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 第二章 「渡瀬啓子」



    1

 岩手県白市立白丘第一高等学校――通称白丘一高――空手道部は、創立一〇年そこそこの歴史の浅い部である。四月五日現在、卒業した三年生を除く部員は一四名。全員が男子生徒である。かつては全くの無名校であったが、二年前に大型新人を取り込んでからは急速に力を付け、先月行われた全国高等学校空手道選抜大会においては、 <組手> 個人戦で準優勝者を輩出、また同団体戦では第三位に輝き、 <形> の部でも現副部長が第六位の好成績をあげるなど、確かな実績を残した。
 地区クラス、県クラスの大会では既に常勝を誇るまでになり、全国大会の常連校として認知されつつある部である以上、たとえ春休みと言っても鍛錬を怠るわけにはいかない。練習量は年々増加の一途を辿り、翌日に新年度の始業式を迎えようという今日この日も、午前八時には道場が開かれ密度の濃い練習が行われていた。
 渡瀬啓子は、空手道部に何ら関係のない完全な部外者ではあったが、毎日のように道場に顔を出し、彼らの練習風景を見学するという奇特な存在だった。彼女の見学は何も春休みの間だけに限定されたことではなく、山下剛という男子生徒が空手道部に入部して以来、既に二年間に渡って毎日続けられてきたことだった。
「ええと、じゃあ皆ちょっと集まって」
 正午一〇分前、各自の練習に「止め」の号令をかけると、副部長井上大作が全部員に集合を命じる。全部員が自分と向かい合う位置に集まったことを確認した彼は、傍らに無言で構える部長に目配せしてから再び口を開いた。
「分かってると思うけど、明日は始業式です。その次の日には入学式があって、八日の各部のオリエンテーションが済むと、新一年生の中から入部希望者が出てくると思います」
 副部長は、部員たちが自分の話に付いてきていることを確認するかのように一同を見渡した。彼の口調は人格そのもののように穏やかだったが、同時に広い道場の隅に座る啓子の耳にも届く、通りの良いものだった。
「今まで二年だった俺たちは三年になるし、新入部員として扱われてきた一年は下から先輩って呼ばれるようになります。大事なのは立場が変わって、後輩を指導する方に回るということです。
 これは俺個人の考えですが、 <形> や <組手> の練習だけじゃなくて、後進を育てたり、彼らの手本になるように振舞うことなんかも空手の一部だと思います。良かったら、皆もそういうことを少し考えて明日からの稽古に臨んでみてください。俺も副部長として頑張ります。これから一年、よろしくお願いします」
 啓子は、井上副部長の言葉を感心しながら聞いていた。自分があの場所に押しやられても、同じように喋ることはできないだろう。
 同じ学年、同じクラスの生徒なのに彼にはできて自分にはできないことが数多くあることを彼女は発見していた。当初はあまり関心を持っていなかった存在だが、井上大作という男にもまた学ぶべきところは大きい。
 今の話を、山下はどのように聞いていたのだろうか。興味を持った啓子は、彼の姿を探した。一八〇センチメートルを超える恵まれた体格の持ち主は、屈強な部員たちの中でも目立つ存在だ。道着姿の群れの片隅に、彫像のような佇まいでいる彼を見つけ出すのは容易だった。決して豊かな表情の持ち主とは言えないため、一見した限りではどんな思いで新副部長の訓示を受けていたのか判断がつかない。
 やがて部長が、新年度の部費の徴収に関する連絡を簡単に行い、解散の声を発した。春休みの間は、彼らの鍛錬も午前中だけで終了する。ハードな練習で腹を空かせた部員たちは、弾かれたように散開すると慌しく帰宅の準備に取りかかっていった。
