GMT Fri,29 July 2000 24:59 P.M.
Labo Kastool Zurich Swwitzerland
現地時刻 7月29日 午前00時59分

 チューリッヒの夜は、ロンドンと比較して星空が綺麗だった。トラムが発展しているせいで、乗用車の交通量が少なく排気ガスの排出量が軽減されているためだろう。スイスでも指折りの大都市でありながら、さすがに上手く自然と付き合っている。東京だと光化学スモッグのせいでこうはいかないからな。
 夜空の眺めは、そこに住まう人間がどれだけ自然を敬っているかを示すバロメータだ。天野風にいうと、天壌無窮の理をどれだけ知っているかってことになるわけだな。その点、チューリッヒ延いてはスイスってところは、かなりの高水準を維持していると言えるだろう。
 そんなことを思いながら、俺は備え付けのドリンク・バーから冷えたダイエット・コークのビンを取り出した。栓を抜いて二つのオールドファッション・グラスに注ぎ、それを持ってホテルの最上階から迫り出した瀟洒なバルコニーに向かう。外に通じるガラス張りのドアは開かれていて、穏やかな夜風が白いレースのカーテンを柔らかく揺らしていた。
 バルコニーのでると、そこには先客がいた。親父だ。奴はこちらに背を向けて、中央広場越しにチューリッヒの旧市街を眺めている。
「ほい。飲むだろ」
「おう、悪いな」
 右手に持ったコークのグラスを差し出すと、親父は薄く笑ってそれを受け取った。そしてドッシリとした石造りの白い手摺にそれを置くと、再び視線を遠くに戻す。
「結構、いい夜じゃん」俺は親父の横に並び、優しく吹いてくる夜風に目を細めた。
「隣りにいるのがお前じゃなくて、夏夜子かマリアだったら言うことなしだがな」
「そりゃ、お互い様だろ」思わず肩を竦めてしまう。「俺も天野や香里といたかったさ」
「――確かにな」親父は苦笑し、小さく肩を揺すった。
 どうやら、俺たちはカストゥール研にVIP待遇で迎え入れられていたらしい。彼らが手配してくれたホテルは、中央広場の四つ星ホテルのスウィートだった。天野と香里、そして母さんが一部屋、その隣りに俺と親父という組み合わせだ。

「なあ、親父」
「ん?」親父は顔を動かさずに答えた。
「シルヴィア・エンクィストってどんな人だった?」
 俺は夜の闇よりも黒い自分の右腕に視線を落としながら、訊いた。
「シルヴィアは凄い奴だった」
 親父は手摺からグラスを持ち上げると、コークを一口飲んだ。クラックド・アイスが硬質な音を奏でて揺れる。
「初めてあいつとあったのは、もう二〇年近く前のことだ。お前より二、三歳上だったかな。学生の頃だったと思う」
 ならば、随分と古い付き合いになる。そうコメントすると、親父は小さく頷いた。
「――当時の俺は、既に日本や外国でも結構名の知れたチェリストになっていた。日本じゃあまり馴染みの世界だから知ってる奴は少なかっただろうが、マスコミにもそれなりに騒がれたもんさ。『将来を嘱望される若手有望株筆頭』とか、『日本の若き天才チェリスト』とか、そんなありきたりな感じでな」
 なぜそんな昔のことを持ち出したのかは知らないが、その話なら聞いた事がある。親父は、本当に優秀なチェロの演奏者だったらしい。自ら作曲も手掛け、その方面でもなかなかの評価を得ていたとか。本人も世界最高の座を目指してたみたいだし、世界からもそれを認められようとしていた。まさに日の出の勢いってやつだった頃だろう。
「コンサートなんかにも、ちょくちょく招待されるようになってな。海外の有名ホールでも公演できるくらいになってた」
「そりゃ大したもんだよ。そこまで成功するにはどんなに努力しても、才能とラックに恵まれないと駄目なもんだろう。それがあったってことだからな」
「まあな」親父は低く言った。だが言葉とは裏腹に、ちっともそれを誇っているような節はない。「確かに最初はそれなりに嬉しかったような気がするよ。でも俺はそのことで自分の音楽性ってのかね、手前のチェロに疑問を持ちはじめていた」
「なんで? 世界の一流ホールで満員の観客からスタンディング・オヴェイションを受けることもできたんだろ。順風満帆、最高の栄誉ってやつじゃないのか?」

「それが気に食わなかったんだよ」
 親父は一瞬俺と目を合わせると、軽く笑った。まるで、ガキの頃の自分の悪戯を思い出して、それを懐かしんでいるような表情だ。
「タキシードやイヴニング・ドレスめかしこんだ連中を立たせて、拍手させたところでな」
「分からないな。認められたってことだろう」
「俺が欲しいのは、そんなもんじゃねーって思いはじめたんだよ。……前に話したろ。俺は本で『セロ弾きのゴルジュ』ってのを読んで、チェロをはじめた。そのことを思い出したんだ」
 それを言うなら『チェロ弾きのゴーシュ』だが、指摘したところで親父は覚えないだろう。これまでもそうだった。きっと、これからもそうに違いない。
「ゴルジュの観客は、病気の動物たちだった。サウンドで、奴らの病気を治したんだ。もちろん、金なんて取らない。聞きたい奴が、自由にゴルジュの周りに集まってきた。俺はその話を見て、チェロ弾きになろうってガキの頃に決めたんだ」
「ああ、そう言ってたな」
 俺は手の中でグラスを弄びながら言った。ひんやりと冷たい感覚を、右手は正確に伝えてくれる。
「それが俺の原点あり、同時に目指していたものだったはずだった。チェロだけじゃない、ヴァイオリンだってそうだ。ありゃ、もともとは庶民の楽器だった。貧乏人が、楽しく踊るための音楽を奏でるために生み出されたものだった。着飾った金持ちから、高い報酬もらって巨大ホールで演奏するための道具じゃない。芸術じゃない、その日笑うための物だったんだよ」
 親父は「分かるか」とでも言いたげに、小さく首を傾げて見せると俺を一瞥した。

「金なんざ、食えるだけ集まりゃ充分だ。名声なんざいらねえ。コンクールでグランプリとったって、誰も嬉しくない。俺が欲しいのは、まだ誰も経験したことがない種の感動なんだ。俺は俺のチェロで、俺にしか出来ない世界を作りたかった。
 貧民街に行ってさ、焚き火囲んでるホームレスと一緒に歌いながらチェロ弾いてた時が一番楽しかった。俺のチェロに合わせて、辛そうに生活してる奴らが笑いながら踊り出すのを見るのが、俺は好きだった。手前のチェロは、そのためにあるんじゃねーのかって思ったんだ。
 みんなは一流ホールで、タキシードの連中からスタンディング・オヴェイションを貰うのを目指してりゃ良い。でも、俺がそいつらと一緒でなけりゃならない理由なんて微塵もない。賞だの何だのを貰いまくって、小金持ちに成り下がった頃、俺は突然そのことに気付いた」
 ――分かるような気がする。
 エルキュール・ポワロみたいな口髭はやした美食家が舌鼓打つご馳走より、俺は部活で腹へって帰ったときに食うカレーライスの方が好きだ。受験勉強で夜中に小腹をすかせた時、誰もいない居間でかき込む一杯のお茶漬けが最高だと思う。ブランドのスーツめかしこんでキャビアやフォアグラ食うより、佐祐理さんの弁当を舞と奪い合いながら食うほうが、俺はいい。
 まあ、親父と俺とでは話のレヴェルが全然違うような気がしないでもないが。

「ま、そういうわけで俺は外に出た。チェロかついで世界を回った。あてなんてなかった。金出してクラシック聴くなんて生活を知らない貧乏人が、俺の観客だった」
「へえ」
 それは初めて聞く話だ。親父が若い頃そんなことをやっていたとは。しかも、俺と歳もそんなに違わない頃に。――たいした度胸と行動力だ。俺にはちょっと真似できないかもしれない。
「だが、当然そういう貧乏人が相手だと、稼ぎが少ない。スウェーデンの田舎を回っていた頃、俺の路銀はとうとう尽きた。で、腹へってぶっ倒れそうになった時に会ったのが――」
「もしかして、シルヴィア・エンクィストか?」
「そうだ」親父は笑う。「一曲弾くから、気に入ったら晩飯奢ってくれって言った」
「滅茶苦茶な出会いだな、おい」
「あいつはスウェーデンの古い貴族の末裔でさ、大富豪の箱入り娘だったわけよ。お前の知り合いで言うと、あの倉田とかいう嬢ちゃんみたいな感じだ。だから、俺みたいな奴が珍しかったらしい」
 そう言えば、箱入り娘の初恋の相手はアウトローっぽいどこぞの馬の骨と相場は決まっている。特に、栞が好んで見るようなドラマじゃそうだ。
「一曲俺のチェロを聞き終えたシルヴィアの奴は、俺をリムジンに乗せて自宅に連れて帰った。チェロが気に入ったから、自分の家でメシを食わせるとか言ってな。で、連れていかれた自宅ってのが、またドでかい豪邸だったんだよ。俺に与えられた客室も、個人じゃなくて家族単位で使うような広さがあった」
「それからどうなったんだ?」
「なんだか良く分からないうちに、俺はあいつの屋敷に居候することになった。部屋はやるから、自分の家だと思って自由にして良いとかなんとか」
「はじめて会った外国人相手にか?」
 ちょっと理解できない感覚だ。自分の街で怪しげなチェロ弾きと出会って、「一曲弾くから、気に入ったらメシ奢ってくれ」なんて言われたら、俺ならどうするかねえ……。
 可愛い女の子だったら、家に連れて帰って贅をつくしたディナーでもてなすけど、汚い男だったらキン肉バスターでマットに沈めちまうかもな。思わず。

「で、本当に居候することになったのか?」
「うむ」親父は頷いた。「結局、一年半くらいシルヴィアと暮らしたかな。ロンドンで、夏夜子と会うまで」
「シルヴィアとはどんな関係だったんだ?」
 一年半も居候していたなら、それなりの発展はあったことだろう。親父は異性を惹きつける魅力があったとか、母さんや秋子さんも言ってたし。――俺は信じられないけど。
「シルヴィアが子供を産んで、それが切っ掛けで死んじまったって話を聞いた時、もしかして俺の子供じゃねーだろうな?……なんて思わされたくらいの仲ではあったな。ま、良く考えたら計算が合わないんだけど」
 中世の面影を色濃く残す旧市街を見詰めていた親父は、首を捻ると隣りの俺と視線を合わせた。
「シルヴィアとは色んな話をして、色んなことをした。シルヴィアは自分の才能を、世界を相手に試してみたいと言っていた。今まで誰も考えなかったものを創って、誰も信じなかったことを現実にしたいって。俺はチェロで、あいつは機械工学で。どっちが先に、自分の生き方を極めらめるか勝負しましょう――なんて、笑いながら言ってた」
 やり方は違っても、どうやら親父と彼女の目指す方向は同じだったらしい。ふたりが互いに惹かれ合ったとするならば、だからこそだろう。親父や母さんはいつもそうだが、そいつと付き合っていくことで自分を高められるような相手を友人に選ぶ。だから、親父たちの周囲には常にとんでもない奴らばかりが集っているわけだ。
 本当に強いやつは、いつも自分より強いやつを探して、そいつと戦いたがっている。だから、最強に近い連中はおのずと一ヶ所に集まってくる。今、その中心で一つの柱として機能しているのがエンクィスト財団であり、シルヴィア・エンクィストであり、ワイズロマンサーズなのだろう。俺は今、その遥かな高みを麓から見上げている。

