世界が認めた二傭兵の仕事には、そつがなかった。
 そのことは沈みゆく <テュルフィング号> からヘリを浮上させ、無線で位置確認した救助船に着地したとき、改めて思い知らされた。
 最善の努力はしたものの、僕は結局、沈没する客船から一人の乗客も救い出すことができなかった。時間的な制約の関係で、自分の身一つを浮上させるだけで精一杯だったのだ。
 でもあの二人は、そこのところをちゃんと計算にいれて計画を立てていたらしい。乗客たちを避難させるため、予めもう一隻の船を救助用としてチャーターしていたのだ。
 その船はあの二人が指定した時間になると、約束通りの場所にきちんと姿を現し <テュルフィング号> と合流したようだ。

 そして、負傷した僕が四時間の仮眠をとっていた間、救助船は決戦の場となる <テュルフィング号> の乗客を丸ごと受け取り、早々に退避を完了させていたわけである。
 僕が船長室に向かい渚カヲルと対面した時には、既にテュルフィング号の船内はもぬけの殻になっていたってことだ。
 ――もちろん、そうしたことは予測の範囲内にあった。共に戦場で生活を共にしていた時もそうだ。彼らは捕虜にした敵兵がいたとしても、人道的に接することを常としていた。それは国際法云々とは関係のない、彼ら独自の方針に従ってのことだ。
 まして今回の事件は、個人的な問題に決着をつけるために引き起こされたもの。その演出のためにサクラを用意すること自体、決して誉められたことはではないが、かといって彼等を巻き添えにして船を沈めるというような暴挙に及ぶほど、彼らは卑しい人間ではない。

「失礼、お名前を確認させていただいて宜しいでしょうか。」
 デッキに立ち、既に海中へと消えていった <テュルフィング号> の方角を見詰めていると、背後から声をかけられた。振り向くと、セーラー服に身を包んだ若い船員がメモのようなものを手にして立っていた。
 救助船のデッキには彼の他にも大勢の船員がいて、同じようにメモを片手に奔走していた。恐らくそのメモは、二人の傭兵から事前に渡されていた乗客名簿のコピィだ。
 彼らは <テュルフィング号> から迎え入れた人々に毛布を渡し、その上でデッキに集まるよう呼びかけ、救いそこねた人がいないかをこうして確認して回っているのだ。
「僕は碇シンジです。ひょっとしたら、何でも屋 <いかりん> 名義で登録されているかもしれませんが。」
「いえ、イカリ・シンジさんですね。確かに記載されています。」
 リストを何枚か捲ると、船員は小さく頷いて見せた。
「失礼ですが、下に登録されている碇アスカ様というのは?」

「えっ……」
 僕がリストの方へ首を伸ばすと、船員はこちらにも見えやすいように書類の角度を変えてくれた。確かに <イカリ・シンジ> の下に <イカリ・L・アスカ> の名が刻まれている。
「ご家族というわけではないのですか。」
 怪訝な顔をした僕を見てアテが外れたと解釈したのだろう、船員は確認のため問い重ねてきた。
「――いえ、彼女は僕の伴侶です。正確にはまだ婚約者なんですけどね。」
 僕は微笑みながら、断固とした口調で言った。
「でも、彼女は急な事情があって海の向こうにいます。あの船には乗らなかったんですよ。」
 その一言に説得力を感じたらしく、船員は納得したように頷いてみせた。そして彼は婚約を祝う言葉と確認に付き合わせた礼を残して踵を返すと、他の未確認乗客を探しに毛布の群れに向かっていった。
 その後姿をしばらく見送ったあと、僕はデッキの手摺に歩み寄り再び夜の海に視線を投げた。闇に融け込むような穏やかな夜の海原は、見詰めていると吸いこまれそうになる。
 いつかは僕もこの海に還ることになるだろう。でも、今はまだその時ではなかった。

「……そういえば、なぁんか忘れてるような気がするんだよな。」
 海を眺めているうち、ふとそうした奇妙な感覚が湧き上がってた。
 とても大切なような、でも本当はどうでも良いような、たとえるなら出かかってはいるが、なかなか出てこようとしないクシャミのような存在。
「駄目だ、思い出せない。ああもう、イライラするなあ。何なんだろう。」
 僕は何かヒントになるようなものが得られないかと、毛布を被った群集とその間を飛び回る船員たちの方へ視線を移した。
 救助船、毛布、テュルフィング号、乗客リスト、船員、確認、救われ損ねた者。
 そこで、唐突に思いついた。
「ああそうだ、時田君だ。……素で忘れてた。」

