MISHION


Hiroki Maki
広木真紀




−最終楽章−



PROSITかんぱ〜い!」

 チンッ、と小気味の良い音を立ててグラスが合わせられる。並々と注ぎ込まれたノンアルコールのシャンパンの水面が揺れて、炭酸が弾けた。
 時刻は既に深夜の1時を回っている。だが、佐祐理と舞のマンションでは、作戦成功を祝う打ち上げのパーティが夜を徹して行われていた。
 いつものように4階のカフェテリアに集まったAMSのメンバーは、所狭しと並べられたご馳走を前に、互いの成功を称え合い、話に花を咲かせている。長時間に及ぶ作戦は、全員に緊張の連続を強いた筈である。無論、彼等は疲労を感じてはいたが、興奮がそれを上回っていた。今夜、静まり返った閑静な高級住宅街に、彼等の喧騒は止みそうにもない。
「ングング……」
 祐一、栞、あゆは、3人仲良く並んで立ち、左手を腰に右手でグラスを傾けて、風呂上りのフルーツ牛乳でも飲み干すようにシャンパンを勢い良く飲み干していく。
「ぷっっはぁ〜〜!」
「くは〜、染みるぜ! 砕破に殴られて出来た口内の傷に炭酸がよォ!」
「はふ〜。このシャンパン、ノンアルコールですが美味しいですねえ。ジュースみたいです」
「うぐぅ、ケホケホ。炭酸で喉がチリチリするよ」

「3人ともバカなことやってないで。……ホラ、相沢君。こっちにいらっしゃい。あなた、火傷してるじゃない」
 救急箱を抱えた香里が、呆れ顔で祐一の袖を引っ張る。
「本当だ、祐一。どうしたの? 右腕と顔、ちょっと火傷してるみたいだよ」
 睡拳で気持ち良く暴れたせいか、この時間だと言うのに名雪は奇跡的に目をパッチリと開けていた。
「ん、ああ。あの粉塵爆発の時にちょっと煽りをくったんだな」
 祐一は香里に渡された手鏡を覗き込み、頬の辺りに手を触れながら他人事のように言った。
「神鳴モードと煉獄モードを合わせて、雷と熱風を飛ばしてみたんだが、ちょっと間合いが足りなかったらしい」
「まったく、無茶やるわよね」
「仕方ない。相手は砕破だ。ああでもしなけりゃ、オレは殺されてた」
 祐一はカフェテラスのソファに腰を落とすと、背後に回って手当てを始めた香里に言う。香里は何故か慣れた手付きで火傷を処理すると、スプレーを吹きかけて軽く包帯を巻いていった。
「それで生きられるんなら、ちょっとの火傷くらい安いもんだぜ」
「香里、痕とか残らないかな?」名雪は心配そうに、祐一の顔と香里の間で視線をさ迷わせる。
「多分、大丈夫でしょ。火傷といっても極めて軽度だし。少し処置が遅れたから、微かに皮膚が変色するかもしれないけど、余程注意しないと分からないくらいだと思うわ」
「ま、これも男の勲章だよ」
「馬鹿言ってないの」能天気に笑う祐一の頭を、香里はペンと叩く。
「そうだよ、針の数自慢してるプロレスラーじゃないんだから」
 名雪もちょっと眉を吊り上げながら、祐一を諌めた。
「悪かったよ」
 形勢不利を悟った祐一は、欧米人風に肩を竦めて見せた。こういうおどけた仕草が何故か似合うのは、やはり彼のキャラクタそのものが、日本人の枠に収まっていないからであろうか。

「でも、舞は本当に勲章ものの働きだったよな」
 祐一は、先程から牛丼を驚嘆すべき速度で平らげている舞を一瞥すると、その活躍を称えた。
「……はらしは、へつにはにもひへはい」
 口の周りに飯粒を張りつかせたまま、モゴモゴと舞は解析不能な言語で語る。
「飲み込んでから話せよ」とても大学生には見えないその仕草に、祐一は苦笑する。
「私は、別に何もしていない――と舞さんは言ったみたいですよ?」
 栞がそう翻訳すると、舞はコクコクと首肯して見せた。
「何もしてないなんてことないさ。舞の“魔”がなければ、この作戦の成功はなかった」
「確かにそうだね。あのドアの鍵を開けられたのは、ぜーんぶそのおかげだし」
「そう」名雪の言葉に祐一は深く頷く。「それに、またまたオレは命を救われた」
「そうですねー。あの“魔”がなければ、この作戦そのものが成立し得なかったことは確かですね。結局、お姉ちゃんも会館の電子ロックを正攻法で解除する方法は思いつかなかったわけでしょう?」
「そんなわけないでしょう」
 妹の発言にプライドを刺激されたか、香里は憮然とした声で言った。
「正攻法でも、あのロックは解除できたわよ。まあ、LEVEL5の指紋と網膜のチェックは厳しかったかもしれないけど、絶対に正攻法で突破できなかったかと言われればそうでもないわ。“魔”を使わずに、会館に入り込む方法だって幾らでもあったしね」
「え、そうなの?」そんな話は初耳の名雪が、意外そうに言った。
「当たり前でしょう。こういう失敗が許されない計画を実行に移す時は、1つが土壇場でダメになった時のことを考えて、常に幾つか予備の案を考えておかなきゃならないの」
 人差し指をピンと立てて、それをメトロノームの様に振りながら香里は言った。まるで新任の切れ者教師といった立ち振る舞いだ。
「ロックの解除方にしたって、脱出経路にしたって、手段は3つ以上考えてあったわ」
「たとえば?」祐一が追求する。
「たとえばロックの解除の場合、あれが電子ロックだったことを考えれば、簡単でしょう?」
 メンバー全員に同意を求めるが、美汐と佐祐理を欠いた今の顔ぶれでは、理解を得るのは難しかった。仕方なく、香里は1から説明することになる。
「電子ロックは電源が切れると有効に働かなくなるし、それが中央のメイン・システムで一括管理されているなら、そこを抑えれば1発で解除できるじゃない。相沢君の右腕の高圧電流を配電盤に叩きこめば電源は吹っ飛ぶわ。まあ、非常用電源に切り替わるでしょうけど、復旧のパターンと経路から会館のシステムを解析することもできる」
 香里はそこで一旦言葉を切った。そしてジンジャーエールを一口含むと、再び口を開く。
「会館メインシステムは基本的にスタンド・アローンで、外部からの直接侵入は不可能だわ。でも館内に計算機コンピュータを持ち込んで、それを無線で外部から操れるようにしておけば簡単に侵入はできる。クラッキングってやつも可能だったわけよ。事実、緊急事態に備えて裏でその準備は進めていたのよ。天野さんと連携してね。それに電子ロックの暗号そのものを直接クラックするツールだって、時間とお金があれば自作できたし。鷹山さんも持っていたわよ、似たような計算機はね」
「うぐ」あゆの脳は、難解な話に早くも拒絶反応を示し始めたようだ。「ボク、余計分からなくなってきたよ」
「心配するな、あゆ。オレもだ」
 ポンと彼女の肩を叩き、祐一は無駄に爽やかな笑みを浮かべる。どうやら、笑って誤魔化すことにしたらしい。

