The London Dungeon Tooley St. Southworth London U.K.
GMT Mon,24 July 2000 15:53 P.M. 現地時刻7月24日午後3時53分 サザーク トゥーリィ・ストリート 「キイィ――スッ!」 気が付くと、俺は叫びを上げて駆け出していた。 時がたとえ面影を奪ったとしても、俺は奴の姿だけは見間違えない。その名は相沢祐一にとって生涯感じた最大の憎悪と怒りを伴って、深く刻み込まれている。 キイス・マクノートン。奴に間違い無い。四年前、遊び半分で親父の左腕を奪っていった男の名だ。 あいつがさえ存在しなければ。あいつにさえ出会わなければ。湧き上がる激情に血が沸騰しそうだ。全身の毛が逆立ち、心臓が早鐘のように鳴り出す。もう、どうやったって見なかったことにはできない。導火線に火がつたようなもんだ。あの野郎に、カリをきっちり返すまでは絶対に収まりがつかねぇ――! 神はどうやら俺に肩入れしてくれるつもりらしかった。奴は5、6人の仲間と共に徒歩で通りを歩いていく。輪の中心で、若い女の肩に手を回し下卑た笑みを浮かべているのがキイスだ。どうやらWCE公園あたりから、南に向かう通りへ入ろうとしているらしい。ここから奴までは数十メートル。走れば充分に追いつける距離だ。無論のこと、俺は迷わなかった。 「ゆ、祐一くんっ」 いきなり走り出した俺の後を、一緒にいたあゆが慌てて追いかけようとしてくる。 「あゆ、俺は急用ができた。お前はロンドン・ダンジョンの皆のところに戻ってろ。それから、親父にキイスを見つけたと伝えてくれ!」 俺はこれからアイツを潰しに行く。四年前のカリを利子付けてキッチリ返してやるつもりだ。そんなところにあゆを連れていくわけにはいかない。 「でも、祐一くんはどこに行っちゃうの?」 ――お前には関係のないところだよ。 月宮あゆは子供だ。あらゆる意味で、まだ子供のままの純粋さを持っている。それはあいつが元々そういう純真なタイプの人間であるということもあるが、七年間も昏睡状態に陥っていたせいで、彼女の精神が10歳のままでほぼ成長を止めていたということも大きい。 あいつはこれから人間にとって大切な物を、日々の生活の中で学んでいくことだろう。水瀬秋子や水瀬名雪といった、人格的にこれ以上ないというほど優れた人たちに囲まれて育つことになるのは、だからあゆにとっては非常に良いことだと俺は思う。 でも俺の存在は――特に今からやろうとしていることは、情操教育を語る上であゆには毒でしかない。人の闇の部分を知るには、あゆはまだ早過ぎるんだ。連れていけるはずなんかない。 「祐一君、待ってよっ」 遠くなったあゆのこえが背後から聞こえてくるが、それを無視して全力で疾走する。 俺はリトル・リーグ時代から、まともなヒットを1本も打ったことが無い程の球技音痴だが、身体能力そのものは結構高い。それは、親父から受け継いだ数少ない素質のひとつだ。おかげで部活で鍛えたこともないのに、俺は100メートルを11秒ジャストに近いタイムで駆け抜けることができる。名雪を見ても分かるように、母さんの家系も運動能力の非常に高い血筋だから、これはある意味で当然なのかもしれない。 結果的に、瞬く間にして俺はキイスとの距離を詰めていった。奴は仲間と女を引き連れて、人気の無い路地裏の方向へ進んでいくようだ。いつか、奴と戦ったシチュエーションと似ている。あの時は中華街の裏通りだっけどな。 「キィース! キイス・マクノートン」 人気の無い小さな路地に入る角を曲がった瞬間、ついにその時を迎えた。 俺の荒々しい叫び声に、キイスをはじめとして仲間連中が一斉に俺に視線を集中させる。どうやら奴らは、観光客の女を連れこんで乱暴する気だったらしい。これからお楽しみというところで、俺の邪魔が入ったってわけだ。 悪いけど、俺は四年前から先約いれてたんだ。こっちを優先してもらう。 「ありがてぇ……」 奴の顔と奴がやろうとしていたことを見た俺は、少しだけ安心していた。 キイス・マクノートンが相変わらずのワルで良かった、そう思ったのである。まさかとは思うが、この四年間で心を入れ替えて、日曜日には欠かさずに教会に行くような聖人君子に変貌を遂げられていたんじゃ、ブン殴ろうにも少しだけ気が咎めちまうからな。 ――でも、全ての心配は杞憂に終わったようだ。奴は相変わらず、何の同情も情状酌量の余地も無いまま、顔面に遠慮なく拳を埋めこめる種の人間でいてくれた。 「キイス。テメェのその面、ブッ潰しにきたぜ。遥々海を越えてよ」 奴は俺の顔を見ても、四年前の事件を思い出した様子はなかった。こいつにとって、あの時会った東洋人のガキは爆弾に吹っ飛ばされて死んだことになってるんだろう。 「なんだ、アジア人。このバカ女の男か?」 キイスの仲間だろう。ブロンドの男が凄みを利かせた声で誰何しつつ、俺に歩み寄ってくる。遠慮する気は、毛頭無かった。 射程に入った瞬間、不用意に近付いてくる男の鼻面に、不意打ちとなる拳を叩き込む。倒すことが目的ではなく、相手の視覚を一瞬奪うことを目的とした一撃だ。 「――ッ!」 顔面を弾かれて相手が怯んだ刹那を逃さず、左手で『右肘』を掴み、同時に『右袖』を肩に担ぐようにして取った。そして奴の右足に、自分の右足を刈るようにして飛ばす。次の瞬間、男は綺麗に1回転して宙を舞い、頭から地面に叩き付けられていた。技名『大外落とし』の完成だ。 柔道どころか、受身も知らないのだろう。体捌きからして、こいつは全くの素人だ。まともに落とされた男は、脳震盪を起こして気を失った。無駄に背が高かった分、技が完璧に入るとダメージも大きい。タイミングと間合いさえ物にできれば、俺みたいな2、3年齧った程度の経験でも柔で剛を制することは可能だ。 「雑魚は引っ込んでろよ」 思いっきり巻き込んで、手加減抜きで投げたからな。ちょっと卑怯かもしれないが、しばらく立ち上がれないはずだ。