「シルヴィアの凄さは、実際に会って、目を合わせて話してみればすぐに分かる。あいつの生き方を見てれば、良く分かるよ」
 親父は身体を反転させ、背中をバルコニーの手摺に寄りかからせた。そして夜空を見上げる。俺のに良く似た黒髪が、夏風に吹かれて柔らかくそよいだ。
「俺はあいつと過ごした日々の中で、色んなことを覚えた。シルヴィアから教えられたこととか、気付かされたこととかは沢山あって、それは確実に俺を変えた。そして、今の俺があるわけだ。
 たとえあいつがこの世からいなくなったとしても、シルヴィアの残した影響力は俺の中で存在し続ける。俺が自分の人生でそれを活かそうとする限り、シルヴィアはまだ続く。それが、俺とシルヴィアの間にあったものの全てだ。――だから、祐一。あいつがどんな人間だったかを知りたいなら、これから俺が何をするかをしっかり見てろ。そして考えろ。それが、シルヴィア・エンクィストだ」
 その言葉は、一種の衝撃だった。そんなこと、今まで思いもしなかったからだ。今までの自分の世界には全くなかった考え方だ。
「そんな考え方も、あるんだな……」
 その人との出会いから学んだことや覚えたことを以って、死者を語る。
 それはこの世を去った友人たちの分の誇りを、背負うことに他ならない。彼らが偉大な存在であればあるほど、親父の双肩にかけられる重圧は尋常なものではなくなっていくだろう。自分を欺いたり、己を恥じたりするような行為をとれば、それは即座に彼らの魂を辱める行為に繋がる。
 でも、だからこそかもしれない。親父が揺るがないのは、自分の背負っているものに責任を持っているから。その重さをちゃんと理解しているから。だから、好い加減な生き方なんてしないんだろう。できないんだ。

「この考え方はな、当のシルヴィアが教えてくれたんだぜ?」
 親父は、こっちが何を考えているのかお見通しらしい。黙り込んでる俺を見て、やつは楽しそうに笑う。
「あいつは言ってたよ。今ある科学技術や知識は、先人たちが自分の生涯をかけて生み出してきたものだって。彼らはその発見や開発に全てを捧げてきて、私たちはその先人たちに力を貸してもらわないと何もできない。だから、科学者としてその偉大な先人たちに誇れるような行いを心掛けたいんだって。
 死んでいった人たちの技術や知識の力を借りるなら、彼らに顔向けできないようなことは出来ない。同じ科学者として、胸を張れることをしたい。自分も誰かの力になれるような何かを残したい。そして、いつか先人たちの列に加わる時、自分は笑っていたいって」
 自分の面倒だけで精一杯の俺には、死んでいった人間に対することまで考えが回らない。そんな余裕はない。だけど、シルヴィア・エンクィストは違ったらしい。
「シルヴィアからその言葉を聞いた時、ああ、こいつは凄い奴だなって思った。だから、こいつの側にいて、こいつがどんな生き方をするのか見てみたいと思ったんだ。俺にそう思わせるような奴だったんだ、シルヴィアは。――そして、思っていたように色んなことを俺に教えてくれた」
「そうして作られたのが、今の親父か?」
「そうだ」親父は力強く頷く。「俺はそれでできている」

 はあ、と感嘆の吐息を漏らしながら星空を見上げる。
 なんだか感覚が麻痺してしまうほど巨大なものを見せつけられた気分だ。本来なら、それと比較した時の自分の小ささを恥じたり悔いたりするものなんだろうが、ここまで格が違ってくるともはや爽快ですらある。
「まったく、この世にはとんでもない奴がいるもんだ。およびもつかねえよ」
 驚愕を通り越して呆れてさえいる俺は、思わず笑ってしまった。
 シルヴィアの思想や生き方が、正しいのか間違ってるのかは知らない。きっと、万人に受け入れられる種のものではないんだろうし、別に全人類が模範としなければならないものでもない。でもやっぱり、俺の目には凄いことのように思えるわけで。その時点で、俺は負けてるんだと思う。
 認めるにせよ、反論するにせよ、それに関する自分の考えを俺はまだ持っていないんだから。
「まあ、確かにお前には一〇年早いよな」
 親父はあっさり言うと、グラスの中のコークを氷ごと飲み干した。そして、口に含んだ氷をガリガリと噛み砕く。
「お前なんかじゃ、シルヴィアには一生追いつけないかもな。実に無理っぽい。お前、何かあるとすぐ逃げるし。状況が悪くなると諦めるし。挙句、すぐ泣くし」
「言いたい放題だな、オイ」
 俺は親父を睨みつける。が、やつは涼しい顔だ。

「まあ、お前は取り敢えず、これを片付けて来い」
 そう言うと、親父はジーンズのポケットをごそごそと漁り、クシャクシャになった紙切れを俺に差し出した。二つ折りにされている小さなものだ。何かのメモだろうか。
「なんだ、これ?」
 思わず受け取ってしまいながら訊く。広げて中身を見てみると、太い黒字のサインペンのようなもので、日時と住所のようなものが記してあった。日付は明後日、時間は午後三時。住所は恐らくロンドンの何処かだろう。いずれにも、特に心当たりはない。
「わけが分からん。何なんだよ、これは」
「その日その場所に、キイス・マクノートンを呼び出しておいた」
「えっ」
 高圧電流を流されたように、俺の身体はビクンと強く跳ね上がった。様々な意味で、その名が俺にもたらした影響は大きい。精神が忘れようとしても、身体は正直だ。
「自分の中に、正面から向き合えないような憂いは残すな。克服できなくてもいい、少なくとも逃げるな。そんなんじゃ、いつまで経っても俺たちの元には辿り着けねえぞ。立ち向かって、戦え。勝てるか、負けるかじゃない。逃げずに戦ったことが、自分の自信と誇りになるんだ。――祐一、ケリつけてこい」
 キイスと戦う……?
 俺が、キイス・マクノートンと。今度は、自分から。
「怖いか?」親父は見透かしたように言う。「それは当たり前の感情だ。俺だって不安や恐怖を感じることはあるからな。お前にそれがあったとしても不思議はない」
「親父にも?」
「俺は誰かに似たような生き方なんてしたくなかった。俺にしかできない生き方をしたかった。だから人とは違うルールを通して、違う世界を生きてきた。……でもな、人とは違う生き方をするってのは、それなりにシンドイもんだ。お前にはまだ分からねーかもしれないけどな。色んなプレッシャーもかかってくる。そんな中で何かに不安を感じることは少なくない。こりゃヤバイな、と思わされることもある」
 親父は視線を夜空に向けたまま続けた。
「だけど、俺はそれを克服してきた。強いってのは恐怖を感じないことじゃない。恐怖を感じた時、それを克服できるってことだ……って思っていたからな。その意味で、俺の人生ってやつは、まさしくBite on the bulletってやつの連続だった。きっとこれからもそうだろう」
 バイト・オン・ザ・ブレット。この国に来てから、もう何度その言葉を胸のうちで唱えただろう。困難を行くこと。恐怖を耐えしのぐこと。敢然と立ち向かうこと。――それが、バイト・オン・ザ・ブレットという言葉に込められた意味だ。
 俺は胸から下げた歪な弾丸を思わず握り締めた。
「生きてりゃ壁にぶつかることはあるだよろうよ。不安にもなるだろうし、何かを怖いと思うこともあるだろうさ。でも、お前も俺と同じだ。誰かに似たような生き方なんかじゃ満足できないはず。だったら、貫けよ。ぶち抜いてやれ。それが弾丸ってもんだろ」
 今のお前なら、ちょっとは分かるんじゃないか? そう言って、親父は笑った。



GMT sat,30 July 2000 14:51 P.M.
Wales U.K.
現地時刻 7月30日 午後03時51分 ウェールズ

 森と古城の国。確かに、ウェールズはそんな二つ名を冠するに相応しい土地だった。鮮やかな深緑の木の葉を持つ森林を分け入り、もう何時間車を走らせたことだろう。木々の隙間からさしこむ柔らかい日差しを見詰めていると、何だか気分が落ち着く。窓を全開し、半ば外に身を乗り出すようにして風を浴びる。俺は随分とそうして、ワゴン車の微かな振動に身を委ねていた。
 やがて視界が開け、木々に囲まれた小規模な広場に出た。太い丸太を無造作に組み合わせて建造したように見えるバンガローが二つ隣接して建っている。ちょっとしたキャンプ場のような所だ。車はそこで停まった。
「着いたんですか?」後部座席から香里が顔を覗かせて、運転席の男に訊いた。
「はい。お疲れさまでした」
 助手席に座る俺の隣りでステアリングを握っているのは、恐らく二〇代半ばくらいだと思われる若い白人だった。性別は男。金髪碧眼の結構なハンサムで、良く笑う温厚そうな人だ。
 彼は反財団派の武闘集団『Thuringwethil』のスタッフで、スイスのカストゥール研から戻った俺をヒースロー空港で出迎え、名雪たちが逗留しているここまで連れて来てくれた。名前は――聞いたはずたけど忘れてしまった。正式に組織から出向してきた能力者で、これから日本に戻っても俺たちの側で色々と面倒を見てくれる予定だという。
「ミスター・アイザワたちには、しばらくここで皆さんと一緒に留まっていただきます」
「だから、俺のことは祐一で良いって」
 まるで俺のことをプリンス・オブ・ウェールズのように扱う彼に、思わず苦笑してしまう。育ちが悪い人間だからして、俺はあまり丁寧に扱われるのに慣れていない。どうもこう、くすぐったいんだよな。ミスターとかサーとか言われると。
「分かりました、祐一」
 彼は多くの女性を魅了できるであろう、とても清々しい微笑を浮かべた。俺も無意味に歯を光らせることができるという素晴らしいテクニックを持っているが、流石に彼の笑顔には負ける。この男を相手に回して『甘いマスク合戦』をやろうものなら、俺のセコンドは第一ラウンドから早速タオルを投げこむ用意をしておかなくちゃならないだろう。
 顔で相手を選ぶタイプではないミッシーや舞は大丈夫だろうが、栞なんかは結構キャーキャー言いそうだよな。ドラマの主人公みたいで格好良いです、とか。羨ましい話だ。俺も一度で良いから、女の子にキャーキャー言われてみたいもんだよ。実際言われてみると鬱陶しいものなんだろうけど。その辺は複雑な男心ってやつだ。

 助手席から降りて広場に目をやると、まさにそのキャーキャー言いそうな少女、美坂栞の姿が見えた。二つのバンガローの間には、木の切株や丸太などの自然の素材を利用して作った大きなテーブルや腰掛けなどがあるのだが、彼女は、どうやらその長テーブルに食器を並べているようだ。もうすぐ午後三時だ。天気も良いし、外でティ・タイムと洒落こむつもりなのだろう。
「あ、祐一さんです」
 目ざとく俺を発見した栞は、パタパタと元気に駆け寄ってきた。
「祐一さん、おかりなさい。ついでにお姉ちゃんたちも」
「おう。久しぶりだな、栞」
 実際は二日程度しか離れていなかったわけだが、なんだか栞の声を聞くのが本当に久しぶりのことのように思えた。
「ついで扱いとは酷いものね」
「美坂先輩はまだ良いほうですよ。私に至っては、名前すら出てませんから」
 俺に続いてワゴンから降りてきた香里と天野が顔を見合わせる。
「あれ、祐一さんのご両親はどうしたんですか?」
 にこにこと笑っていた栞は、親父たちの姿が無いことに気付きキョロキョロと辺りを見回した。
「ロンドンで別れたわ。仕事もあるでしょうし、彼らには彼らの生活があるのよ」
 香里がいつも妹に向ける、優しく教え諭すような口調で言った。
「むー、もっとお話したかったです。お姉ちゃんたちだけ一緒にいて、ズルイです」
「また会えるさ」むくれる栞の頭に手を乗せる。「俺たちが日本に戻る時は見送りに来るだろうし、年明けには一度戻ってくるっていってたしな」

