夢――

夢を見ていた。

天に挑みかかるような大樹。
名も無い、忘れられた静かな森の奥。
一面の銀世界。誰もいない、二人だけの秘密の学校。

空高く舞う鳥たちと同じ高さで、吹き抜ける風に目を細める少女。
登れない。俺には、届かない。
不安を胸に見上げるだけで、俺は彼女の傍にはいけない。

破滅の音。
軋む枝と、刹那の悲鳴。
砕ける音。
白い雪の大地に広がっていく紅いシミ。

動けない。
俺は、一歩も動けずに――
躊躇うことなく、一瞬たりとも迷うことなく、駆け寄りたかったのに。
抱き上げてあげたかったのに。
俺はどうしても動けずに――
ただ終わりの瞬間を見詰めているしかなかった。

そして、俺は逃げ出した。
白銀のヴェールで記憶を覆い、
追い縋る多くの絆たちを振り切って――

そう、俺は逃げ出した。



Piccadilly W1 "Park Lane Hotel" London U.K.
GMT Mon,24 July 2000 4:50 P.M.
現地時刻7月24日午後4時50分 ロンドン パークレーン・ホテル

「相沢さんが?」
 流石の天野美汐も、その知らせを聞いたときばかりは驚きを隠すことができなかったようだった。
 ベッドの上で身動ぎした天野さんから、美しい光沢を持ったシルクのシーツが流れるように滑り落ちた。彼女はそのまま身を起こすと、本格的に話を聞くために態勢を整えた。昨夜までは、傷が痛むのか身体を動かす度に苦悶の表情を浮かべていたが、今日は加減が良いようだ。不幸中の幸い、とでも言うべきだろうか。
「貴女でも驚くことがあるのね、天野さん」
 恐らく彼女は、私よりも自分の感情を押し殺すのが上手い。その点においては秋子さんにも比肩し得るのではないかと、私は常々密かに思っていた。
「当然です」彼女は微かに柳眉を逆立てて言った。
 でもまあ、無理もないかしらね。奇妙な連中に襲われて銃弾をその身に受けた昨日の今日の話だもの。私だって、彼女の立場にあったら大いに驚いたことだろう。だけどその驚愕は、なにも彼女だけのものではなかった。この場には、ショッピングに出ていた栞と秋子さん、動物園に行っていた川澄、倉田両先輩に名雪、ボディガードの全員が勢揃いしているが、全員の表情が例外なく不安と緊張に強張っていた。
 たとえるなら、目隠しをされて知らない場所に放り出された感じだろうか。情報量が少ないし、あまりにも非日常的な事件が連続しているせいで、事の大事は理解できても、自分自身がどう反応して良いのか戸惑っているといった感じだ。
 そんな中、やはり天野さんは一番冷静な態度を固持し続けていた。事情を知る私と相沢夫妻に、真っ直ぐ眼を向けて問う。
「詳しい話を聞かせてください」

 ――ウェールズに向かう前、私たちは大きく三つのグループに分かれてロンドン観光に向かった。その内、ロンドン・ダンジョンという一種のホラーハウスに向かったのは、芳樹、夏夜子、祐一から構成される相沢ファミリィと月宮あゆちゃん。それからボディガード1名、そして私こと美坂香里を加えた総勢六名だ。この内、相沢君とあゆちゃんがマクノートンという男に連れ去られたというのが、簡単な事の次第。
 私たちは彼らが車に乗せられて連れ去られる現場を目撃していたのだが、追跡の結果も空しく相沢君たちを助け出すことはできなかった。時間稼ぎのために出てきた二人組みも相沢氏によって退けられたが、彼らから得られた情報もゼロだ。結局、現在のところ相沢君たちの行方は完全に不明となっている。そこで一旦態勢を立て直すため、宿泊先のホテルに戻り全員を集めたというわけだ。
「つまり、祐一はあゆちゃんと一緒に悪い人にさらわれちゃったの!?」
「小学生にも分かるようにまとめれば、そう云うことになるかしら」
 名雪にかかれば、どんな問題も単純に片付けられる。或いは、事の本質とは名雪が捉えている姿のことを言うのかもしれない。あらゆる事象は本来は極めて単純なものであって、それを複雑にしているのは私たちが生み出すしがらみだと考えることもできるだろう。
 名雪は、彼女と母と同じ種の聡明さを備えているように思う。その彼女たちの特異性は、逸早く物事の本質を見抜く能力に支えられているのかもしれない。最近、そんな気がしている。
「大変です。警察です。110番です! 祐一さんとあゆさんが、ごーもんされてしまうかも」
「落ち着いて、栞ちゃん」
 ワタワタと慌て出した栞を、秋子さんが宥めてくれる。
 今、私たちがいる部屋は相沢君と天野さんが寝泊りしていた部屋だ。昨夜も全員がここに集って、会議をした。狭くはないが広くもないため、これだけの大所帯が一堂に集うと手を伸ばせば誰とでも握手を出来るほどの人口密度となっている。
「でも、警察に通報するべきだというのは確かだと思いますけど」
 倉田先輩が言った。その顔色は、心なしか普段よりも青ざめているように見える。私はどうだろう。いつものように平静を保っていられるだろうか。それとも、倉田先輩のように感情が表に出てしまっているのだろうか。今回の事件に関しては、私はポーカーフェイスを頑なに守っていられるだけの自信がない。
「いや。それは無駄だ。警察はあてにしないほうが良い」
 黙って私たちのやりとりに耳を傾けていた相沢氏が言った。
「お宅らは知らんだかろうが、この辺りでのマクノートンの影響力は大きい。警察の上層部や法曹界にも友人がいると聞くしな。それに奴らが祐一とマグちゃんを――」
「マグちゃん?」名雪が不思議そうに首を捻った。
「あゆちゃんのこと」
 もう相沢氏に固有名詞のことを云々言うのは諦めた。私は溜息を吐くと、名雪に耳打ちしてあげた。
「奴らが祐一とマグちゃんを拉致したという証拠はない」
「でも」
「俺たちが見たのは」名雪の言葉を遮って、彼は続けた。
「車に既に乗っていた祐一らしき後姿と、男たちと一緒に乗り込もうとしていたマグちゃんの姿だ。しかも遠目にな。状況証拠にもなるか怪しいワンシーンだけさ。向こうに『仲良くなったから車でロンドンを案内することにした』と言われれば何も言い返せない。拉致だと言い張っても、観光でやってきた余所者の言葉と、裏で権力握ってるマフィアの首領の言葉。果たして影響力があるのはどっちだろうな?」
 ――なるほど。相沢芳樹もそれなりの計算はできるらしい。

「どうしますか、芳樹さん」
 秋子さんが静かに訊いた。相沢氏はそれに腕を組んで答える。
「現状で出来ることは少ない。他人の手が期待できない以上、手前と仲間の力で何とかするしかないさ。今までと同じだ」
「具体的には?」
「マクノートンの根城に乗り込む。奴がそこにいるか、祐一とマグちゃんがそこに囚われているかは分からん。だが、何らかの情報は掴めるだろう」
「場所はわかっているの?」
 部屋の片隅で静かに佇んでいた川澄先輩が、はじめて口を開いた。
「分かってる。ロンドンじゃ有名さ。誰も近付かないがな」
「でも、それは危険なのでは?」
 倉田先輩は不安そうだ。何を隠そう、私も同じ。乗り込むだなんて、さも簡単そうに氏は言うけれど、それは普通に考えれば自殺に行くようなものだ。何しろ、こっちには彼らとの取引材料なんてひとつもない。要するに、それが相沢君たちの身柄であるにせよ、彼らの元に繋がる情報であるにせよ、力に訴えて奪い取るしかないのだ。私たちに果たしてそれだけの力があるかしら。甚だ疑問よね。
「ふーん。じゃあ、諦めるか?」相沢氏は意地悪く言った。
「それは――」
「いつだってそうだ。簡単だろ? 問題は危険かどうかじゃない。やるか、やらないかだ。諦められない物ならしがみつく。自分の身の方が大切なら諦める」
 相沢氏は、鼻白む倉田先輩に意地悪く微笑みかけた。
「嬢ちゃんはどうする? 祐一とマグちゃんを取り戻すか。それとも奴らの命を諦めるか。俺はやるぜ」
「佐祐理は!」一瞬、彼女に大きな動揺が見られた。「――佐祐理は諦めません」
「いい見極めだ。よし、じゃあ決まりってことで。やるからには、はりきって行こうぜ」
「及ばずながら、我々も力を貸しましょう」
 ボディガードが言った。彼らは皆、沈痛な面持ちをしていた。それは単に連れ去られた二人の身を案じただけのものではないだろう。
「今回のことに関しては、我々にも手落ちがありました。財団以外にも脅威があることを忘れていた。あってはならないはずのミスです」
「あなたがたが職業的な責任を感じるのは仕方ないことなのかもしれません。でも、祐一は恐らくこうなる可能性を考慮の上で行動に移ったはずです。全ては、あの子自身に責があると私は思います」
 毅然とした態度で、夏夜子さんは言う。
「――双方の言い分にはそれぞれ頷けます。ですが、ここで責任問題を追及したところで、事態は変わらないでしょう。小父さまの言う通り、直ぐにでも行動すべきだと私は思います」
 生意気かもしれないが、冷静さを取り戻した私はその発言の影響を計算しつつ口を開いた。
「続きは、相沢君とあゆちゃんを奪還してからゆっくりやりましょう」
「そうね。今は、出来ることをやりましょう。姉さん」
 姉の肩に軽く手を置いて、秋子さんは微笑んだ。
「秋子……」
「大丈夫よ。私には分かるもの。きっと無事に帰ってくるわ」
「秋ちゃんの言う通りだぜ。ウダウダやってないで、さっさと行こう」
 そう言うと、相沢氏は大股で部屋の出口へ向かっていった。
「ただ拉致された人間を二人取り戻すだけだ。しかも相手は神でも悪魔でも、怪物でもない。俺たちと同じ単なる人間だ。簡単な仕事さ、気楽にやろう」



Mon,24 July 2000 7:12 P.M.
7月24日午後7時12分――拉致から3時間後 某所

 日本人というのは不思議な民族で、世界で一番『神様』を信じない連中だ。じゃあ、彼らが現実をしっかり見据えた、この上ない合理主義のリアリストかと言えば――それもちょっと違う。なんなんだろうな、この辺。不思議な話だ。
 俺は両親の影響で、普通の人間より色々な人種や民族の文化に触れ合う機会が多かったように思える。その中にあって、日本人というのは結構特殊な方に分類されるんじゃないかと思うわけだ。四方八方を海に囲まれた島国で、有史以来ほとんど完全な単一民族国家で、民族紛争も宗教戦争も経験したことのない稀有な国家。それが、日本なんじゃないかな。
 なんでこんなどうでも良いことを考えてるのかというと、多分、俺がクリスチャンだからだ。つまりキリスト教徒なんだな、相沢祐一は。
 これは間違いなく母親[*14]の影響だ。彼女はずっと敬虔なカトリックのクリスチャンで、ガキの頃から俺を度々教会に連行するような日々を送っていたわけだ。おかげで聖書を引用できるようになっちまうわ、神様っているんだろうなと信じちまうわ、神父の説教に頭を垂れてしまうわとスッカリ染まってしまった。
 これでも、小学校の頃は良く懺悔にいったもんだぜ? 近くにある教会の場所も知ってたし、俺はそこの神父と仲良くなってサッカーして遊んで貰ったこともある。
 そうそう。その教会には、とても若くて綺麗なシスターがひとりいて、俺は彼女が大好きだった。正直、教会に行くのはその8割が彼女に会うためだったような気がする。彼女に誉めてもらいたくて、一生懸命に聖書を暗記した。で、新しい章を覚えるたびに彼女の元に行って暗唱して見せるわけだな。すると彼女はやさしく笑って、俺の頭を撫でてくれるんだ。俺は嬉しくなって、彼女に抱きつく。シスターはいつも日向の良い香りがしたのを、今でも良く覚えている。

……シスター。俺はこの冬、とても大切なものを手にいれました。どんな時も、変わらず大切に思える隣人です。そして俺は、彼らとの暮らしの中で『毅然として立つに足る力』を学んだような気がします。
 大人になるにつれ、俺は神への信仰心を失っていきました。神に祈ることもないし、神に縋ることもしていません。きっと、これからもっとその傾向は顕著になっていくでしょう。なぜなら、俺は神よりも、友達や家族に愛されたい。助けが必要な時は、仲間に縋りたい。祈るよりも抗いたい。そう思うようになったからです。
 あゆが目覚めたのも、栞が生きているのも、舞が魔に打ち勝ったのも、真琴が消えてしまったのも。全ては俺と周囲の人たちが生み出した結末。NO FATE(運命なんかじゃない)。そう思いたいんです。
 ――こんな俺だけど、貴女《あなた》はまた誉めてくれるだろうか?
私は彼を正しく直き業を用いて、堕ちることも自由だが、
毅然として立つに足る力に恵まれた者として作った[*15]
 目を開き、霞む目の焦点が定まった時、最初に見えたのは随分と高い天井だった。
 ヨーロッパの建物は基本的に日本建築と比べて天井が高いものだが、今俺が見上げているのは、その前提などとは関係無しに、無条件で高く大きなものだった。高さは六メートルくらいだろうか。それも普通のアパートのように平面状の天井ではなく、鉄筋で出来たフレームによって支えられた、緩いカーブを描くドーム状の天井だ。なんか、どっかで見たような造りをしている。
「ん……」
 意識がハッキリしてくると、俺は自分が仰向けに倒れていたことに気付いた。目を開いた瞬間、天井が見えるんだから当たり前のことかもしれないが、その事実にようやく思い当たるくらい意識が朦朧としていたらしい。体を起こそうとすると、後頭部に鋭い痛みが走った。弾丸で撃ち抜かれたような、突き抜ける感じの衝撃だ。
「痛っ!」
「あ、祐一くん!」
 その聞き覚えのある声は、耳元と表現できるほどの近くから聞こえてきた。
「よう、隣人」
「祐一くん、大丈夫?」
 彼女――月宮あゆは、心配そうな面持ちで俺の顔を覗き込んできた。案じてくれるのは嬉しいのだが、痛いのは俺だ。何故にコイツが泣きそうな顔をしなければならないのか、それを問いたい。ま、相手はあゆだからしてまともな答えは返って来そうにないけど。
 改めて周囲を見渡すと、そこが大きなプレハブの倉庫であることが分かった。時間からすれば、まだ外は昼間と同じように明るいはずだが、嵌め殺しらしき小窓が頭上高くに申し訳程度あるだけなので、辺りは薄暗い。
 床は剥き出しの冷たいコンクリートで一面に埃が堆積している。普段はあまり使われない荷物置き場なのかもしれない。それを証明するように、あちこちに長らく動かされた形跡の無いドラム缶や木箱が積み上げられていた。俺とあゆがいるのは、入り口らしきドアから見て倉庫の最深部に位置する壁際だった。
「で、ここは一体どこで、何だって俺はこんなところで寝てたんだ?」
「それはね、ボクが人質に取られちゃったから、祐一くんは抵抗できなくなってボカってやられちゃって気を失ったんだよ。それで、車に乗せられてブーってここに連れてこられたの」
 あゆの実にバカっぽい説明で、ようやく俺は思い出した。
 そうだよ。俺はキイス・マクノートンを追い詰めて――それであゆが余計なところに乱入してきて、滅茶苦茶にしてくれたんだよな。で、後から頭を殴られて気を失って今に至るわけだ。
「それで、奴は! キイスはどこに行きやがった」
「金髪の人たちなら、ボクたちを手錠で繋いで、あの箱を置いたあと帰っちゃったよ」
「え、手錠?」
 慌てて自分の手に目をやると、右の手首にしっかりと鋼鉄の手枷が嵌め込まれていた。赤銅色のそれは、分厚い金属を主材料に極めて頑丈にできていた。日本の警察が良く使う手錠は銀色の輪っかだが、これは筒状の代物だ。長さ一五センチほどの鉄の筒がガッチリと手首から肘にかけての大部分を拘束している。囚人を監獄に捕らえておくときに使われるようなやつだ。
 その手枷から伸びる、これまた太くて頑丈な鎖は約二メートル。壁に埋め込まれた拳骨くらいの直径の鉄の輪を潜り、反対側の手枷部分があゆの左腕に嵌め込まれていた。手枷自体はその輪を潜らせることが出来るが、俺たちの身体はどうやったって無理だ。あゆか俺、どちらか一方でも手枷を外すことができれば揃って脱出することが出来るんだが。
「それに箱ってもしかして――」
 あゆが指差した方向を見ると、俺たちから五メートルほど離れた場所に大きな木箱が置かれているのが分かった。その上にはデジタル表示の時計らしきものと、集音マイク付きの高性能デジタル・ヴィデオカメラが設置されている。
 木箱に烙印されている文字を読んで、俺は愕然とした。