まあ、向こうの方が人数が圧倒的に多い。その事実を以って許してもらおう。 俺は倒した男を跨ぐと、一歩ずつキイスに近付いていった。いつもカモにしている無抵抗で力の無い奴らとは違うと悟ったのだろう。奴らがハッと息を飲み、身体を固くするのが分かる。 そうだ。四年前はただ、殴られただけだ。嵐が通り過ぎるのを待つ小動物のように、頭を抱えてそれに耐えるだけの獲物だった。でも、今は違うぞ。 不意を突いて倒した奴を別にしても、キイスたちは全部で5人いた。 キイス、その用心棒らしきスーツ姿の大男(こいつには見覚えがある)、女を脅しているナイフの男、そして素手の20歳前後の男が二人。一人を除いて、全員が俺より背が高くウェイトも重い。 ――勝てない。勿論、俺はそのことを一瞬で悟った。体格のハンデや武器の有無などの条件を考えた時、相手が一人でも勝てるかどうかは怪しい。上手く立ちまわっても、同時に相手にできるのは二人が精々だ。5人となると、勝率はゼロに限りなく近くなる。俺は間違い無く負けるだろう。 だけど、問題はそんなところには無かった。キイス一人をブッ潰せれば後はどうでも良い。他の奴には興味なんて無い。用があるのは奴一人だ。 「助けて!」 一瞬の隙に乗じて、掴まっていた女の人が俺の傍に駆け寄って来た。洒落たサマースーツに身を包んでいる若い東洋人だ。言語は日本語。何しに来たのか分からないが、恰好や雰囲気からして日本からきた観光客らしい。どうやらナイフで脅されていたようだが、声を掛けられてノコノコと騙されて付いて来た結果だろう。馬鹿なのは勝手だが、それも程ほどにして欲しいもんだ。 もっとも、勝てる見こみのない喧嘩を吹っ掛けようとしてる俺も、人のことをどうこう言えないくらいの大馬鹿なんだろうけど。 「あんた、何やってるんだ。もう用も済んだろう、さっさと消えろよ。邪魔だ」 許可も無く縋り付いてくる女を振り払うと、俺は言った。生憎と、今の俺は気が立っている。機嫌も死ぬほど悪い。それに頭の悪い女は大嫌いだ。こいつには優しくなれそうにない。 無碍に振り払われた彼女は一瞬怯えたように震えると、礼も言わずに脱兎のごとく駆け去っていった。別にあの人を助けに来たわけじゃないが、それにしたって結果的に彼女は俺に救われたんだ。何か一言くらいあってもいいんじゃないか? 俺は条件のリストにひとつ項目を加えることにした。礼儀を知らない女も大嫌いだ、と。 「貴様、日本人か」 駆け去った女の姿を見送ると、キイスはゆっくりと視線を俺に移してきた。その口元には、絶対的優位に立つものの笑みが浮かんでいる。女は逃がしてしまったが、新しいお楽しみの獲物が手に入った。あの笑みは、恐らくそういう意味も含んでいるんだろう。 「だったらどうした、Wise guy《マフィアの坊ちゃん》」 前回ヤツと出会った時、俺は13歳。ティーンネイジャーにようやく仲間入りした、中学2年生だった。当時の身長は、145センチメートル前後で、これはなんと今のあゆより10センチも低い数値だ。あれから四年、俺の背丈は30センチも伸びた勘定になる。もう、かつての俺じゃない。 それはキイスも同じで、ヤツは相変わらず俺よりも随分と背が高かった。恐らく185はあるだろう。体重は75〜80前後か。良く鍛えられた分厚い胸板からも分かるように、体付きは悪くない。ヤツと比較すると今の俺でも貧弱に見えるもんだ。 「俺が何人であろうと、お前だけはブッ潰す」 御託はもう充分だな。どうせ英語は得意じゃない。それに、俺はやつとお喋りを楽しみに来たわけじゃないんだ。目的はただひとつ、キイス・マクノートンっていう俺を激しくムカつかせてくれる男を完膚なきまでに潰すことだけ。さっさとそれを実行してしまおう。 問題はそれをどうやって実現させるかだが――これが結構難しい。既にナイフを持っている奴がいるし、数の上でも向こうが圧倒的に優位だ。まともに行ったら、やっぱり返り討ちだろうしな。 武器、武器になるようなものはないか。 俺は顔をキイスに固定したまま、目だけを動かして周囲を窺った。角材とか鉄パイプとか、間合いの広い武器になるものが良いんだが、やはり都合良くそんなものは転がってはいない。後は、四年前に得た「備えあれば憂い無し」の教訓から、親父の真似をして靴底に仕込むようになった小型のナイフだけか。でも、あれは武器としては使い勝手が悪い。短いし、取り出すまでに大きな隙が生じる。それに殺傷力が高過ぎる。下手したら刺し殺してしまうかもしれない。 ……だめだな。考えても埒があかない。どうシミュレーションしても、数の優位を覆せるような妙案が浮かぶわけもなかった。 「ちくしょう、もうどうなっても知らねーからな!」 やはり、基本的に俺は馬鹿なのだろう。結局、考えるのは止めて玉砕覚悟で突っ込むことにした。後は動物的カンに全てを託そう。なるようになれってヤツだ。 「儘よ!」 いきなり突進してきた俺を見て、キイスたちは虚を突かれたように一瞬動きを凍り付かせた。いや、一人だけ反応したヤツがいる。四年前もキイスの傍らについていた、大男のボディガードだ。短く狩りこんだブロンド、角張った顎、丸太のように太い腕、散弾銃で撃たれても全てを弾き返しそうな分厚い胸板。それに俺の動きに一番早く反応したことからも、こいつが素人じゃないのは歴然としている。 「キイスさん!」 そいつは素早くキイスの前に回り込み、自ら盾になるようにして主を背後に隠した。だが、そんなことはどうでも良い。俺が最初の標的に定めたのはキイスじゃなくて、ナイフを持っている野郎だったからだ。素早くそいつとの間合いを詰め、先制攻撃に努める。 虚を突く最初の一撃でやっちまわないと、こいつは厄介な存在になる。いきなりブスリとやられたのでは、即死もあり得るから危険だ。 「リャアッ!」 ナイフを持つヤツの右手首を掴み、その動きを固定してから、俺は体当たりを仕掛けた。親父がやっていたように肘を突き刺すように前に出し、次に肩ごと身体全体でブチ当たる。