荒い呼吸が、まるで他人のもののように喧しく聞こえる。 痛みはもうなかった。痛みの感覚を通り越して、既に痺れにも似た無感覚の域に到達しているのだ。おかげで身体に力が入らない。膝が痙攣し、姿勢を制御して立っているのも難儀だった。 夏だというのに、酷く寒かった。顔も背中も脂汗と血に塗れていたが、そのくせ全身が凍えて小刻みに震えている。目が霞んで、良く見えない。自分の身体が認識できない。意識が身体から抜け出し、宙をさ迷っているかのようだ。 だけど、進まなきゃならない。まだ倒れられない。 傍らに横たわる少女を肩に担ぎ上げ、ふらつく足で出口へと向かう。扉には鍵がかかっていた。内側からでも開けられるが、利き手は10メートルも離れた場所に置いてきたし、左手は不器用な上に痙攣するように震えていて上手く使えない。 苦労して鍵を開けて外に出たとき、既に体力は限界を超えていた。 油断すると、即座に意識を失ってしまうことは分かっていた。時々、壊れたTVを見ているように視界がグニャリと歪み、ブラックアウトしかける。気を緩めた瞬間、張り詰めていた何かが切れて全ては闇に閉ざされるだろう。 だりぃ……クラクラする。それに、眠たいし、寒い…… 血が足りねえ……。ぶっ倒れそうだよ。なんとかしてくれ。ウチ帰って、眠りてぇよ。 喉がカラカラに乾いていた。目蓋が重い。頭蓋骨の中で鐘の音を思わせる重たい音が反響して、ズキズキと痛む。身体の内側が腐って、今にも崩れ落ちてしまいそうな錯覚が幾度も全身を襲った。血と共に意識と生命力が、外に流れ落ちてしまったかのようだ。 少女を抱えあげていられたのは、ものの数秒だった。今では彼女の脇の下に手を通して、抱きかかえるように態勢を変えている。完全に持ち上げるだけの力はない。半ば引きずっているようなものだった。 後向きに歩いているから、進みにくい。もうすぐ、今出てきた倉庫はこの地上から吹き飛ぶ。だからなるべく遠く離れなくてはならないのに、進めど進めど倉庫は遠ざからない。歩いた分だけ追いかけてきているようにさえ思えてくる。 そんな中で、挫けずにいられたのは――倒れずに進み続けることができたのは、抱きかかえて引きずる少女が温かかったからかもしれない。 溢れ出る血が体温を奪い、氷点下の屋外に裸で放り出されでもしたかのように、身体は芯から凍えている。寒くて仕方が無い。だから、彼女から伝わってくる体温が何かの救いのように感じられた。今まで実感したことの無い、人間の温かさを知った。 ここで倒れてしまえば、もう二度とこの温かさに触れることができなくなる。それは嫌だった。 感覚の麻痺と共に、死に対する恐怖も鈍っている。正直、もう死ぬのは怖くない。だが、死ねないと思った。死にたくないのではなく、死ねない。あるのは死への恐怖ではなく、死がもたらす理不尽に対する怒り。 死んだら、もう会えなくなる。もう、彼女たちの顔を見られないし、声も聞けない。触れて、温かさを実感できなくなる。 それに、もし自分が死んだら、彼女たちはどうなるだろう。 最初に脳裏に思い浮かんだのは、最も弱い二人。倉田佐祐理と美坂香里の相貌だった。普段は最も利発で強そうに見える彼女たちであるが、精神は驚くほど弱い。彼女たちには綻びがある。何かが壊れはじめ、それが切っ掛けとなると、一気に崩壊へと向かうだろう。そして、自分の死は、彼女たちを壊してしまう切っ掛けに容易になり得る。 佐祐理には舞がいる。香里には栞がいる。でも、駄目だ。たとえ生きていけたとしても、彼女たちはもう笑えない。心の大半を失ったまま、人形のような虚ろな何かとしてただ生きるだけの存在になってしまうだろう。 笑えなくなると言うなら、名雪だってそうだ。彼女には、優しい母親がいる。秋子さんがいてくれる。でも、もし今ここで自分の存在が失われてしまったら―― 彼女の気持ちは知ってる。気が付いてた。8年前から、ずっと自分を想い続けてくれていたこと。なにがあっても、ずっと自分を好いていてくれたこと。 でも、ここで死んでしまえばその気持ちに応えることすらできない。今度は8年じゃない。永遠に、だ。だとすれば、彼女の想いはどこに行けば良いんだろう? 彼女になんと詫びれば良いんだろう。その気持ちは、行き場を失って宙にさ迷い続けることになる。そんなの、許されるわけが無い。 まだやらなくちゃならないことがある。やり残したことがある。言わなくちゃならない言葉がある。応えなくちゃならない気持ちがある。証明してやらなくちゃならない強さがある。 天野――彼女もそうだ。約束した。真琴を失っても、強くあると。その死と共に生きると。 まだ、答えはでてない。彼女を心から納得させられたわけじゃない。何も終わってない。 返し終わってない借りがある。死ぬことが許されない理由がある。なにより、ここで死んだら自分の負けだ。この死に方は敗北だ。それは、多くの人に絶望をもたらす。俺は死んでも俺を許せなくなる。だから、死ねない。 今夜、俺は死ねない。 何かに背中押されるように、歩き続けた。一歩でも遠く、一歩でも先に行くよう心掛けた。 身体が意思の制御から離れるのは仕方が無い。だけど、意思だけは先に。気持ちだけは前に。倒れるとしても、前のめりだと誓いながら歩く。 その心の中に、ひとつの確信があった。 ――ずっと、自分のことを卑怯者だと思っていた。自分が嫌いだった。何かから逃げるたび、言い訳を色々考えて、それで自分を納得させるのに必死だった。でも本当はそんな自分のカッコ悪さに気付いていて、それでもそれを変えられない自分を蔑んできた。自分が嫌でしょうがなかった。 でも、今、ここで歩き続ければ、それが少しだけ変わるような気がする。ちょっとだけ、自分を好きになれるような気がする。自分は自分だって、僅かでも自信を持てるようになれるかもしれないって……こんな俺だけど、そう思えるから。だから。 生まれてはじめて、このまま最後まで辿ってみたいと思える道を見つけた。 だから、自分が持っている全てに願う。どうか、俺よ。もう逃げないでくれと。俺を最後まで行かせてくれと。この向こう側を見せてくれと。 そして、彼は彼に応え、その通りに歩いた。 忍び寄る死の影に、死ねねえ。死ねねえ。――睨みきかせて。
GMT Tur,25 July 2000 4:11 A.M.
