VERMILION


Hiroki Maki
広木真紀




−4−





Tokeizaka high school
Mon,04 September 2000 08:31 A.M.

9月4日 月曜日 午前08時31分
AMSメンバーの高校 昇降口


 ――その日、月宮あゆを除くAMSのメンバは、およそ2ヶ月半ぶりに学園に登校した。
 立入り禁止の『旧校舎』に無断で入り込んだ挙句、前年度の会計長の縊死死体を発見したことで、学校に1週間の自宅謹慎(停学)処分を食らったのが、6月の13日。その後、生徒会の関係者が連続猟奇殺人の被害に遭って死んだおかげで、謹慎処分が解ける寸前の6月20日から遂に、学園自体が無期限の『休校』状態に陥っていた。

 そして学校はその後1度も再開されることのないまま、夏休みに突入。9月最初の日曜日が終わった今日、9月4日から漸く授業が再開される見通しとなった次第だ。
 これは、大学受験を控えている祐一たち3年生にとっては大きな打撃となった筈だった。
 単純計算で、夏休みの分を除いても約1ヶ月半におよび授業が遅れていることになるからだ。熟に通っていない人間にとって、この停滞はある意味致命的な格差ともなり得るだろう。
 まあもっとも、祐一や名雪はこれ幸いと、イギリスに行って遊び回っていたようだが――それはまた、別の話である。

「オイ、名雪! 急げ、もう8時半過ぎちまった!!」
「わ、大変だお」
 その日も、祐一と名雪は相変わらずの時間に昇降口に滑り込んだ。
 遅刻寸前というのは何時ものことだが、今日は既に1分の遅刻。こうなれば、担任の教師が教室にまだ姿を現していないことに全てを賭けるしかない。
「……ったく、新学期開始早々さっそく遅刻かよ。カンベンしてくれ」
「くー」
「オイ、コラ、ちょっと待て! この後に及んで寝るな名雪っ! 起きろ〜っ!!」
 ロッカーに身体を預けて、再び夢の世界に旅立たんとする名雪。祐一はそんな幼馴染みの首をガッチリとホールドし、ガックンガックンと揺さぶって起こそうとする。

 連続殺人犯は未だに逮捕されておらず、事件解決の目処は立っていないが、それでも何時までも学校を閉めておくわけにはいかない。
 そう判断された上での授業再開なのであろうが、祐一や名雪にはその辺の事情など関係がなかった。
 今日も今日とて名雪は朝に弱かったし、祐一はそれで何時もと同じ様な苦労を強いられていた。

 しかも、イギリス旅行から帰国して以来、『相沢君、私と同じ大学に入るわよ』などといきなり香里に宣言された祐一は、連日連夜、彼女に徹夜でスパルタ教育を受けていたりする。
 よって、ここ暫くは寝不足が続いていて、名雪でなくても歩きながら眠りたいところだ。
 そうまでして目指すことになったのは、佐祐理と舞が入学したTUT(国立・東北技術科学大学)。合格のボーダーラインとされている偏差値は64である。

『偏差値48? 大丈夫よ。3ヶ月で15上げて、立派な秀才に仕立ててあげる』
 そう言ってニッコリ微笑んだ香里の右手には、なぜかスタンガンが握られていた。
 祐一は既にこの1週間で、そのスタンガンを8回食らい、夢の世界から強制送還された経験を持つ。
 だが――
『偏差値を8上げるごとに、男の子が喜びそうなご褒美をあげるから。我慢なさい』
 その言葉を聞いた瞬間、祐一は俄然やる気になっていた。
 勉強をはじめた頃の偏差値は48。+8で56になった時のご褒美は、『1日、好きな時に香里とフレンチ・キスできる権』だと言う。もちろん、祐一のハートに火がついたのは言うまでもない。
 更に8上げて偏差値が62になった時――そこに待つ、ご褒美はキス以上のものになるのだろうか。
 あまつさえ、大学に合格しちゃったりすると、その向こう側に待つ大いなるご褒美は……
 男とは、悲しい生き物である。
 因みに、名雪は『猫さんと遊ばせてあげる権』をネタに、祐一と同様の拷問を強いられていた。


「……う〜。祐一、靴履き替えたお」
「よし、ダァ〜〜〜ッシュ!!」
「だお〜〜!!」
 ダバダバと慌ただしく廊下を爆走し、滑り込むように教室に入り込む2人。幸運なことに、担任の教師はまだ教室に到着していなかった。
「ぐはー。ぜはー。ど、どうやらセーフみたい……だな」
「くー」
 息も絶え絶えの祐一は、遅刻を免れたことを確認しつつ懐かしい自分の席に就く。名雪は、さっさと机に突っ伏して惰眠を貪り始めていた。

