GMT San,23 July 2000 10:12 A.M.
Piccadilly W1 "Park Lane Hotel" 7月23日午前10時12分 ピカデリー パーク・レーン・ホテル どこから失敬してきたのか、ルームサービス用のワゴンに載せられて運び入れられた4つの木箱は、リビングの中央に鎮座している大きな木製のテーブルに置かれた。すぐに何人かがそれを囲み、程なくして木箱は開かれる。中には、これから戦争でもはじめるのかと本気で疑いたくなるような重火器が満載されていた。機関銃に予備のマガジン、プラスティック爆弾に手榴弾各種、それから日本人の手では持ち切れない程に巨大なハンドガン。恐らく弾丸を収めているのであろう四角い紙の箱も隙間なく詰めこまれている。プロの装備だ。 「IMIのマグナムオートか」 「しかも.50だ。更に弾丸は、我等がThuringwethil特製のJ:AE。こいつがあれば、サイバードールでも装甲車でも相手にできる。全員分あるぞ」 嬉々とした表情でボディガードたちは武器の点検をしているが、俺は彼等が手にしている弾丸を見て目を見張った。とてつもない大きさをしている。親指よりも太くて長い銃弾――しかもあれが普通のピストルから発射されることを考えると驚異的だ。 「対サイバードール用に開発された、スリングウェシル仕様のジャケテッド・アクション・エクスプレスか。たとえ装甲を貫通できなくても、着弾時の衝撃だけで充分に仕留められる。ハンドガンじゃ最強の組み合わせよね。まさにハンドキャノンだわ」 「弾は全部ジャケテッド・ブレットを選んできた。後はイークアロイだな。ホローポイント系じゃ、また連中が襲ってきた時使えないだろう。街中を長物持って歩くわけにはいかないから、ハンドガンが主体だが」 交わされる言語は英語がベースのようなので、俺にはほとんど理解できない。だが、どう考えても明日のピクニックの相談をしているようには見えない。相談というより、装弾。絶対に物騒な話に決まってる。それも、恐らく意味を理解できないことに感謝したくなる種の。 ――厄介事を回避するため、佐祐理さんの別荘(正確には親父さんのらしいが)から脱出した俺たちは、ロンドン中心部に下り『パーク・レーン』と云うホテルに全員でチェック・インして寝床を確保した。位置的には、ピカデリィ・サーカスに近い。ピカデリィと云う大きな通りに面していて、その通りの向かい側にはグリーン・パークが見える。すぐ右隣にドンと構えているのは日本大使館(総領事館)。有事の際には、文字通り走って駆け込めるって寸法だ。 このPark Lane Hotel《パーク・レーン・ホテル》は、高級ホテルにランキングされるそれはゴージャスな宿泊施設だ。佐祐理さんはツインで7部屋とってくれたわけだが、宿泊料はこのクラスだと普通1泊で250£(約5万円)は取られる。しかもチップも10%くらいは取られるからなぁ……。これが7部屋だから1日で35万。庶民からすれば吐血しそうな額だ。特に、口座にカードでは引き出せない単位の額しか残ってないような俺には。 だけど、正直言って今の俺は宿泊費のことを呑気に心配していられるような心理状態にはなかった。得体の知れない連中の襲撃を受けてショックを受けていたこともあるし、天野のことが心配でもあったからだ。俺は我侭を通して、また天野と一緒の部屋を割り当ててもらったのだが、その彼女は重態だというのに香里と栞の部屋に行ってしまった。変わりに、何故か俺の部屋でボディガードたちが作戦会議を開いている。どうやら俺に話があるようなんだが―― ドアが開いて、香里に肩を借りた天野が入ってきた。俺は慌てて彼女に駆け寄り、手を貸す。天野と香里の後ろには、秋子さんと佐祐理さん、舞の姿も見えた。察するに、俺とミッシーの部屋が会議室代わりに使われることになったらしい。何時の間に決めたんだ? 「天野、どこに行ってたんだよ。寝てなきゃ駄目だろう」 抵抗する彼女を無理矢理ベッドに寝かしつけ、無茶を咎める。 「美坂さん――栞さんが軽い興奮状態にあったので、催眠暗示をかけてきたんです。私以外にはできないでしょう?」 「そりゃ栞は色々と精神的にショックを受けてたみたいだけど、俺はお前も心配なんだ。拳銃で撃たれて、治療さえしてないんだぜ? 頼むから分かってくれよ」 天野は自分の存在や傷なんかを軽視し過ぎる嫌いがある。俺はそれを美徳だなんて思えない。こいつ一番の欠点だ。自分を大切に出来ない奴を見るのは、正直つらいものがある。 「あなたに心配して貰えるほど嬉しいことはありません、相沢さん。でも、こういったケースがPTSDに繋がることは良くあるんです。適切な処置が必要だったんですよ、栞さんには。私の身体は時が経てば癒えるでしょう。でも、心の傷は――相沢さんなら分かるでしょう?」 心の傷、PTSDか。聞いたことがある。確か、 「post-traumatic stress disorders。心的外傷後ストレス精神障害のことよ」 俺の思考を完璧にトレースして、香里は言った。彼女のこういった能力は、確かにずば抜けている。相手の思考の先読みとでも言うのか、とにかく人の考えていることを読んだり予測したりする才能に極めて特化しているわけだ。彼女が一般人に「頭の回転が速い」と錯覚されるのは、この能力があればこそだろう。 「ああ、要するにトラウマの一種だろ? 事故にあったり、色んな恐怖体験をして強いストレスを受けた人間が後々にまで延々とその時のショックに苛まされるっていう」 「――私が頼んだの」部屋の一角で静かに佇んでいた秋子さんが言った。 このホテルのベッド・ルームは、驚異的に広いことで有名だ。リビングに護衛が5人、ツインベッドの周りには俺と天野、香里、佐祐理さんと舞、そして秋子さんの6人がいるが、窮屈で仕方が無いといった雰囲気はない。 「心的外傷後ストレス性精神障害は、感受性の強い子だとちょっとしたことでも生じ得るの。湾岸戦争では戦場に送り込まれた兵士にも、これが見られるわ。私たちが経験したあの場は、まさしく戦場の様相を呈していたし、目の前で……人も亡くなったわ」 秋子さんの言葉で、武器を手入れする護衛たちの手がピタリと止まった。俺たちを助けるために、命を捨てて囮になってくれたボディガード、スコット・スピードマン氏が死んだ。奴等の銃弾で身体中を撃ち抜かれて――銃殺されたのだ。 「栞ちゃんが心配だったの」 亡くなった護衛の死体は、ホテルに俺たちを送り届けた後、他のガードたちが何処かに運んで行った。そして帰ってきた時には、代わりに武器を満載した木箱を抱えてきたわけだ。 彼等は幾度か『スリングウェシル』という組織名らしき固有名詞を口走っていた。恐らく、彼等が所属する組織のようなものだろう。もしかすると、その拠点がここロンドンの近くにあるのかもしれない。 ――スリングウェシル。留守にしている鷹山さんは、この組織の何らかの用事で別行動を起こしているのかもしれない。彼女は古い知人に会うと言っていたが、あの氷と鋼の精神を持つ彼女が友達付き合いを積極的にするだろうか? 俺にバースディの贈物と称してプレゼントしてくれた弾丸のアクセサリィも、昔の軍人仲間から貰ったと言っていたが執着も見せずに軽く渡してくれた。物にも人にも、あまり想いを掛けないタイプの人だ。 「――さて、じゃあ悪いがちょっと耳を貸してもらえるか」 仲間内でラルフと呼ばれていた、屈強なボディガードが口を開いた。如何にも軍人をやっていましたと言わんばかりの雰囲気と肉体を兼ね備えた男で、性格も身体と同様に骨太だ。青い目に、短く狩り込んだブロンド、そして薄い唇が特徴的だ。 出身はグロセスター州チェルテンハムと言っていたから、このUKということになる。世界最強の特殊部隊として有名な、SASのエリートだったという話で、鷹山さんが退役するときに一緒に引き抜いてきたと聞く。あの鷹山小次郎の目に止まったのだから、相当の凄腕であることは証明されているようなもんだ。事実、彼女がいない今はチームの指揮は彼が採っている節があった。 「ここにいる皆さんも、自分たちがなぜ襲われたのか、そして誰が襲ってきたのか、理由や事情には大変興味があることと思う。本来、それらを話すことは我々には禁じられていた。だが、出てきたのがサイバードールとあっては、話が変わってきたと言わざるを得ない」 彼が口にしている言語は、完璧な日本語だった。