FILE:010 <Dream>
名も無き忘れられた小さな果ての街に、マザー・クレアと呼ばれる女性がいた。
修道院の長である彼女はささやかな孤児院を経営していて、そこには七人のシスターと一四人の孤児達が慎ましく暮らしていた。
アスカ・ラングレーはそんな孤児達のひとりであった。
彼女は七歳と、その孤児院の最年長者でもあり、ガキ大将も務めていた。規律を乱す悪ガキや、年下に乱暴する男の子、そして陰湿なイジメの存在を彼女は許さなかった。
彼女は孤児達が形成する社会に巣くう悪を、その鉄拳を持って制裁していった。
皆の長であり、姉であり、友人であり、目標である者。それがアスカという少女だった。そんな彼女であったから、マザー・クレアをはじめシスター達から寄せられる人望も厚かった。
ある日、孤児院に小さな変化が訪れた。新参入者が現れたのである。
孤児達の代表として、マザー・クレアと共にその子を歓迎しに出向いたアスカであったが、彼を見た瞬間、その青い目を見開いて驚愕した。
恐らく自分と同じくらいの年齢であろう彼は、明かりの無い寒い夜のような瞳をしていた。
この世の闇をそのまま映し出したかのような、暗く淀んだ目。虐待を受けたのだろう、体中に痣を作った少年だった。
目と目が合ったのは偶然が呼び起した一瞬の出来事で、その後、彼は誰とも視線を合わせようとしなかった。だが瞬間的にではあれ、アスカの姿が彼の瞳に映されたのは事実だった。
彼女は戦慄に震えた。彼を覆った闇が、視線を通じて自分の中に雪崩れこんでくるかのような錯覚に襲われた。刹那の出来事であったにも関わらず、氷の剣で突き刺されたような痛みが走った。
粟立った肌と逆立ったうなじの毛は、なかなか元に戻らなかった。
――それが、アスカ・ラングレーと碇シンジの出会いだった。
「彼のお姉さんになってあげて」
マザー・クレアとシスターたちは、アスカにそう言った。
正確には若干シンジの方が年上であるように見えたが、どちらにしても年齢は同程度。近しい存在であり、もっとも信頼の置けるアスカにシスター達は望みを託した。
この凍えた少年の心を解かすことが出来るものがいるとするならば、それはアスカ・ラングレーをおいて他にいないと。
アスカは努力した。マザー・クレアやシスターたちの優しさを、彼女は心から尊敬していた。彼女たちの期待に応えたかった。
アスカは、親身になってシンジの世話をした。一言も口を利かず、誰とも目を合わさず、他者との接触を完全に排除する彼との日々は苦労の連続であった。隙あらば、大人しい彼の食事やオヤツを盗もうとするガキどもが襲来してくる。無抵抗の彼を苛めようとする人間が現れる。
アスカの無敵の鉄拳は、冴えに冴えた。
その甲斐あって、出会ってから九ヶ月経ったある日、シンジは始めて口を利いてくれた。
アスカは飛び上がって喜んだ。瞬間湯沸かし機と渾名される彼女ではあったが、この時ばかりは実に四日もの間、何があっても笑みを絶やすことはなかった。
それから、シンジは心を少しずつ開いていくようになった。
ポツリポツリと自己の意思を言葉で伝達するようになり、微かに表情を変えるようになり、アスカと手を繋ぐようになった。
彼は本来の明るさを、徐々に取り戻していった。
数年が経ち、完全にあるべき姿に戻ったシンジは、呆れるほどオバカで、変な奴になっていた。
とにかく良く眠る少年で、暇さえあれば毛布に包まっていた。ちびっ子の癖に早くも美人が大好きで、いつも若いシスターたちにベッタリだった。イタズラも大好きで、怪しい罠をしかけては他人が困った顔をするのを大喜びした。
当然、アスカの鉄拳をいただく回数も日を追う度に多くなり、やがて彼は孤児院の <鉄拳王> と呼ばれるようになった。
――だが、修道院での幸せな日々の終わりは唐突に訪れた。
ある日、シンジがこっそりと孤児院を抜け出すという事件を起こしたのである。それは一時的な外出ではなく、施設を完全に出るための行動だった。
彼が施設にやってきてから四年半。一二歳のときのことである。
孤児院の消灯時間は二一時。それ以降、子供たちはグッスリと眠り込む。
