FILE:015 <bye‐bye my love.>


 彼の死と共に僕の人間としての一部分も失われ、自分が別人になってしまったかのような気分がした。
 どの戦場でもそうだ。戦いが終わった後の焼け野原に立ち竦むとき、人は喩えようもない喪失感に襲われる。争いはいつも虚しさしか残してはくれない。
 それを知りながら、渚カヲルはこの決戦の場をセッティングし、あくまで真っ直ぐに彼女を求め続けた。同様の強い想いを抱きながらも、僕が選んだ道は彼とは違った。
 二人の相違はどこから生まれたのだろう。アスカ・ラングレーは自分にとって一体どのような存在だったのだろう。
 改めて自問したくなったが、今の自分にそんな余裕がないことは分かっていた。

 事切れた戦友の目蓋をそっと閉じ、感覚が失われて久しい右肩を抑えながら立ち上がる。僕はそのまま老人のように頼りない足取りで歩を進め、伏した彼女の傍らに再び膝を落とした。
 うつ伏せに倒れていたはずのアスカは自力で体勢を変え、今は仰向けになって星空を見上げていた。僕の気配を察知すると、額に脂汗を浮かべ荒い呼吸を必死に整えようとしながら視線をこちらに向けてくる。
 相貌が青白く見えるのは、何も月光に照らされているからばかりではない。生命力をごっそりと削ぎ落とされ、いつも太陽のように輝いていた彼女は老婆のように萎れて見えた。
 でもそれでなお、やっぱり彼女は綺麗だった。

「――ごめんね、シンジ。」
 そんな謝罪の言葉と共に弱々しく差し伸べられた手を、包みこむようにして握り取る。
「何も謝ることはないよ。」僕は微笑んで見せた。「君は巻きこまれただけだ。」
 だが彼女は悲しげに首を左右した。長く艶やかなブロンドが緩やかに揺れる。
「あたし、選べなかった。自分の痛みばかり恐れて、貴方たちのことにまで思考が及ばなかった。こんな結末を呼ぶ前に事態を収拾することができた、唯一の存在だったのに。」
 だからごめんね、と彼女は繰り返した。
「あの頃は、みんな幼かったから。」
 僕は彼女の手を握る指先に少しだけ力を込めた。出血と共に彼女の中から零れ落ちていく生命力を、そうすることで補填できれば――と願った。
「きっと、誰もが少しずつ間違っていたんだ。でも、僕らは僕らなりに懸命だった。あれが三人の精一杯だったんだ。愚かだったとは思うけど、少なくとも僕は自分の選択を悔いたことはない。」
 首を気持ち捻り、背後に横たわった戦友を一瞥する。僕はアスカに眼を戻すと続けた。
「――きっと、彼もそうだったと思うよ。」

 アスカは何も答えず、ただ掠れかけた声で「カヲルは逝ったの」と訊いた。
 小さく頷き返す。
 彼女はそれを確認すると僕から視線を外し、再び頭上に広がる星海原を仰いだ。陸から遠く離れた公海上の夜空はどこまでも澄み渡っていて、甲板に横たわる彼女の体勢からでは望み得る限り最高の眺めを期待できるはずだった。
「こうなったのは、きっと天罰ね。」
 自らの鮮血に染まった手を面前に掲げ、彼女は自嘲するような笑みを浮かべた。
「あたしもすぐにカヲルの元へ行くんだわ。そしたら彼にも謝らないと。」
 自分のような酷い女は、彼とは違い地獄に向かうのかもしれないけれど――と、彼女は悲しげに眼を細める。
「彼はそんなこと望んじゃいないよ。それに、アスカは死んだりしないさ。知ってるよね、グロック17の使用カートリッジは、貫通力が高くて殺傷能力が低い <9-para> だよ。マンストッピング・パワーにも欠けるから最近では田舎の警官すら使わなくなってきてる。」
 アスカは、まるで孤児院のマザー・クレアのような表情で僕の言葉を優しく聞いていた。何故かそれに焦燥感をかりたてられ、僕は早口に続けた。
「幸い、弾は急所を外れて貫通してるみたいだから安心して良いよ。出血が多いから凄い傷に見えるけど、実際は大した事ないんだ。今から救助ヘリを要請して、病院へ緊急配送してもらうよ。メディカルセットもあるから、応急処置も万全だし。」