頭に思い描いていた通り、幸運にも一連の攻撃はヒットする。 「ぐふっ」 肩に鈍い衝撃が走った瞬間、奴は苦痛の呻きを洩らした。そのまま、俺と男は縺れ合うようにして倒れ込んだ。この展開を予め計算していた俺は、直ぐに体勢を立て直してヤツの手からナイフを奪い取る。そして地面を転がりながら立ち上がった。 ――これで二人。 敵はキイスとボディガードを除いて、奇襲を受けたことにより体勢を崩している。この機会を逃す手はない。とりあえず、卑怯と言われようがなんと罵られようが、今のうちにやれるだけやっておく方が良いんだ。やらなければ、やられる。いくしかねぇ。 即座に思考すると、俺は奪ったばかりのナイフをキイスの仲間の足元目掛けて投げ付けた。速度を抑え、コントロールを重視した一投だ。 一見、それは失投に見えただろう。結果的に、ナイフは狙った男の数センチ手前、身体ではなく地面に突き刺さったからだ。 だけど、これはフェイント。今なら、男の意識と視線と注意は足元に100%向いている。俺は投擲と同時に間合いを詰め、思惑を悟られるより一瞬早く、俺は渾身の力を込めて右足を振り上げていた。 「――3人!」 爪先が奴の顎を捉える。そのまま掬い上げるようにして、足を思いきり振り抜いた。顎にまともに入った一撃は、KO確実の破壊力を秘める。コイツはもう立ち上がれない。 ここまでは、奇跡的を絵に描いたように上手くいった。もう一度同じことをやれと言っても無理だろう。だが、幸運もそこまでたった。 「……ッ」 左頬に焼け付くような痛みが走った。更に、腹に強烈な一撃。くの字に身体が折れ曲がった瞬間、追い討ちとなるフックが顔面に突き刺さる。頭の中で火花が散ったように、眩い閃光が視界を支配した。 いつだってそうだが、攻撃を食らってから自分が殴られたのだということを認識するまでには、結構なタイムラグがある。この場合も、俺は3発貰って地面に倒れこんでからようやく、自分が殴り飛ばされたのだということを理解した。 「ペッ……」 倒れた俺に放たれた蹴りを転がることで紙一重で躱すと、俺は急いで立ち上がり、口の中に広がる血の味を吐き出した。 残ったのは3人。キイスと、ガードと、手下の一人だ。キイスと護衛は動いてない。俺を殴り飛ばしてくれたのは、最後に残った手下の一人だ。しかも、こいつは――強い。 「もうちょっとだったのにな」 届かない。キイスに届かない。雑魚を何匹倒しても、キイスをブン殴れなきゃ同じことだ。それに、ナイフを持っていた奴はダメージから回復して、再び立ち上がろうとしている。鳩尾に肘が決まったから咳き込んではいるが、その内復活して戦線に戻ることだろう。 「フリッツ、お前も行け!」 キイスが自分を守るスーツの大男に命じた。ゴーレムみたいな巨体が、ズシリと動き出す。本当にレスラーみたいな体格をした奴だ。身長は190センチメートルを超えているだろうし、体重も100キログラムは軽くある。こんな奴の攻撃、一撃でも食らったら即座にKOだ。 ――どうする? 背中と脇を冷たい汗が伝っていくのが、気持ち悪いくらいに明確に感じられた。状況を冷静に分析すれば、いつもの俺なら躊躇い無く逃げる。だが、敵に回してるのはキイスだ。ここで逃したら、もう二度と会えないかもしれない。 ゴウッ! 信じられないことに、空を凪ぐ爆ぜるようなその音は本当に聞こえてきた。次の瞬間、視界一杯に巨大な拳の塊が広がる。頭で考えるより早く体が反応してくれた。咄嗟に身体の前で腕を十字に組み合わせてガードを作る。それとほぼ同時。その爆発は起こった。 一瞬、何が起こったのか分からなかった。ただ、自分の身体が宙に浮いているのが分かる。俺はそのまま吹っ飛ばされ、何とか着地した後、膝から崩れ落ちた。 「うぁああぁぁっ!」 ――折れた!? その剛拳を受けた両腕が、爆発で千切れ飛んでしまったかのように痛んだ。凄まじい衝撃だ。ガードがガードになってない。フリッツと呼ばれた大男は、3メートル程離れたところに立っていた。もし奴がパンチを放った後一歩も動いていないとすれば、俺がその距離分を吹っ飛んだということになる。なんてパワーだ。 「オラァ!」 油断していたところを、後ろから蹴り飛ばされた。キイスの手下だ。 「クッ」 ダメージは残らないが、一瞬痺れるような痛みが背中を走り、俺は弓なりに仰け反った。人をサッカーボール扱いしてくれるとは、流石はサッカー発祥の国、イングランドの人間だ。気にくわねえ。 2撃目が放たれるより早く、俺は再び地面を転がって間合いを取った。そして追撃に注意しながら慎重に立ち上がる。 ――やっぱ、先に何人か倒しておいて正解だった。6人丸ごと残してキイスだけを狙っていたら、倒れた瞬間取り囲まれて、立ち上がる隙すら与えられることなく袋叩きにされていたことだろう。 そこまで考えて、俺は思った。大丈夫だ。怒りで頭に血がカッカと上っているが、その反面でちゃんと計算は出来ている。四年前とは違う。 「はぁ、はあっ……」 だけど、スタミナが無いのは前と同じだった。やっぱり、毎日の地道なトレーニングを積み重ねてないと、戦闘っていう最もハードな動きを伴う運動には耐え切れないか。もう息が上がって、最初の勢いが無くなってきてる。身体が重い。短期決戦でケリつけないと、状況は悪くなる一方だ。 それに―― 「届かねえなァ」 キイスが遠い。数の要素、体力の要素、戦力の要素、どこから見ても駄目だ。壁のように構えるフリッツと呼ばれるボディガード。その後ろで不敵な笑みを浮かべるあの野郎。3人を倒し、俺も数発もらったが、奴にはまた掠りさえしていない。目の前にいるのに、届かない。キイスに手が届かない。 「どうした、ジャパニーズ。俺は全然痛くないぞ」 恐らくそう言ったのであろうことが、俺には分かった。キイスは人差し指で自分の頬を何度か叩く。ここを殴ってみろ、ということだろう。何から何まで、トサカにくる野郎だ。 「キイス……」 こいつは何の覚悟もないくせに、簡単に人の命を奪う。