GMT Tur,25 July 2000 19:24 P.M.
Labo Kastool Zurich Swwitzerland
現地時刻7月25日午後7時54分 チューリッヒ カストゥール研究所

 エンクィスト侯爵家の当主一族と、その他極めて限られた数人にしか知られていない守秘回線がコール音を鳴らしたのは、ワシントンの友人から届いたメールのリプライを書いていた時だった。
 丁度、すっかり冷めてしまったコーヒーのマグカップに伸ばそうとしていた手で、受話器を取る。この回線を利用できる要人の中から、今の時期に電話をかけてきそうな人物を脳内検索しながら、ロバート・シモンズ博士は応対に出た。
「はい、シモンズです」
「おう。俺だ」
 返ってきたのは、ぶっきらぼうな日本語だった。それで、相手の特定は極めて容易となる。と言うより該当者の中で日本語を母国語にしているのは彼くらいしかいない。
「ヨシキさんですか?」
 言語をドイツ語から日本語に切り替えて、シモンズ博士は言った。
「他に誰がいるってんだよ。元気か、ボブ」
「随分とご無沙汰やないですか。最近どないです。今、どこに?」
「相変わらずさ。3日前にちょっとでかいGIGやって、今はオフだ。ロンドンにいる」
 ――ロンドン。そう言えば、彼は去年の春から拠点をUKに移して本格的に活動をはじめたと聞いている。
「KsX 1.09の調子はどないです? ちゃんと定期メンテに来てくれんと駄目やないですか」
「相変わらず可笑しな関西弁だな、ボブ。心配すんな、左手は絶好調よ。だいぶ器用になってきてさ、キーボードくらいならなんとかこなせるようになってきた。簡単なコードなら、ギターもいけるぜ」
「そりゃよかったわ。……そうそう、KsXも順調にヴァージョン・アップして今、2.82です。新しい機能も付きましたし、一度こっちに来てもらえませんやろか。えらいパワーアップしますよ」
「なに! そんなにヴァージョン・アップしたってのか。じゃ、あれか。新機能とか付いたり?」
「そりゃもう、ゴッツイのが加わりました」

「そうか――」
 ヨシキはそこで一旦言葉を切る。どうやら、本題に入るらしい。
「それはそうとさ、俺の使ってる義手って左右で1本ずつ、対で開発されたんだよな」
「そうです。やっぱり、人間には利き腕とかあるやないですか。同じ腕言うても、右と左じゃ微妙に違ってきますしね」
 ROMANCER-KsXシリーズ。シルヴィア・エンクィストの残した遺産とも言える福祉機器――筋電義手だ。ヨシキの言う通り、シルヴィアによって左右を対にして開発されたもので、去年彼女が出産を切っ掛けに亡くなってからも、カストゥール研の研究者たちによって日夜改良が繰り返されてきた。
「それでよ、俺が左の分を貰ったわけだけど、右の奴はもう誰かにくれてやったか?」
「はは、無茶言わんといて下さい」
 シモンズ博士は思わず吹き出した。
「KsXは、あのシルヴィ博士が開発した代物ですよ。今の技術の何十年も先を行ってます。そんなオーヴァ・テクノロジの塊をホイホイ譲ってしまったら、世の中がひっくり返りますわ。左のKsXは、シルヴィ博士と『Ilis』が認めたヨシキさんやからこそ譲ったんです。他の人間には渡せません」
 第一、右まで外に出すと、研究用のサンプルが無くなってしまう。シルヴィアが亡くなり、『Ilis』の精製方法を記したシルヴィア・レポートが封印された今、KsXシリーズを新たに開発することはできないのだ。
「まだあるんだな?」
「ありますよ。それ使って研究続けてます」
「よし。じゃ、取り敢えずそれもくれ」
「あ、はい。ええで――」
 今度、一緒に飲みにでもいかないか、とでも言うような軽い口調であったため、シモンズ博士は危うく騙されかけた。
「……って、なんやて? 今、思わず『ええです』言いかけてしまいましたやん!」
「なんだよ、駄目なのか?」
 ヨシキは不満そうに言う。断られることなど微塵も考えていなかった人間の口調だ。
「取り敢えずくれって、相変わらず恐ろしいことを実にナチュラルに言われますな。無理に決まってます。なんです、ヨシキさん、もしかして今度は右手も切り落としはったんですか?」
 この男なら、或いはやりかねない。シモンズ博士は思った。

「ああ、まあな。ただし、俺じゃねぇ。俺のガキがだ」
「ガキ? あの地獄に住んどるって鬼のことですか」
 その国の住人と同じように流暢に日本語を操るシモンズ博士であるが、唯一、スラングに弱いのが欠点だ。
「ガキってのは子供のことだ。俺の息子の祐一だよ。知ってるだろ?」
「ああ、2代目のYですか。覚えてますよ。前に一度シルヴィ博士と一緒に見せてもらったことありました。もう何年前やろ。赤ん坊の頃やったと思いますけど。シルヴィ博士、可愛いって連呼して顔中にキスしてましたの覚えてます」
「ああ、そんなこともあったような、無かったような」
「シルヴィ博士、ヨシキさんに心底ホレとったみたいですから、なんだか複雑そうではありましたけど」
「本当言うとな、夏夜子と一緒にシルヴィアも貰っちまおうかと思ってたんだよ」
 気のせいかも知れないが、ヨシキの声音が微妙に変わったような気がした。
「俺はひとりを選んだけど、祐一の場合は、全員ものにする方を選ぶかもな――。ま、まだ10年早いけど」
「そう、そのユーイチ君。一体、どうしたんです?」
「経緯は全く俺の時と同じだ。色々あって、自分で切り落とした」
「そら……また、数奇な運命と言いますか」
 なるほど、それで右のKsXと言うわけである。色々あったところで、人間は普通、自分で自分の腕を切り落としたりしない。この辺り、さすがはヨシキ・アイザワの息子といったところか。父から継ぐべきものは継いでいたということだろう。エンクィスト家の怪物的才が母から娘に継承されたごとく、アイザワ家の馬鹿も遺伝するものだったらしい。
 Y'sromancerがこの世にもう一人生まれたら、果たしてどんな事態になるだろう。ヨシキひとりでも手に余るというのに、それが二人に増殖するなど考えたくもない話だ。シモンズ博士は、思わず頭を振ってその悪夢を振り払った。

「あいつはさ。正直、まだロマンサーくれてやる程の器じゃねえよ」
 シモンズの苦悩を全く感知することなく、今のところ世界で唯一の存在でいてくれる『Romancer』の主は、普段通りの口調で言った。
「でも、チャンスはやりたいんだ。ロマンサーは力だ。使いこなせるか、飲まれるか。そういうやり取りの中で、もうひとつ上に行けるチャンスも巡ってくると思うんだ。責任は俺がとるよ」
「はぁ。――分かりました。用意、しときます」
 諦めたような吐息をつくと、一気に表情を引き締めてシモンズ博士は言った。
 相手は、シルヴィア・エンクィストが信じた男だ。シモンズは、彼女の遺したその言葉の一言一句を今でも心に焼き付けている。
『私にもしものことがあって、何か判断に迷うようなことがあった時は、彼を頼りなさい。危急の際、私の持つべき全ての権限を彼に譲渡します』
 大丈夫、後悔はさせません。彼女は数少ない自分の後継者たちに、常々そう語っていた。
 まだ大学を出たばかりの青二才だったシモンズは、世界最大のモンスターにこうまで言わせる男とは一体何者なのか、大いに興味を持ったものである。
「どうよ。ロバート、頼めるか?」
 まさにその人物が、受話器越しに助力を自分に請うている。応えずにいられるわけがなかった。
「あなたの声は、あのシルヴィアの声と同じ。僕らはみんなそう思ってます。そやから、あなたが本気なら、僕らはそれに従います」
「そうか。じゃ、近日中に行くよ。マリアにも宜しく言っといてくれ」
「待ってます、Y'sromancer《ヨシキさん》」



GMT Tur,26 July 2000 12:21 P.M.
Hospital corridor The Royal Lindar emergency medical center
7月26日火曜日午後12時21分 リンダール救急医療センター

 音も無く開いた自動ドアを潜りクーラーの効いた院内から外に出ると、途端に夏の日差しが網膜を焼いた。日本と比較して気温も湿度も低く、陽光もそんなに厳しくないから、イングランドの夏は比較的過ごしやすい。それでも、入院生活で萎えてしまった身体には刺激が強いのか、久しぶりに屋外に出るとなかなか身体に堪えるものがあった。
 日を浴びたときの吸血鬼ってのは、もしかするとこんな気分を味わうのかもしれないれなと、つい馬鹿げたことを考えてしまう自分に苦笑する。
「うぅ〜ん。でも、なんか気分が良いな。いい陽気だ」
 しばらくすると太陽の眩しさと熱にも慣れてくる。俺は大きく伸びをして、少し夏草の匂いのする外の空気を胸一杯に吸いこんだ。身体中の細胞ひとつひとつが活性化して、エネルギーに満ち溢れるような感覚。やっぱり、外は良い。イングランドの病院の周囲には必ず豊かな緑があるから、尚更それを強く感じる。
「ごめんな、母さん。無駄な金使わせちゃってさ」
 UKには、日本の国民健康保険にあたるNHSが存在する。連合王国の国民に関しては、医療費は基本的に無料と考えて良い。虫歯の治療などの一部例外を除いて、ケガや病気、出産などに関する治療には金がかからないのだ。北欧を筆頭として、ヨーロッパの経済大国では結構そういうところが多い。クスリ代は別にいるけどな。

 母さんの知り合いに、夫の仕事の事情でイングランドに引っ越してきた日本人がいたらしいのだが、妊娠して母さんに病院その他の相談を持ちかけた彼女は、なかなか出産が無料で出来ることを信じようとしなかったらしい。確かに、日本では少し信じがたい話だ。子供を産むのには、大金が掛かるってのが日本の常識だからな。
 でも、国が変われば常識は社会のルールは変わる。イングランドは、『ナショナル・ミニマム』っていう考え方で政治をやっていて、政府は国民が必要とする最低限の生活水準を常に保証することを誓っている。病気やケガをした人間のサポートも、その最低限の保証に含まれるってことだ。
 ただ、NHSも最近は財政が逼迫していて、旅行者までにはその手が回らなくなってきているそうだ。だから、外の人間にまで治療費は全額無料――という椀飯振舞《おうばんぶるまい》は難しいというのが現状だ。今回の俺の治療費に関しても、保険が適応されたから大部分は保証されたようだが、一部母さんに負担させてしまった部分があると思う。
「大丈夫よ。あなたはそんなこと心配しないで。最近、私たち結構お金持ちだし」
 俺の憂いを振り払うような笑顔で、母さんは言ってくれた。この人は、特別なことをしなくても人の心配や不安を払ってやるのがとても上手い。一種の才能だろう。
 ――ま、確かに、ハイゲート有名ライヴ・ハウスである『The Forum』を一杯に出来るようになったんだ。稼ぎもそれなりに増加したというのは事実かもな。それでいきなり富豪を名乗れるようになるほどこの世界は甘くないはずだが、ある程度の余裕は出てきたのかもしれない。

「それにしても」
 後方を歩く香里が、溜息混じりに言った。彼女たちは、今日俺が退院すると聞いて総出で迎えに来てくれたのだ。怪我の具合が良いらしく、ミッシーも一緒だ。
「生死の境をさ迷った挙句、医者に『危険だ』とまで言われて、更に全治3ヵ月以上と診断された重傷患者のくせに、たった2日の入院で退院しちゃうなんて……相変わらず呆れた人ね」
「我ながら滅茶苦茶だと思うよ」
 俺は思わず苦笑した。
 傷痕が残るはずの傷まで完全に消えていたりして、医者も本気で仰天していたもんな。たとえ宇宙人の死体が発見されたって、ここまで熱心に検査されることはないだろうと思わせるほど、俺は何度も何度も身体を調べ尽くされた。
 下手すりゃ死んでもおかしくなかった怪我をたった2日で癒してしまった例は、世界を見てもないらしいからな。まあ、無理もない話なんだろうけどモルモットにされる方はたまったもんじゃない。
「なんにしても良かったです、祐一さんが無事で」
 そうは言うが、栞の哀れむような目は、俺の右手に注がれていた。
 傷口と痛めた神経なんかは癒えたものの、結局、右手の手首から下は完全に失われて二度と元に戻ることはない。俺を気遣ってか直接口に出すことは無いが、彼女たちは相当そのことを気に病んでいるようだった。本当、今回の件では色々と心配のかけっぱなしだ。大きなカリを作ってしまったような気がしないでもない。