「シンジはそうよね。優しいけれど、それがいつも残酷に作用する。」
 彼女はそう言ってこちらの言葉を遮ると、小さく「うそつき」と続けた。
「あたしはもう駄目よ。これでも幾多の戦場を潜り抜けてきた傭兵の端くれなんだから。赤黒い血を見ればそれが内臓をやられた証拠だと分かる。こんな場所でその色の血を見ることが、何を意味するかだって――」
「もういい。もう、喋らなくて良い。」
 彼女の手を握った腕に更なる力を込めて、僕は半ば叫ぶように言った。男の握力に苛まされたアスカは相応の痛みを感じているはずだったが、それでも顔色一つ変えず、文句一つ言わなかった。烈火のように機嫌を悪くし、手を払いのけられ、怒鳴り散らされることを期待していたのだけれど。
 代わりに彼女はゆっくりと目蓋を閉じ、波の音に耳を澄ませながら「静かね」と呟いた。

「兵どもが夢の跡ね。波の音がとても心地良い。」
 しばらくしてから彼女は言った。苦しげな呼吸は既に規則性を失い、断続的に酷く乱れたものになっていた。残された時間は少ない。それを知りながら、彼女は必死に声を絞り出していた。まるで命そのものを変換し、僕に投げかけようとするかのように。
「なんだか、とても綺麗な気持ちになれる夜だわ。」
 彼女の瞳から透明な涙が溢れ出し、繭のように膨らんだ。やがてそれは静かに弾け、目尻から青白い彼女の横顔を伝っていく。
「この三年間、ずっと苦しかった。ずっと寂しかった。シンジの顔が見たかった。」
 僕は、自分も同じだったと囁き返した。彼女は嬉しそうに顔をほころばせる。
「そんな辛い時期もあったけど、でもあたしはとても幸せだった。この世に生を受けたことを喜べた。何故だかわかる?」
 僕の返答を期待してはいなかったのだろう。目を悪戯っぽく細め、彼女はすぐに続けた。
「あの日、シンジと会えたからよ。」
「うん、それは僕もだ。」
 気付いたときには、両親の記憶すら持たない孤独な子供だった。ただ、身体中についた痣や傷痕、煙草を押しつけられた火傷の痕跡などから、自分が求められない命として誕生し、捨てられたことを知った。自分の存在意義に確信を持てない日々を苦しみながら生きてきた。
 でも、アスカに会えた。彼女のおかげで僕は変わることができた。碇シンジという存在を手にすることができた。
「――僕はアスカに人間にしてもらったんだ。」

 彼女は泣きながら微笑み、次の言葉を紡ぐために必死で呼吸を落ちつけようとしていた。だがその努力はなかなか報われない。言葉の代わりに、アスカは何度も血の塊を吐き出した。
 本来なら、これ以上なにも喋らせるべきではない。しかし、僕にはもう彼女を止めることはできなかった。自らの死を悟った人間の最後の願いをどうして無下にできるだろう。
 やがて彼女は言った。
「あたし夢があった。傭兵なんかやめて、普通の女の子になって、家族を作るの。絶対に子供を孤児院なんかにいれさせたりしない。あたしたちみたいな思いはさせない。みんなで幸せに過ごすの。」
「偶然だね。僕と同じだ。」
 僕らは繋いだ手に力を込めあった。
「……あたしのこと好き?」
 不安に揺れる瞳で彼女は訊いた。普段のアスカ・ラングレーを知れば、それがいかにそぐわない表情であり、いかに似合わない言葉であるかが分かる。だが、そうした印象を抱かせる活発で爛漫な彼女の人物像は装われたものに過ぎない。
 彼女の本質はとても繊細で脆いもので出来ていた。普段見せる勝気な表情は、それを覆い隠すための仮面なのだ。自分は求められているのか、必要とされているのか。両親から捨てられ孤児院で育った彼女は、僕と同じように、常にその意識を胸の底に横たわらせてきたに違いない。
 だから僕は、確実に伝わるよう時間をかけて深く頷いて見せた。