HIGHT EXPLOSIVE
CHARGE DEMOLITION
BLOCK M5A1

「はうあっ!」
……姉さん。[*16]思いっきり、軍用爆薬です。俺、ひとりっ子だけど。
「うぐぅ。祐一くん、どうしたの?」
「どうしたもこうしたもあるか! ありゃ、お前。爆――」
「ばく?」
「ばく……ばく、幕末ってロマンだよな」
 興味津々の瞳を向けてくるあゆだったが、俺は慌てて誤魔化した。ここでパニックになられても困る。事実は伏せたほうが良い。
 四年前の事件の後、俺は自分なりに爆弾について色々と調べた。その時知ったんだが、英語じゃ火薬と爆薬は明確に分けて定義されているだよな。日本ではどちらもまとめて火薬と言ってしまう傾向にあるが、厳密には科学的に区別されるべきものだからだ。
 Explosivesという単語の前に、"LOW"がつけば火薬。"HIGHT"がつけば爆薬。火薬は凄いやつでも、反応熱の伝播速度はせいぜい毎秒1000m。だが爆薬になると、3000〜8000程度がアベレージ[*17]だ。さらに爆薬は瞬間的に摂氏1000度から4500度程度の高温地獄を形成し、大量のガスを発生させる。その威力は半端じゃない。
 あんな大きな木箱満載の軍用プラスティック爆弾が、もし爆発するようなことになれば――
「あ、夢だ。これは夢に違いない」
 俺は即座に断定した。ああ、断定するとも。
「そうさ、俺は寝てるんだ。目覚めたら、実は超ひかえめなミッスィーの胸の谷間に顔を埋めて眠っていた、とかそんな展開なんだ」
 夢、夢を見ている……
「うぐぅ。祐一くん、さっそく現実とうひしないでよう!」
 夢の世界に旅立ちかけた俺を、あゆは乱暴に揺すって阻止した。おのれ、『げんじつとうひ』も漢字で書けそうにないくせに、生意気な。

 いや、こんな莫迦やってる場合じゃないな。とにかく、状況と情報を整理してみよう。
 実に不本意ながらも、こういった状況に俺は慣れている。と言うか、慣らされてしまった。だから極限状態にあっても比較的冷静に物事を分析できるはずだ。そして、今求められているのはその冷静で的確な状況判断に他ならない。
 まず、『WHEN』について考えよう。つまり、今の時間だ。これは腕時計をしているから、すぐに判明する。現時刻は一九時一四分だ。ロンドンダンジョンを回っていたのが一六時くらいだったと思うから、あれから約三時間が経過したという計算になるだろう。
「あゆは、ここに車で運ばれてくる間、ずっと起きてたのか?」
「うん」彼女は少し顔を青くして頷いた。「祐一くんは気絶しちゃってるし、ボクはナイフで脅されてたし、とっても怖かったよ」
「乱暴なことはされなかったか?」
「それはされなかったけど……」なにやら複雑な表情のあゆ。
 フッ、こいつは一見した限り、誰の目にも小中学生にしか見えないからな。女というよりは、子供として見られていたのだろう。一緒にいたのが佐祐理さんや香里だったら、ヤバかったかもしれない。(ピー)を(ピピー)されたり、○×を強引に△□されちゃったり。挙句の果てに――
 いや、とにかくだ。この点は、不幸中の幸いと言えるかもしれんな。うむ。何せ、あゆの(ピー)と来た日には、(ピピー)しようにも、膨らんでいるどころか抉れてるって感じだしな。ハッキリ言ってできん!
「なんか、誰かにひどい悪口を言われてる気がする」
「それは目の錯覚だ」
 あゆは唇を尖らせているが、今はそんな場合ではない。
「それで、ずっと車で移動してたのか?」
「うん。祐一くんが気絶させられてから、すぐに車に乗ってここに来たんだよ」
「ここにはいつ頃着いた?」
「少し前だよ。多分、三〇分は経ってないよ」
 ――ということは、ここはロンドン中心部から車で二時間から二時間半程度の場所だということになる。『WHERE』については、このあたりからアプローチできるだろう。
 奴らが北に進路を取った場合、どこまで行くかな。二時間ちょいあればバーミンガムあたりまで行けるか? 南だと、海に出る。東でもドーヴァー海峡にぶつかるな。西だとストーンヘンジあたりまでは来られるだろう。
「ここに来るまでに、周囲の景色を見たか?」
「ううん」あゆは首をぷるぷると左右した。「男の人たちに挟まれて座ってたし、窓はサングラスみたいに黒かったから、良く見えなかった。車から降りた時は、ちょっと見えたけど――周りは木で囲まれてたよ。ボクと祐一くんの学校みたいに」
「そうか……」
 駄目だな。情報量が少なすぎて、場所を特定するには至らない。木々に囲まれた小さな倉庫など、この連合王国には数千箇所は存在するだろう。

 じゃあ、『WHY』について考えてみるか。つまり、何故俺たちはここに連れてこられ、こうして繋がれているか。その理由についてだ。
 ――でもまあ、それは考えるまでもないよな。目の前の爆弾とキイスの性格がそのことを既に語っている。俺たちの命を使って、奴は遊んでるんだ。ちょっとしたゲームのつもりなんだろう。そうなると、俺たちに与えられた最大の命題は、『HOW』ってことになるかな。この場合は、どのように俺たちをこの窮地に追い込んだかではなく、どのように俺たちはこの窮地を逃れるかだ。
 これについては、やはり四年前の教訓を活かすしかないだろう。
「しかし、あのデジタル表示の意味するところは、やっぱり時限式の爆――」
「ばく?」
「ばく……ばく、ばくばくタイヤキ食いたいよな」
 我ながら、苦しすぎるフォローだ。
「うん!」だが、単純王あゆは即座に騙され、嬉しそうに頷いてくれる。「そう言えば、ボクはトランプで祐一くんに勝ったから、日本に戻ったときタイヤキいっぱい買ってもらえるんだよね?」
「ああ。無事に帰れたら――な」
 それにしても、こりゃどういうことだ? 丸っきり、四年前と展開が同じだ。閉鎖された倉庫。手枷で拘束された身体。目の前に置かれたプラスティック爆弾。タイムリミットを刻むデジタル表示。
 違いといえば、かつての親父の立場に俺がいて、かつての俺の立場にあゆがいるということくらいだ。あと、ヴィデオ・カメラが俺たちを監視しているってのも前には無かったパターンだ。
 恐らくキイスは、あのカメラを通して俺たちを観察しているに違いない。安全な場所に避難して、ソファに踏ん反り返り、ワイングラス片手に俺たちが死ぬまでの模様を中継させてるんだ。
 腐りきった頭してやがるくせに、なかなか粋な演出を思いつくじゃねえか。
「キイス・マクノートン。あの野郎――」



GMT Mon,24 July 2000 7:12 P.M.
7月24午後7時12分――拉致から3時間後 ロンドン郊外 某所

「ふーん、じゃあ殺人事件を解決したってわけか」
 ステアリングを握る相沢氏が、感心したように唸る。
「なかなか刺激的なスクールライフを謳歌してるようだな、ウチのドラ息子も嬢ちゃんたちも」
 メンバーが『Y'sワゴン』と呼ぶ、ロックバンドY'sromancerが移動用に用いている特別車両は、天野さんを含めた私たち全員を乗せて、ロンドンをヒースロー空港方面――つまり西に進んでいた。今更改めて言うまでも無いが、マクノートン家というマフィアの一族の本拠地に向かうためだ。
 白い塗装のY'sワゴンの後には、ピッタリと黒塗りの大型ワンボックスが付いて来ている。その車には、このワゴンに乗り切れなかった護衛のスタッフが満載した武器と共に乗り込んでいるはずだ。マフィアは武装していることが予想されるため、彼らの助力が今回の行動には不可欠である。
「しかし、それじゃあ高校はいつ再開されるんだ? あんまり休んでるとマズイだろう、流石に」
「でも、まだ犯人が捕まっていないと皆は思ってますからねえ。もしかすると、犯人が捕まるまでずーっと休校かもしれません」
 栞は神妙な顔つきで言った。彼女は学校が大好きなので、長期休業状態の現状には満足していない。逆に、相沢君なんかは学校に行かなくて良いと大喜びだったけど。
「そうか。お前さんたちが勝手に解決しちまって、しかもそのことを秘密にしてるから警察は真相に辿り着けないわけだな?」
 相沢氏は黒手で顎を擦りながら言った。単純そうに見えて、彼は複雑な話でも結構器用に咀嚼して見せる。そこは流石に、私たちより人生経験の豊富な大人だということだろう。
「生徒会で連続殺人ねえ。物騒な世の中だな」
「芳樹さんは、復讐についてどのようにお考えですか?」
 まだ絶対安静が必要なはずの天野さんが、私も気になっていたことを口に出した。いつだってそうだが、私と彼女の質問の種類と質は一致することが多い。それは多分、喜ぶべきことなのだろうと思う。頭の回転の速さや理解度の高さを見るにおいて、『質問』の内容に着目するのは効果的だ。
「ご子息は、どうやら肯定的に捉えていたようでしたが」
「したい奴はすれば良いんじゃないの? 俺は別になんとも思わないよ」
 相沢氏は、大きく開け放った窓から入り込んでくる風に、心地良さそうに目を細めた。
「大体、被害者が犯人やら悪者を法の裁きにかけたがるってのも、見方によっちゃあ復讐ってことになるんじゃないのか? 多分、こいつは社会の規律を乱したから、その罰を受けなければならない――なんて殊勝なことを考えて告訴するやつなんざ少数派だろう。大体の被害者は、自分たちをこんな酷い目にあわせた犯人が、のうのうとシャバをうろついてるのが気にくわねえって感じで犯罪を告発するんじゃないかと思うがなあ」
「ほう」天野さんは、別の意味で目を細めた。多分、それは微笑に相当するんだろう。 「相沢さんは、正義を信じていないのですね」
 天野さんは、静かに言った。
「そうだな。少なくとも、俺は正義を見たことが無い」
 話題はこうして果てしなく未知の方向に流れていく。マフィアに友人が二人拉致されたという緊張感を、それは緩和させる効果があった。
 私たち共通の友人である相沢祐一が持つ、『この人ならもしかしたら』という期待感。それを、相沢芳樹も同様に――或いはそれ以上に持っていた。彼の傍にいると、どんな危機が訪れてもどうにかなりそうな気がしてくる。そんな不思議な力だ。

 自分の友人が『危険な人物に誘拐された』と聞いた時に受ける自分の衝撃は、ある意味で容易に想像できることだろう。――誰に誘拐されたのか。友人は無事なのか。五体満足に帰ってくるだろうか。何のために誘拐されたのか。どうすれば良いのだろうか。
 誰もが似たようなことを考え、似たような反応を示すに違いない。
 下手をすればパニックという、そんな状況下に置かれて、私たちが比較的平静な状態を保っていられるのは、心の拠り所となる存在が近くにあるからだ。
 相沢祐一にせよ、彼の父親にせよ、普段から非凡な能力を発揮し目を見張るような言動を繰り返すようなタイプではない。むしろ、いつもはグータラで少しエッチで、何をするにも面倒そうにしている怠け者だ。でも、誰もが心の中に芽生えた不安に押し潰されそうになった時、最も頼りになるのが彼らであったりする。
 何故だかは知らない。でも、私たちはそれを経験則的に知っていた。

「祐一とマグちゃんは、恐らく無事だろう。少なくともしばらくは」
 唐突に、相沢氏は言った。
 座席の一番後では、夏夜子さんがアンプとスピーカーを内蔵したギターでバラードを弾いている。
 不可思議な空間が、そこには形成されていた。
「その根拠となる理屈は、大きくふたつだ。ひとつは、奴らが祐一たちを殺すなら手っ取り早くその場でやったであろうこと。気絶させた男は抱えて車に乗せるより、その場で喉を突いて殺した方が楽に片付けられる。わざわざ気絶して運ぼうとしたのにはそれなりのわけがあるはずだ」
 一理あるかもしれない。私は少し思考して、そう結論付けた。
 確かに、殺したいならすぐにやれば良いはずだ。安全なところまで連れていき、秘密裏に処理するという手もあるが、そんなことをする理由が彼らにあるだろうか?
「ふたつ目の根拠は、キイス・マクノートンって奴の性格だ。ヤツは他人の命でゲームをするのが好きなヤツでな。他人を地獄の底に突き落としておいて、そいつが必死に這い上がってこようとする姿を見て喜ぶタイプの人間なのさ。それを考えると、すぐに祐一たちを片付けちまうとは思えない」

