第一章 「秋山陽祐」
1
パイプベッドの組み立てが完了すると、出来映えを見るため、秋山陽祐は立ち上がって数歩下がった。少なくとも外見上は問題はなさそうだった。今度は室内全体を見渡す。今日から自分の部屋となる、フローリングの六畳部屋だった。張り替えたばかりの壁紙は清潔感のある純白で、隣室と連続していない壁――すなわち西側と南側には合計三面の窓がある。特に南西のコーナーを形作っている出窓はモダンな感じがして、一目見た時から気に入っていた。
窓越しに見下ろせば、閑静な住宅街が広がっている。似たり寄ったりに見える家々の隙間からは、二ブロック離れたところを流れる準用河川の川面を覗くことができた。身の回りの整理が終わったら、散歩がてら見に行ってみようと誓った。大作を誘うのも良い。ついでに辺りを案内させるのだ。
自分の思いつきに満足すると、首にかけていたタオルで汗を拭った。辺りに散らばった工具を片付ける。形になったばかりのベッドは今回の引越しを機会に買ってもらった新品であった。相当の安物であることは知っていたが、今まで個人用のベッドというものを持ったことのなかった人間にとっては、それも大した問題ではない。それよりも早く寝心地を確かめてみたかった。とても大人のやることではないと知りつつも、少し横になってみることにする。まだ布団の敷かれていないベッドは、微かな軋みを上げながらも主を受け止めてくれた。見上げた天井は馴染みのないものだったが、壁紙同様に真っ白で綺麗だった。
窓の真下に置かれたこのベッドは、快適な睡眠を約束してくれるような気がした。夜は星空を仰げるだろう。朝がくれば清々しい日の光が射し込んでくるに違いない。布団が届き、新しく導入してみることにした低反発素材の枕が揃えば、条件はさらに良くなるはずだった。完璧だ、と思った。
東北地方の内陸部に念願のマイホームを構えることにした、と父親から告知された時は、とんでもないことになったと頭を抱えた。が、こうして考えてみると田舎暮らしも悪くないような気がする。何より、アパートを転々とする生活にピリオドを打てる。解放感のある広い部屋を持つことも出来たのだった。首都圏と違って空気が澄んでおり、また物価が安いとも聞く。
気分が軽くなった陽祐は、ベッドから起き上がると他の荷解きを開始することにした。既に運び込んである五個のダンボールには、その全てにマジックペンで <2Y> とマーキングしてあった。こうして識別コードを割り振っておくと、転居作業のごたごたで荷物が行方不明になる事態を避けられる。頻繁に住居を変える生活の中で身に付けた、陽祐なりの知恵であった。
陽祐は、運送会社の大型トラックから <2Y> の箱が下ろされるやいなや自室に運び込むことに成功していた。それらは現在、部屋の片隅に無造作に積み上げられている。
転入することになった高校には制服があるため、急いで衣類の整理をする必要はない。日用品や身の回りの雑貨を優先して片付けていくことにした。室内にある家具は、その全てがこちらで買い直した新品だった。パイプベッドの他には組み立ての終わっていない学習机と、クローゼットに押しこんだ小さなタンス、陽祐の身長よりも高いがらんどうの棚がある。ほとんどの物は、これらの家具類に押し込めるはずだった。
秋山陽祐が必要最低限の物しか所有しないタイプの人間であることを考えると、本来こうした作業に時間はかからないはずである。しかし荷解きはそう単純なものでもなかった。集中力に欠ける人間にとっては、ときに極めて厄介な仕事にもなり得る。ダンボール箱から出てくる思い出の品を懐かしがり、感傷にとらわれてしまうからだ。そうした脱線の度に作業は中断され、いつしか本来の仕事を忘却して目先の物事に意識をとらわれてしまう。
