その辺りが、身辺に多様な事情を抱える女性に魅力として映るのも分かるような気がした。何であれ、夫婦円満、七ヶ月前に第一子を儲けたばかりの三六歳である田島には全く関係のない話だが。
「それで、諸岡さんって幾つくらいの人?」田島は言った。
「確か、三一……じゃない、先月誕生日だったから、三二だ」
 答えが返るのは早かった。情報収集に抜かりはないということだろう。しかし、なるほど若い。諸岡梓は確か一一歳の患者だったから、二〇代前半の頃の子供ということになる。
「もしかして、彼女、独身?」
 ある予感を覚えて、田島は訊いた。二〇前後の子供が妊娠したという理由で慌てて籍を入れた場合、早期の離婚に至るケースは珍しくない。諸岡がそうであっても決して驚くに値しないことだった。辻本のような同性看護師にも人気であることを考え合わせると、そうした一種の減点ポイントがあって然るべきだろう。
「はい、そうですよ」当然、とばかりに辻元は頷いた。「じゃなったら、男どもが眼の色変えるわけないじゃないですか。梓ちゃんから聞いた話ですけど、旦那さんは彼女が生まれてすぐに亡くなったみたいです」
「えっ、そうなの?」
 驚いて聞き返した。同じ独身でも、離婚と死別とではまるで話が違ってくる。少なくとも田島の受ける印象という面で、その差は大きかった。
「気の毒ですよね。旦那さんを亡くして、その上たった一人の娘さんまでこんな難病なんて」
 首を捻って表情を窺うと、辻元は心から同情している様子で眉をひそめていた。が、すぐに薄い笑みがとって変わる。自分が独身でいる以上、他人もそうでなければならない。辻元はそういう物の考え方をする女なのだった。
「仕事は何してるひと?」
「それは謎です」辻元は目を細め、薄気味の悪い笑みを浮かべた。「社会保険なんで勤め先の名前は分かるんですけどね。コンサルタントをやってるらしいことまでしか分かってません。謎多き人でもあるんですよね。本当に必要最小限のことしか喋らない人だから、プライヴェートなこととかは全部梓ちゃんに聞くしかなくて。そういうところも、男の先生たちには魅力なのかもしれませんね。使えるネタです」
「まあ何にしても、そういうのは遠くから見ているうちが華なのかもしれないけどね」
 苦笑しながら、夜勤組への引継ぎの準備を進める。申し送り――交代の時間は間もなくだ。
「そうですか?」
「月って地上から見る分は綺麗でロマンティックだけど、実際に近寄ってみるとクレーターだらけの酷いところらしいわよ」
 田島の言わんとすることが伝わらなかったらしい。辻元は首を傾げて不思議そうな顔をした。
「どういうことですか、それ」
「言葉通りの意味よ。月は征服するよりも、日本酒片手に遠くから眺めるのに向いてるの。皆でわいわいやりながらね」
 その言葉に若い看護婦は再び複雑そうな顔をして、しきりに首を捻った。思わず苦笑してしまう。だが立ち直りの早い辻元は、書類の整理を終えて田島の元に歩み寄ってくると笑顔を見せながら言った。
「とにかく、田島さんもきっと驚きますよ。諸岡さん、もうすぐ来ると思いますから」
 辻元はステーション内に据え付けてある壁掛け時計を見上げた。時刻は間もなく一八時だ。子供たちの夕食の準備が整い始める時間帯である。
「あ、でも旦那さんには紹介しないほうがいいですよ。フラフラっとあっちにいっちゃうと困りますから。男なんてそんなもんですしね」
「はいはい。大きなお世話よ」
 そんな看護婦たちの談笑が途切れる瞬間を狙い済ましていたかのように、話題の主、諸岡悟子は姿を現した。たちまち辻元は余所行き用としている最上級の微笑を浮かべ、彼女の元に飛んでいく。なるべく触れ合って、その魅力の秘密を探り出そうという魂胆だろう。
