生徒会会館 最上階
「うわ〜、これはスゴイですね。カメラさんアップ、アップ」
チャレンジ・レッドの手招きを受け、祐一はTVカメラを担いだまま彼女との距離を詰めた。
今チャレンジ・レッドが背にしているのは、『LEVEL:5』と書かれた、分厚い鋼鉄の扉である。これまでの扉も異様なまでに重厚な威圧感を放っていたが、これはまた、それとはレヴェルが違う。流石に祐一も、「ロマンサーで何発殴れば」という仮定を放棄せざるを得ないようだった。人間の手でこれを打ち破る術などないことが、一目して瞭然だからだ。
――いや、或いは砕破のあの蹴りならば。
祐一の脳裏に、かつてイングランドで食らった彼の一撃が甦る。あの蹴りならば、この扉も一撃で消滅させてしまうだろう。
名を、確かFolding Solid Canon。その名の通り、左足から放たれる、青白く輝く超エネルギーの"カノン砲"。そう、まさにあれは兵器だった。
津波の如く襲い来るその奔流に為す術なく飲み込まれようとしたところを、舞の“魔”が盾になってくれたおかげで助かったのだが、まともに食らえば勿論命は無かっただろう。前回とて、舞のサポートがあってさえその威力に飲まれ、豪快に吹っ飛ばされてK.O.された。生きていたのは、むしろ自分の常識ハズレな強運があればこその話であったと言える。
あの技を言葉で表現するのは極めて困難だ。彼のLOD――闇の左脚から繰り出されたあの恐るべき力の暴走は、常人が住まう世界に属する力ではない。そもそも、その試み自体がナンセンスなのであろう。
それでも敢えて喩えろと言うのなら、学校に良くある25mのプールを思い浮かべれば良い。そのプールを、天を突くような巨人がバケツを引っ繰り返すように、思い切り跳ね上げたとする。そして、それを踏まえた上で最後に想像すれば良いのだ。プールに溜められていた全水量が、容器であったプールから流れ出し、怒涛の如く自分に襲いかかってくるであろうそのヴィジョンを。
回避の仕様など無い。視界を覆い尽くす規模で襲いかかってくる青白きエネルギーのタイダル・ウェイヴが、標的を一瞬で飲み込んでいくからだ。あれを見せられては、確かに砕破が『A』ランクの能力者と認定されているのも頷ける。あの一撃は、まさに爆殺の威力を秘めていた。30人や50人、生身の人間なら一溜りもあるまい。易々と葬って見せるだろう。
「カメラさん、カメラさん。なにボンヤリしてるんですか」
祐一は、澤内唯のその声で我に返った。どうやら砕破との一件を思うあまり、意識を思考の世界に埋没してしまっていたようだ。
「あ、ああ。スマン。――スタジオ。今の部分、編集でカットな」
「しっかりして下さいよう、ここからが本番なんですから」
「ああ。悪い、悪い」
祐一はカメラを担ぎ直すと、頬を膨らませている(と思われる)チャレンジ・レッドに謝罪する。
「……急いだ方が良い。会長室で時間を取り過ぎた」
「そうだな」霞の冷静な指摘に、祐一は神妙な顔つきで頷いた。
「じゃあ、本番はじめようぜ。TAKE2。3、2、1、アクション!」
「――ハァイ、みんな。元気かな?」
カメラが再び回り始めた途端、チャレジ・レッドはマイク片手に明るく語り始めた。
「既に駅前の皆を虜にしつつあると思われる、早くも大人気のチャレンジ・レッドだ。さあ、いよいよ私の作戦も佳境を迎えつつあるようだ。みんな、私の後ろにある扉がなんであるか分かるだろうか?」
チャレンジ・レッドは少し身体をずらし、背後に隠れていた扉をカメラに晒す。
「この巨大な鉄の扉の向こうには、会館の最上階へと続く階段がある! そして恐らく、私を待つ最後にして最強の怪人は、この階段を上りきったフロアで私の到着を待ちわびていることだろう」
怪人って何だ……?