Hospital corridor The Royal Lindar emergency medical center 7月25日月曜日午前4時11分 リンダール救急医療センター 院内 相沢さんが極めて危険な状態にあることは、『葛葉』の力を借りなくても容易に知れた。 常識的に考えて、外科的な処置を施さない状態で片腕を切断すれば、ショックと出血で人間は死ぬ。迅速に救急病院に搬送され、手術と輸血を受けたとしても果たして助かるかどうか――。 聞いた話によると、M5A1プラスティック爆弾は20時丁度に予定通り爆発したという。規模は相当なもので、500メートル離れたところからも、爆砕された木箱の破片が発見されたとの話だ。倉庫は全壊、見事に消し飛んでしまったらしい。 相沢さんと月宮先輩はその12分後、倉田先輩のボディガードたちによって保護された。999で出動したレスキュー隊が現場に到着したのはその4分後であったと言うから、外科の専門知識を有する元特殊部隊の護衛たちを現場に急行させた相沢芳樹氏の判断は当たりだったといえる。 この話を聞いた時、葛葉は少し驚いたようだった。――と言うのは、相沢さんが月宮先輩を倉庫から引っ張り出すことに成功していたからだ。私はあまり見ないけれど、西洋の映画では屈強な男が意識を失った人間を担いでアクションをこなすシーンが度々見られるという。だけど、それは現実的にあり得ない。 意識を失った人間というのは、極めて重い荷物だ。意識がある時は、たとえ泥酔している時でも眠っている時でも、人間は無意識に体のバランスを調節して自分の体重を均等に分散させるよう試みる。だが、意識を失ってしまうとそれさえ侭ならず、頭部、胴体、腕、足などがバラバラに自分の重さを主張しはじめ、力学的に非常に不安定な状態になるのだ。 こうなった時の人間は果てしなく重く、持ち上げにくい。プロのレスキュー隊でも、40キログラム程度の子供の場合、脇の下から腕を通し、背後から抱き上げるようにして引きずって運ぶように訓練される。これが体重60〜70キログラムの成人男性となると、レスキュー隊員が6人組みになって運ぶのが基本だ。専門の訓練を毎日続けているプロは語る。「気を失った成人男性をひとりで運び出すのは不可能である」 意識を失った人間を持ち上げ、そして運ぶというのは、素人が考えるより遥かに困難な作業なのだと葛葉は語った。それを、相沢さんは右手を失った状態でやったことになる。しかも腕を切断したショック状態と大量出血による朦朧とした意識の中で、だ。 言うまでもなく、これは普通の仕事ではない。日本には『火事場の馬鹿力』という表現があるが、彼に働いた力は、恐らくそれに近しいものであったに違いない。主婦がタンスを持ち上げただとか、子供を助けるために一般人が陸上選手よりも速く走っただとかいう実例があるというが、今回の相沢さんの働きもそのひとつに加わるということだ。 それが葛葉の分析。どうやら彼女も、この件で相沢祐一という人間に少しだけ興味を抱いたようだった。 だけどその彼は、担ぎ込まれた救急病院で緊急手術を受け、今は集中治療室で深い眠りに就いている。 クリームホワイトの壁にかけられた素っ気無いデザインの時計に目をやれば、時刻は4時半。日付はとうに変わり、真夜中を通り越して明け方に近い。それでも私を含めたAMSの全員と相沢夫妻、それにThuringwethil(スリングウェシル)のスタッフたちは、手術を終えたドクターから相沢さんの容態についての説明を熱心に受けていた。あの水瀬先輩でさえ、不眠不休で相沢さんが目覚めるのを待っている。相沢さんの負った怪我が、命に関わる極めて危険なものだということを理解しているからだ。 「一応、手術自体は成功しました」 ドクターが開口一番放ったイングリッシュは、葛葉の翻訳の手を借りずとも理解できた。 その言葉が伝わると、全員があからさまに安堵の表情を浮かべた。中には、水瀬先輩や美坂――栞さんのように涙を堪えきれず、嗚咽しながら聞いている人もいた。 「しかし……一体、彼は何をやらかしたんです?」 眉を顰め、怪訝な表情をしてドクターは私たちを見回した。 「私も長年、緊急医療の現場を見てきましたが、あれだけ変わった切断面は滅多にお目に掛かれません」 額が大きく後退した、くすんだ金髪の中年男性だ。やや肥満気味で、背が高い。その後にはインターンか非常勤か、痩せた若い男性の医師が控えていた。両者とも見かけによらず随分とタフな男であるらしく、緊急手術を終えた後だというのに、その表情には疲労の色は全く浮かんでいなかった。 「滅茶苦茶な切断面と、その付近に無数についた鋭い刃物での小さな刺し傷。しかもあれ、もしかして意識がある状態でやったんじゃないんですか?」 「分かるんですか?」 録音して発音練習の教材にしたくなるほど綺麗なイングリッシュで、夏夜子さんは言った。 「切断によるショック状態と出血の仕方なんかで、彼が腕を切断したとき意識があったのではないかということは考えられます。――で、彼は何をやったんです?」 「ナイフで切り落としたんだ」 そう言って、相沢氏は自分の右手を架空のナイフでメッタ刺しにするアクションをとった。 「それで……」 医師は納得したような、驚愕したような、複雑な表情を浮かべた。 「よくもまあ、そんなことをやらかして生きていられたもんだ」 「それで、彼は? 相沢君は助かるんですか!?」 噛みつくような勢いで、美坂先輩はドクターに詰め寄った。そこには、いつも冷静沈着とした彼女の姿はない。先輩もあの光景に少なからず衝撃を受けたということだろう。勿論、それは私も同じだ。 「正直言って、微妙なところです」 ドクターは軽く顎を引くように俯くと、眉間にしわを寄せて言った。 「右手は元に戻りますか?」これは秋子さんの質問だ。 「いえ、それは無理です。そもそも、切断された手首から先のパーツは回収されてないようですから。第一、筋肉や神経を無理矢理ブチ切りにして、骨も捻り切ってます。多分、彼、右利きだったのでは? 不器用な左手でナイフを振ったせいか、狙いが外れて腕の上の方にまで刺し傷が幾つかありますし、あれじゃ力が入らずに相当の時間をかけて切断することになったはずです。身体に相当負担が掛かってますし、ショックが極めて酷い。出血も相当酷くて――」 ドクターは一瞬だけ躊躇するような素振りを見せたが、結局口を開いた。 「正直言いますと、どうしてあれで生きていられたか不思議なくらいです。普通だったら、ここに辿りつく前に死んでます。いや、腕を切ってる途中で意識を失って、出血死かショック死ってところでしょう。今生きてるだけでも奇跡です。もし彼が無事に退院できるようになったら、ここまで運んできた救急救命士に感謝するんですね。彼らの応急処置の手際が見事だったから何とか助かったようなものです」 「マグちゃん――もう一人の女の子の方は?」 相沢氏が固い声で訊いた。 「彼女は単なる失神ですね。軽い脱水症状と疲労は見えますが、何ら問題ないでしょう。一応、栄養剤を打たせてます。しばらくすれば、勝手に目を醒ますはずです。何故か軽度の火傷が身体の何箇所かにありましたが、あれもきちんと処理すれば後は残らないでしょう」 「そうか」 相沢氏は医者の報告に、満足そうに頷いた。 「あの少年に関しては、カウンセラーに相談することをお勧めします。なんなら、友人のセラピストを紹介しても良いですよ」 一瞬、彼の言葉の意味を私は理解できなかった。 「医師として、あの若さでドラッグに依存している患者を見過ごすわけにはいきません」 「――ちょっと待ってください。祐一さんは、麻薬なんて使ってませんよ」 ドクターの言葉を姉に翻訳してもらった栞さんは、日本語で言った。 「そうです。あの子はドラッグによる心神喪失や幻覚で腕を切ったわけじゃないんです」 そう言って夏夜子さんも息子を弁護した。 意味が分からない、という調子でドクターが目を見開く。その後の助手らしき男も驚愕の表情を浮かべている。気持ちは分かるような気がした。 「ナイフで自分の腕をメッタ刺しするのは、重度の中毒患者ですよ。それ以外あり得ません。麻薬の力でも借りないと、ああいうイカれたやり方で自分の腕を切り落とすのは不可能ですよ」 例外があるとすれば、重度の自傷癖をもった人間くらいだろう。医師はそうつけ加えた。性同一性障害の人間が生まれながらに自分の性別に対して違和感を持つように、知覚の異常から自分の身体の一部にどうしても違和感を抱いてしまう――という種類の病気がある。