「諸岡さん、こんにちは。梓ちゃん、今日も良い子でしたよ」
 張り合っているつもりなのか、どこから出しているのだと言いたくなる辻元のとんでもない猫撫で声に、田島は思わず顔を顰めた。どちらが良いとは言わないが、ああはなりなくないと思う。
 だが、彼女の面貌を遂に拝むに至って、辻元がそうしたくなる気持ちも何となく理解できた。
 諸岡悟子は、噂に違わず極めて優れた容姿の持ち主だった。顔が小さく、腰が高い。一七五センチメートルを超えているであろう上背は、日本人女性としては長身の部類に入るだろう。学生時代に何かスポーツでも嗜んでいたのか、細身ながらも猫科の獣を思わせるしなやかな体躯の持ち主であった。顔つきは無駄な肉を削ぎ落としたような鋭さがあって、辻元が無口でクールと表現した女のそれとして確かに相応しく思える。意思の強さを窺わせる線で引いたように真っ直ぐな眉に、二重瞼の理知的な瞳が特に印象的だ。物腰もどこか洗練されていて、本人は意識していないのだろうが他の女とは一線を画す独特の雰囲気を醸し出している。
 だが、あまりに特異的で田島には馴染めそうにないタイプだった。仮に自分が男であったとしても、彼女と付き合ってみたいとは思わない。思わず「分相応」という言葉を思い浮かべてしまうのだ。アクセサリと同じである。問題は値段や美しさではなく、身に着けたときどれだけ自分にマッチするかにある。その点において、諸岡悟子は自分には大粒で高価だし、派手過ぎる存在だろう。隣に並んだとして釣り合いが取れるとは思えない。
 一方、当の諸岡は、ナースステーションの看護師たちに何の興味も抱いた様子はなかった。初めて見る顔であるはずの田島の存在に気付いても、一瞥くれただけでさっさと顔を逸らしてしまう。愛想良く挨拶してくる若い看護婦に対しても顎を引く程度の軽い会釈を寄越すだけだ。一瞬も足を止めることはない。黒いパンツスーツの後姿が硬質な足音と共に遠ざかっていくのを、田島は辻元と一緒に見送るしかなかった。
「ねえ、格好良いでしょう?」
 諸岡の気配が完全に消え去ると、辻元が興奮した様子で詰め寄ってきた。それを闘牛士のような身のこなしであしらい、田島はデスクに戻る。
「あの無口で無愛想なところがまた良いんですよねえ」
「だけど梓ちゃんには優しいんでしょう?」
「そうなんですよ」辻元は興奮した顔で、再び田島に擦り寄ってきた。諸岡の話題を誰かと共有したくて仕方がないといった様子だ。
「そのギャップが最高なんですよね。」
「でも――」田島は手にしていたボールペンを指先で器用に回しながら、ふと宙を仰いだ。
「え?」
「あの人が無愛想で無口なのって、そりゃ元からの性格とか個性もあるでしょうけど、単にそれどころの余裕がないからじゃないの?」
 伴侶と死別し、一昨年から娘が大病を患って入院生活を送っている。もう彼女は、自分の家族以外のことに眼などいかないのではないだろうか。それ故、自分の周りに眼の色を変えた男性スタッフが群がってきているなど、気付いてすらいないのかもしれない。そんな精神的余裕などないのだろう。
 資料によると、諸岡梓は厚生労働省に特別疾患として指定されている血液難病の患者だった。これは血液を構成する白血球、赤血球、血小板のすべてが減少してしまうというもので、発症後は専門家による徹底した治療を受けない限り死に至ることもある危険な病気だ。クリーンルームに入るほどではないものの、梓のそれは同じ病気でも重症の部類に入る。輸血や血小板輸注が数日おきに必要なものなのだ。現在は強力な免疫抑制剤を使って、なんとか病状の悪化を防いでいる状態であるようだった。――が、それも長くは続くまい。当初はATGとシクロスポリンという薬剤の併用療法が効果を上げたとあるものの、現在ではその効き目も薄れてきている。根治には専門医が <BMT> と呼んでいる大掛かりな治療を行うしかないだろう。母親として、諸岡も苦悩の日々が続くに違いない。
