DARC
−ダァク−
全てを凌駕するもの


CHAPTER I 「泡沫の夢の中で」
SESSION・001 『少年とアスカ』
SESSION・002 『少年と蒼銀の少女』
SESSION・003 『涙』
SESSION・004 『時空の詩』
SESSION・005 『現と幻想の狭間で』
SESSION・006 『学園ものでいこう!』
SESSION・007 『お約束の転校生』
SESSION・008 『邪悪の微笑み』
SESSION・009 『泡沫の夢の中で』
SESSION・010 『インヴィジブル・ワン』



SESSION:001
『少年とアスカ』


 一歩踏み出すたびに生じる微妙な振動すらが、全身を駆け抜ける鋭い痛みを生む切っ掛けとなりつつあった。
 時を追うごとに、両肩の戒めはより深く肉に食い込んでゆく。
 いや肩だけではない。彼は体中を束縛されていた。
 首、肩、肘、手首、指。全身を覆わんとする呪縛網は、その先端の重りの力を利用して少年の身体に爪をたて、彼の精神を蝕みつつあった。
 万有引力が内包するエネルギィとは、人間にとってこれほど強力なものだったのか。彼は、この時ほどこの自然の力を怨んだことはなかった。歯を食いしばってそれに耐え、ひたすら歩を進める。
 とは言っても、別に彼は囚われの身にあるわけではないし、拷問を受けているわけでもなかった。本人からすればそれと代わらぬ状況なのかもしれないが、実際のところ彼は、抱えきれないほどの手さげ袋を体中にぶら下げて、ただ午後の繁華街をよろよろと危なかしく歩いるだけである。要するに買物の荷物持ちをさせられているのだった。
 まだ少年といって良いだろう。中性的な顔立ちをした線の細い彼には、誰がどう見たところでこの荷物の山が許容量を超えた重荷であることは歴然としている。少年の膝は、先ほどから笑いっぱなしだった。
 が、そんなことはお構い無しに、連れの少女はずんずんと軽快に歩を進めていた。彼女は小さなポーチを肩から下げている他は、全くの手ぶらである。

「あ……あすかぁ、ちょっと休ませて」
 とうとう少年はその後ろ姿に向かって、声を上げる。それを聞いて、アスカと呼ばれた少女はきっと彼を振り返って言った。
「情けないわねぇ、たったそれくらいの荷物持ちもできないの?」
「だってこれ、いくらなんでも多すぎるよ」
 確かに、デパートの銘柄の入った紙袋は、彼の洋服が見えなくなるくらい数多くぶら下げられている。少年の許容限界を完全に超えているだろう。
 ――だが、少女が問題としていることはそんなことではない。自分の買い物に随伴するこの少年が、ただの荷物持ちもこなせない事が許せないのだ。この場合、荷物の量が半端でないという客観的事実は、彼女からすればまったく関係ないのだろう。
「あんたねぇ、日頃バカシンジなんだからこんな時くらい役に立ちなさいよ」
 スラリと長い両足で大地に仁王立ち、左手を腰に当て余った右手で指差すという彼女お得意のポーズを取りながら自分を罵声するその姿に、少年は溜め息しか出ない。
 惣流アスカ。彼――碇シンジの幼なじみで、同じマンションの隣人でもある。ゲルマンの血を引くクゥーターである彼女は、それを証明するかのような茶色がかった綺麗なブロンドの持ち主だった。背中まで豊かに流れる彼女自慢のそれは、日の光を反射して今も煌いていた。珊瑚礁の青を湛えたような、何処までも深く澄み渡るブルーアイズもやはり日本人ばなれしている。
 非の打ち所のない整った相貌と、一七歳にしてほぼ完成されたプロポーション。学年でトップ三からもれることはない成績を誇るその頭脳。彼女はある一点を除いて、ほとんど完璧とも言える少女だった。