「……そう言えば祐一君たち、一体どうやってあの会館から抜け出してきたの?」
 あゆが思い出したように突然言った。祐一とは違って、彼女は話を変えることで雰囲気を変えるつもりなのだろう。勿論、祐一は渡りに船とばかりに、そのあゆの思惑に乗った。
「計画通りさ。5階から屋上に出て、そこからロープを伝って隣接する校舎に渡ったんだ」
「え、でも会館と隣の校舎って、随分距離が離れてたと思うけど」
 名雪の場合、ワゴン車の外で元気に暴れまわっていたため、あゆよりも持っている情報量は少ない。彼女は純粋な興味から、話に乗ってきた。
「ん。だから、鷹山さんに特殊部隊が使ってる道具を借りたんだよ。ラぺリング(懸垂降下)の時に使うような丈夫なロープで屋上間を繋いで、それを電動式のレールを使って移動するんだ」
「えーと」名雪は頬に軽く手を添えて、首を傾げる。母親そっくりの仕草だ。「ロープ・ウェイみたいな感じ?」
「そうそう」名雪の質問に、祐一は笑顔で頷いた。「ま、どちらかと言えば、スキーの時に乗るヤツ――リフトって言ったか? イメージとしては、あれが結構近しいかな。で、向こう側に渡ったら、会館側のロープを“魔”に解かせるんだ。熟練者は、“魔”なんか使わなくても外せる技術があるそうだが、オレらはシロウトだからな」
「結構心配してたのよ。そこのところだけは、前もって練習も実験もできなかったわけだから」
 祐一の手当てを終えた香里が、舞に救急箱を返しながら言った。
「ま、確かに多少の不安はあったけどな。でも香里の言うように、他にも何通りか脱出経路は考えてたんだから、心配はあんまりしてなかったぜ」
「でも、そんなに簡単に隣の校舎と会館を行き来できるなら、入る時もそうすれば良かったんじゃないの?」
 名雪は不思議そうな顔をして、素朴な疑問をストレートに口にする。
「真昼間から、ロープを掛けてそれを伝ってゾロゾロ渡るのか? 無理だよ。ムリムリ。そんなことやったら、死ぬほど目立ちまくるだろうが」
 祐一は苦笑しながら即座に言った。
「――それに」香里が付け加えるように口を開いた。「屋上の扉には、どんなセキュリティが備えられているか分からないって言ったでしょう? セキュリティの仕掛けが内側にある挙句、その種類や水準が分からないと対処のしようもないの。それなのに屋上から入り込んだんじゃ、1発で侵入したことがバレちゃうわ」
「あ、そう言えばそんなこと言ってたよね」名雪はポンと軽くてを打つと、思い出したように言った。
「ハァ、それくらいキッチリ覚えとけよな」
「名雪さん、また寝てたんじゃないですか?」
「う〜」祐一と栞の容赦のない口撃に、名雪は唇を尖らせる。「2人とも酷いこと言ってる?」

「うぐぅ。それで、校舎に移ってからはどうしたの?」
 話が一段落したのを見計らって、あゆが身を乗り出した。
「会館の警備員の人たちが、学校中を取り囲んで立って聞いたよ?」
「それは予測済みだったからな。校舎の屋上から地下の駐車場までいってだな、そこからマンホールに入って下水旅行をする嵌めになった。で、50mくらい進んで学校の外に通じるマンホールから出て、小野島さんが用意してくれた車で帰ってきたわけさ」
「うわ〜。下水って暗そうだね。ボクだったら、怖くて絶対入れないよ」
「まったく。それでなくても、今回の作戦では酷い目にあったぜ」
 祐一は軽く肩を竦めながらぼやいた。が、目は笑っている。
「女装はさせられるわ、トイレで何時間も待たされるわ、殴られるわ、蹴られるわ、銃で撃たれるわ、火傷はするわ。挙句、下水を歩かされて酷い匂いが染み付いちまった。もう、ウンザリだ。……大体、あの女装。なんで、オレなんだよ。佐祐理さんに化けるなら他の誰でも良かったジャンよ?」
「ああ、あれ」香里はクスクスと笑った。「あれはあたしの趣味よ。相沢君を1度女装させてみたかったの。化粧とかさせてね」
「ぐはっ。やっぱり香里の仕業か。――お前、オレで遊びやがったな!?」
 祐一はガクと項垂れると、次の瞬間、背後の香里を睨み付けた。
「あら、役得だってあったでしょう。私の胸、好き放題に揉みしだいたくせに」
「うぐぅ。そう言えば、あの時の祐一君ちょっと怖かったよ」
「そうそう。とても女性には見えませんでしたね」
 あゆと栞が顔を見合わせて、楽しそうに笑う。
「ちくしょ〜。皆してオレを玩具にしやがって。もう、絶対女装なんかしないからな!」
 ひとりブーたれる祐一であったが、彼を除く全員は賑やかな笑みに包まれるのであった。




−生徒会サイド−



 一方、AMSとは対照的に、生徒会関係者は人員を総動員して侵入者の身元の割り出しと、足取りを追っていた。警備員たちは非番の者たちも緊急で呼び出され、会館内は勿論、学校内の捜索に借り出された。勿論、生徒会長・久瀬透もその例外ではない。
「くそ、どういうことなんだ!?」
 久瀬は、苛立ちを隠そうともせずに怒鳴った。ドンと、応接セットのテーブルに拳が叩き付けられる。
 会館1階の第7会議室に急遽設けられた『緊急対策本部』には、陣頭指揮に当たっている者を除き、主だった警備責任者や主任が顔を揃えていた。
「理事会の承認を得ないと、僕は5階には入れない。この緊急の事態だというのに、何故理事会はその許可を出さないんだ?」
 生徒会長である久瀬の権限で足を踏み入れることができるのは、4階までだ。最上階の5階に入るためには、理事会の許可と特別なセキュリティ・カードが必要となる。
 また、5階のロックは指紋と網膜を登録していないと開けない。
 久瀬がロックを解除するとなると、新規にこれを登録する必要性に迫られることから、尚更時間が掛かるのである。つまり、賊が5階に入り込んでいると分かってはいても、久瀬個人レヴェルでは今のところ対処の仕様が無いのだ。せめて、警備員たちを動員して賊の退路を塞ぐため、会館や校内に包囲網を整える程度が精々である。

「どうして理事会の対応はこんなに遅いんだ!」
 久瀬は今一度、目の前のテーブルを叩いた。そして、気付く。
「まさか」久瀬は目を見開いた。その様子を、警備責任者たちは固い面持ちで見詰めている。「理事会は、既にこの会館を捨てているのか――!?」
 それは、政治的に決してあり得ない話ではなかった。先の『連続猟奇殺人事件』で被害者が生徒会から続出した時、マスコミにこの会館の存在を嗅ぎ付けられ、巷でも様々な憶測と噂を呼んでしまった。その時から既に、理事会は会館を切り捨てる方針を固めていたとして別段不思議は無い。
「いや、たとえそうであろうとも、僕は僕で今出来る事をするしかない」
 久瀬は頭を振ると、思考を切り替えた。それから、会議室の席にズラリと並んだ守衛幹部たちに視線を巡らせる。
「……警備主任、それから各班長。ここにいるあなた方からも知恵を拝借したい。出てしまった被害と、今からでは防ぎ様が無い被害は諦めよう。それよりも、今から未然に防げる被害に対する予防策と、既に発生した被害への処置を性急に考えなくてはならない。それが急務だ」

 理事会との連絡を取りながら行動したのでは、どうしたってモタつく。迅速な対処が求められる状況下にある今、現場の者が独自の判断で動くしかあるまい。
 それが、この場での危機管理のベストな姿勢だ。久瀬はそう判断した。
「――会長!」と、会議室のドアが開けられ、守衛の制服を纏った2人組みの男が手押しのワゴンと共に入ってきた。「ご要望の資料、揃いました」
 ワゴンの上には、何本かのヴィデオ・テープと分厚い紙の資料が載せられている。久瀬が会館に到着する前に指示して、当直の者に用意させたものだ。
「よし。では、入り口の守衛室に詰めていた当直のスタッフ。そのワゴンに、今日の監視カメラの録画映像と、入館者・退館者に関する資料を揃えさせた。それを使って、本日これまでの警備状況を説明して欲しい」
「承知しました」
 久瀬の指示で、今日の当直になっていたスタッフは全員この会議室に集められている。彼等3人は指名を受けると即座に席を立ち、会議室の一面を占めるスクリーンの前に立った。プレゼンテーションなどに使われる、プロジェクター(映写機)だ。これを使うと、映像をスクリーンに映し出しながら説明を行える。