「大丈夫。私が祐一の右手になるから」
 舞が静かに歩み寄ってきて、俺の中途半端な右腕に軽く触れながら言った。
「あっ! じゃあ、私はええと、祐一の指になるよ。薬指」
 舞と張り合うようにピコピコ手を挙げながら、名雪は慌てた口調で言った。
「あははー、ハートに直結してるとされる指を選ぶとは、流石ですね。佐祐理も負けませんよ」
 なにを争っているのやら。いまいち意味の分からない勝負をはじめた彼女たちに、俺は再び苦笑した。でも、それも純粋に俺を思ってくれてのことだろう。本当に彼女たちの存在はありがたい。
「フッ。じゃあ、あたしは親指ってことにしとくわ。一番重要だし、人間の5指の機能性と文化を象徴するものだし。かけられる保険金だって一番高額だから」
 不敵に笑いながら、香里が宣言した。ここで保険金の話が出てくるところが流石というか、香里らしいというか。ちょっと面白いよな。
「あ〜、お姉ちゃんずるっ! ずるいです! じゃあ、私は赤い糸で繋がれてる小指です」
「小指は一番役に立たないのよね。チンピラが自分の失敗のケジメ付ける時にも小指を切るでしょ。あれって無くなっても一番困らない指だからだって知ってた? 当然、かけられる保険金の額も指の中では最安値よ」
「こらーっ! あえて誰とは言いませんが、そこのお姉ちゃん。あなたには実の妹を労わろうという気はないですか。愛です。愛が足りてないです!」
 栞は手をブンブンと振り回して、香里に突進していく。香里はそれを余裕の笑みでヒラヒラと躱していた。なんだかんだと、あの姉妹はとても仲が良い。彼女たちを見てると、俺も少しああいう兄弟姉妹に憧れてしまう。ひとりっ子だし。

 ――結局、協議の結果、舞が手全般を担当し、親指が香里、人差し指がミッシー、中指が佐祐理さん、薬指が名雪、そして小指が栞ということで落ちついたらしい。この割り当てが実際に何の役に立つのか首を傾げるばかりだが、まあ彼女たちが満足そうにしてるからそれで良いのだろう。
 そう思える能力を開発しないと、彼女たちと上手く付き合っていくのは至難なのだ。俺は彼女たちとの付き合いのなかで、しみじみとそのことを学ばされたね。本当に。
「……うぐぅ、ボクは?」
 他のメンバーの勢いに圧されて、ひとり取り残されてしまったらしいあゆあゆが、哀愁に満ちた声で自分を指差す。
「あ、そう言えばまだあゆちゃんの担当を決めてなかったね」
「でも、もうどこのパーツも残ってないわよ?」
 今思い出したというような名雪に、香里の冷たい指摘がトドメをさす。
「えーと、うぐぅ」
 あゆはポヨポヨとした赤ん坊のように柔らかそうな眉をしかめて、一生懸命考えている。その結果出した彼女なりの起死回生の案が――
「じゃあ、うんとね。……しもん、かな」

 指紋?

 あゆのその発言は、俺たちは全員の動作を凍てつかせた。時が止まる。
 しもん。指紋ってなんだ。そりゃ、左手にあるので充分なんじゃないのか。そもそも、指を担当した人間がそれも担ってるんじゃないのか。大体、指紋になるってどうなるんだ?
 思わず真剣に悩んでしまうが、その答えはいつまで経っても見つかりそうになかった。
「ふはははは、指紋? そりゃ、なんの意味があんだ」
 逸早く硬直状態から脱した親父が、いきなり腹を抱えて笑い出した。
「大体、指紋は指にもれなく付いてくるだろ」
 おまえ面白いやつだなーと、親父は笑いながらあゆの頭をポンポンと叩く。当のあゆはかなり複雑な顔をしていた。
「でも、まあ、指紋っていうのも無ければ無いで、本当に困るものだから」
 香里が慌ててフォローに回った。
「単なる模様に思えるかもしれないけど、指紋がないと手の機能が大きく低下したり、感覚が狂ったりすることが分かってるから、ええと、結構重要ってことでいいんじゃないかしら?」

「うむ。じゃ、まあそういうことで。……それで、えーと。これからどうするんだ?」
 いたたまれなくなった俺は、強引に話題を変えることにした。あんまり苛めると、あゆあゆは泣き出すからな。
「思いのほか早く退院できたのは良いけど、プランが無いんじゃな」
 言葉にしてみてはじめて、俺は自分の今後の予定が全く定まっていないという事実に気が付いた。想定外の『入院』というアクシデントで、今回の旅程の日程は崩れまくっている。思えば、4日前にギグやって、その夜にサイババ・ドールとかいう変な魔術とか使いそうな名前の奴等から襲撃を受けて以来、単なる避暑のための旅は滅茶苦茶になってしまった。
「鷹山さんもまだ戻ってきてないみたいだし。ホテルはチェック・アウトしたんだろう? 佐祐理さんの別荘はもうつかえないし。今夜からどうするんだ? 言っておくけど、俺は貧乏だぞ」
 ある日は名雪にイチゴサンデーをたかられ、ある日は栞にアイスを奢らされ、ある日はうぐぅにタイヤキをご馳走させられと、俺の経済状態はバブル以後急速に負債額を膨らませていった祖国の財政ように逼迫しているのだ。

「そのことなんだが――」
 口を開いたのは、ボディガードたちのリーダー的男だった。護衛仲間たちからラルフと呼ばれる、体格の良い壮年のイングランド人だ。ブロンドを短く刈り込んだその厳つい顔は、いかにも「元軍人です」という感じ。挙動に全く隙が無い。
「予定が丸1日ズレ込んだが、予定通りウェールズに向かうことにしたい。そこで、我々Thuringwethilのスタッフが待っているから、彼等と合流する。しばらく君たちが逗留できる山小屋も確保している。キャンプのような暮らしになるが、快適に生活できるよう物資は充分に整えてあるそうだ。とりあえず、シェフが戻るまではそこに留まるということにしたい」
 彼は異論はないか、と問うように俺たちパーティ全員の顔を見回す。だが、彼の低い声で紡がれる断固とした言葉は、容易には反論しがたい雰囲気があった。
「なるほど。ドイツで云う、フェーリエンヴォーヌンゲンってところね」
「お姉ちゃん、なにそれ」
 姉の言葉に、妹の栞は可愛らしく首を傾げる。このあどけない顔の後輩は、計算やポースではなく自然にこういった仕草ができる。得な話だ。
「言葉通り、休暇用の住まいのことよ」香里は言った。「1週間単位の契約で、別荘を借りきっちゃうようなシステムがドイツ語圏にはあるのよ。家族なんかのグループで借りるの。洗濯も食事の用意も自分でやるわけね。ホテルのようなサービスがないから、普通の宿泊施設より安価なのが魅力よ」
 香里の言う通り、ドイツ語圏に限らず欧米にはそういうシステムが見られる。俺も子供の頃、親父と母さんに連れられてそれを利用した長期休暇を過ごした経験があったはずだ。
「そう言えば、そういう予定でしたね。バタバタしていてスッカリ忘れてましたけど」
 佐祐理さんが、少し照れたような笑みを浮かべて言った。
「確か、特殊技能を持ったスタッフの方々が、佐祐理たちを待ってくれているんですよね」
「――その通りだ。君たちが財団にマークされている以上、PSYMASTERSで周辺を固めないと身の安全を保障できない」

「じゃあ、俺たちはここでお別れだ」
 キーホルダーのリングに右の人差し指を通してクルクルと回しながら、親父が言った。振り回されているのは、恐らく車のキィだろう。
「明日には、ロンドンでまたGIGをやる予定だからな。ウェールズまで行ってる余裕は無い」
「ウェールズって所は、そんなに遠いの?」
 名雪が隣の秋子さんに訊く。こいつは受験生だってのに、それくらいの地理も知らんのか。
「1日で行き来するには、多少遠いかもしれないわね。近い街まででも、車だと3〜4時間はかかるかしら」
「それに、ちょっとCHまで行く用事も出来たしな。何にしても、俺には俺の生活がある」
「シーエイチ?」そんな話は初耳だ。「スイスなんぞに、何しに行くんだよ」
 スイスの正式名称は、ラテン語でConfroederatio Helventica。略してCHだ。普通にスイスと言えば良いのに、親父はこういう捻くれた呼び方をするのが好きなのだ。本人の性格を良く表してる。
「馬鹿、お前も来るんだよ」
 親父は呆れたように言った。
「右手、そのままじゃ不便だろ。俺が使ってる義手を開発した奴に話しつけて、お前に合う義手を都合してもらうように頼んでおいたから、それを受け取りに行くんだよ」
「義手――」
「超筋電義手Romancer KsXよ。チューリッヒにある、カストゥール大学に保管されてるの」
 母さんが補足するように告げる。
「凄く重要な技術を導入したものだから、厳重な警戒が敷かれたところで守られているのよ。この人と一緒でなければ入れてもらえないでしょうね」
「そう云うことだ。面倒だが、俺も行かざるを得ん。ま、俺のやつのメンテも兼ねてな。明日のGIGが終わったら、すぐに発つぞ」
 親父の話はいつだって急だ。思いついた瞬間、もう実行段階に入ってたりするから、他人には予測がつかない。

「あの、それ、私も連れて行って貰えませんか?」
 授業中に発言の許可を求めるように、香里は遠慮がちに挙手する。
「私なんかに理解できるか分かりませんけど、筋電義手に興味があるんです。技術的に」
「――ん?」親父が少し意外そうな顔をする。
「それに日本に持ち帰るなら、メンテナンスの仕方を理解できる人間がいた方が良いし。電子工学は趣味で齧ってますから、簡単な話なら何とか把握できると思うんです。無理でも、相沢君ひとりに全部任せるよりかはお役に立てることもあるかと」
「良いけど、他人の分の旅費まで出す余裕はねえぞ。俺には」
 スイスに行くとなると、ヒースロー空港から飛行機に乗ってドーヴァー海峡を渡り、フランスを横切ってチューリッヒ空港に降りるのが一番早いだろう。そうなると、やはり何万という金がいる。
 国内であれば、『ナショナルエクスプレス』って呼ばれてる長距離バスなんかを利用すれば、鉄道の半額ぐらいでどこにでも行き来できるし、フランスまでなら『ユーロスター』を利用して2〜30分で渡れる。そのまま陸路を通せば、パリからTGVでチューリッヒに入ることも可能だ。だけど時間の都合もあるし、やはり飛行機で行くのが現実的だろう。往復するとなれば、それなりの金額になるんじゃないかな。
「お金のことなら、佐祐理がなんとかしますよ。航空券の手配なんかも、佐祐理の知っているルートで頼めば確実に、それから多少は安く手に入ると思います」
「では――」天野が一歩進み出て、注目を引いた。「私も同伴させて下さい」
「え、ミッフィーも来るのか?」
「だから、人をウサギみたいに言わないで下さい」
 俺をひと睨みすると、彼女はクールに続けた。
「チューリッヒのカストゥール研のことは、噂に聞いたことがあります。見学できるのでしたら、是非とも参加したいです。勿論、美坂先輩と同じ動機も兼ねて」

「うぐぅ、祐一君が行くならボクも行きたいよ」
「はい、はいっ! 私も行きます」
 あゆあゆと栞のお子様コンビが騒ぎ出した。元気良く手を挙げ、ぴょんぴょんと飛び跳ねて自己主張している。あゆたちの場合は理由があって行きたいというより、ノリで同伴を申し出ているって感じだ。……小学生か、こいつらは。
「栞は駄目よ。遊びに行くんじゃないんだから、留守番してなさい。それに慌しい旅になるから、疲れて熱出したりするかもしれないわよ。あんたは身体がまだ弱いんだから」
 香里はピシャリと言った。
「それに、大人数で行くと迷惑になるでしょうし。安全保障の面でも大所帯にはしない方がいいわ。本当は隊をふたつに分けることすらしない方がいいんだから。そうですよね?」
 最後の言葉は、ボディガードたちに投げかけたものだ。
「そうね。守る側から注文させて貰えるなら、なるべく皆さんには1箇所に集っていてもらえると助かるわ。その方が守りやすいし」
 相変わらずの流暢な日本語で、ドイツ人の女性ボディガードが言う。顔の見えない電話で話したら、きっと外国人であることなんて誰も気付かないだろう。
「ぶ〜。やってらんねー。ふこーへーだー!……です!」
 どんぐりを頬張ったリスのように、ぷっくりと頬を膨らませて栞は不平をたれる。
「ま、今回は仕方ないだろ。栞」
 俺の胸までしかない頭にポンと手を置いて、やるべく優しい声を出す。
「2〜3日のことだし、お土産買ってきてやるから。スイスはチョコレートが美味いんだ」
「アイスも買ってきて下さい」
「うぐぅ、タイヤキも買ってきて!」
 またお子様コンビが無茶なことを言い出す。
「アイスはとけるし、タイヤキはそもそも売ってねーよ」

 それにしても、義手か――。
 正直、複雑な気分だ。今の俺は、まだ右手が失われてしまったことすら、現実的に認識しきれてない。頭では分かっているが、精神がそれを認めてしまうのを拒んでるって言うのか。とにかく、なんだか実感が沸かないんだよな。
 ここ数日の間だって、常に誰かが傍にいてくれて、物凄く世話を焼いてくれた。右手を使えないことに不便さを感じる暇さえ与えないほど、彼女たちは献身的に俺に尽くしてくれた。ありがたいことだ。
 でも、義手って存在を受け入れてしまえば、否応無く自分の右腕が永遠に無くなってしまったことを認めざるを得ない。こんな言葉があるのかどうかは知らないが、一種の『消失宣言』とでもいうのかな、右手はもう戻らないってのを認知して、形にしてしまうことになるんだろう。
 それが、今の俺にはなんとなく不安だった。