一度夢の世界へ旅立った彼らは、相当のことが起こっても起き出すことはない。
シスターたちは、その後仕事におわれ二四時になると眠る。孤児院を経営していると他の修道院に比べて就寝時間が遅くなるのは仕方の無いことだった。
結局、修道院の住人全員が完全に寝静まるのは、夜中の一時を過ぎてからである。
シンジはその日、二六時きっかりにベッドから忍び出た。
自分の分の着替えと、数日分の食糧をあらかじめ纏めておいたバッグを担ぎ、そして外へと続くドアを潜る。
孤児院が深刻な経営難に喘いでいることを、シンジは知っていた。
最年長者のひとりである一二歳の自分は、結構な食べ盛り。食費はもちろん、教育費用やその他様々なことに人一倍金が掛かることは承知しているつもりだった。だから、その負担を減らす為に自ら孤児院を出るつもりだった。
碇シンジを「捨てられた人形」から「一人の人間」にしてくれた恩人達に出来る唯一の行動は、それくらいしか思い付かなかった。
高い精神年齢に恵まれた彼は、とにかくそれを決意し実行した。
それが周囲にとって、いつもグースカと惰眠を貪り、アスカの顔にマジックでイタズラ書きをしてはグーで殴られるという、普段の彼からは想像も出来ない決断であったことは間違い無いだろう。
だが、そんなシンジの本性を見抜いていた者が二人だけいた。
マザー・クレアと、そして彼の親友アスカ・ラングレーである。
「はぁ、何とか見つからずにすんだかな。よかったよかった。」
怪しい風呂敷きを背に抱えたシンジは、修道院の門を潜るとニコニコしながら言った。
「思いっきり見つかってるわよ、このバカシンジ!」
突如、味わい慣れた鉄拳にシンジは殴り飛ばされた。その控えめな怒鳴り声と強烈なパンチは、もちろんアスカの発したものであった。
「とても痛い。なんでアスカがここにいるの?」
痛む頬をさすり、どこからともなく現れたアスカに驚きながらシンジは訊ねた。
「あんたこそ、こんな夜更けに何処行こうって言うのよ。」
腰に手を当てて、詰問するようにアスカは問い返した。
「もちろんトイレだよ。見ての通り。」
シンジは爽やかに言った。無論、本人はそれで全てを誤魔化しきれると信じて疑っていなかった。だが現実は、往々にして人々の想像を超える厳しさを見せるものである。
「このアホンダラ! どこの世界に、そんなドデカイ風呂敷き担いでトイレにいく一二歳児がいるってのよ。〇.四秒でバレるウソを吐くんじゃないの。」
「いや、風呂敷き担いでないと安心してトイレを済ませられないんだ。僕。」
「だからその〇.二秒でバレる拙いウソはヤメロって言ってるでしょーがー!」
アスカはシンジの細い首を思いきり絞めながら、ユサユサと揺さ振った。
「く、くるしぃ〜! アスカ、しんじゃう。死んじゃうよ。」
「アンタはいっぺん死ぬべきなのよ。馬鹿は死ななきゃ治らないって言うでしょ!」
「ご……ごべんなさい、本当のこと言うからはなじでー。」
本気で生死の境をさ迷いながらシンジは懇願する。すると、ようやくアスカの手が緩められた。
「ごほごほ……」
「最初から素直にそう言えばいいのよ。バカシンジ。」
「げほげほ……」
「で、なんでアンタはいきなり出ていこうとしてるわけ?――しかも皆に内緒でさ」
「こそこそ……」
「コソコソとどこへ行く気か――っ!」
咳き込んでいると思わせておいて案の定逃げ出そうとしていたシンジのお尻を、アスカは思いきり蹴飛ばした。
「だから痛いって言ってるのに。どうしてアスカは僕にそんな乱暴するの?」
目尻に涙を溜め、痛むおしりを撫でながらシンジは言った。
「アンタが適当に誤魔化して逃げようとするからでしょうが。いい、次やったら本当に殺すわよ。チャンスはあと一回だけ。いいわね、胸に刻み込んだわね?……じゃあ訊くわ。なんでアンタはここを出て行こうとしてるの? しかも夜中にコッソリと。」
一方的に決め付けると、一方的にアスカは問い詰める。
「あと一〇秒以内に応えないと殺すわ。」
「ええっ! そんな横暴な。」
抗議の声を上げるシンジだが、アスカはもちろん取り合わない。即カウントダウンを始めた。