カメラを構える祐一はそう思ったが、懸命にも口には出さなかった。質問すると、また唯が熱く語り出す危険性があるからだ。
「見てくれ、みんな。この扉に付けられた物々しいセキュリティを。今までの扉には、キー・カードを挿入するスロットしか付いていなかったが、これには指紋と網膜をチェックするセンサーがついている。どうやら、登録した人間しか立ち入りができないようになっているらしい。勿論、悪の組織に私の指紋や網膜が登録されているわけがない。だが、私はこの扉を開けることが出来る。何故ならば、私は正義の味方だからだ!」
ば〜ん、とボリュームの無い胸を張るチャレンジ・レッド。どうやらヒーローは、正義の味方であるという論理を振りかざせば不可能は無くなるらしい。これでは敵に回る怪人たちも、たまったものではないだろう。
「こんなもの、正義の前にはチョチョイのチョイだよ。ハッハッハッハッハ!」
ポーズを決めて高らかに笑うチャレンジ・レッド。
「では、開けるぞ。みんな、良く見ていてくれ!」
チャレンジ・レッドはカメラ目線で告げると、パチンと指を鳴らした。すると、まるでその音に反応したかのように、低い唸りを上げて重い金属の扉がゆっくりと開いていく。舞が影からコッソリと“魔”を召還し、内側からドアを開くボタンを押したのだ。
入る時のチェックは極めて厳しいが、出る時は自動ドアと変わらない。魔を操れる舞にとって、この扉を開けるなど、まさしく造作も無いことである。
それにしても、今宵の彼女は大活躍だ。佐祐理は、今日はどうしても外せない仕事があるとかで、夜になると香港に飛んでしまった。帰りは早くても明日の昼になるというから、今回の作戦の肝心な部分には参加できずにいる。まるで、その代わりに佐祐理の分も――とでも言うように、彼女は目覚しい働きを見せてくれていた。
そもそも、ここまで会館を簡単にうろつけるのも彼女の能力があればこその話である。もし舞の存在とその力がなければ、この計画はもっと難航し、香里や美汐も別の案を練り直されなければならなかったに違いない。そうなれば、計画の実行はもっと遅くなっていたことだろう。
「おお〜っと。みんな、見てくれているだろうか? 生徒会長すら入ったことがない、学園の理事会幹部のみの聖域――そして巨悪が巣くう最後の砦へと続く扉が、遂に開かれたぞ。いよいよ最終決戦の時だ!」
チャレンジ・レッドが興奮した、だが可愛らしい声で小さく叫んだ。マイクを握り締める右指に力が入り、ピンと立った小指の反りも鋭さを増す。サイズが大きいのか、ちょっと頭でっかちに見えるマスクがラブリィだ。
「さあ、みんな。私はこれから、最後のバトル・ステージへと乗り込む。応援してくれ。正義と愛の合言葉は、レエェ〜〜〜〜ツ・チャレンジ!」
澤内ユイ、絶好調。もはや彼女を止められるものは何も無い。
「しからば、突撃じゃ〜! 麻呂に続いてたも」
――何故、最後だけ麻呂口調?
祐一は相変わらず意味不明なユイの言動に苦笑しながら、彼女の後姿にカメラを向ける。そして、マントをなびかせ、テッテッテ〜と愛らしく駆けて行く彼女の背を追った。更にその後ろから、冷静沈着、終始無言のカスミが速やかに続く。
この先に何が待っているのかは分からない。だが、確かんなことがただ1つ。ユイの言う通り、これが最後のバトルステージであるという事実だ。
会館の最高機密は間違い無く、この最上階『LEVEL:5』に眠っているのである。
−19−
同日同時刻 久瀬自宅 寝室
「区切りの良いところまで」
――そう思いつつも、1度作業に没頭してしまうと時を忘れてしまうのは、久瀬にとっていつものことだった。元々、何かに執着すると、周りの事情に頓着しないというのが彼の性格である。
そんな彼は、その日もいつもの様に深夜まで勉学に勤しんでいたのであったが、それを遮る控え目なノック音があった。
「透さん、こんな時間に申し訳ありません」
寝室のドアの向こう側から聞こえてきたのは、久瀬の両親が雇っている家政婦の声だった。久瀬が生まれる前から家にいたそうで、既に初老の域に達した女性だ。
「構いませんよ。どうぞ」
久瀬が、受験を控えた今の時期、真夜中まで勉強に励んでいるのはこの屋敷に住む誰もが知っていることだ。当然、彼女もそれを考慮した上で、訪ねてきたのだろう。
「失礼いたします」
ドアを開けて、家政婦が静々と入ってくる。こんな時間だと言うのに、彼女はまだ何時ものメイド服を纏っていた。その手に、電話の子機らしき物が握られているところを見ると――
「僕に電話かな」
「はい。生徒会会館の警備主任と名乗られる方からですが、どうしても今、重大なお話があると言われるものですので」
家政婦は何度も頭を下げながら、恐る恐るといった感じで言った。
久瀬の寝室には、電話は無い。寝室はあくまでベッドルームとしてのみ使っており、寝具の他にあるのは本棚と机くらいのものである。彼はこの屋敷内に書斎と言う意味合いで、もう1つ大きな私室を持っており、電話線はそちらの方に引いてあるのだ。
「会館の警備主任から……?」
家政婦の言葉を聞いて、久瀬は見るからに怪訝そうな顔をした。警備主任から自宅に電話が掛かってきたことなど、かつて無い。それが必要な事態が、この3年間生じたことが1度もないからだ。