 だから、彼女が娘の梓にだけ笑顔を見せるというのも、田島にはよく理解できるような気がした。
 田島にも七ヶ月になったばかりの一人息子がいる。手のひらに指を当てると、きゅっと握り返してくる天使のような子だった。その彼が梓のような難病に倒れたとしたら、果たして自分は正気でいられるだろうか。まして、頼るべき伴侶が既に失われていたら――。
一人ではとてもやっていけそうにない。そう思う。だからこそ、田島は三〇そこそこの若さで気丈に振舞える諸岡に、ある種の敬意を払えるのだった。
「梓ちゃん、良くなるといいわね」
 諸岡の後姿が消えていった廊下の先に視線をさ迷わせ、田島は小さく囁いた。



    2

 それが交通事故であれ隣人の死であれ癌の発病であれ、悲運は突如として人を見舞う。そこに理由や因果性は必要ない。だからこそだろう。不幸にして非日常の世界に放りこまれた人間たちは、まず例外なく同じことを思い、同じ言葉で己の境遇を嘆く。なぜ私が――と。
 諸岡悟子もその例外ではなかった。夫の遼平が死んだとき、そして梓が重病で倒れたとき、やはり狂おしく思った。普段は存在を信じない神に問いかけさえした。なぜ遼平を我々から奪うのか。彼だけでは足りず、幼い梓まで取りあげようとするのは何故か。
 一度ならず二度までも家族が奪われようとしている。到底受け入れられることではなかった。この世には明確な悪意というものがあって、それは人から全てを奪い尽くすまで満足しないものらしい。
 だが、なぜ自分たちばかりが狙って選ばれるのか理解できなかった。それに値するほどの罪を犯した覚えはない。もし罪があったとすれば、一体なにを差し出せば許され、いつになればその咎から解放されるのか。「なぜ」「どうして」の果てしない連続。その問いに答えなど存在しないことを知っているからこそ、やり場のない憤りを抱えて生きていくのは辛かった。
 医者によれば、悟子のような反応を見せる患者家族は少なくないらしい。命の危険性のある大病に家族が倒れたとき、人はそれぞれおよそ理性的とは言えない言動をしめすというのだ。ここで大きくものを言うのは論理ではなく感情なのである。
 たとえば、ある者はただ混乱するばかりで思考停止してしまうし、またある者は医者の誤診だと決め付けたり、自分の家族に限って……と事実の受け入れを拒む。治療費などの経済的な問題や周囲の人間の反応、事態に対応するだけの自分の処理能力に不安を抱き恐怖する者もあるという。極度の悲嘆や憤りで、精神のバランスを著しく狂わせてしまうケースも見られる。悟子のように、己の家庭を襲った一連の悲劇が自分たちが犯してきた過去の罪に対する罰なのではないか、と疑う人間もまた多い。これが行き過ぎると、過去を振り返っては自分が犯した間違いを探しだすようにさえなるという。
 論理的に考えれば、過去の行いと難病の発症に因果関係などあろうはずがない。少し冷静になるだけですぐに悟れることだ。しかし、人は悲劇に原因を求めたがる。何故と問い、その答えを知りたがる。それは仕方のないことなのかもしれない。多くのものを理不尽に奪われてきた経験を持つ悟子にはそう思えるのだった。
 自らを省みても、これまでの日々はそんな非生産的な思考の連続だった。今、病院のベッドで穏やかな寝息をたてる愛娘を見守りながら、しみじみと思う。