片腕を「自分には不要で邪魔なだけの余計な器官」としか思えず、自ら切断してしまうようなケースが無いではない。 「いずれにしても、精神や脳の働きに重篤な障害が発生している場合ですよ。自殺のとき手首を切るだけでも、想像を絶する痛みで何度も失敗する人間がいるくらいです。ご存知でしょう?」 そう言えば、私もまだ幼い頃は料理を失敗して何度も包丁で指や手を斬ったものだ。あれは痛かった。手首を切断するとなると、襲ってくる苦痛と危険性はその比ではないだろう。 「第一、普通の人間は自分の手なんか切断しない」 「だから、あいつは普通じゃないんだろ?」 相沢氏は笑った。 「spookyなのさ」 「面会と言いますか、彼と会うことは出来ますか?」私はドクターに訊いた。 「彼は集中治療室で絶対安静の状態です。麻酔も切れてませんから、まだ面会という段階ではないですね。ガラス越しでよければ彼の姿は見られますよ。消毒をして専用の装備を纏えば、数分なら中に入ることも許可できます」 「皆さんにお願いがあります」 状況を整理すると、私は全員に向かって言った。行動に移るなら、早い方が良い。相沢さんが事切れてしまう前に、然るべき処置を施しておく必要があった。 「今から30分ほど、私と相沢さんを二人きりにして下さい」 「ふたりきりに?」 倉田先輩が怪訝そうに眉を顰める。意外に思われるかもしれないが、私と彼女の眉は形が似ていたりする。――が、勿論のこと、そのことは本件に何ら関係無い。 「何を企んでいるの、天野さん」 「企んでいるとは酷な物言いですね、美坂先輩。別に邪なことは考えていません。ただ、少し様子を見たいだけです。そのついでに、彼の回復を祈願して少し『おまじない』をかけようかと。そのためには一人で集中していた方が都合が良いのです」 「おまじない?」 壁際に並んでいるベンチから、栞さんが不思議そうな顔で私を見上げた。その目尻には、まだ乾き切らぬ涙の跡が残っている。 「はい。随分前に雑誌で見かけた、怪我などのアクシデントに効くらしい御呪いです」 きっと美坂栞という少女は、長い闘病生活の中で多くの戦友たちの死を見送ってきたことだろう。彼女の患っていた一種の小児癌は、そういった現実をあまねく患者に見せつける。彼女にとって、死は決して非日常的な観念ではない。極めて身近でリアルな出来事なのだ。そう、葛葉は言っていた。 「私も……手伝えるかもしれない」 私の言う御呪いの秘めた意味に気付いたらしき川澄先輩が、静かに歩み寄ってきた。 そう言えば、倉田先輩の別荘で私が『葛葉』の血を引くことを告白した時、彼女からも身の上話を聞かされた。それによると、川澄舞に不可思議な能力が宿ったのは、重病の母親の回復を祈願したことが切っ掛けだったと言う。それで実際に母親は快方に向かったというから、彼女には癒しの能力も備わっているということになる。超心理学でいうサイコ・ヒーリングの一種だろう。 「いえ、今回は私に任せてください。それで効き目が無ければ、先輩にお任せしますから」 川澄先輩はじっと私の目を覗きこんだまま、しばらく思考した。 「……分かった」 私は小さく頷いて返すと、改めて全員に向かって言った。 「それでは、皆さんにご理解いただいたところで、さっそく今から30分ほどお時間をいただきたいと思います。それぞれ相沢さんが心配なのは分かりますが、どうかこの半時間だけはそれを抑えて私に彼を譲って下さい」 それだけ言い残すと、私は誰かが意見を変えてしまう前に、踵を返してICU(集中治療室)に向かった。 廊下の壁や天井から吊り下げられた案内板は、もちろん英語によるものだったが、私には理解できた。最寄の階段を二階分昇り、角をふたつ折れる。時間が時間なので、搬送されてくる別の患者もおらず、集中治療室の周囲は静まり返っていた。節電対策のこともあるだろうか、廊下も照明が落とされていて薄暗い。廊下に反響する自分の硬い足音を聞きながら、私は集中治療室のロゴが刻まれた部屋のガラスを覗き込んだ。 ――4歩右。彼の気配がある。 葛葉の指示に従って、右手に4歩進む。最初は良く分からなかったが、そこには確かに相沢さんの姿があった。簡易無菌室のような半透明のカプセル・ベッドの中に、上半身裸のままで横たわっている。髪の毛はボサボサに乱れていて、頬は気のせいか随分とこけてしまっているように見えた。肌は死人のそれのように青白く、唇も薄い紫色に変色してしまっていた。 右手は……右手に目をやると、手首から先の部分が不自然に欠落しているのが分かった。それはもう、二度とは元に戻ることは無い。彼が貫いた意志の代償だ。 ――非常に弱っている。すぐにどうこうということはないが、長くはありません。 「相沢さん」 無意識のうちに、私はその名を唱えていた。 彼はどうして私の前に現れたのだろう。何故に、同じ妖狐のサガに巻き込まれたのだろう。 不意に、真琴のことを思い出した。そして葛葉の母と義弟のことを。 同じ妖狐を想い、同じ涙を流した。私の願い通り、彼は強くあってくれた。そうあろうとしてくれた。異性としてどうなのかは分からないが、そんな彼に私が惹かれるものを感じていることは否めない。 私は彼から多くのものを学び、感じ取った。そして、少しずつ変わってきた。以前までの私ならば、同級生は勿論のこと、学年の違う人間と他愛も無い談笑をするなどと考えられもしなかっただろう。だけど私の周囲には、栞さんがいて、美坂先輩や水瀬先輩がいて、更にその上の倉田、川澄両先輩がいる。そして私は彼女たちと良く行動を共にし、挙句、海を越えてこんなところまで避暑にやってきているのだ。 相沢祐一は、確実に私たちを変えた。だが、その彼は言った。私たちの存在が彼に力を与え、そして彼自身を大きく変貌させたと。 今の私たちは、相沢祐一という巨大な柱を中核として互いに関係し合い、そして影響し合い、変化し合っている。その変化はそれぞれの血肉となり、今の私たちを構成しているということらしい。 それは不可分の強固な絆となって、私たちの最も深い部分に横たわっている。 だからこそ、今、相沢祐一を失うわけにはいかない。失いたくない。私のために。皆のために。彼自身の誇りのために。その命を、守らなければならない。 ――葛葉。参ります。 たとえ略式とは言っても、神事に際して私たちは精神を極度に集中しなければならない。心を研ぎ澄まし、無心によって実修されることにより私たちは自然からその力を借りている。天之葛葉神道において、神とは自然であり、森羅万象であり、人の精神である。これらの存在に感謝し、畏れ、敬い、その力を借りる。 そうして祈願した時のみ、摂理は天壌無窮の理の守護者である葛葉の血に応えてくれるのだ。 試みるは天之葛葉神道密伝唯密相承四位、二分位、光気相承、即ち『布瑠の言』。 まずは二礼二拍。心静かに、一心に願い奉る。奏上するは禊祓詞、ヒフミの神歌、並びに布瑠の言。一句一句に心を込め、唱える。 二拍、二礼。 澄んだ静謐の中に、手を打つ乾いた音が響き渡る。 浄化され、清められた空気。かつて古代人はその雰囲気を感じ取り、それを『神々しい』と表した。そして、彼らはその荘厳なる空気の中に神の存在を見出していた。 神は天地にあり、万物に宿り、人の心に溶け込んでいると考えた。 千年を生きる杉の巨木に偉大さを感じた時、それを神杉と。儀式用の通路とされた坂を、神の御坂と。人に宿った魂を分霊と彼らは呼び、畏れ、敬った。 彼らの言う神とは、キリスト教徒が唱える根本から神とは違う。それは摂理そのものだ。この世を支配する、人の手の届かないルール。一個の命として見た、この星そのもの。天壌無窮――すなわち、永遠に変わることなき絶対普遍の摂理。偉大なる命の源。それら全てを、彼らは神と呼んだ。 神とは自然。神とは地球。神とは摂理。神とは魂。 何も特別なことではない。人類が地球の支配者であるという驕りを捨て、この星の一部であることを認識さえすれば、それは極当然のことであり、自然な考え方だと気付く。 葛葉の解く神道とは、宗教ではなく自然への賛歌に他ならない。 彼らは科学の方程式を知らぬ代わり、自然と対話する術を知っていた――。 夢。夢を見ている。 撥ね付けられる、少女の白く小さな手。 無残に崩れ落ちる雪うさぎ。 零れ落ちる涙と、掠れるような嗚咽。そして、離別。 俺はあの時、俺じゃなかった。受け入れがたい現実に押し潰されて、自分の中の深い場所に心を沈めて――空っぽになっていた。何も見えていなかったし、どんな声も、音も耳には入ってこなかった。ただどうしようもない絶望感が押し寄せてきて、それが俺の世界を覆い尽くしていた。 