「まるで、彼を直接知っているような言い方ですね」
 私はずっと気になっていた質問をぶつけた。
 相沢君の言動といい、彼らがマクノートン家と何らかの関係を持っていたことはほぼ確実だ。
「まあ、色々あったからな。昔」
 相沢氏はステアリングを握り、まっすぐに前方を見詰めたまま言った。後姿しか見えないため、彼がどんな表情をしているかを窺い知ることはできない。
「とにかくだ。無事に帰ってくるかは分からないが、命だけは助かるような気がするよ」
「んー、それってどういう意味でしょう?」
 難しい顔をして、栞は唸る。
「言葉通りだ。厄介事ってのは、理由もなくやってくる。それから逃れるためには、幾らかの犠牲が必要なときもあるってことだな。いつだって無傷で厄介事を切り抜けられるとは限らない。だろう?」
「はい。分かります」
 栞の口元から、人懐っこい笑みが消えた。
 急に十歳も年老いたような声で、彼女は囁く。その相貌には、天真爛漫な少女の面影は微塵も無かった。この世の全てを知り尽くした老婆のような、そんな翳りさえ見えるような気がする。
「よく分かります」
 確かに、栞はこの世の誰よりそれを良く理解している人間かもしれない。
 彼女はある意味で、産まれた時から『厄介事』を背負ってきた。死に至る病。確かに、それは何の理由も無く、栞の命を蝕みはじめた究極の厄介事だったとも言える。

 栞の闘病生活は、熾烈を極めた。見守るだけの私ですら、諦めかけた窮地にさえ追い込まれた。
 結果的に、彼女は重い血液のガンを克服したかに見えるが、その勝利には様々な代償を強いられた。
 強力な抗癌剤の副作用と、化学療法や放射線照射の悪影響を受け、栞の生殖能力は破壊されたのだ。故に、彼女には生理が存在しない。これからも永遠に、彼女は初潮を経験することはないだろう。
 それはつまり、彼女が子供を産むことができないことを意味する。
 まだある。栞はこれからも、無知な人間たちの偏見や差別の視線に苛まれて生きていかなければならないだろう。『重い病』『長期の入院生活』『不妊』などといった言葉を聞いただけで、必要以上の過剰反応を見せ、近寄ったら感染するとばかりに距離を置きはじめる人間は、思いのほか多いものだ。
 病を乗り越えた後も、栞の戦いは続く。死ぬまで、恐らくそれは変わらないだろう。
 栞もまた、生きるために何かを犠牲にして命を支える人間だ。その代表と言ってもいい。彼女は運良く勝利を手にしたが、それは無傷の完全勝利ではなかった。生涯消えない大きな傷痕が、肉体的な意味においても精神的な意味においても、美坂栞には残っている。

「でもな、大きな代償を支払って何かを手に入れた人間だからこそ――そんな人間にしか、掴めない物もあるんだ。もう気付いてるかもしれないが、俺もかつてその代償ってのを支払った。それが、この左腕さ」
 相沢氏は、ステアリングから右手を離し、ポンと自分の鋼鉄の左手を叩いた。
「腕の一本や二本は別にどうでも良かったんだ。でも、俺の左手にはちょっと特別な意味があったからな。ショックが無かったと言えば嘘になる。でも、俺はあの時の決断を後悔したことはない」
 ――私は彼が左腕を切断した理由を知らない。ただ事故の結果、そうなったとしか聞いていないのだ。だから、相沢氏の言葉を正確に理解するのは難しかった。
 でも、彼が何か重要なことを訴えていることだけは、なんとなく分かった。それは、固唾を飲んで彼の話に聞き入る他のメンバーたちも同様らしかった。

「皆は心配してるだろう。そりゃそうだ。マフィアに拉致されたってことは、最悪のケースに至る確率も相当高いってことだろうからな」
 相沢氏は前を向いたまま語る。気付けは、車窓を流れるのはロンドン中心部の都会的な風景ではなく、田舎の素朴な緑になっていた。
「でも、俺は正直、期待している。これが良い機会になるんじゃないかってな。この逆境を乗り越えるために、もしかすると祐一は大きな決断を強いられることになるかもしれない。そんな予感がするからこそ、どこかで期待しちまうんだ。その一線を超えた時、あいつはどんな奴になってるだろうって」
 淡々と語るようではあるが、私にはその言葉に微かな熱が感じられたような気がした。

「俺たちの業界には、確かに凄い奴らがいる。ライヴを開けば、Y'sの十倍の客を集めちまうバンドもいる。凄い演奏技術や歌唱力を持った奴もいる。新曲をレコーディングするたびに、世界で一〇〇〇万枚も売り捌いちまう化物みたいな奴もいる。俺たちが幾らやっても、そんな連中には及ばないだろう。俺たちじゃ、その意味では奴らには勝てない」
 夏夜子さんのギターが、止まった……ような気がした。
「――だが、金を稼ぐ能力と業績は認めても、俺のサウンドが奴らに及ばないと感じたことは生涯一度もない」
 旋律が再び始まる。ミラーを覗き込むと、Y'sromancerの口元が覗えた。
 彼は、笑っていた。
「俺はまだ、俺の限界を見てない。敵がいないからだ。この世界、今じゃどれだけ金を稼げるか。何回、専門誌の表紙を飾れるか。何枚ディスクを売り上げられるかで評価されちまってる。サウンドが数値化されちまってるんだ。だけど、俺はそんなのどうだっていい。感動は数値化なんざできないと思ってる。他のアーティストたちとは、目指す方向が違いすぎるのかもな。俺たちY'sは異端なんだ。プロとしては失格なのさ。
 だから、Y'sromancerは敵が欲しい。そいつと戦うと、自然に死ぬほど熱くなっちまうような、そんなスゲェ敵だ。俺たちを限界まで追い詰めるような、とてつもない敵だ。そいつがこの地上にいないなら、作るしかない」
 夏夜子さんの口元にも、同じ微笑。
 彼らの浮かべる同じ笑みを、私はつい最近一度見ている。あの時――
 相沢君や護衛たちに『エンクィスト財団』の存在を聞かされ、それが世界で最も恐るべき存在であることを知らされたとき。あの時、相沢氏は同じような笑みを浮かべて喜んでいた。

 ――敵が欲しい。
「ああ、だから……」
 私は、唐突に理解した。
 それを裏付けるかのように、Y'sromancerは囁く。
「人間は結構、頭の良い動物だ。だから、心のどこかで、本当は気付いてるんじゃないかって思う。みんな気付かないフリをしてるだけで、実は『自分がどんな人間にならなきゃいけないか』ってことを知ってるって。でも、その『目指す自分』の姿があまりにも高いライン上にいるんで、諦めちまうんだな。
 だから、俺は人間には2種類しかいないと思ってるのさ。要するに、その一線を超えられる奴か超えられない奴か」
 相沢祐一は、まだその一線を超えていない――?

「俺たちは、だからそれを期待している。この世にふたつのYが成立した時、一体どっちのYが強いのか……それを見てみたいんだ」



GMT Mon,24 July 2000 7:12 P.M.
7月24日月曜日午後7時12分――拉致から3時間後 ロンドン郊外 某所

「よし、この辺でいいだろう」
 軋むような音を立ててサイドブレーキを引くと、相沢氏はワゴンのエンジンを切った。
 同時に、後部座席でアンプを内蔵したエレキギターで、静かなバラードを奏でていた夏夜子さんの手も止まる。その旋律を子守唄代わりにして私の肩の上で眠りこけていた栞も、車の振動が止まったことに気付いて目を開けた。
 ロンドンを出て、モータウェイを西に車で1時間。ヒースロー空港よりも更に西に来たのは初めてだが、どうやらここが目的地らしい。
 窓から外の景色を眺めてみると、ロンドン中心部の都会的な風景とは全く違う緑の草原が視界の大半を占めていることが分かった。目立った民家は数えるほどしかなく、長閑で意外なほど質素なヨーロッパの田舎がそこには広がっている。目を凝らすと、進行方向の道先に白く大きな屋敷らしきものがあるのが見えた。

「この先に、別荘風の白い洋館が見えるだろう? ほら、あれだ」
 ステアリングに手をかけたまま、相沢氏が目を細めて言った。
「あれが、マクノートンの本拠地だ。首領の一家はあそこにいることが多いって話を聞く。噂だがな」
「なんでここで止めちゃうんですか?」
 栞が寝ぼけ眼を擦りながら言った。
「マフィアの屋敷だ。大使館並に警備は厳しい。銃器を持ったボディガードがわんさか巡回してるだろうからさ。車で近付くと目立ちすぎる。――最近のワルは、装備も近代的なのさ」
 だが、その言葉に真っ向から挑戦するようにして、私たちの乗る車の脇を黒塗りのワゴン車が通り過ぎていった。
 倉田先輩の――いえ、武闘集団『Thuringwethil』のメンバーたちが乗り込んでいる車両だ。

「あの連中が先に乗り込んで、場を荒らしてくれる手はずになってる」
 相沢氏は唖然としてそれを見送る私たちに、苦笑しながら説明した。
「あの『Thuringwethil』ってのは、どうやら正規の訓練を積んだ超一流のプロらしい。ピストル持ったマフィア程度じゃ歯がたたんだろう。奴らは混乱するはずだ。その隙に乗じて――」
「一気に行くんですね」
 私は言った。如何にも、相沢氏が考えそうな派手かつ大胆かつ単純な作戦だ。いや、こんな単純な陽動は、作戦と呼べるほどの代物ではあるまい。
「ま、そういうことさ。美坂姉」
 ニヤリと彼は笑う。新しい悪戯を考え付いた、相沢君の邪悪な笑みと全く同じだ。
「作戦は単純だが、それ故に有効に作用すれば効果もでかい。兵法の基本だぜ」

 まもなく、遠くの洋館から白煙が上がった。それと同時に、ズーンという重い爆発音や破裂音、乾いた銃声などか響き渡ってくる。
「うわ〜、いま本当にボカーンって爆発しましたよ。凄いですねえ」
 花火でも見るように暢気な感想を漏らす栞だったけど、私はそれどころじゃない。
「ちょっと、ちょっと。戦争でもはじめる気なのあの人たちは!? 屋敷、燃えてるじゃない」
「あはは〜、佐祐理のボディガードさんは、割と過激な人たちですから」
 倉田先輩まで人事のように――。この人たちは、その過激な人たちが滅茶苦茶にしてくれた場所に、これから自分たちが乗り込むのだということを理解してるのかしら?

「おう、やるじゃねえか!」
 相沢氏は楽しそうに叫ぶと、再びキーを回した。
 唸りを上げて、エンジンが再び目覚める。心地よい振動が蘇った。
「よっしゃ、こっちも負けずにいくぜェ! 夏夜子、一発イキの良い奴を頼む!」
「OK!」
 その声と共に、夏夜子さんの指が視認出来ないほどの速度で高速運動をはじめた。
 瞬間、スペックの低い玩具程度のものと聞いていたアンプ内蔵ギターから、ビートが弾け出す。凄まじい疾走感が、ライヴで私たちの脳髄に直接突き刺さってきた。
 身体は、まだあの日のハイゲートでのGIGを覚えているみたい。痺れるような何かが、私の中の最も深い部分を刺激して走り抜けていく。
「カァ、燃えてきた! 突撃ィ!」
「いやっほー! です!」
 踏み抜いてしまうほどの勢いで相沢氏がアクセルを踏み込むと、ワゴンは怒涛の勢いで走り出した。
 相沢氏はもともと火の玉みたいな人だから仕方ないとしても、栞までノリノリなのは何故?
 いえ。それよりも、今『突撃』って聞こえたのは気のせいかしら。気のせいよね?

「Live wire(ギンギンだぜっ)!」
「ド派手にいくぜィ、ですぅ!」
 目が……目が据わってるわ、この人たち。
 その間にも私たちの乗るワゴンは加速し、唸りを上げてマクノートンの屋敷に突っ込んでいく。
 凄まじい振動の中、スピードメーターを盗み見た私は驚愕のあまり目を見開いた。――メーター、振り切ってる!?
「相沢一家ファイヤー!」
「美坂一家もファイヤーですぅ! ホラ、お姉ちゃんも声出して。拳固めろ、です!」
「あはは〜、倉田一家も負けずにファイヤーですよー!」
「川澄一家も、牛さんのように突進。もー」
「お母さん、負けてられないよ。水瀬一家は水瀬だけにウォーターだお!」
 相沢氏と栞の炎が燃え移ったのか、何やら夏夜子さんの激しいビートにのって全員が極度の興奮――ガンパレード状態に陥ってしまったみたい。目をギラつかせて、拳を振り上げている。
 私は今は、マフィアより危険で性質が悪い連中と行動を共にしているのかもしれない。

「いやぁ! 誰か、この人たちを何とかしてぇっ!」
「儚い人生でしたね、美坂先輩。相沢一家に関わってしまったのが私たちの運の尽き。真琴、また逢えるかもしれませんね……」
 天野さんは目を閉じて静かに祝詞を唱えはじめた。
「お、小父さまっ、前! 門がしまったままです」
 弾丸のようにカッ飛ぶY'sワゴンは、瞬く間にマクノートンの屋敷に接近していた。
 だけど屋敷に突入する前に、広大な中庭を突っ切らねばならず、その中庭に入るためには大きな鉄柵の門を越えなければならない。
「関係ねえぜ! 障害ってのは、ブッ潰すためにあるんだ」
「その通りです! 私たちの熱いパトスをぶつけてやりましょう」
「おう、良く分かってるじゃねえか、美坂妹!」
 相沢氏と栞は、絶妙のコンビネーションを見せてパンと手を叩き合う。