「あっ、これ!」
 栞はようやく俺の右腕の存在に気付いたらしい。
「ロマンサーですね。祐一さんのお父さんと同じです」
「おう、Romancer-KsX 2.82――通称 <ワイズロマンサー> だ」
 俺は右拳を固めて、ガッツポーズを作った。鏡のように艶やかな黒い無重力合金が、夏の日差しを反射して煌く。栞の目は、その右腕に釘付けだった。
「ちゃんと貰えたんですね。凄いですぅ」
 栞はくりくりとした大きな目を見開いて、ロマンサーに顔を寄せた。そんな妹を、香里は微笑ましく見守っている。姉に妹がおちょくられているシーンは良く見るが、基本的に美坂姉妹はとても仲が良い。
「触っても大丈夫ですか?」
「好きなだけ触っていいぞ。美少女とのスキンシップを嫌がる男なんてそうはいない」
 もっとも、ロマンサーはスキン(皮膚)に覆われてはいないけど。
「私、美少女ですか?」少し顔を赤らめて、栞は上目遣いに訊いてくる。
「もしその自覚がないなら、この世から美少女を自認してる娘は大勢消えうせなきゃならないだろうよ。俺の知る限り、お前は相当のもんなんだぞ。なあ、香里?」
「なんであたしに訊くのよ」香里は曖昧な微笑を浮かべた。「そういうことは、専ら異性が評価するものなんでしょう?」
「まあ、そうかもしれないけど」
「良く分からないけど、なんだかとっても嬉しいです」
 俺の右手を両手で包み込むようにして握り締めると、栞は満面の笑みを浮かべた。



 山小屋だかバンガローだかは知らないが、とにかく俺たちがウェールズにいる間の仮住まいとなった丸太小屋は、二階建ての結構大きなものだった。一階の大部分は共同生活空間で、ダイニングキッチンと水洗トイレ、そしてシャワールームなどが完備されていた。まだ新しい建物らしく、どの部屋も爽やかな木の香りが漂っている。俺はそれを感じた瞬間、この小屋がとても気に入ったものだ。
 それから、二階。完全な個室ブロックとなっているこのフロアには、合計六つの寝室があり、一部屋に二つずつのベッドが完備されていた。つまり一二人の人間が不自由なく暮らせる、非常に大きな生活空間が確保されているわけだ。もはや小屋というレヴェルを超えているかもしれないな。これは。
 俺は、寝室ひとつを一人で独占できることになった。部屋の数が多いので、こういう贅沢も可能なわけだ。流石はThuringwethil、いい物件を紹介してくれたものである。
「あーっ、祐一さん!」
 荷物を置いて一階に下りると、キッチンでサンドウィッチを作っていた佐祐理さんとエンカウント(遭遇)した。銀色のトレイの上には、新鮮なトマトやレタスを贅沢に使った美味そうなクラブ・ハウス・サンドウィッチがのっている。どうやらそれを外のテーブルに持っていこうとしていたところらしい。
「祐一さん、お帰りなさい。旅はどうでした?」
「良い旅だったよ。スイスは本当に綺麗なところだ。今度は一緒に行こうな、佐祐理さん」
「はい」
 満面の笑みを湛えて頷く彼女のスキをついて、クラブ・ハウス・サンドを一つチョロまかす。三段重ねのそれはボリューム満点で、小腹の空いた俺には最高の代物だった。レタスのシャキシャキとした歯ごたえとトマトの甘酸っぱさ、ハムの香り、それにマヨネーズの味。どれをとっても文句のつけようがない。

「あーっ! めっ。めーですよ祐一さん」
 佐祐理さんは子供を叱る母親のような顔で、俺の肩をポコポコと叩いた。意外かもしれないが、佐祐理さんの躾は結構厳しいのだ。
「つまみ食いなんて、お行儀が悪いです」
「ゴメン、ゴメン。おわびにこのトレイは俺が運ぶから」
「向こうのテーブルについた時には、トレイの上には何も残ってなかった――なんてことになりませんか?」
「ならない、ならない」思わず苦笑する。俺は佐祐理さんとのこういうやり取りがとても好きだ。だから叱られると分かっていて、ワザと悪戯をしてしまう。彼女もそのことを良く知っているから、最後は笑って許してくれるのだ。佐祐理さんはきっといい母親になる。
「あ、そう言えば舞は?」
「舞は森に行きました。鳥さんと遊んでくるとか言ってましたよ」
 小学生か、あいつは。……いや、だが舞なら鳥と会話くらいはできるかもしれん。自分の手にとまった小鳥を相手に、ぴよぴよ言いながら謎の会話をする舞の姿を想像して、俺は思わず吹き出した。大いにあり得そうだ。
「これからティ・タイムなんだろ。呼び戻した方が良いんじゃない?」
「そうですね。仲間ハズレにすると、舞にチョップされちゃうかもしれませんから」
 佐祐理さんは嫣然と微笑む。やっぱり、作り物じゃない自然な笑顔は見ていて気分が良い。それにこっちの方が綺麗だ。佐祐理さんはよく自分の気持ちを隠すために仮面のように笑顔を見せるけど、俺はそれがあまり好きじゃない。
「飲み物は何があるかな。できたら、冷たいジュースかアイスコーヒーが欲しいところだけど」
「はい。祐一さんがカバさんのようにがぶ飲みしてもなくならないくらいの飲み物を用意しておきます」
「よろしく頼みますよ」
 俺は言い残すと、約束を果たすべくクラブ・ハウス・サンドのトレイを受けとって外に運んだ。準備は順調に進んでいるようで、丸太をダイナミックに使ったテーブルの周囲には既にほとんどのメンバーが集っていた。いないのは森にいっている舞とキッチンの佐祐理さんくらいか。

「あ、祐一。おかえり」
 スコーンやビスケットをのせた銀色の皿を並べていた名雪が、咲くような笑顔を見せてくれた。
「おう、元気だったか名雪」
「うん。わたしはいつも元気だよ」
「寝坊して秋子さんやみんなに迷惑かけなかったか?」
「うー」途端に、名雪は困ったように眉根を寄せた。分りやすい奴だ。
「どうやら思い当たることがあるみたいだな」
 苦笑しながらも、ちょっと意地悪く言ってやる。
「そんな名雪君にはペナルティだ。舞が森に遊びにいってるらしい。その辺にいるだろうから探して連れてきてくれ。早く来ないと、佐祐理さんのお手製クラブ・ハウス・サンドがなくなるぞってな。そう言えば、やつは文字通り飛んでくると思うから」
 ――果たして、舞は期待通りカッ飛んで戻ってきた。陸上部であるはずの名雪が引き離されるほどの速度だ。よほどサンドウィッチを食いたかったのだろう。まったく、AMS最強のプロポーションを誇るくせして色気より食い気が先行しがちな奴だ。それが舞らしいと言えば舞らしいところなんだけど。
「お帰りなさい、祐一さん。スイスはどうでしたか?」
「良い旅でしたよ」秋子さんとも挨拶を交わす。「新しい右手も手に入りましたし」
 俺のその言葉に、彼女はにっこりと微笑んだ。秋子さんには今回の件で色々と迷惑をかけてしまった。トータルで考えると、俺はこの人に一生かかっても返せないくらいの大きなカリがあるのではないだろうか。
「それはそうと、ここに並べてあるお菓子は秋子さんが作ったんですか?」
 丸太の大テーブルには、既に手作りケーキやサンドウィッチなどが色鮮やかに並べられていた。俺が目をつけたのは、キツネ色に焼かれた美味しそうなチーズケーキだ。記憶が確かなら、これは秋子さんの十八番だったはず。甘さ控えめの大人向けチーズケーキで、底に敷かれているビスケットを砕いて作った層の歯ごたえが素晴らしい逸品だ。
「ええ、そうですよ。大体は私と倉田さんが作ったものです」
 それは楽しみだ。



 ――こっちに来てから、もはや恒例となりつつある午後のティ・タイムは終始和やかに行われた。Thuringwethilから出向してきた七人のエージェントたちも、俺たちとの親睦を深めるために参加してくれたし、俺の新しい右腕の披露もその場でなされた。
 特にロマンサーの存在は、このお茶会のメインを飾る出し物になった。既に詳しいことを知っている香里と天野を除く全員が強い関心を示したせいだ。見なれない者には、生身の腕のようにリアルに動く義手の存在が珍しくて仕方が無いらしい。フォークはきちんと持てるのか、卵を割らずに掴むことはできるのか、物に触ったときはどのように感じるのかなど、彼女たちは色々な質問をぶつけてきた。それに答えてきたマネージャーの香里くんは、好奇心旺盛な生徒たちの質問攻めにちょっとお疲れ気味のようだ。俺の隣りで、コッソリと溜息なんか吐いている。……あとで肩でも揉んでやろう。
「あ、そうそう。ロマンサーで思い出した。佐祐理さん、ちょっと相談があるんだけど」
「はい?」
 舞のティカップに紅茶を注いでやっていた佐祐理さんは、柔らかい微笑と共に顔を上げた。
「いやさ、このロマンサーのことなんだけど――一ヶ月に一回はメンテナンスをした方が良いらしいんだよ。色々とデータも向こうの研究所に送らないといけないし、一応精密機械だしさ」
「ええ、はい。そうですね」
「でさ、そのメンテナンスに色々と機材が必要なんだよね。カストゥール研の所長さんが日本にそれを送ってくれるって言ってたんだけど、それを佐祐理さんのところに置かせて貰いたいんだ」
 今ではAMSマンションと呼び親しまれている佐祐理さんと舞のマンションは、俺たちパーティの拠点でもある。カフェテリアにホームシアター、巨大な図書室と色々な設備も整っていて、放課後になるとちょくちょく寄らせてもらっている。特に香里と美汐は珍しい文献を漁れたり、無料でスーパーコンピュータを弄れるとあって頻繁に出入りしているようだ。
「ほら、佐祐理さんが俺にくれたデカイ部屋があったでしょ。あそこを、ロマンサーのメンテ専用ルームにさせてもらえないかなーなんて思ってさ」
「あははーっ、あの部屋は祐一さんのものなんですから好きに使っちゃってください」
 太っ腹な佐祐理さんは、普通に考えれば億の値がつく部屋を丸ごと一個俺にプレゼントしてくれていた。恐ろしい話だが、同様に名雪や香里たちも自分の部屋を譲渡されている。彼女たちは高校生にして、永遠に住居に困らないという保証を手にしているのだ。冷静に考えると、とんでもない話だよな。
「でも、そうですねえ。そういうことでしたら、新しく専用のお部屋を作りましょう。屋上に空いているスペースがありますから、そこにちょっとした小屋を立てて、機材はまとめてそこに運び込むといいと思いますよーっ」
 またブルジョワなことを簡単に言い出す佐祐理さん。彼女のマンションの屋上には、露天風呂とデカイ大浴場があったりする。確かにその隣りには空いているスペースがあって、俺たちは時々そこでバーベキュー・パーティなんかを開いていた。