 そんな中、山下剛だけは泰然と構えていた。何かに追われるように更衣室へ駆け込んでいく他の部員の波に逆らい、ゆっくりした足取りで啓子へ歩み寄ってくる。
「お疲れさま」
 汗だくの山下にタオルを渡すと、彼は小さく礼を言ってそれを受け取った。今でこそスムーズに運ぶこのやりとりも、山下に受け入れてもらうまでにかなりの時間を要したものだった。彼に限らず、空手部員たちは身内同士の結束が強い反面、排他性が強い。啓子という外部からの見学者は彼らにとって異分子であり、これが道場の背景の一部として溶け込んだと見なされるまでには相応の手続きを踏む必要があったものだ。
「今日、調子良かったみたいだね」
「分かるか?」大して驚いた様子もなく、山下は問い返してきた。
 もちろん、啓子にはそれが分かっていた。汗の浮き始めるタイミングと、その流れ方で把握できるのだ。ここ数日の山下は、練習を始める前段階のストレッチで額に汗を滲ませ始める。身体がスムーズにほぐれ、エンジンが早めにかかった証拠だった。
「タオル、もう一枚使う?」
「いや、いらない」
 啓子は山下のために、常時四枚のタオルを用意している。道場へ持ち込むスポーツバッグには、タオルの他にも簡単な救急用具、良く冷えた二リットルのスポーツドリンクや軽食なども入っていて、山下が擦り傷や打身を負ったとき、また水分や食料の補給を必要としたときなどにいつでも提供できるように整えられていた。彼女が <山下専属マネージャー> と揶揄される由縁である。
「食べるものはあるか?」
 受け取ったタオルで汗を拭いながら、山下が訊いてきた。今日は室温が低いせいか、火照った彼の身体からは白い湯気が揺らめきのぼっている。啓子にはそれが、山下がまとう気迫が具現化した姿のようにも見えた。
「おにぎりがあるよ。私のお手製で良ければ」
 バッグを探ってラップに包まれたそれを取り出すと、啓子は山下に差し出した。食欲旺盛な彼のために特別に作ったもので、大きさは市販のそれの倍はある。好みにも気を使い、塩も多めに振ってあった。
「中身は」
「もちろん梅」それは山下が最も好むネタだ。「食べる?」
「貰う」
 山下は握り飯を鷲掴みにして奪い、壁際に腰を落としてラップを剥がし始めた。啓子はその隣で軽く居住まいを正すと、スポーツドリンクとは別に用意してきた烏龍茶の魔法瓶を取り出し、カップに注いで彼に渡した。
「あ、山下君ちょっといい?」
 その声に視線を上げると、井上副部長が小走りに駆け寄ってくるところだった。握り飯を頬張りながら、山下は無言で応じる。
「八日に新入生との対面式と部活のオリエンテーションがあるよね。ウチは <形> を披露することになってたじゃない。あれ、山下君にも参加してもらえないかなと思って」
「俺は裏方に回る予定だったはずだろう」
 山下は握り飯を持った手を止めると、不服そうに副部長を見上げた。睨めつけているわけではないのだが、強面の山下の場合だとそれだけで充分な威嚇になってしまう。
 彼は、相手の都合で自分の予定や計画が狂わされることを人一倍嫌う。だからこそ、必要以上に他人を寄せつけない生き方を通しているのだろう――というのが啓子なりの分析だった。助けを得られるというメリットより、自分のペースを乱されるというデメリットの方が勝る。今のところ、山下剛という人間にとって他人付き合いとはそういうものなのだ。
「うん。ただね、山下君はうちのエースだから。やっぱり集客力が違うと思うんだよ」
 副部長は申し訳なさそうに言うと、弱々しく微笑んだ。
「先月、山下君って全国大会で準優勝したでしょ。ここ何年か部全体の成績も良いし、新聞にも載ったからね。教頭先生がオフレコで教えてくれたんだけど、入試の面接でも空手部に入りたいって言う子が結構いたって」
「大勢取り込んで、予算の増額を申し出るはらだろう」
 山下の声音は無慈悲なものだった。その分、的確に問題の核心をついてもいる。