訛もほとんどない。電話で話しても、彼が外国人だとは誰も勘付かないだろう。 「そこで、我々は上に相談をした」 ――それがスリングウェシルか。俺は質問しかけたが、やめた。命令し慣れた声で話す彼には、途中で質問を挟むことを許さないような雰囲気がある。 「まず、我々の素性から明かしておこう。これは、倉田嬢にも明かしていない裏の顔だが、我々の真の姿でもある。ここにいる全員は、主任の鷹山小次郎を含めて『Thuringwethil』という組織に属している現役の兵士だ」 リビングとベッドルーム、集った全員が思い思いの恰好で何処かに腰を落とし、そして歪ながらも円陣を組むようにして互いに向かい合っている。そして、護衛たちから明かされる真実に神妙な面持ちで耳を傾けていた。 「このThuringwethilに関して、簡単に説明しておこう。――ヒルデガルド、頼む」 後を託されたドイツ人の女性エージェントは、了解の証明に軽く頷いて見せると徐に口を開いた。 「我々『Thuringwethil』は、ある意味で復讐者の集まりだ。ある者は家族を奪われた復讐のために、ある者は命を狙われた復讐のために、ある者は無慈悲に未来を剥奪された復讐のために。理由はそれぞれで違うが、共通しているのはある存在を憎むことで組織が成り立っているということにある」 復讐者の集い――。彼らは淡々と語ってはいるが、だからこその凄みがそこにはあった。 「復讐の対象となるのは、Engqist Foundation」 「えんくいすと・ふぁんでーしょん、ですか。お化粧じゃないですよね。財団法人の方ですか?」 ああ、そうか。Foundationと聞くと、女性はファンデーションと書いて化粧品を連想するんだな。俺の場合は、ファウンデーション(有名なSF小説のタイトル)と書いてアイザック・アシモフ(その作家)だ。多分、少数派なんだろう。因みに、佐祐理さんの言うような『財団法人』という意味があることは知らなかった。 「そうだな。日本語に直せば、エンクィスト財団となるだろう。我々Thuringwethilの使命は、このエンクィスト財団をこの世から永久に抹殺。根絶することにある」 エンクィスト財団! 勿論、その固有名詞には聞き覚えがある。弾丸のアクセサリィをプレゼントされた時、鷹山さんの口から直接出てきた名だ。 “私は、この能力のおかげで幼少の頃より実験動物として扱われてきた。エンクィスト財団直下の特殊研究施設Chocolate house《チョコレイトハウス》。そこで私は能力者として開発され、将来的にサイキックの戦闘集団Holy Order《ホーリィ・オーダー》の兵士となるよう養成された。そこには、川澄君のような子供が何十人と飼われていたよ” ――彼女のその言葉を思い出す。あからさまな敵意を露にした、鷹山小次郎の珍しく感情的な声。確かにあの時、彼女はエンクィスト財団の名を口にしていた。 「今の君たちなら、否応無く認めざるを得まい。この世には俗に言う超能力が存在し、それを操る人間がいる。たとえば、そこにいる川澄嬢がその実例だ」 全員の視線が、舞に集中する。だが、彼女は並んでベッドに腰掛ける佐祐理さんに頭を預け、すぴすぴと安らかに眠っていた。新たな能力を開発して戦ったせいで、彼女も疲れているんだろう。起きている時には絶対に見せないあの幸せそうな微笑は、きっと動物さんに囲まれている夢を見ているに違いない。 どこまでも、憎らしいくらいにマイペースな奴だ。 「俺たちの業界じゃ、軍事的・戦闘的に能力を特化させた超能力者のことを『PSYMASTERS(サイマスターズ)』と呼んで、普通のサイキックとは区別している。我々のオピニオン・リーダーでもある鷹山小次郎も、そのサイマスターの一人だ」 「そっか、あのサイ=リフレクターですね?」 ついに俺は口を挟んだ。勿論、実物を見た時のあの衝撃は忘れていない。超至近距離からの弾丸を簡単に跳ね返す、あの光るシャボン玉。今でも網膜の奥に焼き付いている。 「ちょっと待て、なぜ君がシェフの能力のことを知っている」 俺の咄嗟の一言は、ボディガードたちに波紋を投げ掛けたらしい。そう言えば、彼らは俺と鷹山さんとの間で交わされた一連の会話の内容を知らないんだっけな。 「見せてもらったんですよ。バースディ・プレゼントに」 「見せてもらった? いつ? 君にはあれが目視できたと言うのか」 舞に集まっていた視線は、その全てが今度は俺に突き立てられている。女の子の熱い視線ならまだしも、珍獣を見るような目付きでは歓迎できたものではない。 「見せてもらったのは一昨日かな。佐祐理さんの別荘に着いてすぐ。鷹山さんの部屋で二人きりの時に――」 「二人きり?」香里とミッシーがピクリと反応する。 「相沢君、またエロガッパなこと企んでたんじゃないでしょうね?」 「嫌がる私をベッドに押し倒した挙句、体液に塗れさせ、更に求婚までしておきながら影では早速浮気ですか。そんな酷な話はないでしょう、相沢さん」 「ちょっと待て」 俺は慌てて突っ込んだ。香里の方はまだ分かるとしても、何やらミッシーの発言は事態を極めて不穏な方向に持っていきかねない破壊力を秘めていたからだ。いや、思い当たる節がないわけではないのだが。 「押し倒した? 体液ってどういうことなの、相沢君。あんたって人はまさか……」 香里は羽が生えたばかりの天使のような微笑と共に詰め寄ってくるが、同時に強力な殺気を纏ってもいる。どっちが彼女の本体なのかは、考えるまでも無い。 「はぇ〜、もしかして天野さんと祐一さんは既に……」 「待ったーっ、ちょっと待った! 佐祐理さん、それ以上言っちゃ駄目!」 俺は慌てて佐祐理さんの口を手で塞いだ。 「天野さん、一体あのエロガッパに何をされたの?」 香里は矛先を爆弾投下の張本人、天野美汐に向けた。ベッドの中で枕に寄りかかるようにしている天野は、いつもの感情表現に乏しい表情で淡々と語り出す。しかも、バカ正直に。 「そう、あれはハイゲートでのGIGが終わって、別荘に戻った時のことでした。疲労していたように見えたので、私は厚意で相沢さんに肩を貸していたのですが、部屋に着いた瞬間、彼にベッドの上に押し倒され……」 天野は意味ありげに語尾を弱めて、顔を伏せる。 「私は懇願しました。でも相沢さんは聞く耳持たず、嫌がる私の上に圧し掛かり、そして、私の身体にあの形容し難い、粘着質の生温かい体液を……」 「ほぅ」そこまで聞けば充分と、香里は天野から俺に視線を戻した。 ああ、もう、どんな誤解のされかたをしているのかヒシヒシと。 「違うんだ。いや、違わないんだが、誤解なんだ。香里が何を考えてるのか怖いくらいに分かるが、それは違う。俺の話も聞いてくれ。話せば分かる」 「問答無用! その時、天野さんの懇願を聞き入れなかった人間が、良くもまあ『俺の話も聞いてくれ』だなんて厚かましいことが言えるわね!」 聞き入れなかったんじゃない。寝てたから聞こえなかったんだ。そう反論しようとしたが、続く香里の口撃にイニシアティヴを取られた。さすが、アメリカの敏腕刑事弁護士の娘だ。 「親切で優しくしてくれた女の子の厚意につけこんで、二人きりなのをいいことに、ベッドに押し倒し! その乙女の純潔を貪り尽くした挙句、ドス黒い欲望から生み出された、粘着質の生温かい汚らしく白濁した体液を……どうしたですって? これを、強姦と、言わずに、なんと、言うのかしらぁ!?」 1音節ずつ丁寧に言葉を区切りながら、香里はその度に一歩ずつ間合いを詰めてくる。逃げなければならないのは分かっているのだが、射竦められて身体が動かない。一歩でも動けば、その瞬間狩られるのは目に見えていた。 どうでも良いんだが、白濁した体液とか勝手に捏造されてるぞ。体液は体液でも、あれは寝ぼけて垂れちまったヨダレ以外の何物でもない。ミッスィーのやつ、わざと誤解を招くような表現を使ってくれたわけだ。 「まあ、落ち着け。彼の婦女暴行罪の摘発は後でも出来る。銃殺刑に処す時は手を貸すから」 なにやら不穏なことを口走りつつ、ボディガードが香里を諌める。銃殺刑ってなんだ。 「相沢エロガッパめ、覚えてなさい。必ず断罪してやるわ」 今や怒りの暴君、狂乱の女帝と化した香里様は、ギラついた目で俺を睨みつけている。この場は一応収めるが、後で俺を徹底的に追求するつもりのようだ。