「おはよう、相沢君。相変わらず、ハードな朝を満喫してるみたいね」
「好きでやってるわけじゃないんだがな。あと、半分は香里のせいだ」
 名雪の後ろの席から、制服姿の香里が呆れ混じりの微笑を浮かべて声を掛けてくる。祐一はそれに呼吸を整えながら応えた。
 それにしても、制服姿の彼女を見るのは何だか久しぶりのような気がする。
 そういえば、この数ヶ月間は私服姿の香里しか見ていない。それもそうだ。停学に続き休校、そして夏休み。全てプライベートな事情で顔を合わせていたのだから当然のことである。

 だが考えてみれば、制服よりも、寧ろ私服の香里と過ごす時間が増えた――
 その事実は、2人の仲がそれだけ深まった証拠にもなるのかもしれない。
 そう思うと、祐一は心が弾んだ。あまり他人に心を開かない本質的には内向的なタイプの彼女と、極めて親密な友情を築けたことがとても喜ばしく思える。
 だから、祐一は心を込めて言うことにした。

「香里」
「なに、相沢君?」
 香里は自然な仕種で、少し首を傾げて見せる。その口元には、朝の透明な日差しに似合いの穏やかで柔らかな微笑が浮かんでいた。
「おはよう」
「えっ」
 極めて短い一言だったが、それは微笑と共に掛けられた、慈しむように優しい声音だった。
 それは、相沢祐一が心から想う人間にしか見せない笑顔と、聞かせない声。そう思うと、香里は自分でも分からない理由で、なんだか頬をサッと紅く染めてしまう。
「な、なによ。突然。そんな――」

「何が、なによなんだよ」
 勿論、祐一には香里が赤面する理由など全く理解できない。その豹変ぶりがおかしくて、笑いながら言った。
「……ばか。相沢君のばか。女たらし。朴念仁。もう、知らない」
 耳まで真っ赤に染めて、香里はプイとそっぽを向いてしまう。
「なんだよ。変な奴だな」
 だが、香里がこうまで狼狽するだなんて極めて異例のことだ。珍しいものが見れたと、ひそかに北叟ほくそ笑む。
「それはそうと、ボクネンジンってどういう意味?」
 香里に訊いても答えてくれそうにないので、祐一は独り首を捻った。

「――しかし、良く考えてみればオレたちの担任はあの『江口素子』だったんだよな」
 祐一はボンヤリと教壇に目をやると、ひとり呟いた。
「なんだ、急がなくても教室に担任の教師がやってくる可能性はなかったわけじゃないか。チェ。焦って走って損したぜ」
 江口素子は、生徒に人気のあった若くてチャーミングな女性教師であった。担当教科は現代国語。そして、3年になってからの祐一や名雪のクラス担任を務めていた人物でもある。
 だがそれは表の顔。同時に彼女は、学校に潜入していた工作員であり――そして、武田玲子を抹殺した張本人でもあった。
 江口素子の名も偽名。学校側に提出されていた身分を証明する書類も倉田佐祐理が雇ったエージェントの調査で、全てがダミー(偽物)であったことが判明している。
 鷹山小次郎によれば、彼女は『エンクィスト財団』という世界最大の裏組織に所属する兵士で、コードネームは『三十六手』。これでサンセイリュウと読むらしい。北川になりすましていた、コードネーム『砕破』の仲間でもあるという話だ。
 だが、それ以外の経歴の一切は不明。恐らく今は国外にいるのであろう。だからもう、師弟として顔を合わせることもあるまい。
 あの、砕破と同じ様に――。

「……あ、そう言えば香里」
「な、なによ」
 なにやら彼女は警戒した様子で応えた。まだ幾分頬が紅潮していて、身を庇うように自分の身体を抱きしめている。
「そう構えるなよ」祐一は苦笑しながら言った。
「――ただ、北川のことを訊きたいだけさ。オレたちが知っていた北川は偽者で、そいつは国外に逃げ出して行方不明。でも、それと入れ替わりに本物が見つかったっていうじゃないか。そいつは今、どこでなにやってるのかなと思ってさ」