 白丘第一高校は、少子化問題が深刻化し地方で廃校が続出する中にありながら、特にセールスポイントを持たない地味な公立高校だった。偏差値五四という数字はおよそ進学校のそれとは言えないし、特に目立った実績を上げる部活動もない。そのことに危機感を抱く大人たちもいたであろうことは、啓子にも想像がつく。
 そんな彼らの唯一の救いとなったのが、二年前から俄かに目立ち始めた空手道部の躍進だった。全国大会に連続して出場し、しかも際立った成績を残しているだけあって学校側からかけられる期待も大きく、部員たちは少なからずその重圧を意識せざるを得ない立場にある。それを誇りに思って勢い付く部員もある反面、周囲の雑音や過度の期待を迷惑視する者もあった。後者の代表的な例が山下剛その人であることを、啓子は知っていた。
「俺は学校や部の宣伝ために空手をやってるわけじゃない。今の練習環境にも特に不満はない。試合の結果で、部にもそれなりの貢献をしてる」
 山下は切り捨てるように言った。彼の主張はいつも「宣伝より鍛錬」だ。実績があれば宣伝せずとも人は集まる。そして実績をあげるためには、宣伝に回す時間を鍛錬に回す方が良い。
 それが唯一絶対の正解だとは啓子も思わないが、実際に結果を残している彼の言葉だけに多少の説得力があるのは確かだった。 
「山下君ならそう言うと思ったよ」井上は苦笑すると、自ら緊張を解き議論を避けた。「結局、空手ってスポーツとはちょっと違うと思うし、流行とかそういうのとも本来縁遠いものなんだろうしね。ただ、先生とか部長から山下君に一度相談するように頼まれてたから、ちょっと言ってみただけ」
「あんたも大変だな」
 肩を竦めるような仕草を見せると、特に同情する様子もなく山下は言った。だが啓子が知る限り、彼は心にもないことを口にする人間ではない。
「しょうがないから、陽祐も誘ってみようかな。山下君を引っ張り出すのに失敗したから、俺も何かで埋め合わせしなきゃいけないし」
「――ようすけ?」
 部に関係する話には関わらないと決めていた啓子だったが、その問いは気付くと口をついて出ていた。
「うん、俺の従兄弟のこと。昨日、東京から引っ越してきたんだ」
 啓子を一瞥すると、副部長は何が嬉しいのか満面の笑みを浮かべた。
「明日、この学校に転校してくるんだけどね。陽祐は昔から運動神経抜群だったから、きっと空手もすぐ強くなると思うんだよね。でも多分、誘ってもやらないって言うだろうな」
 副部長はそう言って照れ隠しのように小さく笑い、啓子と山下それぞれに丁寧な挨拶を寄越して歩み去っていった。
 彼の姿が更衣室に消えると、山下は残っていた握り飯を口の中に放り込んだ。何度か大雑把に咀嚼しあっさり嚥下して見せるや、いきなり啓子に顔を向ける。
「もうないのか」
「えっ?」突然声をかけられ、啓子は狼狽した。
「食い物。この他にはもうないのか」
「あ、うん」慌てて頷く。「ごめんなさい、もうないの。でも、あったとしてもこれ以上は食べないほうがいいと思う。運動した直後にたくさん食べるのは健康に良くないって」
「調べたのか」
 その問いに啓子は頷いて返した。山下も、彼女がスポーツ選手のトレーニング法や健康管理などについての専門書を読み漁っていることは知っているはずだった。
「だから、少しお腹が空いててもそれくらいの方が良いと思う」
「お前がそう言うなら、そうなんだろう」
 信頼の証か、山下はあっさり首肯した。そしてやおら立ち上がると、着替えてくると一言残して踵を返す。啓子はその後姿を静かに見送った。
 もう四年続けていることだった。


    2