自分は命を賭けないくせに、他人の命を弄ぶ。そうやってコイツは親父の左腕を奪っていった。それが何を意味するか、何を伴うかすら理解せずに。 別に人を殴るなとは言わない。殺すなとも言わない。だけど、俺や親父――相沢の男にそれを仕掛けようとするなら覚悟決めて来い。殴るつもなら、失敗した時は逆に殴り返される覚悟。殺そうとするなら、失敗した時は逆にテメェがブッ殺される覚悟だ。その覚悟を決めた上で向かってくるなら、相沢は受けて立つ。 でも、人の後ろで踏ん反り返ってニヤついて、決して自分の手は汚さないという奴は、絶対容赦しねえんだ。 「相沢をナメんな!」 体力の限界を怒りで誤魔化し、キイスに向かう。 もう打算はヤメだ。とにかく、奴に一発入れないと気が済まない。その後のことは、もうどうでも良い。相沢家の男に手を出すことには、常に多大なリスクが付き纏う。それを親父に代わって俺が奴に叩きこんでやるんだ。 「アァァアッ!」 獣のような咆哮が、自然と口から漏れた。まるで他人が発しているような叫び声だが、震えているのは俺の声帯だ。 「フリッツ!」 キイスは再びボディガードをけしかけた。その声に素早く反応し、俺の前にその巨体が立ち塞がる。まるで壁だ。こいつをブチ破らないと、キイスには届かない。 奴が力任せに繰り出してきた正拳を、身を屈めて躱す。掠めただけで、風圧が顔を歪めるようだ。でも、ヒットしなけりゃ同じこと。 俺はそのまま勢いを殺さずヤツの懐に潜り込み、 「うりゃあッ」 右脇腹あたりに渾身のフックを叩き込んだ。伝わってくるのは、まるで鉄板を殴ったかのような重く固い手応え。かつて感じたことのない反動に、ある懸念が俺の脳裏を過っていった。 ――効いてない!? それを証明するように、女性の腰ほどの太さもある奴の腿が持ち上がり、下から突き上げるようにして襲いかかって来た。背中に冷たいものが走る。間一髪、俺はその膝蹴りを躱して距離を取った。目の前を、殺人的な一撃が暴風を伴って通りすぎていく。単なる膝蹴りが、この勢いだ。 いや、まだ終わってない。熊のような巨体が離れる俺を追って来ていた。そして丸太のような右足が、ミドルキックと云う名の大砲と化して飛んでくる。 ミシィッ! 骨が軋む。左肩に爆発のような衝撃が襲った。内蔵が、急激に生じた慣性に大きく横に揺れる。 「グゥハ……ッ」 俺は文字通り吹っ飛んでいた。身体が宙を舞うという、非日常的なこの体験。自分が飛ばされているのだと認識した時には、もう地に不時着していた。凄まじい衝撃とダメージだ。左腕越しに食らったというのに、信じられない程の威力。本当に爆発に巻きこまれて吹っ飛ばされたような感覚だった。 「祐一くんっ」 そんな中、場違いなその声は聞こえてきた。朦朧とする意識の中、俺はなぜ彼女の声がこんなところで聞こえてくるのかを考えた。 それは、聞きなれた月宮あゆの叫び声だった。
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GMT Mon,24 July 2000 15:53 P.M. 現地時刻7月24日午後3時53分 サザーク トゥーリィ・ストリート なんだかちょっとだけ刺激的な体験だった。わりと満足しながら、私は陽光の中で伸びをする。 ロンドンダンジョンを出ると、微かに外が眩しく思えた。やっぱり、人間には日光が必要なんだと思い知らされる。鍵っ子というほどではないけど、私はあまり積極的に外出するタイプではない。どちらかといえば、部屋で読書や研究に励む方が好き。でも、篭りきりっていうのも良くないわよね。たまにはこうして日に当たるのも大切なことだと思う。 「なぁ、なんか食っていこうぜ。出口にカフェがあったのに、なんで素通りしちまうんだよ」 相沢氏は先程からしきりに飲食を勧めてくる。あんなグロテスクな蝋人形のコレクションを眺めてきたのに食欲が湧くとは、私には信じられないような極地だ。 そういえば、あゆちゃんと相沢君はどうなったのかしら。相沢君は出口の辺りで合流しようとか言ってたような気がするけど――周囲を見回してもそれらしき姿はない。 「あの、小父《おじ》さま、良かったらカフェで一服してらしてください。私は相沢君とあゆちゃんを探してきますから。そこで落ち合いましょう」 「ごめんなさいね、美坂さん。このひとが我侭なせいで」 少し困ったような笑みで、夏夜子さんは首を傾げるようにして私に謝った。 「相沢の男のワガママは、息子さんの方で慣れてますから」 私は意図的に形成できる種においては最高ランクに位置する微笑を浮かべ、その場を後にした。 この辺りは、シティと呼ばれる行政区が近しいせいか非常にモダンでスタイリッシュな町並みだ。通りも広くて、とても綺麗。夜になればロンドン・ブリッジやタワー・ブリッジのイルミネーションが、それは瀟洒な夜を演出してくれることだろう。 「まったく、どこに行っちゃったのかしら」 ぼやきながら、目の前をテムズ河沿いに走る大通りに視線を巡らせる。問題は、相沢君があゆちゃんを捕まえることが出来たか否かだ。もし二人が一緒ならさほど問題はないけど、まだチェイス・ゲームを展開している最中だとしたら面倒なことになるかもしれない。 だけど、そんな私の危惧もすぐに杞憂と終わった。通りを渡った人込みの中で、ポツンと佇んでいる小さな天使を見つけたからだ。あの特徴的な背中の羽飾りは、間違い無く月宮あゆのものだ。 「あゆちゃん、探したわよ」 私はトゥーリィ・ストリートを渡りきると、背中を向けている彼女の肩に手を掛けた。彼女に限っては、この展開で「人違いでした」というオチにはなりにくい。地上には外見と中身を兼ね備えた天使など、そうそういないものだ。 「うぐぅ、香里さん! あのね、むこうが祐一君に、さっき伝えといてって」 なにやら混乱しているらしい。普段からあまり日本語が達者な少女とは言えないが、さすがにここまで意味不明な日本語を聞いたのは初めてだった。 