だから、彼女を傷付けてしまった。 勿論、彼女に罪なんか無い。彼女は精一杯俺を慰めようとしてくれた。勇気を振り絞って、自分の気持ちを打ち明けてくれた。俺を元気にしようと努めてくれた。でも、俺はそれを振り払った。それが何を意味するか考えも、知りもしないままに。 俺は名雪に謝らなければならない。 名雪、傷付いたろうな。悲しかったろう。あの後、あいつはどうしただろうか。俺がいなくなって。 誰も知らないところで、独りで泣いたかもしれない。あいつはそういう奴だ。多分、秋子さんの前では涙を見せなかっただろう。でも、聡明な秋子さんは名雪が涙を流したことをちゃんと知っていて――きっと、黙ってそれを見守っていたんじゃないだろうか。 酷いよな。俺。本当に最低だ。 結局、俺はあいつから送られてきた手紙に返事を返したこともなかった。それはきっと、俺からの明確な『拒絶』の意思として、あいつの目には映ったことだろう。話し掛けても顔を背けられ、遠い街に旅立たれて、挙句送った手紙には返事のひとつも返らない。 小学生の名雪にとってあまりに遠いところに俺はいたが、精神的な意味合いにおいて、俺たちは地理的な距離よりも遥かに遠く別たれていたに違いない。それもこれも、全ては俺の一方的な逃避によるものだった。 ……やっぱり、逃げるのは良くない。誰のためにもならないばかりか、自分だけの問題にとどまらず周囲の人間にまで悪影響が及ぶ。傷付けてしまう。 自分に言い分けつけたり、何かから意図的に目を背けたり、見て見ぬふりをしてみたり、考えないようにしてみたり。たとえ直接的な逃避じゃなくても、それは立派な逃げだ。前に進むことを拒んだ時点で、それはもう駄目なんだろうな。 そりゃ、コケたり、歩けなくなったり、時には来た道を逆行するのも仕方が無いし、必要なことなのかもしれない。でも何とか出来ることを見つけて、何とか自分を好きになれるような道を選んでいきたいと思う。 誰だって、こんな自分にはなりたくないって思い浮かべる姿があるはずだ。こんな人間になれたらなって、理想とする姿があるはずだ。それがあるなら、同時に自分がやらなきゃならないことも見えてくるはず。結局、全ての迷いと欺瞞と諦めを排除して、腹括っちまえば問題はいつだって簡単なもんなんだ。それを複雑にしてるのは、要するに俺たち自身の甘えってことなんだろう。 だから、俺は常に自分自身に問いかけながら生きていこう。 誰かに『この世で一番嫌いなタイプの人間は?』と問われて、ふと「自分自身のようなヤツかな」なんて答えちまったりはしてないか? その答えを出す時、何かを諦めたような顔でヘラヘラ笑っちゃいないか? 本当は気付いているはずなのに、言い訳つけて、自分を誤魔化して、気付かないフリしてることがありはしないか? 環境が悪いだとか、システムが悪いだとか、社会が悪いだとかいう言葉で、自分の弱さと甘えの全てを他人のせいにしちゃいないか? 誰かになすりつけちゃいないか? 一瞬の痛みや労苦や恐怖から自分を守る度に、自分の中の大切な何かを少しずつ失っちゃいないか? ――そんな諸々の問いに、俺は胸を張って、大声で言えるようになりたい。自信を持って、堂々と。 「俺の生き方見てりゃ、分かるだろ?」 ひふみよいむなやここのたり ふるへゆらゆらとふるへ ひふみよ いむなや こともちろらね しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか うおゑに さりへて のます あせえほれけ 布瑠部由良由良止布瑠部而布瑠部由良由良止布瑠部而布瑠部由良由良止布瑠部 瀛都鏡、邊都鏡、八握剣、生玉、足玉、死反玉、道反玉、 蛇比禮、蜂比禮、品物比禮、布瑠部由良由良止布瑠部…… なんだろう。あたたかくて、心地好い。それに、懐かしいような気もする。 ゆらゆらと水中をさ迷っているような、不思議な浮遊感がある。浮かぶのでも沈むのでもなく、緩やかな波の流れに身を任せて、俺は静かにそこに佇む。とても気分が良い。 魚になって澄んだサンゴ礁の海を漂っているような、大きな白い雲になって穏やかな蒼穹に浮かんでいるような、そよそよと優しい風にそよぐ草原に寝転んでいるような、なんとも快い感覚。 ――そう言えば、赤ん坊が母親の胎内にいる時って、こんな感じなのかもしれない。静かで、あったかくて、絶対的な安心感に包まれて。自分の全てを素直に委ねられる。 それに、良い匂いがする。記憶にある香りだった。清涼感があって、微かに甘くて、とても優しい香り。 唐突に、俺はそれが何であるかに気付いた。 ミッシーだ。これは、ムゥイッスィーの匂い。美汐臭(ミッシー・スメル)だ。 彼女が傍にいるんだろうか。それとも、俺は今、彼女に抱かれているんだろうか――
GMT Tur,25 July 2000 13:29 P.M.
Surgical ward 7月25日火曜日午後1時29分 同院 外科病棟 「ん……」 不快感ともまた違う、奇妙な居心地の悪さを感じて俺はふと目を覚ました。 ゆっくりと目を開く。随分と長い間眠っていたのか、目蓋が少し重い。いつもより視界がぼやけていて、視界がクリアになるまで時間を要しそうだ。 「あっ、祐一! 祐一が起きたよ」 名雪の声が至近距離から聞こえてきた。あの究極の低血圧が俺より先に起きてるなんて、今日は遅刻かもしれないな。 ……遅刻? 「やべえっ!」 俺は一気に覚醒すると、タオルケットを蹴飛ばしながら跳ね起きた。同時に「キャッ」という女の子の声が複数聞こえてくる。怪訝に思って周囲を見回すと、名雪に舞にミッスィー、あゆ、美坂姉妹に加えて佐祐理さん、それから母さんに秋子さんまでが、俺を取り囲むようにズラリと集結していた。 「なんだ……、なんだ?」 状況が把握できない。なんで俺の部屋に皆が集まってるんだ? しかも全員が、棺桶を蹴破って起き上がった死人を見るような目で俺を見詰めている。さっきまで感じていた居心地の悪さは、眠っているところを大人数の視線で凝視されたことによるものだろう。 「おいおい、何なんだよ。何事だ?」 「祐一くんっ!」 事態の把握に勤しむ俺だったが、あゆがいきなり身体ごと突っ込んできた。ベッドの上で上体だけを起こした態勢であるため、いつものようにそれを回避することはできない。結果的に、俺はそのタックルをまともに食らうことになった。 「ぐっはー」 なんだかんだ言っても、ここのところコイツも身体的に成長してきている。それでもまだ小柄の類に含まれるのだが、渾身のタックルは流石に効くわけで。 「おい、うぐぅ。だから、いきなり突っ込んでくるのはやめろっていっつも言って……」 両手であゆの小さな身体を押し退けようとして、俺は唐突に全てを理解した。 右手の手首から先が――あるべきそれが、失われていることに気付いたからだ。 居心地の悪い沈黙が降りる。 「……あ」 よく辺りを見まわせば、確かにここは水瀬家で与えられた俺の私室じゃない。白い壁に囲まれた、病院の狭い個室らしきところだ。当然のこと、枕元に名雪の声が入った目覚し時計もありはしない。それ以前に、ここは日本ですらなかった。 ――そうか。そうだったな。 暫しの混乱を経て、俺は何とか声を絞り出した。 「えーと。取り敢えず、だ。今、いつ?」 「Happy birthday、祐一。今日は、あなたの18回目の誕生日よ」 一番出入り口のドアに近い場所に立つ母さんが、いつもの微笑と共に言った。 俺の誕生日、か。じゃあ、7月の25日ってことだよな。満18歳。もう酒も飲める歳だ。成人指定の映画だって堂々と見に行ける。 「祐一さんは半日以上の間、ずっと眠り続けていたんですよ」 補足するように、母さんの隣にいる秋子さんが言った。 「半日――ですか」 「祐一っ!」 突然、あゆとは反対側、俺から見てベッドの左方向から名雪が飛びついてきた。 「ゆういち、ゆういち……」 彼女は俺の首に齧りつくようにガッチリと腕を回し、うぐうぐと泣いているあゆと声を合わせて嗚咽しはじめた。よほど心配してくれていたようだ。名雪が泣いてるとこ、久しぶりに見たような気がする。 「そっか……」 あゆがここにいて、右手が無くなってる。守ったものと、失ったもの。そして培ったもの。 あれは、夢じゃなかったってことだよな。俺はそれをやって、ここにいる。なんか、遠い昔に遣り遂げたことのようにも思えて不思議だけど、でも、全ては現実だったんだ。 今の俺には、それだけで良いよな。世界中の誰が知らなくても、誰が見てなくても、俺は自分のやったことを知っていて、それを誇りに思ってる。それで充分。 