 渡瀬啓子が山下剛と出会ったのは、一三年前の春――物心つく以前の話だった。啓子は生まれてからそれまでの間を、岩手県白丘市北東部に位置する住宅街 <霞台> に構えられた自宅で過ごしてきた。家族構成は両親と啓子、そして弟の四人。たまの休みに県外へ二、三泊の旅行に出ることはあっても、街の外で生活したことは一度たりともなかった。生まれも育ちも白丘市。市内が啓子の知る世界のすべてだった。
 そんな啓子が、サンタクロースから三度目の贈り物を賜ろうという時期、家の隣の空き地に新しく二階建ての住居が建築され始めた。
 それは翌年の春に真っ白な壁とコバルトブルーの小洒落た屋根を持つ一軒家として完成し、啓子が幼稚園で年中組デビューを飾る直前に余所者が引越してきて住みつくようになった。
 山下家である。
 初対面の時の印象は見事に残っていない。それは、彼らが菓子折りを片手に引越しの挨拶回りに来たとき実現されたらしいが、四歳の少女の記憶には刻まれなかったのだ。ただ、隣に同じ年齢の男の子が引っ越してきたこと、彼の名前がツヨシくんであること、啓子が早い時期からピアノを習い始めたように、彼も空手の真似事を既に始めていることなどは理解した。
 隣人同士だからといって、渡瀬家と山下家が特別懇意な間柄になったということはなかった。自治会費の集金や回覧板を回すときなどに時折インターフォンを鳴らし合う程度で、両家の人間が顔を合わせることは余程の偶然かそれなりの切っ掛けが生じたときに限られた。
 啓子と山下の本人同士はと言えば、同じ小学校、同じ中学校に揃って進学し、何度かはクラスメイトになる機会に恵まれることもあった。が、二人の間で会話が交わされたことは、ほとんど皆無であったと言える。啓子が意識的に山下を避け続けたからだった。
 山下剛は幼いときから、小柄で華奢な啓子とは対照的に体格に恵まれた存在だった。中学に上がった段階で彼の身長は既に一八〇センチメートル近くまで達していたし、それを空手の稽古を通して鍛え上げていた。加えて彼には愛想というものに欠けたところがあり、感情表現はおろか滅多に口を開くことさえしない人間であった。
 無口で何を考えているのか分からない、屈強で強面の男。つまり山下剛は、啓子の中に漠然としてあった最も強暴で恐るべき異性の象徴であり、凶悪犯罪者像が実体化した存在であり、眼を合わせただけで害を及ぼしてくる疫病神の化身だった。
 啓子はもともと他人との接触を億劫がる傾向にあったが、山下のことは特に恐れた。出来るだけ忌避し、彼の存在を認識しないよう努めて日々の生活を営んだ。それは約一〇年間、啓太が死ぬまで続いた。
 渡瀬啓太は雑種であり、茶色い毛並の牡犬であり、渡瀬啓子の弟だった。彼は、啓子の父親に貰われて来て以来、渡瀬家の一員となった。当時の啓子はまだ舌足らずな二歳児で、啓太はその弟に相応しい生まれて間もない子犬だった。新しい家族に名を授けたのは父だった。啓子の弟になるのだからと名前の一字を流用し、それに男の子らしく「太」を付けることで啓太とした。実に安直な話だったが二歳の啓子は全く気にしなかったし、当の犬自身もその名にすぐ馴染んだようであった。
 啓太は、まさしく家族そのものだった。典型的な内向思考型である啓子は、小学校でも中学校でもクラスに馴染むことが出来ず、啓太だけを唯一の友人と定めて、プライヴェートな時間の大半を彼のために費やした。啓太のいない生活など考えられもしなかった。
 その啓太は、啓子が中学二年生のとき風邪をこじらせて死んだ。一三歳の大往生だった。
 彼が庭の犬小屋で冷たくなっているのを見つけたのは、学校から帰宅した啓子本人だった。最初は、全く啓太の死に気付かなかった。しかし彼は何度呼びかけても目を開けてくれず、次第に啓子を不安にさせていった。やがて不安は混乱に変わり、啓子は半分泣きながら救急車を呼んだ。