「ああ、そのことを話そうと思ってたのよ。それを、相沢君があんな顔して変なこと言うから……」
「だから、オレは普通に挨拶しただけだろう」
「嘘よ。……エッチ」香里はプクっと頬を膨らませて言った。
「はぁ? オレのどこがエッチなんだよ。なんか、理不尽だな」
 今朝の香里は本当にどこかおかしくて、何時ものクールでアダルティな雰囲気がない。まるで妹の栞の生霊が乗り移ってしまったかのように、反応に子供のような愛らしさがあった。
「まあ、いいわ。相沢君が女たらしなのは何時ものことだし。今回は許してあげます」
「オレは最初から無実だ」
 祐一は香里に聞こえないよう、唇だけで小さく呟いた。
「それで、北川君――本物の北川潤のことだけど」
「ああ」祐一は真顔に戻って居住まいを正す。

「今日、編入してくるみたいよ。偽の北川君は除籍処分になったじゃない? だから、それとは別人という扱いで、今日新たに転校という形でこの学園に入学してくるみたい。倉田先輩の情報だけどね。私も生徒会のコネ使って裏を取ったから、間違いないわ」
「……えっ、じゃあこのクラスに入ってくる可能性もあるわけか?」
「あり得るわね。どちらにせよ、あたしは今日の放課後彼にコンタクト取ってみるつもりだけど」
「お、面白そうだな。オレも混ぜてくれよ」
「いいわよ」香里は微笑んだ。「あなたには、その資格があるもの」
「ああ。北川の名が絡んでるとなれば、そいつには訊きたいことが山ほどあるんだ」
「あたしもそうよ」

 彼らが友人と認識していたあの北川潤とは、一体何者だったのか。
 何故、この学校に潜み、なんの目的で動いていたのか。
 全ては謎のまま、祐一たちの前に残されている。
 本物の北川が、そのリドルを解き明かす糸口になれば――祐一も香里も、そんな期待を胸に抱き北川潤との邂逅を心待ちにしていた。



−5−




Mon,04 September 2000 11:39 A.M.
Tokeizaka high school

同日 午前11時39分
教室


北川潤きたがわじゅんです。よろしくお願いします」

 チェシャ猫のそれに(もしくは、丸みを帯びた『W』の字に)似た人好きのする笑顔を浮かべ、教壇の脇に立った少年はペコリと軽く頭を下げた。同時に、旋毛の辺りでピンと立ったアンテナのような癖毛が揺れる。
 天然の茶髪に、線のホッソリとしたどこか中性的な相貌。そして彼の溢れる好奇心と悪戯心を象徴するかのような大きな瞳。転校生・北川潤は、どんな人間とも友人になれる才能を持った少年だった。

「あ〜。彼は、高校1年の時にこの街に来たらしいが、直ぐにフランスへ留学していたそうだ。日本の大学に進学するために、こんな時期だが戻ってきたらしい。これから数ヶ月の短い付き合いになるだろうが、みんな仲良くしてやってくれ」
 出奔した江口素子に代わり、新たにクラス担任になった男性教諭が北川の肩を軽く叩きながら、生徒たちに呼びかける。
「はい、しつもーん!!」
 元気の良い女子の1人が、ピッと挙手した。
 転校生が来る度に、まるでお祭りの様に浮かれるこういう輩は、どこにでも1人はいるものだ。美坂香里ほどの頭脳を持たなくても、これから北川少年が質問攻めに遭うであろうことは、誰にでも容易に予測でき得ることだった。

「よし。えーと、楠田か。なんだ?」
 クラス担任になったばかりの教諭は、教卓に置かれた座席表を確認しながら挙手の生徒を指名した。すると彼女は、待ってました! と言わんばかりの勢いで椅子を蹴って立ちあがる。
「前にこのクラスに同じ名前の北川君がいたけど、何か関係あるんですかー?」
「転校していった生徒のことだな。……どうだ、北川。何か関係があるのか?」
「いえ。オレとは関係ないと思います。その人、オレと同じ北川潤って名前だったんですか?」
「うむ、どうやらそうらしい」
 逆に問い返す北川に、教師は難しい表情で頷いて見せた。
「漢字も?」
「漢字も、だ」
 教師は、黒板に白のチョークで大きく書かれた『北川潤』の名を一瞥して認めた。
「珍しい偶然ですね」
 警察から事情を聞き、既に自分の偽物がいたことを知っている北川だったが、彼は平静を装って言った。

 実際のところ、偽の北川は経歴と身分を詐称していたとして、除籍処分となっている。これは普通の『退学』処分とは異なり、学園に在籍していたという記録そのものを抹消されてしまう、ある意味究極の排除法だ。
 殺人容疑が掛かっている人間など、学園の歴史から抹殺してしまいたい。そう考えた理事会と生徒会が下した、最終的な処置であった。
 だが、そのことは、理事会と生徒会の一部の役員しか知らない極秘事項として処理されている。事を荒立てぬために、一般生徒には『北川潤』は転校したと伝えられているのだ。