「……二! ……一!」
「ちょっ、ちょっと待ってよ。一〇秒って言ったのに、何でいきなり二からカウントがはじまるのさ。」
「アタシゃ二進法の女なのよう!」
「ええっ! そんな適当な。」
「つべこべ言ってないで、さっさと吐きなさい! カカト落しで、頭陥没させるわよ。」
「わ、分かった。言います、言います。」青くなりながら、シンジは言った。
「よろしい。では、聞かせてもらいましょうか。」
「――はぁ。実はね、この孤児院はもう崩壊寸前なんだよ。経営破綻さ。」
シンジは小さく溜め息を吐くと、観念したように話し始めた。
「シスターたちは黙ってるけど、経営はもう火の車。当然といえば当然だよね。寄付金や自治体からの助成金なんてたかが知れてるし。しかも手も掛かる、お金もかかる子供たちを一〇人以上も抱えているんだもの。無理もない話さ。」
「そう――」それは、アスカの予測していた通りの話だった。
「登記簿を調べたんだ。マザー・クレアは修道院の土地家屋を抵当に入れて、そのお金でなんとか孤児院の運営資金を捻出してる状態なんだ。あと九ヵ月以内に二〇万ドルを返済しないと、マザー・クレアたちの宿舎やお御堂は他人の手に渡って競売にかけられる。」
「やっぱりね、そんな事だろうと思った。で、一番経済的な負担になっている自分が出て行けば、幾らかでも足しになると思ったんでしょ。言っておくけど、あんた一人じゃ焼け石に水よ。」
「うん、それは分かってる。でも僕が何とかお金を稼げるようになれば、孤児院に恩返しが出来ると思うんだ。寄付というような形でもね。九ヵ月で二〇万ドルは正直きついけど、利子の分だけでも何とかすれば、シスターたちも交渉して返済期日を延ばしてもらうくらいのことは試みることができる。」
それは、明らかに一二歳児同士の会話ではなかった。だが、彼らは自立心を養わずにはいられない環境下で育ち過ぎていた。捨てられストリート・チルドレンとして生活していたアスカなどは、路上に出て花を売ったり、スラムでジャンクパーツを収集して換金したりといった暮らしを経験している。
人が生きるためには金が必要なこと、それは自らが何らかの対価と引き換えに得なければならない現実などを知らずにはいられなかったのである。
「さっきも言ったけど、アンタひとりじゃそんなにコストカットは望めないわよ。アタシが行くわ。アンタは残りなさい」
そう言うと、アスカはどこから持ち出して来たのかシンジと同じような大荷物を肩に担いだ。
「最年長であるアタシは最も長い期間ここのお世話になってるわ。これ以上甘えるのはアタシのプライドが許さないわけよ。逆にアンタは一番日が浅い。行くならアタシが行くべきなの。分かった?」
アスカはふん反り返って命令する。だが、その乱暴な言葉の裏にハッキリと優しさを見出すことができるシンジには、そう簡単に承知できる話では無い。
「じゃあ、間をとって二人で行こう。その方が、きっと楽しいよ。」
ニッコリ笑ってシンジは言った。
「はぁ? なに言ってんのよ。」
アスカはまんざらでもないようで、照れ隠しに顔を逸らしながら言った。
「まぁ、アンタがどうしてもって言うんなら一緒に連れて行ってあげないことも無いんだけどね。」
「うん。どうしてもだよ。二人ならきっと、辛いストリートチルドレンもやっていけるよ。だから、一緒に行こう。」
――そういうことになった。
「ところで、これからどうするつもりなの? 幾らアタシが天才でも、一二歳じゃ児童福祉法や自治体の保護条例にひっかかって雇ってもらえないわよ。そもそも就労年齢に達して無いもん。」
「うーん、それは考えて無かった。」
「アンタ馬鹿ぁ? ニコニコしながらなに適当なこと言ってんのよ。一番大切なことじゃない。」
「取り敢えず出ていくことしか考えてなかったから。でも、そうだねえ。確かに大事なことだ。」
「そうだねえ、じゃないわよ。よーし。こうなったら癪だけど、このセクシーバディをフルに活用して――」
「それこそ一二歳児には無理だし、例え可能でもアスカには絶対そんなことさせない。」
「……なに、真面目な顔して言ってんのよ。冗談よ、じょうだん。」