 それを受けてアスカは柔らかく眼を細める。そして真っ直ぐに僕を見詰めたまま、勇気をふり絞るように告げた。
「あたしも、ずっと貴方が好きでした。あたしのこと、シンジのお嫁さんにして下さい。」
「……流石はアスカだね。プロポーズは男からってことで、ずっと告白するチャンスを窺ってたのに。君に時代錯誤的な思考は通用しないみたいだ。」
 表情を崩さず、声を震わせずに言えただろうか。自信がない。
「先を越されちゃったけど、まあいいや。そうと決まれば、早速挙式だね。早く日本に帰って、身体を治して、それで――」
「あんた、ばか?」
 それはいつもの弾けるような勢いを微塵も持たない、この船を取り囲む夜の海を思わせるような穏やかな口調で発せられた。
「真に受けちゃってさ……。あたしみたいな、良い、女が――」
 彼女は血を喉にからませ、鼻から鮮血を流しながら必死に勝気な笑顔を浮かべようとしていた。
「あたしみたいな良い女が、あんたみた、いな、冴えない男、本気で相手にすると、思った? ホント、莫迦なんだから。」
 彼女は涙と血で顔をびしょびしょにしながら僕をなじる。だがその声は、まるで何かを懇願しているようにも聞こえた。

「あんた、は、まだ若い、んだから、あたしみたいな高嶺の花は綺麗に、諦めて……さっさと似合いの、普通の女を、見つけなさい、よね。あたしはもう、駄目みたい、だけど……あんたは、その夢、を、きっちり、叶えんのよ。」
 約束よ、と彼女は息も絶え絶えに言い結んだ。
「アスカ――」
 僕は彼女の言わんとしていることを理解した。
 彼女は僕の優しさを残酷なものだと言った。だが、それはどちらなのだろう。こんな優しさはかけてなど欲しくなかった。それよりも生きていて欲しかった。
 だがそれが叶わないことを、僕も彼女も既に理解していた。
「あたし、とは釣りあわな、合わないけど、その辺の女、となら、まあなんとか、なるでしょ。きっと、あんたは、幸せに、なれるわ。あたしが言って、んだから間違いない、わよ。」
 だから……と、囁いたあと、彼女は吐血した。もう咳き込む力すら残っていない。呼吸音がどんどん小さくなっていく。目蓋の小刻みな痙攣が収まっていく。体温は先ほどから急速に失われており、既に冷たくさえ感じられるようになっていた。

「もう時間よ。行って、シンジ。船底に時限起爆のC4が仕掛けられてる。乗客は既に小型船で逃がしたわ。格納庫に向かいなさい。小型の収納式ヘリがあるわ。」
 最期の一瞬、彼女は往年の輝きを取り戻し、はっきりとした口調でそう告げた。
「――バイバイ、シンジ。きっとまた会えるわ。」
 彼女は微笑んでいた。その言葉の実現を確信させるような笑顔だった。
 遠くから小さな爆音が響いてきた。船体が小さく振動する。やがてそれが連鎖を始め、危険を感じさせるまでになろうとしている。
 僕はベッドに寝かせるように、動かなくなったアスカを甲板へ横たえた。立ち上がり、その微笑を眼に焼き付ける。少し離れた場所で同様の眠りについた戦友にも一瞥くれ、二人に別れを告げた。
 アスカは口に出したことを、自ら反故にするようなことをしない人だった。その彼女がまた会えると言うのなら、友人として僕はそれを信じるべきだ。
 時は流れている。別れはしばしのことに過ぎない。
 揺れる甲板に足を取られながら、僕は格納庫へと駆け出した。



to be continued...


■初出

FILE 15「飛鳥 bye‐bye my love.」2004年06月30日

本作は旧版の第20話として書き下ろされた作品です。

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and Based upon and incorporating the GAINAX animation "EVANGELION".
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