いきなり右手が無くなってるんで、みんな驚いたり心配したりしたんだろう。でも、何も悲しむことはないと思う。俺が何をしたかを話す気はないが、でも、俺がそのことを悔いていないことはすぐに伝わると思うから。 「ありがとな、みんな。心配してくれたんだろ」 「そうです。心配しましたよ、祐一さん」 そう言う栞は笑顔を浮かべていたが、目尻には涙が浮かんでいた。なのにちょっと眉が釣り上がっているところなんかは、子供の悪戯を見つけた母親がそれを窘めているような表情にも見える。 「悪かったな、栞。色々あったんだ。名雪もあゆも、そんなに泣かないでくれ。街のチンピラと、ちょっとモメただけなんだ。大したこと無いから」 「でも、でも祐一、右手が……」 名雪が大きな目を涙で潤ませて、必死に訴えかけてくる。俺が嘆く分は分かるような気がするが、なんでコイツがこんなに泣いてるんだろう。まあ、あゆは何となく事情を察してる可能性があるから分からないでもないけど。 そんなことを考えながら困り果てていた俺だったが、次の彼女の言葉を聞いて仰天した。 「痛かったよね。痛かったでしょ。祐一、右利きだもんね。左手じゃ、上手く切れなかったよね。それでも何回も何回も突き刺して……。痛かったよね」 名雪はぼろぼろ涙を流しながら、俺の胸に頬をすりよせた。 抱き付いてくるフリをして、実は鼻水を俺のシャツで拭いてるんじゃないかという疑惑が一瞬だけ脳裏を過ったが、それは彼女の言葉によってもたらされた驚愕に吹っ飛ばされた。 「おい、なんでお前がそのこと知ってるんだよ?」 俺は混乱した。名雪の言葉は、明らかに俺が如何にして右腕を切断したかを知っている者のそれだ。そのことを知ってるのは、俺自身とヴィデオ・カメラを通してそれを見ていたであろうキイス、それから標準以上の推測能力があれば―― 「あゆ、お前もしかして何があったのか、みんなに全部話しちまったのか?」 「うぐぅ?」 あゆはエグエグ泣きながら、俺の声に顔を上げた。 ……いや、ちょっと待てよ? 名雪の言葉は、全てを見ていた人間のそれだった。対して、あゆは俺が隠しナイフを持っていたという情報を有してはいなかった。俺がナイフを取り出したのは、あいつを気絶させた後だったはず。つまり、あゆはどうやったって俺が『ナイフで自分の腕を切断した』という事実に至る推測を立てられるはずは無い。 「えーと、そうなるとどういうことなのかな」 考えられる可能性は、キイスは実は名雪だった説か。それか、爆発跡から俺のナイフが発見されたことから、あゆがエルキュール・ポワロばりの推理をみせたか。 「みんな、見てたの。あなたを見てたのよ……」 なんだか知らないが、香里が見たこともないような優しい顔で俺に言った。 瞳は潤んでいて、形の良い眉は切なげに少し顰められている。まるで離れ離れになっていた恋人に10年ぶりに再会したかのような表情だった。ちょっと、ドキっとする。 「カメラが設置してあったのはご存知ですよね」 そう言ったのは天野だった。彼女は口元に微かな笑みを称えて、慈しむように俺を見下ろしている。 天野って娘はいつも静かで寡黙だけど、その表情は時に言葉よりも大きく深く何かを語っていたりするんだよな。最近になって、俺はそれに気付きはじめていた。 それにしても、一体みんなの身に何が起こったのだろうか。なんか、目覚めた瞬間、身に覚えも無いのに優しくされたり泣かれたりすると、その先に何かしらの罠でも待ち構えているのではないかと身構えてしまう。 だがその疑問は、天野の次の言葉で完全に氷解した。 「あの瞬間、私たちはキイス・マクノートンといたんです。彼からあなたの居場所を聞き出すために」 「ああ」 なるほど。それで全ての説明はつく。つまり、彼女たちはキイスと一緒にヴィデオで見てたわけだな。俺がナイフで自分の腕をブッた斬る瞬間を生中継で。 「……って、おい。見てたの? アレを!?」 「皆で見てた」 舞がボソリと言った。 「おいおい、そりゃマズイだろ。栞とか気分悪くならなかったか?」 恐らく、俺のあの行為は万人に支持されるものじゃない。絶対に拒絶反応はでる。 異常だと言う奴もいるだろう。馬鹿だと言われることもあるだろう。狂ってるとさえ揶揄されるかもしれない。 嫌いな奴はとことん嫌いだろうし、苦手なやつは徹底的に苦手なはず。当然、批判の声も出やすい。特に、中途半端な覚悟しかない連中には圧迫感が堪えるはずだ。 ――そんなことは分かってる。このことに限らず、俺の生き方や考え方そのものがそうだからだ。 それは良い。誰に何と言われようと、どう思われようと俺は構わない。拒絶して逃げることしかできない奴、相手を貶めて自分を正当化しようとする奴、言い訳つけて自分の姿勢を合理化しようとする奴。そんな奴らがどう騒ごうと、俺は彼らに出来ない事をやれるし、口先だけの奴には掴めないものを掴めるからだ。 俺は器用さの欠片もない人間だから、白か黒か、全て得るか全てを失うか。そんな道しか選べない。だからこそ、こういう結論に至ったわけだ。 でもそれにしたって、今回のはちょっと刺激が強すぎた感がある。幾ら俺の奇行に慣れている彼女たちであっても、生理的な拒絶を覚える可能性は多分にあっただろう。他の誰が何と言おうと構わない。でも、仕方がないこととは言え、彼女たちに顔を背けられるのは少しだけ怖かった。 「見届けさせていただきましたよ、ちゃんと。一部始終。祐一さんが決めたことですから。痛みを伴うって知っていて、それでも決められたことですから。皆、ちゃんと見てなくちゃいけないって分かってました」 佐祐理さんは、一言一言を噛み締めるようにゆっくりと言った。 「本当は、佐祐理は怖かったです。何度も目を逸らしたくなりました。佐祐理は勇気のない臆病な娘です。でも、祐一さんの誇りは佐祐理の誇りです。あの時、もし一瞬でも目を逸らしてしまえば、祐一さんを裏切ってしまうことになるような気がしました」 だから、と彼女は続けた。佐祐理は目を逸らせませんでしたと。 「そうか……」 この人たちは、俺から逃げないでいてくれる。常に厳しい選択を強いられる、窮屈な俺の生き方に背を向けないでいてくれて、しかも受け入れてくれている。 嬉しかった。とても。心から、とても。 この人たちとパーティを組めたことに、感謝した。だから、俺はその一言を腹の底から言えたと思う。 「ありがとう」 「……祐一」 俺の気持ちに応えるように、舞は微笑んだ。彼女がこんな風に、それとはっきり分かるほどの笑みを見せるのは極めて珍しい。 「良く頑張った。いい子、いい子」 てくてくと俺に近付いてくると、彼女は真剣な顔をして俺の頭を撫で出した。舞のことだ、何かを頑張ってやり遂げた人間には、頭を撫でてやるのが一番だとでも思ってるんだろう。子供の頃、母親にそうされたことを今でも覚えているんじゃないかな、多分。不器用で世間知らずな舞らしい話だ。 「でも、どうしてあんなことができたの?」 名雪が言った。彼女は、まだ俺にしがみ付いたままだ。着ている服は、昨日見たものと同じ。1日シャワーも浴びていないのだろうに、ふわりと甘い匂いが鼻腔をくすぐる。俺はどうなんだろうな。汗の匂いがするのは妥協できるとして、血の匂いとかしないだろうな? 「あんなこと、私なら出来ないよ」 「できるさ。気付きさえすれば――」 俺は確信を以って言った。少なくとも、名雪にはできるはずだ。 あの時の相沢祐一を支えてくれた力の名を、Yの遺伝子と呼ぶならば、名雪の中には確実にそれが眠っている。そして条件さえ揃えば、それを目覚めさせることができるに違いない。 「俺はさ、名雪」 失ってしまった部分を無視して、右手全体を使って彼女の背を撫でながら言った。 「自分が凄くワガママな奴だって思ってた。自分本意で、自分勝手で、いつだって他人のことは後回し、自分の都合だけで生きてきた。何か良いことするにしたって、誰かの助けになる行為に走ったって、それは正義感や誰かのためなんかじゃなくて、自分がそうしたいからするだけだった。結局は、自分のため。自己満足のためだった。――でも、それで良いと思ってたんだ。今でも、そう思ってる」 軽く皆の顔を見渡して、全員が話についてきてくれているのを確認すると、俺は続けた。 「でもな、最近ちょっと思いはじめたんだ」 俺のこの考えを言葉にするのは難しい。だから、今思っていることをそのまま口にすることにした。たとえ文法や日本語は滅茶苦茶でも、気持ちが伝わればそれで良い。 「たとえば、ここにいる人たち。お前が泣いているのを見ると、俺は何とかしたいと思う。あゆが悲しそうにエグエグやってると、気分が落ち着かない。