「あれ? アスカ、顔が赤いよ?」
「うっさいわね! 夕日のせいよ。」
「今、夜だけど。」
「うるさいったら、うるさいの!」
「ま、いいか。それじゃあさ、ネットの匿名性を利用するってのはどうかな。あれなら年齢もごまかせるでしょ?」
「ふむ、一考の余地ありね。それは。」
「僕、前から株に興味があったんだよね。ミニ株でもいいから出来ないかな? 都合がいいことに、ネット上での取り引きなら手数料が凄く安いし。」
「無茶言うんじゃないわよ。ミニ株にしたって、それなりの資金がない投資の仕様が無いじゃん。それに株は変動の要素が複雑だから無理よ。短期国債あたりにしといたら? あれなら株よりは読みやすいわよ」
「とりあえず、成人したフィルターを用意しないとね。社会との接点に大人を置いておかないと、僕らの年齢じゃ何もアクションを起こせない。その辺のホームレスなんかに協力を仰いで、僕らはブレインとしてつとめたほうが良さそうだよね。」
「まずは組織を見つけるか、造るかしましょ。いずれにしても、最初はイリーガルな方法で纏まった資本金を作らないと話にならないわ。」
「それはいいんだけど、僕、なんだかとっても眠たいなぁ。」
「コラッ、歩きながら寝るなっ!」
――七ヶ月後、匿名の寄付金五〇〇〇ドルが孤児院に届いた。
それから毎月、定期的にその匿名での寄付金は送られてくるようになった。
それは、今も続いている。
「……はっ?」
クッションの利いた、自宅の硬いそれとは明らかに異なるベッドの上でぼくは目覚めた。
「痛っ!」
慌てて上半身を起こしたおかげで、左肩に痛みが走る。見れば、上半身は肌で、左の上腕部を中心に止血用の包帯がグルグルと巻かれていた。
ベッドの傍らにあるライトスタンドには、 <USP> というオートマチックの拳銃が置いてあり、床には血で出来た染みだらけのシャツや上着が散乱していた。
「そうか……」
自分が夢を見ていたことに気付き、そして今自分が置かれている状況を思い出した。
ここはテュルフィング号の特等船室。五〇口径の拳銃で撃ち抜かれた左肩の治療をし、休息を取るためにここに潜伏していたんだっけ。
「ん――と。」
時間を確認する為に、ライトスタンドに拳銃と並べておいてある愛用の腕時計を手に取った。
時刻は二五〇九時。真夜中だ。
「四時間くらいかな……寝てたのは」
良く眠れたみたいで、かなり意識はスッキリとしてるよね。左肩はまったく使えないという事実は変わらないわけだけど、半ば倒れ込むように眠りに就いた数時間前とは気力、体力ともに比べるまでもない。条件は悪いが、最終決戦になんとか挑めるラインにはギリギリ到達しているだろう。そう判断できる。
「やっぱり、アスカと会えたからだろうな。あんな夢をみたのは。」
傭兵時代の夢は結構頻繁に見るんだけど、アスカと出会った頃の夢を見たのは記憶にある限りでははじめてのことだ。
「アスカ、綺麗になってたよなぁ――」
思わず、あの青い瞳を思い出してしまう。昔の面影も残っていたし。相変わらず美人だった。
「まさか、こんなかたちで再会するだなんて、思ってなかったけど。」
全ては、三年前のあのとき終わっていた筈だった。自ら引いた引き金で、終わらせた筈だった。
なのに、まだ決着は着いていないと言うのか。
――ENDLESS DUAL
「終わらない戦いなんて、虚しいだけだ。哀しいだけだ。」
僕らは、あの時それを学んだ筈だ。それとも、そう感じたのは僕だけだったというのかい?
軽く頭を振って思考を中断すると、装備を整え――
僕は最後の決戦の舞台に指定された船長室へと向かった。
to be continued...
■初出
FILE 15
「夢幻 Dream」
2000年06月05日
本作は上記の初出作品を加筆修正の上、著者が編集したものです。
<<INDEX
Copyright (c) 2000-2004 by Hiroko Maki
and Based upon and incorporating the GAINAX animation "EVANGELION".
NEXT>>