箱の封を解いてから数分、陽祐は早くもその典型的な罠に嵌りつつあることを自覚していた。しかし、分かっていても手元にある古ぼけた大学ノートを開かずにはいられない。陽祐だけに作用する魔力とも言うべきものを秘めたそれは、自らが <摩り替わり> と呼ぶ出来事を何年にも渡って記録してきたものだった。ページをめくるたび苦々しい記憶を思い起こさずにはいられない。秋山陽祐の暗部を綴った歴史書である。
記録は約一〇年前、小学三年生の頃から始まっていた。これを記した当時のことは、今でも嫌というほど良く覚えている。
九歳の秋、ある日曜日のことだった。休日だからと朝から居間でごろついていた父が、その日まだ一度も煙草に火をつけていないことに幼い日の陽祐は気付いた。そして、自分の身に何が起こったかを直感的に察したのだった。
父――英文は、近所でも有名なヘヴィスモーカーだった。秋山家は転居をかなりの回数経験してきた家庭なのだが、英文が日に何箱分も煙草を消費するため、引っ越すたびに家中がヤニで茶色く染まってしまう。もちろん入居して半年になる当時のアパートも例外ではなかった。にも関わらず、その日の秋山家にはあるべき変色の痕跡がどこにも認められなかったのである。
陽祐は愕然としながら、世界の <摩り替わり> が起こったことを悟った。
それを証明するものは、確かにそこかしこで発見された。すでに本来の色が分からなくなりかけていたはずの壁紙は、入居したときのそれと変わらない綺麗なクリーム色のままだった。こびり付いて拭えなくなったはずの、苦味のある不快な匂いもさっぱりしない。いつも手の届く範囲にあるようにと、家中いたる所に配置されていた無数の灰皿も忽然と姿を消していた。
「父さん、もしかして禁煙?」
できるだけ何気ない調子で、不信感を与えないように。そう念じながら、三人掛けソファに寝転がる父の背中に問いかけた。ソファは32型のTVと向かい合わせになっている。画面には、観たこともない洋画が映っていた。
しばらくしてから、「禁煙ってなんのことだ」と英文は身じろぎひとつせずに言った。予測していた通りの返答であった。ただの禁煙なら部屋の汚れや匂いまで消えてしまうわけがない。あれらはどんなに掃除をしても、なんど洗濯してもそう簡単に処理できる代物ではなかった。
どのように誤魔化したものかと思案に暮れていると、父は少しだけ体勢を崩して陽祐を振り返った。怪訝そうな顔をして、なんだっていきなり禁煙などと言い出すのかと逆に問いかけてくる。「俺が一度だって煙草を吸ってるところを見たことがあるか?」と言う彼の表情には、当然ながらふざけたような様子は微塵もなかった。
陽祐は首を左右するだけにとどめた。ここで奇妙な意地を張ってみせても、損をするのは結局のところ自分の方でしかない。過去の経験から学習していたことだった。
後日アパートの隣人たちに確認してみたところ、陽祐は自分の判断が間違っていなかったことを知ることになった。彼らの誰もが、秋山英文が煙草を吸っているところなど一度も見たことがないと証言した。暇を持て余すと無意識に煙草を咥えてしまう父に、何度も禁煙を勧めていた持田の小母さんまでもがそうだった。
――それが、記録されている限り最初の <摩り替わり> である。とはいえ、こうした現象は小学三年生以前から既に幾度も繰り返されてきたことだった。もし <摩り替わり> に関する最古の記憶を呼び起そうとするなら、更に時を遡り陽祐の幼稚園時代の出来事を掘り返さなければならない。
事の発端は、幼稚園でサッカーをしているとき、転倒して左膝をすりむく怪我をこしらえたことだった。足を伝って流れるのがあまりに鮮やかな紅血だったので、一〇年以上経った今でも強く印象に残っている出来事だ。