これは、天野を伴って命懸けで誤解を解かないと、サイバードールが再来するより前に俺はパトラッシュの元に送りこまれることになってしまう。 「とにかく、相沢君が見たと言うように鷹山主任もまた異能者だということは理解して欲しい」 著しく方向性の歪んだ話題を、女性の護衛は強引に戻した。再び重い苦しい空気が場を支配し、そしてその傾向を更に強める話が始まる。 俺は固唾を飲みながら、自らを省みた。相沢祐一は、いつものように飄々としていることが出来ているだろうか? 仲間たちの緊張を何とか緩和させるだけの存在たり得ているだろうか? 親父ならこんな時、どんな態度でどんなことをするだろう。 「さて、この異能者――つまり、普通の人間には使えない超自然的な能力に着目し、これを軍事利用できないかと考えている連中がいる。アメリカン・コミックの悪役の設定として使い古された感のある話だが、これは現実問題だ。現実に存在する悪役。現実に君たちを殺そうとした連中。そして、現実にこれからも君たちの脅威となるであろう組織。それが、先ほど挙げた我々Thuringwethilの宿敵、Engqist Foundationだ」 「具体的にそのEngqist Foundationというのはどういう組織で、なにをやっているのですか?」 話が本格化して以来、秋子さんが初めて口を開いた。核心にズバリと触れてくる質問だ。 「Engqist Foundationは、中世の王侯貴族を発祥とする集団です。その歴史は600年を超えるとか。当時のスウェーデン王国の大貴族『エンクィスト家』の呼びかけで誕生したことから、Engqist Foundationと呼ばれるようになったのです」 「世界の権力者たちの集合体であるEngqist Foundationは、成立当初から常に世界の覇権を手中に収めることだけを目的としていました」 別の護衛が代わって口を開く。別荘で俺と同じ班にいたアメリカ人だ。 「ヤツ等の目的はただひとつ。自らの既得権益の維持と拡大です。より大きな権力を握り、より支配体勢を強めること。地球圏の覇権を掴むこと。そのために、財団は色々な研究を行ってきました。経済、軍事、外交」 「平たく言えば、世界征服を目論む悪の秘密結社ってことですか?」 俺は皮肉をたっぷり込めて訊いた。 「そうだな。そう考えるのが一番手っ取り早いだろう」 ボディガードは一瞬だけ微笑むと、すぐに真顔に戻って続けた。 「ヤツ等はあらゆる方面からあらゆる物の独占を目指し、日々研究を進めている。超能力の研究はその内の1部門に過ぎないんだが――財団は、19世紀の初頭から『Chocolate house』というオカルトや超自然的現象に関する専門の研究機関を設け、全世界から異能者としての素質を持った子供たちを集めはじめた。魔女狩りみたいなものだ」 「チョコレイトハウスですか。やっていることの割には、お菓子家を連想させる可愛らしい名前ですね」 空からお菓子が降ってくることを夢見るオバさん型女子高生、天野美汐は言った。 「そう云う意味で付けたようだよ。『子供たちが集う家』といった感じかな。Chocolate houseは、10歳以下の子供だけを対象として研究・育成をしているからな」 「なぜ子供限定なんですか?」俺は訊いた。 「PSI――超能力って奴は、それくらいの頃から訓練しなければ軍事利用出来る程の強さにならないからだ。オリンピック選手の育成と同じだ。世界に通用する人材を育成するには、幼少の頃から鍛え上げなければならない」 「なるほどね」 「だから財団は、『異能者狩り』で浚って来たり、異能者同士を掛け合わせて素質を持った子供たちを集めるのさ。そして彼らをモルモットとして様々な実験を繰り返す。我々のチームリーダーである鷹山小次郎も、Chocolate houseで飼われていた実験体だった」 「鷹山さんが……」 俺とボディガードを除く全員が、ハッと息を呑んだ。現実感を伴わない話だが、身近にいる人間が実際にそれに関わっていたと聞けば、嫌でもそれがリアリティを帯びてくる。結局、人間は物事を自分にとって都合の言い様にしか解釈しない人間だが、身内が絡んでくるとそうもいかなくなるのだ。 「幸いなことに、シェフは4歳の頃にコードネーム『DEATH=REBIRTH』によって救出された」 「デス=リバース?『死の生まれ変わり』と云う意味かしら」 呟く香里に、護衛の一人は頷いて見せた。 「そう。死神の化身、デス=リバース。財団が認定する能力レヴェルSSSにランクされる唯一の存在。世界の頂点に君臨し続ける、最強の異能者《サイマスター》の名さ。そして、Thuringwethilを結成した創始者でもある。彼女は反財団を掲げて各地にあるChocolate houseを襲撃、実験体として捕らわれていた子供たちを救い出してきた。そして救い出された子供の多くは、彼女に従い行動を共にするようになった。シェフのように」 「今も、シェフは総帥と共にある作戦に参加している。スコットランドにあるChocolate houseの襲撃計画だ。詳しい話は聞いてないが、近日中に結構されると聞いた。成功すれば、モルモットとして使われていた多くの子供たちが自由の名の元に開放される。そして、その子たちの何割かはThuringwethilのメンバーとして我々と行動を共にするようになるだろう」 ボディガードたちは、予め自分の担当分を打ち合わせていたかのように交互に口を開いては、俺たちに驚愕の真実を提供していく。ま、それらしい話は前に鷹山さんがほのめかしてたから、俺はあんまり驚かないけど。 「はぇ〜、俄かには信じられない話ですね」 佐祐理さんは、彼女の膝枕で眠る舞の黒髪を優しく撫でつけながら言った。おのれ、舞め。なんて羨ましい。俺も膝枕されたい。 「――異能者たちの社会において、現在、世界に君臨する3つの大勢力がある」 リーダーは、右手の太い指を3本立てて言った。その深みのある低音と厳かな口調は、人の注意を引きつける不思議な力を持っている。俺みたいな青二才にはまだ辿り着けない極地だ。 「まず世界最大の勢力を誇り、数万とも数十万とも言われるPSYMASTERSで構成された特殊軍隊、通称Holy Order《ホーリィ・オーダー》を擁するEngqist Foundation」 立てた3本指の内、1本が折られて残り2本になる。彼は続けた。 「これに対抗する勢力として、我らThuringwethil《スリングウェシル》。――そして、財団にも我々にも属さない第3勢力、Zodiac Brave《ゾディアック・ブレイヴ》。この3つが互いに睨みを利かせて、危うい均衡を保っているのが現状だ」 「そんなマクロな話をされても、正直、あたしたちには関係があるとは思えないわ。あたしが今知りたいのは、もっとミクロの――あたしたちに直接関連する情報です。今、あたしたちの周囲で一体何が起こっているのか。そして、これからあたしたちはどうなるのか。どうすれば良いのか」 香里は沈痛な面持ちで言った。頭上を飛び交う銃弾に怯え、泣きながら頭を抱えていた栞の姿を思い出しているのだろう。 「そうだな……。さて、何から話したものか」 チームリーダーは丸太のように太い腕を組みながら、複雑な唸り声を上げた。 「我々が君たちの祖国を訪れたのは、極東方面のChocolate houseを捜索し、これに関する様々な情報を集めるためだった。だから、倉田家に雇われボディガードとして働いていたのは、完全なカムフラージュと言って良い。日本語ではなんと言うんだったかな。擬態、か?」 「はぇ〜、そうだったんですね」 ある意味だまされていたわけなのだが、佐祐理さんは怒ったり傷付いた様子は微塵も見せず、逆に感心したような顔をしている。女神のように寛大な精神の持ち主なのか、能天気なだけなのかは非常に判断し難い。きっと、彼女は両方に当て嵌まる人間なんだろう。 「我々は日本にある、君たちの学校の理事会が財団と何らかの取引をしているという情報を掴んだ。同校の生徒であった倉田嬢の身辺警護という仕事は、その意味で非常に使えるポジションを我々に提供してくれた。業界としては格安のギャラで倉田嬢の護衛を引きうけたのはそのせいだ」 「ちょっと待って。では、あたしたちがあんな化物たちに狙われて殺されそうになったのは、貴方たちに巻きこまれたからだと言うのですか?」 香里は柳眉を吊り上げて、詰問口調で詰め寄る。 