「火に油、ですね。美坂先輩」
 合掌しながら、天野さんが静かに告げる。
「彼らの性格は知っているでしょう?」
「いやー、もう降ろしてぇ!」
 だが、私の懇願も哀願も彼らには全く感銘を与えなかった。
「全員、歯ァ食いしばって近くの物にしがみ付け。いくぜっ! 突撃のォ――交通事故ッ!」
 瞬間、ワゴンを凄まじい衝撃を襲った。
 そして私の視界の端を掠めていったのは、グニャリと歪に変形して吹っ飛んでいく鉄の門の残骸。
「よっしゃあ、突破!」
 相沢氏は、今のショックでひび割れたフロント・ウインドウを肘でガスガスと破壊し、窓枠から外しながら叫ぶ。
「我が道に敵無し、です!」

 鉄柵を力業でねじ伏せると、手入れの行き届いた緑の芝に自前の『道』を刻み込みながら、Y'sワゴンは疾走を続けた。いえ、私に言わせればもはや暴走。
「コソコソ行くのは性に合わねえ。このまま、正面から一気に屋敷まで乗り込むぜ」
「首洗って待ってろ、マクノートン! です!」
 もう、好きにして。
「それにしても、陽動は見事に成功したようですね」
 こんな時にでも冷静な天野さんは、窓から周囲の様子を窺いつつ呟く。
「まだ武装した巡回のガードには遭遇していません。恐らく、裏の方に集まってるのでしょう」
「でも、見て。至る所に監視カメラや防犯システムがあるわ。きっと、中の人たちは私たちが入り込んだことに気付いているはずよ」
 今まで成り行きを静観していた秋子さんは、庭先や塀のあちこちに設置されている防犯機器を指差して見せる。確かに、これは非常に厳重なシステムが敷かれているようだ。

「あれだな、本館は」
 相沢氏の言葉に、全員の視線が前方に集中した。
 意匠を凝らした本場のガーデニングで見事に彩られた庭園、陽光を浴びて水面が煌くプール、テニス・コートまでもが揃っている広大な敷地内の中央、そこにアメリカのホワイトハウスを思わせる巨大な白い豪邸が構えていた。
「祐一さんとあゆさんは、あの中にいるのでしょうか?」
 倉田先輩が大きく縦に揺れる車内で、舌を噛まぬよう細心の注意を払いながら呟く。
 それは全員が胸に抱いていた疑問だった。彼女は代表して、それを口にしたに過ぎない。
「分からない。だが、行けば確かめられるさ」
 爆走を続けていたワゴンは、ようやくその突進を止めた。

「さあ、みんな降りて。ここからは歩いていかなくちゃならないわ」
 最初に車外に出た夏夜子さんが、後部に回りこんでトランクを開けると言った。
 Y'sワゴンは、その名の通りロックバンドの『Y'sromancer』が移動用に利用している特別車だ。座席の後部はドラムセットや大型の楽器が置けるよう、シートなどの余分なものが排除されているから、そこから乗り降りが可能なのだ。
「でも、この玄関のドア、鍵がしまってますよ」
 テクテクと無防備にドアに近付き、栞は「ふんぬ〜」とか唸りながらドアノブを引っ張るが、それはビクリともしなかった。
 見た感じ重厚で大きな木製のドアだ。材質は固い樫だろうか。開け閉めするにも力を込めなくてはならないような、重くて大きな外見である。鍵穴もふたつあって、それはどちらも見るからに頑強そうだった。
 そのドアの向こうからは、戦場から鳴り響いてくるような轟音と男たちの怒号、そして銃声が聞こえてくる。本当にThuringwethilのメンバーは派手に暴れているようだ。

「ちょっと、どいてな」
 運転席から降りてきた相沢氏が、栞の肩に手を置いて彼女を下がらせる。
「ドアってのはな」
 鈍く黒光りする左腕を振りかぶり、
「ブン殴りゃ破れるもんだ!」
 渾身の力を以って叩き付ける。人間の拳が生み出したとは到底思えない、耳を劈くような破壊音が周囲に響き渡った。まるでスレッジ・ハンマーで思い切り殴りつけたかのような破壊力。高さ3メートルを超える巨大なドアは、大きく震えた。
 彼が殴りつけた個所は、巨大隕石が落下して大地を穿ったかのように、大きなクレーターが出来あがっていた。ドアには中に鉄板が仕込んであったらしく、粉砕された木片の下からは赤銅色の金属が見え隠れしている。

「もう1発!」
 2撃目、3撃目が繰り出され、そして4度目のインパクトと共にドアは遂に黒い拳に屈服した。スローモーションを見るように、ゆっくりと家の内側に向かって歪に変形したドアが倒れていく。
 ズン! と腹部に響く重たい音が響き渡ると、もうそこに障害物は無くなっていた。
「その義手は凄いんですねえ。佐祐理は驚きました」
 倉田先輩が目を丸くしながら驚くのも無理は無い。強力な打撃を繰り出しても、筋電義手ロマンサーには傷ひとつ入っていなかった。
 義手が関節など、構造的に脆い部分を多く持つマニュピレータの一種だと考えれば、この硬度と耐久性は驚異的と言える。これを開発したスイスのカストゥール研とはよほど優秀なのだろう。素材や技法にも最高のものを揃えたに違いない。
「なんでも、ラグランジュ・ポイントとかいう軌道衛星上でしか精製できないレア・メタルを使ってるらしいぜ、こいつは。超硬度を誇りながらも、金属反応がほとんどでないとか。劈開をつけばダイヤモンドでも殴り割れるって、これをくれたシルヴィアは言ってたな」
 自分の左腕を不思議そうに見詰めながら、相沢氏は言った。
「なんて言ったって、シルヴィアが打ち出した開発コンセプトは『生身の腕を切り落としてでも欲しくなる義手』だからな。本気で、メンテにさえ気をつければ生身の腕より便利で使えるよ、コイツは」
 まあ、チェロは前みたいには弾けないけどな、と彼は笑った。

「遅かったわね、皆さん」
 と、殴り倒したドアの向こう側から、女性の声が聞こえてきた。
 もちろん、その声には聞き覚えがある。倉田先輩の雇った護衛の一人で、名前は確かREGINA KING。元連邦捜査局のスペシャル・エージェントだったという人だ。
「パーティはもう酣。残念だけど、ご馳走はもう残ってないわよ」
 そう言って、彼女はクスクスと笑った。
「では、既に?」天野さんが訊ねる。
「ええ、この屋敷は既に占拠したわ。マフィアたちも全員捕らえて拘束するか、麻酔で眠らせておいたわ。もう安全です」
 この彼女の言葉には、多少驚かされた。彼らが私たちに先立って、陽動のために突入したのは十数分前のこと。それだけの短時間で、彼らはこの館に巣くうマフィアたちを全滅させてしまったということになる。
 自分より弱い者を虐げるための暴力と、強きを挫くために鍛え上げた戦闘力。アマとプロとの違いが、ここに歴然と証明されたことになるのかしらね。

「流石」
 あまり彼女が他人を誉めるところを見たことが無いが、川澄先輩も今度ばかりは彼らの実力を認めないわけにはいかないようだった。
「私たちなんてまだまだよ。シェフ(鷹山)がいたら、一人でもこの半分の時間で終わらせちゃうわ」
「はぇ〜、鷹山さんはそんなに強いんですか」
 倉田先輩は、大きな目を更に大きく見開いた。
「彼女はAランクのPSYMASERですからね。Aランクの能力者の戦闘能力は、完全武装した特殊部隊で3から4個分隊に匹敵すると言われているわ。つまり、30〜50人分の仕事を一人でやっちゃう人なの」

「それで、それで、祐一さんとあゆさんはいたんですか?」
「残念ながら今のところ、見つかったという報告はないわね」
 栞の質問に、声のトーンを落として女性ボディガードは首を左右した。彼女の腰にぶら下がった軍用トランシーバからも、それらしい知らせは入ってこない。
「じゃあ、この屋敷の中にはいないってことですか?」
 栞が噛み付くような勢いで、重ね問う。
「いえ、マフィアの屋敷には武器や麻薬を隠すための秘密の部屋があることも多いから。今、ヒルデやラルフたちがそれを探しているところよ」
 そう言うと、彼女は踵を返して歩き出した。どうやら、屋敷内を案内してくれるらしい。

「収穫は今のところ無しですか? 相沢君たちを拉致していったキイス・マクノートンは?」
 彼女の後を追いながら、私は質問した。
 たとえ相沢君たち本人を発見できなくても、それに繋がる情報は最低限手にいれなければ困る。
「キイス・マクノートンは発見されたわ。エリックが、拘束してる」
「何か聞き出せましたか?」
「いえ」女性護衛は、秋子さんの質問に首を左右した。
「それはあなた方に任せます」



GMT Mon,24 July 2000 7:27 P.M.
現地時刻7月24日午後7時27分 爆発まであと33分――某所

 くーという、実に頼りない音が静かな倉庫内ではやけに大きく聞こえた。
 別に隣で名雪が寝ているわけじゃない。あゆの腹の虫が騒ぎ出した音だ。
 左腕を覗き込むと、腕時計の短針は既に一九時を回っていた。最後にメシ食ったのは、朝の九時頃だからなぁ。イングリッシュ・ブレックファーストで沢山掻き込んだが、流石に消化を終えてしまっている。あゆと同じように俺も多少の空腹は感じていた。
「お腹すいたねー」
 あゆはちょっと切なさを感じさせる声で言った。
「そうだな」
「こんな時は、やっぱりタイヤキに限るよね」
「いや、それはどうかな。夏真っ盛りだし」
 あゆは相変わらずのんきだ。目の前に置かれてるのが大量の爆薬であることも理解してないし、休むことなく時を刻むデジタル表示の数字が、自分の死に向かうカウントダウンということにも気付いていない。手錠で見知らぬ倉庫に繋がれて身動きがとれない、困ったなあ――程度にしか考えていないのは明白だった。
 いいよなぁ、お気楽者は。状況を正しく認識する俺は、彼女と違って自分の空腹だけを心配するわけにもいかない。どうやって生き延びるかを具体的に考えないと。
 デジタル表示の示す残り時間は、00:33:41。――三三分四一秒だ。
 俺の腕時計と見比べてみるに、三三分後の二〇時ジャストに爆発するようにセットされているらしかった。つまりは、そういうことだ。

「はぁ」
 俺は軽く溜息を吐くと、気分を変えて体の力を抜いた。そして冷たいプレハブの壁にもたれた。
「のう、あゆさんや」
「ん、なあに?」あゆは大きな瞳を俺に向けて、自然に微笑む。
「暇だな」
「そう? ボクはこういうぼ〜っとしてるのは好きだけど。祐一くんも一緒だし、楽しいよ」
「そうかい」
 また溜息が出た。どうしてまあ、こいつはこうお気楽なんだろう。うちのパーティにはマイペースな奴が多いが、舞と名雪に並びあゆって奴はトップを争う資格を持った人間だろう。
「なあ、学校のこと覚えてるか?」
「学校って、あの森の学校のこと?」
「ああ」
 ガキの頃、二人の遊び場だった森を思い出す。そこは俺とあゆにとって、授業も、怖い先生も、宿題もない、理想的な遊びの学校だった。
 あの時は静かな森の中で、取り止めの無い話を日が暮れるまで続けたものだ。今になって考えてみれば、あれ以来、あゆと二人きりで色々な話をジックリ交わしたことなどなかったかもしれない。
「あの時は、楽しかったな」
「うん。あんな学校が本当にあれば良いのにね」
 あゆは満面に笑みを浮かべて言った。こいつは、あの頃から全然変わらない。

「でも、楽しいばかりじゃなかったな。少なくとも俺にとっては」
 目を閉じて、当時のことを思い起こす。
 数ヶ月前まで、それは恐怖の体験でしかなかった。自分の最も深い場所にその思い出を封印し、全てを忘れたつもりで生活していたくらいだ。回想するのが恐ろしいほどの、悲しくて辛い記憶。――あれは、そんな出来事だった。
「あの時、登っていた大樹の枝から、お前は落ちた。声も出なかったよ。白い雪を溶かすみたいに、お前の紅い血が染み広がっていくのを見ても、俺は衝撃のあまり一歩も動くことができなかった」
 動けなかった。
 躊躇うことなく、一瞬たりとも迷うことなく、駆け寄りたかったのに。抱き上げてあげたかったのに。
 俺はどうしても動けずに――
 ただ終わりの瞬間を見詰めているしかなかった。

「そして、俺は逃げ出した。その場所から離れたって意味でもそうだし、現実逃避って意味でもそうだった。そのこと自体は――自分で言うのもなんだが――そこまで責められないと思う。俺はガキだったし、力もなかった。子供が受け止めるには大きなショックだっしな。あの時はもう、何も考えられない状態だった」
「ゴメンなさい。ボクのせいで、祐一くん大変だったんだよね」
 力なく項垂れて、あゆは言った。
「お前が謝ることじゃないさ。逃げることを選んだのは、俺なんだから」
 彼女の色素の薄い茶色がかった髪に左手を置き、軽くクシャクシャと撫でる。
「辛くて逃げるのは俺の勝手だ。それを責めて良いのは、たぶん俺自身だけだろう。だけど、そのことで名雪や舞やお前を傷付けたり、悲しませたりするのは許されることじゃない。それはもう、俺ひとりの問題じゃなくなるからな」
「ボクは寝てたからあまりよく分からないけど――祐一くんは、名雪さんや舞さんを悲しませちゃったの?」
「まあ、そうなるんだろうな。そりゃ、ある意味で仕方がなかったのかもしれないけど、でも事実は事実だ。そのことは今も後悔してる。どうしてあの時、もう少し勇気をだせなかったんだろう、とかな。やらなかった悔いってのは後々まで残るもんなんだ。自分を気遣ってくれる人に誠意を返せなかったことも含めて、やっぱりなんであの時……って風には思うよな」
 それは程度やシチュエーションの差はあれ、誰でも経験のある悔恨だろう。
 もしもあの時こうしていたら。もっとああしていたら。不本意な過去を思い起こして、幾つもの『if』を想像してしまう。どんな人間にも小なり身に覚えがあるはずだ。
「りぐれっと、だね」
「リグレット?」
 聞きなれない言葉に、俺は首を捻った。それ以上に不可解なのは、あゆが俺の知らない単語を知っていたという事実かもしれない。まさか、ボキャブラリィでこいつに負けるとは。