 この子が助かるのなら身代わりになってもいい。自分の命が必要ならばくれてやる。これが何かの罰だというのなら、梓ではなく自分に背負わせろ。神の実在を説く声が真実を告げているのなら、今こそその奇跡の業を見せて欲しい。――どれもが切実で、だが行き場を持たない所詮は叶わぬ願いだった。そんなものにすら縋り付きたくなるほど、闘病生活は誰にとっても辛いものだ。
 突如として非日常の世界に迷い込んでしまった者は、日常への回帰を望みながらも、非日常の終わりの形に不安を抱く。親ならば我が子の快癒を願わぬ者はいない。だが現実にその願いが実る確率は決して高くないことを、闘病者たちは実感として思い知るようになるのだ。現実は決して人々に優しくはない。
 悟子はそっと娘の髪を撫でた。絹のように滑らかな感触が伝わってくる。色素の薄い茶色がかった色も、髪質の柔らかさも、肩の辺りで外側に向かってカールする癖も、全てが父親譲りのものだった。線で引いたような真っ直ぐな眉と筋の通った鼻腔、そして薄い唇は悟子似。今は閉じられている愛嬌ある大きな瞳と、白く木目細かい肌もそうだった。
 遼平との間に授かった命に代えても惜しくない、悟子にとっての至宝だ。失うわけには断じていかない。遼平もそれを望んでいるはずだ。何を犠牲にしても、どんな代償を払っても必ず梓の命を繋がなければならない。娘の安らかな寝顔を見るたび、誓いを新たにさせられる。
 二人部屋の室内は、静まり返っていた。清潔だが圧迫感を感じるのっぺりとした白い壁に四方を囲まれ、梓は幼少期の貴重な時間をこの場所でもう二年間も過ごしてきた。ベッドの片側には室内唯一の窓があって、そこからは中庭が見下ろせた。手入れの行き届いた緑の芝と花壇、それに木製のベンチが並ぶ入院患者たちの憩いの場だった。悟子は、梓にせがまれて良く彼女をそこに連れて行く。ブラインドからさし込む夕日の茜色は酷く弱々しく室内を照らし、緩やかに宙を漂う埃をどこか幻想的に演出していた。
 四人から六人が詰め込まれる大部屋と違い、ある程度の自由とプライヴァシィが確保されたこの二人部屋に入るためには、部屋の使用料として一日あたり二五〇〇円の追加料金を支払わなければならない。本来は一歳年下の男の子と相部屋なのだが、彼は集中的な治療を受けるために現在は無菌室に送られている。一時的にではあるが、梓はこの病室を個室として使うことになっていた。こういう幸運にでも恵まれなければ、院内で娘と二人きりになれる機会は限られている。今この時を噛み締めるように味わっていたかった。
 涙を拭ってやるときにするように、そっと梓の柔らかい頬を撫でる。穏やかで愛らしい寝顔だ。ひとりでに頬が緩むのを抑えられない。――本当に出来た娘だ。
 人見知りが激しく、会話が得意ではない。時に、看護婦に対して必要な報告を怠ることもある。欠点は確かにあるだろう。だが親の贔屓目を抜きにしても、彼女は優等な小児患者であるように見えた。慣れもあるだろうが痛みを伴う検査にも協力的だし、精神的な安定を欠き周囲に当り散らすということもない。少し聞き分けが良すぎるのではないかと心配になるほど、彼女は従順に己に対する医療行為を受け入れ、回復に努めている。悟子が記憶している限り、彼女の我侭に困らされた覚えなど片手で足りるほどの回数しかなかった。
 同じ年頃の患者でも、梓以外の子供だったらこうはいかない。大嫌いだ、二度と顔も見たくない等と喚き、玩具や枕を投げつけて病室から両親を追い出そうとする子供を見たことがあった。治療を頑なに拒んだり恐れたりする子供は、人々の想像を遥かに超えて多いものだ。