「いや、直接的な切っ掛けは君たち自身にある。今年の3月、君たちは倉田嬢の経営する宝石商から盗まれた『シリウスの瞳』に関連する事件に巻き込まれた。あれに、財団のエージェントが関わっていたのではないかという情報があるんだ」 「あの北川の偽物――!」俺は思わず叫んだ。 そうだよ、あの野郎。生徒会の連続殺人があったせいで忘れてたけど、あいつにはダイヤのイミテーションを持ってまんまと逃げられちまったんだ。 「そう。君たちの友人として振舞っていたあの男、実はEngqist Foundationから送りこまれてきたHoly Orderではないかと思われている。それも、アジア最強と歌われる『五歌仙』のメンバーかもしれないと」 「ごかせん?」 「5人の仙人という意味だ。その名の通り、5名のHoly Orderによって組織される小隊だな。楼蘭にもChocolate houseがあるという噂があるんだが、そこの出身だと言われている。極東で最も恐るべき連中だよ。――特に、その中でも最高の戦闘能力を誇るという、通称『サイファ・ザ・ロッド』と呼ばれる能力者は、シェフとも互角に渡り合える力を持つって話だからな」 「あ、じゃあ、その五歌仙と云う人を通じて……」 「そうです、倉田嬢」 丸く口を開けて驚く佐祐理さんに、護衛の一人が重々しく頷いて見せる。 「そしてその男は見た。あの時、川澄嬢は奴の前で“魔”を呼び出してしまったんだ」 「そうか、その男を通して川澄先輩という異能者の存在が、その財団とやらに伝わってしまったわけですね」 香里が首肯しながら呟く。なるほど、その虫歯になりそうな名前の組織が超能力やらオカルトやらに興味を持っているなら、魔を操る川澄舞に関心を持たないはずがない。どうせ俺たちは奴等の悪事に勘付いた邪魔者なんだ。一石二鳥を狙って殺してしまうなり、或いは―― 「最近になって入った情報だが、財団が川澄舞の捕獲命令を出していることが分かった。彼女の首には50万ドルの賞金が掛かっている」 「では、サイバードールというあの人たちはエンクィスト・ファンデイションと何らか関連があって、川澄さんを捕まえるために襲ってきたと?」 秋子さんが静かに問う。ボディガードたちは揃ってそれに頷いて見せた。 「なるほど。五歌仙とやらを見ちまった俺たちを殺して、そのついでに舞を浚っていく。そう云うシナリオだったわけか。……となると、あのサイババ人形どもは、財団に雇われたヒットマンってことっスか?」 俺は近くにいた女性ガードに問うた。 「その通り。サイバードールは財団と提携している、言わば専属の傭兵団のひとつよ。彼らは財団が開発した新兵器のモニターを務めたり、人体実験に自らの体を提供するの。財団はそうして様々なデータを手に入れるわけね。その見返りに財団は人体改造の技術と施設、そしてお金、武器を彼らに提供する」 「エンクィスト財団の噂は聞いたことがありましたが……」 天野が口を開いた。撃たれた直後は言葉を搾り出す度に苦悶の表情を浮かべていたけど、今はそんな様子はない。 「まさか実在していたとは」 「ミッシーは聞いたことあったのか?」 「ええ。ウチの家業はそういう情報が割と集まりやすいので。そんな名の大きな組織が存在するとか、全身を改造して虐殺を繰り返している連中がいるとかいう話は、何となくですが耳に入っていました。勿論、冗談まじりのガセネタだと思っていたんですけど」 「とにかく、君たちは今非常に危険な位置にある」 それはボディガードに言われるまでもなく理解していた。勿論、俺だけではなくこの場にいる全員がだ。あんな化物たちに狙われて、本当に殺されかけた。そして実際、自分たちの代わりに囮になって死んでいった護衛の姿と死体を見た。もう、事は俺たちの手に負えるような話じゃなくなっているんだ。 「私たちは、これからも狙われる可能性があるんですね?」 秋子さんは、普段は見せないような神妙な顔つきで訊いた。その口調は、質問というよりは寧ろ確認の意味合いを強めている。秋子さんは聡明な女性だ。危機感を冷静に受け止めて、理性で考え感情で判断しようとしている。この場合、その選択はベストだ。 「正直に申し上げて、その可能性は否定できません。奴等にもメンツがある。サイバードールにせよ財団にせよ、このまま貴方たちを放置してくれるほど甘くはない」 「冗談じゃないわね……。またいつ襲われるか分からないなんて。もう絶対に、栞をあんな目には合わせられないわ」 香里は眦を吊り上げる。その目には理不尽に対する怒りと共に、恐怖の色が浮かんでいた。 「なんとか取引できないかしら、彼らと」 「君の親御さんは、弁護士だったな」 ボディガードは香里の発言に薄い苦笑を浮かべた。そして表情を引き締めて香里を見詰める。 「いい機会だ、覚えておくと良い。奴等に司法取引のような真似事は通用しない。我々が済む世界に法はないんだ。あるのは、強い奴が弱い奴を潰す権利のみ。それ以外のあらゆる義務、権利、秩序は成立し得ない。力こそが唯一にして絶対の法なんだ」 「ではどうしろと? 黙って次の襲撃を待って、黙って殺されろと言うんですか!?」 「あなたたちは、私たちが守るわ。そのためのThuringwethilだもの」 目尻に薄っすらと涙さえ浮かべて叫ぶ香里に、女性護衛は静かに答える。 「俺たちはただの人間だ。PSYMASTER――異能者のような超能力は使えない。だから、君たちの護衛の人員を増やす方向で話を進めている。上にはもう掛け合ってある。恐らく許可が下りるはずだ。そしてシェフのような異能者のエージェントで、君たちの周囲を固める。できれば、全員に最低一人の能力者を付けたい。専属ガードってやつだ」 「ちょっと待ってくれ。俺には護衛を雇える程の金なんかないぞ」 倉田家とはワケが違うんだ。親父たちも売れ出したとは言え、メジャーバンドとはやはり稼ぎの面で雲泥の差がある。親父も母さんもあくまでライヴに拘っていて、CDを出す気なんかないらしいしな。 「心配しなくて良い」アメリカ人の護衛が白い歯を見せる。 「俺たちの給料は、Thuringwethilから出てる。君たちからは1セントだって取る気はない。これからは、倉田嬢にもギャラは請求しない。改めて、Thuringwethilとして君たちと付き合うことになるだろう」 「それで、これからのヴィジョンと言うのでしょうか……具体的にどういった対策をとっていかれるおつもりなのか聞かせて下さい。それから、佐祐理たちはどうすれば良いのか」 佐祐理さんは膝の上で眠る舞に視線を落としながら言った。口調はいつもの彼女だが、その声音には疲労の色が見える。恐怖し続けるというのは、多大な気力を消費するものだ。 「佐祐理はあまり頭が良くないので、話が大きすぎて混乱しちゃいました。もう、何をどう考えていいのやら」 「君たちに今必要なのは、状況を正しく認識すること。そして、自分たちが狙われている立場にあることを自覚すること。我々との協力体勢を受け入れること。スタンド・プレイや素人の勝手な判断や行動は慎むこと。これくらいだ」 護衛たちは、より質の高いガードのためには俺たちのような『守られる側』の協力と理解が必要不可欠だと説明した。現実を受け入れず、自分に危険があることや守られているという自覚を欠くことは、誰のためにもならない。それは結局、自分の身を滅ぼすことに繋がるだろう。 彼らのような熟練したプロフェッショナルの言葉だ。多いに説得力がある。 「君たちは、日常生活を維持してもらって良い。学校にもいけるし、友達と遊びにもいけるだろう。我々は君たちを24時間体制でガードし、財団の脅威から守る。だから、せめてそれに協力して欲しい。他の誰のためでもない、君たち自身のためにだ」 「それで、これからの予定だけど――」ヒルデガルドと呼ばれるドイツ人が言った。 「支部の話だと、とりあえず当面は君たちに危険が及ぶことはなさそうだ。さっきも少し話したが、今はThuringwethil本体がスコットランドのChocolate houseを襲撃しようとしている。現状で、UKの主だった能力者はそっちの防衛に回らざるを得ないからだ。君たちは施設の死守から考えれば、優先順位は低いわけね」 「そりゃ、ありがたいね」 当面と言わず、永遠に俺たちのことは忘れ去って欲しいもんだ。 「2日後に、この島を北上して、ウェールズに行く。古いが広い屋敷があるのよ。