 当時のことは、啓子自身よく覚えている。きっと救急車のサイレンが災いしたのだろう、騒ぎを聞きつけて隣家の人々が集まってきたことも記憶にある。そして、「啓太が冷たくなって動かない。たぶん息もしていない」と通報され駆け付けた救急隊員や、近所の主婦たちに指摘されてはじめて、啓子は犬が死んでしまったのだということを知ったのだ。
 もちろん、死の概念は知っていた。だが、自分の家族にそれが訪れることなど考えたこともなかった。事実を認識した瞬間、啓子は膝から崩れかけ、啓太の代わりに救急隊員に介抱された。
 それからのことは、逆に朧げにしか記憶にない。後に家族から聞いたところによると、目を覚ましてから四日間、啓子は学校を休み、日がな一日啓太の小屋の前で過ごしたらしい。何をするでもなく無人の犬小屋の傍にしゃがみこみ、ただうつろな目で虚空を眺めていたという話だった。
「――なんて名前だった」
 多分、それが初めて聞いた山下剛の声だった。啓太の首輪と紐を握り締めて、いつもの散策コースを一人さ迷っていたある朝のことだった。
 啓太は散歩が大好きな犬であった。そのため朝と夕方の二回、特別な事情がない限り、啓子は彼と共に決まったコースを歩くのを習慣としていた。何故かその度に、ランニング中の山下とすれ違った。朝にせよ夕方にせよ、健康のために走り回っているジョガーや同じく犬を連れて散歩している人の姿を見かけることは多かったから、偶然時間が重なっただけなのだろう。怖かったが啓太が一緒にいてくれるということもあり、啓子はなるべく彼と視線を合わせないようにやり過ごすだけだった。
 しかし、その日の啓子は一人きりだった。しかも、山下は彼女の姿を認めると足を止め、自らゆっくりと歩み寄ってきた。そして初めて口を開いたのである。
「なんて名前だった」
 恐怖もあったし、混乱もあった。自分が何を訊かれているのかすら分からなかった。
「あんた、隣の家の人だろ。飼ってたやつの名前、なんだったか教えて欲しい」
 対応に困り俯いていると、山下は静かに問い直してきた。その時ようやくにして、啓子は犬のことが話題となっていることに気付いた。
「……啓太」
 今までの沈黙を埋め合わせるような早口で答えると、山下はそれに小さく頷いてみせた。そのように見えた気がした。
「飼い始めたのは?」
「二歳のときから、です。お父さんが知り合いから貰ってきて――」
 どうして山下からこんな質問を受けているのか理解できなかった。今まで一度も声をかけられたことなどなかったのに、今日に限ってどうして。何をされるのか。彼は何をするつもりなのか。啓子は恐怖に身体を縮こまらせながら、この時の終わりをただひたすらに待ち続けた。
「俺にも兄貴がいた。いる予定だった。生まれて何時間かで死んだらしいけど」
 俯いて啓太の首輪を握り締める我が手を見つめていた啓子には、山下がどんな表情をしているのかを知る術はなかった。彼の声音はいつも一定で、感情の篭らない合成音声のようにも聞こえた。依然として山下が何を目的に近付いてきて、何のためにこんな話をしているのかは不明だった。
「両親は落ちこんだって話だが、俺は兄貴がいないことを悲しんだ覚えは一度もない」
 家族をなくしたという意味では同じ筈なのに、自分と啓子とではまったく反応が違う、と彼は指摘した。
 啓子が一言も返さないのにも関わらず、山下は自分のペースを全く狂わせることなく語り続けた。閑静な住宅街の一角。朝の静寂の中、山下の低い声だけが耳朶を刺激する唯一の存在だった。
「犬の姿を見なくなった後、小屋の前で何時間も突っ立ってる人影を何回も見かけた」
 啓子は思わず顔を上げた。山下は明言を避けたものの、それはもちろん啓子だったに違いない。
 あれは、犬に何の思い入れもない人間がすることではないだろう、と山下は言った。理由は分からないが、自分は兄がいなくなったことを何とも思えなかった。だから、誰かがいなくなってそれだけ悲しめるのは、ある意味で恵まれていた証拠なのかもしれない。少なくとも何も感じないよりかはマシだろう、と彼は続けた。冷徹で薄情な人間なのではないかと、己を疑わずに済む。