(アスカも、もう少し素直で優しかったら文句ないんだけど)
 見ようによっては、そこに彼女の可愛いげがはあるのだが――それを理解していたところで毎回の被害者になるシンジとしては、溜め息のひとつも吐きたくなるのは仕方がないというものだ。
「あ、ねえアスカ。あそこの木陰に幾つかベンチがあるよ。あそこで少し休もうよ」
 シンジが指差した先はショッピング・ストリートの中のちょっとした広場になっていて、大きな噴水の周りに木が植え込んであり、その木陰には確かに幾つかのベンチが設置されていた。恐らく、ショッピングの合間の小休止や、待ち合わせなどの為に作られたのだろう。
「じゃあ、僕何か飲み物買ってくるよ。アスカも喉かわいたでしょ? ここで待っててね、すぐ戻るから」
「あ、ちょっとシンジ?」
 アスカに拒絶の言葉を吐かれる前に、最期の力を振り絞ってベンチに辿り着いたシンジは、荷物をすべてベンチに置くと、脱兎の如く自動販売機へ駆け出した。



SESSION:002
『少年と蒼銀の少女』


「……はぁ、はぁ……はぁ……」
 ベンチから少し離れた自動販売機の前に辿り着くと、シンジはようやく安心して息を整える。
「……はぁ……はぁ……これ以上休み無しで歩かされたら、きっと死んじゃうよ……。やっぱり、あの時宿題を見せてもらうべきじゃなかったんだ……」
 ――そう。彼は、高校で出された課題をすっぽかしてしまった時、データをアスカに写させてもらったのだ。その代償が、今日のショッピングの随行である。だが、その代償があまりに大きすぎた事を身を持ってシンジは思い知ったのだ。
「取り敢えず、ジュースでも飲んで少し休もう。喉もからからだし」
 夏本番を目前に控えた、今の時期、日差しもかなり強くなってきている。その中を大量の荷物を抱えて長時間歩かされたシンジは、全身汗だく、喉も当然からからだった。
「えーっと、アスカは烏龍茶だよね。僕は……スポーツドリンクにしよう。どうせ、これからまた労働することになるんだし……」
 小学校に入るまでドイツにいたアスカは、日本に来て初体験した烏龍茶をいたく気に入っているのだ。更に健康にも良いから言うことはない。彼女らしいと言えば、らしい話である。シンジは軽く苦笑しながらボタンを押す。
 ――カコン! 前世紀に比べて幾分控えめな音と共に、缶が取り出し口に現れた。真夏の外気に触れて数瞬であるにも関わらず、良く冷やされた茶色のアルミ缶は既にビッショリと汗をかいていた。それを手に取ろうと、屈みこむシンジ。ヒヤリとした、金属と内容物の冷たい感触が指先に触れた――その瞬間だった。背後に、気配というにはあまりに確かな、確信めいた波動を感じた。まるで、背後から懐かしい友人に抱かれたような絶対的な安心感。奇妙なまでに心地良い既視感を抱きながら、シンジはゆっくりと振り返った。刹那、まるで周囲が白くぼやけたような感覚がシンジを襲った。まるで、乳白色の薄らとした霧が、突然に世界を覆ったようだった。そして流れるように、次の変化が訪れた。あれほど多かった人通りが全く無くなったのだ。全ての喧燥が、フェードするようにゆっくりと遠ざかっていき……――やがて、完全な静寂。静かで、幻想的で、たまらなく懐かしいのに、涙が零れ落ちてしまいそうな程に微かに切ない……全ての想いが集った、不思議な空間。だが、シンジは不思議と何の疑問も抱かず、突如として訪れたこの世界の変化を、自分でも驚くほど自然に受け入れていた。全てが朧であるにも関わらず、これが現実だということを自分の中の何かが確信している。そう。自分は確かにこの世界を知っていて。だから、恐怖はなく。むしろ――ふと、春を思わせるような優しい風が、再会の予感を運んできた。懐かしい少女の香りが、鼻腔をくすぐるようにシンジを誘う。そして、誰もいない……霞がかったような静かな空間の中で、彼の瞳に映ったのは……向かい合って彼を見つめている――少女彼の身体――いや。もっと深い、存在の根底に関わるほどに深い深層で、言い知れぬ想いが駆け巡る。まるで、遠い昔に失った己が半身と巡り合ったかのように。
「ああ……」
 吐息にも似た声が自然と漏れた。白銀に輝く鎧に身を包み僕は――揺らめく幻のようなその少女嗚呼――だが、確かに覚えている忘れない――蒼銀に輝く、その柔らかな髪の手触りを彼女を――その深紅の瞳とはじめて出会った、月の輝く夜を僕は……そして、あの約束を。僕は彼女を知っている。シンジの瞳から、あたたかな涙が止めど無く溢れ出した。でも、僕は彼女を知らない……。君は……だれ……? どうして、こんなに哀しいの……? どうして、こんなにも懐かしく感じるの……? どうして涙が……とまらないの……? 体中の血が騒いで……感情が……識っていたはずの、知らない感情が溢れ出す。
 ――それがこの涙。シンジは自分の中に突如生まれ出した、身に覚えのない……だが、それでいて壊れてしまいそうなほどに強い想いの力に戸惑った。透明な涙の粒がポロポロと零れ落ちるのを、止めることが出来ない。
「き……きみは……」
「君は……!」
 彼女の元に駆け寄ろうとするが、体が動かない。
「君は……!」
 それでも静かに、やさしく彼を見つめる蒼銀の髪の少女。バササササササッ……!!突然頭上から聞こえてきた大きな羽音に、シンジはハッと空を仰いだ。何処からか遥かな蒼穹へと飛び立った鳥たちは、すぐに彼方へ消えていった。シンジは、もう一度少女の居た場所に目を戻す。しかし、そこには通りを行き来する大勢の買い物客の波。そして、その雑踏のざわめきしかなかった。あの不思議な感覚も消え失せ、まるで数瞬の白昼夢を見ていたかのように、シンジはただ立ちすくむ。
「あれは……彼女は……」
「今のはいったい何だったんだ……」
 シンジは、掠れるような小声で呟いた。
 ――だが、それに応えてくれるものはなかった。