Thuringwethilが昔使っていたところで、今は廃屋になってるんだが、そこで君たちの護衛になる予定の能力者たちと落ち合う予定だ」 「それまでの2日間は?」香里が訊く。 「自由にして良い。ここは高いからエコノミー・ホテルにでも移って、そこを拠点にして観光でもするしたらどうかな。人気の少ない高級住宅街ならまだしも、ヤツ等はロンドンの人込みの中で襲撃してくるような性質はしていない」 「しかし、危険はありませんか? 直接姿を現さなくても、狙撃という手もありますし」 天野が指摘した。大した手当ても受けていないのに、何故か血色がどんどん良くなってきている。まさか、本当に自然治癒してきてるんじゃないだろうな。 「いや。正直なところ、そういう心配をしだしたらキリがない」 リーダーは苦笑しながら言った。 「情けない話だが、能力者の襲撃は能力者でなければ防げないんだ。シェフが居てくれれば話は別だが、俺たちだけじゃどうにもならないこともある。――たとえば異能者の中には、物を瞬間移動させたりする力を持つやつもいる。『アスポート』と呼ばれる能力だ。これで爆発物を送られてきたら一発でアウトだし、邪眼と言って視界に入れたものに幻を見せたり、即死させたりできるヤツ等もいると聞く」 「殺ろうと思えば、いつでも俺たちを殺れるってわけですか?」 「そう言えないこともないな」 否定して欲しかったが、俺の言葉はあっさりと肯定された。 「だからこそ、Engqist Foundationは世界に君臨していられるんだ。莫大な予算を注ぎ込み、世界各国にChocolate houseを設けたのは、何も酔狂からじゃない。能力者を倒せるのは能力者だけ。この法則が覆らない限り自分たちの優位が揺るがないという事実に気が付いたからだ」 「――少し、考える時間が欲しいですね」 秋子さんが、いつもと比べると若干弱々しい笑みを浮かべて言った。彼女のこういう表情を見るのは初めてだ。それだけでも、事の重大さが身に染みてくるというものだ。 「眠ってしまった名雪、それから気を失ったままのあゆちゃんや栞ちゃんにも話さなければならないし、大切なことですから皆で充分に話し合った上で今後のことを決めていかないと」 「そうですね」護衛たちは頷いた。 「じゃあ、今日のところはこのくらいにしておこう。急な話を聞かされて、皆も混乱していることだろう。ゆっくり時間を掛けて考えてみるのも良いかもしれない」 ガードリーダーのその言葉で、この場は解散となった。皆一様に重苦しい沈黙を守ったまま、各々の部屋に戻っていく。正直、一度に色々な話を聞かされたせいで俺も少し困っている。一体、何からどのように整理していけば良いのか。 人間が非日常の世界に迷い込むのに、理由はいらない。悲劇はいつだって唐突に訪れる。何の前触れも無しに、人の良さそうな顔をしてやってくる。栞が謂われなく病に倒れたように。罪の無いあゆが事故で命を失いかけたように。この世には明確な悪意というものが存在していて、それは絶えず俺たちを狙っているんだ。 そして多分、その悪意ってヤツは次の標的を俺たちに向けたのだろう。その結果がこれだ。 俺たちはもう引き返せない。無傷での勝利はあり得ない。何も失わずに生き残ることはできない。あゆは覚醒と引き換えに、七年という掛替えの無い月日を失った。栞は科学療法と抗癌剤の副作用で、一生子供を産めない身体になった。同じことだ。こっから先、修羅場を潜り抜けていくためには……何か代償のようなものが必要となってくるわけだ。 だったら俺たちは、これから先、勝つために何を失うことになるんだろう。
Piccadilly W1 "Park Lane Hotel" London U.K.
GMT Mon,24 July 2000 9:38 A.M. 7月24日月曜日 午前9時38分 ロンドン パークレーン・ホテル ロンドンにはもう何度も来ているが、パークレーンのような1泊260£も取られる高級ホテルで夜を明かすのは初めての経験だった。それから、幼馴染を除く女性と別々のベッドとは言え同じ部屋で朝を迎えるのも人生初体験だ。なんとなく新鮮な気分ではある。 俺が知っているこの国の宿泊施設と言えば、やっぱりB&Bだろう。ベッド・アンド・ブレックファスト。つまり、1泊+朝食がセットになったこの国独特のシステムだ。あとは、ゲストハウスかな。とにかく、料金が安いのが魅力な宿泊施設だ。そういうところでは、宿泊料に翌朝の食事代も含まれていることが常識なんだが、高級ホテルだと違うんだな。今日、佐祐理さんに言われて初めて知った。料金の違いは、住む世界の違いと言換えて良い。なるほど、世界が違えば常識も違ってくる。「全人類に共通する常識なんて無い」ってのが俺の持論だったわけだが、すっかり失念していた。 ――そうだよな。あらゆる常識に逆らって見せるのが俺のウリだ。俺は常識なんて言葉を易々と使って良いキャラクターじゃないんだった、親父と同じように。 ベーコンの最後の一切れをフォークで串刺しにしながら、俺はそんなことを考えていた。 俺が注文したのは、イングリッシュ式のモーニング・セットだ。メニューは目玉焼きにカリカリに焼かれたベーコン、ソーセージにマッシュルーム、それからハッシュドポテトにシリアル、焼きトマト、フライドオニオン・リング、そして俺ンジ・ジュースと食後のコーヒーってところだ。豪勢だろ? しかも、トーストラックに並べられてる食パンとフルーツ、それにシリアルなんかは取りたい放題になってたりする。これらが5人掛けのラウンド・テーブルに所狭しと置かれているわけだが、これだけ並ぶと流石にテーブルが狭いよな。 味の方はシリアル(コーンフレーク)がハズレだったが、総じて美味かった。特に良い感じに焼かれたベーコンとハッシュドポテトは俺好みだった。いやぁ、満足。 対して隣テーブルの名雪はコンチネンタル式のブレック・ファストを楽しんでいる。このコンチネンタル式ってのは、要するにトーストとティだけの簡単なセットのことだ。イングランドの朝食は、大抵がこのイングリッシュ・ブレックファストかコンチネンタル・ブレックファストに大分される。最近は、コンチネンタルが主流らしいが、俺は母さんや秋子さんに朝食はしっかり採るように躾られているのだ。 ――それにしても名雪のヤツ、狐色にこんがりと焼かれたトーストに、何がそんなに楽しいのか知らないが、実に嬉しそうな顔で苺ジャムを塗りたくっている。それを口に運ぶ瞬間と、ジャムの甘味が口内に広がった時の世にも幸せそうなあの顔。喉をくすぐられた猫みたいだ。とてもあと半年で高校を卒業する17歳には見えない。 「名雪、美味いか?」訊くまでもないが、訊いてみる。 「きゅ〜ってなっちゃうほど美味しいよ」 「きゅう?」 「きゅ〜、だよ」 名雪は目をぎゅっと閉じ、拳を握り締めてふるふると震えている。口元にはとても幸せそうな笑みが浮かんでいるから、きっと悦びを表現しているのだろう。感極まってると解釈して良いんだろうか。相変わらず意味の分からん奴だ。 ――まぁでも、その辺が名雪の魅力なんだろうな。最近、それが分かるような気がしてきた。 「それで祐一さん、今日はどこに連れていってくれるんですか?」 斜め向かいに座る栞が、いつもの笑顔で言った。 「ん、そうだな……」 一昨日の夜、ハムステッドで襲撃を受けた時は怯えきっていた栞だが、昨日1日ゆっくりと休んだおかげで元気を取り戻したようだった。姉の香里が、この世に再臨したナイチンゲールのような献身を見せていたし、催眠暗示っていったか、天野が施してくれた治療の効力も大きいだろう。 これは本人に聞いて確かめたのだが、催眠暗示ってのは精神療法の一種らしい。言語や刺激を理性に訴えることなく受け入れさせることによって、心の治療を行う方法なんだそうだ。相手を催眠状態において、「大丈夫だよ」「怖いことはないよ」という暗示をストレートに植付けてしまうわけだな。日本じゃあまり聞かないが、欧米では結構知られてるらしい。メンタル面での医療や福祉って、日本は遅れてるからなぁ。 「今日はロンドンを出て、ウェールズに行くことになってるだろ? ってことは、あまり欲張れないよな。グループ行動ってのはどうだ? ショッピングに行きたい奴と観光したい奴に分けるとか」 「それ、良いわね」 名雪と向かい合って座る香里がにっこりと微笑んだ。