「でも、そのメンテナンスって誰がやるんですか? 研究者さんが日本に来てくれるとか」
 はぐはぐと小さな口で一生懸命にサンドウィッチを頬張っていた栞が、小さく首を傾げながら言った。確かにもっともな疑問である。
「それに関しては、あたしと天野さんに一任されているわ」
 答えたのは香里だ。
「と言っても、あたしたちにできるのは本当に簡単な手入れだけだけどね。まあ、それに関することは色々とレクチャーしてもらってきたから。相沢君が無茶をやってロマンサーを大破させたりしない限りは、あたしたちでも充分に役に立てるはずよ」
「はは……大事に扱うよ。うん」
 鋭い牽制を受けて、俺は慌ててそう言った。
「まあ、明日はちょっと酷使することになるかもしれないけどな」
「え、明日って何かあるの?」
 クラッカーに大好物のイチゴジャムをのせながら、名雪が怪訝そうな表情で言った。
「ああ。明日、あのキイス・マクノートンと会うつもりなんだ」
「キイス・マクノートン?」
 名雪はキョトンとした表情で、隣りの席のあゆと顔を合わせた。聞き覚えはあるが、誰だったか思い出せないといった感じだ。
「ちょっと、それってあなたを拉致して、爆弾と一緒にあの倉庫に閉じ込めたマフィアじゃない」
 柳眉をしかめて、香里は言った。心なしか、語気が荒い。
「あ、そうだ。ボクたちをさらった金髪の人!」
 香里の言葉であゆや名雪もようやくキイスのことを思い出したらしい。大きな目を更に大きく見開いて、驚愕の声を上げる。
「相沢さん、正気ですか?」
 美汐までが、渋谷で発見したホタルを見るような目で俺を見詰めてくる。そんなに驚くようなことだろうか?……まあ、驚くことだよな。俺も実際、親父からこの話を持ちかけられた時は仰天したし。

「祐一、会ってどうするの」
 皿に乗っている食料を片っ端から食いまくっていた舞が、はじめて手を止めて言葉を発した。その目は鋭い。なにしろ、相手はあのキイス・マクノートン。俺たち親子が片腕を失う切っ掛けを作った張本人だ。無理もない。
「まあ、ベアナクックルかな。良くて」
「――ベアナックル?」香里は肩眉を吊り上げた。「殴り合いでもするつもりなの」
「平たく言えばな」
「うぐぅ、どうしてケンカなんてするの」
「そうです。暴力なんて間違ってます。時代は対話です。愛です。愛と対話による解決です」
 あゆと栞は口々にヴァイオレンス・スタイルを否定してくる。気持ちは分からないでもない。
「そうは言うけどな、栞。他人に苦痛を与えて、そいつが苦しむさまを見るのが三度のメシより大好きって奴だぜ? そんな人間を相手に、愛と対話による解決が期待できると思うか?」
「やってみないと分からないじゃないですか」
 栞は拳を握り締めて力説する。確かに『やってみないと分からない』ってのは俺の信条なんだが、それも場合によりけりだ。
「愛と対話じゃ、無くなった腕は元には戻らないよ」
「確かにね」香里は首肯する。そして、俺と視線を合わせて言った。「でも暴力でも戻らない」
「そうだな。だけどこれは俺の問題だ。悪いけど、最終的な決定は俺の意思でさせてもらう」
「それは勿論ですが、では何故、そのことを私たちに?」
 こんなときでも、天野の表情は変わらない。だが明らかに興味は持っているようだ。最近、それがわかるようになってきた。
「俺たちはパーティだ。生き死にに関わるような問題は共有すべきだろ。明日キイスと暴力で激突するっていう考え方に変わりは無いが、それを見届けたいならそうしてくれていいと思ってさ」
「うー。わたしには良く分からないよ」
 名雪は眉をハの字にして、唸った。
「分からなくて良いのよ。こういう時の男って、どうしようもない馬鹿なんだから」
 香里は諦観しきった顔で、軽く肩を竦めた。さすが、学年主席。こういうことも、良く分かっていらっしゃる。
「――本当、手の施しようのない馬鹿よね」



GMT Sun,31 July 2000 16:14 P.M.
London U.K.
7月31日 日曜日 午後04時14分 イングランド ロンドン北部

 翌日の午後四時過ぎ、俺はThuringwethilの護衛が運転してくれるワゴン車の助手席に乗っていた。後部座席には秋子さんを除くAMSのメンバー、つまり名雪、あゆ、舞、佐祐理さん、天野、そして美坂姉妹が陣取っている。結局、彼女たちは一部始終を見届けることに決めたらしい。パーティの一員として、俺がキイス・マクノートンと並々ならぬ因縁を持っていることを知っているためだろう。今度のことは、将来の相沢祐一を占う上でもかなり重要な要素となってくる。それを彼女たちが見逃すはずはない。
 車は既にウェールズを出て、イングランド北部に入っていた。もうすぐ、佐祐理さんの別荘があったハムステッドを通過するといった辺りだ。約束の場所までは、もう一時間もかからないだろう。そのことを思うと、流石に緊張してきた。
 その時、備え付けの自動車電話からコール音が鳴りだした。このワゴンはThuringwethilのスタッフによって色々とカスタマイズされていて、コンピュータのようなものやレーダーらしきもの、専用電話や無線機の類がゴテゴテと積みこまれていたりする。聞くところによると、タイヤもガラスも対弾仕様の特注品らしい。マシンガンで襲撃を受けても安心だと、エージェントは笑っていたものだ。
「はい、こちら相沢」
 運転手に断ると、俺は受話器を取り上げた。
「ギブソンです」外国人特有の訛りがある日本語だ。「一通り調べましたが、特に問題はないようです。待ち伏せやトラップ、狙撃などの準備は見当たりません。オール・グリーンです」
「それで、奴は?」
「キイス・マクノートンはまだ到着していません。引き続き、調査を続行します」
「そうですか。ちょっと安心した。どうもありがとう」
 俺は受話器を置いた。
「祐一、誰から?」後の席から、名雪が問いかけてくる。
「偵察に出てくれた、佐祐理さんのボディガードからだ。今のところ異常はないってさ」

 相手はキイス・マクノートンだ。恐らく今日の呼び出しに応じはするだろうが、正面から正々堂々とやってくるとは限らない。待ち合わせの場所に先にやってきて罠を張って待ってるかもしれないし、拳銃やマシンガンで武装した部下を何人も連れてくるかもしれない。その危険性を考慮して、プロの特殊部隊である佐祐理さんのガードが先行して偵察をしてくれているのだ。
 今の報告によると、キイスはまだやってきていないらしい。約束の時間は、今日の一七:〇〇ジャスト。まだ半時間以上の余裕があるから、それも不思議はない。
「キイスは来ると思いますか?」
 俺は隣りの運転席でステアリングを握る護衛に問いかけた。ラルフ・リチャードソン、佐祐理さんに雇われて専属ボディガードを務めていたベテランだ。鷹山さんの留守の間、チームの指揮をとって『サイバー・ドール』の襲撃から俺たちを守ってくれた人でもある。
「シロウトの君にここまでナメられたんだ。必ず姿を見せるだろう」
 彼はイースター島のモアイ像みたいに厳つい顔を前に向けたまま、重々しく言った。その低く深みのあるバリトンには、人に有無を言わせない強力な説得力のようなものがある。
「すみません、俺のわがままにつき合わせちゃって」
「やはり君も日本人だな」彼は一瞬だけ俺を見ると、小さく口元を綻ばせた。「日本人はこういう時、必ず『すみません』と謝るが、我々は逆に『ありがとう』と言う。協力してくれたことに感謝していることを示すためだ。――同じことでも、謝罪されるより感謝の言葉を投げかけられる方が嬉しいだろう」
「なるほど」
 俺は首肯した。確かに相沢祐一は日本生まれの日本人だけど、海外の考え方に共感を覚えることもある。だから、俺は笑顔で言いなおした。
「俺のわがままに付き合ってくれてありがとう、ラルフ」
「気にするな、相棒。俺もハイスクール時代は、君と負けないくらいの大バカだった」
 そう言って、彼は上機嫌で笑う。ハッ、道理で話の分かるおっさんだと思った。
「バカってのは、それが許される若いうちに思いっきりやっておくもんだ」
「それは名案だ」
 俺たちは顔を合わせて笑い合う。――まあ、俺は人の親になっても、ガキみたいに年中バカやってる男をひとり知ってるけどな。

 そうこうしているうち、ワゴンはロンドン中心部に入った。親父が待ち合わせの場所として指定したのは、マクノートンと裏で繋がっているらしい『ホルキナ・コネクション』という地元企業の本社ビル屋上だった。シティと呼ばれる一帯の東端に高く聳え立っている高層ビルで、遠くからでも良く目立つ。
 街の中でも相当高い場所にあるから、狙撃の恐れが小さいのがメリットだ。少なくともボディガードたちはそう言っていたし、恐らく親父もその辺を計算したんだろうと思われる。それにしたって相手の懐に飛び込むという不利には変わりないが、マクノートン側もこっちに強力な戦力が付いていることは知っているはずだ。なにせ、拠点の一つを襲撃され瞬く間に占拠されたのは数日前の話だからな。俺も奴が怖いが、向こうもこっちを少なからず恐れているはず。完全にこっちだけが不利というわけでもない。
「でもなぁ」
……いかん。少し笑って緊張がほぐれてきたと思ったが、またドキドキしてきた。なにせ、相手がマフィアとなると揉めごと起こすのも命懸けだからな。相手があのキイスとなれば、尚更だ。俺や親父は、あいつが他人の命を奪うことに何の躊躇いも覚えない人間であることを良く知っている。まさに、その身を以って。
「硬くなるな。程よい緊張は起爆剤にもなるが、緊張のし過ぎは実力の発揮を抑えるマイナスの要因になる。リラックスしろ」
「それは分かってるんだけど――」
 口で言うのは簡単だ。だが、リラックスしろと言われて、本当にリラックスできるなら誰も苦労はしない。せっかくのボディガードの助言だが、今回だけはあまり力になりそうもなかった。なんにせよ、これは俺の問題なんだしな。

 突然、また電話が鳴りだした。神経が過敏になっていたのか、思わずビクリと飛び跳ねてしまう。
「はい、こちら相沢」
 ともすれば震え出しそうな手で受話器を取る。喉から搾り出した声は、自分でも滑稽に思えるほど硬いものだった。もうガチガチらしい。
「こちらギブソン。キイス・マクノートンが『ホルキナ・コネクション』本社ビルに現れました。正面玄関で、リムジンから降りたところです」
 ――キイス。やっぱり来たか。
「了解、それで奴はひとりですか?」
「いえ、ボディガードと思われるスーツの男がひとり付いています。フリッツと呼ばれていた、あの大男です。現在のところは、他に誰かを連れているというような様子は窺えません」
「分かりました。ありがとう。こちらも、もうじきそちらに到着します」
「気を付けて。こちらは所定の位置でスタンバイしています」
 受話器をフックに戻す。顎を上げて深く息を吐き出した。もう、あと戻りはできない。
 フロントウィンドウに眼を戻せば、シティに林立するビルの谷間にホルキナ・コネクションの銀色の威容がチラチラと窺える。もう数分で到着するだろう。