「どういうことだ」
会館に何かが起こったというのだろうか。
まさか、それはあり得ない。久瀬は自分の考えを即座に否定した。会館には完全なセキュリティ・システムがある。あれを破ることなど、一般人には不可能だ。軍が武装して攻めて来たと言うのなら話は別だが、それこそ荒唐無稽な話である。
「まあ、いい。電話を貸してくれ」
「――はい」
「ありがとう。もう下がって良いですよ。夜も遅いし、休んだ方が良い」
受話器を受け取った久瀬が言うと、家政婦は深く会釈をして部屋を出ていった。その微かな足音が遠ざかっていったのを確認してから、久瀬は『保留』を解除する。
「もしもし、久瀬ですが」
『生徒会長、夜分お休みのところを申し訳ありません。会館警備主任の鬼木です』
受話器の向こうから、如何にも切迫した男の声が早口で聞こえてきた。
『会長にどうしてもお知らせしなくてはならない事態が発生しまして』
「緊急の要件なんでしょう。本題を話してください」
久瀬は相手の言葉を途中で遮ると、落ち着いた口調で告げた。
『は、はい』鬼木警備主任は、一拍おいて唾を飲み込む。『実は、会館内部に何者かが侵入していると思われる情報をキャッチしました』
「――なに?」
久瀬の目が大きく見開かれた。夜の静寂を切り裂くように、彼の叫び声が室内に響き渡る。
「会館に侵入を許したと? 一体、誰がどうやって」
『分かりません。現在調査中です』
「分からない? では何故、侵入者がいることが分かるんです」
『それが、駅前広場で会館の内部から撮影していると思われる映像が、現在……』
警備主任は言い淀むが、意を決したように続けた。
『現在、生中継で放映されています』
「な――ッ!?」
久瀬は目を張って、絶句した。
何が起こっているというのだろうか。全く状況を把握できない。一体誰が、どんな手段を使って、何のためにそんなことをすると言うのか。
「そ、それで、侵入者は今どこにいるんです。もう捕らえたんですか?」
『それが……連中は既に最上階のLEVEL:5の扉を開けようとしています。我々、警備員の権限では4階以上のフロアには立ち入り出来ず、どうしようもない状態です」
「レ、レヴェル5!? 馬鹿な、どうやってそんなところまで……」
会館の警備を任されているとは言え、守衛たちも所詮は雇われの一般人。会館に眠る最高機密を彼らに見せるわけにはいかない。外部に漏れる危険性があるからだ。よって、守衛に与えられているキィ・カードのレヴェルは『3』止まりである。つまり、彼らは4階から上のフロアには巡回することはおろか、立ち入ることは許されていない。
『恐ろしい連中です。恐るべき連中です』
主任のその声は、恐怖に半ば震えていた。
『我々は職務を怠ってなどいません。なのに、連中はどうやってか館内に忍び込み、驚愕の速度で最上階まで上り詰めたんです。とても人間業とは思えません』
「こんなことがあり得るのか――?」
全身に鳥肌が立つのが分かった。うなじの毛がチリチリと逆立っていく。
「会長権限を行使してもレヴェル4までしか上れないと言うのに……しかもレべル5の扉を開けるためには、キィ・カードと網膜・指紋のチェックをクリアする必要があるはず。いや、それ以前に、キィ・カードなくして4階まで上ることは不可能だ」
『ですが、現に賊は5階まで上り詰めています』
警備主任が、悲鳴のような叫びを上げる。
「貴方は今、会館の映像が流されているというステーション・スクエアにいるのですか?」
『はい。非番の者が偶然この場に居合わせ、自分に連絡してきて発覚しました。
確認のために、自分も現場に来ておりますが……ああっ! 今、扉が開かれました! 嘘だろ信じられない……。奴等、人間じゃありませんよ。たった数秒であのロックを……』
「ぐっ、おのれ……」
久瀬は机を拳で叩きつけ、奥歯を食いしばった。
一体、何者だというのだろう。会館への侵入経路は正面玄関しかあり得ない。屋上へ続く扉には、内側からしか解除できない警報と罠が幾つも仕掛けられている。どちらにせよ、全館に敷かれた大使館級のセキュリティと、警備員たちの監視の目を潜り抜け、絶対に破ることができない筈のドアのロックを易々と解除し、久瀬本人すら足を踏み入れたことのない最上階に上り詰める賊。想像するだけで、背筋の凍りつく。腸の煮えくり返るような怒りもあったが、恐怖と脅威がそれを上回った。
相手は神か? 悪魔か? 何者にせよ、化物である。少なくとも常識が通用する相手ではない。
「とにかく、この侭では埒があかないし、状況が掴めない」
久瀬は思わず受話器に向かって怒鳴り声を上げた。
「僕はこれから直接会館まで行く。貴方も部下と交代して、直ぐに戻るんだ。それから、非番の警備員も呼び寄せて、全員で会館を包囲させろ。絶対に逃がすな!」
『分かりました!』
久瀬はその返答を最後まで聞く前に、乱暴に通話を終えて受話器を放り出した。確か今夜は、世を徹したナイト・パレードが行われており、若者を中心に大勢の人間が繁華街に集まっている筈だ。そこで中継などされては、考えられ得る最大の損失を生む。事態は一刻を争うのだ。
久瀬はコートを掴むと早足でドアを開け、家政婦を呼んだ。
「――藤井! 直ぐに車を手配しろ!」
−20−
「ちょ、ちょっと待ってよ。砕破!」