栞が無事と分かって、彼女も安心したようだ。 高校のクラスメイトの間では、どこか憂いのある大人びた雰囲気が彼女の魅力だという説もあるが、やっぱり心から笑ってくれる方が俺は良いと思う。俺はそっちの香里の方が好きだし、綺麗だ。 「じゃあ、大きくふたつに分けるんですか?」 「そうだな。細分化してもいいと思いますよ」 問いかけてくる佐祐理さんの言葉に、少し考えてから俺は答えた。そして、頭の中で素早く計算する。 「ショッピングでも、志向によってふたつに別けられる。日本人のミーハー観光客が回るような、ガイドブック的コースに行きたいヤツはそっちに行けば良いし」 たとえば、リージェント・ストリートやナイツブリッジ巡りなんかがそうだな。同時に、俺が死んでも加わりたくないグループだ。退屈だし、馬鹿っぽいし。日本人特有の有名ブランド至上主義も気に食わねぇ。 「逆に玄人志向のヤツは、ノミの市で掘り出し物を探してみるのも良い。同じショッピングでも、素人と玄人じゃ楽しみ方が違うからな」 「うぐぅ。ノミの市ってなに?」 トーストをうぐうぐ言いながら頬張っていたあゆが、小首を傾げる。 「古物市だ。ロンドンで言えば、ストリート・マーケットだな」 ロンドンのストリート・マーケットは、ヨーロッパ全体で見ても評判が高い。アンティークは勿論、古着や日用雑貨、様々な小物、もうなんでもある。ブランド大好きの日本人には決して理解できない、本物のショッピングが楽しめる場所だ。店主との駆け引きも面白い。 ただ、スリも冗談では無く多いし、場所によってはガラクタとしか思えないものを売っているところもある(ブリックレーンとかは超庶民派だから、そう思われやすい)。観光客がいきなり行って楽しめるかどうかは保証の限りじゃない。あそこにあるのは一種の濃厚な文化だ。理解の浅い人間や、懐の狭い人間はその独特の空気に弾かれる。だが、その敷居さえクリアしてしまえば、あれほど中毒性の高い場所も無い。やみつきってやつだ。 ヨーロッパの人間は、古く使いこまれた物を価値あるものとして永く愛用する。自分に合うと思ったものを、自分の目で見て、自分で選んで、自分で使って、そして自分だけのブランドにしちまうわけだ。だからロンドンでは、自分流のアレンジができるヤツをcoolと見なす。女の子だって、ストリート・マーケットで古い小物やアクセサリィを自分なりにコーディネートして、オリジナルのシックなファッションを楽しむのも割と一般的。無意味に有名ブランド物で固めるような女は、表通りでヴィーナスになれても、ひとつ入った路地では笑いものだ。 「今日、月曜だろ? マーケットは土日がメインってとこも多いが、コヴェント・ガーデンのアップル・マーケットに行ってみな。ストリートじゃないけど、月曜限定のアンティーク展をやってるはずだぜ。他にも色々と面白いストール(露天)が並んでるし、手作りのものがメインだから世界にひとつしかない自分だけの物が買える。見てるだけで楽しいと思うぜ。日本のフリーマーケットとは雰囲気が全然違うから、それを楽しんでくるといい」 「素敵ね。私はそのコースを選ぼうかしら?」 食後の紅茶を嗜んでいた秋子さんが、嫣然と微笑みながら言った。このパーティの偉大なところは、秋子さんのような聡明な女性が多いということだ。だから、俺は彼女たちとつるむわけだよな。 まあ、単に『色気より食い気』が先行しているヤツが多いだけって噂もあるけど。あゆなんかは、きっとタイヤキの餡子の種類を理解はしても、グッチとシャネルの違いは理解できないだろう。 「観光のコースはどんなのがお勧め?」名雪が訊いてきた。「初めての外国観光、楽しみだよ」 「そりゃ、色々だ。観光客が良く行くコースもあるし、公園でのんびりする手もある。ブリティッシュ――大英博物館だっけか、あれもあるだろ? 博物館めぐりも面白いぜ。他にも英国風の綺麗な庭園巡りとか、ビートルズ巡り、シャーロック・ホームズ巡り、スポーツ観戦、なんでもござれだよ」 そして俺は、少し離れた席で黙々と朝食を平らげている舞に目をやって言った。 「あと、London Zooっていうデカイ動物園なんかもノンビリできて良いよな」 ――ギュピーン! 気のせいかもしれないが、舞の目が光ったような気がした。彼女は手にしたナイフとフォークの動きをピタリと止めると、獲物を発見した猛禽のような目付きで俺を見詰めてきた。 「動物園、あるの?」 「あるぜ。その名も、ロンドン動物園。正式名称は、なんつったかな。The Grands of Zoo-logical Society of Londonだったと思うけど。もう200年近い歴史がある、それは凄い動物園だ。もちろん、パンダもいる」 「ぱ、ぱんださん」 ――あ、また光った。 聞くところによると、舞は今の街に越してきて以来、街の外に出たことが一度も無いらしいからなあ。“魔”がいるから修学旅行もキャンセルしたっていうし。勿論、街の動物園にはパンダなんていないから、舞はまだ生まれて一度も実物を見たことがないはずだ。そりゃ、目も光ろうものである。 「パンダだけじゃないぜ。陸、海、空、世界中のあらゆる動物が集められてる。つまり、魚もいるんだな。あまりに頑張って動物を集め過ぎたせいで財政難に陥って、少し前に閉鎖されそうになったってのは有名な話さ。で、哀れな動物さんたちはゾウの花子のように処分されそうになった」 『処分』という言葉を発した瞬間、舞が神速で間合いを詰めてきて、俺の喉に魔剣を突き付けた。恐ろしい身のこなしだ。俺にはヤツの動きが見えなかった。かなり距離があったはずなのに。 「動物さん、殺したの」 舞は、まるでこの世の根源悪を見るような目付きで俺を睨みつける。地獄の底から響いてくるような、感情を押し殺した冷たい声。 「い、いえ。動物様好きの市民たちが『処分とは何事じゃ、コラァ!』といった具合に政府を脅しまして、存続されることになりました。アニマルの皆様もご無事です」 命の危機に晒されると、祐ちゃんは敬語口調になります。 「なら、いい」 動物さんが無事と分かって、舞様は満足そうに自分の席に帰っていかれた。 「――でも、今でも金に余裕があるって程じゃないから、あそこも色々と考えてるみたいだぜ。カンパも募集してるし、面白いところでは『養子縁組』制度を導入してるらしい。名乗り出れば、養育費と引き換えに動物のパパやママになれるんだ。安価な昆虫から、養育費の高額なゾウまで色々だけどな」 「あははー、それなら佐祐理も聞いたことありますよ」 佐祐理さんは、羽が生えたばかりの天使のような笑みで言った。 「パパやママになると、その動物さんの飼育場所に名前が刻まれるんですよね」 「へぇ、面白いこと考えるのね。ヨーロッパって思考が結構ラヴリィだわ」 博識な香里も、ロンドン動物園のシステムまでは知らなかったらしい。感心したような声を上げる。 「そうなんだよな。舞も動物を養子にすれば、1年の間だけどヤツらのママになれるわけだ。パンダの親になろうものなら、パンダの柵に燦然と『舞ママ』の文字が刻み込まれることになる。更に、入場料も無料になるから年中行きたい放題だし、マニア垂涎ものの園発行アニマル・マガジンも定期的に送られてくるんだ(実話)」 「……っ!」 世界最強のアニマルラヴァー(動物愛護者)である彼女には、たまらないものがあったらしい。なにやらイチゴサンデーを頬張った時の名雪のように、悶えはじめる舞。ヤバイ。ヤツの目が光りまくってるぞ。もはや暴走寸前って感じだ。 姉さん、やる気です。ヤツは既にやる気満々です。 「祐一、いく。即いく。お母さんになる」 舞はまた神速で間合いを詰めてくると、胸倉を掴んで無理矢理俺を立たせた。そして例の如く魔剣で脅迫してくる。期待に頬を紅潮させている様は可愛らしくさえあるのだが、喉元に致死性の武器を突きつけられていては、素直に喜べそうも無い。 「待て、落ち着け。今、9時半だろ? まだ開園してない。10時からなんだ」 「その動物園、どこにあるの」 魔剣の先端がチクリと喉に突き刺さる。 「り、リージェンツ・パークです。ここから北に真っ直ぐです。ホームズのベイカー街の上です」 「……分かった」 彼女は剣を収めると、再び自分の席に帰っていった。ヤツをここまで駆り立てるとは。さすがパンダパワーは凄い。動物園コースの引率と舞のお守は佐祐理さんに押しつけることにして、俺は別の班に入ろう。 そう固く誓った、ロンドンのある清々しい朝だった。