「あの……祐一さん」後から佐祐理さんが遠慮がちに声をかけてきた。
「どうしても――その、本当にやらなくてはならないんですか?」
 暴力や殴り合いなどから一番程遠い世界に生きるお嬢さまだ。今から俺がやろうとしていることに意義を見出せないのも仕方がない。
「あのね、佐祐理さん」
 俺は頭の中で言葉を探しながら、後ろに首を捻って彼女と視線を合わせた。
「世の中には、佐祐理さんのように上手に社会と付き合っていける人間ばかりがいるわけじゃないんですよ。俺みたいに、どのシステムに属しても異分子として見られるような奴もいる。そういう人間にとって、世界ってのはとても生きにくい場所だ。自分を貫こうとすれば、それを潰そうという圧力が四方八方からかかってくる。それと折り合いつけることも、妥協することも、なあなあでやっていこともできない不器用な人間は――ある意味、こういうやり方でしか自分を主張できないんだ」
 俺は心配そうな顔を覗かせる佐祐理さんを一瞥すると、歪に微笑んで見せた。それが、今の俺にできる精一杯の笑顔だった。
「キイスと俺は、その面でちょっとだけ似ている。俺は幸運なことに、佐祐理さんや他の皆のような理解者に恵まれることができた。システムから見れば半端者かもしれないけど、でも自分を受け入れてくれる人がいる。――でも多分、キイスにはそれがないんだ。何百人っていう部下を従えていても、あいつは孤独なんだろう。人との人との繋がりが希薄だから、他人の気持ちを想像したり思い遣ったりすることもできない。その能力に欠けているんじゃなくて、その能力を開発する機会に恵まれなかったんだ」
 俺はそれを、とても哀れなことだと思う。
 不意に、腕を切断して倉庫から抜け出した時のことを思い出した。あの時、俺は気絶したあゆの身体を抱えて一生懸命に歩いた。切り落とした右腕からの出血は酷くて、体温は低下していく一方。寒くて溜まらなくて、夏なのに凍えてしまいそうだった。そんな時、抱きかかえた月宮あゆの存在を、俺はとても温かく感じたものだ。
 朦朧として、全ての事柄がボンヤリと霞んだようにリアリティを欠いた世界の中、それだけが確かなものだった。ああ、人間ってこんなに重たくて、こんなにあったかいものなんだなって、強く実感することができた。
 恐らく、キイスはそんな風に人間を感じたことがないのだろう。誰かを温かいと思ったことがないのだろう。誰かに愛情を感じたことがないと言い換えてもいい。そしてそれが、本質的には似通っている相沢祐一とキイス・マクノートンを別つ決定的な要素だ。
 そして俺は、それをこの勝負で明らかにしたいと願っている。僅かだけど、決定的に異なるその点が、今の相沢祐一にとって掛け替えの無いものだと証明するために。他の誰でもなく、自分自身に思い知らせるために。

「――着いたぞ。ホルキナ・コネクション本社ビルだ」
 護衛が右手をステアリングから離し、サイドブレーキを引き上げた。エンジンが止まる。助手席から降りると、眼前には天を突くような銀色の高層ビルが聳え立っていた。
 この一番高い場所で、キイス・マクノートンが俺を待っている。
「祐一……」
 後部座席から降りてきた名雪が、傍らに寄り添うようにして近付いてきた。改めて表情を窺うまでもなく、彼女が極めて大きな不安を感じていることが声音から感じ取れた。無論、同種の不安と緊張が俺の中にもある。
「心配するな、名雪。別に俺は死にに来たわけじゃない」
 それは名雪を安心させるだけでなく、自分自身に言い聞かせる言葉でもあった。
「それにロマンサーもあるからな。マフィアの坊ちゃんなんかに、もう負けやしないよ」
 これ以上彼女たちに引き止められてしまうと、本当に逃げ出したくなってしまう。そうなる前に、まだ何か言いたげな八人の少女たちを引き連れ、俺はホルキナ・コネンションの正面玄関に向かった。そして白い大理石の柱で支えられた片流れの小屋根を潜り、曇り一つない大きなガラスの自動ドアの前に立つ。滑るようにそれが開くと、そこには二メートル近い身長を誇る巨漢が待ち構えていた。
 見覚えがあるどころじゃない。こいつとは拳を合わせた経験もある。キイスがフリッツの名で呼んでいた、奴の専属ボディガードだ。
「Mr. Aizawa?」
「Yes. 」
「We're ready for you.」
 知ってるよ。だけど、なにやら棘のある言い方だ。俺が後から到着したことが気に入らないのだろうか。チャレンジャーはチャンピオンの到着を先にリングインして待っておけ。そういうことなのかもしれない。
「He is waiting for you in the top. you'll just follow me.」
 クマのように巨大な男は、そう言うとさっさと歩きはじめた。凄い大股だから俺や名雪たちは小走りであとを追わなければならなかった。もっとも、それもエレベータに着くまでの話だ。
 全員が乗りこむと、軽い浮遊感を伴ってエレベータは上昇をはじめる。一〇人もの人間が乗りこんでいるというのに、その場には終始沈黙が垂れこめていた。
 やがてフロアのカウントが屋上に到着したことを示した時、音も無く扉は開かれた。高鳴る心臓を宥めすかし唾を飲みこむと、俺は一歩を踏み出す。非常階段と合流する小さな踊り場から外へ続くドアを開いた。そこには荒れ狂うような風の吹きぬけるルーフトップフロアが広がっていた。中央には橙色のラインで巨大な新円が描かれていて、その中央には <H> の文字が刻まれている。ヘリポートだ。
 その中心――こちらに背を向け、南を流れる雄大なライン川を見下ろすように奴はいた。長いブロンドが激しい煽ち風を受け、まるで命を宿した独自の生物のようになびき蠢く。
 キイス・マクノートン。
 思えば、ワイズロマンサーにまつわる全ては、ある意味でこの男との邂逅から始まった。奴の存在が相沢の人間たちを変えた。もしかすると四年前にはじめて顔を合わせたその瞬間から、俺たちはこうして対峙することを運命付けられていたのかもしれない。そういった感傷にひたりたくもなる相手である。

「Here it comes.」
 俺の到来を気取ったか、奴はゆっくりと振り向いた。碧眼が射抜くような鋭さを伴って俺に向けられる。視線が交差した。
「――お前たちは、ここで待っていてくれ」
 名雪たちに言いのこし、俺は前進した。一歩ずつヘリポートへと歩み寄っていく。奴は唇の端を吊り上げたまま、獲物を狙う肉食獣のように目を爛々と輝かせて俺の一挙手一投足に注目している。
「You'd better be ready for this.」
 その距離、約五メートルといったところか。俺は奴と正面から向き合うと、右の拳を突き出してみせる。
「Hmm, tell me boy...」
 キイスは面白そうに笑い、懐からハンドガンを取り出した。そして、それを手の中で転がすように弄びながら俺に余裕の笑みを投げかける。だが、俺は動じなかった。もし奴の銃がこっちに向けられたら、影にスタンバイしている護衛たちが何らかの行動に出て俺を守ってくれるはずだからだ。
「Is there a good reason why I just kept you alive?」
「No.」
 顔に似合わずお優しい質問である。奴が俺を殺さずにいる理由――。そんなもの、あるわけがない。訊くまでもなくだ。
「OK. No guns.」
 そう言うと、キイスは銃を投げ捨てた。その黒いプラスティックフレームは、コマの様に回転しながら屋上の床を滑っていく。そして遠く離れたどこかの溝にはまったらしく、その姿を消した。
 決着は拳で――か。上等だ。



GMT Sun,31 July 2000 17:00 P.M.
London U.K.
同日 午後05時00分 イングランド ロンドン

「キイス……。会いたいと思ってた、お前に」
 正直、俺の心のどこかでは今でもこの場から立ち去りたいと願う部分が存在している。奴から受けた肋骨や腕をはじめ全身数カ所の骨折、打撲は数え切れない。以前受けた恐怖がまだ消えていないんだ。それは一種のトラウマとして、俺の心に焼き付いている。
 だからこそ、俺はそれを何とかしなくちゃならない。腹の中に向き合えない何かを残したまま、自尊心を保てる人間などいない。今日がその時なのだ。俺が今、そう決めた。だからそれは覆らない。
「あの時、俺はあんたに殺されかけた。お前たちは化物のように恐ろしくて、残忍だった。あんたが恐ろしかったよ。二度と会うまいと思ってた――」
 死ぬ寸前まで完膚なきまでに叩きのめされた相手と対峙し、再戦に挑むには強い精神力が要る。震え出す体と心の奥底から湧き上がってくる恐怖。これらを力尽くで捻じ伏せることができるような意志の力だ。雪に閉ざされたあの街に帰るまで、俺にはそれが無かった。それを克服しようだなんて考えたことすらなかった。
「でも今は違う」黒い拳を固める。「あんたと戦いたい。そして勝ちたい。命と引き換えの賭けだって知ってるけど」
「What are you talking about?」
 俺の日本語を解せないキイスは、眉間に皺を寄せて怪訝そうな顔をする。――いや、言語だけじゃない。俺の考え方自体、理解の及ぶ範囲にないのだろう。それが生んだ僅かだけど、だが今この場では決定的に作用する、俺とお前の差ってやつを教えてやるよ、キイス坊ちゃん。

「Keith. It's about time we met. This clown is going to show you his bag of tricks!」
「Heh! It's more than your face that makes people laugh.」
 キイスは薄く笑いながら肩を竦めた。そして真顔に戻ると続ける。
「Why do you do it, jap? You never have a chance.」
「Funny. One objection is not the end of the world. 」
 唇の端を持ち上げると、トントンとその場で軽くステップを踏みながら身体を揺らす。大切なのは、リズム。絶対に狂わない何かを常に自分の中で意識し続けることだ。
「The only way of finding the limits of the possible is by going beyond them into the impossible, pal.」
 第一ラウンドはお前のもんでいいよ、キイス。だから再開しよう。四年越しの第二ラウンドだ。
「Come on, wise guy. Get serious or get lost!」
 キイスを挑発し、構える。今の俺にもう気負いはない。
「Scientists announced yesterday that life actually originated on the ocean floor. And the Mafia announced that's also where life ends.」
 キイスも同様に構え、俺と正面から対峙する。奴のポーズは完全なボクシング・スタイルだった。
「First crush...then sink. deep...deep.」

 ――ボクシングか、厄介だな。四年前は気付く余裕すらなく潰されたけど、道理で強いわけだ。
 こうした局面において、拳闘の技術は大きな武器になるといわれている。理解の薄い人間は、蹴りがなく下半身への攻撃もルール上存在しないボクシングの攻略は簡単だと思うかもしれない。しかし、どうしてどうして。中学の時、ボクシング齧っているという人間に因縁をつけられたことがある。ケチョンケチョンに叩きのめされそうになって、慌ててトンズラした経験だ。ボクサーに死角はそうそう無い。
 俺の見たところによると、ボクサーの戦いの影で大きく物を言ってくるのは、たぶん間合いの取り合いだと思う。派手な撃ち合いやコンビネーションも確かにそうなんだが、奴らは相手との距離を大事にする。距離によってパンチのタイミングや威力が変わってくるし、制限される。間合いを制することで相手のパンチを封じることが可能――。恐らく、そういう考え方があるんじゃないだろうか。いや、ただの勘なんだけど。
 問題はこいつがどれくらいの経験と力を持っているかだけど、もしライセンスを所持しているようならば俺が奇策を凝らしても勝つのは不可能だ。相当にド汚い手でも使わない限り。
 ――だけど、それもこれも俺が普通の人間だったらの仮定。今の俺は普通じゃない。
「キイス」
 俺は一歩踏み込んだ。奴のステップがカウンターを想定したそれに変わる。
 無駄だよ、キイス。たとえプロのボクサーでも、今の俺なら一撃で倒せるんだ。俺にはそのための力がある。