「まず、問題となるのは、侵入者――賊はいつ何処から入り込んだかということだ」
 久瀬はテーブルの上で手を組むと、睨み付けるように正面のスクリーンを見詰めた。
「……外壁や床を破壊して、暴力的に外から侵入するのでなければ、物理的に会館と外部とを繋ぐ接点は、2つしかあり得ない。屋上と、正面玄関だ」
「はい。その通りです、会長」上座の久瀬に対し、右手の位置に座っている警備主任が言った。「まだ調査中ですが、現在の所、外壁や床が破壊されてた形跡は見つかっていません。それ故、恐らく賊は屋上か正面玄関から侵入したものと思われます」
「しかし、彼等が4階、5階のセキュリティを突破したことは確認されている。つまり、下から上へ上がっていったということだ。故に、屋上から直接5階に入り込んだのではない。となると、単純な消去法で結論は出る。賊の侵入経路は――正面玄関だ」
「ですが、それはあり得ません」久瀬の指摘に、当直のスタッフたちは口を揃えて叫んだ。
「……分かっています」
 久瀬は眉間に深い溝を刻んだまま頷いた。
「どんなに手を抜いたとしても、セキュリティを抜けて正面玄関から堂々と賊が侵入できる道理などない。貴方たち全員が持ち場を離れていたり、居眠りをしていたというなら話は別だが」
「そんな、まさか。我々は職務を全うしておりました」
「それを信じるために、今から報告を聞こう」
 久瀬はすっかり落ち着きを取り戻していた。たとえ、AMSから人格や為政者としての姿勢を問われることはあっても、彼が資質に富んだ優秀な指導者であることだけは確かなのだ。

「まず、本日の部外者の入館について報告をして下さい」
「分かりました」当直スタッフの班長が、緊張の面持ちで頷いた。「今日は――日付の上では、昨日です。24日における部外者の訪問は、たった1件しかありませんでした。これは会長もご存知のことと思われますが、TUT(東北技術科学大学)の代議委員たちの会館見学であります」
 久瀬は無言で頷く。
 TUTの代議委員スタッフと倉田佐祐理が、今日この会館を訪問するということは、以前から予定されていたことだ。彼は、それを申入れに来た『小野島』という秘書官とも直接会っているのだ。
「倉田さん以下、代議委員スタッフ7人。総勢8名が、本日会館に入り込んだ部外者の全てです」
「彼ら8名は、24日の16時に約束通り受け付けを行いました」
「これが、その8人のリストです」
 そう言って、当直のスタッフたちは書類のコピーを室内全員に配布する。
 この書類は、入館者全員に義務付けている『入館申込書』の写しだ。これには、入館者が氏名、所属、入館の動機など記入することになっていて、部外者は勿論、生徒会役員が正規の手続きで入館するときも記入が義務付けられている。
「倉田さんか……」
 久瀬は、渡された書類に素早く目を通した。書類は全部で8枚。つまり、8人分である。1番上は、『倉田佐祐理』。2枚目には『小野島亜美』の名がある。見知った名だ。それ以下の6枚に記されている名前、『澤内愛』『澤内唯』『桜田由里』『岩間霞』『八槻歩美』『七瀬美由紀』には心当たりはなかった。

 ――ん、待て。

 久瀬は、そのリストを眺めている内、奇妙な違和感を覚えた。
 数学的経験則とでも言おうか。脳の何処かが、何らかの理由で激しく警鐘を鳴らしている。言葉で表現すれば『勘』ということにしかならないのであろうが、それは理論と経験、そして統計的なデータに裏打ちされた信用できる感覚である。
 そして久瀬は、遂にその違和感の正体に気付いた。
 瞬間、全身の毛穴がゾワリと開き、痙攣にも似た震えが走り抜ける。鳥肌が立った。
 或いは、何者かが支配するゲームに過ぎないのかもしれない。これは――
「そんな、まさか……」




−A.M.S.サイド−



 AMSマンション4階、カフェテリアは午前2時を回っても、相変わらずの喧騒に包まれていた。
 ご馳走は既に粗方無くなっていたが、現在は佐祐理の雇ったシェフたちによるデザートが食卓を囲んでいる。カウンターまで行けば、並んでいるもの以外のメニュー注文も可能と言うこともあり、あゆが無茶も省みず「鯛焼き」を所望したりして、料理人たちを混乱させていた。

「……それにしても、これから生徒会はどうでるでしょうか?」
 手の中でシャンパン・グラスを弄びながら、栞は呟くように言った。
「どうでるって言われてもなあ」祐一は爪楊枝を咥えながら、複雑な表情を返す。
「どうしようも無いんじゃねえの? ……奴等は、侵入者が誰なのかさえ分かってないんだぜ」

「うーむ。生徒会は、本当に私たちの仕業だと気付かないでしょうか?」
 栞は少し心配そうだ。まあ、生徒会はおろか理事会すら壊滅に追い込むような、大胆な真似をしてきたのだ。少しばかり弱気になっても仕方が無いだろう。彼らが敵に回したのは、それだけの相手なのだ。
現に、会館の謎に関わった者は、全員が非業の死を遂げていることもある。

「多分、気付くわよ。薄々は、ね。それくらいのヒントはあげておいたから。恐らく、実行犯が相沢君たちであることにも、この計画をプロデュースしたのが私だということにも、連中が余程の見掛け倒しでないかぎり勘付くでしょうね」香里は事も無げに、アッサリとそう言った。
「ま、証拠不充分で不起訴ってところだけど」
「……え、どういうこと?」イチゴサンデーを幸せそうに頬張りながら、名雪は目をパチクリさせる。
「あら、もしかしてアナタたち気付いてなかった?」
 香里は悪戯っぽくクスリと笑う。
「私が用意した代議委員のスタッフには、ちょっとした秘密があるのよ」




−生徒会サイド−



「まさかそんな、まさか……!」
 それに気が付いた時、久瀬は恐怖にもにた畏れを抱いた。もしこの仮説が真実であるとするならば、信じ難いことに、手元に届けられた書類は驚愕すべき事実を暗示していることになる。
 恐らく、久瀬かあるいは生徒会、理事会の誰かが気付くことを計算した上でのことだろう。
 久瀬の異変に気付いた警備責任者たちは、怪訝そうな顔つきで彼に注目する。
「どうかしましたか、会長」
 代表して、警備主任が声をかけた。だが、久瀬はそれを無視して、当直のスタッフたちに鋭い視線を向ける。
「この代議委員のスタッフたちに、何か不審な点はなかったか? 名前は全員が女性のものになっているが、たとえば男が1人混じっていたとか」
「え、会長。何故それを」
 当直の守衛たちは久瀬の指摘に、明らかに驚いていた。互いに顔を見合わせ、半ば呆然とした表情をしている。
「実は、倉田佐祐理様が……その、話に聞いていたのとはあまりに違う風体の方でして。入館の際も、非常に乱暴な言動が目立ち、一悶着あった次第です。まるで彼女は女性というよりは、女装した男性といった感じでした」
 守衛の1人が、当時の様子を思い出したか、困惑したような顔で言った。
「そうか。ではやはり、これは、そういうことなのか……」
 久瀬は再び己の思考の海に埋没した様子で、夢遊病者のように呟く。

「会長、一体どうなされたのですか。何か分かったことでも?」
「君たちは気付かなかったと言うのか」主任の言葉に、久瀬は逆に問い返した。「この入館申込書。良く見てみるといい」
 久瀬は机の上に書類を放り出し、その上から掌を叩きつける。
「貴方がたはその職務上、我が校の事情にもある程度精通している。名の知れた生徒の名くらいは知っているはずだ。ならば、相沢祐一や川澄舞の名くらいなら聞いたことがあるでしょう」
「え、ええ……」
 久瀬の勢いに、些か鼻白みながらも警備主任は頷く。
「顔は知りませんが、名前と噂くらいなら聞いたことがあります。相沢という少年は、昨年末に転入してきた男子生徒で結構な問題児だとか。先の事件にも関わっていて、確か死体を発見したのも彼でしたね。おかげで、停学処分を受けていた筈です」
「川澄舞は、既に卒業した去年の問題児ですね。やはり、退学騒ぎになる騒動を起こしたと聞きます。校舎のガラスが割られた件では、私たちにも注意の指示が来ましたので覚えています」
 主任とは別の、壮年の警備責任者が口を開いた。
「その彼らですよ。侵入者の正体は」決然と言い切る久瀬に、室内の全員が色めき立った。
「まさか! 彼らは高だか高校生ですよ?」
「これは明らかに高度な技術と知識を持った、プロの犯行です。高校生に出来ることではない」