SESSION:003
『涙』


「ちょっ……ちょっと、どうしたのよシンジ!」
 ふらふらと夢遊病者のような足取りで帰ってきたシンジを見て、アスカは慌てて駆け寄った。
「えっ?」
 何かに気を取られたかのようにぼんやりとした表情で振り向くシンジ。
「あ……あんた泣いてんの?」
 少年の頬に、頬のまだ乾ききらぬ涙の筋を見てアスカは驚く。最後に彼の涙を見たのは何時のことだったか。確かに、少年は気弱でからかわれ易い性格をしている。だが、多くの時間を共有してきたアスカでさえ容易には思い起こせないほど、物心付いてからの彼は涙を流すことをしなくなっていた。
「ん、……あこれは……」
 狼狽するアスカを見て、釣られるように慌てるシンジ。隠すように、急いで涙の筋を拳で拭う。
「ちょっと、そんなに重かったならなんで早く言わないのよ!」
 アスカは、シンジが荷物持ちの辛さに耐えかねて泣き出したと思い込んだらしい。彼女らしい、いかにも直結的で単純明快な結論の出し方だった。因みに、シンジは再三にわたって『荷物が重い』といったようなことを訴えたのだが、その事実は既に記憶から抹消されている。
「し、仕方ないわね。……帰りは、私が半分持ってあげるわよ」
 どうやら少し罪悪感を感じたらしい。珍しく優しい言葉をかけられても、シンジは相変わらずボオ〜〜っとしている。
「ちょっと、シンジ! あんた聞いてんの?」
 まったく反応がないシンジに苛ついたアスカは、持ち前の短気を発動。先程までの罪悪感をあっさり忘れて怒鳴りつける。この短気は、『瞬間湯沸かし機』と、どこで覚えたのか、新世紀の子供が使うには古過ぎる表現で級友たちに揶揄される、彼女の数少ない――だが、大きな欠点の一つだ。
「あ……うん」
「まったく……ぼけぼけっとしてるんじゃないわよ!」
「……ゴメン」
「とにかく、帰るわよっ!」
 どうも様子のおかしいシンジに些か不審を覚えながらも、アスカはちゃんと荷物の半分を受け持って歩きはじめた。シンジは、迷子の子供のようにその後をフラフラと頼りない足取りで追う。
「……ねえ、アスカ」
 だが、何歩と進まない内に、恐る恐るといった感じでシンジがアスカに問い掛けた。その背後からの呟くような声に、アスカは何事かと踵を返す。
「何よ?」
「……」
「……」
 呼んだっきりまた反応が無くなるシンジ。
「ちょっと、何なのよ。シンジ、あんたちょっとおかしいわよ?」
 アスカは、シンジのただならぬ様子にだんだん心配になってきていた。普段から間の抜けた言動が目立つ彼であるが、今回の有り様はちょっと異常である。そんなアスカの懸念にも気付かず、シンジは夢遊病者のような気の入らない表情を上げた。そして、ぽつりと呟くように訊ねる。
「――僕たち、ずっと一緒にいたよね」
「えっ? ……な、なななな、何言ってんのよあんた?」
 何やら意味深なシンジの発言に、アスカは狼狽した。頬を紅潮させて、あたふたと反応に困る。両親にも内密にしているが、実は通信教育で既に学位号を習得――つまり、大学を卒業してさえいるアスカだったが、こういったケースでものを言うのは、やはり経験。彼女には、残念ながらそれが絶対的に不足していた。
「幼なじみだもんね。ずっと小さな頃から一緒だったよね」
 そんなアスカとは対照的に、シンジは相変わらず囁くような小声で続ける。
「そそうね。まあ、あたしがドイツから来て以来一緒だったことは確かね」
 何だか頬を赤く染めて応えるアスカ。
「ねえ、だったら僕は彼女に何時あったのかな? ……僕らは会ったの? アスカ、覚えてる?」
 突然口調が激しくなるシンジに、アスカは慄いた。普段からは想像もできないほどに真摯な瞳。一〇年以上の付き合いの中でも、彼のこんな表情は見たことがない。
「ななによ突然?」
「ねえ、僕は彼女と出会ったの?」
 畳み掛けるように、シンジは問いかける。いつもは他人の目を必要以上に気にかける彼であったが、この場合に関しては、そんな様子は一切見受けられない。アスカの反応にはまるで頓着せず、ただ己が胸の内に渦巻く感情を吐き出すことしか考えていない。
「ちょ……ちょっとシンジ? 一体どうしたのよ? 彼女って誰のことよ?」
「あの娘だよ! 青い髪の……! 瞳が赤くてとても懐かしい……」
 徐々にシンジの語調は弱くなっていく。その瞳は、どこか寂しげに伏せられていた。
「シンジ――、シンジどうしちゃったのよ? 髪が青くて、瞳の赤い人間なんているわけないじゃない」
「……でも……さっき……」
 そう言いかけてシンジは言葉をつぐんだ。確かに、に自分でも信じられないことだ。逢ったこともないのに懐かしい。知らないはずなのに愛おしい。そんなこと……あるのだろうか? 



SESSION:004
『時空の詩』


――夜のとばりの中まだ、眠れない今宵もまた月が見える私と貴公は、この月の下で何度も出逢ったいろんな話をしたいろんな思い出を作った――月は、出ていますか貴方の生まれた遥かなる未来にもまだ、月はありますかいえ、きっとあるいつも、私たちの輝ける時を照らしたようにいつも、私たちを見守っていたように月は、いつもそこにあるもう、逢えないかもしれないでも、貴公は私を忘れないでいてくれた時を越えても、生まれ変わっても、記憶すら消されていたのに私を覚えていてくれた奇跡を見せてくれた時空を超えても私を支えてくれる貴公に今、私の想いも伝えたい離れてしまったけれど失ってしまったけれど私もまた、貴公を想っているとこんなにも、想っていると時を越えても伝えたい……だから今想いを調べにのせて――この詩を唄おう耳を澄ませば遥かな時のむこうほら……唄っている声が聞こえるあれは、天使の声