三十六手は、慌てて彼の腰にしがみついた。砕破の"LEFT LEG OF DARKNESS"、通称LODは、既に青白く発光し周囲に超エネルギィの渦を作り出している。風もないというのに、近寄るだけで髪が爆風に晒されたように逆立った。
「――何故止める、サンセイリュウ」
砕破は構えを解くと、ゆっくりと三十六手を見下ろした。
「ねえ。もしかしてF.S.C.で、ここから会館を一気に破壊するつもり?」
会館前に辿りついた途端、いきなり必殺の一撃を放とうとした砕破に、三十六手は問いかける。
「そうだ。不可能ではない」
砕破は素っ気無く頷いた。何故、三十六手に止められたのか、彼は恐らく理解してはいまい。
「確かに不可能じゃないでしょうけど、目立ちすぎるわよ」
三十六手は飽きれたような、疲労したような、複雑な表情で言った。
砕破が主張する通り、彼の最大奥義とも言えるフォールディング・ソリッド・カノンを発動すれば、5階建ての会館を崩壊に導くことは可能だ。特に、館内には誘爆を期待できる色々なものがある。成功率は極めて高いだろう。『シャング』は極めて熱処理しやすく、1度気化してしまえばその痕跡を辿ることは不可能に近いこともある。
「会館に川澄舞の“具象思念体”召還の痕跡がある。だがあの女は、会館の機密に積極的にアプローチするような性格をしていない。川澄舞の資料をお前も見た筈だ。ならばその背後に、奴等――ワイズロマンサーたちCord-"J8"が絡んでいる可能性が高い。事を急ぐ必要があるということだ」
「でもホラ、ちょっとことが大袈裟になりすぎるわよ。破壊の衝撃が外部から来たとなると、誰でもおかしいと思うわ。それに折角、こうしてTNTを持ってきたわけだから、ここはスマートに5階に上って、局部だけ内側から起爆・倒壊させましょうよ」
三十六手は、背に担いだ軍用リュックを砕破に見せ付ける。
「――手間が掛かりすぎる。それにオレたちの任務は、会館の破壊。方法は問われていない。機密さえ爆破し隠滅すれば、誰にどう疑惑を抱かれようとも問題はあるまい」
砕破はいつもこうだ。回りくどい手段は好きではない。邪魔者は全て消す。障害は実力で叩き潰す。とにかく合理的で大胆なのである。無駄な部分を徹底的に削ぎ落としたそのスタイルは、鋭利に尖ったナイフを連想させる。
「でも、砕破。この会館にあのKsXの男、相沢祐一が一緒にいる可能性があるわけでしょう? このまま簡単に殺しちゃって良いの?」
その言葉に、砕破の目付きが変わった。それを確認した上で三十六手は続ける。
「あの男との決着、まだついていなかったわよね」
砕破は、無言で会館を見上げた。ロンドンでは、あと1歩というところでY'sromancerを仕留め損ねた。F.S.C.を使って単体の敵を始末できなかったのは、あれが初めてだ。川澄舞の実力が思いの他高く、死神と荒鷹の介入、他にもCyber Dollsが全滅するなど幾つかの誤算があったのを考慮に入れても、任務が達成できなかったことに変わりは無い。
「――いくぞ」
突如、砕破は歩き始めた。真っ直ぐに会館入り口に向かっている。
三十六手は微笑んだ。そして、彼の背を追う。どうしてだか知らないが、Y'sromancerが相手となると砕破は変わる。今まで知らなかった砕破の顔だ。三十六手は、誰も知らない彼の顔を、独占的に観察したいと願っていた。
「楽には死なせない」
確かに、あの男にはカリがある。一撃で終わらせることもあるまい。三十六手の思惑など知らぬままに、砕破は背中で呟いた。
その左足に青白い光が宿り、夜の闇に浮き上がる。
「ワイズロマンサーはこの手で殺す」
−21−
――最後の扉は開かれた。学園理事会の幹部にしか立ち入ることの許されないと言われる、会館最上階『LEVEL:5』。恐らくこの空間に眠る何かが、澤田紀子を自殺に追い込み、武田玲子を殺した。そして復讐鬼・澤田武士が生まれ、彼の手によって更に4人の人間が惨殺されたのである。
思えば、今までに露見しているだけでも、この会館の機密は7人もの若者の命を無残に奪ってきた。だが、AMSの手によって、今その歴史に終止符が打たれようとしている。多くの悲劇を生み出してきた、会館に眠る学園の最高機密は暴き出されるだろう。
雪降る聖夜、静かにその瞬間は訪れようとしていた。
「これは……」
澤内ユイの口から零れ出した呟きが、周囲に微かに木霊して消えていく。彼女はマスクの下で目を大きく見開き、その広大な空間に視線を巡らせていた。
漸く辿りついた会館最上階は、これまで見てきたフロアとは決定的にその様相を異にしていた。1階から4階までは無数の個室で構成されており、それを複雑に入り組む廊下が迷宮に仕立てていたのだが、この階にはそれらが一切無い。
「――A.M.S.Control,SNEAKERS,Angels5」
「SNEAKERS,A.M.S.Control,Over」
祐一はカメラを構えつつ、無線を取って香里と連絡を取った。直ぐに応答は返って来る。
「こいつは凄いぜ、見てるよな?」
「ええ、見えてるわ。いよいよ大詰めのようね。無線を対話モードに切り替えて」
香里の言う『対話モード』とは、要するに電話機能だ。これに切り返ることにより、無線機は回線を代えてあたかも携帯電話のように機能する。