GMT Tur,26 July 2000 15:19 P.M.
7月26日 火曜日 午後15時19分 ロンドン郊外 相沢家

 相沢さんがそれに襲われたのは、夏夜子さんの淹れてくれた午後の紅茶をいただきながら、今夜の夕餉をどうするかボンヤリと考えていた時だった。

 ――水瀬先輩、栞さん、あゆさん、倉田・川澄両先輩、そして秋子さんがウェールズに向かうのを見送った後、私たちは相沢夫妻のアパートに案内された。
 彼らの住処は、ロンドン郊外にあるこぢんまりとした二階建てのアパートメントで、赤煉瓦の外壁が特徴的な歴史のある建物だった。すぐ傍に緑豊かな公園があり、幅の広い自転車専用道路とジョギングコースが続いている非常に静かな一帯で、人気が少ない。ミュージシャンや芸術家が住まうには絶好の環境であると言えた。
 一階にある夫妻の部屋は、夫婦ふたりきりで住まうにはやや広い間取りであったが、私と相沢さん、それに美坂先輩を加えると流石に窮屈に感じられた。ベッドも、夫妻が使っている寝室を除いてはゲスト用の部屋にしかなく、結局、私と美坂先輩がゲストルームに陣取り、セミダブルのベッドで一緒に寝ることになった。
 勿論、「同じベッドで自分も寝る!」と相沢さんが強弁に主張し出したが、美坂先輩の鉄拳で強制的に沈黙させられ、彼は渋々ながらも、リヴィングにある4人がけのソファで一夜を明かすこととなった次第である。――ここまでは良い。
 問題は、荷物を置いて全員がリヴィングに集い、ティータイムを楽しんでいた時、まるで発作に襲われたかのように相沢さんが突然苦しみはじめたことだ。
 彼は持っていたティーカップを落とし、右手のちょうど切断した辺りを抑えて苦痛にうめき出した。木製の古いテーブルに落下したカップは無残に割れて、中身が白いレースのテーブルクロスに染みこんで広がっていく。私たちは慌てて席を立ち、椅子から転げ落ちて蹲る彼に走り寄った。

「どうしたの、祐一」
 逸早く息子の元に辿り付いた夏夜子さんは、歯を食いしばって必死に苦痛に耐えている彼の背を撫でながら訊いた。
「分からない。痛いんだ、メチャクチャ――」
 相沢さんは、額に脂汗を滲ませながら小刻みに身体を震わせている。その声も、苦痛の中から無理に搾り出したようなものだった。
「痛いって、なにが?」
「右手……右手の先が、酷く、痛むんだよ」
「相沢君、右手って――あなたにはもう、右手はないのよ?」
 動揺を隠せない声音で、美坂先輩が指摘した。その通り、相沢さんが主張する痛みの元、右手首から先は既に失われている。痛むはずがない。
「分かってる。けど、いてェんだ。無いって分かってるのに」
 相沢さんは荒い息の合間を縫って途切れ途切れにそう告げると、手負いの獣を思わせる低い唸り声を上げた。彼をここまで苦しめるとなると、相当の激痛なのだろう。なにせ、彼は麻酔なしで自分の腕を切断して見せた人間だ。

「葛葉、一体これは……」
 私は狼狽しながら、小声で葛葉に助けを求めた。こういう時、常に冷静沈着で論理的な見解を述べてくれる彼女の存在はありがたい。私がどんなに取り乱しても、心の深淵に住まう彼女だけは不動なのだ。
 ――状況から見て、恐らく幻肢痛と呼ばれるものではあるまいか。
「幻肢痛?」
 はじめて聞く言葉に戸惑い、私は思わず声に出してしまった。
「そうか、Phantom Limb Painだわ」
 私の言葉を耳聡く聞きつけた美坂先輩が、何かを悟ったように言う。
 ――葛葉、美坂先輩の云うのは?
 ――ファントム・ペイン。私も西洋医学にはあまり通じていませんが、日本語で幻肢痛と呼ばれるようなものが存在するという話は聞いたことがある。具体的に言うと、『失ったはずの身体の一部分が痛む』というような現象になるか。事故などの何らかの理由で四肢を切断した人間が、切り取ってしまったはずのその手足を痛がる、というよう形で現れると聞きます。

「切断して無くなったはずのところに痛みを感じると言うわけですか。そんなことが論理的に?」
 私は葛葉に訊いたつもりだったが、答えたのは美坂先輩だった。
「あり得るのよ。あたしも詳しくは知らないけど、物理的にそのパーツは失われても、残った他の部分の神経は元あったパーツのことを覚えているの。それが災いして、神経学的に脳が痛みを感じてるんじゃないかって言われてるらしいわ。昔、『Nature』に載ってた論文にそのことが書いてあったのを覚えてる」
 ネイチャー誌はサイエンス誌と並んで、非常に権威のある世界最大の科学誌だ。ノーベル賞論文をはじめ最先端の情報が掲載されるという。美坂先輩はこれを定期購読しているらしく、彼女が難解な専門用語の羅列された英文を睨んでいるところを私は何度か目撃したことがあった。

 ――少女の言うことは正しい。少なくとも、現代の科学では妥当とされている。
 葛葉が言った。彼女が精通しているのは東洋医学だが、妖狐は死んだ家族の知識を継承する能力と文化があるため、彼女は様々な情報を有している。母が生きた640年を考えると、相当の賢者であると言えるだろう。
 ――人間にはそういった感覚が存在するようです。たとえば狭い道を行く時、障害物がどこにあるかを把握していれば、辺りが暗くても人間はそれを避けて通り抜けることができる。目で捉えなくても、自分の手がどこまで伸びていて、自分の肩幅がどの程度あるか、背はどの程度高いか、無意識のうちに自分の身体のサイズを認識していて、様々な計算が出来る。
「車の運転でいう車体感覚みたいなものですか? 実際に見なくても、車全体の大きさを把握して自在に操れるというような」
 ――詳細を詰めれば多少違ってくるでしょうが、譬《たと》えとしては面白いかもしれません。
「つまりそういった感覚で、たとえ身体の一部を失ってしまったとしても、人間はその部分があったことを生涯忘れないと?」
 ――そうです。ファントム・ペインとは、美汐、貴女のたとえで言えば、車体感覚を誤って壁に車をぶつけてしまうために起こった痛みということになるでしょうか。もう無くなってしまったのに、脳はそれをあると錯覚したままでいてしまう。その認識と現実の食い違いが、幻肢痛という形で現れる。

 なるほど。しかし、神経や脳の問題だというのなら、手の施しようがないような気がする。相沢さんがあんなに苦しんでいるというのに、私たちには何の手助けもできないのだろうか。
 ――葛葉、あなたの力でどうにかなりませんか?
 ――最も確実かつ効率的なのは、彼の欠損した右手を復元することだ。不可能ではない。ですが、美汐。私はそれに力を貸すことはできません。
 それは分かっていた。葛葉なら、失われてしまった相沢さんの右手を元に戻すこともできるだろう。でも、それは天壌無窮の理――つまり、自然の摂理に反する。失われた命が戻らないように、失われた身体は再生しない。人間はプラナリアとは違うのだから。
 怪我の治療をする、病人を看護する、その程度のことならお願いすることもできる。しかし、治療や看護の領域を明らかに越えてしまうようなことは、葛葉には頼めない。死にかけていた相沢さんを助けてもらっただけでも、私は感謝しなければならないのだ。これ以上の無理は通せないし、私にはその権限もなかった。

「心配無いよ。じきに収まる。俺にも経験があったが、ロマンサーをつけたら治ったからな」
 相沢氏が言った。それは相沢さんを心配する私たちを落ち着けるための言葉のようでもあり、また痛みに苛まされる相沢さん本人へ向けられた言葉のようでもあった。或いは、そのどちらでもあったのかもしれない。
「一度医者にも見てもらったことがあるが、確かにファントム・ペインだと言われた。薬があるらしいが、俺は断ったよ。自然に治るかもしれなかったしな」
 その言葉の信憑性を証明するかのように、相沢さんの身体から徐々に震えが引いていった。
「くぅ……」
 彼はそのままヨロヨロとソファまで歩き、グッタリと横たわった。ものの数分の出来事だったように思えるが、全身汗でビッショリだ。仰向けに倒れこんだ彼の肩は荒々しく波打ち、胸も激しく上下している。相当疲弊しているように見えた。
「相沢君、大丈夫? まだ痛い?」
 美坂先輩が慣れた手つきで、彼の額に手をやった。恐らく、栞さんの看病をしていた時の癖だろう。
 この数日間、私はこれから友人として付き合くのであろう彼女たちの行動を、つぶさに観察していた。その結果、幾つか分かったことがある。たとえば、クールで他人を寄せつけない孤高の人のように思える美坂先輩が、意外にも世話女房タイプの女性である――と云うことなどがそうだ。
 特に妹の栞さんと一緒にいるとき、それを強く窺えた。ミートソースをつけた妹の頬を拭ってやったり、まだ体力の無い彼女のことを気遣ったり、夜冷えてくるとノースリーブでいる妹が風邪を引かないか心配しだしたり。美坂香里という女性は、良く気のつく細かい性格の人だ。そして、皆が思っているよりも他人の世話を焼くのが好きなタイプらしい。相沢さんが入院している間、もっとも上手に彼の身の回りの世話をこなしていたのも彼女だ。

「相沢君、何か欲しいものはない? 水、飲む?」
「ああ、悪い。冷たい水を頼む。炭酸水じゃなくて、ピュア・ウォータ」
 目を閉じてソファに倒れこんだまま、相沢さんは掠れる声で言う。左手は目を覆うように顔面に置かれ、右手の方はダラリとソファから投げ出している。
「小母様、お水ありますか?」
「ええ、ちょっと待って」
 夏夜子さんはキッチンに向かい、すぐにトレイに小さなボトルとグラスを載せて戻ってきた。美坂先輩はそれを受け取ると、いそいそと相沢さんに向かった。
 ヨーロッパでは水と言えば炭酸水を指すことが大半で、日本人はこれに拒絶反応を示すことが多いらしい。かくいう私も炭酸水は少し苦手で、できることならピュア・ウォータ(純水)を飲みたいとは思っている。食事の時ならまだしも、病気や怪我で倒れているときは尚更だ。
「コップ、いらない。そのままで」
 相沢さんはガラスのボトルを受け取ると、上半身を少しだけ起こして直接口をつけた。ゴクゴクと喉を鳴らし、彼は一気に300ccを飲み干してしまう。
「ああ、ちくしょう……。今のは一体なんだったんだよ」
 再びソファに倒れこむと、相沢さんは呟いた。
「まあ、腕を切断するにしても色々あるってことだ」
 相沢氏が言った。やはり、こういう時は経験者の助言が一番ありがたいものなのだろう。
「ファントム・ペインもそうだが、精神的な部分も含めて色々と問題はある。その中でも一番処理が難しいのが――」
「他にもまだあるのかよ」
 普段は憎まれ口ばかり利いている相沢さんも、やはり本音の部分では父親を尊敬し、頼りにしているらしい。彼の言葉に真剣に耳を傾けていた。

「天野さん、それに美坂さん」
 父と息子の会話の外で、夏夜子さんに声をかけられた。振り向くと、彼女は手招きして私たちを室外に連れ出そうとしている。
「なんでしょう」
 私と美坂先輩は、彼女の誘うままに隣室に場所を移した。相沢さんは、芳樹氏に任せておけば問題無いだろう。
「ふたりにお願いがあるの。祐一のことで」
「相沢君の?」
 美坂先輩の表情が引き締められた。
「見ての通り、祐一には色々と問題が付きまとうわ。今後もね。もちろんファントム・ペインのこともあるけれど、それ以上に心配なのは祐一の心の問題」
 彼女は話に付いて来ているか確認するように、私たちの表情を交互に窺った。
「考えてもみて。もう18年間も、ずっと自分のために尽くしてきてくれた大事な右腕を、あの子は無くしてしまったわ。利き腕だから、本当にその意味は大きいと思うの。身体のパーツの中で、一番使用頻度が高い部分でもあるわけでしょう。その喪失感というのは、他人である私たちが考えるよりもずっと大きいはずよ。祐一はあまり口に出してそういうことを言わないけれど、多分、今のあの子、長年連れ添った一番の親友を亡くしてしまったような気分になってると思うわ」
 確かに――
 改めて考えてみると、右手を失うというのは大きい。仮に、自分が利き腕を失ってしまったとしたらどうだろう。今までの日常生活におけるほとんどを、我々は利き腕の働きと助けに頼ってきたはずだ。彼は私たちのために最も献身的に働いてくれた体の一部だ。
 明日から貴方は永遠に右手を失います――と宣告されたら、誰だって衝撃を受けるだろう。そして、これからの生活に不安を覚えるに違いない。そして失った後も、様々な局面で不便さを感じるだろう。失ってみてはじめて分かるありがた味というものもある。