SESSION:005
『現(うつつ)
 と幻想の狭間で』


 たったったったっ……
 朝の通学路に、軽快な二つの足音が響く。ひとつは、碇シンジ。もうひとつは惣流アスカのそれである。
「まったくぅ、シンジがもたもたするからまた遅刻寸前じゃなぁい!」
 アスカの罵倒に何も言い返せないシンジの頬には、見事な『もみじ』が二つ。大方、いつものことで、いつものように引っ叩かれたのだろう。
「ご……ゴメン」
「ほんっっと、あんたってグズなんだから!」
 アスカに怒鳴られているのは自分の不器用さが原因であることも事実であるから、やはり何も言い返せないシンジ。
「そ……そう言えばさ……今日、転校生が来るんだったよね?」
 これ以上苛められては堪らないと、シンジは話題を何とか変えることにした。
「まあね――。ここも来年には遷都されるんですもの。これからはどんどん人は増えるわよ」
「……そうかぁ……そうだよね」
 勘付かれること無く話題を変えることに成功して、シンジは内心ほっと一息つく。シンジが蒼銀の髪の少女の幻を見てから、もう随分経つ。数週間はずっと彼女の面影に悩みつづけていたが、最近では意識して考えないようにしていた。こころの何処かで彼女に関わることで、日常が崩壊してしまうような感覚に襲われるのを避けていたのかもしれない。それに、アスカの言う通り生来髪が青く、目が赤い少女など存在するはずがない。あれ以来、一度も彼女の幻を見ることは無かった。彼女は幻だったのだ。その幻に、何となく根拠のないデジャヴュを感じただけだ。自分には関係ない。
 ――きっとそうなんだ。だが、まだ忘れたわけではない。あの時その身を支配した、忘れたい、忘れない、忘れられない……あの想い。忘れたわけではないのだ。たったったった……シンジとアスカが十字路に差し掛かろうとした時、別の方向からもうひとつの駆け音が近付いてくるのに彼らは気付いていなかった。どしいぃっっ☆
「うわぁっ?」
「きゃっ!」
 シンジは突然、横から何かに衝突されて尻餅をついた。お尻を強かに打ちつけた激痛で、目尻に涙が滲んでくる。
「シンジっ?」
 少し前を走っていたアスカが駆け寄ってくる気配がした。
「う……いっつつつつ……」
 ずきずきとするお尻を撫でながら、ぶつかって来た物を確認すべく周囲に目をやるシンジ。最初に見えたのは、歩道の片隅に落ちたパンとそれを啄ばむスズメたち。視線を少し横にずらすと、白くて形の良い足が目に飛び込んできた。次いで、捲れあがったスカート。最後に白い――「なんだ?」
 と思った瞬間、それは別の布地で覆われ隠された。
「ごめんねっ」
 聞こえてきた元気の良い声にシンジは視線を上げる。そこには見慣れない少女の照れたような顔があった。
「……あっ」
 シンジはここにきてようやく、自分が交差点で少女とぶつかったのだと理解した。少女はそんなシンジを尻目に、軽い身のこなしで立ち上がると再び走り出す。
「ホント、急いでたんだ。ゴメンねぇ――っ!」
 振り返りざまそう言い残し、風のように走り去る少女を、シンジは呆然と見送る。そのまま、立ち上がりかけ状態でしばらくぼ〜〜っとしていた彼だが、少し頬を染めた可愛らしい少女の顔を思い起こし頬を緩めると、今朝最大の失敗をしでかした。彼は思わずこう呟いてしまったのである。
「か……かわいい……」
 乾いた音と共に、シンジは新たに <もみじ> をその頬に刻み込まれた。