 彼らは往々にして両親の発言力や影響力を高く評価している。だからこそか、辛い治療を強いてくる医者や看護師たちを両親が退けてくれないとき、それに強い不満や戸惑いを覚えるものらしい。恐らく、裏切られたように思うのだろう。そして、自分に対する家族の愛情に疑惑を持ち始める。長期に渡って様々な検査や処置を嫌というほど強要されてきた子供には、度々見られる反応なのだった。
 本来なら梓も、そうあっておかしくない一一歳の幼子だった。心の支えとして抱き続けている夢は、真新しいセーラー服を身にまとって、来年から中学校に通うことである。バレーボール部に入り、球拾いでもいいから同級生たちと同じ時を共有したい。彼女は眼を輝かせて言う。中学生になったら、小学生が使うマス目つきの学習帳ではなく、大学ノートに黒板の内容を書き写すのだ、と。鉛筆ではなく、大人っぽいシャープペンシルを使って――。
 彼女の語る希望は、いつも周囲の人間が持ち合わせた当たり前の日常に過ぎなかった。
 幼い者には、努力が必ず報われると信じ込む権利がある。梓もまた、無邪気にそうあるべきだった。ならば助からないはずがない。そうでなければ嘘だ。悟子は耳にかかった娘の髪を後ろに撫でつけてやりながら何度も胸の内でそう唱えた。
 ふとドアがノックされる音が聞こえたような気がした。思索を中断し、梓に触れていた手を止める。ドアに目をやりながら耳をすました。しばらく待って気のせいだったと結論しようとした時、再び音が聞こえてきた。今度ははっきりと確認できた。間違いなくノック音である。悟子が返事を寄越すより一瞬早く、ドアは横にスライドしながらゆっくりと開かれていった。
 廊下側から姿を現したのは、見覚えのない少女だった。地の薄い紺色のタートルネック・セーターに、チェック柄のスカートを履いている。艶やかな黒髪を肩のあたりで綺麗に切り揃えていた。色白の、人形のような娘だった。歳は梓より二、三歳年長だろうか。服装からして入院患者だとは考えにくかった。
「誰。梓の友達?」素早く相手を観察し、悟子は問いかけた。
 少女は答えなかった。ドアを閉めたきり、眠る梓と悟子を無言で見詰め続けている。顔の造りには子供らしいあどけなさが残っているものの、表情は能面のように一切が失われていて歳相応とはとても言えそうにない。奇妙な子だった。少なくとも、人見知りする梓と打ち解けそうなタイプとは思えない。
 沈黙が場を支配する。一向に口を開こうとしない少女に、悟子は彼女が口を利けない患者である可能性を考えはじめた。実際にそういう小児患者を見たことがある。喉に出来た腫瘍を取り除いたときに声を失ったケース。薬の副作用のため一時的に上手く声を出せなくなったケース。以前、梓が大部屋に入院していたころ、様々な子供と出会う機会に恵まれたのだった。
 ――が、その少女はいずれでもなかった。
「諸岡梓の病室に間違いないだろうか」
 それが彼女の第一声だった。
「そうだけど」諸岡は眉をひそめ、改めて問い直す。「貴方は?」
「こんな子が、死んでいい道理なんてあるはずがない」
 少女は梓の寝顔を眺めて呟く。本当にそう思ったかは疑問だった。
「あらゆる手を尽くして、という貴女の気持ちも理解できる」
 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。少女の透明感ある声音だが、まるで感情の起伏を感じさせない冷ややかな口調。何か異質なものを感じる。相手の年齢を完全に無視し、悟子は無意識に構えに入っていた。
「失礼ながら、私は娘さんのことを調べた。肝炎後のものでも先天性のファンコニー貧血でもないから、お嬢さんは良くある特発性のものにやられたと思われる。体質的に蛋白同化ステロイドや免疫抑制療法の効果が出にくい彼女の場合、残念ながら同朋からの造血幹細胞移植でしか完治は望めそうにない。医者にもそう言われているはず」