もちろん、その不運な事故は幼稚園側から父親に報告された。今度からは気を付けて遊べと注意も受けた。しかし翌日目覚めると、転倒の事実が綺麗さっぱり消え去っていたのである。傷は残っているのに、陽祐が怪我をしたということを誰もが忘れていた。父にも、一緒にサッカーに興じていた園長や園児たちにも確認してみたが、「そんなことは記憶にない」と逆に不思議そうな顔をされるだけだった。
これを切っ掛けに <摩り替わり> が意識されるようになった。現象の発生時期に一定のパターンはない。何事もなく数年を過ごせることもあれば、一年のうちに四度経験することもあった。
九歳以後の出来事に関しては、全て手元の大学ノートに記録してある。そこには、二年間続けていた少年野球《リトルリーグ》の在籍事実が抹消されたことや、覚えがないのに小学校の図書委員に任命されていたことなども記されている。
最新の記録として残されているのは、一昨年――高校一年生の二学期に発生した、比較的大きな <摩り替わり> だった。忘れようにも忘れられない。生涯最初の恋人がこの事件によってもたらされたのである。
ある朝、登校しようと名古屋の古アパートを出ると、待ち伏せでもしていたかのように見知らぬ女が玄関前に立っていた。それが彼女だった。
制服から、同じ学校に通う同学年の娘であることは分かった。それが全てだった。全く初対面の女子生徒である。名前すら知らない。それにも関わらず、彼女はにこやかに陽祐に歩み寄った。いきなり腕を取り、自分のそれと絡めようとする。驚いた陽祐は、反射的にその手を振り解いてしまった。何の真似かと問いただすその口調は、詰問するようであったかもしれない。事実、そうせざるを得ないほど恐怖していた。泣き出したかった。予感がしていた。
彼女は、恋人だと思い込んでいた相手の冷たい反応に呆然とした。やがて傷ついた顔をし、最後に嗚咽を堪えながら「自分たちは付き合っているはずではなかったのか」と訴えた。まさに晴天の霹靂であった。
しかし、いざ一緒に登校してみると、それが周囲に認知されていることを陽祐は思い知ることになった。クラスメイトや部活の仲間たちは、陽祐と彼女がそういう関係にあることを周知の事実として振舞っていたのである。
この事件は、陽祐の生き方に大きな波紋を及ぼすことになった。大変な衝撃だった。 <摩り替わり> は、顔さえ知らなかった人間を恋人にでっちあげることもあれば、またその逆――恋人を全くの他人に変えてしまうこともあり得ることに気づいたのだ。
増える分は良かった。まだ対応のしようもある。だが失うことには耐えがたい痛みが伴うだろう。明日になれば親友に名前を忘れられているかもしれない。父親にお前は誰だと言われるかもしれない。そしてそれらは、何の因果もなく唐突に発生し得る出来事だった。対処のしようなどありはしない。
陽祐は、他人に関わることをしなくなった。嫌われ、無視され、存在しないものとして扱われることを望むようになった。
本当に怖かったのは、今まで経験した以上の痛みを伴う <摩り替わり> が、将来的に発生するかもしれないことだ。失うことを恐れるあまり、既に友人知人を作れなくなっている。抱きそうになる他人への共感や好感を、自ら殺すようになってきている。これから先の人生でも、極めて消極的な生き方を続けていくことになるだろう。時に自らの正気を疑いながら。世界の変化に表情一つ変えない、完全な不感症を目指しながら――。
物理法則がダイナミックに変わるわけではなかった。自然の摂理が歪むほどの大異変ではない。それらは全て、陽祐の身辺に限定された、たった一つの前提の狂いに過ぎないのだった。
しかし本人にしてみれば、それが天変地異にも等しい環境の激変であることも少なくない。