SESSION:006
『学園ものでいこう!』


「――ほんで、見たんか?」
 何とか遅刻は免れたシンジは、さっそく通学途中での珍事を親友の『鈴原トウジ』と『相田ケンスケ』に報告していた。
「えっ、いや……別に見たってわけじゃ……」
「そやけど、見えたんやろ?」
 身を乗り出して訊いてくるトウジ。
「ん……まぁ、ほんの少し……ちらっと」
『ちらっと』をジェスチャー付きで強調するシンジ。
「か〜〜っ! 朝っぱらから羨ましいやっちゃで――!」
 大袈裟に羨ましがるトウジ。そんなトウジの耳をグイっと引っ張る少女がひとり。学級委員長『洞木ヒカリ』である。
「ちょっと、鈴原! 朝から何バカなこと言ってんのよ!」
「あたたた……、なんや『いいんちょ』。いきなり何すんねん?」
 突然怒鳴りかけてきたヒカリに、情けない声を上げるトウジ。
「ほらっ、この花瓶の水変えて来てっ。週番でしょっ!」
 聞く耳持たないヒカリは、ずいっと花瓶をトウジの眼前に差し出す。
「わっ……、分かったわ。何もそんなに大声でいわんでもええがな。ホンマ、煩いのぉいいんちょは」
「ぬわぁんですってぇ――っっ!」
 髪を逆立たせて怒鳴るヒカリ。所謂『怒髪天』と言うやつだ。まさか、本物を見ることがあろうとは……。ケンスケは取り敢えずそれをフィルムに収めていた。
「尻に敷かれるタイプだな、トウジって……」
 トウジの完全にヒカリに押されている情けない様を見て、シンジがぼそっと呟く。
「……あんたもでしょ」
 その呟きを聞きつけたアスカが、『何言ってんのよ』といった表情で突っ込む。
「どうして僕が尻に敷かれるタイプなんだよぉ!」
 シンジ本人としては、まったく言いがかりとしか思えないアスカのコメントに思わず言い返す。
「なによ、ホントのことじゃない」
 呆れたように言いきるアスカ。
「どこがさっ?」
「見たまんまじゃなぁ〜い」
 間髪入れぬアスカの言い様に感情的になったシンジは、よせば良いのに更に言い返す。
「そうやってアスカがいつもいつも僕に突っかかるからじゃないかぁ!」
「何よ、バカシンジの分際で私に意見するつもりぃっ?」
「だいたい、アスカはいつも乱暴すぎるんだよ!」
「き――っ! よくも言ってくれたわねバカシンジのくせにぃ!」
「へいわだねぇ……」
 ケンスケは喧騒の中ひとりそう呟く。ばしぃぃっ! 教室に平手の音が響き渡る。シンジはこれまでの平凡で平和な日常に溺れることで――あの少女に関する問題からひたすら逃げることを選んでいた。



SESSION:007
『お約束の転校生』


「よろこべ男子ぃ〜!」
 にまっと怪しい笑顔をみせて、シンジ達のクラス担任『葛城ミサト』は口を開いた。彼女は抜群のスタイルとルックス、そして生徒への理解ある明るい性格とで生徒に結構な人気を誇っている。
「今日はウワサの転校生を紹介するぅ」
『おおおっっ……!』どよめく生徒達。ケンスケに至っては、既にデジタルカメラをスタンバイ。準備は何時でもオッケー状態である。