「うん」
 あゆはにっこりと笑って、少し胸を誇らしげにそらした。
「ボクだって、ちゃんと大検っていうのに向けて、秋子さんや美汐ちゃんに勉強教えてもらってるんだから。後悔はね、英語でリグリットっていうんだよ。この前おぼえたもん」
「俺は日本人だからそんなこと知らなくてもいいんだ」
「でも、ここはイギリスだから英語でしゃべらなきゃいけないんだよ。その国に行ったら、その国の言葉でできるかぎり話そうとするのが礼儀だって、祐一君が言ってたよ」
「うぐぅ」
 なんてこった。あゆごときに一本取られてしまった。
 俺はもう立ち直れないかもしれない。人生最大の痛撃だ。転落だ。挫折だ。
「うぐぅ。なんか、ひどくぶじょくされたような気がするよ」
「そりゃ、眼の錯覚だ」
「眼は関係ないよう」
 複雑な表情で呟くあゆを尻目に、俺は静かに天井を見上げて物思いに耽った。
 都心の喧騒から離れたこの場所は、とても静かだ。会話が途切れると、その沈黙が強く意識された。
「――祐一くん?」
 あゆは、急に黙り込んだ俺の横顔を、不思議そうに見詰めている。
「あゆも知ってると思うけど、色んな偶然が重なって、俺って七年ぶりにあの街に帰ることになったんだよな。で、お前たちとまた会ってさ。まあ、忘れてたこも多かったし、だから再発見も結構あった。少しずつ、七年前にその街で経験したことを思い出していった」
「うん」
 本当、改めて考えてみると、奇跡的なまでの偶然が連続して起こったことになる。そして、信じられないくらい多くのことを極めて短期間の間に体験したことになる。
「結果的に、最も重要だと思われる部分は全部思い出して、それなりの決着をつけたつもりだ。処理できてなかった過去の面倒ごとを、少しずつ咀嚼していくことに成功した――と解釈しても良いと思う」
「ふうん」
 多分、あゆは良く意味を理解してないんだろう。一応、相槌を打っておきましたといった感じだ。

「なあ、あゆ。お前、カノン[*18]って知ってるか?」
「えっ、かのん?」
 あゆは元から大きな目をさらに大きくして、キョトンと俺を見上げる。
「知らねえか」
「うん。聞いたこと無いよ」
「カノンってのはな、楽曲の形式のひとつだ。つまり、音楽の言葉だな」
「音楽の言葉?」
「難しく言うと、第一声部旋律を第二、第三の声部が対位法により忠実に模倣しつつ進行させる技法だ」
「うぐぅ、ボクには難しいよ」
 ぽよぽよした柔らかそうな眉毛をしかめてあゆは言った。こいつが難しい事を考えてるときの顔って、なんだか可愛いんだよな。微笑ましいっていうのか。
「分かりやすく言えば、追復曲だな。輪唱もカノンの仲間だ」
 まだ理解に苦しんでいるあゆに、俺は微笑みかけた。
「ほら、カエルの歌ってあるだろう。カエルの歌が聞こえてくるよ……ってやつ」
「うん。それならボクも知ってるよ。幼稚園の頃よく歌ったもん。祐一くんとも、学校で歌ったことあるよ」

「そうそう、良く覚えてたな。あの歌は、俺が最初に『カエルの歌が』って歌うと、そのあとにあゆが同じ歌詞を繰り返す……ってやりかたで歌えるだろう。最初に歌う人と、それを追いかけて歌う人がいる。分かるか?」
「うん。みんなで合唱すると面白いんだよね」
「それが、カノンだ。同じ歌を追いかけながら進む。だから追復曲っていうんだ」
「ふうん、なるほど。ボク、かなり良く分かったよ」
 あゆは嬉しそうに笑った。タイヤキを手渡されたときの笑顔と良く似ている。
「今までの俺のやり方は追複的だったっていうかさ、情けない意味でそのカノンみたいだった。過去から逃げて、逃げてもなにも変わらないってことに気付いて、慌ててその過去を追いかける」
 でも、そのカノンは決して第一声部の旋律に追いつくことはなかった[*19]
「俺はいつまで経っても過去に追い付けずにいて、その結果、多くの人たちに苦渋を強いてしまった。結局、俺の逃避は何も生まなかったんだ。逃げても何にもならなかった」
 多分、あゆの言葉を借りるなら、それが俺の心のつかえになっていたリグレットなんだろう。

「少しの勇気を振り絞れなくて、そりゃ間違いだって分かっていながら、それを何度も繰り返しちまう。その度に自分を蔑まなきゃならなくなって、どんどん自分を嫌いになっていく。そのうち、積み上げてきた過ちと目を背けてきた過去のツケが、支えきれる許容限界量を超えて、大抵のヤツはそれに押し潰される」
 俺がそうだった。そうなりかけた。
 名雪が微笑みかけてくれなかったら。秋子さんが優しく迎え入れてくれなかったら。親父が見せてくれなかったら。母さんが教えてくれなかったら。そして、あゆがいてくれなかったら。きっと、俺はそうなっていただろう。
 俺だけじゃない。多分、香里も栞のことで同じ経過を辿りかけた。そして恐らく、笑顔を貼り付けた仮面の裏に、誰にも見せない何かを隠してるのであろう佐祐理さんは、今でも進行形でその爆弾を抱えている[*20]
「俺とあゆの学校は、確かに授業も宿題も先生も存在しない、遊びの学校だった。――でも、あの学校で起こった出来事から、ひとつだけ気付かされたことがある。逃げても、結局なにからも逃げられない。だから、とりあえず出来ることをやっておいた方がいいみたいだ、って」
 虫歯と同じだ。不安や恐怖や厄介事ってやつは、放置しておいてどうにかなるもんじゃない。自然に消え去ってくれるなんて、そんな都合の良いことはあり得ない。自分から積極的に動いて、自分の力でどうにかしなくちゃいけないもんだと思う。
 虫歯になったら歯医者に行くように、不安は努力に基づいた自信で消す。恐怖は勇気をもって克服する。厄介事には意思の力で立ち向かう。それぞれには例外無く痛みが伴うだろうが、それから逃げると事態と痛みは悪化の一途を辿っていく。そして、最後には二度と戻らないものを失ってしまうことになる。
 俺は、総入れ歯みたいな人生を送るのは御免だ。もう戻らなくなってしまったものを、ただ振り返って嘆くだけの生き方なんて、絶対にしたくないから。
 だから、あの無駄な後悔を最後にしちまおう。もう自分から進んで後悔に向かうようなことはしない。これでラスト。あれを、俺のラスト・リグレット[*21]にするんだ。
「辛いことがあっても、どうにかそれを受け入れなきゃいけない。でないと、何度も同じ間違いを繰り返すことになる。好きな人を悲しませることになる。それじゃ、駄目なんだ。後悔は二度繰り返しちゃいけない。後悔から得た教訓を無駄にしないためにも」
「うん。そうだね」
 あゆが笑う。
 そうだ。この子とあの学校から、学んだことがある。たぶん、それを今、俺は試されているんだろう。



GMT Mon,24 July 2000 7:32 P.M.
午後7時32分 マクノートン邸

 マクノートン邸の内部は、外観と同じように白を基調とした上品な内装に彩られていた。
 西洋の城や神殿を思わせるような、大理石の巨大な支柱に高い天井が支えられているのが特徴だろうか。階段の手摺や壁などの細工も意匠を凝らしたものが多く、さりげなく飾られている装飾品や絵画、置物などにも金がかけられているように見受けられる。
 非常に開放感のある造りをしていて、私たちが今歩いている吹き抜けのホール等も、とても印象的。だが、Thuringwethilの襲撃を受けて、綺麗な屋敷は無数の弾痕や赤い血飛沫で汚れている個所も目立った。
「こちらレジーナ。エリック、今からクライアントの皆さんをそちらにお連れするわ」
 それは流暢な英語で行われたため、意味を理解できたものは私も含め僅かだっただろう。
 ボディガードは腰の無線機を取り上げ仲間に連絡を入れると、クイと指を振って私たちを先導する。
「こっちよ」
 その声に、私たちは揃って屋敷の奥に足を進めた。
 少し歩いただけだが、この豪邸が驚異的に広いことだけは容易に知れた。恐らく、一度に2、30の人間が共同生活を営める規模はあるだろう。だがしかし、これは多くの一般人を不幸のどん底に陥れることによって建てられたものに違いない。そう思うと、清潔感のある純白の壁紙も何故だか忌まわしいものに見えてきた。

 やがて、私たちは見事な装飾に彩られた、大きな木製のドアの前に導かれた。
「私よ」
 ボディガードがノックと共に声をかけると、内側から聞き覚えのある声が返った。
 一呼吸置いて、ボディガードは艶のある銀色のドアノブ捻った。音も無く巨大な扉は、内側に開いていく。薄暗い廊下に、室内から溢れ出す豊かな光が溢れ出した。
 そこは一風変わった、大部屋だった。白くフワフワとした長い毛並みの絨毯が一面を覆っていて、入り口正面の広い壁には、倉田先輩のマンションにあるような、巨大なホームシアター用のスクリーンがあった。それ以外には、家具のような類のものは見当たらない。どうやら、専門の用途を定められた目的のある部屋らしい。
 部屋のほぼ中央、巨大スクリーンの発する光を逆光として佇む人影が三つ。
 ひとつは、私たちのボディガードをしている男性だ。軍隊が使うアサルト・ライフルという大きな銃を持って、後の二人に銃口を油断無く付きつけている。
 その銃口に晒される二人には見覚えが無い。その内の一人、二メートルはありそうな巨漢の男は、銃を向けられても平然とした顔で直立している。日本のビジネスマンのように黒いスーツ姿をしてはいるが、丸太のように太い腕、大きく盛り上がった大胸筋、まるでレスラーのような鋼の筋肉は、スーツを押し上げていて服の下からでも只者ではないことが分かる。

 もうひとりは、大きな皮張りのソファに深く腰を落とした若い男だ。
 金髪碧眼。年齢は私より幾つか上だろうか。傍に控える巨大なスーツの男とは対照的に、憮然とした表情で私達を睨んでいる。多分、この男が――
「誰だ、テメエらは」
 男は言った。なんとか聞き取れたが、決してお手本にしたいとは思えないイングリッシュだ。
「あなたがキイス・マクノートンね」
「だったらどうした、日本人」
 彼は面倒そうに金髪の長い前髪をかきあげた。そして、キッと私たちを睨みつける。
「これは何の真似だ。こんなことをして、親父が黙ってると思うか?」
「マグちゃんと俺のドラ息子をどこへやった」
 私を押し退けて、相沢氏は前に進み出た。真っ直ぐにマクノートンと対峙し、彼を睨み付ける。
「なんだ、このオヤジは」
「俺は暴力が嫌いなんだ」
 相沢氏はズカズカとマクノートンに歩み寄ると、その胸倉を荒々しく掴み上げた。日本人の感覚からすれば充分に長身の部類に入るマクノートンの巨体が浮き上がる。
 それをジッと見詰める、傍らのスーツの男の眉根がピクリと震えた。彼は多分、マクノートンの護衛なのだろう。だが、銃口を付き付けられていては、ガードのしようもない。
「さっさと祐一たちの居所を吐け! お前が日本人の男女を連れ去ったってネタは上がってんだ。俺はまさにその瞬間を見てたんだからな」

「そうか」ニヤリとマクノートンの唇が歪んだ。「お前ら、あの日本人の知り合いか」
「分かったら吐けっ!」
 相沢氏は胸倉を掴んだまま、マクノートンを乱暴に揺さぶる。その手を、マクノートンは跳ね飛ばした。
「良いだろう。教えてやるさ。――おい、Fritz《フリッツ》」
 目で指示を送ると、スーツの男が動いた。それに合わせて、ボディガードが構える銃の銃口も泳ぐ。危険なのはマクノートンではなく、このスーツの大男の方であるという判断だろう。そして、それは素人目にも正しいように思えた。こんな熊みたいな男、放り出しておいたら何をしでかすか分かったものじゃない。
 その熊モドキは、巨大スクリーンの近くに歩み寄ると端末のようなものを操作しはじめた。恐らく、何かの映像を正面のスクリーンに映し出そうとしているのだと思う。
 私の見るところ、この部屋はどうやらホームシアターとして利用されているらしかった。壁一面を占める大型の平面スクリーンと、スーツの男が操作している端末、それに前方の壁上部に三つ、後方にも同様に二つのスピーカーが設置されていることからもそれは容易に窺えた。
「あっ!」
 最初に声を上げたのは名雪だった。彼女ばかりではない。それに続いて全員が思い思いの声を上げていく。電源が入ったスクリーンに映し出されたその映像は、見る者全てを驚愕させるに充分な衝撃力を伴っていたのである。
「祐一に、あゆちゃんだよ」
 名雪の言葉通り、スクリーンに現れたのは正面から捉えられた相沢祐一と月宮あゆの姿だった。
 カメラから彼らとの距離は、目測で――多分五メートル前後。そこは集光性の低い、薄暗くも広大な屋内だった。ふたりは壁際の地べたに座り込んでいて、何やら話し込んでいる。距離と位置からして自分たちを撮影するカメラの存在に気付いているはずだが、別段それを意識している様子は無かった。問題は、なにやら囚人を拘束する手枷のようなもので、動きを封じられていることだろうか。それにしたって、道具を使えば外してあげることも可能だろう。
 ともあれ、両者とも健在。相沢君の口元が赤く腫れているような気がする以外は、至って健康そうだ。誘拐ということで最悪の事態も想定していただけに、私は安堵で身体が弛緩するのを抑え切れなかった。

「これで気が済んだか? あのふたりは、ご覧の通り俺の別荘でノンビリやってる」
 マクノートンは、何かを含んだ微笑を浮かべながら言った。
「祐一さん、聞こえますか! あゆさん」
 私の隣で、栞はスクリーンの中の友人たちに呼びかける。だが彼らがそれに反応することはなかった。
「無駄のようですね。この回線は、一方通行なのでしょう」
 相沢君たちの無事な姿を確認してか、倉田先輩は平静を取り戻したいつもの口調で言った。
 だけど、彼らは本当に無事なのだろうか。疑惑の念は晴れない。
 本拠地を占拠されて、銃口をつき付けられていながらも、マクノートンから余裕とも取れる不敵な微笑が消えないのが気に掛かる。そもそも、相沢君たちは今、どこに捕らわれているのだろう。
「奴らが何処にいるのかを知りたいか?」
 ソファに深く背を埋めて、マクノートンは圧倒的優位に立つ者の笑みを浮かべる。
「御託は良い、さっさと言え」
 相沢氏は相変わらず凄い形相でマクノートンを見下ろし、凄む。
「いいだろう。オイ、Fritz。時間まであとどのくらいだ」
「二四分です」
 返った応えを聞いて、マクノートンは勝利を確信したかのように唇の端を持ち上げた。
「充分だな。よし、教えてやる。あいつらは、ソールズベリィにある俺の倉庫だ」
 ソールズベリィ。確か、ロンドン市内から西にかなり行った所だ。ストーンヘンジとか、あの辺りだったと思う。車だと1時間半から2時間程度の距離だろう。
 その後、マクノートンは倉庫の所在を示すかなり詳細な住所と位置を口にしたが、土地鑑の無い私にはそれがどの辺りを意味するのか検討さえつかなかった。