当初は、こうした世界の <摩り替わり> が誰の身にも起こるものだと思っていた。だがそうではないことを知ってからは、とにかく周囲に不信感を抱かれ狂人扱いされぬよう、細心の注意を払いながら環境の変化を受け入れるようにするしかなかった。選択の余地などなかった。
周囲の人々から指摘されたように自分の勘違いなのか、記憶違いなのか。それとも自分は真性の狂人なのか。それを考えずに済むような生き方を心がけることこそ、陽祐の処世術となったのである。
2
誰かが階段を上ってくる音を聞きつけて、陽祐は我に返った。
<摩り替わり> に関して思考が渦巻き始めると、周囲の状況や時間を忘れてしまうのが自分の欠点であることは理解している。足音の主が自室に近付いてくる気配を感じ、陽祐は大学ノートを閉じてダンボール箱の中に放り込んだ。一拍置いて、開け放したドアから井上大作が人懐っこい童顔を覗かせた。
「こんなところにいた」
眼が合うと、大作は咎めるように口の先を尖らせた。同年で、しかも血の繋がりがあるにも関わらず、外見的にも性格的にも陽祐と大作との間に共通する部分を見出すのは難しい。少なくとも自分にあの表情を再現することは不可能だ、と陽祐はぼんやり思った。
「自分の部屋のことは後にしなよ、陽祐。居間とか台所とか、みんなで使う場所を優先的に片付けないと。伯父さんが一人で頑張ってたよ」
「みんなって言ったって、少なくとも一年は俺がひとりで住むことになるんだぜ」
「そうかもしれないけど、とにかく家族が共有する部屋から片付けていくのがセオリーだろ。陽祐がしばらく独り暮しするなら、なおさら家具の配置だとか色んな道具をどこに入れておくかだとか把握しておかないと。他人任せにしとくと、あとで探し回るはめになるよ」
「はいはい」
陽祐は小さく嘆息すると、のろのろと立ち上がった。確かに大作の言葉には一理ある。独り暮しは初めての経験となるのだ。他人の助言は有難く受けておいたほうが利口だろう。
「それから、これ。陽祐の荷物みたいだから持ってきたよ」
そう言って、大作は小脇に抱えていた小さなダンボール箱を差し出してきた。思わず受け取ってしまうが、自分の荷物は既に全て部屋に運び入れたはずだった。
「俺のじゃないぞ、これ。こんな小さいサイズのは使ってないし、俺の分はもう全部持ってきてある」
「でも <2Y> って書いてあるよ。それ、陽祐の荷物って意味なんだろ」
確かに大作の言う通りだった。引越し業者が用意してくれた専用のダンボール箱で、そのことを示す社章――円の中に鯨のシルエットがデザインされたマーク――が腹の部分に刷られている。そのほぼ隣に、陽祐の筆跡による <2Y> のサインがあった。
問題は箱のサイズが小さ過ぎることであった。二リッターのペットボトルなら三本収めるのが精々と思われる程度しかなかった。陽祐は今回の引越しで合計五個のダンボール箱を使用したが、そのどれもが二回り以上大きなものであったことは間違いない。
「どこにあったんだ、これ」
陽祐は箱を揺すりながら訊いた。箱は空と思われるほど軽く、振動に対して何の音もたてなかった。
「他のと混じって玄関に置いてあったよ。陽祐が運び忘れたんだと思ったから持ってきたんだけど」
「だから、俺のじゃないって」
それは断言できた。トランクスとTシャツ、ハンカチ、ポケットティッシュ、靴下などを詰めこんだ中型の箱が一つ。夏物衣類、冬物衣類を収めた大型が一つずつ。漫画本と教科書をまとめた小箱が一つ。学校関連のものと、その他諸々の雑貨を押し込んだ箱が一つ。この合計五個で陽祐の荷造りは完了した。それらにガムテープで封をし、「二階、陽祐の部屋」を意味する <2Y> という識別マークを書き記していったのも陽祐本人だ。間違いない。
「ちゃんと配分を考えながら荷造りしたんだ。記憶違いなんてあるはずないって」
「伯父さんなんじゃないの? 陽祐がまとめ忘れてた荷物を放りこんで、その印を入れたとかさ」