「さっ、入ってきていいわよん」
 ミサトが開けっ放しにしておいたドア越しに、廊下で待っているのであろう転校生に呼びかける。恥ずかしさから顔を些か伏せて入ってくる転校生。教壇のミサトにずいっと前に押し出されると、覚悟を決めたらしく顔を上げた。くるくるっとした癖のある茶色がかった髪。いたずらっぽく輝く大きな瞳。チャーミングな口元を微笑ませて、彼女は言った。
「霧島マナですっ。よろしくお願いします」
 がたっ! 先程まで話題に上がっていた当人の登場に、シンジは思わず椅子を蹴って立ち上がっていた。
「ああっ〜!」
 いきなり指を差されて奇声を上げられたマナは、最初きょとんとしていたが、シンジの顔を思い出したらしく驚いた表情で叫び返す。
「あ……あなた、今朝わたしを押し倒した男の子?」
 事実を大きく湾曲させた言われ様に、思わず喉を詰まらせるシンジ。
「ちょっと! ぶつかってきたのは、アンタのほうでしょっ!」
 自分でさえ言われたことがない、シンジの『かわいい』という台詞を受ける栄誉(?)
 を奪われたアスカは、密かに嫉妬していたらしい。
「あら、あなたこそ何? すぐに彼のことかばっちゃって……なに、できてるの二人?」
 くるくると良く動く瞳を、いじわるく細めてやりかえすマナ。
「なっ、……そんなわけないでしょっ! 只の幼なじみよっ!」
 予期せぬ強力な反撃にアスカは一歩引きつつ怒鳴った。その頬は赤く染まっている。睨み合うマナとアスカを尻目に、クラスメイト達は騒然としだす。普段からシンジとアスカの関係は、このクラス延いては学年中でウワサとなっていた。しかしながらその類の話を聞きつけると、アスカが烈火の如く怒り出すので、表立って問いただす者はいなかったのだ。
 ――が、アスカと対等に渡り合う少女が登場した今がチャンスとばかりに、日頃からの鬱憤を晴らすべく生徒達が騒ぎ出したのだ。
「やっぱりあの二人、両想いだったのね」
「馬鹿いうなよ、只の幼なじみって惣流さんも言ってるだろ?」
「……碇君、アスカちゃんが好きなのかな?」
「ちょっと頼りない感じもするけど、碇君って可愛いと思ってたのに」
「うぉぉぉぉっ、幼馴染がなんだぁ。ズルイぞ、碇っ!」
「アスカちゃん、カムバァ――ック!」
「くっ、まずいで……ケンスケ」
「ああ。惣流がシンジと付き合ってるなんてウワサが本格的になれば――惣流の写真の売り上げ低下という金銭的不経済がっ……!」
 生徒達の騒ぎはだんだんと収拾の付かなくなってくる。だが、その監督者たるミサトは面白そうにその光景を眺めているだけだ。
「ちょっと、授業中でしょっ! 静かにしてくださいっ!」
「あら〜、私も興味あるわぁ。続けてちょうだい」
 制止に入ったヒカリの努力も、ミサトの無責任な混ぜ返しにその意味を失う。クラス全体を巻き込んだ大騒ぎは、ヒカリがその堪忍袋の緒を切らせて本気で怒り出すまで続いた。