こいつは、笑ってるのが一番だと思う。栞がにこにこしながらアイス食ってるのを見ると、無意識に口元が緩んでくる。佐祐理さんと舞が仲良くタコさんウィンナー食ってるのを見ると、微笑ましいと思う。思い悩んでいる香里を見たら、その憂いを払ってやりたいと思う。 でも究極的には、それはお前たちのためじゃなくて、俺がそうしたいからだ。お前たちが悲しんでたり、苦しんでたり、悩んでたりするのを見てると、俺が辛いからだ。お前たちが幸せそうに笑ってると、俺が嬉しいからだ。全部、俺のため。俺のワガママなんだ」 これは俺だけではなくて、どんな人間にも言えることだと思う。結局、この世は自分の主観から成り立っていて、人はその主観でしか物事を判断できない。正義だとか、倫理だとか、誰かのためだとか言ってみても、所詮は自分のためなんだ。 死にかけてる奴がいるとして、そいつを助けるのは見殺しにすると後味が悪いからだ。或いは、そいつが死ぬと自分が悲しいと思うから。その命を救いたいというのは、それらしい理由に過ぎなくて、結局は自分がどうかを無意識に考えて、人は行動する。 「でもな、あのイヤミなくらい静かな倉庫で俺は気付いたわけよ。で、ちょっと思った」 俺はその時のことを思い起こしながら言った。 「お前たちが幸せに笑ってると、俺も嬉しい。お前たちが不幸で、しかも泣いてたりすると、俺としても最悪の気分だ。つまり、お前たちにとってのポジティヴと、俺にとってのポジティヴは完全に重なっていて、同じ風にお前たちのネガティヴは、俺のネガティヴと一致する。 いや、まあ完全とは言えないかもしれないな。栞はカレーとかキムチとか、辛い物は嫌いだけど、俺は結構好きだ。舞は悲しい話が駄目だけど、俺は切ない系の話は割と受け付けちまう。別の人間なんだ。細かいとこまで完全に同じってわけにはいかない。でも、なんて言うのかな。俺の都合と相手の都合、これを両方考えてなんとか一緒にできないかって思える……っていうか、ああ、ちくしょう。上手く言えないじゃねーか!」 「なに怒ってるのよ」 香里が苦笑する。 「大丈夫。日本語は滅茶苦茶だけど、ちゃんと通じてるから」 「そうか? ――まあ、とにかくだ。本当に大事な部分は一緒なんだよ。コアは。細かいとこは違っても、根っこが同じななら良いわけで。向いてる方向と目指してるものが一緒なら、些細な摩擦は上手くなんとか丸め込んで、一緒にやっていけると思うんだよ。で、それはさ。なんて言うのか、お前たちと過ごして、お前たちとの間に大事な物が出来て、お前たちを好きになって。だから、そんなふうになったと思うんだ。 ……なあ、それって良く考えてみると結構スゴイことだと思わないか?」 母さんと秋子さんには、もう俺の言わんとすることが分かったみたいだ。彼女たちは、まさに母の笑みを以って俺を見詰めていてくれた。それに、俺は更なる確信を得る。 「――俺たちは同じ時間と同じイヴェントを共有するうちに、一体感みたいなのを得て、それを強化していった。お互いを好きになりあって、それを強めてきた。感情移入の度合いを大きくしてきたんだ。 でも、それは依存とかじゃなくて、目指してる物とか、幸福とか不幸とか、そういうものを共有するようになって、俺たちはいつの間にか不可分の存在になっちまったわけで。俺はお前に、お前らは俺にってな具合に、俺という自己と他人であるはずのお前たちとを隔てる境界線が、曖昧になって――」 彼女たちと経験した出来事、環境、そしてそれらから学んだ数々の教訓。心に刻み込んだ言葉。それらは今の俺を育み、血肉となっている。決して別つことの出来ない何かだ。 「俺のためにやることが、お前らのためになる。俺が幸せでいられる条件に、お前等が幸せであることが含まれる。なんでか知らないけど、それが普通で自然なことにいつの間にかなっててさ。上手く言えないけど、それを腹の底から意識できたとき、『Y』は起きる。それを自分の中に見つけたとき、嬉しくてたまらなくなる。だから、できる。俺はできた。……でな、俺が思うに、それは多分、人類が手にし得る限り最強の力だ」 痛みや恐怖を捻じ伏せるくらい、ワケない。腕をブッ千切るくらいのこと、造作もないことだ。 「自分に眠ってる、人間としての力を最大限に発揮してくれる何か。今の俺の、間違いなくコアとして存在してる何かだ」 人はひとりじゃ生きていけないなんて言うけど、俺はそうは思わない。そりゃ、駄目な奴はいるだろうけど、ひとりきりでも生きていけるやつはきっといるはずだ。親父なんかは、そうだろう。 でも同時に思う。人間が自分の100パーセントを出しきって生きる為には、誰かの存在が必要不可欠だ。それは家族でも親友でも、好敵手でも良い。人はひとりでは熱くなれない。それは言えるような気がする。 「ゆういち……」 良く分からないが、大きな瞳いっぱいにジワリと涙を浮かべたかと思うと、名雪はまた泣き出した。なんと、あの香里までもが瞳を潤ませている。ミッシーも優しい顔してるし。なんとも凄い光景だ。何やら、俺の独り言はMartin Luther King Jr.の演説ばりに感動的だったらしい。今度、大統領戦に立候補してみようかな。案外、いい線いくかも。 「そんなに泣かなくても、教えてくれたのは間違い無くお前たちなんだけどな」 むしろ、俺が感涙したいくらいだ。彼女たちには、どんなに感謝してもし足りない。俺が勝手に学ばせて貰っただけだから気付かないだろうが、彼女たちは俺に大きな影響をもたらし、勇気付けてくれた。 なんで出来たかって? そりゃ、この人たちがいてくれたからだ。 「だから、これは俺の自身のためでもあるし、お前たちとの間にある良く分からない何かのためでもある。でもやっぱり、それは俺のためなわけで。両方は、やっぱり一緒なんだ」 ある意味、何かの宗教的な雰囲気に近い気もするけど、崇拝とかそういう不健全な何かと決定的に違うのは、その力に根拠があるってこと。 「大丈夫だ、きっと本当に大事なとき、名雪たちの中に眠ってるヤツもきっと起きるさ。俺だって、何度でもやってやる。弾丸みたいに生きるんだ」 その時が来る度、俺は何度でも証明してみせるだろう。 「俺は自分に約束した。あの右手が、知ってる」 「佐祐理は普通よりちょっと頭の悪い娘ですけど」 彼女は微かに声音を震わせながら言った。 「でも、祐一さんの言いたいこと、分かるような気がします」 「だったら、佐祐理さんもやれるよな。本当の顔で笑えるように。――自分の中に向き合えない何かを抱えたまま、自分を極められる奴なんていない。佐祐理さん、俺たちにも話してない何かがあるでしょ」 彼女は驚いたように目を見開いた。 隠し通せていたつもりなんだろうか? 俺や舞にでさえ? だったら、それは甘い。俺も舞も、それなりに過去やら後悔やらを経験してる。自分の心にシコリを残して、無理に笑ってる人間の顔なんてすぐに見分けられるんだ。鏡を見てるみたいなもんだからな。 「自分で生もうとしない限り、絶対に生まれないものが幾つかあると思うんだ。勇気と家族はそのひとつだと思わない?――それからさ、自分から変えようとしない限り変えられないものもあるよな。自分とか、世界とか」 この場にいる人たちは、全員が似たようなものを抱えてる。佐祐理さんも、多分、過去に辛い経験をしたことがあるんだと思う。でも、彼女が他の子たちと違うのは、それに自分なりの決着をつけることができていないということ。 栞が病気を克服したり、舞が魔を受け入れたり、天野が妖狐との過去と戦ったように、彼女も本来はそれと向き合っていかなくちゃならない。でも、彼女はそれから逃げてる。つい最近までの俺みたいに。 「確かに佐祐理さんは凄い人だよ。俺とそんなに歳も違わないのに、社会で成功してるし、経済的に自立してる。自分の力で事業を成功させて、社会人としてみんなに尊敬されてる。俺もその意味で、倉田佐祐理って人を尊敬してるよ。でも、人間としての倉田佐祐理を尊敬しているかと言われれば、実はそうでもない。佐祐理さんの笑顔は、いつも裏に何かを隠した笑顔だ。佐祐理さんは、きっと今の自分を好きだと言い切れない。俺はね、自分で自分を誇れないやつを尊敬する気にはなれないんだ」 佐祐理さんは、その辛辣とも言える言葉に身を硬くした。 「人間は社会的な肩書きを添えなきゃ胸張れない生き物じゃないはずだ。代表取締役なんて枕詞抜きでも、自分の名前だけで自分を表現できる人でしょ、佐祐理さんは。――手が必要なら、俺たちも力貸すよ。急ぐことないから、のんびりさ。だから、一緒にやりましょう。