「それはあるかも知れない」陽祐は納得して小さく頷いた。
「それでも気になるならさ、開けて中身確かめてみたら?」
「多分、それが一番早いな」
陽祐は箱を床に下ろすと、ガムテープの封を一気に引き剥がした。
「でもそれ、やけに軽くなかった?」興味があるのだろう、大作が手元を覗き込んでくる。「片手で持てるくらいだったよね」
「確かに」
ガムテープを丸めて傍らに置くと、箱を開ける。大作が軽かったと不思議がるのも当然だった。何の冗談か中はほとんど空同然で、底に紙が一枚、張りつくように入っているだけだった。
大作が「道理でね」と半ば呆れたように呟く。彼は途端に関心を萎えさせてしまったようだったが、陽祐は眉間に皺を寄せたままだった。そっと箱の低部から紙片を摘み上げる。はがき大のものを単純に二つ折りにしたものであった。広げてみると、そこにはプリンタで印字したらしき明朝体の黒い文字が刻まれていた。気配で、背後の大作が再び興味を示し始めたのが分かる。
旧知のメーコ
第一の選択肢
陽祐は険しく眼を細めながら、それを二回読み返した。意味を成すとはとても思えない、奇妙な文章だった。メーコという言葉にも全く思い当るものはない。そもそも、これが自分に宛てられた内容なのかさえ疑問である。
裏返して他に文字がないかを探す。印字は片面にしかないようだった。表に戻して、念のためにもう一度だけ内容に眼を通したが、何度繰り返しても紙片の存在やその内容に心当たりはなかった。
「なにそれ。陽祐のメモ?」
「――いや」陽祐は視線を文字に固定したまま、気持ちだけ首を左右した。「俺のじゃない」
ダンボール箱に紙一枚だけを放り込むような真似はしないし、そもそも携帯電話のメール機能すら満足に使いこなせない機械音痴だからして、陽祐にはパソコンやワープロを使って文字を印刷する習慣などありはしなかった。それは父親も同様で、仕事でノート型パソコンを使用することはあっても、私生活にそれを持ち込むことはない。この程度のメモなら、自らペンを持って走り書きで済ませることだろう。
「なんなんだ、こりゃ」陽祐は思わず大作の相貌を仰いだ。「メーコって何か知ってるか?」
「俺に訊かれても困るよ」大作は困惑の笑みを見せる。
「面子なら聞いたことあるがねえ」
「なにそれ」
「知らないか? 俺たちの親が子供だった頃、そういう遊び道具があったんだよ。絵とか写真が貼り付けてある厚紙でさ、床に置いてある相手の面子に自分のを叩きつけて、引っくり返せば勝ちってやつ」
陽祐は無意識に手真似をして見せたが、相手には上手く伝わらなかったようであった。
「わけが分からないね。そんな変なの、本当に楽しかったのかな」
「当時の連中が、携帯片手に黙々とメール打ち込んでる俺らを見たら、同じ心配をしてくれただろうよ」
もっとも今の陽祐は、他人ではなく自分の心配をしなければならない立場にあった。用意した覚えのない箱が存在するだけでも不審感を抱かざるを得ない上、その中に得体の知れないメモが入っていたのである。当然のように、 <摩り替わり> の五文字が脳裡をよぎっていった。が、それを確認する術はない。
これまで頭を悩ませてきたのは、まさにこうしたケースだった。因果関係がはっきりとしない出来事に遭遇するたび、陽祐は常に迷わされる。それは何らかの偶然や、自分の与り知らない事情によって生じたトラブルなのか。それとも <摩り替わり> が関連した特異な問題なのか。いずれであるかを正しく判別し、然るべく対処しなければならない。中には、確信をもって <摩り替わり> だと断定できる事例もあった。だが、今回のように必ずしもそうとは言えない微妙な出来事の方が圧倒的に多い。それが現実なのである。
「陽祐って、わりと神経質なタイプだったんだね」
大作が意外な発見をした、という表情で指摘した。