SESSION:008
『邪悪の微笑み』


「碇君、よろしくねっ☆」
 ミサトの陰謀で、シンジの隣の席に配置された霧島マナが朗らかに言った。
「え……あ、うん。こちらこそよろしく」
 シンジは、斜め後ろに座ったアスカからの刺すような視線を背中に感じながら言った。
「下の名前はなんて言うの?」
「――シンジだけど」
「シンジ……シンちゃんね☆」
「えっ……」
 シンジはアスカの視線に殺気がこもりはじめたのを感じた。
「わたし、シンちゃんって呼ぶから――私のことはマナって呼んでね」
「えっ……あ、うん」
「じゃあ、『マナ』って呼んで・み・て」
 マナはいたずらっぽくそういうと、シンジにウインクしてみせた。何だか赤面するシンジ。妙に確信犯的なマナの言動の妙に気付きもしない。
「ほら、ほらぁ」
「あ、……ええと……ま……マナ……さん」
「ちがう、ちがうぅ。……さんなんて付けないで、『マナ』って呼んで」
「はっ……はいぃ」
 はっきりと感じられるアスカの強烈な殺気に、背中に冷たいものが流れるシンジ。(ぼくが何したって言うんだよぉ……)
 
「マ……ま……マ……ナ」
 ごすぅっ! 最後の『ナ』を言い終えた瞬間、後頭部に大きな消しゴムが時速一二〇キロで飛んできた。女性であり、しかも座ったままの体勢で一二〇キロものスピードを叩き出したアスカ。彼女はメジャーで十分通用するだろう。さすが天才を自称するだけのことはある。……だが、これはアスカにとって失敗だったと言わざるを得ない。何故ならマナと向き合って話していたシンジが、その後頭部に衝撃を受けたことで前に押し出された形になり、結果として顔からマナの胸の中に飛び込むことになってしまったからだ。
「シ、シンちゃん! 大丈夫?」
「はふぅ〜」
 シンジはマナの腕の中で気絶していた。はたして、それが後頭部に受けた剛速球が直接的原因によるものなのか、間接的原因になったのかは定かではないが……。
「おおぉっ、碇。なんて羨ましいやつ!」
 それが、クラスの男子全員の一致した見解だった。
「あんのぉ、バ〜〜カ〜〜シンジぃ!」
 アスカは自分が引き起こした事態であることも忘れて、更にヒートアップしていた。
「あの、先生……碇君を保健室に連れていった方が……」
 気絶したまま放り出すわけにもいかず、マナはシンジを胸に抱いたまま困ったようにミサトに助けを求める。
「じゃあ、霧島さん連れていってくれるぅ? 場所は職員室の隣だから」
 アスカの表情をうかがって、面白くなりそうだと打算しながらミサトは言った。どうやらアスカの対抗心を煽って、この件をとことんまで楽しむつもりらしい。
「……分かりました」
 線の細いシンジは、情けないことにマナの細腕ひとつで運べてしまうくらいの体重しかない。マナはシンジの左腕を自分の首に絡ませると、そのまま引きずるようにして保健室に向かった。(フフフ……今日はリツコは出張でいないのよねぇ。二人っきりの保健室……燃えるわぁ!)
 ミサトは邪悪に微笑んだ。
「――さぁ、ちょっち遅くなっちゃったけど授業はじめるわよぉ!」