 恐らく他の乗客と一緒に救出されたとは思うのだけど、アスカがどこかに軟禁したままその存在をど忘れしていたりした場合、逃げそびれて <テュルフィング号> と共に海の藻屑になった可能性もある。
 彼女は基本的に頭の良い人なんだけど、たまに信じられないような大ドジを披露してくれるお茶目さんな一面があったからなあ。今回それが出なかったとは言いきれない。
 平時なら僕自らが救出に向かうことも出来たけれど、爆破による沈没が間近に迫っていた時は彼のことを考える余裕がなかった。乗客たちが既に避難を完了してるという保障もなかったから、ヘリを探して格納庫に向かいつつ彼ら一般乗客の姿を追い求めていたのだ。
 時田君も一応はプロなんだから、危急の時は上司の力添えなんかをあてにせず自力で自分の安全は確保して然るべきということもあったし。

 僕は最悪の事態を想定して、再び海に祈りを捧げることにした。
「海の藻屑になったかもしれない、時田君。フォーエヴァー!」
 両手を高々と掲げ、鎮魂の叫びをあげた。たぶん死んでないとは思うけど、プロたるもの常に万が一のことを考えておかなければならない。化けて出てこられても非常に迷惑だし。
「せんせえー。さーがーしーまーしーたーよー。」
 唐突に、背後から声をかけられた。さっきの船員の覇気に満ちた声とは違い、今度のは海の底から這い上がってきた亡霊のもののような声だ。
 嫌な予感をヒシヒシと感じつつも、僕は振りかえってその声の主を確認してみることにした。
「うわっ、汚っ!」
 そこには頭にワカメっぽい海草を付着させた、ズブ濡れの時田君が立っていた。
「可愛い部下の無事を確認しての第一声がそれですかっ。」
「おのれ、早速化けてでるとは。この上司不幸者。僕の祈りを返せ、そして海に還れ!」
 なんとか海に放りこもうとする僕と、それに必死の形相で抵抗する時田君との小競り合いは熾烈を極めた。三分ほどだけど。



「――まったく。亡霊じゃないらなら、なんで最初にそう言わないのさ。」
 なんとか情報の並列化を果たし、互いが生きた人間同士であることを確認しあった僕らは、二人に割り当てられた一等船室に落ちついていた。僕が怪我をしていることから、ベッドつきの部屋を優先的に手配して貰えたのだ。もちろん、時田君はオマケである。
 横浜港に帰りつくまでは六時間ほどかかるらしいが、その間ずっと、この狭苦しい二人部屋で時田君と顔をつき合わせていなければならないなんて、まさに拷問そのものだ。傷が余計悪化しそうな予感がした。
「だいたい、時田君はそれでなくても亡霊みたいな生白い顔してるし、ニ七歳のくせに四七歳みたいな風貌してるわけだし、救いようのない変態なんだしさ。常日頃からその辺をもっと自覚してもらわないと困るよ。」
「有無を言わさず海に投棄しようとしたのは先生じゃないですか。」
 支給された毛布で身をくるみ熱いコーヒーを啜る時田君は、生意気にもそう反論してくる。なんて罰当たりな男なのだろう。これは横浜につく前に隙を見て、本当に海洋投棄すべきかもしれない。

「ときに先生。」
「ん?」
「綾波さんたちは……彼らはどうなったのですか。先生とあの船に残ったようですけど。」
 僕の顔色を窺いながら時田君は言った。
「もし私に聞く資格があるのでしたら――」
「二人でまた旅に出たよ。」
「それは……」
 僕は虚空にさ迷わせていた視線を時田君に向けた。
「心配しなくていい。再会の約束はしてあるから。」
 それでも、時田君は何かを察したようだった。沈痛な面持ちで静かに俯き、手にしたカップで揺れる琥珀色の水面を見詰めている。
「ごめんね、時田君。そんなわけだから、僕は少し疲れてるんだ。」
「はい――」
 時田君は重たい声と共に頷いて見せた後、僕の左肩に心配そうな眼をせ寄せた。
 医務室で簡単な応急的処置は受けたものの、五〇口径が掠めていった肩の傷はかなり深刻なものだった。陸に戻ったら即病院送りだろう。
「僕ならすぐに治るよ。でも今は、ちょっと海を眺めてたい気分なんだ。」
 そうして再び甲板に向かおうとする僕を、時田君は止めなかった。
 だから岸に辿りつくまでの間、僕は潮風に吹かれながら誰にも邪魔されることなく、テュルフィング号の消えていった海を眺め続けることができた。