「――それに会長」
 当直の守衛班の班長が声を上げる。
「彼ら代議員のスタッフが、『侵入者ではあり得ない』という逆説的な証拠があります。何故なら、彼らは私たちの目の前で会館を出ていった。そして、その後再び入ることはなかったのです。会館は、完璧なセキュリティに守られた、一種の完全な『密室』です。 我々のセキュリティが万全であればあるほど、その密室性は高まり、容疑者の不在証明の信憑性が高まる」
「班長の言う通りです」隣の班員が口調を揃える。「彼ら8名は、確かにこの会館を揃って出ていっています。私たちも全員が、彼らが退館するところを見届けていますし、その模様はゲート前にある監視カメラの映像にもキチンと記録されています」
「……だが、彼らだ」
 騒然とし出した室内に、久瀬の冷たく静かな一言が奇妙な程にはっきりと響き渡った。
「彼らは先の連続猟奇殺人にも絡んでいた。恐らく、会館の機密の存在にも勘付いていたはず。そして好奇心の強い彼らが、それを暴露するために動き出したとして不思議はあるまい」
 久瀬は、関節部分が白く浮き上がって見えるほど、強く拳を握り締めた。
「彼らは、その密室性を計算に入れた上で全てをやってのけたんだ」
 そして苦渋の滲み出た、掠れるような声で続ける。
「強固なセキュリティが、逆に自分たちの行為の不可能性を立証してくれる。そう考えたのだろう。彼らは、この万全の体制のセキュリティを逆手に利用し……そして、自分たちの潔白を、事もあろうか僕ら会館側に証明させる気なんだ。そして――」
 久瀬は力任せに机に拳を落とす。彼にとって、それを口にすることは、完膚なきまでの敗北を意味する、この上ない屈辱であった。
「彼らのその試みは、現在のところ完全に成功している。僕らは、想像の域でしか彼らに嫌疑をかけられない。彼らは、僕らのこの思考すら全て予測した上で、この計画を立てたんだ」

「ですが、会長。その根拠は?」
「確固たる証拠はない。だが、そのリストを見ればその仮説の根拠くらいにはなる」
 そう言って、久瀬はゆっくりと入館申込書の束を指差した。
「そのリストに乗っている代議委員のスタッフ、それに倉田佐祐理は全員が架空の人物です。TUTの事務局が開いたら、問い合せてみると良い。恐らく、このリストに載っている人間の名は存在しないでしょう」
「彼らは、偽物だったということですか」
「そうです」久瀬は厳粛に頷いた。「例えば、代議委員のスタッフ――教育学部4年の『岩間霞』。彼女の名を平仮名に直すと、『いわま・かすみ』。並び替えると、『かわすみ・まい』になる。これを漢字に直してみると、皆にも分かってもらえるでしょう」
「かわすみまい……川澄――」そこで言葉を止め、主任はハッと顔色を変えて叫ぶ。「川澄舞!」
「まさか、偶然では?」室内は再び収集しようの無いほどの混乱に包まれた。
 その中で、久瀬は唯一平静を保ったまま、厳かに続ける。
「偶然などではありませんよ。他の名前も同じ法則でなりたっている。例を挙げれば、同じく代議委員スタッフ、経済学部2年とされている『七瀬美由紀』。彼女の名を平仮名にすれば『ななせ・みゆき』。苗字と名前、それぞれの最初の1文字『な』と『み』を入れ替えて並べ直すと『みなせ・なゆき』になる。漢字に変換すれば、水瀬名雪だ。彼女は、相沢祐一の同居人であり美坂香里の親友ですよ」
「……ッ!」
 もはや、全員の目が入館申込書に釘付けにされていた。震える手付きで、個々の氏名記入欄に並べられたサインを食い入るように見詰めている。

「――まだある。経営学部4年とされている『櫻田由里』も、同じように実在はしない。この名の読みは『さくらだ・ゆり』。並び替えれば、『くらだ・さゆり』です。もう分かるでしょう。これを漢字にすれば、誰がどう考えても『倉田佐祐理』になります」
「で、では」
「そう。代議委員のスタッフとして紛れこみ、櫻田を名乗っていたこの女性こそが、本物の倉田佐祐理その人だったということになる。つまり、倉田佐祐理を名乗って現れたその女は、偽物だったということですね」
 当直の守衛たちは、その言葉に大いに納得した。
 彼らは元より、あの粗忽で乱暴な女性が倉田佐祐理であるなどとは、とても信じられなかったのだ。小野島秘書官が身元を保証しなかったら、認めることはなかったかもしれない。
「そして極めつけ、澤田愛と澤田唯。これは姉妹だったのでしょう?」
「はい」当直員の1人が頷いた。「そう言っていたのを覚えています」
「姉妹であるなら、1組と考えれば良い。『澤内愛・唯』。平仮名にすると『さわうちあい・ゆい』。並び替えると『あいさわ・ゆういち』。漢字に直せば『相沢祐一』だ」
「オオ――ッ!」
 驚愕の叫びに室内が揺れる中、久瀬は静かに続けた。
「……全てがアナグラムだ。他の人物も恐らく同様の法則が当て嵌まるでしょう。彼らなのです。この会館に侵入し、破られる筈の無いセキュリティを尽く破り、そしてTVカメラを通してその機密を暴き出したのは」
 こうなってくると、彼等は5階フロアの『麻薬精製工場』の存在にも、薄々気付いていたのではあるまいか? そして、それさえも計算にいれていたのではあるまいか?
 そんな疑惑すら、久瀬の脳裏を過っては消えていく。
 久瀬自身、5階に足を踏み入れたことがないため、理事会が何を隠しているのか確信を抱くまでにはいたらなかった。だが、麻薬の精製をしていたことが賊の仕業で明らかになった時も、然程驚かなかったのは事実だ。
 生徒会に毎年割かれる予算は、生徒からの寄付金を考慮に入れても異様なほど莫大な額に上る。会館の5階に多くの人間が出入りしていたのも知っているし、真夜中に大きな荷物の搬入を行っていたのも知っている。相沢たちは、恐らくその違法性に見当くらいは付けていたのだろう。そして理事会や生徒会が、賊に侵入されても警察沙汰にはできないことを、予測していたに違いない。
 そこまで考えておいて、彼等はこの計画を実行に移し……そして成功させたのだ。

「そんな、信じられない――!」
「だが、事実です」蒼白な顔つきで頭を振る警備責任者たちに、久瀬はピシャリと言った。
「彼らはこれが誰にも解き明かせない不可能犯罪であり、僕たちが如何いかなる証拠も挙げることが出来ないことを計算に入れて、それを嘲笑うかのように、自分たちの署名を作戦開始前にアナグラムとして見せ付けている。極めて狡猾で、悪魔的に頭の良い連中なんですよ、彼らは。少なくとも、ただの高校生ではない」
 だが、相沢祐一、川澄舞、水瀬名雪にこれだけの計画を組み上げるだけの頭脳はない。倉田佐祐理ならば或いは可能かもしれないが、彼女の性格を考えるとそれもないだろう。
 ならば、実行犯とは別に、相沢たちの裏で糸を引いていた黒幕が存在することになる。まるでラプラスの妄想が生み出した数学的絶対存在“魔”のように、全てを見通し、全てを予測して見せる恐るべき頭脳の持ち主が、だ。
 ――どうやって入り込んだ? どうやってセキュリティを突破した? どうやってあの扉を開いた?
 全ての不可能を、不可能なままやり遂げた頭脳。守衛の動き、理事会の事情、そして僕がこのアナグラムに気付くことすら計算に入れ、理事会や僕、そして会館の守衛たちを煙に巻き、掌で躍らせ嘲笑っている。
 背後でこのゲームを操っている人物。 このゲームの支配者は、誰なのだろう……

 そして、久瀬は気付いた。
 澤内姉妹がセットで相沢祐一を示すなら、人数が余る。アナグラムは6つ、やってきた人数は8人。アナグラムが適応されない人物が、存在するのだ。
 実在しながら、リストに名前を残さなかった人物。それは相沢祐一でも、川澄舞でも、倉田佐祐理でも、水瀬名雪でもない。
 ……だが、いるではないか。彼らの極身近に1人だけ、全ての条件に合致する人物が存在する。まるで予知するかのように全てを計算し尽くして、あらゆる事象を操ることができる人物。
 学校の教師たちは、彼女を単に『極めてテストの点数が高い優等生』としか認識していないが、彼女の真の凄みは偏差値などでは計り知ることは出来ない。凡人には認識することも、理解することも不可能な、超越的才の持ち主。久瀬から見ても、まさしく彼女は天才だった。
 ――美坂香里。
「彼女か!」