そしたら、俺たちは本物の家族になれる」 「――はい」 少し迷った後、彼女は頷いてくれた。 「ま、そういうことで、我ながら何を言いたかったのかサッパリ分からんが――要するにこの右手に関しては、あんまり心配することないからってことで」 なにやら雰囲気がシンミリしてきたため、俺は努めて明るく言った。 それにしても、切断した手を色々するのってかなり大きな手術だと思うんだけど、痛みとか全然ないんだな。今も普通に包帯をぐるぐる巻きにしてあるだけだし。 それに全身麻酔が切れた後、いきなりこんなに身体の調子が良いってのは普通じゃないような気がするぞ。目覚めてまだそんなに時間はたってないけど、既に体調は完璧。腹も減ってるし、元気を有り余ってるくらいだ。 「なあ、俺ってさ。やっぱり手術とかしたんだよな?」 誰かが答えてくれるだろうと思って、全員に向けて訊いてみる。 「そうよ。ドクターは、全治3ヵ月って言ってたわ。しばらくは入院してもらうって」 俺たちの中で一番医学に精通している香里が言った。 「でもさ、なんか身体の調子が凄く良いんだよな。全然痛みも無いし」 試しに右手の切断面のところを突ついてみるが、包帯ごしではあれ、全く痛みを感じない。 「体調が良い分は、全く問題ないのではないですか? 悪いならともかく」 ミッシーがもっともなことを言う。確かに、体調が良過ぎて困るということはない。むしろ、さっさと退院できそうなことを喜ぶべきだ。 「そうだな。じゃ、もっと早く退院できるように英気を養うか――」 珍しく長々と演説を続けたせいか、ちょっと疲れた。半日眠っていたらしいが、手術やら色々で身体にも自覚のない疲労がまだ残ってるんだろう。 「悪いけど、ちょっと眠らせてくれるか」 俺は横になると言った。 「うん。ゆっくり休んで」 俺から離れた名雪が、タオルケットを掛けてくれる。 「お前たちもずっと休んでないんだろ」 全員が、最後に会った時と同じ服装をしてるのがその証だ。きっとみんな寝ずに傍に付いていてくれたんだと思う。 「揃って少し休憩にしよう。で、起きたらメシだ。実はかなり腹減ってるんだよな。みんなで外に食いに行こう。――プレタ・マンジェのサンドウィッチ[*28]を奢るよ」
GMT Tur,25 July 2000 15:08 P.M.
Surgical ward 7月25日 火曜日 午後3時08分 同院 外科病棟 俺の傷は、医者が目玉を落としそうになるほど目を見開いて驚愕するくらいに、凄まじい速度で癒えていった。と言うより、俺が麻酔から目覚めたとき、既に完治に近い状態にあったという。勿論、これは普通じゃない。なにしろ、医者は全治3ヶ月以上だと言ったんだ。それが半日もしないうちに綺麗さっぱり治ったわけだから、改めて言葉にするまでもなく異常な治癒速度だったと言える。 それにしても、あのドクターたち……かわいそうに。たとえ灰色の宇宙人が空飛ぶ円盤で救急患者を運んできたとしても、あれほどには驚かなかったことだろう。まるで世界の三大珍獣を見るような目つきで俺を検査してたからな。凄く混乱してたし。あの禿頭のドクターなんか、残り少ない髪が今度のショックで全部抜け落ちたりしないといいけど。 誰もいない病室で、ベッドに横たわりながらそんなことを考えていると、ドアがノックされた。 麻酔からさめて、名雪やあゆたちと話をしてからまだ2時間程度。彼女たちはシャワーを浴びて、今頃ベッドでぐっすり眠っている頃だ。誰だろう。ナースかな? 「おとっつぁん。おかゆが出来たわよ」 返事を返す前にドアが開き、場違いな日本語が聞こえてきた。 ――親父だ。 そう言えば、さっきは母さんや秋子さんまで傍にいてくれたけど、こいつの姿だけはなかったな。きっと、ぐーすか惰眠を貪っていやがったに違いない。息子が緊急手術を受けて生死の境をさ迷ってるって時に、なんて薄情な父親だ。 しばらく無言で睨みつけていると、親父は黙って踵を返し、ドアを開けて部屋を出ていった。 きっかり二秒後、再びドアをノックする音。やはり返事を返す前に、勝手にドアが開けられる。 「おとっつぁん。おかゆが出来たわよ」 もちろん、親父だ。手には、なにやら食料らしきものを乗せたトレイを持っている。 なんのつもりか分からんが、ここで相手をするとロクなことにならないような気がした。何を考えて生きてるんだろうな、こいつは。何を企んでる? 再び、ふたりの間で睨み合いが続く。先に口を開いたのは、親父だった。 「いやな、そんなにシーンとされても……」 親父は少し困ったように言った。所在無さげに頭を掻く。 「ここはお前、『(娘):おとっつぁん。おかゆが出来たわよ』ときたら、『(病気で床に伏せた父):ゴホッ、ゴホ。すまないねえ、いつもいつも。せめて、おっかさんさえ生きていてくれたら』ときて、『(娘):おとっつぁん。それは言わない約束でしょう』……と、こうならないとジョークにならんと言うか、なんと言うか」 「アンタ、何しに来たんだ」 思いっ切り冷たい声で言ってやる。こんなのが実の父親だと思うと、哀しいやら切ないやらで、人生について考えてみたくなる。 「今時、この斬新なブリティッシュ・ジョークが、一体どれだけの若者に理解されるやら」 親父はブツブツと呟きながら、結局俺のベッドの傍らまで歩み寄ってきた。 「どこにいたんだよ、親父。可愛い息子が生きるか死ぬかって時に」 冷たい言葉に加え、冷たい視線を送ってやる。こいつには、これくらいで丁度良いんだ。 「なにやら機嫌が悪いな、お前」 「フン」 「あ、そう。じゃ、PRET A MANGERのサンドウィッチとゴートチーズ・サラダ、レギュラー・コーヒーのセットに特製ポテトチップスを買ってきてやったんだが、これはいらないな?」 「なぬっ!?」 それは俺の大好物の四点コンビネーションではないか! 俺はいつもこの4つを合わせて買うのだ。祐一スペシャルなのだ。 「いる。おとーたま、いるっ! くでー。サンドウィッチ・セットくでー」 腹が減っていたこともあり、俺はベッドの上でぴょんぴょん跳ねて、親父の持つトレイに手を伸ばした。 「ええい、気色悪いからクネクネ身を捩るな」 親父は変な物でも食ったような顔で、俺から目を背ける。 「仕方ないから、ホラ。くれてやるよ」 「うわーい。ダディ、大好き」 「だから、それはもうよせ」 俺は早速パッケージを開けて、サンドウィッチに貪りついた。腹がへってちゃ、戦も出来ない。そしてケガや病を癒そうという行為は、間違いなく戦いなのである。よって、腹がへっていてはケガは治せないという見事な3段論法は証明される。 プレタ・マンジェのサンドウィッチは、なんといっても歯ごたえの好いベーコンとボリューム感がたまらない。パンの香りも悪くないしな。サラダもさっぱりしていて、俺好み。久しぶりに食ったけど、やっぱりこれは良いや。合わない人には合わないかもしれないけど、俺は好きだ。 「で、具合はどうよ?」 「おお、なにやら快調だよ。メシが美味いのは、健康な証拠だろ」 ゴートチーズ・サラダにドレッシングをかけながら応える。もちろん、嘘はなかった。 「そうか、あ、因みにそのサンドウィッチ、お前のバースディ・プレゼントな」 「うわっ、たった10£!? 安上がり過ぎるだろ、そりゃ」 「まだあるさ。ほら」 そう言って親父がジーンズのポケットから取り出したのは、歪んだ薬莢の弾丸がぶら下げられた、チェーンのペンダントだった。 「これって……」 受け取ってみると、それは確かに俺の.40S&Wだった。カートリッジが歪に凹んでいるのは、俺が奥歯で噛み締めたからだ。間違いなく、鷹山さんに貰ったあのフォーチュン・ブレットだろう。 「爆発跡を探しても見つからないと思ったら、警察が保管してやがった。チェーンは無くなってたそうだから、代わりのを付けておいたぜ。カートリッジも修復できるって店の親父は言ってたけど、そのままの方が良いだろう?」 「あ、ああ」 俺は慌てて首を縦に振った。 そうか。親父は、これを探しに行って―― 「そうだな。このままが良いよ。俺がしたことが、少なくともこの弾丸には残る」 「だから、手は付けなかった。見つかった時のままだ」 親父は、踵を返した。 「世の中の奴は、すぐに汚れだの傷だのを隠したがるけど、それが誇りになることもあるからな」 「どこに行くんだ?」その背中に訊く。 「3時って言えば、ティータイムだ。俺も腹減ってるだよ」 ドアが閉まる寸前、聞き間違えかも知れないが――囁くようなその言葉が聞こえたような気がした。 「よくやった」
GMT Tur,25 July 2000 15:54 P.M.