 その海原の眺めを、僕はきっと死ぬまで忘れることはないだろう。





THE LASK:FINAL




 ――春が訪れた。

 入口ドアを潜ると、真っ直ぐにいつも利用している二番窓口に向かう。そこには期待した通りの姿を見つけることができた。贔屓にしている、いつもの女子事務員だ。
 笑顔で挨拶すると、彼女は朗らかに微笑み返してくれた。
「いらっしゃいませ、碇様。そろそろ、お出でになる頃だと思ってました。」
 後半部分は隣に聞こえないよう、小声で囁きかけて来る。街角でばったりあったとき一緒に軽く食事したことがあるから、彼女とは結構仲が良い。名前まで覚えられていた。
「また送金をお願いしたいんだ。」
 僕はポケットに突っ込んできた一〇〇万円分の札束を彼女に差し出した。ドイツへ送るものだから、EUROに両替した上で送らなければならない。ATMを使わず、窓口を経由する理由だ。
 もちろんマザー・クレアの孤児院も寄付金受付用の口座くらいもっているのだけれど、僕は直接受けとって欲しくて、いつも郵送という手段をとっている。もう一〇年以上続いている習慣だ。今日に至っては少し儀式的な意味合いも付与されて、今更変える気にはなれないことなのだ。

「また匿名でお送りになるのですか?」
 テキパキと札束を操り、機械を使って枚数を確認しながら彼女が問いかけてくる。
「そうだね……」僕は少し考えてから首を左右した。「いや、今回はアスカ・L・イカリ名義で送りたい。」
「アスカ・L・イカリ様、ですか?」
 怪訝そうな表情をする彼女に、僕は微笑み返した。
「天国にいる僕の戦友なんだ。今度からは、彼女に代わって寄付を続けることにするよ。」
 戦友という言葉に、彼女は更に混乱したようだった。その顔が面白かったので、思わず声を出して笑ってしまう。すると気を悪くしたのか、小さく頬を膨らませた彼女に睨まれてしまった。
 今度また街で出くわすことがあろうものなら、根掘り葉掘り聞かれてしまいそうだ。いや、彼女もプロだからしてその辺は遠慮してくるかもしれない。
 どちらであったとしても、彼女が愛嬌のある窓口担当であることに違いはなかった。


 無事に現金の郵送手続きを終えると、麗らかな午後の日差しを浴びながら事務所までブラブラと歩き帰った。
 あのテュルフィング号の事件から、もう季節が一つ流れ過ぎた。秋が終わり冬が去り、春が目前にまで来ている。
 日本人乗客を多数乗せた豪華客船テュルフィング号の爆発炎上、そして沈没を伝えるニュースは、しばらくの間ではあったけれど確かに世間を賑わせた。でも今は、ワイドショーの小ネタとしてすらも取り扱われることはない。
 エンドレス・デュエルを謳われた悲しい戦いは、これを以って真の閉幕を迎えたのだろう。天下泰平、事も無し。それはそれで良いのだと思う。

 事務所に辿りつくと、自室のある三階に向かう途中、二階の仕事場を覗いてみた。時田君は何やら書類の整理に追われているらしく僕の気配に全く気がつかない。
 そのまま仕事をさせておくことにして階段を上りきる。僕の今日の仕事は、さっきの送金で完了済みだった。ジャケットを脱いでクローゼットにしまうと、いそいそとベッドに潜りこむ。
 なんど時田君に小言を食らったところで、真昼間から惰眠を貪るこの快感は一度味わうと止められなくなるものだ。
 日の光をたっぷり浴びた柔らかな布団に埋もれ、僕は安らかな眠りについた。

 ――それから、どれくらいの時が流れただろう。
「……ぃ。」
 心地良いまどろみのなか、何処からとも無く天使の声。
「……せい。」
 ゆさゆさ。ゆさゆさ。
「……んせい。」
 ゆさゆさゆさ。ゆっさらゆっさら。
「せんせいっ!」
 ぐらぐらぐら。ゆさゆさゆささ。
「せんせいってば、先生ッ……ええ加減起きんか!」