「おちついて、相沢君とは会わなかったの?」 「あったよ、でも行っちゃった」 彼女は通りの西の方をチラチラと窺いながら、酷く動転した様子で言った。まるで導火線が短くなったダイナマイトを急に手渡され、処理に困っているような感じだ。 「相沢君とは合流したのね」 「ごーりゅー?」 彼女は可愛らしく首を傾げた。私にはきっと、こんな仕草は似合わないだろう。 「まったく、何のために追いかけていったのよ。で、あのエロガッパはどこに行ったの?」 「祐一君のことなら、向こうに走って行っちゃったよ。……そうだ、ボク、早く追いかけなきゃ!」 相沢君の名を口に出した瞬間、彼女は再びワタワタと慌てはじめた。そして制止する間も与えず、先程から気にしていた通りの西に向かって勢い良く駆け出す。 「あっ、あゆちゃん。月宮さん、ちょっと待って!」 「そうだ、えーとね。祐一君のお父さんに伝えて。祐一君が『キイスを見つけた』って言ってたって」 一瞬だけ私を振り返ると、彼女は後は任せたとばかりに全力で走り去っていった。相沢君はよく『食い逃げで鍛えたヤツの脚力は並じゃない』なんて冗談めかして言ってるけど、確かにあれは大したものだわ。追いかけようかとも思ったけど、それを瞬時に断念させるくらいの加速を見せて、彼女の姿は既に人込みの中に消えていってしまった。 「……はぁ」 思わず溜息が漏れる。まさか月宮さんに不覚をとるとは。侮れないわ。それに子供の遣いみたいに何の役にも立ってないじゃない、私。それが何より情けなく思える。このまま二人とはぐれてしまったら、きっとそれはあたしの責任だわ。 でも、ここで一番冷静な判断は、相沢夫妻の元に戻ってことの顛末を報告することよね。あゆちゃんから不任意で伝令役に仕立て上げられちゃったし。 「呪われるんじゃないかしら、この旅行って」 一昨日の化物たちの襲撃といい、驚愕の事実の発覚といい、本当にロンドンにきてから陸《ろく》なことが無い。それもこれも、元はと言えば全部あの相沢祐一《エロガッパ》のせいだわ。 悪態を吐きながら、私はロンドンダンジョンのカフェに戻った。店内に入ると、テーブル席に向かい合って座る相沢夫妻は直ぐに見つかった。芳樹氏はツナサンドを一心不乱に食べていて、その向かいの席に座る夏夜子さんは静かにティカップを傾けていた。気品や優雅さに掛けては対照的な二人。そういう意味に掛けては、まさに美女と野獣といったカップルよね。 「お、戻ったか」 彼らの元に歩み寄っていくと、私の姿を発見した芳樹氏が口一杯にサンドウィッチを頬張ったまま言った。そして私のためにウェイトレスを呼んで、紅茶を注文してくれる。 「あれ、ドラ息子はどうした? それからあのアジとかいう――」 そこまで言って、彼は首を傾げる。 「いや。サバだっけか、あの娘の名前? タラ、でもなくて。マグロ? マグロのマグちゃん」 「あなた、鮎釣りのあゆちゃんよ」 「おお、それそれ」夏夜子さんのフォローを受けて、彼は嬉しそうに頷く。 「その魚っぽい子はどうなった?」 「どうでも良いんですが、念のためにお聞きします。小父さま、あたしの名前覚えてらっしゃいますか?」 私は彼らのテーブルの空いている席に腰を落としながら訊いた。 「おう。覚え方にコツがあるんだ。お前さんの場合は、まず妹の方から責める。あの子は、シオシオの栞。で、それが突然変異して姉はカオリになる」 先に生まれたはずなのに、あたしはミュータント扱い? 「ごめんなさいね、美坂さん。この人は固有名詞を覚えるのが苦手なの。というより、覚える気が無いというべきかしら。特に今回は同じ年代の女の子が10人近くいて混乱してるみたいなの」 夏夜子さんがまた謝ってくれた。 そう言えば、芳樹氏は名雪と再会した時、彼女のことを覚えてなかったわね。相沢君にナユキビッチ・イチゴスキーとか紹介されて、それをそのまま信じてたし。 「それで、ウチのドラ息子とあゆちゃんはどうなったんだ?」 「ええ、それなんですが――」 ウェイトレスがティセットを運んできたので、それを受け取る。 「相沢君は一旦あゆちゃんと合流した後、彼女を放り出してどこかに行ってしまったみたいなんです。あゆちゃんは見つけたんですが、相沢君の後を追って走り出した彼女を止めることは出来ませんでした」 「それじゃあ、二人とも何処へ行ってしまったのか分からないの?」 「ええ、すみません」 夏夜子さんの言葉を、頷くことで私は肯定した。 「それから、伝言をひとつ。相沢君が小父さまに伝えてくれと」 「俺か? なんだ」 反応こそ示したものの、それでも芳樹氏は目下相手にしているお皿のサンドウィッチの方に興味があるようだった。 「キイスを見つけた、と。私が聞いたのはそれだけです」 「なんだ、そりゃ。どういう意味だい?」 「いえ、私に訊かれても困ります。――と言うより、心当たりはないんですか?」 「ねえな」 芳樹氏は把手《とって》ではなくカップの胴体を鷲掴みにして紅茶をガブ飲みしつつ、キッパリと言った。 どうでも良いんだけど、ティカップは鷲掴みするものではなく、紅茶はガブ飲みする種の飲み物ではない。 「あ、分かった」 彼はカップをトレイに戻すと、ニンマリと邪まな笑みを浮かべた。 「何か思い出されましたか?」 芳樹氏の笑みは、相沢君がエロガッパなことを企んでいる時の顔に酷似していた。私は第一種警戒態勢を敷きつつも、一応彼の話を聞いてみることにした。 「いやな。夏夜子、ちょっと」 「なにかしら?」 夫にジェスチャーで耳を貸せと指示され、夏夜子さんは素直に顔を近付ける。その夏夜子さんの顔が射程圏内に入った瞬間、芳樹氏は彼女の唇を素早く奪った。そして、私を見て再びニヤリと笑う。 「キイス」 「――それはキッスです」 私は目の前の男に渾身の右ストレートを放ちたくなったが、それをなんとか堪えた。夏夜子さんも、「あらあら、まあまあ」などと言っている場合ではない。 大体、私はキチンと『th』の発音をした。