SESSION:009
『泡沫の夢の中で』


 揺らめく……赤い……赤い光が……徐々に大きく……
「……やめ……」
 熱に揺らめく……
「……彼女は……何も悪くない……」
 静かに目を閉じ……
「……どうして……こん……な……」
 燃える……
「……やめてよ……」
 燃やされる……
「……神よ……」
 燃えゆく……
「……やめて……」
 僕の大切な……
「……彼女を……どうか……」
 何よりも大切な絆が……
「……なぜ……」
 灰になってゆく……
「やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
 ――私は間も無く処刑されます――何故彼女が――もっと貴方との日々を……ずっと貴方と……――彼女はそう言ってくれた――それを、神が望んでいるから――神よ――ただ、この世界にいたいだけ。生きて、彼の側にいたいだけなのに! ――僕には何もできないのか――我が候よ……わたしを、解き放って……――神よ! 僕は許さない! 例え如何なる理由があろうとも彼女を奪う全ての者よ! 僕は忘れない! 許さない! たとえ神であろうと許さないぞ! 



SESSION:010
『インヴィジブル・ワン』


(保険の先生……いないのかしら……?)
 シンジに肩を貸してようやく保健室に辿り着いたものの、部屋には誰の姿も見当たらない。マナは仕方なくベッドにシンジを横たえる。(とりあえず、患部を冷やさないと……。)
 マナは部屋の隅にあった小さな冷蔵庫から氷枕を取り出すと、タオルで包んでシンジの頭の下に敷いた。(後頭部だから、これでいいわよね。)
 一通り処置を済ませると、改めてシンジの顔に目を向ける。落ち着いて見てみると、整った彼の繊細な顔立ちは美しいとも言えるほどのものだ。少し短めに切り揃えられた黒髪も、艶やかでさらさらしている。肌も一8歳の男子ということを考えれば、奇跡ともいえるほど滑らかだ。
「奇麗……」
 マナは優しく目を細めると、彼の髪をゆっくりと梳いた。だがその途端、その手が止まる。
「?」
 シンジの顔が悲壮に歪みはじめたのだ。眉の間に深い皺が刻まれ、瞬く間に汗で体中が濡れてきた。歯を食いしばり、何かに耐えるようなその表情は尋常ではない。
(――なに? ……この波動……凄い力が……体中から溢れ出してる……!)
 表情の変化が何かの切っ掛けとなったかのように、突然シンジの身体からマナのような『ある種』の人間にしか関知できない力が止めど無く放出されだした。
「……やめ……」
 シンジの食いしばった歯の隙間から、微かに声が漏れる。
「――?」
 その声に反応して、マナは耳を澄ます。
「……やめ……ろ……」
 その声がハッキリとしてくるのと同時に、放出されるエネルギー量が急速に上昇してゆく。
 ――そして
「やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ」
 咆哮と共にそれは極限に達した。
「きゃあっ!」
 それは、一瞬マナの身体を浮きあがらせる程の力だった。跳ね飛ばされて尻餅をついたまま、呆然とするマナ。無意識の状態で、これほどの力を放出するなど普通では考えられない。だが、シンジが何らかの能力者なら、最初に会った時に気付いたはずだ。これほどの強力な波動なら尚更だ。既に、力尽きたように大人しくなったシンジからは、もう何の波動も感じられない。だが、今のは……一体なんだったのだろうか? 
「彼……普通のひとじゃ……ないの……?」
 震える声で、マナはようやくそう呟いた。


to be continued...


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