ドコスッ

「あぅ〜。」
 頭部に強い衝撃を受けた僕は、渋々、しかたなぁくその目を開いた。その途端、視界に飛び込んでくる、とても直視できたものではない暑苦しい顔。
「悪かったですね、直視できたものではない暑苦しい顔で。」
 男は小刻みに震えながら何かを堪えるように低く言った。
「うぅ〜ん、時田君、何時の間に読心術を会得したの? スゴイよ。」
 僕はパチパチとやる気無く拍手しながら言った。
「顔を見れば一発で分かります。」
「え、本当に体得したの? う〜ん、困ったな。」
 どうやら毎日同じことを考えるせいで、彼には僕の思考パターンを完璧に読まれてしまうようになったようだ。これなんとかしないと、後々酷い目にあってしまうような気がする。注意しなくては。
「じゃあ、そういう事で。お休み、時田君。」
 僕はそう言うと、布団に潜り込み夢の世界に旅立っ――

「そうはいきません。先生、大事件が発生しました。」
 ガシッと僕の手を掴みながら、時田君は慌てた様子で叫んだ。
「大事件だって?」
「そうです。帳簿の整理に際して先ほど金庫を開けてみたのですが、先日の行方不明人捜索で得た成功報酬の一〇〇万円が忽然と姿を消していました。」
「なに、時田君ってばまた性懲りもなく使いこんだの?」
「これまでも再三申し上げてきたことですが、私は横領、着服、使い込み等は一切やったことが御座いません。」
「分かるよ、時田君。」
 僕は布団からモゾモゾと這い出ると、ベッドの上であぐらを組んだ。そして時田君を見上げ小さく頷きながら、同情を示すために彼の背を軽く叩いた。
「確かにとんでもない悪事を働いた人間は、なかなかそのことを言い出せないものだ。だけど表情の上では平静を装ってはいても、今の君は必死にその良心の呵責と戦っている。
 またもや、大恩のある碇大先生を裏切るような行為に手を染めてしまった。ああ、私はなんと汚らしい人間なんだろう。いや、もはや人間などではない。畜生だ。ゴミだ。クズだ。ダストだ。――とまあ、今の時田君はこのような葛藤に悶え苦しんでいるはずだ。」

「よくもまあ、そうポンポンと在りもしない人の葛藤を勝手に捏造できますな。」
 呆れた顔を装って、時田君は言う。
「良いんだ、分かるよ。」
 僕は理想的上司と褒め称えられるべき理解を示しながら、優しく言った。
「さっきも言ったけれど、自分のしでかした罪の大きさを悟り悔恨にくれる人間は、なかなか素直に己の罪を告白できない。よくあることさ。だが、僕はそれを許そう。大いなる慈悲の心をもって許してしまおう。だから時田君、君はもう苦しまなくて良いんだ。」
「苦しむもなにも、私には何ら関係のないことです。」
「分かってるとも。君がそこまで言うなら、そういうことにしておこうじゃないか。」
「あのですね……。」
 時田君は何か言いかけたが途中で口をつぐみ、疲労を色濃く感じさせる溜息をついた。

「――ときに先生、さきほど付近住民に目撃情報を募ったところ、昨夜遅く、頬かむりをした怪しげな男が事務所の周囲をうろついていたという話が複数出てきたのですが。」
「ふうん。」
「特徴を確認してみると、それが何故か先生との共通点を多数含んでいるようでして。」
「奇妙な偶然もあるものだね。」
「参考までにお聞きしますが、昨晩十一時頃、先生はどこでなにをしておられましたか?」
「ここで寝てた。」
「それでは、一〇〇万円を盗んでいった男がその金で豪遊を始めたと思われる今日の午前中、どこにも先生のお姿をお見かけしませんでしたが、この時は何を?」
 なんだか、段々と尋問の様相を呈してきたような気がするのは僕だけだろうか。
「今日の午前中? もちろん、街角で事務所のビラくばりさ。所長たるもの、常に営業努力を惜しんではならないからね。午前中はずっとその仕事に従事して、さっき帰ってきたところだよ。」
「ほう。」時田君は底意地の悪そうな眼で僕を睨めつける。「先生が頼まれもせずにビラ配りをねえ。」
「なに、その嫌らしい目付きは。嫌いだなあ、僕。そういう眼。」