 ――気を落とすな、元気を出せ。業者に頼んで啓太のささやかな葬儀をあげたとき、周囲の人々は口を揃えてそう慰めてくれた。その度に啓子は思ったものだ。啓太がいなくなったのに気を落とさずにいられるはずがない。もう二度と元気になんてなれそうにない。なりたくもない。
「あの……」
 啓子は初めて山下と視線を合わせた。信じ難いことではあるが、不器用なりに彼が慰めの言葉を投げかけてくれているのではないかと思えはじめていた。
「みんなは元気出せって、気を落とすなって言ってくれるけど」
 啓子のその言葉に山下は小さく嘆息した。機嫌を悪くしたようにも呆れられたようにも思えたが、そのどちらでもなかったのかもしれない。
「落ちこみたいやつは落ちこめばいい。こういう時の反応は、たぶん人によって違う。すぐにどうこうできる問題じゃない。兄貴をなくしたとき俺の両親もそうだったらしい」
 無意識にせよ自分が望んでいたまさにその言葉を他人の口から言ってもらえるのは、それなりに衝撃的な経験だった。どう反応していいやら分からず、啓子は身を強張らせて、ただ立ち竦むばかりだった。話を一方的に切り上げ、いつの間にか山下が姿を消していることにもしばらくしないと気付けなかった。
 しかしなんであろうと、その短いやり取りが渡瀬啓子の中にあった山下のイメージを、少なからず変えたことは間違いない。
 以来、渡瀬啓子にとっての山下剛は、「怖い人」から「少し怖そうな、得体の知れない人」へと変容を遂げた。だが、やはり未知の他人であることは変わらず、かなり軽減されはしたものの、彼に対する恐怖心もまた依然としてそこにあった。これは山下だけに限ったことではない。当時の啓子にとっては、この世の全ての他人が漠然とした未知なる恐怖の対象であったのだった。
 そんな事情の中で、山下への印象を決定的に覆す契機となった出来事は、啓太が死んで以来ずっと休学していた中学校へ四日ぶりに登校したときに起こった。火曜日の三時間目、英語の授業中のことである。
 啓子のクラスの英語を担任するのは柿添という三〇半ばの教師で、陰険かつ独善的な性格と暑苦しい肥満体の容姿が相俟って生徒たちに酷く嫌われている男だった。
 その日の柿添は、生徒たちの与り知らぬところで機嫌を悪くしていたらしく、それが傍目にも分かる態度で教室にやってきた。そうしたとき、彼は決まって生徒を性質の悪い諧謔の槍玉に挙げて鬱憤を晴らそうとする。運悪くその標的に定められたのが、復学したばかりの啓子だった。
 柿添はまず啓子を起立させテキストを読ませた。そして読みつかえる度に細かい叱責を飛ばし、小問題を幾つも投げかけてはミスを誘って苛んだ。
 激昂しやすい性格だ。やっているうちに柿添も頭に血が上って理性の抑制がきかなくなってきたのだろう。やがて彼の悪態は啓子の素行の面にまで及んでいった。たかが犬っころが死んだくらいで何日も休むから授業についてこられなくなる。適当な言い訳をつけてサボっている間、実際は何をやっていたやら知れたものではない。そうした根拠に乏しい言いがかりに始まり、もう二度と思い出したくないような罵詈雑言にまで、それはエスカレートしていった。
 たかが犬っころなんかじゃない。何も知らない教師に啓太を馬鹿にされたことが悔しくもあり、悲しくもあった。かといって何か言い返してやるだけの度量を持ち合わせているわけでもない。啓子はただ顔を伏せ、長く真っ直ぐな黒髪で表情を隠しながらすすり泣くことしかできなかった。
 山下が席を立ったのはその時だった。まるで黒板に書かれた問題を解くよう指名されたかのような、自然な動作だった。