「ここからは、Eagle340(美汐)も交えて、万全の体制でいきましょう」
「Roger」
無線を腰のホルダーに戻すと直ぐに、ユイが腰に手を当ててカメラのレンズに接近してくる。
「カメラさん、カメラさん。無線でお喋りなんかしてないで、ちゃんと撮って下さいよ?」
「ああ。撮ってるさ、ちゃんとな」祐一は、肩に担いだTVカメラをゆっくりと旋回させた。
そこは、だだっ広い空間だった。5階フロアには、個室が一切存在しない。全ての壁をぶち抜いた、1個の巨大なホールなのだ。天井も下のフロアと比較して幾分高く、視界を遮るものは何一つ無い。学校の体育館を思い描けばすれば、近しいイメージを得ることができるだろう。
ただ、まったく物体が存在しないかというと必ずしもそうではなく、空間全体に用途の知れない機械が所狭しと並べられていた。流れ作業を行っているのか、ベルトコンベヤがモナコのサーキットのように蛇行を繰り返して、隅々まで走っているのも特徴的だ。雰囲気的には、まるでどこかの工場のようである。
「何なんだ、ここは」
「カメラ、あっちに変なのがある」
そう言って祐一の肩を叩いたカスミが指差したのは、ホール右の壁際だった。そこには税関の倉庫のように、英語がプリントされている木箱が天井高くまで積み上げられていた。逆に、左側の壁際には、やはり良く分からないドラム缶がズラリと並べられているのが見える。
「――何かの化学工場のようですね」
「ああ。ただし、今は操業を停止しているみたいだが」
呟くように漏らした唯の感想は、祐一のそれとまったく同じものだった。チャレンジ・レッドのマスクを被っていると、視界が遮られて周囲を窺いにくいらしく、彼女はキョロキョロと盛んに周りを見回している。
祐一の言うように、たとえここが工場として機能していた事実があったとしても、それはどうやら過去のことのようだ。所狭しと並べられた大型の機械にはどれも電源が入っていない。ベルトコンベヤも動いていないし、無論のこと人の気配も一切無かった。周囲は不気味なほどに静まり返っていて、そう、真夜中に学校の理科実験室に迷い込んだ時とそっくりの不気味さがあった。
「SNEAKERS、こちらEagle340。聞こえますよね」
「おお。聞こえてるぜ、ミッシー」
腰の無線から、美汐の声が聞こえてきた。いつも冷静沈着で事務的な彼女の口調は、耳にする者の精神状態を安定させる効果がある。ちょっとした鎮静剤だ。
「モニタでそちらからの映像は届いています。それを見る限り、どうやら何かの工場のように見えますが」
「ええ。私も同感ね」
香里が横から口を出してきた。モードを切り替えると、このように多人数が同時にリアルタイムで会話をすることが可能となるのだ。
「オレたちも同意見さ。ベルトコンベヤがある時点で、何かを大量生産していたことは確実だ」
「私は、中東かロシアあたりから武器を密輸して、それを保管しているんだと思ってたけど。どうやらこの仮説はハズレだったみたいね」
姿は見えないが、祐一の予測では恐らく香里は肩を竦めている筈だった。
「カオリンはそんなことを考えていたのか。でも、まだ分からないぜ。右側に見えるあの木箱の山、あれにミサイルやらマシンガンやらが詰められててもオレは驚かない。ベルトコンベヤの流れ作業で、そいつを組み立ててたのかもしれないしな」
言葉と同時にカメラをその方向に向けて、祐一は問題の木箱を写して見せた。
「私はもう一方のドラム缶の方も気になりますね。ちょっと寄ってみてくれませんか?」
「OK、ミッシー」
「ウム。では、正義のためにドラム缶を観察しに行こう!」
ユイは嬉しそうに頷くと、祐一に先立ってトコトコとドラム缶に歩み寄っていく。カスミも黙ってその後に続いた。
「むー。なにやら、怪しげなマークがついてますね。あと英語で、『でんじゃー』となってますよ。それから、ええと、『ETHER』って書いてあります。なんて読むんでしょう、えざー?」
「……ちょっと、それエーテルじゃない!」
祐一がアップで映し出したドラム缶の文字を見て、香里は小さく叫んだ。
「確かに。flammable substance――超可燃性エーテルですね」
美汐も冷静にそれを認めた。そして少しの間をおいて、納得したように続ける。
「なるほど。そういうことですか。読めてきましたよ」
「そういうことって、どういうことなんです?」
「ユイの言う通りだぜ。学の無いオレたちにも分かるように説明してくれよ、ミッシー」
ひとりで話を進める美汐に、唯と祐一が不平の声を上げた。
「このエーテルってのは、なんかヤバイ代物なのか?」
「エーテルは、アルコールに硫酸を加えたものを蒸発させて作る有機化合物よ」
答えたのは香里だった。医学的に用いられる薬品に関しては妹に1歩譲るが、一般的な化学薬品に関する知識においては、AMS内で彼女の右に出る者はいない。
「麻酔薬なんかに使われるんだけど、それだけ大量にあると非常に取り扱いが難しいわ。下手な衝撃を加えてみなさい。燃えあがって、全てのドラム缶と誘爆を引き起こし会館ごと吹っ飛ぶわよ。くれぐれも、煉獄のロマンサーなんか叩きこまないようにね」
「そうなんですよね。とても怖い薬品なのです。流石、わざわざ『でんじゃー』と書かれているだけのことはありますね」