「そうか?」
「俺だったら別に気にしないようなことだからね」
大作は視線で、陽祐の手にある紙片を示す。
「考えても仕方ないことは、考えるなってことなんじゃないかな」
「――確かにね」
大作の言う通りだった。考えるべきでないことは考えない。それは <摩り替わり> と付き合っていく上で必須ともいえる技能である。
「まあ、なんかの手違いか間違いかだったんだろ」
自分に言い聞かせるように呟く。立ち上がってジーンズのポケットに紙片を捻り込んだ。
問題は片付いたと判断したのだろう。大作が先にドアへ向かう。彼に続いて部屋を出ようとしたとき、一瞬だけ振り返ってダンボールの山を見た。整理のため床に並べられた私物の中に、七面鳥のロゴが入った茶色いボトルがある。瓶詰の日付、バレル、貯蔵庫、リックナンバー。文字は見えなくとも、それらが刻まれていることは知っている。二年前に一度、封を開ける機会があった。喉を通っていく熱の塊。抜けていくチョコレートのような芳香を思い出す。
また、あれの力を借りるような事態に至らぬよう願った。誰のためにも、それが良い。祈りにも近い思いだった。
3
引越し作業が一段落したのは日暮れ過ぎだった。業者が引き揚げ、更に助っ人の井上家の人々が帰宅すると、空洞の家具と辺り一面に積み上げられたダンボール箱の山が残される。荷物の多くは、取り敢えず各部屋に運び入れはしたが荷解きには至っていない、というものが多い。家の中から転居後独特の雑然とした雰囲気が抜け切るには、かなりの時間を要しそうだった。
井上家に誘われたが、英文が日本で過ごす最後の一日ということもあり、夕食は父子二人きりで摂ることにした。メニューは近所のコンビニで買ってきた冷凍そばだった。調理用具を押し込んだダンボール箱から必要最低限の道具を掘り出し、陽祐が刻んだ長ねぎを添えただけの簡素なものである。リヴィングに置いた小さな座卓を挟み、少し伸び気味になってしまったそばを英文と二人で啜った。秋山家では特に珍しくもない、日常的な食卓風景だった。
「大作君はどうだった?」
そばと一緒に買ってきた七味唐辛子の封を開けながら、英文が言った。
「どうって何が」
「従兄弟って言っても、連中とはなんだかんだと五年六年は会ってなかっただろう。上手くやっていけそうか」
英文の言葉通り、秋山陽祐と井上大作とは従兄弟の間柄である。もともと英文と大作の母である友子とは、歳が近しいこともあり仲の良い兄妹として知られていた。加えてどちらも若いうちに配偶者を失い、更には幼い子を抱えているという難しい事情もあった。両家は何かある度に連絡を交わし、互いを支え合ってきたのだ。陽祐と大作も会う度に一緒に遊び回ったもので、そのことに関しては若干ながら記憶に残っている。
もっとも、これは英文と友子が若い頃の話だった。秋山家が英文の転勤で頻繁に住居を変えてしまうということもあり、盆や正月にもなかなか顔を合わせる機会を持てなくなった。近年は少なからず疎遠になっていた感が強い。
「あいつは、あんまり変わったって感じがしないんだよな」
ペットボトルの烏龍茶を二人分のグラスに注ぎ分けながら、陽祐は呟いた。
「顔もあんまり変わってないし。大体あいつは、何年ご無沙汰だったとかあまり深く考えるタイプじゃないしね。人と打ち解けるのが上手い奴っているだろ。大作は間違いなくそれだよ」
「お前とは反対だな」
「それは俺も思った。五年以上も会ってなかった知り合いに、いきなり笑いかけるなんて俺はできない。相手がどう変わったか分かったもんじゃないしさ。そういうところを見ても、俺とあいつの共通点は皆無に等しいよ」