 ――とその時、天の助けか二階からカウベルの音が聞こえてきた。来客が事務所のドアを開けたのだ。新しい仕事のネタを引っさげたクライアントのお出ましかもしれない。
「フッ。さっそく僕のビラ配りの効果があらわれたようだね。」
 下に降りて応接するよう僕が命じるよりも早く、事務所の困窮のしわ寄せを食らうポジションにある時田君はエイトマンも真っ青の速度で駆け去っていった。
 その後姿を見送りながら、僕は己の迂闊さを呪った。
 神様、僕は浅はかで罰当たりな男でした。今は心から反省しています。
 あの時は色々なことが一度に起こり過ぎてまともな判断力を失っていたわけだけど、だからといって何故あんなにも使える時田君を外洋に沈めようとか、海の藻屑にしようとか、海洋投棄しようとか考えたのだろう。
 彼がいなければ、この事務所の経営は成り立たない。
 僕の気分次第で自由にサラリーをカットしたり、事務所からお金を持ち出した罪を一方的になすりつけたり、身の回りの雑用や使い走りを強制的にやらせたり、僕が惰眠を貪っているあいだ働き蟻のようにコキ使える人間などそうそういやしない。
 これからも時田君を酷使する一方、僕だけは楽をして生きようと心に固く誓った。

 ああ、なんだか珍しく殊勝に懺悔と反省などしてしまったせいで、心が無駄に清々しくなってしまった。ここはバランスをとるために、すこし惰眠を貪るべきだろう。あんまり頑張り過ぎても身体を壊してしまう。
 僕は自分の思いつきに満足すると、またモゾモゾとベッドの中に潜り込んで行った。
 二度寝は良い。これぞ、人類文化の極みだね。

 ――それから、どれくらいの時が流れただろう。
「……ぃ。」
 心地良いまどろみのなか、何処からとも無く天使の声。
「……せい。」
 ゆさゆさ。ゆさゆさ。
「……んせい。」
 ゆさゆさゆさ。ゆっさらゆっさら。
「せんせいっ!」
 ぐらぐらぐら。ゆさゆさゆささ。
「せんせいってば、先生ッ……ええ加減起きんか!」

ドコスッ

「あぅ〜。」
 頭部に強い衝撃を受けた僕は、渋々、しかたなぁくその目を開いた。その途端、視界に飛び込んでくる、とても直視できたものではない暑苦しい顔。
「悪かったですね、直視できたものではない暑苦しい顔で。」
 男は小刻みに震えながら何かを堪えるように低く言った。
「なんだ、また時田君か。あのねえ、何かあるたびに僕の安眠を妨害するのやめてくれないかな。」
 過労で倒れそうな上司が、やっと見つけた短い時間を利用して暫しの休息をとろうとしているときに、あろうことかそれを部下が邪魔するとは、これ如何なることだろう。
 こんな理不尽なことがまかり通って良いわけがない。したがって僕には眠る権利がある。
「じゃあ、そういう事で。お休み、時田君。」
 僕はそう言うと、毛布に潜り込み夢の世界に旅立っ――
「そうはいきません。先生、お客様です。」
 ガシッと僕の手を掴みながら、時田君は努めて事務的に言った。
「お客ぅ?」

「はい。下に依頼者がお見えになっています。失われた一〇〇万円を稼ぎ直すチャンスです。」
「ふうん。まぁ、いいや。眠いから帰ってもらって。」
 無下にそう言い放つと、僕は再び布団に潜り込み甘美な夢の世界に旅立っ――
「そうはいきません、先生。」
 だが、僕の旅立ちはまたしても無慈悲な時田君よって阻まれた。
「もう、なんだっていうのさ。安眠妨害ってのはね、立派な犯罪なんだよ。」
「何を言ってるんですか、先生! 珍しく仕事をしてお金を稼いだと思ったら、いつもコッソリ盗み出して一瞬にして使い果たしてくるし。毎度毎度、事務所の経営を苦しくしているのは先生なんですよ。少しでも良心というものがあるのなら――」
「良心?」寝惚け眼を擦りながら僕は時田君を見上げた。「ああ、残念。いま切らしてる。」
「では、可及的速やかに補填してください。」
「だから、そのためには眠る必要があるんだ。」欠伸をしながら僕は律義にそう応えた。「そういうわけで、僕は可及的速やかに寝る。お客様の相手の方は時田君に一任するから、適当にあしらってお金だけ貰っておいて。うん。それじゃ、そういうことで。グッナイ。」
 もぞもぞとまた布団へ潜り込もうとする僕に、時田君は大袈裟な溜め息を吐いてみせた。
「残念ですね。今日の依頼人は、先生好みの若く! 可憐な! 女性! だったのですが」