 しかし、と続けて少女は眼を細める。
「不運にも、お嬢さんに血の繋がった兄弟姉妹は存在しない。肉親である貴女もHLAの型が適合せず、娘のBMTには役に立てないことが立証されている。となれば国内外のプールから型の適合する提供者を探してこなければならないわけだが――結論として、これはネガティヴな結果に終わるだろう。大変残念ながら」
「なぜそんなことが分かるの」
 見知らぬ子供の口から想像もしなかった言葉が次々に飛び出してくる。戸惑いはあったが、それを気取られないようにして悟子は問い返した。
 確かに彼女の言うことは正しい。梓の病気を徹底的に叩き完全に治すためには、恐らく造血幹細胞の移植しかないだろうと主治医にも説明を受けていたし、相性の関係で移植に必要なものを悟子が提供してやれないのも事実だ。
「言っても貴女は信じないでしょう」
 だが事実なのだと付け加えて、少女は判別が難しいほど微かな笑みを浮かべた。彼女がはじめてみせた表情だった。
「現行のシステムでは移植の手配に標準で三ヶ月以上かかることを考えると、事実上のリミットは七月いっぱいということになるだろうか。いずれにせよ七月二一日木曜日の午前四時三八分、貴女の娘は死ぬ。HLAの適合する提供者が見つからず、抗胸腺細胞グロブリンやシクロスポリンでの免疫療法に期待した以上の効果が得られなかったことが原因で」
「何のつもりなの、貴方」
 少女には、それが何気ない問いかけのように聞こえただろう。しかし怒気を完全に制御し、押し殺すには強い意思の力が必要だった。それが誰であれ――たとえ子供であっても、梓の闘病を嘲笑するような態度をとる人間に寛容を示すのは難しい。
「大人でも子供でも、言って良いことと悪いことがあるんだよ」
 悟子は真っ直ぐにドアを指し、冷たく言い放った。
「今回は聞かなかったことにする。出て行きなさい」
「どうか感情的にならないでほしい」
 少女は広げた両手を肩の高さに掲げ、諭すような口調で言った。
「私は、貴女たちのためになる提案を厚意で持ってきただけなのだ。感謝する必要はないが、話に耳を傾けるくらいはしていただきたい。こちらにしてみれば、お嬢さんを選択肢に加えなければならない必然などないのだから」
「聞こえなかった? 出て行けと言ったんだよ」
 相手の年齢を考慮した上で、既に感情を抑えるべきラインを超えていると判断した。言葉に従わないのなら、実力を行使するしかない。病室から放り出すため、少女に向かって足を踏み出した。
「お嬢さんには助かる見込みがある」
 その一言に、歩みが止まる。
「再発の危険性を完全排除した上で根治を宣言できるという意味では、恐らく唯一無二の方法がある。それを私は貴女に提示できる。興味を持っていただけるだろうか」
 少女はスカートのポケットから名刺大の白い紙片を探り出し、無造作に放り出した。それは円盤のように回転し、梓の白いタオルケットの上に音も無く落下した。
「信じる信じないは自由。判断材料はこれから追い追い提供させてもらうから、それを根拠に自分の意思で決めればいい」
 悟子は無言でそのカードを取り上げた。真っ白な硬い紙で、綺麗な長方形をしている。
「もしこの話に乗りたいと考えるようだったら、秋山という男に会ってそのメモを手渡してほしい。彼の詳しい居場所については、タイミングを見計らってお教えしよう。ドナープールの登録者たちとはまた違った意味で梓嬢を救える、この世でたった一人の人間だ」
「私は子供の悪戯に付き合っているほど暇じゃないんだよ」
 悟子は威嚇するように少女を睨みつけたが、彼女は微塵も揺らがなかった。
「子供の悪戯かどうかは今に分かるでしょう」