「――名雪、香里。どう思う?」
 祐一は転校生に矢継ぎ早に質問の嵐を浴びせていく生徒たちを尻目に、小声で真実を知る仲間たちに問いかけた。
「う〜、なんかアンテナがあるのは同じだけど、前の北川君とは随分雰囲気が違うね」
「そうね。偽物は、もっと背が高かったし髪も黒っぽかったわ。それに名雪が言うように、漂ってくる雰囲気が全然違う。明らかに別人よね」
「問題は、やつが偽物のことをどれだけ知っているかだが……」
 祐一は声量を絞ったまま、顎に手をやって思案する。
「私たちが把握している以上のことを、確実に知っているはずよ」
「え、香里なんでわかるの?」
 名雪が不思議そうに首を傾げる。

「倉田先輩の情報だと、彼は警察で色々な事情聴取を受けた筈よ。それもそうよね。彼の名前を語った人間が9人もの人間を射殺した挙句、行方をくらましたんだから。それに彼の両親は行方不明のまま。そのあたりに関して、警察は彼から情報を得ようとしたと同時に、この街で何が起こったのかを大筋で聞いている筈なのよ」
「なるほどな――」
「でも」神妙な顔つきで頷く祐一に、香里は肩を竦めて見せる。
「結局、有用な情報は引き出せないでしょうね。彼も利用されたに過ぎないんだから。偽物に騙されて、偽造パスポートでフランスくんだりまで留学させられて、挙句に両親まで行方不明にされてしまって……」
 同情するわ、と香里は北川を見やりながら付け加える。

「よし、じゃあ北川。お前は右から3列目の1番後ろの席に座ってくれ。同じ名前の転校生が使っていた席だ。丁度開いているからな」
「分かりました」
 質問攻めも一段落ついたらしい。北川が教師に指示されたのは、香里の隣であり祐一の真後ろに位置する席だった。名雪から見ても、斜め後ろと非常に近しいポジションである。
「よう、転校生。北川、だったな。オレは相沢だ。よろしくな」
 いずれ詳しい話を聞き出すなら、早いうちから打ち解けておいた方が良いだろう。そう考えた祐一は、後ろの座席に緊張を感じさせるぎこちない動作で腰を落とした北川に、できるだけ温和な笑顔を作りながら言った。

「あ、どうも。ええと、相沢だな。……こっちこそ、よろしく」
 少し驚いたようだったが、北川は直ぐに人懐っこい微笑を返してきた。
「オレも、今年の春に転校してきた新入りなんだ。立場は似てる。仲良くやろうぜ」
「へえ、おたくも転校生だったのか」
「このクラスは、出入りが激しいのよ」
 横から口を挟んだのは、香里だった。
「あ、えーっと……」
 少し戸惑ったような表情の北川。頬がほんのり赤いのは、もしかすると一目惚れというやつだろうか。
 確かに、美坂香里という女生徒にはそれだけの魅力と妖艶さがある。明らかに、普通の女とはランクと住む世界が違うという雰囲気を纏っているのだ。

「わたしは、美坂香里。このクラスの学級委員長よ。一応、あなたの面倒を見る義務があるの。まあ、その職務は抜きにしても宜しくお願いしたいところだわ。北川君」
「あ、ああ。こちらこそ。勿論。よろしく」
 少し慌てた様子で、北川は早口に捲くし立てた。
 どうやら、香里を一目で気に入ったというのは気のせいではなさそうだ。
 そう言えば、祐一の記憶が確かなら、偽の北川も香里に気があるように装っていた。あれは、オリジナルの北川の反応をシミュレートした結果なのだろうか? つまり、本物の北川の女性の好みを知っていて、きっと本物は香里のような女性に恋をするだろうと計算し、それに沿った演技を続けていたのかもしれない。
 今考えてみれば、それは多いにあり得そうな話であった。
 誰かが誰かに恋をする。それは、思春期ド真中の高校生たちにとって、非常にリアリティのある設定である。そして同時に、周囲の人間から親しみを得るにも絶好のスパイスとなるだろう。
 彼が香里に恋をした――という見解は、クラスメイトたちに親近感を与える要素となるわけだ。一流の潜入工作員なら、故意にそういう演出を施していたとしてもおかしくない。