「えっ!」
 にょにん。女人ですと!?
 自分でも哀しいくらいに反応してしまう僕。既に眠気など吹っ飛び、おめめパッチリである。
 思えば来る日も来る日も困難な依頼が立て込み、仕事に忙殺される毎日。妙齢の女性と甘い一時を過ごすことすら許されない、この辛い身の上。
 碇シンジ二十二歳、独身。このチャンスを無駄に出来ようものか。否、出来ん!……と言うより、してたまるか!
「まあ、先生がそうおっしゃるならば、しかたがありません。この私めが、みっちりとふたりきりでお相手してまいりましょう。」
 そう言うと、時田君はもう一度わざとらしい溜め息を吐いて踵を返した。
「はぁ〜、それにしても残念です。まだ世間の汚れを知らぬ! 純粋極まりない! 天使のような! お方だと言うのに」
 ――とどめである。
「ちょぉっと待ったぁ!」
 タオルケットを跳ねのけ、僕はバッと起き上がりながら言った。その叫びに、戸口へ向かいかけた時田君はピタリと足を止める。

「おや、先生。お休みになるのではなかったのですか?」
 その口元はニヤリと邪悪に歪んでいた。この男、だんだん扱いにくくなってきたぞ。
「いやいや、せっかく客人が依頼を持ってやってきてくれたんでしょ? やはり人間として、そして男、否、漢として、ここは主人自らが接待すべきではなかろうかと僕は考える!」
「そうですか?」
「そうだよ。折角のお客様をヘッポコ時田君にお相手させるなんて、そんな恥ずかしいマネは出来ないよ。失礼極まりない、人間として決してやってはならない畜生にも劣る行為だ。ゴミだ。産業廃棄物だ。食べ終わった空弁当箱にのこった緑のギザギサだ。」
「絞め殺してやりたい。」
「まあまあ、時田君のヘッポコは今に始まったことじゃないし、もう諦めてるよ。そんなことより御婦人をお待たせするなんて失礼だよ、キミ。男、否、漢としてあるまじきことだ。そういうわけで急ごうではないか、時田君。その若さ溢れんばかりの美女のもとへ!」
 返事も待たずに、僕は私室のドアに弾む足取りで向かった。人はこれをスキップと言う。
 後ろから時田君がトボトボとついてくる。振返って見なくても、彼が何とも言えない複雑な表情をしていることは分かっていた。

「――ところで時田君。」
 僕はスキップの足をピタリと止めると、ドア付近で後ろを振り返った。お疲れ模様の時田君は、ワンテンポ遅れたタイミングで「なんですか」とやる気なさそうに答える。
「これって既視感ってやつかな。どうも、前に似たような展開があったような気がするんだけど。」
「そうでしたか?」
 私は毎日同じことを繰り返しているようにしか思えませんが、と時田君は小首を傾げる。可憐な少女がやるならまだしも、中年にしか見えない時田君ではちっとも可愛く見えない。
 やはり海洋投棄して永遠におさらばすべきだった。そして、もっと献身的で明るくて可愛くて柔らかい、スベスベした良い匂いのする女の子助手を雇うべきだったのだ。

 ……そうだよ、なんてことだ。
 今、電気が背中を走り抜けていくような戦慄と共に気付いたけど、女の子助手を雇いさえすれば、僕の昼寝タイムは更に甘美なものとなるじゃないか。女の子が添い寝してくれて、女の子の優しいチューでお目覚めできる。
 顔面スプラッタ・ムービーの異名をとる時田君に、むさ苦しく揺すり起こされるのとは月とすっぽん。
「よーし、この仕事でたんまり稼いで、時田君を首にするぞー!」
 僕はがぜんやる気になった。
「はい、頑張りましょう!……って、先生。極ナチュラルに仰られたので一瞬聞き流しそうになりましたが、いま死ぬほど不吉なことを宣言しませんでしたか?」
「グチグチ言ってないで行くよ、時田君。何でも屋 <シンちゃん> 始動だ。」
「また事務所名が変わってるじゃないですか。……あ、看板が本当にまた変えられてる!?」
 ――いよいよ、僕にも春の予感である。シンジ・ザ・スプリングマン・バージョン春。
 詩的に表現すれば、こんな感じだろうか。

「ちょっと、先生。先生!」





fin.


■初出

LASK FINAL「閉幕 Curtain」2004年07月02日

本作は旧版の最終話として書き下ろされた作品です。

<<INDEX Copyright (c) 2000-2004 by Hiroko Maki
and Based upon and incorporating the GAINAX animation "EVANGELION".
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