−A.M.S.サイド−



「ああ〜〜っ!」
 栞は大きな目を更に見開いて、耳を劈くような絶叫を上げた。
「ホントだ! 本当ですぅ」
「信じられねえ……」
 祐一も開いた口が塞がらない、といった様子で呟く。
「適当な名前だと思ってたのに、全部アナグラムだったなんて……」
「へえ〜。七瀬美由紀って、水瀬名雪の文字を入れ替えて作られてたんだね。びっくりだよ」
 その口調を窺う限り、どうしても驚いているようには見えないが、名雪も少なからず驚愕しているようだった。
「……みまみま。わたしは気付いてた」
 先ほどからガツガツと一心不乱に牛丼を胃袋に掻きこんでいた舞は、箸を一瞬だけ止めると、頬にご飯粒をつけたまま静かに言った。
「う、うぐぅ。じゃあ、ボクの名前もそうなの?」
「ええ、そうよ」
 クイクイと自分を指差して自己主張するあゆに、香里は微笑する。
「あゆちゃんに与えた偽名は、『八槻歩美』って書くでしょう?」
 香里はカフェテリアのガラスのテーブルに、指先を使って漢字を書いて見せる。
「これを『やつき・あゆみ』と私は読ませた。この文字列を並び替えると『つきみや・あゆ』になるわ。漢字に直せば、『月宮あゆ』。1文字違わず、あゆちゃんの名前でしょう?」
「うぐぅ! ボク、全然気付かなかったよ」

「まあ、生徒会もあゆちゃんのアナグラムに気付くまでには時間が掛かるでしょうね。彼らはあゆちゃんの名前を知らないもの。学校の生徒じゃないしね」
「でもでも、私とお姉ちゃんの名前だけアナグラムがありませんよ。私が名乗っていた名前は、祐一さんの本名の並び替えじゃないですか」
 少し残念そうに栞は言った。仲間ハズレにされた気分なのだろう。
「姉の気持ちも少しは汲んで頂戴よ、栞。あなたの名前は伏せておきたかったのよ。安全のためにね」
「む〜」納得のいかない栞は、ポヨポヨの眉根を顰めて唸る。「じゃあ、お姉ちゃんの名前がないのは何故ですか?」
「それは、黒幕が私であることを久瀬君たちに教えてあげるためよ。黒幕ってのは、名前も姿も現さずに実行犯を裏で操ってこその黒幕でしょう? 会館に入った8人の内、存在しながらも唯一アナグラムとして名前の記されていない人物。そこから私を連想できるようにしてあげたの。どう、至れり尽せり。サービス満点でしょう?」
「うーん。でも、そこまで教えちゃっていいの?」
「――良いんですよ」
 名雪の質問に答えたのは、タイミング良くカフェテリアに入ってきた第7の人物であった。
 倉田代議士の主任秘書官、小野島亜美である。

「“Absence of proof is not proof of absence."という言葉をご存知ですか? 確かに、『証明の不在』は『不在の証明』にはなり得ません。ですが、彼等がアナグラムに気付いたところで、それは状況証拠にもならない、ただの推測。確固たる物的証拠が無い以上、彼らは我々には手を出せないのです」
 彼女はそこで言葉を切ると、全員の反応を窺ってから続けた。
「それに分かったと言っても所詮は美坂先輩どまり。その後ろに、更にもう1人の黒幕がいることには気付けないまま終わるでしょう。
――そう。AMSのブレインは、1基ではなく、デュアルなんです」
「え、どういうことですか。小野島さん?」
 彼女の言葉の意味が良く理解できず、祐一は怪訝そうな顔で問いかける。その祐一に、小野島はスッと目を細めて微笑した。
「小野島さん、だなんて他人行儀ですね。もう作戦は終了したのですから何時もの通りで構いませんよ」
「ああ、相沢君はまだ教えてないのよ」
 小野島に意味ありげな視線を向けて、香里はクスリと笑った。
「なるほど……」納得したように、小野島は頷く。
「えっ、どういうことだ?」
 自分以外の全員が、イタズラに成功した子供のような笑みを浮かべていることに気付き、祐一は困惑した表情で、キョロキョロと女の子たちの顔に視線をさ迷わせる。
「2人とも何の話をしている?」
「分かりませんか?」
 そう言って、小野島はハイヒールの小気味良い足音を響かせながら、祐一に歩み寄っていく。
「小野島亜美を平仮名に直すと、『おのしま・あみ』」
 彼女はゆっくりと、被っていたストレートの長い黒髪のカツラを外す。その下から現れたのは、肩の上で切りそろえられた癖のある赤毛だった。
「――それを並び替えると、『あまの・みしお』になります」
 そして彼女は、最後に細いフレームの伊達メガネを取って見せる。
「ああ……ッ!」
 祐一の表情が、漸く理解を示す驚愕に変わった。

「そう。私です、相沢さん。天野美汐です」
 美汐は滅多に見せない会心の微笑を、祐一に披露した。祐一はソファの上で崩れ落ちるような格好のまま、アングリと美汐の相貌を見上げている。
「ぜ全然気付かなかった」
 香里は可笑しそうに笑う。いや、彼女だけでなく、祐一の驚愕ぶりに本人を除く全員が笑っていた。
「女は化けるものなのよ。だから化粧って言うの」
「その通りです」美汐は重々しく頷いた。「プロのメイク・アーティストに頼んで別人に変装させてもらったのは、何も相沢さんたちだけでは無かったということです。私だって、特殊なメイクをしてカツラと伊達メガネをつければ、別人に成りすますことくらい容易いというわけです」
「ぐはっ。女って恐ろしい……」
「いえいえ」
 美汐は目を細めて、ユックリと首を左右した。
「――相沢さんの、あの女装の恐ろしさには負けますよ」




−財団サイド−



 不思議と、憤りは感じなかった。
 心の何処かで、恐らくこういう結末を迎えるであろうことは、あの男と顔を合わせた瞬間から予測はしていたのだ。そして同種の予感は、こうも告げている。
 あの黒手の男――ワイズロマンサーとは、この先幾度でも合間見えることになろうと。
 急がずとも、必ずや死闘を演じ決着をつけるその日は巡ってくる。それが、定めだ。
「少し、あのボウヤを見くびっていたようね」
 三十六手は、コートに付着したシャングリラの粉末を払いながら言った。
「挑発に乗って激昂したと思わせておいて、目的の達成を優先し、個人的な勝負を預ける――」
 それは、素人ではできない。闘いのプロフェッショナルの姿勢だ。
「死と隣り合わせの極限状態にあって、それを的確に判断できる頭のキレ。咄嗟に粉塵爆発を利用できる、戦場での卓越したイマジネーション。1度完膚なきまでに敗北し、その実力の差を思い知らされた相手と、再び対峙できる胆力。――いずれにしても、並の高校生のものじゃないわ。バトルセンスにおいて、彼は天才かもね」
「あの男たちをただの野犬の群れと判断しない方がいい」
 砕破は、ワイズロマンサーが消えていった屋上へと続くタラップを、目を細めて見詰める。
「川澄舞に荒鷹、A級能力者を2人擁し――かつ、アマチュアでありながらプロフェッショナルの判断を瞬時に下せる集団。もはや、日本に限れば最強の不穏分子と表して過言ではない」

 数多の戦場において、15年間もの長期に渡り『不敗神話』を維持し続けている鷹山小次郎。砕破にも比肩し得る超戦闘力と、卓越したバトルセンスを有した川澄舞。この2人の存在だけで、非能力者で編成される100人規模の部隊を相手に出来よう。
 いや、砕破が知るホーリィ・オーダーの小隊の中でも、彼らAMSと互角の勝負が出来る部隊が果たして幾つあるか。思いつく限りでは、砕破たちアジア最強の5人組み『皇聖五歌仙』、北米最強部隊『スーパー・ノヴァ』、北欧最強の『エインヘリアル』、そして世界最強のホーリィ・オーダー『アルカナ・フォース』。他に幾つかの部隊名が挙がるだけだ。
 そもそも、A級能力者を2人も有している小隊自体、財団内部でもそうそう見ない。
 ――それだけではない。恐らく川澄の“魔”を利用したのであろうが、あっさりとこの会館に忍び込んで、機密を盗み出したその手腕と頭脳。誰がこの計画をプロデュースしたのかは知らないが、ワイズロマンサーが率いていた少女たちの中に、恐るべきブレインが存在しているであろうことは容易に予想がつく。