ユイは、チャレンジ・レッドのコスチュームのまま、ブルブルと小刻みにその身を震わせた。
「しかし、そんな物騒なものをどうしてこんなに大量に溜めこんでいるんだ?」
「良い質問です」美汐が、めずらしく祐一を素直に誉めた。「恐らくそれを使って、今、裏世界で急速に蔓延している『SHANG』を精製していたんでしょう」
「シャング? ……それは?」
「あの木箱を開けてみれば分かると思いますよ、A.M.S.Control」
「OK」祐一は、左手でユイに合図を送る。「木箱の方を見てみよう」
「うむ。見てみよう。正義のために」
コクリと頷いて、唯はホールの反対側に向かう。マントを翻して走る彼女の背を、祐一はカメラを構えながら追った。
ドラム缶と同じように、木箱は壁全体を覆うように広く高く積み上げられていた。唯はその内の1つに取り付いた。木箱と言っても、これが結構大きい。膝を抱えて丸くなれば、恐らく小柄なあゆや栞などなら丸ごと入ってしまうだろう。
「う〜むむ。どうやって開けましょう。あ、カメラさん。自慢の拳でまたやっちゃって下さいよ」
何とか素手で蓋を抉じ開けようと試みる唯であったが、釘で完全に固められているために歯が立たない。
「ようし、オレに任せときな」
祐一は唯をどかせると、右の拳に力を込める。
「モード圧殺。BITE ON THE……!」
「待ちなさい」香里の鋭い制止の声が入った。
「なんでも力押しで壊せば良いってものじゃないわよ。中身が何か分からないのよ。もしそれにもエーテルが梱包されていたらどうするつもり?」
「う、それは……」その正論に、祐一と唯は言葉を詰まらせる。
「バールがあった。これで開ければ良い」
どこからか金属製の金梃子を探し出してきた岩間カスミが、祐一の代わりに木箱を開けにかかった。その名の通り、テコの原理を利用するものなので、これだと簡単に箱を開けることができる。
「……あいた」
その声に、唯と祐一は揃って木箱を除き込んだ。同時に、TVカメラがアップでそれに迫る。そしてカスミの手によって、木箱の蓋がユックリと取り除かれていった。
この中に、会館に隠された最高機密とやらが眠っている。そう思えば、その光景を見守る全ての人々の緊張は、弥が上にも極限まで高まっていった。
美汐とあゆが管理する、ステーション・スクエアの巨大ヴィジョンの周囲に集まった数百人の観衆も、事の成り行きを固唾を飲んで事の成り行きを見守っていた。
やがて、衝撃の一瞬がやってくる。まるで凍てついたように、全ての音が遠ざかっていった。
だが、誰もが抱いていた期待は、思わぬ形で裏切られることとなった。
「なんだ、こりゃ」
「コーヒー、ですね」
祐一と唯はアングリと口を開き、思わず顔を見合わせる。箱の中に詰まっていたのは、その独特の芳香を漂わせるコーヒーそのものであった。豆を細かく砕いてあるせいで、その香りが一層強く感じられる。
「ほう、珈琲ですか。洒落てますね」
唯一驚かなかったのは美汐くらいだろう。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! これが、会館の最高機密だって言うんですか?」
「そうみたいね」混乱した様子で叫ぶ唯の声に、香里は小さく呟いた。
「どういうことですか!」すっかり落ち着きを失った彼女は、凄い剣幕でTVカメラに迫る。「生徒会は、こんな大袈裟な会館を建てて珈琲を造っていたっていうんですか!?」
「――いえ」香里は、唯とは対照的な落ち着いた口調で否定する。
「でも、そのコーヒーを見て私も漸く分かったわ。理事会が何を隠していたのか」
「じゃ、なにか。このコーヒーに何か意味があるって言うのか?」
「……明日の朝、フィルターに入れて、お湯かけて飲む」
祐一の問いに、横からカスミが真顔でそう答える。それを聞いて、香里はクスクスと笑った。
「そう。フィルターに入れて、お湯かけて飲むの」
「オイオイ。冗談やってる場合じゃないぜ? ここまで来て、実は会館の謎は魅惑のブレンド・コーヒーでしたなんてオチは笑えないって」
「オチを勝手に決めちゃダメよ。さっきのエーテルがヒントになってるのが分からない?」
癇癪を起こした子供を宥めるような口調で、香里は言った。
「え、さっきのエーテル?」
そうは言われても、そもそもエーテルというものがどんな性質を持っているのかすら、祐一は知らない。
「SNEAKER。良い子のヒーローに、表面を覆っているコーヒーを払ってみるよう指示して下さい」
「えっ、コーヒーを払う?」
祐一は首を捻りながらも、美汐からのその指示を唯に伝えた。
「このコーヒーを掘ってみろってことでしょうかねえ?」
チャレンジ・レッドの白いグローブを着けたまま、唯は言われた通り、パッパと箱の中のコーヒーを適当に払い除けてみる。すると、直ぐに手応えが変わった。数センチ掘ったところで、下から白いプラステックの底が見えてきたのである。
「あっ! このコーヒー、箱一杯に入ってるわけじゃないみたいですよ」
唯はマイク片手に、カメラ目線で訴えた。そして、今度はもっと大胆にコーヒーの粉を手で払っていく。
「あ、分かりましたよ〜! 上から数センチのところに、もう1枚プラスチックの蓋があるんですね?