「よし、現地へ急行しよう」
 場所を聞き出した瞬間、マクノートンたちに銃を構えていた男性護衛が言った。彼らの中には、このイングランドが誇る特殊部隊SAS出身の兵士もいたはず。彼らなら、住所さえ渡せば直ぐに正確な位置を割り出すことが可能だろう。
「オイオイ。まあ、そう慌てるなよ」
 無線を取り上げて仲間に連絡を入れようとした女性護衛を、マクノートンの声が制した。
「これはゲームだぜ。そう簡単に攻略できたんじゃ面白くないだろう」
 そういうと、彼は肩を揺らして楽しそうに笑った。金髪碧眼。なまじ相貌が整っているだけに、それは返って不快に見える。この男、全部無事に片付いたら一発殴ってやろうかしら。
「今、この間抜け面の二人を映してるヴィデオだが、そいつはある木箱の上に乗ってる。何の木箱だか分かるか?」
「あたしたちは <MILLIONAIRE> [*22]に挑戦しに来たんじゃないわ」
 彼のペースに持ちこまれてはいけない。何故だかそんな気がした私は、そう跳ねつけた。
「ほう、お前は日本人の癖に英語ができるらしいな」
 蛇のように目を細めると、マクノートンは薄笑いを浮かべたまま私の身体を嘗め回すように眺めた。背中に言い知れない悪寒が走る。
「しかもなかなかの上玉。どうだ、俺の女になれば奴らを無償で助けてやってもいいぜ? そうだな。取り敢えず、ここでストリップでもやってもらおうか」
 屈辱と怒りで、血の気が引いていくのが分かった。激情のあまり、返してやろうにも満足に口も開けない。

「挑発に乗るな、嬢ちゃん」
 戦慄する私に、深みのある低音が囁きかけた。
 私たちに背を向け、マクノートンと対峙したままの相沢氏の言葉だ。
「ここは祐一に全部任せてやってくれ。あいつを想うんなら、尚更ヤツの言いなりにはなるな」
 そして相沢氏は、口調を鋭く変えてマクノートンに迫った。
「茶番はもう充分だ。さっさと、そのゲームとやらをはじめようぜ」
「良い度胸だ」
 マクノートンも多少は本気になったらしい。口元から軽薄な微笑を消して、低く言った。
「奴らがいる倉庫には、時限式の爆弾が仕掛けてある」
 私と夏夜子さん、それから秋子さんの三人はほとんど同時にハッと息を呑んだ。
「起爆装置のタイマーは、今から二五分後の八時ジャストに爆発するようになってる。ゲームのルールは簡単。あの二人が自力で爆発までに倉庫から抜け出せればお前らの勝ち。奴らが爆発で死ねば俺の勝ち。――どうだ、実に公平なルールだろ?」
 八時ジャスト!?
 私は慌てて左手首を返した。愛用の時計は現時刻を19:37と示している。あと二〇分強しかない。ここからソールズベリィまで二〇分で辿りつける術は無いだろう。
 つまりそれは、誰が見ても絶望的な数値だった。
「いえ、それは違います。美坂先輩」
 今まで無いものと振る舞い、事態を静観していた天野さんが言った。
「たとえ時間に余裕があって、ギリギリ彼らの元に駆けつけられたとしても、起爆装置を解除する時間を計算にいれなければなりません。あるいは相沢さんと月宮先輩の手枷を解くか。どちらにせよ、私たちに出来ることは無いわけです」
「そんな……祐一っ!」
 状況を把握した名雪は、悲痛な叫びを上げる。
 これは公平なルールに基づくゲームなんかじゃない。相手に勝つ見込みを与えない、一方的なハンティングのようなもの。結果が既に決定付けられた、殺人ショーでしかないわけだ。
「あゆちゃん、祐一! 逃げて」
 絶望の二文字に苛まされながら、名雪は無駄と分かっていても彼らに向かって呼びかける。
 だが無常にも、それに彼らが応えることはなかった。
 私たちは、ただ傍観しているしかない。栞の時と同じ――。私はまた、何の力にもなれない。
 絶望の淵に落とされながらも苦闘を続ける人々を、ただ見守ることしかできないのだ。

「まあ、爆破までには間に合わんだろうが、とにかくスタッフを何人か現場に急行させてくれ」
 不安と緊張と絶望に、誰もが鎮痛な面持ちで顔を伏せようとした瞬間だった。
「おたくらは元特殊部隊の兵士だったんだろう。だったら、下手な医療関係者より外科的な知識や技術に精通してるはずだ。多分、そのスキルが必要になる。行ってくれ」
 相沢芳樹だけは、まだ何かを思考していた。その思惑は、私には想像すらつかない。
「本当に間に合う保証はありませんよ」護衛たちは言う。
「爆発は問題無い。問題は、その後なんだ」
「その後――」
 そのあと?
 言葉の意味するところが分からず、ボディガードと私たちは同時に首を捻る。

「あいつは、多分……やる」



GMT Mon,24 July 2000 7:35 P.M.
現地時刻7月24日午後7時35分 爆発まであと25分――某所

 木箱の上に置かれたデジタル表示が、ボンヤリと紅い蛍光を放っている。
 その光の組み合わせが、今この瞬間、00:25:00を示した。言うまでも無く、これはカウントダウンだ。俺とあゆの命が、このままだと残り二五分後にこの世から消え去るということを意味する。
 あの時――四年前の親父は、大体この時間帯に動き出したはずだ。奴との腕の太さや、年齢、体力の差、精神力の違い。それらを考えたとき、やはりこの辺が限界だろう。
「のう、あゆさんや」
「ん、なあに?」
 何が楽しいのか、薄く埃の積もった床に落書きらしきものをしていたあゆが、大きな目を俺に向けてくる。ああ、神よ。なんでこいつはこんなに緊張感がないのでしょうか。
「この際、白状してしまうんだがの。ほれ、あそこに木箱が見えるではないか」
「うん。見えるね」
 あゆは、動物園で「ホラ、あそこにゾウさんがいるよ」とでも言われたかのように、無邪気な反応を見せた。パニックになられても困るが、ここまでお気楽だと俺のペースも乱れてきそうだ。

「実はのう、ありゃ爆弾なんじゃよ」
「ふーん。爆弾なんだ」
「うむ。爆弾なんだ」
 沈黙が降りる。
 あゆの肩が、一瞬ビクリと震えた。
「……祐一くん、いま爆弾って言った?」
「言った」
「本当に言った?」
「キッパリ言った」
「じゃあ、あれは爆弾なんだね?」
「おめでとうございます。正解です」
「えーと……」
 再び沈黙。だが、俺は彼女の反応が予測できているため、それは重苦しいものにはならなかった。
 そして数秒後、あゆは想定していた通りのリアクションを示してくれた。ここまで期待通りだと、なんだか微笑ましい。
「うぐぅ〜っ!?」
 その叫びは俺の鼓膜に多大なダメージを与え、更に倉庫の虚空に響き渡った。
「どういうことなの。ばくだん、爆弾って」
 あゆの普段から大きな目が更に見開かれた。鎖を鳴らして俺の元に擦り寄ってくる。
「どういうことって言われても困るが、つまり、あの数字がゼロになった時に爆弾が爆発するんだよ」
「なんで!」
「なんでって、そういう仕組みになってるからさ」
「じゃあ、ボクたち死んじゃうの?」
 早くも涙目になっているあゆが、縋り付くように俺に問うてきた。こういう場合、恐らく嘘でも違うと言ってやるべきなのだろう。――だが、今はその必要はない。
「俺たちは、死なない」
 きっと、俺のこの言葉は嘘にはならないだろう。

「だけど、そのためには俺たちが力を合わせる必要がある」
「でも、ボクも祐一くんも鎖でつながれてるよ?」
 死なないと言われて少し安堵したようだが、まだあゆの中から不安は消えていない。当然だ。
「これが外れないと、何もできないと思うけど」
 彼女は、自らの左腕を絶対的に拘束する手枷を俺に見せつけるように掲げ上げた。それはあゆにとって精神的な枷にすらなっているのだろう。
「それに関しては、俺に良いアイディアがあるから問題無い。でも、そのアイディアを説明してる暇もないんだ。だから何も分からなくてもあゆには黙って協力して貰いたい。今はお前だけが頼りなんだ。あゆの力が要る。頼めるか?」
「うん。ボク、なんでもやるよ!」
 頼りにされていると言われて、あゆの元気は即座に復活した。
 俺はいつもコイツを子供扱いしてるから、多分、自分が何かの役に立てるとされたことが嬉しいのだろう。

「よっしゃ。そうと決まれば、話は早い」
 俺は紺色の半袖シャツを脱ぐと、下に来ていたTシャツを破った。
「なにするの?」
「これで、紐を作るんだ」
「ひも?」
 怪訝そうな表情をしているあゆを余所に、俺は黙々と作業を進めた。手と歯を使って、包帯のような感じの布地になるようシャツを切り裂いていく。安い生地を使ってるせいか、破き易いのなんの。ちょっと悲しくなるほどヤワなシャツだ。佐祐理さんのシャツだと、こうはいかないだろうな。
「よおし、こんなもんだ。これを繋ぎ合わせて、長い紐にするんだ。あゆ、手伝ってくれ」
「あ、分かった」
 既に原型を留めていないシャツの切れ端を渡された途端、あゆは嬉しそうに手を叩いた。
「これでロープを作って、あの遠くにある爆弾を引き寄せるんだね」
「ほう、それから?」
「それから、爆弾を解除するの」
 難しい計算ドリルを完全制覇してのけた小学生のように、誇らしげに胸を張ってあゆは言う。
「ブッブー。残念。ハズレです」
「え、じゃあ――爆弾をちょっと分けてもらって、この鎖を切るのかな」
「どうやって爆弾を爆発させるんだ?」
 あゆの手は完全にお留守になっているため、俺は彼女を頼らず自分で作業を完了させることにした。
「それはチョロっと出てる導火線に火をつけて、爆発させるんだよ」
「軍用のプラスティック爆弾は花火とは違う。電気的な刺激を与える起爆装置を使わないと爆破はできない」
 ――と親父は言っていたし、俺が調べた本でもそうなっていた。真に価値ある発明は爆弾そのものではなく、それを計算どおり、安全に爆発させるための信管にあると聞く。
「じゃあ、どうするの?」
 苦心して捻り出した仮説をことごとく撥ね付けられたあゆは、眉をハの字にして訊いてきた。
「俺の腕を、きつく縛るのさ」
 百聞は一見にしかず。俺は自分の右手首に、作り上げた全長三メートル程の紐を巻きつけて見せた。
 手首が強烈に締め付けられて、血流が滞るのが分かる。ハッキリ言ってかなり痛い。それに血の流れが止まっている感覚が奇妙にリアルに感じられるから、なんだか気持ちが悪いのも確かだ。だが、容赦しちゃいけない。親父もあの時言ってたからな。生き残るためには、この止血が必要なんだ。[*23]
 死にたくないこともある。でも、それ以上にまだ俺は死ねない。
「祐一くん、そんなに強く巻きつけたら……手が白くなってるよ?」
 あゆは心配そうに俺の右手を覗き込んで言った。
「あゆ、そっちの端を思い切り引っ張れ。お前、力弱いから奥歯で噛み締めて、全力で後に引っ張るんだ」
「うん」
 納得がいかないようだったが、俺の焦燥感というかそういうものが伝わったのだろう。こいつはそういうところで敏感だからな。結果的にあゆは直ぐに素直に頷いて、俺の指示通りに動いてくれた。
 上出来だった。もはや解くためにはナイフで布地を直接切り刻むしかないであろう程に硬く、きつく結び付けられた手製ロープは、俺の手首に痛々しいほど食い込み、現在望み得る最上級の止血効果をもたらしてくれている。血の流れは完全に途絶えていた。

「よし、じゃあ最後の作業だ」
「今度はなにをすれはいいの?」
 俺はその質問に答えず、じっとあゆの目を見詰めた。そして、その技を発動する。
「ああっ! あれはなんだ!?」
「えっ?」
 何も無い虚空を俺が指差した瞬間、あゆはアッサリとその方向に視線を投げた。
 チャンス!
 普段でも呆れるほどスキだらけであったあゆは、もはやスキしかない存在と成り果てている。俺は彼女のその無防備極まりない首筋に、鋭く素早い手刀を振り下ろした。舞のチョップを強力にしたやつだ。
 会心の手応えが伝わってきた。憎いほどに俺の手刀が完璧にヒットした証だ。だが、だからといって望んでいた効果が得られるかというと、そうでもない。現実は甘くなかった。
「う、うぐぅ〜!」
 その一撃で失神してくれるはずだったあゆは、うなじを抑えてゴロゴロと辺りを転がりまわった。相当痛そうだ。それはそうだろう。思いっきり落としたからな。
「なにするのーっ」
 あゆは目尻いっぱいに涙を溜め、俄然俺に抗議してきた。まあ、これも極めて自然な反応だろう。何しろ思いっきり強いチョップをいきなり落とされたわけだからな。うむ。
「おかしいなあ。ドラマとか漫画だと、あの辺りに一撃食らわせれば女の子はコテッと昏倒するはずなんだが……」
「祐一くん、聞いてるの」
 プリプリとあゆは怒っているようだが、これも彼女のためを思ってのことだ。分かって欲しい。言わばこれは愛ゆえの非情。俗に言う愛のムチなのだ。