「厄介な連中が出てきたものね」
 彼らに比肩し得る部隊が少ないということは、今後、自分たちが彼らの相手に回される確率が高まると言うことだ。三十六手はそれを思い、顔を顰める。
「逃れられぬなら、戦うまでだ」
 砕破は冷たく言った。
「ワイズロマンサーは、いずれ俺が殺す――」
 だが今は、まだその時ではない。ならば時が満ちるのを、静かに待てば良い。
 ただ、それだけのことだった。




閉幕
−CURTAIN−



Mon,01 January 2001 11:49 A.M.
AMS Mansion

2001年 元旦 午前11時49分
AMSマンション


 しゃらんと、名雪が歩を進める度に鈴振る音が耳に心地よい高音を奏でる。彼女が淡い赤を基調とした振袖と共に履いているのは、底の部分に鈴が入った草履である。いつも元気に駆け回っている彼女が、和服で身を飾って静々と歩いているのは、祐一の目にも新鮮だった。
「立派なマンションですね。ここが倉田さんの?」
 娘とは対照的に、紺色の落ち着いた感じのするスーツを纏った秋子が、周囲に視線を巡らせながら問う。
 そこは、一流ホテルの正面ロビーを思わせる広大なホールだった。
「ええ、そうですよ」祐一は、傘に滞積した雪を振り落としながら言った。
「うぐぅ。ボクも最初来たときはビックリしたよ」
 そう言って、お気に入りのミトンの手袋をした両の拳を握り締めるあゆは、祐一と同様、普段と換り映えしない服装でやってきていた。
 名雪が着ている振袖は、秋子のお下がりだからして一着しかなく、しかもあゆにはサイズが合わない。それを別にしても、水瀬家に引き取られて日の浅い彼女は、まだ衣装持ちとは言えないのだ。

 祐一、名雪、秋子、そしてあゆの水瀬家一行は、佐祐理と舞が住まいとしている高級マンションを揃って訪れていた。元旦の今日、ここでAMSの新年会が行われる予定なのだ。
 佐祐理のことだ、また豪勢な御節料理と共にあたたかく迎えてくれるに違いない。
「お母さん、あっちにエレベータがあるから、それで上がるんだよ」
 名雪が、振袖の袖を文字通りパタパタと振りながら、満面の笑みで言う。
 会場に指定されているのは、5階にある大食堂だ。数十人規模の来客を収容できる大きな空間は、つい先週までクリスマスの飾り付けがされていた。
 今日は、紅白で彩られた新年会場にその装いを変えていることだろう。

「あけまして、おめでとうございま〜す!」
 5階に上がった一行は、食堂のドアを開けると笑顔で新年の挨拶を放った。
 広い室内は予想通り正月模様に彩られており、中央に鎮座している大テーブルには既にご馳走が所狭しと並べられていて、白い湯気と食欲をそそる芳香を漂わせている。
「あはは〜、お待ちしてました。もう、他の皆さんはお出でになってますよ〜」
 白いドレス姿の佐祐理が、満面の笑みを湛えて水瀬家一行を迎え入れた。
 彼女の言葉通り、暖房の効いた暖かい室内には、既に他のAMSのメンバーが勢揃いしている。
 祐一たちが最後の訪問客ということで、すぐに宴は始まった。
「新年明けましておめでとうございます、祐一さん! お年玉下さいっ」
「おう、栞。今年も相変わらず無駄に元気だな。……それと、お年玉はオレが欲しいくらいだ」
 パタパタと駆け寄ってきた栞の頭をクシャクシャと撫でながら、祐一は笑顔を返す。
「今年も1年、お姉ちゃん共々よろしくおねがしますぅ」
「ああ。今年も楽しくやろうな」
「おめでとう、名雪、相沢君」
 栞に少し遅れて、落ち着いた足取りでやってきた香里が微笑む。
 それから、祐一たちの後ろに立つ秋子に視線を向けて軽く頭を下げた。
「秋子さん、明けましておめでとう御座います。昨年は色々とお世話になりました」
「あらあら、こちらこそ。今年も名雪と仲良くして上げてくださいね」
 秋子は頬に軽く手を添えたいつもの仕草で、嫋やか返す。彼女は、今年もやはり歳を取りそうに無い。
「――ええ、勿論です」
「皆さんお揃いで。秋子さん、ご無沙汰しております」
 相変わらずの口調で慇懃に頭を下げたのは、こういう和風な伝統行事の席が良く似合う美汐だ。
「はは、相変わらず天野はオバさんくさいな」
「新年早々、開口1番に飛び出すのはそれですか」美汐は憮然とした表情で言った。
「そんな酷なことは無いでしょう」

「あはは〜。それはそうと、祐一さんたちはいよいよ大学受験ですねー。がんばって下さいっ☆」
「ぐはっ!」佐祐理の言葉を聞いた途端、祐一は露骨に顔を顰めた。
「思い出させないで下さいよ、佐祐理さぁん」
「そうだよ〜。最近、香里が益々厳しくなってきて、トラウマになりそうなくらい勉強漬けだし」
「あら、でも成績は着実に確実に上がってきてるじゃない」
 半分泣きそうな顔の名雪に、香里は如何にも心外といった表情で言い返した。
「この4ヶ月で、43だった名雪の偏差値は幾つ上がった? 私以外の人間がプロデュースして、これだけの短期間で20も上げられたと言うつもり?」
「……あ、偏差値で思い出した」祐一はポンと手を打つと、邪悪に笑った。
「香里。オレ、この前の模試で偏差値61だったぞ。最初の偏差値が48。8ポイントUPするごとにご褒美くれるっていってたよな。56のご褒美は、確か1日香里の唇を自由にできる権だったはず。まだ貰ってないぞ」
「それは――」
 香里の頬にさっと赤味がさす。
「だ、ダメよ。まだ。ちゃんとTUTに合格するまでお預け」
 プイっとそっぽを向き、うろたえながら香里はなんとかそう言った。
「はぇ〜、やはり祐一さんたちは佐祐理たちの大学にくるんですね」佐祐理が嬉しそうに笑う。
「そしたら、キャンパスで皆揃ってお弁当食べる」
 卒業して祐一たちと離れ離れになってしまい、1番淋しがったのは舞だ。
 勿論彼女は、再び祐一と同じ学校に通えるのを歓迎している。
「でも、合格のボーダーラインは偏差値64なんだよなぁ。オレの場合3足りん」
「祐一、ファイト!……だよ」
 ニッコリと笑ってガッツポーズを作って見せる名雪。だが――
「名雪、心配なのは寧ろ貴女の方よ。試験中眠ってしまわないか、今から心配で心配で」
「確かに」香里のツッコミに、祐一は深く頷く。
「う〜。もしかして、また酷いこと言ってる?」
 いつもの様にからかわれ、頬を膨らませて祐一たちを睨みつける名雪であった。
「はは。そんなことないぞ、名雪」
「そうよ、気のせいよ名雪」
「……うぐぅ?」
「あはは〜。良く分かりませんけど、きっと気のせいですよ〜」
「う〜〜。なんだか知らないけど、更に酷いこと言われてる気がするよ」

 21世紀も、AMSは相変わらずのようである。



 ――作戦名:オペレイション・スネイク。
 クリスマスに決行された、生徒会への潜入計画から早1週間。未だに、祐一たちの手によって暴露された生徒会館の機密は、世間とマスコミを騒がせている。
 栞(=偽チャレンジ・レッド)が、例の四次元ポケットに潜り込ませ、最上階の木箱の中から大量に持ちかえったプレミアム・ドラッグ『シャングリラ』の一部は、TVカメラで録画した『アナログ・テープ』と共に物的証拠として警察に送られた。
 足がつかないよう、郵便局の『郵政課』に美汐が直接潜り込み、どさくさに紛れて小包置き場に置いて来たらしい。

 クリスマス後は、数百万枚の年賀状を捌くため、郵便局は大量の臨時職員をアルバイトとして雇う。
 そして、内務の仕分け作業に従事するアルバイトは、その大半が美汐くらいの若い女性である。
 つまり、美汐が堂々と正面から局内に入り込み、小包を置いてきても疑われることはないのだ。
 彼女はその辺りも計算して、作戦の時期を年末に定めたと言う。