「確かにそうかもしれませんね」
 私は無意識にそう口に出していた。
「ええ。だから、あの子はしばらく精神的に不安定なまま過ごすことになると思うわ。喪失感とか不安とか色々なことに苛まされると思うの。あの人でさえ、小なりその傾向が見られたから」
 夏夜子さんの言う『あの人』とは、もちろん芳樹氏のことだろう。
「だから、できれば祐一の支えになってあげて欲しいの。文字通り、右腕に」
「右腕――」
 美坂先輩は、ぼんやりと呟いた。
「勿論、必要以上に甘やかすのは良くないわ。今後の祐一のためにもならない。あの子自身でクリアしなくちゃならない部分もあるしね。だから、バックアップしてあげて欲しいの。あの子ひとりじゃどうしようもない時に、傍に誰かがいるってことを実感させてあげて欲しいのよ」
「はい」
 私と美坂先輩はほぼ同時に頷いた。
「やっぱり、喪失感が一番大きいと思うから、それを埋めるために縋られることもあるかもしれないわ。もしかすると、貴女たちの――身体を求められるようなこともあるかもしれない。あの子も、もうそういう年頃だし」
 たっぷり30秒ほどかけてその意味を理解し、私たちはこれ以上ないというほど赤面した。
「芳樹さんも、その、そうだったんですか?」
 耳や首まで真っ赤にして、美坂先輩は言った。
「そうね。確かに、いつもよりはちょっと情熱的だったかもしれないわね」
 とんでもないことを口走りながら、夏夜子さんは穏やかに微笑む。

「ふたりとも、男性はまだでしょう」
 再び理解するまでに時間を要する質問をされ、私たちは戸惑った。そして意味を理解した瞬間、先程と同様に顔を紅潮させた。もはや俯くことでしか答えることができない。
「祐一は私の影響もあって、変にカトリックの思想なんかに触れてしまったものだから、その辺りは凄く慎重だと思うの。でも、貴女たちが祐一を想ってくれているのなら何時かはそういう時が来るかもしれない。貴女たちはそのことをどう考えているのかしら」
「それは――」
 美坂先輩はなんとかそれだけ言ったが、私は声すら出せなかった。
「きっと、祐一のこと、受け止めたいと願ってくれているんじゃないかしら?」
「……っ!」
 肯定などとてもできないが、嘘も吐いて否定もできない。私は恥ずかしさのあまり、失神しそうになった。このまま責め続けられると、恥ずかしさのあまり悶え死んだ最初の人類として、私は永遠にその名を残すことになるかもしれない。
 ――それはイヤ過ぎる。
「でも、今回は駄目。フェアじゃないし、祐一の精神状態は普通じゃないわ。それに、今安直に身体の関係になってしまうと、若い貴方たちはそれに溺れてしまうかもしれない。慎重に、ね」
 ね? などと言われても、どう返答しろと言うのだろうか。
 相沢夏夜子は恐ろしい人だ。そう痛感する。どこまで本気なのか全く読めないだけに、相沢の男たちより性質が悪かった。

 ――結局、私は思考を停止させたままフラフラと与えられた部屋に戻った。経験がないので確かなことは言えないが、強いアルコールに酔ってしまった時もこんな感覚に陥るのだろうか。浮ついて何も考えられない。ドアを閉じると、私は寝台に倒れこんだ。
 美坂先輩は頭を冷やすためだろう、外を散歩してくると言っていたから、しばらく戻らないはず。考えを纏めるには、好都合だ。
「それにしても、話が急過ぎます」
 夏夜子さんの話の内容を思いだし、ひとりで紅潮してしまった。ベッドに顔を埋めるようにしながらシーツをぎゅっと握り、小さく悶える。
 私とて、年頃とされる高校生女子だ。色恋沙汰について考えないことがないでもない。多少は異性というものに関して関心を抱いたりもする。勿論、男女の関係の行きつく先というのも知識の上では、多少は知っていた。
 ――何も思い悩む必要はないと思われますが、美汐。
 とりとめのない思考に溺れていると、内なる葛葉が語り掛けてきた。
 ――我等もいずれは番《つが》い、子を育む。それが天壌無窮の理。
「そんなこと、分かっています。ですが、人間たる私としては誰と番うかと云う大問題があるんです。ただ子孫を残せば良いというだけの話ではないんですよ」
 ――自覚してないとは言えまい。美汐、貴女はあの少年に惹かれている。番っても良いと考えています。
「……っ!」
 私の心は、葛葉の心でもある。私が考えたことは、何のフィルターも通さずに葛葉に筒抜けとなってしまうわけだ。つまり、私が認めたがらず敢えて考えないようにしていることでも、葛葉は無慈悲にそれを言葉にしてつきつけてくることが可能だということ。私にそれから逃れる術は無い。

「葛葉」
 私は抵抗を諦めて、言った。
「私は恋をしているのでしょうか」
 ――恐らく。
 葛葉は即答した。彼女はいつでもそうだ。
「私はあの子がいなくなってから、自分の中に大切な物を作ることを拒んできました」
 私は寝台から起き上がると、静かに座り直した。今夜、美坂先輩と共にするセミダブルの寝台は壁際にあって、すぐ傍には出窓が付いている。白い木製の窓枠からは、夏の穏やかな日差しがレースのカーテン越しに差し込んできていた。
「だから、美坂先輩の気持ちも良く分かるんです。大切だからこそ、それが失われた時とても悲しい。それならば、大切なものなど無ければいい。失った悲しみで壊れてしまわないためには、最初から大切なものなど抱かずにいるのが一番です。――そう思えばこそ、私はなくしても困らないものばかり集めて、これからも生きていくつもりでした。それで良いと思っていたんです」
 でも、それは少しずつ変わっていった。去年の冬の出会いを境に。
「私は間違っていました。大切な物とは、そんな私の思惑や打算とは違ったところから、ある日突然に生まれてしまう。知らぬ内に育んでしまう。何でもないはずの物だったのに、いつしかそれが気付かぬうちに自分にとって大きな物になってしまっている。だから……」
 人は何も計算せずとも、それを身篭り、産み落としてしまう。だからこそ、それは大切で掛け替えのないものとなるのではないか。
「気付けば、私は相沢さんと出会い、真琴と出会い、忘れられない何かを宿してしまっていました」

 何も無い方が強いと思っていた。失うものが無いから。だから、怖いものなどないと。
 でも、それは違うのかもしれない。少し、思うようになった。私には大切な物があって、過去にそれを失ってしまった。でも、彼らから得たのは死に別れた時の悲しさだけではなくて、忘れてしまいがちだけれど他にも沢山あった。いや、それがあったからこその悲哀だったと言うべきか。
 あの時、私には弟とも呼べる存在が確かにいて、彼との日々の暮らしのなかで多くのことを学んだ。
 はじめての家族。自分ではない誰かと時を共有するということ。同じ時の流れに在るということ。それらが自分にとって掛け替えのないものであり、失われた時とても痛いものだということ。
 母と義弟と過ごし、僅かな時であったけれど日々を共にした。その中で培われ、そこから受けた影響は私を育み、血肉となって今の天野美汐を形作っている。私の中で、確かに息づいている。
 死に別れてしまったから、はいお終い――だなんて、そんな簡単な絆じゃなかったはず。
「相沢さんは、私と同じように真琴を失いました。でも、彼は私とは違いました。あの人はそのことを悲しんだけれど、真琴と共にした時間の中で育んだものを自分の力として認識した。真琴と一緒に大きくしていった物を、己の武器とする道を選んだ。あの人は、私の無責任な期待に応え、精一杯強くあろうとしてくれました」
 己とは全く違うあり方を学んだ。
 ――大切なものだった。生きる意味そのものとさえ言えた。だから、それが失われてしまったとき悲しいのは当たり前。その非悼の痛みの重さは、その分だけ失われた絆の大きさを語る。そんなこと、語るまでも無い。
 本当は、死んでしまいたい。生きる意味を失ったのだから。
 でも、私のようにそこで歩みを止めてしまうのではなくて――彼らとの暮らしの中から得た訓えを己が力とし、糧とし、それを以って生涯を極めることで、失われた物の大きさを語る。誇る。
 そんなあり方がこの世にはあって、まさにその道を選ぶ者がいる。
 戦い続ける人々が抱く信条。
 それが恐らくは、相沢が語るところの――“Y”なのだろう。

「……私は、何かに気付きはじめているのかもしれません。あれから色々な人々の後姿を見てきました。あの人たちの生き方を追ううちに、思えてきたことがあるんです」
 とても、とても好きだった母と義弟。
 彼らから貰った沢山の思い出、彼らから受けた数多の訓え、それらがいかに大きく、いかに素晴らしいものであったかを、この世の全てに示すために。天野美汐がどれだけ彼らを想っていたかを、世界に刻むために。自分も、強くあることができるのではないか。
「それに気付けたとき、不思議と嬉しかった。私もまだ、頑張れるかもしれないと思いました」
 彼や彼の血族たちは、言葉ではなく歩みでそれを語る。
「今では、あの人たちは、そのために歌ってるのではないかとさえ思えるんです」
 この世の高みで、その訓えを歌う者たち。
「私は相沢さんを敬愛しています。それが、異性に向ける感情に少しずつ変わっていったとしても、確かに不思議はないのかもしれません。あの人に求められるなら、むしろ光栄に思える自分がいることも分かっています。彼は、それだけの物を私に見せてくれたと思いますから」
 彼が今後、どのように生きていくのか。何を見て、何を知り、何を語るのか。それを見届けたいと思う。生涯かけて追っていきたいと思う。

 ――ならば、そのように歩めばいい。
 葛葉は言った。
 ――私は、これから幾百の年月を生きていくことになるでしょう。その中で、多くの死別を経験することは間違いあるまい。ならば、それを如何様に受け止めるかを彼の血族より学ぶも良し。
「そうですね」
 葛葉美汐は全部で4つの命を持っているという。葛葉の妖狐はナイン・ライヴスと言われる様に、元々9個の命を持つらしい。葛葉美汐は、人間と妖狐との混血であるためその半分というわけだ。
 私こと天野美汐は、葛葉の4つある命の内のひとつを担当する人格に過ぎない。私が死んだあとも、葛葉美汐は次の人生を生きることになる。彼女が私という人格を通して学んだ様々な事柄は、その時にきっと役立てられることだろう。
「でも、結論を急ぐことなんてありませんよね。私は、こういうものはゆっくりと育んでいきたいんです」
 だから今は、もう少しこのままで――。



GMT Tur,28 July 2000 15:19 P.M.
Hauptbahnhof Zurich Swwitzerland
7月28日火曜日 午後15時19分 スイス連邦 チューリッヒ 中央駅

は〜るばる ふわっこだて
「遥々来たぜ、函館!」
 俺は両手を高く天に突き上げて、眼前に広がる蒼穹に咆哮した。
 ロンドン発、ブリティッシュ・エアウェイズの直行便に慌ただしく乗り込み、静かな空の旅を続けること数時間。雲の切れ間から、翼越しに美しい緑の絨毯に覆われた大地が見えてきたら、それは旅の終わりの合図だ。
 ジャンボ・ジェットは速度を落とし、底部から展開した車輪を軋ませながら10点満点の着地を成功させる。
 そう。ここは峻厳なアルプスの峰々に象徴される国。永久の中立を誓う、文化の発信地。そして金融、経済の中心都市。その名も――
「チューリッヒよ、ここは。それにそのボケ、この前ヒースロー空港で聞いたわ。芸がないわね」
 俺の傍らを歩く香里が、冷めきった口調で突っ込んでくる。同じことを言おうにも、もう少しソフトな表現というものがあって然るべきではないのか。妹の指摘通り、こいつには愛が足りてない。

 名雪たちウェールズ組みから別行動を取りはじめて3日目、俺たちは無事にスイスの中心都市チューリッヒに到着した。スイスは確か二度目か3度目になるはずだが、いずれも小学生より以前の経験になるらしい。よって大体の町の雰囲気しか俺の記憶には残ってない。純粋にはじめてという香里やミッスィーと条件はそんなに変わらないはずだ。
 そんな俺たちが今いるのは、国際空港であるチューリッヒ・クローテン空港から国鉄で10分、『チューリッヒ中央駅』と呼ばれる巨大な駅の構内だ。建物自体がひとつの街であるのではないかと思わせるほどに広大な駅で、スーパーマーケットやレストラン、郵便局、銀行、観光局、両替所など様々な機能が集中している。ジュネーヴとザンクトガレンを結ぶ大幹線上にあるだけあって、ここからは国内線は勿論のこと、他のヨーロッパ諸国まで続く国際列車までもが数多く発着している。要するに、この中央駅からならどこにでも行けるってことだな。
「凄いわ。路面電車がこんなに沢山」
 駅から出ると、香里が感嘆の声をあげた。確かにチューリッヒは大都市だけあって交通機関が極めて発達している。町を見渡せば、一番目立つのがバスと市電(路面電車)の存在だ。青と白を基調としたものを中心に、スポンサーの派手な広告を車体にプリントした車両、電車そのものがレストランになっていたりするもの、とにかく様々な車両がどこにいっても見受けられる。
 路面電車は日本にも昔は普通に見られたというが、今ではほとんど絶滅状態だ。香里は故郷の街からほとんど出た経験がなかったと云うから、この光景は新鮮に見えるだろう。