日本人でもあるまいし、英語に堪能な芳樹氏が『ss』の発音と聞き間違えるはずはない。彼はワザとやったのだ。 「小父さま、真面目にやる気ありますか?」 「いや、スマン。スマン。祐一の奴が、『香里はツッコミの名手だぞ、いつか試してみろ』なんて言ってたからついな」 ……相沢君。無事に見つけ出したら、キッチリ教育的指導をしておく必要がありそうね。 「だけど、本当にキイスだなんて知らないぜ。多分、人名だとは思うが」 「あなた、あの人じゃないかしら」 首を捻って考える芳樹氏に、隣から夏夜子さんがフォローを入れた。 「四年前の事件の黒幕と言うの? あなたと祐一が巻き込まれたあの時の主犯が、キイス・マクノートンという少年じゃなかったかしら」 「え、四年前?」 妻の言葉に、芳樹氏は虚をつかれたらしかった。黙って考えこんでいる。 それにしても、夏夜子さんが気になることを言ったような気がするのは私だけかしら。相沢君と事件に巻き込まれたって聞こえたけど、一体何があったのかしらね。 そのことを質問しようと口を開きかけた時、 「ああっ!」 相沢氏は椅子を蹴って立ちあがると、大声で叫んだ。店内の全ての視線が、彼に集中する。私はそれが恥ずかしかったが、彼はまるで頓着していないようだ。 「思い出した、あの時の生意気なクソガキ!」 彼はロマンサーを握り締めると、虚空を睨みつける。 「おい、カオりん。あのドラ息子は確かにキイスを見つけたって言ったんだな?」 ――誰がカオりんですって? 「ええ。少なくとも、あゆちゃんからはそう伝え聞きましたけど」 「おのれー、あの小僧。俺が天誅を下してやらねばならん。そして裸に引ん剥いて、『芳樹最高』のタトゥーをデカデカと背中に彫り込み、あまつさえ頭をモヒカンにしてウエストミンスター大聖堂の天辺から吊るしてやる」 それはある意味、さっきダンジョンで見てきた拷問より嫌だ。 「おい、カオりん。奴はどっちにいるんだ、案内してくれ」 ――だから、誰がカオりんよ。 「あゆちゃんは、ここの前の大通りをテムズに沿って東の方角に行きましたけど」 「夏夜子、それはつまりどっちだ?」 どうやら、相沢祐一は父親から方向音痴を継承したらしい。 「トゥーリィ・ストリートを東ということは、Bermondseyがあるの方ね」 「あのアンティーク・マーケットがある方か。よし、行くぞ!」 高らかに宣言すると、芳樹氏は走って店の出口に向かっていった。が、何を思ったかUターンしてツカツカと戻ってくる。そして彼は自分の皿に残ったサンドウィッチを両手で掴み、それを全部まとめて口の中に捩り込むと、強引に紅茶で流し込んだ。あ、ちょっと無理があったみたい。涙目だわ。 「ほんひゃ、ひふほ。ほへひふひへほい!」 「小母さま、彼はなんと?」 「そんじゃ、いくぞ。俺について来い! ですって」 ……ついていけないわ。
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GMT Mon,24 July 2000 16:01 P.M. 現地時刻7月24日午後4時01分 サザーク トゥーリィ・ストリート 「祐一くんっ!」 やはり、その声は幻聴などではなかった。片膝付いたまま後ろを振り返ると、血相を変えてコッチに走り寄ってくる小さな人影が見えた。彼女の身体が揺れるたびにパタパタと小さく震える背中の翼。そのプチ天使を思わせるシルエットは、月宮あゆ以外にあり得ない。 「莫迦っ! 来るなっていっただろう、早く戻れ!」 戦力になる舞や親父が来たなら別だが、あゆは足手まといにしかならない最悪の援軍だ。なにより、こういう路地裏の世界は彼女に相応しくない。俺が人を殴るところなんて、彼女に見せたくなかった。 「祐一くん、だいじょうぶ? 口から血が出てるよ」 あゆは俺の制止の声も聞かず、一直線に駆け寄ってくると傍らにしゃがみ込んだ。こいつには、状況がまったく見えちゃいない。 「なんで来た! 来るなって言っただろう。俺は良いから、はりやく戻れって」 「だって、祐一くんが心配だったから」 あゆはハンカチを取り出して、切れて出血している俺の口元を拭おうとする。そのファンシーな白い布地が近付くと、あゆ特有の甘ったるい女の子の香りがした。薄暗い陰湿な路地裏には似つかわしくない、日向を連想させる匂い。やはり、ここはあゆの来るような場所じゃないと痛感する。 「なんだ、そのガキは。お前の仲間か?」 キイスは余裕の表情で俺たちを見下ろしていた。奴の前には、相変わらず聳え立つという表現が相応しい巨漢の壁。 だけど、もう自分のことばかりを考えられる状況じゃなくなった。とにかく、今はあゆを無事に逃がすことを優先しないと。こいつらは、相手が少女だからといって手加減をしてくれるような善玉じゃない。それは、さっきナイフを付きつけて女を脅していたことを見ても明らかだった。 「そう言えば、東洋人。お前には見覚えがあるな」 少しだけ、奴の俺を見る視線が変わった。 「――っ!」 野郎、今頃になって俺の顔を思い出したか? 「その血ヘド吐いて、俺の足元に平伏してる姿……まさかとは思うが、前に殺したはずの日本人のガキか」 「ケッ、殴られて顔が変わらなきゃ分からないとはな。ふざけた野郎だ」 俺は日本語でそう答えながら、立ち上がった。 なるほど、散々ブン殴った記憶しかないから、殴打されて顔が腫れ上がった時の俺しか記憶に無いってわけか。とことんまで人を馬鹿にしてくれてるな、こいつは。 「でも心配するな。忘れたくても忘れられない顔にしてやるよ。敗北の苦い経験と一緒に事あるごとに思い出せ」 「やっぱり、あの時のガキか。大きくなったな、日本人」 何となくではあるが、俺の言葉から何かを読み取ったのだろう。微かな驚愕の表情を浮かべながらも、キイスは楽しそうに笑った。 「何故あの爆発で生きていられたのかは知らんが――だったらもう一度殺すまでだ」 俺も奴の英語が完全に理解できるわけではないが、所々聞き取れる単語から推測すれば、もともと高度な演説なんて出来ないキイスの言葉だ。