「ああっ! あそこにタイヤキが落ちてるぞ」
 最初の作戦を失敗に終わらせてしまった俺は、しかたなくプランBを発動させることにした。幾らあゆでも、同じ手に二度引っかかるほどバカじゃないかもなあ――などと不安を拭えない作戦ではあったが、
「えっ、どこ」と、やつは俺の期待をはるかに凌駕するお馬鹿ぶりを発揮して、まんまと引っ掛かってくれた。その視線は偽タイヤキを探して俺の指し示した明後日の方向に向けられる。
 チャンス!
 普段から呆れるほどスキだらけであったあゆは、もはやスキのみの存在と成り果てている。俺は彼女のその無防備極まりない腹部に、鋭く素早い拳を繰り出した。香里のナックルを強力にしたやつだ。
「ボティ!」
 ポンポンという表現がしっくりくる、まだまだ幼児体型から脱却できないあゆの腹に、俺の見事すぎる一撃が決まった。驚愕と衝撃に一瞬目を見開いたあゆだったが、今度は上手くいったようだ。いつも通りの呻き声を上げて彼女の身体から力が急速に抜けていく。結果的に、あゆはぐったりと地に崩れ落ちた。
 どうやら今度は気絶させることに成功したようだ。これからここで繰り広げられる光景は、今のあゆにはちょっと刺激が強過ぎるだろう。こうするのが一番良かったんだ。勘弁してくれ。ここから無事に連れ出してやるから。
「さてと――」
 俺は再び壁にもたれかかると、天井を見上げて深く息を吐いた。
 デジタル表示が示す残り時間は、21:19。あと、二〇分だ。
 逃げ場はもう無い。あゆとも約束をした。死ぬか、やるか。裏切るか、変わってみせるか。二つにひとつ。命を賭けた真剣勝負ってことだ。
 相沢祐一としてこの世に生を受けて以来、俺は一度として何かのために命をかけて戦ったことはなかった。でも、今俺はこれから、それをやらなければならない。
 状況は今までとは違う。この場に縋れる人はいないし、現実逃避したって死ぬだけだ。不本意な選択をしてしまっても、もう後悔のしようもないってことだよな。
 やらなければ、やられる。――やるしかねえ。



GMT Mon,24 July 2000 7:32 P.M.
現地時刻7月24日午後7時32分 マクノートン邸

『なあ、学校のこと覚えてるか?』
 スクリーンの中の相沢君は、奇妙に落ち着いた表情で言った。
 この屋敷に入り込んでから、既に数分が経過した。マクノートンから相沢君たちの居場所を聞き出した護衛たちは、人員を割き既にその場所に向かっている。私も一緒に行こうかとも考えたが、爆破が起こる前に目的地へ辿りつくことは不可能だろう。ならば、ここに残りスクリーン越しに全てを見詰めていたいと思った。それは、私だけでなく全員の一致した考えだった。
『学校って、あの森の学校のこと?』
『ああ』
 彼らはカメラの存在を全く意識せずに、二人だけの世界で、二人だけの思い出を語っているらしかった。死を目前にした極限状態にあっておかしくない状況下なのに、彼らのこの奇妙な落ち着きようは一体何なのだろう。マクノートンは、少なくとも相沢君は自分の置かれている立場を理解しているだろう、というようなことをほのめかしていた。恐怖や緊張がないわけがない。
『あの時は、楽しかったな』
 相沢君の穏やかとも言えるその口調は、すでに全てを諦めてしまったようにも見えた。
『うん。あんな学校が本当にあれば良いのにね』
『でも、楽しいばかりじゃなかったな。少なくとも俺にとっては』
 当時のことを回想しているのか、相沢君は目を閉じた。
『あの時、登っていた大樹の枝からお前は落ちた。声も出なかったよ。白い雪を溶かすみたいに、お前の紅い血が染み広がっていくのを見ても一歩も動けなかった。そして、俺は逃げ出した。その場所から離れたって意味でもそうだし、現実逃避って意味でもそうだった。そのこと自体は――自分で言うのもなんだが――そこまで責められないと思う。俺はガキだったし、力もなかった。子供が受け止めるには大きなショックだっしな。あの時はもう、何も考えられない状態だった』

「祐一さん……」
「やっぱり、祐一は全部思い出してたんだね」
 水瀬親子は、スクリーンの中の少年を見詰めながら、悲しそうに呟いた。
「じゃあ、彼女が七年間も昏睡状態にあったというのは――」
 敢えてこれまでは追求せずにいた、彼らの過去に私は踏み込む。
 ピースは全て揃った。それらを組み合わせていけば、過去を描くジグソーパズルは完成する。それは誰にでも容易な作業であったらしく、隣の栞や倉田、川澄両先輩も全てを悟ったようだった。
「そう。祐一さんにとってのあの街の時間は、七年前の悲しい事故の瞬間で止まっていた」
 秋子さんは、一瞬も相沢君から視線を逸らさずに言った。
「でも、記憶と一緒に時間も解け出したのね。だから、彼女は目覚めた」
『辛くて逃げるのは俺の勝手だ。それを責めて良いのは、多分俺自身だけだろう。……だけど、そのことで名雪や舞やお前を傷付けたり、悲しませたりするのは許されることじゃない』
『祐一くんは、名雪さんや舞さんを悲しませちゃったの?』
『まあ、そうなるんだろうな。そりゃ、ある意味で仕方がなかったのかもしれないけど、でも事実は事実だ。そのことは今も後悔してる。どうしてあの時、もう少し勇気をだせなかったんだろう、とかな。やらなかった悔いってのは後々まで残るもんなんだ。自分を気遣ってくれる人に誠意を返せなかったことも含めて、やっぱりなんであの時……って風には思うよな』

「ゆういち……」
 囁くような言葉と共に、名雪の頬を涙が伝っていった。
 名雪のことだ。きっと、不幸な事故で落ち込む相沢君を必死に慰めようとしたのだろう。でも、結局それは彼の心には届かなかったのではないだろうか。
 相沢君が口にした『自分を気遣ってくれる人』というのは、恐らく名雪のことだと思う。悲しくて、どうしたらいいのか分からなくて、もう何も見えなくなって。そんな時、人は他人の優しさに応えられるような心の余裕を無くしてしまう。私にも、栞のことでそんな経験があるから。だから、何となく相沢君のその時の気持ちや反応を理解できる気がした。
 時が過ぎて、ようやく自分の中でその悲劇を受け止められるようになったからこそ、それは後悔となって彼を苛んでいるのだと思う。
『りぐれっと、だね』
『リグレット?』
 スクリーンの中の相沢君は、あゆちゃんの言葉に首をかしげた。
 regret。
 過去に起こったことに対する遺憾の意、痛恨の念、悲嘆、哀悼、――そして後悔。
『なあ、あゆ。お前、カノンって知ってるか?』
 相沢君は、思い出したように言った。
 マクノートンも、言葉は分からないだろうが黙って彼らの語らいに魅入っている。
『今までの俺のやり方は追複的だったっていうかさ、情けない意味でそのカノンみたいだった。過去から逃げて、逃げてもなにも変わらないってことに気付いて、慌ててその過去を追いかける。でも、いつまで経っても過去に追い付けないでさ。その結果、多くの人たちに苦渋を強いてしまった。結局、俺の逃避は何も生まなかったんだ。逃げても何にもならなかった』
 それが、彼の後悔――?
『少しの勇気を振り絞れなくて、そりゃ間違いだって分かっていながら、それを何度も繰り返しちまう。その度に自分を蔑まなきゃならなくなって、どんどん自分を嫌いになっていく。そのうち、積み上げてきた過ちと目を背けてきた過去のツケが、支えきれる許容限界量を超えて、大抵のヤツはそれに押し潰される』

 まるで自分、美坂香里のことを指摘されているようだった。
 栞と向き合わなきゃ。本当に妹を忘れるなんてできっこない。今、あの子と現実から逃げても後で悔やむことになるのは目に見えている。――そう心の何処かで分かっていても、変えることが出来なかった。
 過ちと知りながら、ほんの少しの勇気を振り絞ることが出来ずに、それを繰り返す。
 自分を卑怯者だとなじり、でもこれで良いのだと誤魔化し、そして自ら潰れていく。
 相沢祐一がトリックスターのように突然私たちの前に現れることがなかったら、私たちは恐らく最悪の結末を迎えていたことだろう。押し潰されていたに違いない。取り返しのつかない、致命的なリグレットに。
『辛いことがあっても、どうにかそれを受け入れなきゃいけない。でないと、何度も同じ間違いを繰り返すことになる。好きな人を悲しませることになる。それじゃ、駄目なんだ。後悔は二度繰り返しちゃいけない。後悔から得た教訓を無駄にしないためにも』
 そして、相沢君の拳があゆちゃんの腹部に埋め込まれた。
 右手に巻きつけられた、手製の止血帯。
 微かな呻き声をあげて崩れ落ちる、少女の小さな身体。
 私たちは悟った。相沢祐一は、諦めてなどいない。死ぬ気など毛頭ない。
 何かを、はじめるつもりなのだ――と。



GMT Mon,24 July 2000 7:40 P.M.
現地時刻 7月24日午後7時40分 爆発まであと20分――某所

 俺はこういう逆境を待ち望んでいたのかもしれない。
 誰にでも覚えのあることだと思うけど、人間ってのは「やらなきゃいけない」と思ってはいても、それを実行に移すとなるとなかなか簡単にはいかないものだ。これは、小さなことから大きなことまで共通して言えると思う。それこそ、枚挙に暇ないほどにそういった例はあちこちに転がっている。
 最近、夫婦の間で会話が無くなってる。仕事に情熱を失いはじめてる。子供と過ごす時間がなくなってきている。ダイエットしなくちゃ。パントリィの缶詰を整理しなくちゃ。献血にいかなくちゃ。あの人に今日こそ想いを伝えなくちゃ。喧嘩した恋人に「ゴメンナサイ」を言わなくちゃ。
 変えなきゃいけない、こうしなくちゃいけない、――そう分かっていて心には思っていても、行動に移すにはエネルギーがいる。勇気がいる。だから、いつも一歩が踏み出せない。
 今日はやめとこう、また明日でいいや。でもその明日を迎えたら、また来週。その来週を迎えたら、いつかまた今度。結局、伸ばし伸ばしにしてしまうんだよな。

 俺も究極的にはそんな人間の一人だ。
 やりたくないことや辛いこと、労苦を伴う面倒事は後に回したい。なるべく回避したい。そう思う種の人間なんだ。最後の最後、追い詰められて尻に火がつかなきゃその重い腰を上げやしない。情けない話だけど、そういう性質はなかなか変えられないものだ。
 だからこそ、こういった逃げ様のない逆境が相沢祐一には必要だったのかもしれないと思う。逃げ場があると、どうしてもそっちに逃げてしまうから。だから、全ての言い訳と逃げ場を排除した、こういった袋小路に俺は追い詰められなきゃならなかったんだ。
 四年前の俺は、どこまで追い詰められても逃げることばかり考えていた。もう先は行き止まりだって知ってるくせに、それでも意地汚く逃げ道を探す男だった。
 でも、今は違う。そう思いたい。俺は色んなことを経験して、様々な光景を見てきた。その中で、逃げることどころか、後ろに退くことさえ全く考えない種の人間の存在を知る機会に恵まれた。俄かには信じがたいけど、そんな奴は確かにこの世には存在していて、俺には絶対に掴めない物を掴み、守れない物を守りきっている。
 あの頃、俺には何もなかったから。逃げても失うものはなかったから。退いたらこれを無くしてしまうことになるって物を何も持ち合わせてはいなかったから。だから、逃避することだけを考えていたんだろう。
 でも、俺には絶対に誰にも渡せない物が出来た。一度は逃げ出した、雪の街に帰ってから。俺には掛替えの無い物が沢山できた。それを守りきるためなら、何も惜しくないと思える物だ。

 たとえば、傍らで眠る、この子がそうだ。
 あゆはガキの頃から小さくて、泣き虫で、いつも俺の後ろを付いて回るような奴だったけど、芯は俺よりずっと強かった。手前にとって何が大切か、何を失っちゃいけないか、何を守らなきゃいけないか、全てが駄目になりそうになった時なにをしなくちゃならないか、――そういうことをコイツは本能的に理解して動いていた。俺のように逃げずに、戦える力を持っていた。
 あゆだけじゃない。俺に酷く傷付けられたはずなのに、名雪は七年ぶりに再会した俺を迎え入れてくれた。秋子さんは伴侶を失ってからも名雪を支え、健やかに育て、そして俺さえも家族として受け入れてくれた。凄い人たちだ。
 栞からだって俺は多くのことを教えられた。彼女に背を向けていた香里の例は反面教師になったし、死を宣告されながらも懸命に自分の生き方を模索する栞の姿は、俺の心に深く残った。
 舞も不器用ながら、戦う人間だった。自分の過去の体現である“魔”と終わることの無い激闘を繰り返し、今はそれを受け入れている。
 ――そして、もうひとり。
 自分の中の何かのために、生涯を追ってきた夢さえ躊躇いもなく腕ごと切り落とせる人間。あの男は、手前の旗振ってる奴が一番強いってことをまざまざと見せ付けていった。
 強い者が抱く信条。相沢祐一が逃避癖を克服するために最も必要な要素。決定的に欠けていたもの。
 あの男は結局なにも語らなかったが、あの男のやったことは俺にそれを示した。

 あれから七年。俺は学習したはずだ。色々な人たちと逢って、彼らの生き方を見て、同じ時間を過ごして、そしてその時の中で多くの物を学んだ。それは今、血肉となって相沢祐一を形成している。
 そしてそれこそが俺が生まれて初めて手にし、世界に誇示できる唯一のものだ。
 だから今、ここで俺が成そうとする行為をもって証明してみせよう。それが彼らに対する恩返しだ。勝手にそう思わせてもらう。
 問題は、最後までやり遂げる力があるかどうかだ。
 かつて体験したことがない程の、狂気的な激痛が襲ってくるだろう。意識を失わずに済むか。体力はもつか。俺の精神が耐えられるか。
 恐怖はある。不安もある。
 だけど、ここで逃げたらまた同じだ。あの時と同じ後悔を繰り返すことになる。
 それだけは許されない。多くの人生を狂わせ、彼女たちの心に傷を負わせてなお、なにも学ばなかったことになるからだ。彼らと築いてきたものに唾を吐きかけることはできない。
 一番つまんねえのは、同じ後悔を繰り返すこと。
 だから自らにささやくのだ。それは、これからの生涯を共に渡る言葉である。惨めな夜。最悪の夜、糧として支えとして蘇る言葉である。努々忘れるな。
「――リグレットは一度でいい」[*24]