 ――ELECTRIFICATION

 ガキンと金属質な音と共に、KsXがそのフォルムを微妙に変える。基本三形態の内、まさに必殺のストッピングパワーを誇る <神鳴モード> の起動だ。ナックルの部分に一時的にではあるが超高圧電流を流すこのモードは、スタンガンのように空気の絶縁破壊すら齎し破裂音を伴って青白い稲妻を纏う。体感瞬間最大電圧は一二一万ボルト。スーパーヘヴィ級のレスラーでも一撃でKOする威力だ。これさえあれば、勝てる。
 俺は拳に力を込めた。もうどんな奴にも負けない。この新しい右腕は人を超えた力を俺に齎すだろう。圧殺し、炎に包み、稲妻で黒焦げにする。何も恐れるものは無い。 「Bust you up!」
 震えにも似た快感が体を駆け抜ける。念願の力を手にした人間が誰でも感じる高揚感だ。少年野球で初めてレギュラーを勝ち取った時。学校のテストで一人だけ満点を取った時。女の子に好きだと言われた時。名門校の受験に成功した時。部活の県大会で頂点を極め、全国へのキップを手にした時。
 ――人間は自分の価値や力を証明して見せたとき、言い知れない悦びを覚える。夢が叶おうとした瞬間、震えるような戦慄を覚える。同じことだ。
 俺は力を手にした。どんな敵でも一撃で倒せる力だ。これがあれば、俺は無敵なんだ。誰も俺に敵わない。四年前、俺を滅多打ちにしてくれた男にだって勝てる。一瞬で、一撃で。
 俺は強くなった。力を手に入れたんだ。

 でもその力が悲しくて、泣いているあの子を見た。

 青白い閃光を纏った神鳴の拳を叩き込もうとした瞬間、脳裏にそれが閃いた。刹那だが、でも神鳴の閃光よりもずっと眩く。それは確かに俺の頭の中に甦った。
 そして思い出す。懐かしい日向の香り。夏の麦隴。鮮やかに、その金色の光景が眼前に広がった。
 いつか彼女と出逢った時の、懐かしい黄金の海。幼い日の俺が迷い込んだ時、そこには一人の少女がいた。

 “あたしには不思議な力があるの……”

 彼女はひとりで泣いていた。
 黒髪の小さな女の子。あたまにウサギの頭飾りをつけて。
 金色の穂の海の中で、零れた涙が風に舞う。
 ――あたしとおかあさんは、どこにいってもいじめられるようになった。『あくまの親子』だと呼ばれて、いやがらせをうけた。いつまでたっても、そんな暮らしはかわらず、あたしは自分のしでかしたことを思いだし、かなしくなった。
 ぜんぶ、この力のせいだ。
 でもこの力は、おかあさんを助けるためのものだったから、わるく思ってはいけない。

 “泣かないで”

 そう、願う。
 舞を悲しませる力なんて、無かったら良かったのにね。
 あの頃の俺は、心からそう思ったはずなのに。
 ――彼女は剣にすがっていた。人が持つ力の象徴だ。それを操り、人が持つべきでない力を断ち切りたかった。そう望んでいた。それがどれだけ根深く、臓腑をも絡め取った茨でも、構わず食いちぎりたかったのだ。心の臓ごと。それほどに忌むべき力。それが彼女にはあった。
 人を超えた力を持つことの意味。異能者に生まれついたが故の哀しみ。心優しい彼女は、その悲しさとか辛さとか、全部知っていて――だから泣いていたのに。
 幼い頃の俺は、そんな彼女の助けになれたら、と思っていたのに。
 彼女を泣かせる力の存在を、子供心に憎んでさえいたはずなのに。

 “自分の力、好きになれるかもしれない”

 ――俺は、知ってたはずだ。幼い日の彼女から、確かに学んでいたはずだ。
 なのに鏡を覗き込めば、きっと今の俺は力の本当の意味も知らずにそれを振りかざして有頂天になってる、無様で滑稽な笑みを浮かべているんだろう。キイスと同じように。自分の力を振りかざして、他人を傷付けることを快楽とする、あの銀色の傭兵たちのように。
 苦悩する彼女のことも、彼女から教えて貰った大切なことも、全部忘れて。ただ異能の魔力に呑みこまれて、それに酔いしれる最も醜いと思っていた微笑を俺はきっと、浮かべているんだろう。

 “祐一といたらね、あたし……自分の力、好きになれるかもしれない”

「俺は――」
 俺は、一体なにをやろうとしていたんだろう。一番大事なことも忘れて。こんなことも忘れきって。口先でかっこう良い言葉ばかり並べて、一体なにをしでかそうとしていた?
 敬愛する人々と過ごしたかけがえのない日々の中で、訓を受けたはず。それは、彼らが幾多の苦難と悲哀の末に、俺に伝えてくれたことだ。なのに――命懸けで守らなきゃいけないそれを、俺は自分で地面に叩き付けて踏み躙っていたんじゃないか? この世で最も尊いものに、泥を塗り付けようとしていたんじゃないのか?
 本当に大事なことを、なんもかんもあっさり忘れて、それで何がワイズロマンサーだ。なにが新しい力だ。
「祐一ッ!」
 悲鳴にも似た彼女の声。次の瞬間、腹に何かが埋め込まれた。次いで左頬に焼け付くような衝撃。地震でも起こったかのように世界が横に大きくぶれて、そのままバランスを失う。気付くと俺は後ろ向きに、地に横たわっていた。
「なにを呆けている。しかけてきたのは貴様の方じゃないのか」
 嘲るような、耳障りなキイスの声が降ってくる。
 でも、今はそんなことどうでも良かった。敵はもうあいつじゃない。俺はあいつと向き合う以前に、既に負けてたわけだ。最初から勝負にもなってなかった。
「なんだ。お前、泣いてるのか」乾いた笑みが耳に届く。「傑作だ。ガキの頃と変わらないな日本人」

「祐一! まだ終わってない」
 彼女の声が聞こえる。麦畑で泣いていた、あの時の小さな女の子の面影はもうないけど。ふたりで鬼ごっこをして遊んだ時の、溢れるような笑顔はもうないけど。でも、心は変わらず今でも本当に優しい子で。俺は今更ながらに、自分が彼女から如何に多くの大きなものを学び取っていたかを知る。
「まだ何も終わってない。祐一の魔はまだそこにいる」
 そうだ。これは“魔”だ。俺が生み出した、自分の“魔”。彼女はそれを克服して、己の力として受け入れた。俺はその手伝いをすることができた。今度は俺が、手前の“魔”をどうにかして見せる番だってことだろう。
「手前もたまには役に立つんだな、キイス・マクノートン」
 口元の血と、悔恨の涙を拭いながら俺は笑う。
「なに――?」
「幾らトサカにきても、自分で自分は殴れないからな」
 顎はガクガクするし、ダメージは大き過ぎたみたいだけど、俺は寸でのところで己が過ちに気付いた。
「そうだ、その通りだよ。力ってのは何の覚悟も無い奴がヘラヘラ笑って使って良いようなもんじゃない。人の痛みから学習できないやつが持っていいもんじゃない。おかげで開眼した」
 右の黒手を握り締める。自分に言い聞かせる。誓う。
 舞が背負っていたもの。力を持つということ。今になって、その本当の意味が――分かった。
 キイスじゃない。コイツごときじゃない。あくまで敵は自分自身。……俺の魔、か。
「今日こそ、ブッ潰す」



GMT Sun,31 July 2000 17:09 P.M.
London U.K.
同日 午後05時09分 イングランド ロンドン

 思いきり重心を下げて、地を這うようなローキックを放つ。鞭の様に上手く撓ってくれた右足が、巻きつく様に奴の膝にヒットした。その手応えを確認した瞬間、素早く後ろに跳ねて間合いを取る。ノーダメージを装ってはいるが、その膝には既に一〇発を優に超える蹴りが当たっている。ダメージは確実に蓄積されているはずだし、その証拠にキイスのステップは既にリズムを崩されて緩慢になってきていた。
 もう、ロマンサーには頼らない。俺は手を完全にガードに回し、身体を低く屈めて低い蹴りを主体に戦う戦術を取っていた。最初に貰った強烈なボディとフック分は既に取り戻しているはずだ。
 キイスは完全に攻め倦んでいる。神鳴のロマンサーを見てから、この義手の存在を警戒しているのだ。この腕が電撃を流せるスタンガンのようなものだと知ったから、迂闊に突っ込んではこれない。奴はカウンターを警戒しなくてはならないし、そもそも生身の拳での一撃を金属製の義手で受け止められたら、逆にダメージは自分に返ってくることを知っているからだ。
 技術は完全に向こうが上だが、ロマンサーという抑止力が上手く作用して戦局は俺優位に傾いている。もし俺の右腕が生身であったならこうはいってなかったはずだ。今頃、完膚なきまでに叩きのめされてKOされていると考えるべきだろう。あくまで忘れちゃならない。確かに齧った程度の柔道の経験があるとはいえ、基本的に相沢祐一は戦闘の素人なんだ。

「どうした。その右腕は使わないのか?」
 焦りからか、それともまだ余裕があるところを見せたいのか、キイスは挑発してくる。
 俺は応える代わりに、再びローキックを放った。それをガードさせ、再び右を振り上げて今度はミドルキック。完全に下半身に意識を向けていたキイスは、不意を突かれたせいで反応を遅らせる。だが、そこは流石に格闘技の経験者。辛うじて腕のガードで受け止めてみせた。反動を利用して、俺たちは再び間合いを取る。この応酬がもう随分と続いていた。
 幸いなことに、キイスにプロのライセンスを取れるほどの腕は無い。だが、アマの試合でもあれば良いセンまで勝ち残れるであろうだけの実力はあるだろう。微妙なところだ。
 懐に飛びこんで、組み合いの勝負に持ち込みたい。だが、奴もそれは警戒しているはずだ。ボクサーは組み付かれるのを一番嫌がる。打てるパンチは制限されてくるし、ルールの無いストリートの勝負だと頭突きや膝蹴りを使われて相手に有利に働くからだ。
 ローキックを全く捌けないところを見ると、奴は徹底したボクサースタイルの人間らしい。あくまで自分の土壌で戦うことを守ろうとする種のファイターだ。ペースに持ちこめれば強いが、相手のペースに飲まれると案外脆いと見た。

「――ッ!」
 キイスが飛びこんできた。速い。
 脇を絞めてガードを固めた体勢のまま、頭から突っ込んでくる。慌てて引くが、奴の方がスピードで勝っていた。思考の隙を突かれるような恰好で、反応が遅れたせいだ。
 繰り出される左のストレートは辛うじてガード。だが、カミソリのような右のフックに反応できない。
 左頬を灼熱感が襲う。世界が引っ繰り返ったかのような振動が、脳を襲った。
 更に鼻面にインパクト。顔面が仰け反る。鼻血か、視界が紅く染まった。そしてコンビネーションのラスト、強烈な右のボディブローが繰り出される。ダメージで視界を奪われていた俺にはそれが見えない。ただ、臓器が逆流して口から飛び出しそうな感覚と共にそれを悟るしか無かった。
 気が狂いそうな程に強烈な嘔吐感が襲う。頭はガンガンと内側から割れてしまいそうに痛い。凄まじい衝撃だ。普通じゃねえ。
 どこからか悲鳴があがる。おそらく、あがったのだろう。涙声が俺の名前を呼んでいる気がした。だが、脳まで届かない。思考の停止。膝から崩れ落ちた俺は、ただ胃液を吐きながら周囲をのたうちまわった。
 これがキャリアと技術の差なのか。
 一向に引く気配のない痛みに翻弄されながらも、視界の端に斜線が見えたような気がして咄嗟に腕で頭部を庇う。完全に無意識の行動だった。結果的に、それが幸いする。
「チイッ」
 右腕――超硬度を誇るロマンサーに鈍い衝撃が伝わってきた。ダウンした俺に追い討ちを掛けようと、キイスは顔面目掛けて蹴りを放ってきたのだ。運の良いことに、ヒット確実とたかをくくっていた奴は、鋼鉄よりも固い義手に足を打ち付けることになった。舌打ちと共に奴が離れていくのが分かる。
「くそ……しっかりしねえか」
 力を込めるたびにガクガクと痙攣する膝を叱咤しながら、俺は何とか立ち上がった。キイスは少し間合いを取って、右足の脛の辺りに手をやっている。折れてはいないようだが、かなり痛むようだ。
 吐き出した俺の唾は完全に鮮血の紅に染まっていた。ダメージじゃ、こっちも負けてない。
 だが、幾らアマチュアクラスとはいえ、経験のあるボクサーのパンチをまともに食らって立ち上がれたのだ。やはり奴はロマンサーの防御とカウンターを恐れ、もう一歩踏み込めなかったのだろう。微妙にミートポイントがずれてクリーンヒットはしても当たりがどこか浅かったというわけだ。やはり、抑止力とはいえ義手の存在なくして奴には勝てないか――。
 それでもいい。結果的に助けられても、精神はそれに依存しない。尊びながら頼らず。すべては心の持ちようなのだ。
 そんな風に思えるようになっただけなのに、不思議なもんだ。ただ向き合うだけで、プレッシャーに潰されそうな敵だったあいつが――眼前に聳える要塞のように見えていた存在が、今ではただの人間に見える。そんなに高い壁じゃない。
「キイスッ」全力で正面から向かう。もう手の届かない相手じゃない。俺はやれるはずだ。
 繰り出したのは左。躱されたが、奴のカウンターのフックは右腕でガードした。一瞬の痛みに奴が動きを止めた瞬間、身体ごとぶつかる。この間合いなのだ。狙っていたのは。