コーヒーは、その蓋を隠すためのカムフラージュに過ぎなかったようです」
唯はその言葉を自ら証明するように、プラスティック製の蓋の取っ手の部分を見つけ出し、それを引っ張って外しに掛かった。フタは、彼女の細腕でも簡単に外すことができた。放り出された蓋から、表面を覆っていたコーヒーが滝のように零れ落ちていく。
「さて、何が詰まっているんでしょうか」
「今度は紅茶でした、なんてオチはなしだぜ?」
唯は興味津々で箱の中を覗き込み、祐一はカメラを構えたままズームでそれに迫る。
「む……、なんでしょう。これ」
中身を検めたはずの唯は、顔を上げて小首を傾げる。全ての思惑が交差し合う中、その姿を現したのは、コーヒーの茶色い粉末とコントラストを成すような、白い粉末だった。透明な小さいビニール袋に収められ、それが何十個も規則正しく積み上げられている。
「紅茶じゃなくて、小麦粉でしょうか。それとも砂糖? 塩?」
彼女はマスクをつけているので、味見は不可能だ。祐一は彼女に代わって、袋に指を突き刺すと少し破り、付着した粉末を少し舐めてみた。
「どうですか、カメラさん?」
「分からない。少なくとも砂糖じゃねえな」
「これが、機密なんですか?」唯が更に首を捻りながら呟く。「この白いのが」
「そうです。それが、学園の理事会幹部たちが、直隠しにしてきた会館の最高機密です」
「私の考えが正しければ、恐らくそれは、高度に精製されたジアセチルモルヒネ」
美汐と香里の声が、重なった。
「すなわち、ヘロイン」
−22−
12月25日 深夜0時38分
セントラル・アベニュー ステーション・スクエア(駅前広場)
「ヘ、ヘロイン!?」
モニタのから、祐一の叫び声が聞こえてきた。
「聞いたことあるぜ。確か、それって麻薬だろう?」
「はい。非合法の麻薬ですね」モニタを見詰める美汐は、あっさりとそれを肯定する。
「ぐはっ! いま、ちょっと舐めちまったぞ」
「うぐ、美汐ちゃん。へろいんってなに?」
中継車の隣の座席に大人しく腰掛けているあゆが、ミトンの手袋で美汐の服の袖を引っ張った。
「悪いお薬ですよ。飲んだときは気分が良くなりますが、止められなくなって、最後は身体がボロボロになって、最悪の場合は死んでしまいます」
「うぐぅ! 死んじゃうの?」
あゆはビックリ仰天し、やがて目尻いっぱいに涙を溜めてオロオロとうろたえだした。
「……うそ、どうしよう。祐一君、さっきペロっとしちゃったよ」
「あれくらいなら大丈夫ですよ」美汐は微笑を以って、彼女を落ち着かせた。
ヘロインは、ケシの花から作られるダウン系ドラッグ(麻薬)の代表格だ。作用はモルヒネと似ているが、呼吸鎮静・鎮咳作用はモルヒネより強く、鎮痛作用は弱い。強力な酩酊感や浮遊感が得られるが、その反面で禁断症状は非合法ドラッグの中では、最も辛いものであると言われている。日本では、1グラム=約6万円の相場で取引されていたらしい。
「そのヘロインだけど、エーテルやアセトン等の化学薬品でで精製することによって、その価格が数倍にも高まることが知られているわ」
ワゴンに備え付けられた無線機から、香里の解説が聞こえてくる。その言葉を聞いて、祐一がハッと息を呑むのが伝わってきた。
「そうか! あのドラム缶のエーテル!」
「――そうです。恐らくそこは、ヘロインの精製工場なんですよ」美汐は言った。「ヘロインの精製には高度な技術と、大規模な施設が必要となります。勿論、合法的にそんなものを建てることは不可能。だから、学校に会館の名目で工場を作り上げ、ここで日夜ドラッグの精製に勤しんでいたのですね」
「表層のコーヒーは?」
沈黙を守って事の成り行きを見守っていたカスミが、ポツリ呟くように問うた。
「恐らく、麻薬の匂い除け対応策でしょう」
答えたのは、意外にもチャレンジ・レッドこと澤内ユイだった。
「以前、どこかで聞いたことがあります。麻薬犬に匂いを嗅ぎ付けられないようにするための手段としてコーヒーが使われていたとか」
「なるほどな」納得したように、祐一は頷いた。「人間には探知できなくても、税関で働いてる麻薬犬なら、木箱越しに漂う麻薬の微かな匂いを察知できるっていうし。コーヒーの芳香で、その麻薬の匂いを誤魔化しちまおうって寸法か」
「それにしても、ここがヘロインの精製工場だったとは……」
呆然と呟き、レポーター役の唯は改めて自分の立っている広大な空間を見回した。
「実は近年、裏業界でウワサになっているドラッグがあるんです」美汐は言った。「私も知人に聞いただけですから詳しいことは知りませんが、出所はエンクィスト財団。連中が独自の製法でヘロインをベースに作り上げた、非常に純度と中毒性が高い麻薬だそうです」
「へえ。こんなところで、また財団の名を聞くことになるとはね。よくよく縁があるみたいだわ」
流石の香里も、その話は初耳だったらしい。いや、彼女は幾ら聡いとは言え普通の高校生であり、一般人だ。むしろ、裏社会の事情に何故か精通している美汐が異常なのだろう。
「エンクィスト財団は従来の手法に更なる改良を加え、独自の製法でヘロインを超高純度のプレミアム・ドラッグに仕立て上げることに成功したといいます。
そのドラッグの名は、楽園の名を冠した『シャングリラ』。通称『シャング』。そして10中8・9、その木箱に詰め込まれているのが、恐らく――」
「シャングリラというわけですか」
唯は、箱の中から粉末入りの小袋を摘み上げ、しげしげとそれを眺めた。
「たとえば、これ1袋で、末端価格はどれくらいになるんでしょう?」
麻薬とは高額で取引されるというのが、ドラマや映画での常識だ。
「私の知っているデータは少々古く、数年前のものなんですが――その時点で、グラム=6000ドル。当時のレートを単純に1ドル=100円としても、60万円になりますね。普通のヘロインの10倍です。それだけ強力で、希少価値が高しいということでしょう。まさしくプレミアム・ドラッグです」