 左の靴を脱ぎ、靴底から薄い収納型のナイフを取り出す。
 そして、首から下げてあるフォーチュン・ブレットを外した。鷹山小次郎からバースディ・プレゼントとして渡された、一発の弾丸を使ったアクセサリィ。
 俺は弾丸からチェーンを外し、奥歯でそれを噛締めた。
 これぞまさしく、BITE ON THE BULLETだ。
 ――バイト・オン・ザ・ブレット。
 直訳すれば『弾丸を噛む』というような感じになるか。
 いつか、親父にY'sromancerのデビュー曲のタイトルとなったその語句の意味を訊ねたことがある。確か、「苦痛や苦難に歯を食いしばって耐える」とか、「あえて困難な方法を取る」とか、「怯まない」とか、そういう意味の熟語だって言ってたよな。
 開拓時代の戦場では、兵士が負傷しても麻酔をしてやれる程の余裕は無かったらしい。ロンドン・ダンジョンでも、麻酔なしで足をノコギリで切り落す手術の光景を再現したアトラクションがあった。あれと同じだ。
 戦場じゃ麻酔無しで手術をする時、兵士にピストルの弾丸を噛ませて痛みをこらえさせたという。それが、この言葉の由来となったと聞くが――本当に今の俺にピッタリだ。
 苦痛や苦難に歯を食いしばって耐えること。敢えて困難に挑むこと。怯まないこと。
 今の俺を育んでくれた環境と人々……
 名雪、舞、栞、真琴、天野、秋子さん、それにあゆ。母さん。親父。[*25]生まれ故郷。雪の降る思い出の街。敗北。挫折。友人の負傷。逃避。後悔。そして再会。重ねた手。――新しい夢。
 あまねく全てに感謝し、その力を借りて。
 もう、無くなってしまうけど。長い間連れ添ってきた相棒だけど。
 俺の大事な右腕。お前は今から俺の身体より切り離されて、今まで掴めなかった何かを掴みにいく。

 人は歌う。「今日こそが、その時だ」と。
 また明日、また来週、何時かまた今度。そんな言葉を吐きながら、自分を変えようとする行動から逃げ続け、自己嫌悪を繰り返してきた者たちに。
 ――そう。人間ってのは、どうしてもその一歩を踏み出すことができずに後悔して、それを慰め誤魔化すために自己欺瞞を重ねる。
 同じことを何度も何度も呆れるほど続け、その度に自分が嫌いになる。
 俺もそうだった。俺が、そうだった。
 だけど、本当はもう気付いてる。皆、もうとっくに分かっていたはずなのに、見ないふりをしていただけなのだ。
 自分がどうすれば良いのか。何をしたら良いのか。どんな風にすれば格好良く生きられるのか。今の自分は、むかし思い描いていた理想の姿とは随分と違うみたいだ、と。
 だから、今は言い訳つけてそれから目を逸らすのはやめよう。
 結局のところ、俺はたぶん、最後まで親父みたいにはなれない。そんな気がしている。[*26]
 本能的に己にもっとも相応しい道を選び出す。やつのその嗅覚は天性のものだ。俺にはない。
 きっと相沢祐一という個体は人の何倍もの時間を費やし、周囲の人間に多大な迷惑をかけ、そうした過程を通すことでしか自分の進むべき道を見出せない。そう定められた人間なのだと思う。
 だから俺は、これからも事あるたびに揺らぐだろう。困難な選択を前に、何度も決断を迷うに違いない。そのことで誰かを傷つけ、罵倒され、己の無力を憎悪することも一度ならずあるはずだ。大きすぎる試練には怯え、竦みあがるだろう。そんな自己を幾度となく嫌悪するだろう。叩かれ、打ちのめされ、時に恐怖に屈服するだろう。
 だが、……貫くだろう。
 血肉にしてきたものと、己をとりまく人々。それらにすがりながら、愚直にそうあろうと願うだろう。
 バイト・オン・ザ・ブレット。

 ――それが、弾丸である。



GMT Mon,24 July 2000 7:40 P.M.
同時刻 マクノートン邸宅

「ハッ、あの野郎、ナイフなんざ隠してやがった」
 靴底から小さな一振りのナイフを取り出した相沢君を見て、キイス・マクノートンは悪態を吐いた。
 確かに意外な展開だ。まるでこうなることを予見していたかのような備えとも言える。普通の人間は靴底にナイフなど仕込まない。そもそも、何を目的にナイフなど備えておく必要があるのだろう?
 少なくとも私はその必要性を感じたことなど、かつての人生で一度も無かった。多くの人間もそうだと思う。でも、相沢君は違うのだろうか。
「あのドラ息子。生意気にも学習能力はあったみたいじゃねえか」
 相沢氏が、私の背後でマクノートンとは対照的な声を上げた。
 ますます彼が分からなくなる。爆発まであと20分。息子が絶体絶命の状況下に置かれているのに、まるで危機感を感じている様子が無い。それどころか何かを期待し、それを楽しんでいるかのようにさえ見える。
「やっとかよ。四年も待たせやがって」
「やっぱり、貴方の息子ね。私の息子だわ」
 相沢夫婦は、私には意味の理解できない夫婦だけの会話を交わしている。仕込まれていたナイフとスクリーンの中の相沢祐一に、彼らは私とは違うものを見ているのだろうか。分からない。彼らが何を言っているのか、理解できない。

 ――いえ、ウソ。それはウソだわ。
 本当は察しがついてる。彼があゆちゃんに手伝わせて、腕に強く巻き付けた布は恐らく止血行為。その後、彼女を気絶させたこと。そしてナイフが取り出されたこと。なにより、それ以外に脱出手段が存在しないこと。全てのフラグメントは、ある一点に収束している。解答は示されている。
 だけど……
「残念だが、あんなナイフじゃ手枷は壊せないぜ。どの道、あの小僧は死ぬのさ」
 マクノートンは嘲笑を浮かべながらモニタを見遣る。相沢君の最後のカードを見ても余裕の表情を崩さないところをみると、未だ自分の勝利に確信を抱いているらしい。
 だが、そんなマクノートンの言葉を聞いても、相沢芳樹は口元に不敵な微笑を浮かべるだけだった。
 そして、それが何かの合図であったかのように、スクリーンの中の相沢君が首からペンダントのようなものを外す。
 小さくて良く分からないが、それはピストルの弾丸のように見えた。このところ拳銃や銃撃戦に遭遇することが多かったから?――或いは、なにか別のことが影響しているのか。
 でも、何度目を凝らしてみても、それは銀色に輝く一発の銃弾にしか見えなかった。
 そして彼は、そのブレットらしきものを左の奥歯で噛締めた。
 バイト・オン・ザ・ブレット。まるで、Y'sromancerの歌をなぞるように。それを再現しようとするかのように。

「まさかあの小僧……」
 ようやくマクノートンも気付いた。彼だけじゃない、名雪も栞も倉田先輩も。川澄先輩や、天野さん、それに秋子さんもそれに勘付いている。ハッと息を呑むのが分かるし、全員が身を固くし固唾を飲んでその光景を見詰めていた。
 でも、それはどう考えても常軌を逸した、信じ難い結論だった。
「ハッ、できやしねえよ。無理に決まってる。出来るわけねえだろう!」
 認めたくないのか、それとも未知の恐怖を感じているのか。マクノートンは何かを取り繕うように言葉を荒げる。
「テメエの腕が無くなるんだぞ。一生使いモンにならなくなるんだぞ。出来るわけねえ、違うかフリッツ」
 だが、傍らに彫像のように構える巨漢の男は何も応えなかった。
 ――でも、マクノートンの指摘は正しい。
 それを成すための妨げとなる要素は、枚挙に暇ないほど存在する。
 いつか天野さんが言っていたように、人間は身体がバラバラになるという事実に本能的な恐怖を感じる生物だ。恐怖の原体験。理屈ではなく、生まれながらにそれを恐れるようにプログラムされているのだから、それには逆らえない。
 それだけじゃない。痛みへの恐怖。死への恐怖。少しでも躊躇したり怖がったりすれば、身体が反応して中途半端に終わってしまうだろう。そのことは、当事者である相沢祐一が一番良く分かっているはずだ。

 出来っこない。出来るわけがない。
 あの状況下でそこまで思考が回ったのは立派だけど、トランス状態にあるわけでも、宗教的な興奮状態にあるわけでもない相沢君にそれは成せない。無理よ――。
 でも、そんな私の思考に反発するように彼はナイフを高く掲げ上げた。
 同時に低く囁く声が聞こえる。
 私は、そして私たちは、次の瞬間くり広げられた壮絶な光景と共に、その言葉を生涯忘れることは無いだろう。
「――ッ!」
 全員が戦慄する。震撼する。
 それが現実に、モニタの向こう側で起こっている出来事だとはとても思えなかった。
 誰もが我が目を疑う。何故、と。なぜ一瞬も。
「なんで、だ」
 どうして? 一瞬も、ただの一瞬も躊躇わない。
 私たちの胸に等しくあったはずの疑問を、マクノートンがヒステリックに叫び出す。
「なんで迷わねえんだ。なんでアイツは、迷わなェんだ?」
 どうして、一瞬も迷わないの……
「テメエの手が無くなるんだぞ。一生使いモンにならなくなるんだ。分かってんのか!」
「本当に分からねえのか」
 その冷ややかな声音には、なにか哀れみのようなものさえ感じられた。まるで日の出を見詰めるように目を細め、その光景を見守りながら相沢芳樹はつづける。
「あいつは嬉しいんだ。だから、やれる」

 ――分からない。その言葉は美坂香里の理解を超えていた。
「この世の何人が、腕ブッ千切ってまで守りたいと思える程のモノを手に入れられる? 口じゃ死んでもなんて簡単に言うが、実際に命懸けられる奴は案外少ないもんさ。でも、あいつはそれを手に入れた」
「そう」彼の母は、何かを誇るように頷いた。
「もう、過去を追うばかりの追走曲は終わったの」
 だから、振り下ろせる。痛みを噛み殺せる――?
 ようやく手にしたものを誇りたいから、だから……
 全身を鮮血で染めながら、彼はそのナイフを幾度も幾度も自らの右手に突き落とす。その度に新たな鮮血が舞い、彼に筆舌を絶する痛みが襲うのが分かった。
 弾丸を噛締める奥歯が砕ける音が届く。唇の端から血が流れ出し、同時に声にならない苦痛の呻きが漏れる。目からは涙が流れ出していた。でも、その全てを彼は純然たる意志の力で捻じ伏せていた。
 一振り毎に意識を軽く奪い去るだけの激痛が、身体を駆け抜けるはずだ。死の恐怖を強く感じているはずだ。なのに、ナイフを振り下ろす腕は一瞬もブレることは無かった。刹那たりとも止まることは無かった。ただの一瞬もだ。
 私はいつしか、頬を伝っていくものを感じていた。
「お姉ちゃん」
 栞が腕を折れるほど強く握り締めてきた。
「泣いちゃ駄目です。目をそむけちゃ駄目」
 そう主張しながらも、彼女の頬にもまた、とどまることのない涙が伝っていた。
「そうだよ、香里」
 名雪は彼から目を一瞬も逸らさず、断固とした口調で告げた。
「今、祐一なんだから。帰って来たんだから。だから、辛くても絶対目を逸らしちゃダメだよ」
 そうじゃないと、もう祐一と並んで笑えなくなっちゃうから――。

 その凄絶な姿からは、錯覚でも幻覚でもなく、彼の意思が伝わってくるような気がした。
 誰がいたから、ここまでこれた? 誰の後姿を見て、また歩き出せた?
 自らの腕に凶器を振り落とす度、彼は食いしばった奥歯の向こう側で、そのひとりひとりの名を唱える。襲い来る痛みは、想いの力で噛み殺す。捻じ伏せる。
 酷い悪夢にうなされて目覚めた孤独な夜、人の温もりを求めて最初に思い浮かべる名が、相沢祐一でありますように――。
 もうナイフは刃物として機能していない。血と脂肪に塗れ、その鋭利な輝きを完全に失っている。もはや鈍器程度の意味しかなさなくなっているのだ。
 それでも彼は叩き付ける。既に聞こえてくる音は、湿り気を帯びた肉の塊を棒で叩くようなものだけだ。彼は切断できない神経と筋に痺れを切らし、手首部分を足で踏みつけると力任せにそれを引き千切った。
 嘔吐感を覚える。胃から吐瀉物が逆流してくる。目を覆いたくなるような光景。
 ――でも、栞や名雪の言う通り。どんなに正視しがたいものでも、嘔気を呼び起こすものであっても、絶対に目を逸らしてはならない。それはこの先、その人間と並び歩んでいくことが許されるかどうかを試す、試練なのだ。彼が覚悟を決めてその全てに耐えているのなら、私たちもまたそれを最後まで見守らなければならない。この場にいる全員が、それを知っている。

「煤色をした鋼の腕を知ってるか」
 戒めを自ら撃ち破り、少女を左肩に抱え上げた彼が問う。
「爆炎を背に立つ、左手のない男の姿を見たことがあるか。キイス」[*27]
 その言葉に、私たちはようやく悟った。すべての視線がその人物――その左腕に集う。
 だから、彼は断固としてそれを行えたのだ。前例を知ってたから。強い意思の力さえあれば、可能だと知っていたから。だから、あのナイフはそこにあった。
 父親の隻腕は、恐らく少年にそれを示したのだろう。
 若くして世界的チェリストとして将来を嘱望され、鬼才とも称された相沢芳樹。その彼が左手を失ったのが四年前。Y'sromancerが誕生したのも四年前。全ては符合する。
 生涯を懸けて追うつもりだったはずの夢を断たれることを知りながら、彼は自の腕を斬り落とした。おそらく、もっとも譲りがたいもののために。そして、その事実は彼と同種の人間を誕生させる、ある意味での種子となった。
「――俺は知ってる。キイス、お前と会った夜、俺はそいつを見た」
 相沢祐一の目が、真っ直ぐにキイス・マクノートンを射抜く。
「もう、俺がお前を恐れる必要のない理由だ」
 彼が訥訥と紡ぎ出すその言葉は、自身の母国語によるものだった。理解できたはずはない。それでも椅子から転げ落ちるのではないかと思うほど、マクノートンは大きく飛び上がった。まるで、銃口を向けられでもしたかのように。
 ある意味において、彼の反応は正しい。
 彼は、そしてこの場に居合わせた者たちは等しく知ったのだ。種子は芽吹き、やがて育った。向かう先を見出し、始動したのである。
 こう言い換えることもできるだろう。
 弾丸は放たれた。




■初出(神鳴の章)

25話「夢、夢を見ている…」2002年08月09日

本作は上記の初出作品を加筆修正の上、著者が編集したものです。