「わたしは水瀬名雪だよー。よろしくね、北川君」
「ああ。よろしく、水瀬さん」
「呼び捨てでいいよ。みんなそうだから」
 名雪は誰とでも友達になるのが上手い。今度も例外にはならなかったようだ。
 早速、北川と10年来の親友のような雰囲気の中で、穏やかな笑みを交し合っている。彼女の大きな武器の1つである。
「なあ、北川。つかぬことを訊くが――」
 祐一は、名雪との挨拶が終わるのを見計らって、1つ確かめてみることにした。
「お前さんさ、もしかして短棒術とか使えないか? 短棒術じゃなくても、長物を使って闘うような格闘技というか、武芸というか、そういうの」

「えっ、なんで知ってるんだ!?」
 相当驚いたらしく、北川はピクリと身体を震わせ見開いた目を祐一に向ける。
「やっぱりな。流派は?」
九鬼神流くきじんりゅうだ。正確には、三尺の半棒がメインかな。八寸の短棒は、『扇子捕せんすとり』といって皆伝までいかないと習得できないことになってる」
「剛・理・法・智・神か。確か、最初は六尺から入って、熟練するに従って短くしていくんだよな」
「――よく知ってるなあ。もしかして、相沢もやってたのか?」
 今まで、棒術のことで話が合ったことなどないのだろう。北川は物珍しそうな目で祐一に言う。
「いや、知識だけだ。お前が長物持って何かやっていたことは、手を見れば分かるからな。そこから適当に推理しただけだ。たまたま、運良く当たっただけさ」

 勿論、これはハッタリである。
 祐一は確かに知識を持ってはいるが、手に出来たタコや骨の変形の仕方などから、相手が何に通じているかを判別できるような目など持っていない。
 ただ、偽の北川が『短棒術』が出来ると言っていたのを思いだし、カマをかけただけである。
だが、これで偽物が本物をコピーしようと、その特徴的な部分を真似していたことは確かとなった。
 ――細かいとこまで調査して、北川の特徴を熟知していたわけか。
 祐一は、改めて北川を名乗っていた偽物の実力を思い知った。
 流石に整形してまで外見を似せとは思わなかったようだが、それでも細かいところまで仕事が行き届いている。その心憎いまでの演出の徹底ぶりは、相手がただのシロウトでないことを如実に語っているように思えた。
 ――こりゃ、オレたちはとんでもないのを敵に回しちまったのかもしれないな。




−6−



Mon,04 September 2000 12:19 P.M.
AMS Mansion 4F cafeteria

同日 午後12時19分
AMSマンション 4階 カフェテリア


 ――夏休み開けのその日は『始業式』ということで、全校集会とHRだけの簡単なプログラムのみであっさりと放課と相成った。本格的な授業が開始されるのは、翌日からということである。
 そんなわけで、11時半には完全に開放された祐一、名雪、香里でお馴染みの『美坂チーム』は、2年生の栞・美汐組と合流して、そのまま倉田・川澄邸へと足を運んだ。
 生徒会会館攻略に関しての策を練るための会合が開かれるためである。

「うー。お腹空いたよ」
 佐祐理と舞の高級邸宅、通称『AMSマンション』の4階カフェテリアで、名雪は憐れを誘う声で呟いた。
「先輩たち、まだかな〜」
 先程からクークーと鳴っているのは、彼女の寝息ではなく腹の虫だ。時刻はあと10分ほどで12時30分。どうやら、名雪は相当に空腹であるらしい。
「もう少し待ってろよ。舞も佐祐理さんも大学があるんだからな」
 泣きそうな顔でお腹を押さえている名雪を、祐一は苦笑交じりで諭す。
「それよりお前、部活はいいのか?」
「うん。まだ犯人さんが捕まってないから、放課後生徒を残しておくのは駄目だって。だから、部活は当分お休みだよ」
 犯人とは、無論のこと巷を騒がせている『連続猟奇殺人事件』の犯人だ。
 そもそも、学校が休校となっていたのはこの事件があったからであり、その被害者が全て学校関係者であったからである。しかも、その被害者の死体が幾つも学校の敷地内で見つかったとあっては、確かに堪らないものがある。
 理事会が生徒の安全を第1に考え、遅くまで行なわれる部活動を制限するのも頷ける処置ではあった。

「そいつは災難だったな。お前は今年で卒業なのに――」
 真剣に部活動に打ち込んだことがない祐一には、実感として掴めない話ではあるが、彼ら部活動に精を出してきた人間の無念は想像できる。
「私だけじゃないよ。頑張って練習してきた人も、部活が大好きだった人も、みんな残念だと思ってるよ」
「ああ、そうだな。お前も、それからオレたちの中じゃ香里も何かやってたしな」
「……あれ、そう言えば香里と美汐ちゃんは?」
 名雪は姿の見えない親友と、いつも物静かな後輩の姿を探し、広いカフェテリア内をキョロキョロと見まわす。だが、目的としていた人物たちは見当たらなかった。
 今この場にいるのは、向かい合って座っている祐一と、ソファに寝転がって仲良く1冊の本を覗き込んでいる栞とあゆのお子様コンビだけだ。