「こっちで言う『トラム』だな。Sバーンって云う交通網がこの辺り一帯に広がってるんだ。チューリッヒでの主要交通手段だ」
 親父が腰に手を当てながら、偉そうに言った。まるで、この都市にトラムが走っているのは自分の功績であるかのような口ぶりだ。
「ただ、慣れてないとちょっと入り組んでるから乗り方が難しい。素人は慣れてるやつと一緒に乗ったほうが良いかもな。最初は」
「それにしても凄い都会ですね。人口はどの程度あるんですか?」
 目を細めてチューリッヒの近代的な街並みを見渡しながら、天野が訊いた。
「大体、36万人ね」
 母さんが、駅の中にあった観光局から貰ってきたらしいシティ・マップを広げながら言う。
「地図を見てもらうと分かるように、チューリッヒは北から南に流れるリマト川で東西に分割されているわ」
 母さんが示す通り、チューリッヒは町のど真ん中を縦に走るリマト川で両断されている。川を挟んで、西チューリッヒ、東チューリッヒと表現できそうなほどに見事だ。
「私たちがいる『ハウプト・バーンホフ』は西側の一番北にあると思っていいわ。ほら、ここ」
 ハウプトは、ドイツ語で中央。バーンホフは同じく駅。合わせて中央駅だ。中学生の頃に両親に連れられてドイツに行ったことがある。ハウプト・バーンホフは、どの町でも見られる駅名だった。
「駅から真っ直ぐ南に伸びているのが、『バーンホフ通り』よ。その名の通り、駅から続くストリートね。ここにはスイス銀行の本店をはじめとして、世界の金融機関や証券会社が軒を連ねているわ。そういう意味では世界的にも有名ね。モダンでスタイリッシュな大通りだから、散歩にも向いてるわね」
 俺たちは今、そのバーンホフ通りの入り口にあたる『駅前広場』にいるわけだが、そこに立っている銅像のおっさんは鉄道王エッシャーという、スイス銀行を興した偉い人らしい。
 スイス銀行と言えば、ハリウッド映画の悪党やテロリストが金の振り込みに使うことで有名なところだ。「明日の17時までにスイス銀行の口座に1000万ドル振りこんでもらおうか。さもないと、予告通りビルを爆破する」……とかいうパターンだな。
 そんなこんなで有名なスイス銀行やユニオン銀行の本店が、母さんの言うようにバーンホフ通りにはある。ここの地下には、だからそういった大銀行専用の巨大な金庫があって、世界最大の金塊が貯蔵されているわけだ。

「で、肝心のカストゥール研究所とかいうのは何処にあるわけ?」
 ニョキっと首を伸ばすと、母さんの背後から地図を覗きこみ俺は言った。
「カストゥール研は、反対側。リマト川を渡って町の東側になるわね」
「そこまでは、どうやって行くんですか?」
 香里が地図から目だけを母さんに向けて問う。だが、答えたのは親父だった。
「迎えのやつがこの駅に来てるはずだ。モヤシみたいにひょろっとした、丸眼鏡のブロンド男だ。極めてウソくさい関西弁を操る生粋のスイス人で、多分、白衣を着てる。そいつを探してくれ」
……なんて怪しい特徴のやつだ。
 心の中でそうツッコミつつも、俺たちは揃って親父の口にした人物像に合致する人物を探した。とは言え、ここはチューリッヒの中心として機能している大きな駅だ。人が物凄く多い。視界に入れば一発で分かりそうな感じもするが、なかなかそれらしい男は見つからなかった。
 ――それにしても、なんだな。これはヨーロッパに来るたび思うんだが、道ゆく女性がみんな美人でとびきりお洒落に見えるんだよな。なんでだろう。今、俺の目の前を颯爽とした足取りで通り過ぎていった若い女性のふたり組も、凄くセクシーでファショナブルだ。思わずフラフラと追いかけていきたくなる。
「何を考えているのか露骨に分かるほど、邪淫に満ちた表情ですね」
「エロガッパよ。あれはまた、エロガッパなことを考えている顔だわ」
 人のことをつかまえて、天野と香里は実に失礼なことを言い出す。
「失敬だね、君たち。僕はちゃんと迎えに来ているという男性を探しているではないか」
「嘘ですね。僕とか言ってますし」反論すると、即座に天野が言った。
「あ、ブルネット美人」
「えっ、どこっ!?」
 香里が指差した方向に、俺と親父は即座に反応した。血眼になってブルネット美人の姿を探す。
 だがそこには、フライドチキンで有名な、白ヒゲのカーネル・サンダース人形が立っているだけだった。
「ほうら。男なんて所詮こんなもんなんだから。エロガッパが2匹ね」
 勝ち誇ったような顔で、香里は俺と親父に冷たく言う。
「謀ったな、香里!」
「そうだ、そうだ!」
 当たり前の話だが、俺と親父は俄然抗議に回った。純粋な男心を弄ぶとは悪魔のような女だ。
「……あなた、後でお話があります」
 そんな俺たちも、母さんのこの言葉で完全に沈黙。大人しく迎えの男を捜すのに専念することになった。親父は、後で母さんに半殺しにされることだろう。哀れなことよ。

「あ、ヨシキさん!」
 と、タクシー乗り場の方から妙なアクセントの日本語が聞こえてきた。
 声の方向に揃って目をやると、くしゃみ一発でフランスまで吹き飛ばされそうなほどに細い身体の、白衣の男がこちらに駆け寄ってきている。丸いフレームの眼鏡をかけていて、ブラッシングを1週間はサボっていそうな複雑な髪型のブロンドの持ち主だった。間違いなく、親父の言っていた迎えだろう。
「おう、ボブ」
 親父は軽く右手をあげて、彼に合図した。
「ヨシキさんお久しぶりです」
 ボブと呼ばれたいかにも研究者風の男は、俺たちの所に辿り着くと人懐っこい笑顔を見せた。
 年齢は30歳くらいだろうか。薄手の黄色いポロシャツとジーンズの上から無造作に白衣を纏っている。その白衣ときたらボロボロで、油や得体のしれないシミと汚れでほとんど灰色に近かった。
「カヨコさんも。相変わらずお若いですなあ。子供がおるようにはとても見えんわ」
「まあ、お上手ね。ロバート」
 母さんはコロコロと笑う。
「あ、もしかして君がユーイチ君かいな。いやあ、大きくなったもんやで」
 ロバートだかボブだかは、嬉しそうに笑うと俺の両手を掴んでぶんぶんと振った。
「いやあ、ホンマ、歳もとるはずやわ。前にあった時は、まだ赤ん坊やったのに」
 おいおい。なんなんだ、この怪しげな関西弁を操る白衣のモヤシ男は。

「芳樹さん、紹介していただけますか」香里が言った。
「ん。ああ、そうだな」親父は頷くと、彼の肩をポンと叩いて言った。「こいつはボブだ」
 俺たちは続きを待つが、いつまでたってもそれ以上の言葉を発しようとしない。それどころか、「全てを言いきってスッキリしたなぁ」とでもいうような顔をしている。親父のやつは、これで彼を紹介したつもりなのだろう。大雑把な野郎だ。
「えっ、それだけですか?」
 香里はようやく親父の紹介が以上で完結したらしきことを悟り、驚いたように言った。
「ほかに、年齢とか職業とか、間柄とか」
「そんなもん、関係ねーじゃん。ボブはボブだろ。付き合っていけば、どんな奴か分かるよ。取り敢えず、呼び方さえ分かってりゃ問題ないって」
 歳や職業、国籍、社会的立場なんかはその人物を知る上で、何の役にも立たないってのが親父のスタイルだ。こいつはその人物と実際に会って、話して、それからでないと絶対に評価を下さない。
 親父が誰かに「ご職業は?」なんて聞いてるの、見たことないもんな。
「はは、ヨシキさんはホンマに変わらん人やなあ。見事に相変わらずや。世界が明日終わるゆうても、この人だけは変わらんと思って安心できるわ」
 モヤシ男は実に紛い物っぽい関西弁モドキで言った。親父の本質を実によく理解しているところからみると、彼と親父との関係はそう浅いものではないらしい。ま、親父は単純だから、会えば5秒で大体の性格は掴めるもんだけど。

「僕は、ロバート・シモンズいいます。カストゥール大学の研究所で、主に福祉機器なんかの研究と製作をやってます。ヨシキさんとカヨコさんとは……そうやな、もう15年くらいの付き合いになるかいな」
「日本語が随分とお上手なんですね」
 ミッシーは随分とお上品な口調で言った。
「ええ、2年ほど日本に住んどったことがあるんですわ。とある私大に招かれて」
「ああ、関西の大学ですか?」
「いやいや、四国です。僕、お笑い好きやから。日本かぶれのシルヴィ博士の影響ですわ」
 ――なるほど。親父と付き合いがあるだけあって、変な男だ。
「ささ、タクシーをつかまえてます。立ち話もなんやし、研究所の方にご案内しますわ」



GMT Tur,28 July 2000 15:36 P.M.
Labo Kastool Zurich Swwitzerland
7月28日 火曜日 午後15時36分 カストゥール研究所

 チューリッヒには大きな大学がふたつある。ひとつはチューリッヒ大学で、もうひとつはその隣に立っている連邦工科大学だ。相対性理論で有名なあのアインシュタインが教鞭を取ってたっていう、歴史と由緒ある学校だな。詳しくは知らないけど、国立の大学なんだ。きっと名門校なんだろう。
 俺たちの目的としていたカストゥール大学は、その2校と競い合うように並び立っていた。
 大体20分くらいの道のりだっただろうか。2台のタクシーに分乗した俺たちは、駅を出発すると、リマト川の豊かな流れを横目に、まずバーンホフ・ブリッジを渡ってチューリッヒの東側に出た。チューリッヒの東側は旧市街地だったところで、中世の雰囲気を色濃く残した建物が目立つところだった。
 これはどこに行っても感じることだが、ヨーロッパは時の流れや自然と本当に上手に付き合ってきていると思う。そういう面では、俺たち日本人も彼らから学ぶところは多い。流行を追うばかりで、何かを使い捨てにすることに慣れ切っている俺たちは、ゴミと一緒に必要な物まで捨ててしまってるような気がするわけだ。
 利便性を徹底追求するか、それとも不便さも愛嬌のうちと受け入れてしまえるか。その度量と懐の違いが、人々の余裕や街並みの美しさとして反映されているように思えてくる。
 こう言えば分かり易いか。ヨーロッパは日本と比較して、大人と文明人としての余裕がある。
 まあそんな風に思える風景の中、タクシーはバスやトラムの発着所でもある中央広場に出た。大学や歓楽街が近いせいか、広場には若者の姿が目立った。辺りにはカフェテラスやレストラン、バーなども軒を連ねていて、利便性が高いせいか多くのビジネスマンや観光客も集っているらしかった。
 俺たちはそのまま広場を『ヒルシェン・グラーベン』へ右折。しばらく南下して今度は左折すると、『ジーンフット通り』へ入った。西側にある中央駅から、随分と東に来たことになる。
 目的のカストゥール大学は、チューリッヒ大学や連邦工科大学と軒を連ねるようにして、そこにあった。

「随分と物々しい警備システムですね」
 カストゥール研究所の白い建物に案内されると、天野がポツリと言った。
 確かに、ここまで来るのに多くのゲートや警備システムを潜り抜けてきた。それこそ、ウチの高校の生徒会会館のように徹底した管理が行き届いているようだ。監視カメラなんかも至るところにあったし、防犯用のセンサーや電子ロックなどもそこかしこに見受けられる。美術品泥棒を警戒する一流の博物館のようだ。
「それだけ、使い方によっては危険なものを扱っとるちゅうことです」
 少し表情を引き締めて、俺たちを先導するロバート・シモンズは言った。タクシーの中で聞いたが、彼は工学系の博士らしい。そして、このカストゥール研究所の副責任者だという話だ。
「特にシルヴィ博士が開発した『機能性微小構造体』、俗に言うナノマシンはオーヴァ・テクノロジの塊みたいなもんです。軍事的に利用されればホンマに危険なシロモンですから」
「そう言えば、エンクィスト財団もここの技術を狙ってるって話でしたね」
 香里のその言葉に、シモンズ博士の足がピタリと止まった。
「なんでそのことを。もしかして、皆さん財団のことも知ってはるんですか」
「今、『スリングウェシル』とかいう連中と付き合ってる」
 親父は博士の反応が面白かったのか、肩を揺するようにして笑った。
「色々と話は聞いてるよ。俺と似たような力を持ってる奴を集めて警備固めてるとか」
「……まったく、アイザワ家ちゅうんは、とんでもない血族ですわ。なんでこうまで世界の大物を狙ったように刺激できるか不思議です」
「同感だわ」感心するやら呆れるやらのシモンズ博士に、香里は苦笑しながら同調した。
「確かに、この研究所は『Thuringwethil』のBクラス以上の異能者たちで警備を固めてます。財団や、各国の諜報機関、産業スパイなんかを警戒してのことです。皆さんも、ここまで来る途中、何十人ちゅう単位の護衛と擦れ違ってますよ。――さあ、この部屋です」