陽祐が両親の離婚によって母親を失ったのに対し、大作は死別という形で実の父親を亡くしている。どちらも生まれて間もない頃の話だ。こうして見ると、片親という生活環境は変わらないはずなのに、二人は対照的な性格の持ち主として育ったということになる。その分かれ目がどこにあったのか、陽祐には不思議だった。
陽祐と違い、大作は昔から人好きのする男だった。初対面の人間にも臆面無く声をかけることが出来た。その人当たりの良い性格と柔和な笑顔とで、どんなタイプの人間にも上手に対応していけた。自然、大作の周囲には大勢の人が集まり、彼らは互いに良好な友人関係を構築していった。 <摩り替わり> の影響とは関係なく、もともと内向的で人見知りする性格だった陽祐の眼には、そうした大作の明るさが羨ましく見えたこともある。
「――とにかく、しばらく家のこと頼むぞ」
陽祐が烏龍茶のグラスを手渡すと、英文は中身を一気に呷ってから言った。信頼されているのか、英文の表情にはそれほど心配した様子はない。どちらかというと、シンガポールに単身飛ばされることになった自分の身の方を案じているのだろう。実際、そうすべきであった。秋山家の家事はこれまで陽祐が一手に担ってたという経緯があるからだ。生活能力に欠ける部分がある以上、独り暮しに不安が残るのは父親の方なのである。
「まあ、ちょくちょく電話すると思うから、何かあったらその時に報告してくれ」英文は場を和ませるための笑みを浮かべた。「緊急の時の連絡先は、電話のところにメモしてある。それ以外の細かい相談は友子にのってもらうように頼んであるから」
「色んな手続きに関しては、書面にまとめてくれって言っておいたけど」
「ああ。光熱費とか水道料金だとかいう毎月のことは、俺の口座から引き落とされることになってるから、送られてくる領収書を保管しておいてくれるだけでいい。自治会に関しては、一応加入しなくちゃならないことになってるらしいが、事情を説明して特別に免除してもらってる。ゴミ当番だとか回覧板だとかは回ってこないから安心していい。自治会費の集金もない」
「本来はいくらなわけ、会費」
「一ヶ月に一〇〇〇円。三ヶ月に一度、担当者が集めて回るらしい」
言いながら英文は立ち上がり、三人掛けソファの上に投げ出してあったブリーフケースを開いた。中からクリアファイルに綴じた何枚かの書類と、通帳や印鑑の類を取り出してテーブルに戻る。
陽祐は箸を置くと、差し出されたそれらを受け取り内容を検めた。
「生活費は、郵便局のお前の口座に毎月五万振り込む」英文が再び口を開いた。「俺に納得させられるような理由で臨時の出費が必要になった時は、その銀行の通帳に一〇万のプールがあるから崩して使っていい」
英文は陽祐が手にしている銀行の預金通帳を顎で指した。
「ただし、基本的に俺に相談してからにしろ。時間的にその余裕がないなら、友子に妥当性を判断してもらえ」
「新聞は取ってもいいのかな」
「ああ、新聞か」失念していたらしく、英文は軽い唸り声をあげた。
陽祐は、新聞に眼を通すことを毎日の習慣としている。およそ今時の高校生らしくない話だが、これも社会の客観的な情報を保存の利く形態で入手したいという欲求が生み出した――すなわち、 <摩り替わり> の副産物であった。
「あれ、幾らだ」英文は何故か遠慮がちな口調で訊いてくる。「確か、朝刊は一三〇円くらいだっただろう」
「そう。月極めで三九二五円」
「約四〇〇〇か。生活費の五万から出せないか?」
「こっちの物価にもよると思うけど、まあ大丈夫だろ。朝刊だけ頼むことにするよ」
「大変かもしれないけど、それで何とかやりくりしてくれ」
「それより、このダンボールの山はどうすんの」陽祐は四方を取り囲む未開封の荷物の山に視線を巡らせた。「一応、大作にも手伝わせて少しずつでも片付けていく予定だけどさ、大量のゴミが発生すると思うよ」