GMT Mon,24 July 2000 14:22 P.M.
The London Dungeon Tooley St. SE1 London U.K. 7月24日午後2時22分 ロンドンブリッジ駅周辺 俺たちがここ数日間経験したことと、常に誰かから命を狙われる立場にあることを考えれば、「呑気に観光なんてやってる場合か」と誰もが考えるだろう。確かにそれは尤もな見解だ。 だけど、俺は思うわけだ。テロにしても、脅しにしても、それに屈して何かを譲ってしまったらお終いだと。不幸ってヤツは、こっちが弱気になったからといって容赦してくれるほど甘くはない。譲って退いちまったら、途端に付け込まれる。困難や不幸ってのは、一種の病だ。正面から戦ってやろうっていう強い意思が無いと勝負にすらならない。病は気からと言うように、ポジティブな心こそが大事なんだと思う。 四年前までの俺なら、こんな考えには及ばなかっただろう。 「なんかあったら、すぐ逃げ出す。3年前も、今も。お前は重いものを背負いそうになったら、直ぐに荷を捨てて逃げ出すやつさ」 当時の俺に、ある男が投げかけた言葉だ。俺はそれに返す言葉すら持たなかった。何も言い返せないような人間だった。――でも、今は違う。そう思いたい。 この数年で色々なものを見てきたが、その中で気付いたことがある。本当に凄い奴、本当に強い奴は、どんな状況下にあっても絶対に退かないってことだ。守りに入ることなんか考えない。そもそも「凌ぐ」って概念がないんだな。徹底的に攻めて攻めて、攻めまくる。誰が何と言おうと、どう思おうと関係ない。 ……Y'sromancerと呼ばれる男が、まさにそうだった。 そいつには、物心つく前から追いかけていた夢があった。だが、その夢はある事件を切っ掛けに完全に断たれた。人間の手ではどうしても覆させない現実。それは、絶望を意味するはずだった。誰もがそう思った。 だが、たった2ヵ月後の話だ。やつは新しい夢を見つけて、もう走り出していた。信じられない話だけど、でもこの目で見た本当の話だ。 正直な話、俺は度肝を抜かれた。そんな人間が存在するだなんて、思いもしなかったからだ。 でも、知ってしまったからには、そのままではいられない。俺の世界は変わった。何か困難に遭遇するとき、「あいつならどうするだろう?」と考えるようになった。そしてその度に、答えは呆気ないほど簡単に浮かんでくる。「やつなら、退かない」 だから、俺も退くことをやめた。少なくともそう務めるようになった。 重いものを背負いそうになったら、直ぐに荷を捨てて逃げ出すやつ。――確かに昔はそうだったかもしれないが、今の俺にはそう簡単に捨てられない荷が出来た。その荷は、既に俺という人間の一部として機能していて、捨てたり、失ったりした時、俺の一部もまた死ぬだろう。その後に残った俺は、もう相沢祐一じゃない。俺は生涯そのことを悔やむだろうし、自分を許せなくなる。 「そんな奴に、俺が理解できるわけがない。お前には分からねえよ、祐一」 その言葉に、もう少しで返せそうな気がする。 「分かる。今なら、分かる」 必ずそう言い返せるようになってやる。そのための課題は多い。力を貸してくれる奴は大勢できた。彼女たちに支えてもらいながら、何とかその姿勢を貫ければいいと思う。取り敢えず今は、あらゆる脅威に対して後ろ向きにならないこと。これが肝心だ。常に人生を楽しむよう心掛けないとな。 まあそういうわけで、狙われているからといって過剰に怯えて生活スタイルを壊すのはマイナスだと思うわけだ。今までとは違う意識を持ちながら、今までと同じ生活を維持する。海外に行けば観光だってするし、ショッピングも楽しむ。それでいいじゃないか――今の俺は、そう思ってる。 「んー、今日は本当に良いお天気だね」 麗らかな午後、ロンドン・ブリッジ駅構内から外に出ると、夏の日差しを浴びながらあゆは伸びをした。精一杯に身体を伸ばしても、この国の女性の平均身長に及ばないのが何となく微笑ましい。 「あんまり油断しない方が良いぜ。ロンドンは1日の中に四季があるって言われてるし。天気は気まぐれだからな」 ロンドンの夏の平均気温は、16度。日本のほぼ最北端にある稚内よりも涼しい。だからして、雨が降ってくると肌寒くすら感じることがある。俺がこの国に来るのはほとんどが夏休みを利用してのことだったから、この辺のことは色々と経験しているのだ。風邪引いて寝こんだこともあるからなぁ。 「で、これからどこに行くの?」 香里が言った。全員が似たようなもんだが、ワインレッドのシャツにブラック・ジーンズと非常にシンプルな恰好をしている。しかし、彼女たちの私服姿も見慣れてきたよな。 「本日のラストは、『ロンドン・ダンジョン』で決まりだ。すぐそこだよ」 本当に駅から目と鼻の先にあるその場所を指差して、俺は言う。 「ガイドブックなんかでも紹介されるような、結構有名なところなんだぜ」 ――結論から言うと、俺たちのチームは大きく3つに分かれた。アンティークのストール(露天)を身に行ったショッピング組の秋子さんと栞。動物園に行った舞、名雪、佐祐理さん。そして観光組の俺、あゆ、香里だな。ミッシーはホテルで絶対安静を命じている。ピストルで撃たれたんだから、当然だ。 勿論、これに合わせて護衛たちも4つに割れた。天野には女性ガードが一人付いてるし、一番危険性の高い舞たちのグループには3人配置された。秋子さんと栞に二人、そして俺たちに一人。万全とは言い難いが、現状ではベストに近い体勢だろう。 寧ろ現実的に危険視されるべきは、武闘派動物愛護マフィア(?)の舞、それから猫を目当てに動物園へ乗りこんでいった名雪の二人だ。あいつら、問題起こしてなけりゃ良いけど。 「ねえ、祐一君。ろんどん・だんじょんってどんなところ?」 「その名の示す通りの所だよ。ホラ、あそこ。人が並んでるだろ」 俺はニヤリと笑って見せる。あゆは気付かなかったが、香里は俺の企みに気付いたようだ。 「人気スポットなんだ」 「え、並ぶのか? 俺は待つってのはあんまり好きじゃないんだけどな」 そう文句を言ったのは、何故か俺たちと行動を共にしているアホ親父だ。忘れていたが、大きなギグを終えたばかりの昨日今日は、Y'sは完全なオフになっているらしい。親父の奴は暇だからと言って、母さんと一緒に俺たちのところにやってきたのである。実に迷惑な話だ。 「嫌なら帰ったって良いんだぜ、親父。別に頼んで一緒に来てもらってるわけじゃないしな」 「誰も嫌だなんて一言も言ってねーだろ」 親父はガキ並にムキになって言った。そして左のロマンサーを握り固める。 「上等じゃねぇか。やってやるぜ。ロンドン・ダンジョンだろうがマダム・タッソーだろうが俺は負けん」 「なんの勝負だよ」 時々思うわけだが、俺はどうしてこんなバカ親父の元に産まれてしまったのだろう。母さんは良い母親だけど、親父はちょっとアレだ。 さっきも言ったが、このロンドン・ダンジョンってのは割と名の知れた観光スポットでもある。親父が口にしていた『マダム・タッソー』の蝋人形館と並んで、有名な蝋人形のアトラクションだ。 この蝋人形の蝋ってのは、ロウソクの蝋な。これを使って一見して人形とは分からないようなリアルな人体模型を造るわけだ。これがまた良く出来ていて、非常にリアルだから人気が高い。マダム・タッソー蝋人形館には一度行ったことがあるが、女王陛下を筆頭とするロイヤル・ファミリィからマイケル・ジャクソン、シルベスタ・スタローンのようなハリウッド・スター、モーツァルト、千代の富士と、古今東西の有名人が色々といて面白かった。 じゃあ、ロンドン・ダンジョンにはどんな蝋人形があるかと言えば――そうだな、ヒントは日本の生《い》き人形だな。日本にも本当に生きているように見えるほどリアルな人形が存在して、それが『生き人形』って呼ばれるのは知っての通りだ。名人なんかは、人間国宝にも指定されていたはず。 その生き人形はマダム・タッソー蝋人形館のようにエンタテイメントに良く利用されたそうだが、別の側面でも有名な存在なんだ。つまり、ホラーやスプラッタだな。リアルな人形を利用して、血飛沫の舞うような残酷で凄惨なシチュエーションを再現するわけだ。 そう、ロンドン・ダンジョンってのは蝋人形で同じことをやっている。ここは一種のオバケ屋敷なんだ。 