 元旦早々、警視庁に届いた『麻薬と、機密を収めたヴィデオ・テープ』の存在は、大々的にニュースのトップを飾っていたから、美汐のその試みは成功したのだろう。
 会館の5階は、砕破たちの手によって見事に爆破されてはいるが、会館に警察の捜索の手が入るのはまず間違い無いと考えられている。
 また、麻薬とヴィデオ、2つの物的証拠がある以上、理事会の幹部たちも取り調べを受けることになる筈だ。
 またもや、学校が無期限の休校になるような大事件に発展するだろうことは、まず確実だった。

 ……忘れてならないのは、栞が持ちかえったのが『シャングリラ』だけではなかったということだ。
 人気絶頂の少女漫画雑誌"月刊どぼん"1月号に掲載されるはずの、白鳥沢爛子作『美食戦隊・薔薇女郎 〜愛の雪崩式フランケンシュタイナー〜』は、作者の急病のため連載がお休みとなった。

 流石の白鳥沢先生も、完成間近の原稿をそっくり盗まれてしまっては、締め切りまでに脱稿するのは不可能だったということだろう。
 噂によると、何故かクリスマス以降、久瀬透の頭に白髪が目立つようになったとか……。
 ――真偽は定かではない。






アンコール
−ENCORE−





 灰色の分厚い雲に覆われた空から、掠れたような雪が舞い降りてくる。なのに遥か西を見れば、雲の隙間から薄っすらと光が大地へと差し込んでいた。
 暗雲垂れ込めた暗い空の狭間から、曙光のように一条の光。その光景は、見るものになにか神々しいものを感じさせる。まるで、天使がこの世に降り立つ前触れであるかのように――。
 雪が降り積もる音が周囲に木霊するような、深々しんしんとした場所だった。
 元より、此処は人間が好んで足を踏み入れるような空間ではない。ただ、日常から駆逐された記憶が集められ、そして刻み込まれた場所。時の流れから置き去りにされた、もっとも彼岸に近しい場所であった。
 相沢祐一は、その地に独り佇んでいた。
 白雪に塗れ、爪先が凍てつきかけた革靴からは、もはや防寒の効果は失われて久しい。足の先端の感覚は既に完全に失われていた。
 それでも、祐一はその歩を進める。1歩雪原を歩く度、降り積もった粉雪は片栗粉を踏みしめたような音を立てた。耳が痛くなるほど静かで寂れた空間に、その音が悲しいくらいに響き渡る。
 非物理的な意味合いにおいても、そこは冷たい場所だった。凍てついた時間、失われた命の息吹、そして薄れていく記憶。
 人は忘れることができるから、生きていける。だがここは、その忘れられた悲しみが無機質に刻み込まれたまま保存される場所なのだ。

 祐一は、雪の小山の前でその歩みを止めた。
 巨大な立方体の雪の塊。箱型の物体に、雪のヴェールが被さってしまった結果だろう。周囲には、同じような雪の塊が林立していた。今、祐一が向き合っているのは、その内の1つに過ぎない。
 祐一は、日常と降り積もる雪に埋もれてしまったそれを、手袋さえしていない左手で掘り起こしていった。指先から血の気が失せ、千切れるような痛みが襲ってくる。だが彼は、それを無視して作業を続けた。
 やがて、雪は粗方が払い落とされ、その下に隠された地肌が見え始めた。鏡の様に磨きこまれた石だ。そして、温もりを持たないその石肌に刻まれた文字が、漸く浮き上がってくる。

『武田家之墓』

 ――それは、生徒会に殺害された武田玲子の墓石であった。
 生きていれば、今年祐一と同じように高校を卒業し、大学に進学して、前から楽しみにしていた念願の1人暮しを正式にスタートさせる筈だった少女。
 だが彼女は今、多くの人々から忘れられ、この地で静かな永久とわの眠りに就いている。
「よう、久しぶり」
 祐一は手桶を置くと、墓石の前にしゃがみ込み笑顔で言った。
 本当はこんなに気安く声をかけられる相手ではない。祐一は彼女と面識が無かったし、声も聞いたことが無い。顔だって、葬儀とアルバムの写真で数度見ただけだ。
「そう言えば、自己紹介がまだだった」祐一は、今更ながらにそのことを思い出し苦笑した。
「オレは相沢祐一。倉田先輩の知り合いさ。あんたとは、今まで2度会ってる。覚えてくれてるか? ……いや、思い出したくないよな」
 最初に出会ったのは、彼女が死体の時だった。
 天井から、首を括ったロープでぶら下げられていた彼女。多くの縊死による死体がそうである様に、筋肉が弛緩し、彼女は糞尿に塗れていた。確かに、年頃の少女が同世代の男の子に見せたい姿ではない。
「ごめんな。でも、あれ誰にも内緒にしとくから」
 祐一は人差し指で唇を塞ぎ、玲子にウインクして見せる。そして、自嘲するように再び苦笑した。
「――あ、これ」思い出したようにポケットを漁り、墓石の前に包装紙に包まれた小さな球体を置く。
「オフクロさんに聞いた、おたくの好物。イチゴ大福だ。良かったら食ってくれ。……あ、手が無いんだったな。オレが食いやすいようにしておくよ」
 そう言って包装を解き、大福を裸にすると再び墓石に戻す。
「食うんなら、早くした方がいいぜ。オレの知り合いにさ、苺狂いの女の子がいるんだ。ヤツなら、他人の苺だろうが仏壇に添えてある苺だろうが、遠慮なしに貪り食うだろうからな」
 幼馴染の少女が、イチゴサンデーを頬張っている時の、その幸せそうな顔を思い出し、祐一は笑う。一頻り腹を抱えると、祐一は真顔に戻って溜息を1つ吐いた。
 周囲に、また異様なまでの静寂が戻る。

「――今日は、報告に来たんだ」祐一は穏やかな微笑と共に、語りかけた。
「そっちでも、現世のニュースとか見られるのかな? オレさ、生徒会と理事会を……潰してきたぜ。こんなことしても、あんたが報われるだなんて思ってないけど、少しは気も晴れると思ってさ」
 凍てつくような冬の冷たい風が一陣、雪を混じらせて吹き抜けていく。祐一の長い黒髪が弄られ、墓石に備えられていた枯れ細って久しい花束が攫われていった。
 祐一は、分厚い雲に覆われた灰色の空を見上げる。
「あと1日早かったら」
 長い前髪が目を覆う。雪に混じり、透明な雫が落ちたように見えた。
「あと1日早く出会えていたら、守ることができた。死なせずにすんだ――」

 明日、わたし、自宅で待ってます。
 ずっと待ってますから、だから、来てください。
 そしたら、全部お話ししますから。私、怖くて。
 ……助けて下さい。お願いです。

「助けて」


「嗚咽混じりのあの声が、今でも耳から離れない――」
 時々、夢にも見る。そして目覚めて、改めて戻らない彼女の命の意味を知る。どんなに足掻いても、どんなに努力しても、敵を討った今でも、その意味は戻らない。戻らなかった。
「あんなに怯えてたのに。助けを求めていたのに。何の罪も無かったのに。真琴と同じだ。何もできなかった。してやれなかった。オレは、また繰り返した」
 祐一は面を伏せて、声低く囁く。
「……ごめんな」
 結局、この事件は何も生み出すことは無かった。誰のためにもならず、それでいて関わった全ての人々を悲劇に巻き込む、そんな陰惨な事件だった。
「ホント、ごめんな――」
 会館を潰したことで、今後被害者が出る可能性は消すことが出来たが、膿はまた形を変えて何処かに現れることだろう。そう思うと、やりきれなかった。
「……祐一」
 突然、背後から柔らかな温もりに包まれた。自分ではない、誰かの体温。――その抱擁。
「舞」
 それが、幼馴染の少女であることは、気配と彼女独特の日向を思わせる香りで分かった。それに、自分以外の人間がここに来る可能性といえば、彼女が2番目に高い。
 玲子の死に沈む母親を、1番哀れんでいたのも彼女だ。天涯孤独の舞は、家族の温もりが失われる痛みを誰より良く知っている。悲しい話が苦手な、誰よりも優しい少女なのだ。
 だから、こんなにあたたかいのだろうか。そんなことを思いながら、祐一は後ろから自分の首に回された彼女の腕に、そっと手を重ねた。
「知らなかった。自分のじゃない誰かの体温は――」
 祐一は呆然と呟く。
「誰かに抱かれるって、こんなに温かいものなんだな」
 彼女に頬寄せると、静かに瞳を閉じた。
 限りなく静かな時が流れる。
 そこが選ばれた場所であるからこそ生まれる静謐。
 誰に省みられることも望まない、白い雪の花が咲く。