 長い廊下の途中で、シモンズ博士は足を止めた。彼の目の前にある巨大で頑丈そうな扉を別にすれば、廊下にはほとんどドアの類はついてなかった。研究所内は無味乾燥で、景色にまったく変わり映えがない。どこを歩いても、同じに見える。幾つもの廊下が複雑に交差していて、一種の迷路になっているようだ。恐らく、防犯上の観点からわざとそうしてあるのだろう。
「このKsXは、主にこの部屋で扱ってます」
 言いながら、彼はIDカードをドアの脇にあるスロットに通した。それが認証された瞬間、薄いプレートが壁から出てきた。博士はそれに右手を乗せる。プレートはコピー機のようにその手の指紋を読み取り、本人かを識別しているようだ。
 その後、網膜までもがチェックされて、ようやく巨大なエアロックはスライドして開かれた。なんとまあ、スイス銀行の金庫並の厳しさだよな。ちょっと尋常じゃない。
「どうぞ、急いでください。このドア、すぐに閉まってしまいますから」
 その言葉に、俺たちは慌てて室内に足を踏み入れた。
「こりゃ、凄いな……」
 思わず感嘆せざるを得ないほど、その第1研究室とやらは特異な空間だった。なんと言うか、銀河を飛びまわる宇宙船のコクピットに紛れこんだような感覚だ。
 面積はどれくらいあるだろう。サッカーは無理でも、テニスくらいなら楽にプレイできそうだ。とにかく、巨大なホールを思わせるほどに室内は広くて、4方の壁には用途の想像すらつかない巨大な機械がズラリと並んでいた。壁や床、天井のあちこちを太いパイプや.らケーブルが通っているし、飛行機の管制塔のようにテーブルと一体化した端末やコンピュータなどが林立している。なんとも近未来的でサイバーな部屋だ。

「ようこそ、カストゥール研へ」
 広大な室内には、ひとりの女性がいた。シモンズ博士と同じように、ラフな普段着の上から年季の入った白衣を纏っている。凄く背の高い人だ。離れていても、俺よりも頭ひとつ分は高いことがハッキリ分かる。
 立ったまま端末を操作していた彼女は、俺たちの存在に気付くと歩み寄ってきて、笑顔と共に右手を差し出してきた。
「ここの最高責任者の、マリア・パレンスキー博士です」
 俺たち全員と握手を交わしていく彼女を、シモンズ博士が紹介してくれた。
 名前から察しがつくようにロシア系で、ここの所長を務める人らしい。そのプラチナブロンドは、男のように短く切り揃えられている。フレームの細い眼鏡が良く似合う、なかなかの美人だった。
 歳は幾つくらいかな。多分、30代だろうということくらいしか分からない。所長にしては随分と若く見える人だ。良く笑う女性なんだろう。笑みを浮かべたときにできるシワが、口元にクッキリと刻まれている。大きな茶色い瞳は、いつだって好奇心に一杯というように輝いていた。
「お久しぶり、芳樹。それに夏夜子」
 彼女の日本語は、録音して教材にしたくなるほど完璧なものだった。
「所長さんともお知り合いなんですか?」天野が母さんたちに訊いた。
「マリアはシルヴィアの親友だったんだ。俺とも、もう20年くらいの付き合いになるか」
 親父は、旧友であるという所長と視線を交わしながら言う。
「前来たときは、まだ副所長だったけどな」
「私は今だって副所長よ。永遠にね」マリア・パレンスキーは即座に言った。「ここの所長は、いつまでも変わることなくシルヴィア・エンクィストだわ。彼女が亡くなってしまったから、仕方なく便宜的に私が所長を名乗らされているだけ」

 ――シルヴィア・エンクィスト。
 ここ1週間で、顔さえ知らない彼女の名を何度耳にしたことか。
 親父の古くからの知り合いで、しかも元恋人っぽい人で、天才科学者で、筋電義手Romancerの発明者で、エンクィスト財団を生み出した大貴族の直系で……ええと、それからなんだっけか。とにかく、これ以上ないってくらいのVIPだったらしい。
 ところが、彼女は出産を切っ掛けに去年亡くなってしまったという。このことが色々と波紋をもたらして、俺たちとも微妙に関係しているとかいないとか。死んだ後まで世界を騒がせ続けている、とてつもない女性みたいだ。
 マリア・パレンスキー所長の言葉を聞いていても分かるように、彼女のその影響力っていうのかな。カリスマ性みたいなのは尋常な物ではなかったんだろう。シモンズ博士もそうだが、彼女を知る人間は、まるでジーザスのことを語るクリスチャンのような口振りと態度で、彼女のことを称える。親父でさえ一目置いていたようだから、本当に凄い人だったんだろう。
「で、今日はそのシルヴィアの遺産を受け取りに来たわけなんだが――」
 親父はそう言うと、シモンズ博士とパレンスキー所長を交互に見やった。
「ええ、準備出来てるわよ」
 パレンスキー所長は頷くと、俺たちを手招きした。そして、広い部屋の中央に歩いていく。そこには、エジプト王家の棺を思わせるような巨大な台座があって、ガラス張りのケースで覆われていた。
 そしてその中には、ファラオのミイラのように黒い右腕を思わせる物体が置かれていた。
「凄い……」
 無意識に零れ出たといった感じで、香里が呟いた。
「開発コード 。半有機機能性微小構造体ILISシステム搭載の、第3世代型超高性能筋電義手――」
 パレンスキー所長のその言葉は、まるで祈りの言葉を唱えるように静かだった。
「人類の辿り着くべき場所を『Z』とするならば、それを求め、常に『Y』の座に在ろうとする者にのみ触れることが許されるとされるシルヴィアの遺産。通称、Y'sromancerよ」

 ワイズロマンサー。

 何故だか、ゾワリと全身の毛が逆立つような戦慄を覚えた。
 使い手を自らが選択する、次世代型バリアフリー・システム。天才シルヴィア・エンクィスト擁するカストゥール研究所が、持てる技術の粋を結集して作り上げた、オーヴァ・テクノロジーの結晶体。
 なにより同じ名を冠した腕を持つ、地上ただひとりの男の存在。
 この腕に込められた数々の想念の重さを思えば、容易にそれを我が腕とするなどとは言い切れない。これを自分の右腕にする人間は、世界の頂点に君臨する人々の期待と、それによって生じる重圧を全て背負い込むことになる。並の人間なら、持ち上げることすら叶わず潰されてしまうのがオチだ。
 だからこそ思う。本来これは、俺なんかじゃ見ることさえ許されない存在なんだ。たまたま、俺が相沢芳樹の血縁だったから。だから、今、これを目の前にしていられるだけのこと。
 俺が……これを自分の右腕とすることなんて、本当に許されるんだろうか。

「どうした、祐一。顔色が悪いぞ」
 気が付くと、親父が俺を真っ直ぐに見ていた。なんだか見透かされているような気がして、俺は慌てて奴から目を逸らす。
「祐一君だったわね。ひとつ答えてくれるかしら。私をシルヴィアだと思って、正直に」
 パレンスキー所長が、少し膝を屈めて俺と視線を合わせながら言った。
「あなたがこれを見て感じたものは、次のうちどれに近しいかしら。高揚感? 畏怖? それとも悲哀?」
 強がることもできたが、それはこの場には相応しくないと思った。俺は考えて、正直な見解を口にする。
「1番近いのは、多分、畏怖だと思います」
「なぜ。なにを畏れているの? なにが怖い?」
 彼女は一瞬も視線を逸らすことなく、真っ直ぐに問いかけてくる。
「……上手く言えない。ただ、重そうだと思うから。昔の人が、嵐や火山の噴火を『神の怒り』だって怖がったのと似たようなもんだと思います。自分よりデカくて強そうだとか、とても自分には制御しきれそうにないと思ったものには、畏れを抱く。怖いと思う」
「そうね。『KsX』は色んなものを象徴している。大きくて、制御の難しい怖い力よ」
 そう囁くように言うと、彼女はなぜか微笑んだ。まるで正しい行いをした子供を誉めるような表情だ。実際、俺の見解を肯定的に受け止めてもらえたのかもしれない。
「その怖さが分からない人には、これは渡せない」
 なんとなく、彼女がなにを言いたいのか分かるような気がした。
「OK。第1次テストは合格よ、祐一君」

「おい、マリア。今のって、確かシルヴィアが俺にこれを渡すときに訊いたもんじゃなかったか?」
 親父が自分の左手に視線を落としながら、パレンスキー所長に言う。
「そうよ。彼女の真似をしてみたの」所長は悪戯っぽく笑った。
「なんだ、シルヴィアの真似かよ。もう5年も前の話だってのに、進歩ねーな」
 照れ隠しか、親父はぶっきらぼうに言う。
「ヴァージョン・アップはしても、KsXの本質は変わらんちゅうことですよ」
 シモンズ博士が横からフォローした。
「いいわ、じゃあ次のステップにいきましょう。KsXの主な機能を紹介するわ」
 そう言って、パレンスキー所長は飛行機の操縦席のように様々なメーターやレバー、ボタンに囲まれた制御装置に向かった。
「みんな、KsXに注目してちょうだい」
 彼女の細くて長い指先が、キーボードのようなボタン群の上を滑るように踊る。するとガラスケースの中のマジックハンドが動きはじめた。ゲームセンターに、機械の手を操作して賞品のヌイグルミを掴み取るゲームがあるが、あれのアームのようなやつだ。
 やがて2本の金属製アームは、『ロマンサー』を摘み上げて宙吊りにした。なるほど、ただガラスケースに中にポンと置いてあるより、こっちの方が観察しやすい。

 Romancer KsX-Rは、あえて近しいものを挙げれば『篭手』に似ているような気がした。これは要するに、日本の侍や中世ヨーロッパの騎士が身にまとっていた、鎧や甲冑の手の部分のことだ。特に中世ヨーロッパの鉄製のそれに形状は良く似ている。
 金属で出来た、巨大な手袋を想像すれば良いだろうか。表面は艶やかな黒い金属で覆われていて、関節部分は同じ色のゴムのようなものでカバーされているから、本当に真っ黒だ。
 普通の人間の手に比べると、サイズとしては結構大きい。華奢な女性の手なんかと比較すると、長さはそんなに違わないが、太さは倍近くあるだろう。指もそうだが、手首から肘の少し下辺りまで伸びる『腕』の部分は特にその傾向が強い。バッテリィや制御パネルが取りつけてある心臓部もそこにあるらしく、ゴテゴテとした印象だ。なんとも無骨な義手だよな。
「基本的なスペックなどを、良ければ教えていただけますか」
 香里は何やらバッグを漁りながら、控えめに言った。
「あと、写真は撮らせていただけるでしょうか?」
「個人で使うなら写真は構いません」所長はニッコリと笑う。「――それでスペックですが、仕様素材は <メゾ20Zr> をベースに、我々が福祉機器用として微調整したオリジナルのアルミ合金を採用しています。強度はチタンやステンレス鋼には劣るけど、重量あたりの値は最高水準の超強力鋼とほぼ同等。飛行機のボディなどに使用される <超超ジュラルミン> と比較しても1.6倍以上の値を誇り、チタンや鉄に比べて軽いのが特徴ね。
 生体融合部分はTi-29Nb-13Ta-4.6Zr合金、特殊硬質ゴムなんかを使っているわ。指の駆動方式は、やはり独自規格の超精度DCモーターを使ってるわね。この辺に関しては、あまり詳しいことは教えてあげられないけど」

「随分と重そうですけど、重量はどれくらいあるんですか?」
 俺はちょっとドキドキしながら訊いた。パレンスキー所長は愛想良く応えてくれる。
「重量は、生身の腕よりも重くて826.40g。普通の筋電義手が500gくらいだから、かなりになるわね。これはバッテリィの重量を含んだ数字よ。そのバッテリィは、腕の部分に蓄電型のものが内蔵してあるわ」
 ロマンサーの手首から上の部分には、トイレット・ペーパーの芯くらいの太さの筒が2本取り付けられている。恐らく、あれがバッテリィなんだろう。あれだけ大きなのが付いていれば、稼働時間は相当長く確保できそうだ。
「芳樹のKsXを見てきたなら大体知ってるでしょうけど、この義手は頭でイメージするだけで、生身の腕と同じように動かせるわ」
 まるで物理の授業をはじめるかのような口調で、パレンスキー所長は言った。俺はまだ知らないが、大学の講義ってやつもこんな雰囲気の中で行われるのかもしれない。
「どうしてそんなことが可能かというと、それは人間の身体の仕組みに関係があるわ。――たとえば、ある人間が目の前にあるボールを手で掴み取ろうとしていると考えましょう。この時、まず脳でそのことを考えるわよね。そして脳は、ボールを掴めという命令を電気信号で『手』に送るの。人間は筋肉の伸び縮みで身体を動かすわけだけど、全ての筋肉はこの電気信号によって制御されているわ」
 なるほど。俺たちも電気信号で動く、一種の機械ってわけだ。
「今までの義手は単なる飾りだったけど、科学者たちは、この筋肉を動かすときに流れる電気信号を読み取って失った手の変わりに『動く』義手を作れないか考えはじめたの」
「その腕の電気信号を読み取って動く義手のことを、専門用語では『筋電義手』と言うわけです」
 シモンズ博士がニッコリと笑って言った。いやに遠くから声が聞こえてくると思ったら、彼は部屋の隅にある小さな冷蔵庫を開け、ジュースやミネラル・ウォータの瓶を取り出していた。母さんが傍でそれを手伝っている。
「その、『きんでん義手』ってやつもシルヴィア・エンクィスト博士の発明なわけですか?」
 俺は博士たちに訊いた。が、応えたのは香里だった。
「筋電義手はもう当たり前に普及してるわよ。作ったのも、福祉機器を開発している企業や研究グループね。実際、Romancerほど完成度の高いものではなくても、筋電義手を使ってる人は世界に何千人もいるわ」
「へえ……。さすがに、21世紀が近付くと違うな」