 彼が正確にどんな言葉を使ったのかは、もう覚えていない。ただそれは、柿添に対して授業に戻るよう提案する主旨の発言であったことは確かだ。そして、自分たちが授業料を納めているのは講義を受けるためであり、教師の口汚い野次を聞くためではない――というような言葉を添えたことも、後のクラスメイトの証言によって確認されている。それは恐らく生徒の誰もが心に思いつつも、口にできなかったであろうことだった。
 水を打ったような静寂が教室を支配した。啓子は顔を上げた。その声の主が山下剛であることを知った。誰もが唖然とした顔で、言いたいことを言うとさっさと着席してしまった山下と柿添、啓子の三者の間で視線をさ迷わせていた。
 ――結局この件は、全ての皺寄せが山下にいく格好で決着した。
 激怒して胸倉を掴み上げ、その頬に一発食らわせてきた柿添に、山下は同じ一撃を返した。ただ、山下剛は一〇年の経験を持つ空手の手練だった。中学生ながら、既に完成されつつある体躯の持ち主であった。当然、その拳は柿添のそれとは桁違いの効果をもたらすことになる。左頬を殴り返された柿添は白目をむいてひっくり返り、そのまま動かなくなった。聞いた話によると頬骨が陥没したそうで、しばらく入院生活を送る羽目になったらしい。流動食での食事を余儀なくされたと知り、啓子は思わず柿添に同情しかけた。だが、山下が処分を受けることを知ってからはむしろ恨みさえするようになった。
 山下に下された決定は、思いのほか重いものだった。教師を殴ったことで一週間の停学処分。また、黒帯の経験者が素人に手を出したということで空手部からは除名されることになったのである。寝る間も惜しんで全国大会に備えていた山下は、中学生活の残り二年間、一度も大会に出場することなく卒業することになった。
 毎日、彼が息を弾ませながらランニングしているのを啓太と一緒に見ていた。どれだけ自分を苛めぬいて空手に打ち込んでいるかを知っていた。その山下が停学になり、部を辞めさせられたという報せは、啓子にとって大きな衝撃だった。
 だが、部を追放されても山下は空手をやめなかった。停学になったのを良いことに、彼は一日の大半を自己流のトレーニングに費やすことにしたのだった。処分が解けた後もそれは部分的に続き、朝夕にランニングに出るところや、自宅の庭で <形> の稽古をしている瞬間を啓子は何度も目撃することになった。
 啓子は「練習の手助けをしたい」と、彼に申し出た。
 今になって当時の自分の心理を分析してみれば、あれは要するに逃避の一種だったのではないかと思う。啓太を失ったことを考えずに済むのなら、別に対象は何でも良かったのだろう。自分を何かに夢中にさせて、一度始まれば際限のなくなる負の思考を凍結させたかったのだった。
 もちろん、山下が部を追い出されたことに自分なりの責任を感じていたこともある。教師を殴ったのは山下本人だったが、彼が出てきたのは恐らく啓子が成す術なく立ちすくんだままでいたからだ。山下は啓子が弟を失った経緯を知っていたし、そのことでどれほど心を痛めたかも知っていた。だから黙っていられなかったのだろう、と啓子自身は考えていた。他人に知られれば極めて夢見がちな解釈であると指摘されるかもしれない。しかし、啓子は自らの仮説に確信を持っていた。山下の人間性を確認するのに、四年という時間は充分なものであった。
 山下はあらゆる面で禁欲的な人間だった。或いは、それこそが空手道なのかもしれない。いずれにせよ、早朝ランニングから帰ったところを待ち伏せ、なにか手伝わせて欲しいと啓子が頼み込んだとき、彼は首を横に振った。
「空手は、手伝ってもらってやるものじゃない」