Piccadilly W1 "Park Lane Hotel" 7月25日 午後3時54分 パーク・レーン・ホテル 「栞、先にロビーに降りてるわよ」 用意をすっかり整えると、バスルームにいる栞に一言断る。栞は、鏡と向き合い寝癖と必死の格闘を繰り広げていた。彼女は髪質が赤ちゃんのように柔らかいから、寝癖がつきやすいのだ。 「はい、分かりました。私もすぐにいきますから」 「なるべく早くね。あと6分しかないわよ」 「善処しますー」 豪快に跳ね起きた髪の毛は、なかなか寝てくれないようだ。栞は、お湯で濡らしたタオルを押し付けて頑張っている。なんだか微笑ましい光景だった。 「忘れるといけないから、鍵はあたしが持っていくから」 苦笑しながら部屋を出ると、待ち合わせの場所であるロビーに降りた。あまり運動をしないので、エレベータは使わず敢えて階段で行く。食べても太らない体質なのだけど、やっぱり運動不足は良くないものね。でも、ぶくぶく太ってプロポーションが崩れたら、街で声をかけられる回数も少しは減るかしら。それならそれで良いかもしれない――と少し思う。 踏み心地のよい柔らかな絨毯に覆われた正面ロビーに出ると、迎えの夏夜子さんが既に私たちを待っていた。どうやら、私はホテルの利用者としては最初に降りてきた人間らしい。 「早いですね、夏夜子さん」 ロビーに常設してあるシティマップを広げて眺めていた彼女は、声をかけるとすぐに微笑を返してきた。 「あら、栞ちゃんは?」 「ええ、あの子はもう少し準備に時間がかかるみたいです」 「そう」 彼女の隣のソファが空いていたので、そこに腰を落とす。高級感のある柔らかいクッションだ。体重をかけた瞬間の、身体が沈みこむような感覚が面白い。 部屋が別々の私たちは、一度各自の部屋でシャワーを浴びて準備を整えてから、ロビーに集合して相沢君の入院している病院に行く予定だった。約束の時間は16時。もう数分だから、皆もそろそろ降りてくるだろう。 もう丸1日以上眠っていないのだけど、あまり疲労感はない。相沢君が生死の境をさ迷っていたのだ。正直、それどころではなかった。彼の意識が戻ってから、安堵で気が抜けたというのもあるけど、あれが本当だったのか――現実として彼にもう問題がないのか。それを確かめない限り、ちょっと安心できない。 「夏夜子さんは、平気なんですか?」 質問が唐突過ぎたのだろうか、彼女は少し首を傾げるような仕草を見せた。 私はそんな彼女に、ずっと気に掛かっていた質問を投げかける。 「あの時、小母さまは相沢君を止めようとしなかった。私よりずっと早く、彼が腕を切ろうとしてるってことに気付いたはずなのに。相沢君は、それで死ぬかもしれなかった――」 私でなくても、誰もが不思議に思うことではないだろうか。彼女は相沢君の母親なのだ。息子の危険に、彼女はなぜ微塵も動揺を見せなかったのだろう。なぜ、あれほど超然として全てを見守っていられたのだろう。 「不安とか、なにもなかったんですか」 「まさか」 彼女は小さく苦笑しながら、首を微かに左右した。 「怖かったわ。もちろん、あんな危険なこと止めて欲しいっていう気持ちもあった」 「だったら――」 「もし、本当にその答えが分からないようだったら、あなたは祐一を諦めた方が良いかもしれない」 その言葉に、私はビクリと身体を大きく震わせてしまった。 もちろん気づかれないわけがない。夏夜子さんは、過剰反応を示した私をなだめるように穏やかな微笑を浮かべてみせる。 「今回の件で祐一は大きく変わったわ。少なくとも、その方向付けはされたと思うの。だからあの子は、いずれ私たちのいる場所にまで辿り着くでしょう。美坂香里さん。あなたもそのことは感じて、同時にその事実に焦りみたいなものを感じているでしょう?」 胸のうちを見透かされた、という驚きはなかった。秋子さんしかり、名雪しかり、彼女たちの血族には人の心の機微を読み取る鋭い感性が備わっている。 だからあったのは、痛い所を突かれた――という一種の衝撃めいたものだった。 「ごめんなさいね、こんなこと言って。でも、状況を考えると、あなたにも相応の言葉を用意しなくちゃならない。発破をかけるつもりで説教めいた言葉を投げかけてしまうのは、歳を重ねた人間の悪癖ね」 「そんなこと――」 確かに、私は相沢君より知能指数が高いかもしれない。彼より世渡りが上手いし、社会的な成功者となれる可能性も高い。でも、いまの私は彼に置きざりにされたような、取り残されたような、そんな焦燥感を確実に意識しつつある。 相沢祐一に出来ることが私には出来ず、彼に守れる物が私には守れない。彼が立ち向かって戦うものに、私は臆して対峙できない。 「決意とか覚悟というものは、それを抱いたものにしか理解できない。その重さを認識できない」夏夜子さんが淡々と続ける。「祐一はね、香里さん。あのとき、リスクをきちんと把握して、失敗した時に何を失うかを理解して、どこかで誰かが心配してることを考えて、その上で死ねないことを知って、そして決心したの。それを心配だからだとか不安だからだとか、そんな一時的な感傷で妨げることはできない。それでは務まらない」 彼女の口元から微笑が消えた。真っ直ぐに私を見据えて、凛とした声で告げる。 「AからB、BからC……ひとが階層をひとつずつ駆け上がっていく存在なら、常に最終到達点であるZの手前にあろうとする者。 <Yの座> にあろうとする人種が現れる。――そう言い残した人がいるの。彼ら <Yの座> の人間はたとえZに辿り着いても、また新しい世界のZに向けて上りだす。だから永遠にYなんだって。そんな思想ね」 この人は―― 「私も、相沢の人間。立っているべき場所は理解しているつもり」 凄さを知った。私は、ようやくそれを理解した。 すべてを理解した上で、全てを見守ることができる器の大きさは、私などの比ではない。 この人は、間違いなく相沢祐一の母であり、相沢芳樹の伴侶。ある意味で、彼らよりも強い。 彼女もまた、Y'sromancerなのだ。 「ありがとう、香里さん。あの子を慕ってくれているんでしょう」 ふわりと柔らかく微笑んで、彼女は私の肩に軽く手を添えた。 駄目だと分かっているのに、頬が上気してしまう。きっと、私、紅潮してる。 「ずっと自分の気持ちに戸惑ってました。あまり経験のないことだったから」 この人に偽っても仕方がない。正直に、自分の気持ちを打ち明けることにした。 「でも、彼は酷いんです。すぐに事件に巻き込まれて。周囲の人間まで非日常の世界に引きずり込んで。そして、嫌でも自覚させられてしまうくらいの言葉や姿を私たちに投げかける。だから、相沢君の言葉を今日聞いて、理解せざるを得なかった。私きっと、彼のこと、もうどうやったって誤魔化しきれないくらい――」 「大丈夫よ。あなたには可能性がある。それは武器だわ。きっと、もっと強くなれる。知ってるでしょう? 祐一は決して誉められるような子じゃなかった。辛いことからすぐに逃げ出してしまう、弱い子だった。でも、それを少しずつ変えていけることをあの子は証明した。それをあなたは見届けた。全部受け入れなさい。それを身篭って、強さに育てるの。もちろん、痛みは伴うけど。でも、それは女ならきっと耐えられるものなんでしょう。心から想える人がいるなら、なおさら」 「はい――」 私も、この人のように強くなれるだろうか。 いつか、 <Yの座> に並んで立てるほど。
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