「祐一は悪くない」
 抱く腕に力を込めながら、舞は、優しくそう言ってくれた。
「あれは、避け様がなかった死だった。それを悲しむのは、祐一の優しさ。だから否定はしない。でも、祐一がそれを自分の責と思いこむのなら、私は祐一を叱らなくてはいけない」
「舞――」
 祐一は、その言葉に少し驚いたような顔をしていたが、やがて雪解けのように、ゆっくりと微笑む。そして舞の腕を丁寧に解くと、身体を反転させて彼女と向かい合った。
「ありがとう、舞」
「祐一には、いつも笑顔で、健やかでいて欲しいから」
 少し照れたように頬を赤くしながら、舞は言った。そんな彼女が、祐一の全てを癒していく。それは彼がかつて見たどんな能力よりも偉大で、力強かった。だからこそ、祐一は微笑むことができた。
「舞」
 祐一はじっと舞を見詰めると、俯き加減の彼女の顎をそっと上げ、顔を近づけた。彼女の長い睫毛が、ゆっくりと伏せられる。時に閉じ込められてしまったかのような静けさの中、2人の唇が重なった。
 清らかな粉雪が、そんな彼らを隠すように、静かな白のベールで世界を覆う。

「……悪い、こんなところ見せちまって」
 舞を抱いたまま、祐一は玲子に向けて悪戯っぽく笑った。
「ま、そういうことさ。あんたが死んだことは、とても悲しい出来事だった。でも、皆支え合いながら、なんとかやってる。お前さんの両親も、きっと少しだけ笑顔を取り戻せる日が来ると思うんだ。だから、安心してくれ」
 祐一がそう言うと、舞は墓標に歩み寄り、懐から取り出した封筒を墓前に捧げた。
 そして再び祐一の傍らに戻る。
「何をプレゼントしたんだ?」
「動物園の入場券」舞は囁くように言った。「この世界の動物園にいる動物さんは、みんな檻に閉じ込められて、元気がない。でも、天国の動物園の動物さんたちは、きっと檻もなくて元気だと思うから。だからきっと、その動物園に行くと、とても楽しくなれる。天国に動物園があるかは分からないけど――もしあったら、動物さんと会えますように」
「きっとあるさ、動物園」
 祐一は舞の肩を抱きながら言った。ささやかだけれど、何よりも大切にしたい優しさ。それを持つ彼女が、たまらなく愛しかった。
「天国に行くのは、何も人間だけじゃない。他の動物だって、植物だって一緒なんだからな」
「……うん」舞は、祐一に身体を預けながら頷いた。
「それどころか、太古に絶滅したはずの恐竜だって見られる筈だぜ。ちょっとしたジュラシック・パーク。まさにロスト・ワールドってやつだ」
「マンモスさんも?」
「ああ、マンモスもいるさ。始祖鳥も、プテラノドンも。もしかすると、ドラゴンとか天馬とか妖精さんとか、誰も信じなくなって行き場を失った想像上の動物もいるかもしれないぜ。全部がそこに集まるんだ」
 祐一は、西の空を見上げながら言った。
「きっと、滅びたはずの楽園が、そこにはあるんだろうからな――」











Y'sromancers 4th SEASON
"SNEAK INTO THE COMPOUND OF STUDENT GOVERNMENT"

Fin










あとがき

※注意
本編のわりと重要(?)なトリック(??)に触れています。
本編を未読の方は、先にこの『あとがき』を読む場合、
推理小説の犯人を先に知る覚悟でお願いします。



 Y'sromancers IV 『白鳥沢爛子先生』をお届けしました。相変わらず文章(小説の技術)は下手ですが、内容自体は個人的に気に入ってます。楽しみながら書けましたしね。
 さて、今回のお話ですが、私としても異例と言っていい生まれ方をしました。切っ掛けは、KANONのキャラクターの名前を使って、アナグラムを作って遊んでいたこと。色々弄くっている内に、結構それらしいのが出来あがったので、『折角だからこれを使って1本シナリオを書けないかな?』と思ったわけです。つまり、ストーリィ自体は後付けなわけですね。所々、設定に無茶があるのはそのためだったりします。
 ここで、最初に作ったアナグラムを特別に公開しておきましょう。


元の名前 並び替え後の名前 漢字
あいざわ
相沢
ゆういち
祐一
さわうち あい
ゆい
(澤内 愛)
(澤内 唯)
あまの
天野
みしお
美汐
おのしま あみ (小野島 亜美)
かわすみ
川澄
まい
いわま かすみ (岩間 霞)
くらた
倉田
さゆり
佐祐理
さくらだ ゆり (櫻田 由里)
みなせ
水瀬
なゆき
名雪
ななせ みゆき (七瀬 みゆき)
つきみや
月宮
あゆ やつき あゆみ (八槻 アユミ)
みさか
美坂
しおり
さかり みしお (左狩 美汐)
みさか
美坂
かおり
香里
かみさか りお (神坂 理緒)


 ……如何でしょう。結構、別の名前として違和感の無いものができちゃうんですよね。
 で、どうせなら、このアナグラムを一種のトリックにしようとも思いました。そして、最後の最後で読者にドーンと教えちゃおう。途中で気付く人も7割くらいはいるだろうけど(実際、難易度を下げるためにヒントを多めに出してます)、きっと驚く人も少しはいるに違いない。そうホクソ笑みながら書いたわけです。だから、今回の執筆は楽しかったです。
 あと、個人的に「月宮あゆ=八槻アユミ」と「川澄舞=岩間カスミ」は苦しかったかなと思ってます。どちらも、名字がちょっと不自然な感じがしますよね。しかも、この2人は並び替えが単純な構造になってるので、アナグラムとバレやすい。ちょっとドキドキものでした。
 それでも、多くの読者は「なんだ。やけにオリジナル・キャラクターが沢山出てくるな」程度にしか思わなかっただろうと予測しています。少なくとも最初は。オリジナルが嫌いな人の中には、途中で読むのを止めちゃった人もいるかもしれませんね。勿体無い。純粋なオリジナル・キャラクターは殆ど出てきてないのに(笑)。

 たまには、こういうのも良いんじゃないでしょうか。KANONの原作に準拠したラヴストーリィなんて、もう巷に充分ありますしね。そんな感じの作品は、放っておいたって何処かで誰かが書くものですから、私はその人に任せます。代わりに私は、原作の細かい設定に拘っていたんじゃ、絶対に出来ない作品を作りたいと思っています。だから、設定も内容も二次創作というよりは、オリジナルに近しいです。でも、そうでなくては新風は起こせないし、私自身書いていて楽しくありません。
 二次創作に対するスタンスも色々はずです。皆が同じである必要は無い。まあ、その辺も含めてご意見・ご感想をお待ちしております。
 あ、そうそう。指摘されることが多いので、ここで一言いっておきます。作中では美坂香里や天野美汐を『天才』と表現することが多いですが、それらはあくまで、登場する人物たちが彼女たちをそう評価しているに過ぎません。作者である私は、彼女たちを決して天才だとも思っていないし、頭が良いとも思っていません。それを示唆させる内容は、時々色々なキャラクターの口を借りて主張しているつもりなんですが、伝わらない人には伝わらない模様。
 私は、天才という概念や評価が大嫌いな人間なので、そういう表現は使いません。今まで、誰かを天才だと思ったことはないし、実際にY'sのキャラクターが現実に私の目の前に現れても、頭が良いとも天才とも思わないでしょう。天才? ブレイン・モンスター? はっ、笑わせるね。――ってところです。
 天才という評価と表現が作中の中で出てくるのは、その言葉を安直に使う連中への軽蔑と皮肉の意味が込められていると解釈して下さい。……ああ、なぜ後書きでこんな解説をしなければならないのか。
 ――次回は、いよいよ高校生シリーズ最終話。そして、初の読切りです。
 それでは、5th SEASON『君、微笑んだ夜』でお会いしましょう。


2002年 1月8日
広木 真紀


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脱稿:2002/01/08
一般公開:2002/01/22
正式公開:2002/04/16


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