 少女は踵を返すとドアを開けながら言った。廊下に出るとき、一瞬だけ振り返り微笑する。肩のあたりで、さらりと黒髪が揺れた。
「二日後の夕方、貴女の娘は熱を出す。三九度ちょうどまで上がるが解熱剤で翌朝には平熱に戻る。眼を覚ましたときアップルジュースをせがまれるはず。用意しておかれるといい」
 ドアが静かに閉められた。微かな足音がゆっくりと遠ざかっていく。彼女が残していったのだろう、何かは分からないが微かな花の香りが漂っているのを感じた。梓は何事もなかったかのように穏やかな寝息を立てている。
 室内は再び耳が痛くなるほどの静寂に包まれた。
 悟子は少女の残していった紙片を目の高さまで持ち上げ、そこに印字されている文字を読んだ。眉間に皺が寄っていくのを感じた。あるのは娘の名前と、とても意味を成すとは思えない <第四の選択肢> という奇妙な一文だけであった。
「梓が……死ぬ?」
 あり得るわけがない。悟子は胸の内で即座に否定した。百歩譲って仮に梓が助からないとしても、なぜ正確な死亡日時があの娘に予測できる。分かると言うよりも知っている、と彼女は言った。なおさら非現実的な話だ。
 だが奇妙に心を引きつけられるのも事実だった。普通なら完全に無視する類の戯言だったし、投げ渡された紙も即座に引き裂いて捨てたことだろう。だが、今回はそれがどうしてもできなかった。少女の言葉が今も鼓膜のあたりで反響を繰り返しているように、耳から離れないのだ。
 悟子はもう一度紙片に目を落とした。
 このメモを持って秋山という男と会え。少女は確かにそんなことを言っていた。彼が梓を救える唯一の人間だと。
 少女が真実を語っていると仮定して、果たして秋山とは何者なのだろうか。如何な方法で梓を救うというのだろう。画期的な治療法でも研究している医者なのか。或いは――
 ベッドから微かな呻き声がした。見ると、梓の長い睫毛が微かに震えている。目蓋がゆっくりと開かれ、大きな瞳が覗いた。何度か目をしばたくと、彼女は言った。
「お母さん?」
 柔らかく澄んだ声だ。少し控えめな発声の仕方が父親に良く似ている。
「そうだよ」悟子は表情を緩め、娘に歩み寄った。手にあった紙片はスーツのポケットに素早くしのばせる。「起こしたか。悪かったね」
「ううん」
 梓は微かに首を左右させると、ゆっくり上体を起こした。そうすると椅子に座った悟子と視線の高さがほぼ揃うことを知っているのだ。
「誰か来てたの?」
 少女の残り香に気付いたか、梓は不思議そうに室内を見回した。或いはその気配を床の中から察していたのもしれない。
「見舞の客が来た。見たことのない子供だったけど、梓、心当たりはある?」
 悟子は、少女の消えていったドアに再度視線を向けた。あれは何者だったのか。改めて少し考えてから娘に顔を戻す。彼女は真っ直ぐに悟子を見詰めていた。
「そのお客さん、女の子だった?」
「女の子だったよ。あんたより何歳か年上なんだろう。中学生かもしれない」
「誰かが遊びに来てくれたのかな」
 梓はうーんと愛らしく唸りながら、自分の記憶を辿り始めたようだった。該当する条件を備えた友人を検索しているのだろう。だが、その試みは徒労に終わったらしい。残念そうに、「私の友達じゃないかもしれない」と結論した。
「気にしなくていいよ。何かあればまた遊びに来るだろうから、そのときにどこの誰だか確かめればいい」
「うん」梓は嬉しそうに頷いた。「お母さん、いま何時?」
「じきに食事の時間。一緒に食べよう」
 悟子はベッドサイドのパイプ椅子を引くと腰を落とした。娘の小さな手に自らのそれを重ねる。家族以外、誰にも向けたことのない微笑が自然と浮かんできた。


to be continued...
つづく