 もつれあうような形で懐に入り込むと、俺は右手で奥襟を、左手で奴の服の右肘部分を掴んだ。そのまま押し倒すような勢いを利用して、右足で奴の左足を内側から刈る。少し形は崩れたが、タイミングはピシャリ。大内刈りの完成である。
 受身さえ知らないキイスは、後頭部から真後ろに倒れこんだ。その上に覆い被さるようにして俺も続く。柔道の技が決まったというよりは、勢いに任せて倒れこんだといった感じだ。
 だが倒れることを想定していなかったキイスと、倒れることを前提としていた俺とでは立ち直るまでにかかる時間が違う。勿論、いちはやく次のアクションに移れたのは俺の方だった。
 倒れた瞬間の衝撃は、キイスの意識を一瞬ではあるが吹っ飛ばしている。その隙に乗じて、俺はヤツの身体に馬乗りになり顔面目掛けて左の拳を繰り出した。
 鈍い手応えが伝わってくる。完全な一撃がヤツの口元にヒットした証だ。同時に鋭い痛みが拳を襲った。多分、歯を掠めた時に痛めたんだろうが、そんなことはどうでも良い。二発、三発とヤツの顔面に拳を落とす。そして後ろに転がるようにしてヤツから離れ、再び間合いを取った。
「ハァ、ハァッ……」
 胸が苦しい。いつの間にか俺は肩を揺らして喘ぎを洩らすほどに疲労していた。体力はもう限界を超えようとしている。膝に力が入らねえ。
 俺は基礎体力が無い。殴る蹴るといった格闘には凄まじい体力が要求されるものだ。毎日、地道に訓練して充分な体力造りをしていてはじめて長期戦というものに挑める。逆に体力の無い素人は、呆れるほど呆気なく体力を失ってしまうもんなんだよな。今の俺のように。
 もうそんなに長くは持たない。次で、ケリを着ける。色んな物に、ケリ着けないと。

 ――キイス。キイス・マクノートン。
 さっき気付いた。お前は相沢祐一なんだ。俺の、過去の象徴。
 自己への嫌悪、自己への欺瞞、克服すべき弱さ、甘え、悔恨、それに後悔。そんな諸々の物が具現化した、言ってしまえば“魔”みたいなもんなんだよな。悪いけど勝手にそう見立てさせてもらう。
 だからお前は俺の敵であって、でも本質的には敵じゃない。超えるべきは、お前に重ねた過去の俺そのものなんだ。それ故にこそ、この再戦には相沢祐一にとって充分過ぎる意義がある。
 マクノートン一家は、この街で最も強大な勢力かもしれない。――キイス、お前のバックにはきっと何百何千っていう部下が付いてるんだろう。でも、俺の後ろには偉大なシルヴィア・エンクィストがいる。親父や母さんから受け継いだものを背負ってる。馬鹿やりそうな時には、叱ってくれる舞がいる。
 マクノートンにどれだけの権力があるかは知らない。それでどれだけ人に恐れられてるかは知らない。
 だが、それでも確実なことがある。
「バックのデカさなら、俺の方が上だ」

 全体重を乗せた右足を一歩踏み出す。踏み込む。身体を巨大なバネに見立て、限界まで捻る。
 弾丸に見立てたのは左腕だった。何より、自分に証明してやらなくちゃならない。勝つのはギミック付きの玩具なんかじゃない。相沢祐一本人なのだと。
 俺は不器用で、百聞は一見にしかずを地で行くような大馬鹿だから。だから、こんなことでしか自分を納得させられない。こうでもしなくちゃ、信じられない。不器用は、不器用なりにやるしかないんだ。
「祐一、いけーっ!」
 名雪のその声で、膝を震わせながら何とか立ちあがるキイスは、ようやく背後で攻撃モーションに入った俺の存在に気付く。その反応は、こちらの予測を遥かに凌駕する速度だった。
 左の拳に重たい手ごたえが伝わった瞬間、俺の視界が大きく振動した。手をすべらせて落としたカメラの映像のように、世界がはげしくぶれる。
 その衝撃は、俺の肉体から精神を弾き飛ばしたようにも思えた。意識が飛ぶ。すべての感覚が消えうせる。
 ひざが不規則にゆれ、自分がふらふらと後ろに数歩さがっていくのを他人事のように感じていた。身体は、そのまま糸を切られた傀儡のように崩れ落ちる。
 刹那、眼の前が鮮血色に染まった。



GMT Sun,31 July 2000 17:13 P.M.
London U.K.
同日 午後05時13分 イングランド ロンドン

 空が見えた。波紋のたった水面のようにすべてが歪んでいる。
 無意識に見えなくなったキイスの姿を必死で探していた。見つかるはずもない。ただ蒼穹をゆっくりと雲が流れていった。
 自分が大の字に倒れこんでいる事実に気づくまで、どれくらいの時を要しただろう。好機であるはずだ。奴は、なぜ伏した相手に攻撃を加えてこないのか。不思議に思いながら上体をもちあげようと試みる。
 しかし肉体は応じてくれなかった。
 立たなければならない。まだ終わっちゃいない。倒れるにしてもうつ伏せですらないのだ。できるはず。身体が動くなら立てる。立てるなら構えられる。構えられるなら、放てるはず。
 弾丸なのだ。そう己に語りかける。弾丸みたいになるのだ。それは曲がらない。ゆがまない。引き返すことはない。力尽きるまで、真っすぐな軌跡を描き。
「――祐一」
 名を呼ばれたような気がした。ほぼ同時、なにか力強いものに支えられ、頭がもちあげられた。視界が反転する。
 黒髪をたらした白い相貌が見えた。輪郭のみで、目鼻の細部はうかがえない。何度かまばたきを繰り返すことで、ようやくそれが川澄舞であることを理解する。

「祐一、もういい。終わった」
 なにが。
 そう問おうとしたが、言葉が喉につかえる。咳がもれ、口内に濃い血の味が広がった。
「どう、なったんだ……舞。キイスは」
 彼女は口を開くかわりに、視線を転じた。首をひねって俺の正面方向へそれを固定する。眼球だけ動かし、その示す先を追った。
 ゆらめく人影があった。辛うじて立ってはいるが、膝に力がまったく入っていない。顔面は血だらけだった。特に右半分が大きく腫れあがっており、原型を認識できない。眼もそちら側は完全につぶれているようだった。鼻で呼吸ができないのか、口を大きく開き、肩を大きく波打たせている。
 キイス・マクノートンだった。
 伏せられていた奴の面が上がり、険しい表情がこちらをむく。視線が正面から交錯した。
「もう、いいだろう……日本人」
 息も絶え絶えに言うや、キイスは口元を押さえた。指の間から血がにじみ出すのが分かる。奴はそのままゆっくりと後退し、屋上を包囲する鉄柵に背中からもたれた。
「ここに来るまで、お前を、どう叩くか……考えていた。やり方はいくらでもあったはずだった。お前には、もう右手がない。まともに抵抗することなどできない」
 おおよそ、くぐもったその英語はそう告げたように思えた。苦しげなうめき声をはさみ、キイスが続ける。
「それは、間違いだった。今度こそ、殺せるはずだった。前の二回より簡単に済むはずだった。気が済むまで殴り……芯から屈服させる。許しを請うお前の顔を蹴り潰し、意識がなくなるまで続ける」
 その光景が目に浮かんでいるのか、キイスはかすかに唇の端を持ち上げた。が、痛みでも走ったのだろう。すぐに表情を消す。そしてまた口を開いた。
「爪の間にナイフをつきたて、眼を覚まさせる。そして、また殴る。死ぬまで……。女どもは連れ帰って、仕込んだあと商売をさせるつもりだった。パスポートを取りあげ、路上に立たせる。客をとらせる」

 血も凍るような話だった。すべてが過去形で語られているにも関わらず、全身が萎縮で硬直していくのを感じる。
「……だが、無理だと分かった。あの映像を見て、黒い腕をつけて現れた、お前を見て……理解した。お前は屈服しない。させることが、できたとしても、一時的なものに、過ぎない……腕を切り落とし、足を切り落とし、皮をはぎ、気を失うまで殴打しても。お前は失った部分をそうして――」
 青い目が、煤色の義手をとらえた。
「鋼に変えて……あらわれる。その度に破壊が困難になるだけ。終わりは、ない」
 買いかぶりのようにも思えた。腕の切断が、必要以上に大きな衝撃をキイスにもたらしたのかもしれない。KsXは左右の義手に過ぎないのだ。義足は用意されていないし、皮膚のはりかえも可能であるとは思えなかった。終わりはある。
 だが、そのことをあえて相手に伝える必要はなかった。
「だったら、殺せばいい……鋼でも補えないように。それそのものは簡単に実行できるだろう」疲れたように首が左右される。「――だが、それも意味がない。お前たちは増殖する。最初、脅威に思えたのは、お前の父親だけだった。だが、次はお前が加わった……」
 そして、とキイスが再び視線を転じる。俺を抱きかかえる舞に固定された。
「お前を殺しても、次があらわれる。手を出すたび、増殖しながら向かってくる。二人……四人、八人……」
 咳き込み、キイスは鉄柵を手すりがわりにして歩きはじめた。片足を引きずるように、ゆっくりと出口へと向かっていく。彫像のように成りゆきを静観していた大男が、しびれをきらしたように動いた。主人に駆け寄り、その肩を支える。キイスはそれを振り払わなかった。
 屋内へ続くドアを潜りかけた時、ふたりは動きを止めた。キイスが頭上を仰ぐように顔をあげ、もどす。こちらを一瞥して言った。
「いつか見つけだせるものか。お前たちを根絶やしにできるような手段は――」
 ドアが軋み、そして閉じられた。不規則な足音が遠ざかっていく。なかば呆然としながらそれを聞いていた。
 なんどか直前までの言葉を脳裏に思い返す。すべてが唐突に終わった印象だった。
「どう、なったんだ……」
「分からないの、祐一」
 舞のやさしいささやき声と共に、優しく髪をなでられた。
「たぶん、あなたの勝ちだということ」
 その言葉のもたらす衝撃が一種の覚醒作用をもたらしたのかもしれない。意識にかかっていたもやが急速に晴れ、全身に感覚がもどりはじめた。
 起き上がれそうな気がする。
 行動にしてみると、それがただの気のせいではないことが分かった。舞の庇護から脱し、自力でその場に座り込むことに成功する。世界の歪が正常にもどった。