「そういえば、さっき『AVエリア』の方に2人して入っていったぞ」
 AVエリアというのは、マンション4階にある、マルチ・メディア専門の巨大な空間のことだ。オーディオ・ヴィジュアルの名の通り、プロ仕様の音響システムや巨大スクリーンといった本格的な機材で固められたホーム・シアターやスタジオ、そして50台を超えるパソコンを集めた大部屋などがある。
 マンション4階は、中央に祐一たちがいる『カフェテリア』があり、それを挟む様に『図書エリア』と『AVエリア』が存在しているといった間取で成り立っているわけだ。
 そしてこれらを纏めて、4階全体を情報メディア・フロアと専ら呼称している。
「で、栞とあゆはさっきから一心不乱に何を貪り読んでるんだ?」
 あまり行儀の良いとは言えない恰好で、並んで何かの本を覗き込んでいる彼女たち。
 栞はともかくとして、あゆが読書に勤しむなど珍しいことだ。気になった祐一は、彼女たちが広げているB5程度の大きさの冊子に視線を落とした。

「なんだ、マンガかよ。真琴みたいなやつらだな」
「あ〜っ! 今、チョッピリ馬鹿にしましたね、祐一さん!?」
 半ば呆れたように呟く祐一に、ガバリと身体を起こした栞は抗議の大声を上げた。
「そんな人嫌いです!」
「そうだよ、祐一君。マンガだからって、内容も知らずにヘッポコだって決めつけるのは、とってもたんらくてきだと思うよ」
「な、なんだよ2人とも、そんな睨むことはないだろ。大体、あゆ。短絡的なんて難しい言葉使いやがって。大体お前、『たんらくてき』って漢字で書けんのか」
「うぐぅ……」
 漢字で書けないのは確かなので、あゆはちょっと鼻白む。

「論点がズレてます、祐一さん」
 栞がピシャリと指摘した。
「いいですか。これは、今巷で超ウルトラ大人気の新鋭少女マンガ家、白鳥沢爛子しらとりざわ・らんこ先生が現在連載中の作品、美食戦隊びしょくせんたい薔薇女郎バラじょろう 〜愛の雪崩式フランケンシュタイナー〜が掲載されている、聖なる漫画雑誌なんですよ!?」

「はあ? ……しらとりざわ?」
「そうです。しらとりざわ・らんこ先生です!!」
「なんだ、そいつは。変な名前だな」
「変な名前とはなんですか! そんなこと言う人、人類の敵です!!」
 興味なさそうについ本音を口走ってしまった祐一だが、烈火の如き栞の反撃を受けてタジタジと口を噤む。
「――で、その白鳥沢とかいう大層な名前の漫画家はそんなに有名なのか?」
「勿論です。今、少女漫画ブームが再燃しているのは、先生の作品が凄く面白いからなんです」
 アイスクリームの良さを講釈する時のように、やたらと熱く語り出す栞。こうなると、彼女の気が済むまで話を聞いてやるしか術は残っていない。
「どんなヤツなんだ、その白鳥沢ってのは?」
「それが、謎に包まれてるんだよ」
 栞に代わって応えたのは、あゆだった。
「なんて言うんだっけ。……ふくめんサッカー?」
「覆面作家? ああ、プロフィールとか素性を明らかにしない作家のことだろう。分かってるのはペンネームだけで、男か女なのかすら判らないって言う」
「うんうん。それなんだよ」
 あゆは嬉しそうに頷いた。
「すごいねー。一体、どんな人なんだろう」