 それから、もし柿添のことを気にしているなら、勘違いだからすぐに忘れろと彼は付け加えた。山下が言うには、彼自身も以前から柿添のことを決して快くは思っていなかったらしい。抗議の声をあげるなり学校に訴えるなり、いつか何らかの手段を講じるつもりであったという。そして当時、柿添のような手合いを黙らせるには、暴力による恐怖で抑えこむのが一番手っ取り早いと考えていたようだった。
 自分はまだ中学生だし、体罰とも言えない暴力に訴え先に殴ってきたのは教師側だ。そこまで大きな騒ぎになることはない。――柿添に手を出したときは、そういう姑息な計算もあったという。
「あてが外れてこういうことになったのは、俺が間違ってただけだから」
 それは啓子に責任を感じさせないように口にされたものかもしれないし、――今考えると、こちらが真相なのだろうが――単純に彼の本心そのものだったのかもしれなかった。どちらにしても極端なまでに内向的で押しに弱い啓子である。いつもならそう言われれば簡単に引き下がってしまったことだろう。自分の罪悪感を軽減するため、渡りに船とその言葉に飛びついたに違いなかった。
 しかし、その時ばかりは違った。何故かは自分でも分からない。では、見ているだけなら良いか。たまに差し入れするくらいなら良いか。啓子はそう言って食い下がった。相手にするのが面倒になったのだろう、「好きにすればいい」という言葉を最後に引き出せたので、その通りにするようになった。
 以降、部活の出来ない中学の二年間、啓子は常に山下の個人練習を見守り続けた。彼がロードワークに出ようとすれば大急ぎでタオルと水筒とストップウォッチを用意し、自転車に飛び乗って後を追い、毎回タイムを記録した。 <形> の練習を観察し続けることで技のキレを見分けられるようになってからは、その日の稽古の出来から彼の体調の好不調を細かくチェックするようになった。
 そればかりではない。偶然と必然が重なって山下と同じ高校に入学してからは、欠かすことなく彼の練習を道場に覗きに行くようになった。たまに記録し続けたデータを彼に示し「参考にする」と言ってもらうことに、達成感に似たものを覚えるようになった。
 特異な始まり方をし、あやふやに継続されているその歪な関係を、自分なりに問題視したことはある。啓太を失って以来できた数少ない友人たちに、「依存」の一言で山下との間柄を切り捨てられることもしばしばだった。確かにそうなのかもしれないとは思う。だが、山下を啓太の代替的な存在としている――とまで言われれば、啓子はきっぱりとそれを否定するだろう。
 確かに最初は、罪滅ぼしに託けて山下の周囲をうろつき、家族にも等しい愛犬を失った孤独を埋めようとしていた部分もあったかもしれない。確実にあったに違いなかった。だが、この四年の付き合いで山下はそれ以上の存在になった。今の啓子の目に、彼という存在は自分というものを明確に持った人間として映っている。自分のすべきこと、やりたいことを決めて、それに向かって全力を尽くす。そんな彼の生き方に、周囲に流されるまま存在してきた人間として、憧憬の念さえ抱くに至った。
 ただの勘違いかもしれないが、彼の傍にいると自分も少しだけ強くなれるような気がしている。事実、山下と付き合い始めてからの四年間で自分は変わったと、啓子は思っていた。家族からも明るくなったと言われるし、高校に入ってからは「暗い奴だ」とクラスで苛められることもなくなった。まだ同性に限定されるが、少ないながらも友達だって作ることが出来た。自分の限界に挑戦しよう、自分をより高い水準へ押し上げようとする山下に感化された結果だ。
 他人からすれば取るに足らないちっぽけなものかもしれない。何を青臭いことを、と失笑を買うかもしれない。しかし、偏差値を争うだけの学校生活からでは決して得ることの出来ない多くのことを、山下との付き合いの中で学んできたと思う。それは啓子が生来はじめて抱くに至った、啓子なりのささやかなプライドだった。


to be continued...
つづく