「ダンボールみたいな紙類は、リサイクルするとかで普通のゴミとは別に回収してもらう。その他のは燃えるゴミとして処分していいぞ。こっちでは毎週火曜と金曜の夜に回収に来るらしい。その辺のことは、渡した紙と自治会規約だかにも書いてあるから見とけ」
「分かった」
「あと、戸締りはちゃんとしてくれな。少し前、近くに空き巣が入ったらしいから。江刺じゃ、小学生が何人か行方不明になってまだ見つかってないっていうし」
「了解。俺は小学生じゃないし、ウチに盗まれるような物があるかは疑問だけどな」
幼児の連続行方不明事件に関しては、陽祐もニュースで聞き知っていた。全国的に関心を集めている大きな騒動である。先週から茶の間を賑わせ始め、現在も誘拐の線で捜査が進められているが子供も犯人も未だ見つかってはいない。
「気をつけるに越したことはないさ」英文は念を押すように言った。「田舎は田舎なりに物騒なもんだからな」
話が一段落すると、二人して伸びきってしまった残りのそばを平らげた。食事の後始末は陽祐の仕事である。二人分の食器をキッチンまで運び、シンクに置いた。
「それにしても、念願叶ってマイホームを建てた瞬間に海外赴任とは災難だよな」
陽祐は腕まくりしながら、キッチンカウンター越しに微笑みかけた。
「そうじゃない。シンガポール行きの話を受け入れたから、マイホームを構えるために色々な都合をつけてもらえたんだ」
「へえ――」初耳だった。
「一度向こうに行けば、いつ帰って来れるかだって分かったもんじゃない。そもそも好きで受けるような話じゃないんだ」
英文は、布巾でテーブルを拭きながら淡々と語る。
「東南アジアを総括するって言えば聞こえは良いし、形式上は一応の昇進栄転ってことになる。でも仕事の量と責任が増すだけで、給料は雀の涙ほどしか変わらないんだぞ。この家買うための資金繰りに便宜図ってくれるって話がなけりゃ、誰が進んで手なんか上げるか」
もともとこの家は、一〇年前にとある家庭がマイホームとして建てた物だった。しかし長引く不況で彼らの大黒柱が折れ、月々のローン返済が不可能となったらしい。そうして彼らが土地家屋の維持を放棄したところに、英文が転がりこんだというわけである。この話が纏まるまでには、幾つもの幸運や偶然が必要であったのだろうし、また英文自身の努力も不可欠だったのだろう。
今を逃せば恐らく次は無い。そう考えた末の、英文にとっては大冒険だったに違いなかった。
「……ああ、そうだ。忘れるところだった」
洗った丼の水を切りながら、陽祐はジーンズのポケットに入れておいた例の紙片のことを思い出した。
「俺の分ってことになってる荷物がさ、箱一つ分多く届いてたんだよ。何か知らないかな?」
「どんなやつだ」
テーブルを拭き終えた英文が、目で合図を送ってから布巾を投げて寄越した。何とか受け止める。
「かなり小さ目の箱。俺の部屋に運ぶ用の印が付けてあった」
「知らないぞ」
英文は考える素振りも見せずに即答した。悪戯事を隠すために嘘を吐いている様子はないし、そもそも彼はそういうことをするタイプの人間ではなかった。
「そっか」
陽祐は布巾を水洗いしながら小さく頷いた。予想していた返答ではあったが、正直なところ落胆もある。
「何が入ってたんだ」
「いや、空箱だったけど」
「じゃあ問題ないだろう」口調と表情とで、英文がこの話題に関心を失ったのが分かった。「お前が組み上げて、結局使わないまま忘れてたやつがあったんじゃないか」
「多分ね」
取り繕うような笑みと共にそう返しはしたが、陽祐は自分の言葉をこれっぽっちも信じてはいなかった。逆に、不安と得体の知れない不快感が胸の内で黒い染みのように広まりつつある。英文の悪戯という微かな線が消えた以上、この件は <摩り替わり> によってもたらされたものなのかもしれない。
だとすれば、それは陽祐すら知らない新たな種の <摩り替わり> かもしれなかった。