「Hey, Y'sromancer. Congratulations on the good work!」
 駆け寄ってきた香里が、とびきりの笑顔と共に掌を差し伸べてきた。俺はそれに笑顔とタッチを返す。だが、顔面の筋肉を動かした瞬間、激痛が走った。
「Thanks, pal.」こらえつつ、なんとか言う。
「うぐぅ、祐一君だいじょうぶ?」
 痛みを感じてるのは俺のはずなのに、何故かあゆは涙ぐんでいた。妙な話である。
「ボクシング経験者にパンチ貰ったんだぜ。大丈夫なわけないだろが」
 息も絶え絶えに、俺は何とかそう返した。
「あー、なんかアゴが変だ。ガクガクする」
「まったく。男ってこうでもしなければケジメもつけられないのかしら」
 呆れたように言うと、香里はポケットから何やらコンパクトのようなものを取り出した。そしてそれを開くと、ピラピラとした薄っぺらいセロファンのようなものを二枚ほど取り出す。
「ほら、相沢君。これを奥歯で噛んでみて。左右一枚ずつ」
「ん、なんだか良く分からんが……」
 まあ、香里が無意味なことをやるとも思えないし。何らかの意味があるんだろう。怪訝に思いながらも、言われた通りに薄紙を奥歯で噛締める。そしてそれを香里に返した。

「あ、これはあからさまね」
 手元に返されたセロファンを一瞥すると、香里は即座に言った。
「下顎が少し左方向にズレてるわ。パンチを受けた時の衝撃のせいね、きっと。後で病院に行きなさい。矯正して貰えるから」
「はぅ。また病院送りかよ……」
 なんか、この島にくる度に病院に足を運んでいるような気がするが、これは果たして気のせいなのだろうか。
「あ〜悪い、みんな。ちょっと舞と話があるんだ」
 俺は地べたにへたり込んだまま言った。舞と目を合わせながら続ける。
「少しだけで良いんだ。舞と二人きりにしてくれないか……」
「分かりました。車で待ってます」
 オバさんっぽいってのは、裏を返せば結構気が利くということ。天野は物分かり良く、皆を誘導してくれる。
「仕方ないわね。じゃあ先に行ってるけど、二人きりだからってエロガッパなことしちゃ駄目よ。相沢君」
「香里くん。キミは俺を何だと思ってるんだね?」
 あんまりなことを言い捨ててスタスタと去っていく香里の背に、俺はなんとか言い返した。だけど、それが彼女の耳に届いたかは微妙な距離だ。

 彼女たちの姿が見えなくなると、改めて舞と向き合った。彼女は最初から俺にしか興味が無いらしく、じっと俺を観察していたらしい。視線を向けると、直ぐに目が合った。
「舞、ありがとう」
 何だか急に恥ずかしくなり、俺はそんなことしか言えなかった。
「私は何もしてない。戦って、勝ったのは祐一」
 なぜ礼を言われたのか理解しきれないのだろう。少し怪訝そうな顔をして、舞は言った。
「そうじゃないんだ。俺として勝てたのは、絶対に舞のおかげなんだ。お前と出会って、お前から色んなことを教えられてなかったら、この勝利はあり得なかった。……だから、ありがとう」
「祐一が何を言っているのか、私には分からない」
 彼女は困惑している様子だった。まあ、無理もないだろう。俺は一から説明することにした。
『ロマンサー』と云う特別な力を手に入れて、有頂天になっていたこと。
『ロマンサー』の力を、まるで自分が勝ち取った強さであるように錯覚していたこと。
 ある意味で人間を超える力を手にしたことに、言い知れぬ高揚感を感じてしまったこと。
 そして、その力を何も考えずに行使し、キイスに勝とうと考えていたこと。
 今考えると、それは父親が築き上げた権力の上に胡座をかき、その力を行使して粋がっていたキイスと同じ種の思考だった。俺は、キイスを蔑みながらキイスと同じ人間に成り下がるところだったのだ。手にした力の魔力に魅入られて。
「でも、ロマンサーで奴に最初の一撃を叩きこもうとした時、舞のことを思い出した。普通とは違う力と子供の頃から付き合ってきて、そのせいで迫害されて辛い目にあってきたお前のこと。舞の泣き顔が、こう、いきなり頭の中に浮かんできた」
 舞は俺の要領を得ない話を、黙って聞いてくれていた。
「ショックだった。俺は人を超えた力がもたらす不幸とか、悲しさとか、そう云うことをお前から学んでいたはずなのに。それを哀しんで泣いている舞の姿を見て、知っていたはずなのに。俺は力を手に入れたことで浮かれて、調子に乗って、自分がまるで超人にでもなったみたいに勘違いして、そのことを忘れてしまってたみたい……なんだよな」
 俺は、舞の教えを裏切るところだった。そして、それは俺が最も恥ずべきと認識している行為だ。彼女との絆に泥を塗るに等しい、最低の姿勢だ。もう、彼女を好きだとか大切だとか言えなくなるところだった。

「ごめん。ホント、ごめんな。舞」
 俺は座ったまま頭を下げた。
「祐一は、少しの間、見失ってただけ」舞は言ってくれた。
「忘れていたわけじゃない。見失っていて、でも思い出した。だからそれで良い」
「――舞」
 俺は彼女の手を取って、その限りなく黒に近い深緑の瞳を覗き込んだ。
「俺はお前がいなかったら、きっと力に魅入られて帰ってこられなかっただろう。あのままロマンサーを使って、奴を倒して、それで第二の奴に成り代わっていたんじゃないかと思う。そうならずに済んだのは、間違いなく舞のおかげなんだ。だから、感謝してる。心からありがとう、舞」
 俺のその言葉に、舞はようやく微笑んでくれた。そして、俺の頭を軽く撫でる。
「祐一は、よくやった。私は、信じていたから」
「力に呑まれるってのは、ああいうことだったんだな。俺は絶対そんな風にはならないって思ってたのに、危うくその実例になってしまうところだった。……本当に怖いのは、呑まれているとき自分でその自覚がないことなのかもな」
 不意に、四年前の親父の言葉が脳裏に甦った。あいつが腕を切断することになる少し前、ハンドバッグ泥棒を追ってキイスの部下たちと一戦交えた時のことだ。

「数が揃えば有利になるのは当然。でも、お前ら自身が強くなったわけじゃないんだぜ? そこのところを、キッチリ理解して欲しいもんだよな。拳銃持って、ナイフ持って、挙句数を集めて、それで強くなったつもりか? そりゃ、勘違いだぜ。ボウズ」
 力に飲まれたらお終い。武器を持っていると、それを使いたくなるのが人情。拳銃を持ったら、強くなったように錯覚してしまうのが人の性とも言える。――だけど、本当に強いというのは、力に飲み込まれないこと。使い方を誤らないことだと。親父はそんな主旨のことを言っていたような気がする。
 ナイフ持っていても、ピストル持っていても、敢えてそれを戦闘に用いない勇気。だが、使わなければならない時は躊躇せずに使い、そして他人を傷付ける覚悟を持つこと。そして自分がつけた相手の傷は、キッチリ背負うということ。武器を使って良い条件は、武器を持った自分を意志の力でコントロールできるという自分に対する保証だ。

 そうだ。親父の言葉にも、ヒントはあったんだ。あいつは、俺が今日にしてようやく辿り着いた場所に既に到達していて、今はずっとその上にいる。認めるのは癪だけど、やっぱり奴は凄い男だ。とても適わない。でも、いつか……いつか、俺もあの高みに。本物のY'sromancerと肩を並べられる存在になりたい。
 目の前に目指すべき高みがあるのは、心が弾むものだ。その背を押してくれる、舞のような人も俺は持っている。最高の気分だった。
「俺の右腕は、何かを掴んだのかもしれない」
 ロマンサーと云う名の黒い拳を握り固める。切り放たれ、見えない何かを掴みに行った俺のあの右腕が、今なにかを掴んだ手応えを伝えてくる。そして今日、俺は本当の意味で川澄舞という人間を理解したのかもしれない。
 これまでの俺には無理だったかもしれないけど、今からの俺なら、彼女の異能者としての部分を含めて抱きとめることが出来るような気がする。一緒にやっていける。
「舞、俺さ」
 その処女雪のように白く汚れない肌に、果たして義手という無骨な存在で触れて良いものか。俺は少し躊躇した後、結局彼女の頬に右手で触れた。
「今なら言えるよ。お前のこと、本当に好きだ。敬愛してる。心から必要としてる」
 その告白に、舞は少し驚いたようだった。でも、いつもの様に頬を染めることはない。

「だから、いつも俺の傍にいて、また俺を助けてくれないか。俺も独りじゃそんなに強いわけじゃないし。また今日みたいに道を外しかけることがあるかも知れない。そんな時、過ちを犯していると思ったら、俺を止めてほしい。正しい方向に、導いて欲しい。
 俺は馬鹿だから、一度何かを決めてしまったら、もう後は何も考えずにそれに向かって突っ走るような生き方しか出来ないと思うんだ。周りの都合なんか考えずに、自分勝手にさ。だから時々、自分が本当に正しいのか不安になることがある。このまま進むと、取り返しのつかない過ちを犯してしまうんじゃないかって。でも、動き出さなきゃ何も変えられないから、行くしかない。……だから、もし俺の行いが間違っていると思ったら、その時は俺を迷いなく止めてくれ。諌めてやってくれ。叱ってやってくれ。舞ならそれが出来ると思うから。舞になら、それを任せられると思うから」
 そういう意味で、彼女は俺なんかよりずっと強い人だ。そしてそんな彼女が傍にいてくれることこそが、Y'sromancerを支える強さの一つだと思う。相沢芳樹に相沢夏夜子がいるように。
「ずっと傍で見張っててくれ。このままずっと今のままで俺の――」
 その言葉を皆まで言わせず、舞は小さく首を左右した。
「祐一、それは言うまでもない」
 そして、こちらを見詰めたまま俺の肩に手を置くと、柔らかく微笑みながら囁いた。
「――この世界の空のどこからでも、月は見える。それは当たり前のことかも知れないけれど、私はこの国に来てそのことを確認できたことが嬉しかった。月はいつもそこにある。それと同じこと。
 祐一、私を探して。必要な時はいつでも。私を探して。私はいつもそこにある。当たり前だけれど、嬉しいこと。月と同じ。どこにも行かない。何もよりも確かな約束」

「舞……」
「祐一のことは好きだから」
 舞はゆっくりと噛締めるように続ける。かつて、決して口にしようとしなかったその言葉も、今は躊躇わずに。彼女は俺を真っ直ぐに見詰めて、言ってくれた。
「いつまでもずっと好きだから。春の日も、夏の日も、秋の日も、冬の日も。ずっと私の思い出が、佐祐理や祐一と共にありますように」
 胸が詰まった。嬉しかった。目頭が熱くなるほどに、俺はその言葉が嬉しかった。かつての俺ならここまで想えたかどうかは分からない。でも、今の俺にその言葉はとても重く響いた。
「――ありがとう、本当に」
 だから彼女を抱き締めて、自らの意思で行う初めての口付けを、彼女に捧げた。
 血の味が伴う彼女にとって初めてのそれが、拒まれることなく静かに受け入れられたことを俺はまた喜んだ。




■初出(神鳴の章)

25話「夢、夢を見ている…」2002年12月17日

本作は上記の初出作品を加筆修正の上、著者が編集したものです。