容易に内容の予測はつく。 「あゆ、俺が奴らに向かっていったら、お前はすぐに後ろに向かって逃げろ。いいな!」 返事を聞く前に、俺は奴に向かって走った。ボディガードがそれに反応して構える。まず、この壁をどうにかしないと、キイスに手が届かない。 「オォリャッ」 自然に洩れる気合の声と共に、俺は身体ごと奴に突っ込んだ。衝突の瞬間、右肩に痺れるような衝撃が走る。が、それを無視して、俺は続けざまにボディに左のストレート、右のフックを叩き込んだ。伝わってくる確かな手応えが、全弾命中を確信させる。だけど―― 戦慄を感じて顎を後ろに引くと、次の瞬間、目の前を薙ぎ払うような暴風が通り過ぎていった。まるで暴走特急が鼻先を掠めていったかのような勢い。奴の右拳だ。 「こいつ――」 慌てて距離を取りながら、目の前に聳える巨大な壁を見上げる。3発もまともに入ったのに、全然効いてない。それどころか、微動だにしてないようだ。サイボーグかよ、こいつは。 しかし、どうする? どうにも、この化物は今の俺の実力じゃ倒せそうにない。かと言って、こいつを倒さないと、キイスには辿り着けない。このままじゃ、結局俺は道化。堂々巡りだ。 「くそ……」 そう言えばあゆの奴は、どうした。今の隙に乗じてちゃんと逃げただろうな? そのことが脳裏に浮かんだ瞬間、当のあゆの発した悲鳴が周囲に響き渡った。 「う、うぐぅ! いたっ、祐一くん!」 「あゆ!?」 慌てて後ろを振り返ると、あゆはキイスの手下に掴まっていた。後ろから羽交い締めにされ、しかも首元にはご丁寧にナイフが添えられている。 「莫迦、なにやってんだお前は!」 「うぐ、つかまっちゃったよう」 それは見れば分かる。 「祐一くん、ごめんなさい」 大粒の涙をぽろぽろと零しながら、あゆは謝った。 「この件にあゆは無関係なんだ。離せよ」 近付こうと一歩踏み出そうとした瞬間、鋭い制止の声が入った。 「おっと、動くな!」 絶対的優位に立った者の笑みを浮かべながら、キイスは言った。 「離して欲しかったら、死んでも動くなよ。日本人」 ――状況は、最悪の方向に進みはじめていた。
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GMT Mon,24 July 2000 16:07 P.M. 現地時刻7月24日午後4時07分 サザーク トゥーリィ・ストリート 土地鑑が無い場所での人探しは、困難を極める。特に、この一帯はロンドンの中心部だから通りを行き交う人波も多いし、何より私はこの町では完全なストレンジャーだ。油断していると自分が迷子になることだってあるだろう。 そんな私の苦労を全く理解していない相沢氏は、凄い速さで通りを駆けて行く。美坂香里は、度々「運動能力が高い」とクラスメイトたちに称えられるが、その私がまるで歯が立たない速度だ。 そう言えば、陸上部の部長を務める名雪にしても、毎朝教室に全力疾走で駆け込んでくる相沢祐一にしても、その健脚ぶりは大したもの。これはもしかすると、彼らの血筋に共通する特徴のひとつなのかもしれない。 「お、小父さま。ちょっとは手加減してください」 私は立ち止まってキョロキョロしだした隙に彼に追いつくと、呼吸を整えながらそう言った。因みに、彼の妻である夏夜子さんはワゴンを取りに、近くの駐車場に向かった。間も無く合流することになるだろう。 「別に無理して付いて来なくて良いんだぜ」 彼は息一つ乱していない。普段からトレーニングでもしているのかしら。まあ、体力がなくちゃこの前のマラソン・ギグなんかはこなせないでしょうけど。 「それにしても祐一の奴、一体どこまでいったんだ?」 私たちは、大通りから南下する小さな通りに入った。ロンドンは碁盤の目のように通りが入り組んでいて、それらは一種の迷路を形成しているようにさえ見える。通りごとに秩序だった番号が割り振られていなければ、不案内な人間が入り込めば最後、迷宮に閉じ込められたミノタウロスのように脱出できなくなってしまうだろう。 相沢氏の後を漠然と追う内、周囲から徐々に人気が少なくなっていることに気付いた。大通りからそんなに離れていないと言うのに、何度か細い通りを経由しただけで随分と雰囲気が変わるものだ。でもこんな所に入り込んで、夏夜子さんは追いついてこられるのかしら? そんなことを考えながら路地のあちこちに視線を巡らせている内、私はそれに気付いた。 「あ、小父さま。あれっ!」 私の視力は1.2だが、それはハッキリと分かった。 随分と前方、狭い路地の入り口を塞ぐような形で、大きなワンボックスの乗用車が止まっている。問題は、その車に無理矢理押し込まれている人物だ。数人の男たちの手によって、車の後部座席に今乗りこもうとしているのは、間違い無く月宮あゆだった。 「おい、なんかあれは――」 ヤバそうだ。聞かずとも、相沢氏がそう考えたのは分かった。 恐らく地元の人間だろう、屈強な男たちが数人であゆちゃんを車に乗せようとしている。ガラス越しに車内を見れば、そこには相沢君と思わしき人物の後頭部も見えた。あゆちゃんが乱暴に扱われているのというのに、彼らしき人影はピクリとも反応しない。脅されていて動けないのか、それとも気を失っているのか。どちらにしても只事ではなさそう。 「なにやってんだ、あのバカ!」 悪態を吐くやいなや、相沢氏は猛然と駆け出した。私もそれに続く。だけど、タイミングが悪過ぎた。ほぼ走りはじめたと同時に、ワゴンのドアは閉められエンジンがかけられたのだ。数秒のブランクをおいて、それは駆動しはじめた。 「おい、待てッ!」 相沢氏の脚力は驚異的だった。車が動き出したとほぼ同時、それに追いついたのである。 「Squeeze!」 相沢氏は左手をスイングし、その黒い拳をリア・ウィンドウに叩き付けた。窓ガラスが割れ、彼の左手が窓枠を掴む。