「で、その覆面漫画作家の白鳥沢先生はどんな作品を書いてるんだ?」
「ふっふっふ。どうやら、祐一さんも白鳥沢先生の怪しい魅力にとり憑かれてしまったようですね。早くも」
 不気味な笑い声と共に、栞は目を細める。
「いや、勝手に仲間に引き摺り込まないで欲しいんだが……」
「分かりました。そこまで言うのなら、仕方がありません。今度、白鳥沢先生のコミックスを貸してあげます。さあ、祐一さん。遠慮無く喜んでいいんですよ?」
「えっ、貸すって少女漫画をか? 勘弁してくれよ」
「いーえ。勘弁なりません。白鳥沢先生の存在を知ってしまったからには、その作品を読んで陶酔しなければならないのです。これは日本国民の義務です。怠る者は非国民です」
「トホホ……訊くんじゃなかったぜ」
 既にキャラクターが変わっている栞には、最早何を言ったところで通用すまい。
祐一はガックリと項垂れ、己の迂闊さを悔いるのであった。
 彼らがそんな平和な一時を過ごしていると、10分ほどして川澄舞と倉田佐祐理が大学から帰ってきた。本来は午後からも講義があったらしいが、今日はAMSの会合のために自主休講である。
 元々、成績の良い2人だ。たまにそういうことがあっても、全く問題無いらしい。
 ともかく、舞と佐祐理の帰宅で、漸くAMSのフルメンバーが集結したことになる。彼らは早速、全員仲良く昼食を取るべく5階の大食堂へ向かった。
 専ら『イヴニング・フロア』と呼ばれている最上階(5階)には、佐祐理、舞、祐一の個室と大食堂、応接室などがある。AMSが集う時の食事は、この5階の大食堂か4階のカフェテリアが使われるのが常となっていた。

「ふぇ〜。では、祐一さんたちは北川さんの本物さんと直接会われたんですね」
「ええ、席も近いですしね」
 佐祐理の感心したような声に、祐一は倉田家お抱えのシェフたちが作ったご馳走を頬張りながら頷く。
 食卓には、庶民には滅多にお目に掛かれないようなご馳走が所狭しと並べられ、食欲をそそる香りと共に温かな湯気を上げていた。
「本当は放課後に話を聞こうかと思っていたんですが、隣席にやってきたということもあって、HR中に簡単な話はすることができました。……まあ、初回からあまり突っ込んだことを聞いても警戒されるでしょうし、適当なところで切り上げましたが。今回はあれで上々だったと思います」
 香里は、育ちの良さを感じさせる手捌きで、ナイフとフォークを巧みに操りながら言った。

「的確な判断です。彼はそう重要な人物ではありせんから。深追いする必要はありません」
 美汐は、物腰上品に――祐一流に言えばオバさんくさく――ナプキンで口元を拭いながら言った。
「どっちにしても、北川君は大事なことは何も知らないみたいだったけどね」
 名雪は少し残念そうに、首を傾げてみせる。
「偽物の北川君のことも、殆ど何も聞かされてないみたいだし」
「まあ、期待はしてなかったけどね」
 香里は肩を竦めて見せる。
「――さて、前菜はこのくらいにしておいて本題に入りましょう」
「本題と言うと、生徒会会館のことですか?」
 香里の傍らに座る栞が、姉の顔を覗き込む。

「あははーっ、そうですね。別に急ぐ必要はありませんが、祐一さんたちは受験を控えた大切な時期ですから。出来るなら、早々に決着をつけて置くべきだと思いますー」
 ホストとして上座に座っているお嬢様、倉田佐祐理はにこやかに言った。
「――取り合えず、今回の作戦の目的は『生徒会会館』に侵入して、そこに存在している極秘事項を探り出すことにある。これはハッキリさせておこう」
 祐一は、食後の紅茶を啜りつつ皆に宣言するように言う。
「具体的には、連中がひた隠しにしている組織上の機密。元風紀委員の澤田紀子を恐喝して自殺に追い込み、武田玲子を殺してまで守ろうとした秘密。そいつが一体何なのか。その情報を入手し、ヤツらの暗黒部分を暴く。そいつが、今回のミッションの主となる目的だ」

「えぅ〜! ドラマみたいで恰好良いですね」
 事の危険性を正しく認識しているのか、栞は実に嬉しそうに笑う。
「24時間体制のセキュリティに守られた堅固な要塞会館に忍び込み、機密を盗み出す! まさに、ミッション・インポッシブルを地で行く展開です。なんだか、ワクワクしてきました」
「ですが、これはかなり危ない橋です」
 美汐は普段と変わらぬ、相変わらずの冷めた口調で言った。
「生徒会や理事会は、我々AMSが『武田玲子殺し』の裏に会館の機密が絡んでいるという事実に行きついていることを、既に察知しているはず。今、会館に乗り込めば真っ先に私たちが疑われるのは自明の理です。何かと理由をつけて口を塞ごうとしたり、退学などの処分を受けたり、最悪の場合殺されることもあり得ます。武田さんのように」