 馬鹿っぽく感心する俺に、博士たちは更に専門的なことを突っ込んで教えてくれた。
 彼らが言うには、従来の能動義手(動かすことのできる義手)は、親指と人差し指、中指が動くだけで、しかも指の関節は常時曲がった形のまま、動きも不自然というダメダメな代物だったらしい。20世紀末まで、義手とは失った腕の代わりに取りつける装飾的な役割か、その延長線上のものでしかなかったわけだ。
 こういったほとんど飾り程度の役にしか立たない、原子的な義手をカストゥール研では『第1世代型』と呼んでいるという。
 そんな第1世代型じゃあんまりすぎる……ということで生まれたのが、筋肉を動かすときに発生する腕の電気信号を利用して動かすタイプの義手。これが、さっき説明してもらったばかりの、筋電義手なわけだな。
 この研究所では、その筋電義手を『第2世代型』と呼んでいるんだそうだ。
 で、この『第2世帯型』義手のコンセプトってのが、とにかく生身の腕に外見・機能ともに近づけること。具体的には、4自由度といって把持、手首の回転、手首の振り、拇指内外転の複雑な動きの実現。
 それから、5本の指全てが動き、関節が自由に曲がるようにする。軽量化をはかり、外見を改良する。それに学習機能、最適化機能を搭載する。更にはイメージ通りに正確に操作でき、また扱いこなすまでを簡単にする。……まあ、こういったことが課題として挙げられていたと言う。
 そしてこれらを追求した結果、重量わずか400グラム前後で、上記の条件を満たした筋電義手が開発・実用化されるに至ったらしい。
 ――400グラムか。中型のPETボトルに500グラムのやつがあるが、あれより軽いっていうんだから相当のもんだよな。

「この第2世代型の義手は、『進化するハードウェア』によって義手を制御するシステムとLSIを搭載しているわ。要するに、小さなパソコンみたいなものね。自分で勉強して成長する、小型の電子頭脳を積んでいるわけ」
 トレイでジュースやコーヒーを運んできたシモンズ博士から、ダイエット・コークのグラスを受け取りながらパレンスキー女史は言った。
  「また第2世代型は、人間の筋肉から発する電位と、それに対応する『握る』とか『曲げる』とかいう義手の動作との非線形的な対応関係を高速に学習する事によって、従来の義手で必要だった訓練期間を飛躍的に短縮させることに成功したわ」
 そうか。義手ってのも、車や猛牛と同じで、制御するのに慣れや経験がいるだろうからなあ。使いこなすまでに訓練が必要になるってわけか。生まれたての赤ん坊も、結構不器用だもんな。
 ――まあ、栞のやつはクレヨンやデッサン用の鉛筆を渡すと、赤ん坊より不器用になるけど。
「それで、訓練期間は具体的にどれくらい短縮されたんですか?」
 気付くと、香里は持ちこんだノートを広げてメモを取っていた。そう言えば、こういう話に興味があるって言ってたな。ここに来たのも、半分はその知的好奇心ゆえだとか。
「昔のは1ヶ月近い訓練期間を必要としたけど、最近の筋電義手だと10分程度で大体使いこなせるようになってるわ」
 そりゃまた、豪快な短縮のされっぷりだな。むしろ、され過ぎだろう。逆に不安になってこないか?
 たとえばある女性が、「あたし、1ヶ月の青汁ダイエットで3kg痩せたんです」と言うなら説得力がある。が、「あたし、本来なら1ヶ月かかるところを、僅か10分の青汁ダイエットで3kg痩せることに成功したんです」と言い出したら、誰もが「そりゃ、病気じゃないか?」と疑いだすだろう。
 ――それとも、俺のたとえがマズ過ぎるのか?

「確か、今の義手の訓練は、音声認識を導入してるんですよね」
 シモンズ博士からコーヒーを受け取り小声で例を言いつつ、香里は質問を続ける。ちなみに、俺の疑問は置き去りにされたままだ。
「その通りよ。良くご存知ね、お嬢さん。貴女の言うように、今の筋電義手は音声認識をベースに用われているわ。おかげでコンピュータ操作に不馴れな人にも使いやすくなったわね」
「良く分からないな。音声認識ってどういうこと?」
 研究者や香里のような秀才の中にいると、俺の頭の鈍さが際立つな。自慢じゃないけど。
「口に出すと、人間はイメージを固定しやすいんですわ」
 俺にトレイから好きなグラスを選ぶようジェスチャーで示しながら、モヤシ男ことシモンズ博士が言った。俺はアップル・ジュースのグラスを選んだ。
「ただ頭の中で『握る』ってイメージするより、口で『握る』と言いながらイメージした方が、より明確な命令を出しやすいちゅうことです。脳が」
 ああ、それは何となく分かるような気がするな。
 たとえば重たいタンスを動かそうと思って渾身の力で押す時、無意識に「動け!」と口に出してしまうようなことってあるからな。声にしたほうが、自分のしようとしていることをイメージしやすいし、思考の方向性も絞りやすい。

「――KsXに話を戻しましょう」
 パレンスキー女史のその言葉に、再び俺たちはロマンサーに視線を集中させた。
「KsXは、現在一般に普及している『第2世代型』の更に先をいった『第3世代型』の義手ということになるわ。では、両者はどう違うか。普通の筋電義手に無くて、KsXだけにあるものとはなにか」
 所長はたっぷり俺たちを焦らしてから、勿体つけるような口調で言った。
「それが、人間の脳波を読み取る能力よ」
「脳波、ですか」ペンの動きを止めて、香里がノートから顔を上げる。
「そう、脳波よ。KsXには、『Ilis』と呼ばれる特殊な機能性微小構造体が、進化するハードウェアに代わって搭載されているわ。それは、筋肉が発する電位だけでなく人間の脳波を読み取り、イメージをそのままフィードバックするという、より高度な制御法を可能としているの」
「特殊な機能性……なに?」
 祐一君の脳は、漢字が5つ以上繋がった語句を受け付けません。
「機能性微小構造体。俗に言う『ナノマシン』というやつね」
 ああ、なんかその話は前にしたような気がする。確か、はじめてシルヴィア・エンクィストのことを聞かされた時だ。
「えーと、とにかくそのナノマシンのおかげで、ここの研究所が作ったロマンサーは凄いってことで」
 どうせ聞いたところで理解できるのは香里くらいしかいないんだ。
「その辺は良く理解できたので、次にいきましょう。次に」

「そう?」もっと説明したいのか、パレンスキー博士は不満そうだ。「じゃあ、次はKsXの特殊機能を紹介するわ。みんな、KsXにもう一度注目してください」
 俺たちは言われた通り、ロマンサーに集中する。
「シルヴィアは日本のアニメが大好きだったわ。もともと東洋の文化に興味を持っていたこともあるでしょうけど、最大の原因は芳樹が悪戯半分に彼女にアニメのヴィデオを見せてしまったことね」
「いや、ジョークのつもりだったんだよ。まさか、あいつがあそこまで影響受けるとは思ってなかったんだ」
 親父はそう言って弁解するが、キャラクターといつもの行いからして誰にも信じてはもらえないだろう。狼少年ってヤツだな。
「シルヴィアは、特に巨大ロボットが出て来たりするSF的要素の強い作品がお気に召したようで、それらに多大な影響を受けてからは、自爆装置とかロケットパンチなどに強い関心を示すようになったの。本来の方向性からズレた、なんの役にも立たない無駄な機能こそがロマンだったのよ!……とか、ワケの分からないことを力説してたわね」
 ――とんでもない天才科学者もいたもんだな。世界的に貴重な人材をダメにした責任は、親父の馬鹿にあるのではないかという疑惑がここで浮上するような気がするのだが、これは俺の勘違いだろうか。
「おかげで、新しいタイプの義手を開発しようというプロジェクトが持ちあがったとき、『ロケットパンチ』機能を搭載しようと頑なに主張する彼女を説得するのに苦労させられたわ」
 パレンスキー所長は、疲労を色濃く感じさせる溜息を吐いた。

「結局、シルヴィアは『ロケットパンチ』を渋々諦めたものの、無意味なギミックや必要性の全くない機能などを幾つか搭載してしまいました。それが、『Squeeze』『Purgatory』『Electrification』の3モード。それぞれ日本語だと『圧殺』『放熱』『感電』機能ということになるかしら。芳樹は独自の呼び方を導入してるみたいだけど」
「それらは、それぞれどういった特徴を持ってるんですか?」
 油断無くノートとシャープペンシルを構えたまま、香里はすかさず質問した。
「ええ、今からそれを実際にお見せします。まずこれが、全ての特殊形態の基本となる――」
 パレンスキー女史は、手馴れた様子で端末を操作した。すると、ロマンサーが反応して微かにその形態を変えた。指は生身の人間のそれと同じような滑らかな動きで握られ、硬く拳を作り上げる。それに合わせるように手の甲から薄い装甲のようなものが展開されて、拳全体を覆うように広がった。結果的に、ロマンサーはボクサーが装着するグローブのような形態へと変化する。

『圧殺モード(SQUEEZE ROMANCER)』

 形態が完全に整った瞬間、その澄んだ女性の声は聞こえてきた。
「うわっ、喋った!?」
 いきなり腕そのものから聞こえてきた声に、俺は不覚にもビックリ慄いてしまう。そのままドサクサに紛れて傍らのミッシーに抱き着こうとしたが、その目論見を完全に読みきっていた彼女によって、簡単に阻止されてしまった。
「今のは?」
 抱き着こうとする俺の顔を手で遮ったまま、ミッシーは訊いた。
「シルヴィア・エンクィストの声です。誤作動を避けるための、一種の安全装置みたいなもんやな。KsXの特殊機能は使い方によってはホンマに危険なものやから、モードが起動するときには音声による確認が取られることになっとるんですわ」
 モヤシ男のシモンズ博士が言った。
「スクイーズ・ロマンサー、か。で、スクイーズってどういう意味?」
 スラングなら良く知ってるけど、基本的に英単語は苦手だ。
「スクイーズじゃなくて、スクウィーズ。日本語にすると『圧殺』ってところかしらね。ただ殺すんじゃなくて、押し殺すわけ。人の意見を力圧しで捻じ伏せてしまうような時に使うわ。日本語じゃ」
 サラサラと何やら怪しげなメモをとりつつ、香里が解説してくれる。なるほど、圧殺ね。確かに聞いただけでその危険さが伝わってくるモードだ。

「その通り」所長は、ロマンサーを通常モードに戻しながら言った。「強靭な意志の力で、あらゆる負を捻じ伏せることができるように――というニュアンスで我々は使いました。綺麗な薔薇を手に取るためには、棘で傷つくことを覚悟しなければなりません。そういう痛みを堪えて拳を握り締められる人に、このロマンサーは使って欲しいわけです」
「なるほど。それは、親父のヤツにも付いてる機能なのか?」
「当たり前だ。マリアが言ったろ、全ての特殊機能の基本となるモードだって」
 親父は自分の義手をグッと突き出しながら言った。
「見てな。いいか? Squeeze mode "Bite on the bullet"」
 すると、親父の左腕の形状が微妙に変化した。主に関節部分を保護するような形で、特殊な装甲が展開されていく。1秒もかからずに、それは完了されていた。
「おお、何やら凄いな。……でも、美女の美声は聞こえなかったぞ」
「それは芳樹が自分の声で命じたからよ。KsXには大きく2種類の安全装置が付いているの」
 マリア・パレンスキーは、右手でVサインを作る。そして、その内の1本を折りながら続けた。
「ひとつは、今芳樹が言ったように、本人の音声によって各モードを起動させる機能。そのモードの起動に関連付けたキーワードを口にするわけね。それをRomancerが認識すると、安全装置が解除されてそのモードが展開される。勿論、事前に使用者の音声パターンをサンプルとして登録しておく必要があるけどね」
「なるほど。音声を使う義手の訓練法をそのまま応用したわけですね」
 香里は感心したように何度か頷いて見せる。
 そう言えば、筋電義手ってのは使いこなせるようになるまで、動作を口に出しながら訓練するんだっけ。義手を拳にする時には、「握る」と口にするとかな。
 それに、音声を利用した安全装置ってのは他の分野でも珍しくはない。特定の人物の声でしか開けることのできない電子ロックとかも開発されていて、それがやがては一般家庭の玄関ロックなんかにも使われることになるだろう……ってな話をTVで見たことがある。