まるで万力に絞めつけられたように、金属性のフレームが握り潰されるのが分かった。 「凄い……!」 目を疑うほどの握力。――Squeeze《スクウィーズ》、それはまさに『圧殺』と呼ぶに相応しい力だった。あの義手に、あんな機能もあったなんて。少なくとも、常人が日常生活の中で必要とするスペックではないのに。 エンジンは停止しなかったが、走り出そうとしていた車の前進は止まった。発進しようとした瞬間、後部のガラスが割られ黒い人間の拳が飛び込んできたのだ。乗り込んでいる男たちも、度肝を抜かれたことだろう。 「ウチのドラ息子とマグちゃんを返してもらおうか」 その声に答えるように後部ドアがスライドして開き、二人組みの男が車から降りてきた。勿論、その中には相沢祐一は含まれていない。屈強な体付きをした、イングランド人だ。一人は鼻から出血しているように見えるけど―― 「お前等には用なんてない。祐一たちを返せと言ったんだ」 相沢氏は車のフレームから手を離し、彼らと対峙した。英語で若者たちに話しかける。でも、相手はそれに付き合うつもりは無いようだった。何の前触れも無く、男たちは相沢氏に襲いかかる。 「小父さまっ!」 2対1では分が悪過ぎる。しかも、彼の左手は義手。まともに戦えるとは思えなかった。 「あっ、待ちなさい!」 二人が降りてきたのは時間稼ぎと、相沢氏の足止めのためだったらしい。戦闘が始まったのを見計らい、車は再び発進した。流石の相沢氏も、今度はそれを阻止することが出来ない。ワゴンは猛スピードで走り出し、通りの向こうに消えていった。勿論、もう人の足で追いつくのは不可能だ。 「チッ、逃がしたか」 相沢氏は、向かってくる男たちの猛攻を捌きながら器用に舌打ちした。信じられないことに、彼は体格の良い二人の大男を敵に回しても互角以上に立ち回っている。その洗練された無駄のない動きは、一種芸術的ですらあった。まるで踊っているかのようにさえ見える。 「遠慮してる時間がねぇ。運が悪かったな!」 相沢氏はピョンと後ろに跳躍し、相手二人と距離をとった。 「Fox One!」 その叫びと共に、相沢氏は左腕を前に突き出した。正面からパンチを放つようなアクションだが、相手との距離は2メートル以上離れているから、その目的は攻撃ではないだろう。 ――そう思ったのだが、違う。 「……えっ?」 それは、我が目を疑う光景だった。まるで猛烈な突風が吹き付けたように、男二人の体がフワリと宙に浮く。彼らはそのまま後方に吹き飛ばされ、そして背中から地面に叩き付けられた。 ダウンバーストでも発生したのだろうか。最初は、そう思った。積乱雲から発生した極めて強力な下降気流――ダウンバーストは、時に風速100メートルを超える凄まじい暴風と化す。これに襲われた街では、ビルの窓ガラスは粉砕され、車は引っ繰り返され、街路樹は根こそぎ引っこ抜かれるわけだけど――人間が見えない力に、文字通り吹っ飛ばされるとなるとそんな自然現象の力を借りなければあり得そうにない。 「小父さまっ!」 私はようやく彼の傍らに辿り着いた。不可解な突風に襲われた男たちは完全に失神しているらしく、仰向けに倒れたまま動かない。こちらの争いは、完全に決着したようだ。 でも、向こうの狙いが逃亡の機会を作るための足止めだったことを考えれば、勝負は向こうの勝ちだと言えるだろう。まんまと相沢君とあゆちゃんを連れ去られてしまったわけだから、それは目に見えている。 「今のはなんなんです?」 「――キイス・マクノートンか」 私の質問には答えず、険しい視線で車の消えていった先を見詰めながら、彼は言った。 「ちょっとマズイことになったな。あいつは、他人の命なんざ自分の玩具以外の何物でもないと思ってる奴だ」 「キイス・マクノートン」 相沢君が口にしていたという『キイス』というのは、そのことだろう。どうやら、過去にロンドンで出会った懐かしい友達といったような輩ではないらしい。 「何者ですか?」 「この辺りで色々やってるマフィアだ。あの馬鹿息子は、連中と四年前から色々と揉めてたのさ」 「マフィア……」 やはりどの国にも、そういった社会の暗部を住処とする人種はいるものらしい。そして相沢祐一は、そういう連中との摩擦の中に生きる種の人間なのかもしれない。付き合わされる人間としては、極めて迷惑な話だ。 「警察に連絡しますか?」 「祐一たちが拉致されたという証拠がない。俺たちが見たのは、奴等と一緒に車に乗りこもうとしたマグちゃんの姿だけだ。祐一に至っては、座席に座っているらしき後姿しか確認できてないしな。マクノートンは警察にも影響力を持ってるって言うし。現状では、通報したところでコッチが望むような対応は期待できないさ」 「じゃあ、一体どうするんですか?」 話を聞くうち、胸の中に重い不安の黒渦が芽生えはじめていた。どうやら、相沢君たちが関わったのは相当の連中らしい。少なくとも、私の力ではどうしようもないような。 「なんとかするさ」相沢氏は屈託なく、唇の端を吊り上げた。「場所は分かってる。取り敢えず、やつらの根城に乗り込もう」 その声を待っていたかのように、Y'sromancerのペイントが施された白いワゴン車が走り込んできた。それは私たちの前で止まり、そしてドアが開かれる。顔を覗かせたのは、もちろん夏夜子さんだった。 「あなた」 「悪い、夏夜子。取り敢えず、色々と忙しくなりそうだ」 「そう……分かったわ。乗って」 彼女は夫とのたったそれだけのやり取りだけで、全てを把握したらしい。神妙な顔付きで言った。 「よし、行こうぜ」 相沢氏は私の背中を押して強引にワゴンに乗り込ませると、自らも助手席のシートに滑りこんだ。 「あのドラ息子はともかく、マグちゃんだけはなんとかしねーとな。カオりん、携帯電話持ってただろう。秋ちゃんたちに連絡だ。全員拾って、マクノートンとこに乗り込むぜ」
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