「ぐはっ! 1円玉と同じ重さの粉が60万!?」
「ま、まんしょんが買えちゃいますよ!」
「……買えないわよ」唯の言葉に、香里は冷静に突っ込んだ。
「とにかくその袋1つで、豪邸が建ったそうです。そこにある木箱単位だと、恐らく我々のスポンサー(佐祐理)の年収に匹敵する額になるでしょう」
「ってことは、数十億!」
「一生遊んで暮らせますね〜」唯が夢見るように呟いた。
「そう、それを売り捌いて世界にバラまけば、間違いなく巨万の富を築けるわ。何億人もの人間を麻薬中毒で廃人にすることと引き換えに、ね」
「……ッ!」
香里のその冷静な指摘に、祐一たちは漸く事の重大さを再認識したようだった。
「医学を齧ったことがあるなら、誰でも想いは同じのはずよ。麻薬は絶対に許せない」
本来、現在『麻薬』と認識されているものは、医療に役立てられる目的で研究されてきたものだ。重病の末期症状の過酷な痛みを少しでも和らげるように。外科手術の時に、局部麻酔として使えるように。そんな目的で再発見されたものだったはず。
「中学生の時、インターポールが提供している麻薬に関するヴィデオを見たわ。――酷いものだった。特に冷戦のとき、KGBが拷問と洗脳のために麻薬を使っていたケースは酷かった。麻薬を投与されたエージェントたちは、言葉や人格を失い、まさに廃人となっていたわ」
それを見たとき、香里は涙を流した。恐怖や悲しみによる涙ではない。医学や宗教的儀式のために生み出されたものを、ただ金のためだけにこんな風に利用している人間達への、怒りの涙だった。
それに、忘れるわけにはいかない。これを生み出すために、今まで多くの人間がその命を奪われてきたのだ。一生を狂わされ結果として死んでいった者。絶望の末に自殺を図った者。経過は様々ではあるが、全員が非業の死を遂げたことだけは変わらない。
「こんなもんか?」祐一は、箱に満載された白い粉末を1つ摘み上げながら呟いた。
「こんなもののために、澤田紀子や武田玲子は殺されたのか?」
誰もその声に答える者は無かった。
「こんなものために、澤田武士は姉貴を失って復讐鬼になっちまったってのか? こんなもんの秘密を守るために、あのオバさんは一人娘を殺されたってのか?」
ロマンサーが、それを握り潰す。軽い破裂音と共に袋が弾け、シャングリラと呼ばれる超高純度の麻薬が煙のように宙に渦巻いた。
「ふざけるなよ……」
――と、美汐のポケットの中で、携帯電話が震えだした。バイブレーションが、着信を報せているのである。今、このタイミングで掛けてくる可能性があるのは、香港にいる佐祐理か、彼女から借りている護衛のスタッフだけだ。どちらも、有事の際以外はかけてこないことになっている。つまり、今こうして着信があるということは何か重大なトラブルが生じたことを意味していた。
美汐は躊躇わずに携帯電話の通話ボタンを押した。
「はい、天野です」
「悪いお知らせがあります」
相手は名乗らなかった。そうせずとも、互いに通話相手が何者であるかが分かっているからだ。その声が男性のものであった場合、それは佐祐理に借りた彼女のSSである。人手が少し足りないため、彼等にも手を貸してもらっているのだ。具体的には、会館の外に張り込んで、その様子を監視してもらっている。何か会館側に動きがあった場合、美汐にこうして連絡がくる手筈になっていた。
「お疲れ様です。それで、どんな問題が生じましたか?」
「大きく2つ。会館側に気付かれました。生徒会長にも連絡が入ったようです。今、車が何台か校門から出て行きました。会長や理事会の人間がこちらに到着するのは時間の問題と思われます」
「もう1つは?」
「それとは別に、得体の知れない男女2人組みが、会館の方へ向かいました。この雪のせいで詳しくは確認できていませんが……もしかするとホーリィオーダーである可能性があります」
「まさか――」美汐の顔色が一瞬で消える。
「はい。その可能性が高いと思われます。潜入班は引き上げさせた方が良いでしょう。今、シェフは佐祐理嬢に同伴して香港に飛んでいます。もし相手が例の連中だとすると、分が悪すぎます」
「分かりました。報告、感謝します。引き続き、監視を継続してください」
美汐は早口にそう言うと、携帯を切りポケットに戻した。
「うぐぅ。みしおちゃん、どうしたの? 怖い顔してるよ」
少しだけ、あゆが怯えた顔で問いかけてくる。
「ちょっと、厄介な事態になりました」
そう言いつつ、美汐は無線用のマイクに口を近づける。
「SNEAKERS、こちらEagle340です」
「どうした、ミッシー」祐一の応答が即座に返る。
「即座に会館から退避して下さい。そちらに、未確認の情報ですがそちらに財団のエージェントが向かったという報せが入りました」
「なにっ? オイ、それってまさか――」
伝わってくるのは彼の音声だけだが、その相貌が蒼白に変わっているであろう事は容易に想像がついた。
「はい。この地に荒鷹こと鷹山小次郎がいることは財団も承知のはず。それを考慮してエージェントを送りこんで来たとなると、五歌仙である可能性があります」
「その忠告はちょっと遅すぎたみたいだぜ、ミッシー」
諦観したような、低く静かな声。祐一の双眼が爛々と危険な光を湛えはじめたのが、分かるような気がした。
「なあ、砕破よォ――!?」
「よくぞここまで上り詰めた。それだけは……」
硬い足音が、躊躇なくホールに近付いて来た。そのシルエットは徐々に薄れ、彼の姿が露になっていく。
「誉めてやろう。ワイズロマンサー」
LEVEL:5と刻まれた扉が開き、祐一の構えるカメラに写し出されたのは、男女の2人組みだった。片方はB+能力者、三十六手――そしてもう1人は、闇の左脚。
アジア最強の能力者、LODの砕破である。
to be continued...
←B A C K |
N E X T→
I N D E X → KANON小説の目次に戻ります
H O M E → 作者のホームページ。オンライン接続時に