「もうひとつは、音声ではなく思考そのもので各モードを起動させる方法ね。頭の中で『起動させよう』と念じると、それによって流れる電気の流れを読みとってKsXが実際に起動する」
「口で言わなくても、イメージするだけでOKってこと? なんか、SFみたいだな」
「何を言ってるのよ。それを言うなら、筋電義手までSFになっちゃうじゃない。筋電義手は実在するのよ。サイエンス・フィクションじゃないわ」
 俺発言に香里は苦笑した。確かにそれはそうなんだが、大体、筋肉を動かす時に流れる微量の電流を感知するとか言われても、どんな技術でそれを可能としているのかを知らない人間にとってはピンと来ない話だ。
「では、音声入力ではなく、使用者のイメージだけで特殊形態を発動させたとき、確認のために先ほどの、エンクィスト博士のものだというサンプリング・ヴォイスが流されるわけですね」
 質問というよりは、確認といった調子で天野が訊いた。パレンスキー所長とシモンズ博士は揃ってそれに頷いて見せた。
「それで、さっきの圧殺モードとやらはどんな役に立つんですか?」
 俺は肝心なことを聞いていなかったことを思いだし、質問した。
「その名の示すように、握力を強化するんです。瞬間最大値は686kgですわ」
 シモンズ博士がまるで自慢するように笑う。
「握力が上がると、なんか意味あんの? パンチ力が上がるとか」
 数字だけ聞けば凄いのかもしれないが、具体的になんの役に立つかは甚だ疑問だ。

「握力とパンチ力はあんまり関係ないです。完全に無関係とも言いませんけど」
 シモンズ博士は手をパタパタさせながら言う。
「ただ、KsXは生身の腕よりも重くて、硬度も何十倍も高いです。当然、これを使って何かを殴ったり打ち付けたりすると、それに見合った衝撃が返ってきます。その衝撃の強さときたら、生身の腕で経験したことのあるものとは桁が違うもんなんですわ。その強い衝撃の緩和や関節の保護のために、握力の要素は無視できんわけです」
「ま、空手だって最初は拳の握り方から教えるからな。握り方とかインパクトのかけ方が悪いと、パンチ力うんぬんを言う前に拳が壊れるし、手首が折れることだってある」
 親父がフォローするように言った。
「まあ、そういうことやから、このモードはKsXの保護という意味で必須なんですわ。日常生活で普通に動かす分には出番は無いかもしれんけど、ちょっと荒い使い方する時や、格闘戦の時なんかは常時起動するようにしてもらわんと、KsXが持ちません」
「一種のマニュピレータですものね」
 香里はペンシルを顎に当てて、難しい顔をしている。
「関節部分はどうしても脆くもなるわ。無理な負荷がかかると壊れやすい。当然のことよね」
「ええ、その通りよ」パレンスキー所長は微笑んだ。「だから、大事に扱ってあげないとね」
「この人はいつだって手荒だけど」
 横目で親父を見やりながら、母さんはからかうように言った。
「ほっとけよ」親父は憮然とした表情でそっぽを向いた。

「フフフ。じゃあ、次は第2の形態をお見せするわ」
 所長のその言葉で思い出したが、ロマンサーには『圧殺』を含めて3つの特殊機能があるんだったな。
「これから見せる機能は、シルヴィアが100%自分の趣味から付けさせた機能で、『圧殺』のような必然性は全くないわ。それはもう、見事なまでにね」
 パレンスキー女史は困ったように眉根を寄せた。
「具体的には、人差し指から小指までの4指と、手首までの大部分を瞬時に加熱する機能ということになるわ。起動後、瞬時に1000度を越えるまでに表面温度を上げるの。煙草の先端より少し熱い程度ね。或いはガラス細工を作るときに熱したガラスの温度。瞬間最大値は、1204度を計測してるわ。使いようによっては、非常に危険なモードよ」
「どうやって発熱しているんですか?」香里がデジタル・カメラでKsXを激写しながら言う。
「機能性微小構造体の高速振動よ。――今から実際にお見せするわ」

『煉獄モード(PURGATORY ROMANCER)』

 シルヴィア・エンクィストの神秘的な囁き声が聞こえた瞬間、ロマンサーの手首以下の部分が赤く熱を帯びはじめた。義手自体は黒光りする金属製に見えるのだが、それが真紅に染まっている。
「おおー。なにやら、スゲェ」
 実際に触れたら、火傷程度の話じゃないだろう。紙や酒、乾燥した木材なら、近付けただけで燃え上がってしまいそうだ。
 ――もし圧殺モードと組み合わせて使ったら。人間相手に武器として使ったら。考えるまでも無く、ただ事では済まないだろう。
「パーガトリィ。まさに煉獄さ」
「れんごく?」
 ボソリと呟く親父に、香里は怪訝そうな顔をする。日本の学校では教えない種の単語なので、彼女は知らないのだろう。
「天国と地獄との狭間の世界のことだ」
 小首を傾げている香里に、教えてやった。敬虔なクリスチャンである母さんの影響で、そういう知識は結構豊富なのだ。
「カトリックで、死者が天国に入る前に、その霊が火によって罪を浄化されると信じられている場所だな。罪を焼き清める炎の世界さ」
「良くご存知ね。日本人は無神論者が多いと聞いていましたけど」
 パレンスキー女史が感心したように言った。俺のこと馬鹿だと思ってたんじゃないだろうな、この人。
「シルヴィはこれを使って『私のこの手が真っ赤に燃えるぅ』とかワケの分からないこと言って遊んでたわ。きっとコミックかアニメの影響に違いないと我々は踏んでるんだけど」
 ――なるほど。さすがは親父の元恋人だけのことはある。実に変人だ。

「で、新機能ってのは何だ。ここまでは、俺のにも付いてる機能だろ。ヴァージョン・アップして、凄いのが出来たっていってたよな、ボブ」
 親父は新しい玩具を見つけた子供のような眼で言った。と言うより、コイツは真性の子供だけどな。
「ええ、ゴツイのが仕上がってます。まあ、これもシルヴィ博士が生前に考えてはった機能なんですけどね。彼女の残した資料を元に、僕らがそれを形にしただけのモンなんですけど」
 親父も知らない新機能か。どんなのだろう。ちょっとドキドキしてきた。
 何せ、趣味で燃える義手を造るようなオバちゃんだ。油断はできない。コッチの予測を超えた、とてつもない特殊機能を搭載しようと試みていたのかもしれないからな。
「もしや、ビームか。ビームを発射するのかっ!?」
 それだよ。絶対ビームだ。ロケットパンチを除けば、もはや残された道はビームしかない。怪光線だ。
「はっ、それかっ!」
 親父も同じことを考えたらしい。期待と驚愕の視線を研究者たちに向ける。だが、彼らは呆れたような苦笑でそれに応えた。
「幾らなんでも、そりゃ無茶やで。さすがのシルヴィ博士でもそこまではできません」
「なんだ……」
 相当期待していた俺たちは、ガックリと肩を落とした。
「それじゃ、お見せしましょう」
 若干引き攣ったような笑みを見せると、パレンスキー女史は流れるような手つきで端末を操作した。

『感電モード(ELECTRIFICATION)』

 バチン! という、何かが弾けるような破裂音が唐突に響き渡った。同時に、青白い稲妻のようなものがロマンサーから発せられ、俺たちは飛びあがって驚く。
 ガラス越しとはいえ、その迫力は大したものだった。突然、目の前に雷が落ちてきたような感覚だ。何が起こったのか、俄かには認識すらできない。
「なに、今の……」
「絶縁破壊を起こして、何かがスパークしたように見えましたけど」
 ちょっと驚き気味の香里と天野が、顔を合わせて声を交わす。
 ロマンサーは良く見なければ分からないほど微妙に変形し、バチバチと閃光を散らしながら青白く発光していた。こりゃ、あれだ。多分、高圧電流が流れてるんだと思う。
 だが稲妻を纏ったようなこの腕は、もはやスタンガンなど相手にならないほどの電流を生み出しているようにも見えた。
「これが、イレクトリフィケーション・モードよ。日本語風に言うと、感電モード……かしら?」
 俺たちの反応にクスクス笑いながら、所長が解説する。
「お察しの通り、スタンガンのように凄く強い電気を流すモードね。最大体感電圧は、121万ボルト。大男のプロレスラーでも、一撃で昏倒させられる威力よ。頭部や急所に当てると、相手を死に至らしめることもあり得るわ。殺傷能力とマンストッピング・パワーに優れた、危険な機能ってことになるかしら」

 彼女が言うには、電気は普通だと空気中を流れることはないという。電気が『ゴム製』の物を通りにくいというのは良く聞くが、確かに空気を伝って流れるという話も聞かないもんな。
 だが、雷に代表されるように、極めて強い電流は『絶縁破壊』という現象を引きを起こし、電気を通さないはずの空気を切り裂いてしまうという。
 ロマンサーの感電モードは、その雷のように相手に突き刺さるって話だ。ロマンサーが直に触れずとも、掠っただけで感電してしまうわけだな。恐ろしい話だ。こりゃもう、完璧に武器って感じだな。
「物騒な機能ですね。何か意味はあるんですか?」
「いや、シルヴィ博士の残したメモによると、開発動機は『カッチョイイから』ということになってます。あの人は、フィーリングで物造りますから。常人にはちょっと理解しにくいんですわ」
 白衣のモヤシ男は、恥ずかしそうに言う。
「シルヴィアは、いつも面白いこと探してたんだ」
 親父は彼女と暮らしていた頃を思い起こしているのか、どこかボンヤリとした口調で言った。
「自分に何が造れるのか想像するのが好きで、誰もが無茶だっていう物をどうやって造るか考えるのが好きだった。あいつはいつも楽しそうに笑ってたよ。自分がどういう生き方すれば笑っていられるか、ちゃんと知ってるやつだった」
「あなたと、似てるわね」
 母さんが微笑む。自分の伴侶が昔の恋人のことを話してるのに、嫉妬とかしないのかな。母さんは。少なくとも、その笑顔は無理に作ったものには見えない。――俺には、まだ理解できない世界に彼女はいるんだろう。
「俺とシルヴィアは、進んだ道は違ったけど目指すものは同じだった。生き方とかもな。だから、一緒にいられたし、俺はあいつを好きになれたんだ」

「並の人間なら、そのまま幸せでいられたんでしょうけどね」
 物憂いげに、パレンスキー所長は目を伏せた。
「彼女が不幸だったのは、シルヴィア・エンクィストが才能のモンスターだったこと。彼女自身にそんなつもりはなくても、彼女が世に送る論文、開発した新技術、生み出した発明、その全ては常に世界に注目の的だった。そして、それが生み出す利権を巡って争いが起こった。自分の技術が夢ではなく、金と権力と軍事力を生む存在として扱われることを、シルヴィアはとても悲しんでいたわ」
 だからこそ、この筋電義手Romancer KsXもそう簡単には他人に譲れないのだろう。シルヴィアが生み出した技術は、シルヴィアの願いから遠く離れたところで、願わなかった用途に使われようとする。
 再三言われてきたことだ。カストゥール研の技術は、軍事用に使われれば悪魔のテクロノジとなる。だからエンクィスト財団の金と権力の亡者どもが狙っているわけだしな。
「彼女はこんな言葉を残してるわ。『必要なのはテクノロジではなく、それを上手に扱えるシステムと心だ』って。シルヴィアは、技術そのものの存在と同じくらい、その技術の使われ方も重要視していた。誰が、どのように、どんな意思を以ってその技術を用いるか。それはとても大切なことだと」
 マリア・パレンスキーは、真っ直ぐに俺を見据えて言った。
「だからこそ、シルヴィアはこのKsXを『誰もが扱える物』としては造らなかった」
 そして端末を操作し、レバーのようなものを引く。すると、Romancerを覆っていたガラス状のカバーが開きはじめた。それは音も無く台座に収納されていく。
 もはや、俺たちとRomancerの漆黒の姿とを隔てるものは無くなった。
「相沢祐一くん。貴方が『Romancer KsX-R』の所持者として相応しい人物であるかどうか。貴方がY'sromancersを冠するに値する人間であるかどうか。今から、KsX自身に判断してもらうわ」
 俺が……

「さ、こっちに来て右手を出してください」
 シモンズ博士が、剥き出しになったロマンサーのすぐ傍らで手招きしている。
「相沢君」
 香里が少し不安そうな表情で近付いてきて、包帯を解くのを手伝ってくれた。怪我は完治しているわけだが、念のためにと医者が巻きつけたものだ。
 やがて手首から先の失われた右手の肌が露出すると、俺は香里にお礼を言って、ゆっくりとロマンサーの置かれた台座に近寄っていった。数歩の距離だ。
「痛みはないです。取り付けましょう」
 シモンズ博士は俺の右手を軽く取ると、地面に向かって垂直に伸ばすように指示した。そしてロマンサーの台座を操作して、腕の切断面の高さにそれがくるように調節した。どうやら、その辺は機械で自在にコントロールできるらしい。
「力、抜いてください」
 シモンズ博士は俺の右手を、ロマンサーにゆっくりと嵌めこんだ。すると自動調節機能でも付いているのか、ロマンサーが噛みつくように俺の腕に絡み付いてきた。その部分の素材はゴムで出来ているらしく、締め付けられても痛みは全然ない。
「きつくないやろか?」
「大丈夫です」
 俺が頷くと、シモンズ博士は皮製の黒いベルトを締めて、ロマンサーを固定した。
『結合(FIXUS)』
 俺の右腕がロマンサーと完全に繋がれた瞬間、シルヴィア・エンクィストの優しい声が囁いた。



■初出(神鳴の章)

27話「Phantom Pain」2002年11月12日

本作は上記の初出作品を加筆修正の上、著者が編集したものです。