「相当上手くやらないと、逆にオレたちがやられちまうってことか……」
「う〜、難しそうだね」
「アルセーヌ=ルパンや、聖者セイントことサイモン=テンプラーの如く、芸術的なレヴェルでことを成功させないと駄目ですね。それこそ、忍び込んだことすら悟られないように」
 祐一、名雪、栞は其々難しい顔をして唸る。
「会館の全フロア分の平面図が欲しいわね。あと電子警備機器の種類とか、その辺のセキュリティ・システムの詳細。それから警備員の数と体制。逃走経路の確認もやっておかないと、事を成功させるのは極めて困難だわ」
 優雅にティ・カップを手に取ると、香里は言った。

「平面図の入手は不可能ですね。時間を掛ければ、製作することは可能かもしれませんが……」
「そうですねー。平面図に関しては、存在そのものが疑問です」
 美汐の言葉に、佐祐理は頷く。彼女はその立場上、生徒会の内部事情に詳しいのである。
 確かに、生徒会長すら立ち入ることが出来ないと言われる最上階・第5フロアは、それ自体が迷宮になっているだろうし、平面図そのものが極秘資料として封印されているに違いない。
「しかし、時間をかければ製作できるっていうのは?」
「言葉通りよ」
 祐一の言葉に、香里は素っ気無く応える。
「例えば、無線でコントロールできるカメラ付きのラジコンを潜入させることができれば、それを通じて内部の情報を入手できるわ」

「その通りです」美汐も同調する。
「出来るだけ小型化し、天井か壁面を無音で走行できる高性能の自動走行カメラを用意できれば、電子ロックが正規の方法で解除されドアが開いた瞬間、役員に気付かれることなく一緒に内部に入り込むことも可能です」
 無論、実行に移すとなるとかなり厳しいですけどね、と彼女は付け加える。
「時間とお金が掛かるし、技術的にも難しいけど、作ってみるのは面白そうね。問題は、音とバッテリーと小型化だけど……特殊部隊にいた鷹山さんにも助言を求めれば、それなりのものが作れるはずよ。 それを私が正規ルートで会館に持ち込めば、後はなんとかできるとは思うわ。ただし、大使館のように電波妨害――ジャミングがしかけられていないことが前提条件だけど。いずれにしても、相当難しい話よ。極めてリスキィだし。実行には移さない方が賢明かもね」

 香里は学級委員長として、会館の1階フロアならば自由に歩ける権限を有している。
だがそんな彼女も、2階以上の情報を手に入れるためには、多少イリーガルな手段に訴えるしかない。
 しかも、会館にジャミング・システムが存在すれば、ラジコンを使った非合法の手段も実現不可能となる。ラジコンの電波が妨害されては、遠隔操作そのものがどうにもならないからだ。
「あっ、そうだ。ハッキングというのはどうですか?」
 パチンと威勢良く手を打ち合わせて、栞はとっておきの名案を口にした。
「お姉ちゃんや美汐さんなら、会館のメインコンピュータに入り込んで、えーと……そのセキュリティ・システムを壊しちゃうなり、乗っ取るなりできるのでは!?」
「おお。確かに、それはナイスだな」
 祐一はパチンと指を鳴らして言った。
「それが出来るんなら、1番楽だ。監視カメラも、電子ロックも無力化できる」
「ですよねー。ふっふっふ、完璧です!」

「――駄目よ」
 無い胸を強調するように身体を逸らし高笑いする栞に、姉の冷たい声が突き刺さる。
「言ったでしょう。そういう派手なことはできないの。何かあれば、私たちが真っ先に疑われるのよ。もう忘れたの?」
「あ。そうでした」
「ですから佐祐理たちは、そのセキュリティの厳重さを逆手にとるしか術はありません」
「……佐祐理、分からない」
 クイクイと佐祐理の服の袖を引っ張り、舞は説明を求める。
「どういうことなの」
「あははーっ。つまりね、舞。監視カメラさんや、警備員さんたちに何の手も加えずに佐祐理たちは入り込み、そして堂々と外に出る必要があるんですよー。そして、カメラさんと警備員さんたちに逆に証明させればいいの。佐祐理たちが普通に中に入り込んで、普通に外に出て行ったって」

「或いは、出入りした形跡すら残さずに全てをやり遂げるか――。まあ、これはセキュリティに手を出せないとなると、物理的にも不可能に近いですし、結果として倉田先輩の仰った手段に頼るしかありませんね」
 ミッシーは、情報と状況をいつもの様に的確に分析し皆に披露する。
「ふ〜〜む……」
「うぐぅ」
「うむむ……」
「う〜ん」
 祐一、あゆ、栞、そして名雪は、揃って腕を組み重々しく唸る。

「こりゃ、思ったより難儀しそうだな――」

 その祐一のコメントは、AMS全員の心情を代表していた。






to be continued...
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脱稿:2001/11/12

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