「そう言えば、一昨日の夜の事件。TVを見てたんだけど、全然ニュースになってなかったわよね」 あゆの反応が楽しみだと一人でほくそ笑んでいると、香里が思い出したように言った。勿論、一昨日の事件とはサイバードールが襲撃してきたことだろう。既に親父と母さんにも簡単に報告してあるんだが―― 「ホテルにあった『タイムズ』にも『ガーディアン』にも『インディペンデント』、それに『デイリィ・テレグラフ』にも少しだって載ってなかったし(いずれも代表的な新聞紙)、ホテルのボーイも聞いたこと無いって」 「私はあまりTVを見ないけれど、確かにそういったニュースは聞かなかったわ。ニュースになっていたら、すぐに連絡をとったはずだもの」 母さんは言いながら、少し心配そうに俺の腕を撫でた。俺は大丈夫だよと微笑を返す。 秋子さんや母さんは、同じような人徳を持つことで有名だ。つまり、「この人に迷惑になるようなことや、この人を悲しませるようなことはしたくない」と誰もに思わせる力だ。「どうやってコイツをギャフンと言わせてやろう」と思わせるような、腐れ外道のバカ親父とは正反対。 きっと、即座に列聖(聖人として認定されること)されてもおかしくない程の慈愛と忍耐強さを彼女たちが兼ね備えているから、そう思えるのだろう。逆に、親父はエクソシストに悪魔として認定されるタイプだ。処刑されてしまえい。 そんなことを入場待ちの行列に並びながら考えていると―― ゴビンッ! いきなりクソ親父から頭をブン殴られた。 「ぃいってぇ〜!」 思わず目玉が零れ落ちてしまうのではないかと心配したくなる程の痛さだ。トレーニングと格闘技の鍛錬を毎日欠かさない親父の一撃は、本当に時々シャレにならない。 「いきなり何しやがる、このクソ親父!」 「やかましい! なんとなく、今お前を殴っとかないといけないような気がしたんだ!」 ――なんてワガママな野郎だ。そんな理由で可愛い一人息子の頭に拳を落とすとは。信じられん。 「はぁ〜。あなたたちを見ていると、自分が命狙われてることを忘れそうになるわ」 香里が魂が抜け落ちるような溜息と共に言った。俺としては、親父と同列に扱われて非常に納得のいかないものがある。 「でもさ、やっぱアレなんじゃないの。ガトリング砲を撃ちまくった挙句、手榴弾だって好き放題に投げてくれたじゃんよ。それがニュースにもならないってことは――」 「情報操作だろうな」 俺が最後まで言う前に、ボディガードが言葉を浚っていった。俺たち『観光グループ』に付いた護衛は彼一人。Henry Gibsonという、イングランド特殊部隊のエリートだった人だ。 「財団の十八番さ。なにかあっても、圧力を掛けて揉み消す」 「隠蔽工作、ですか」 香里は重い声と表情で言った。 「君たちの国の政治家はそれが下手だが、財団は上手い。奴らはもう何世紀にも渡って、様々な方面に根を張り巡らせてきた。奴らはそうやって社会に浸透し、不可分の存在となっている。Too big to fairというわけだな。潰そうと思ってそう簡単に潰せる相手じゃない」 「ふーむ、Engqist Foundationか。そんな話はローザっていう知り合いから聞いたことはあったが」 親父は顎に手をやって、珍しく難しい表情をしている。そう言えば、いつか話してたな。親父にはICPOに知り合いがいるとかなんとか。と言うことは、インターポールも一応は財団の存在を知っているってワケか。 「祐一、でかした! なかなか面白い奴らを敵に回したな」 全く理解に苦しむが、息子が世界最大の勢力を誇る組織を敵に回し、しかも現実に命を狙われていると知って親父はとても嬉しそうだ。 「そうさ、敵は強ければ強いほど燃える。そして、そいつをブッ潰す。それが自信になるし、誇りになるんだ。お前に一番欠けてるもんだ。良い機会だぜ」 「だから、俺が潰すとかそういうことを考えられる相手じゃないんだって。親父、ちゃんと話聞いてたか?」 「バカ、潰せそうにないと誰もが思ってるのを潰すから凄いんだ。そんなことやってみろ、一生偉そうにできるぞ」 そうなんだよなぁ。親父のヤツは、誰もが実現不可能だと思っていることに挑戦するのが生き甲斐なんだ。誰もが信じないことをやってのけて、連中の驚いた顔をみるのが楽しくて仕方が無いらしい。 皆が奇跡を信じなければ、やつは奇跡を起こす。皆が「腕が無くなったんなら、あいつは終わりだ」と思うなら、即座に復活して見せる。それが相沢芳樹の生き方なんだ。迷惑極まりないことに。 「分からないか? もしそいつらに勝てたら、もう何を敵に回しても余裕でいられるってことだ。この世に怖いもの無しだぜ、スゲェ! くわ〜、俺も混ざりてぇなあ」 やはり親父はとても楽しそうだ。おかしい。完璧におかしいよ、この人。イカレてる。普通じゃない。 「あの、Mr.Aizawa」 その親父に、遠慮がちな表情でボディガードは声をかけた。丁寧で完璧な発音の日本語だ。 「ん、俺のことか?」 親父はロマンサーで器用に自分を指差して見せる。本当、あれって人間の手と全く同じように、気味が悪いほどリアルに動くよな。仕組みは知らんが、相当凄い奴が作ったんだろう。 「はい。先日お会いした時からずっと思っていたんですが、その義手はもしかしてカストゥール研究所の『KsX-Romancer』シリーズの試作品ではありませんか?」 「おお、良く知ってるな。こいつを正式名称で呼ぶ奴には久しぶりに会ったぜ」 親父は、古い友人と街角でバッタリ20年ぶりの再会を果たしたような笑顔で言った。 「やはり……まさかとは思っていたが」 あれ、なんか護衛の人の様子が変だ。なんか、幽霊でも見てるような呆然とした顔をしている。しかも顔面蒼白で凄い汗だ。 「俺の知り合いにシルヴィアって科学者がいてな、そいつが何とかって画期的なシステムを組み込んで発明したとか言ってたぞ。これはアイツに貰ったんだ。俺なら使いこなせるだろうからとか言って。それがどうかしたか?」 「シルヴィア!」 その名が親父の口から出た瞬間、護衛は今度こそ劇的な反応を見せた。「あした世界が終わる」と聞かされても普通はここまで驚かないだろうと思わせるほどの仰天ぶりだ。 「あなたは、あのシルヴィア・エンクィストと知り合いだったのですか!?」 「ずっとファースト・ネームで呼んでたからなぁ。ファミリィ・ネームは覚えてないけど、確かそんな名前だったな。スウェーデンに一人旅に出た頃に知り合ったんだ」 親父はその頃を思い出したか、嬉しそうに笑う。 「あいつ、俺に惚れてたんだぜ。良い奴だったからなぁ。夏夜子と会わなかったら、きっと俺の相棒になってたのはアイツだっただろう。シルヴィアは夏夜子の次に好きだ」 「ちょっと待ってくれ」 俺はどうしても聞き捨てならない単語を耳にして、思わず会話に割り込んだ。 「シルヴィア・エンクィストって言ったよな。エンクィスト。こりゃ、偶然か?」 「あ。そう言えば、そのエンクィスト財団とやらと同じだな」 アホ親父は今気付いたように言う。いや、絶対俺に言われて初めて気付きやがったんだ。 「シルヴィア・エンクィストは、エンクィスト財団を創設し初代財団代表を務めた『エンクィスト公爵家』の当主でした」 「ええっ!?」 衝撃が走る。驚愕に思わず叫び声を上げた俺たちは、ロンドン・ダンジョンの周囲の人々の視線を引き付けてしまった。だが、それどころの話じゃない。今の俺たちは、それが何であれ『エンクィスト』という言葉に世界で一番敏感になっているんだ。 「そう言えば、あいつ金持ちだったよな。高そうな車を貰ったこともあるし。1年ぐらいアイツの屋敷に居候してたけど、メイドが何人もいた凄いところだったぞ。メシも豪華だったし」 「信じられない」呆然と首を左右しながら、香里は言った。 「おじさま、エンクィスト財団の話を聞いてもその女性のこと思い出さなかったんですか?」 「おう。スポーンと忘れてた」 こういう奴だ。親父はこういう奴なんだ……。俺は香里に同情した。普通の神経で付き合いきれる奴じゃないんだよ。母さんや秋子さんクラスの人じゃないと、こいつの相手は務まらない。 「で、シルヴィアの奴は元気かい? 今、なにやってるんだ?」 親父は陽気に訊ねたが、護衛は顔を伏せたまま首を左右するだけだった。 「――亡くなりました。今年の1月に」 掠れた声でそう告げる。 「えっ、死んだ!?」 俺たちも勿論驚いたが、親父が受けた衝撃はその非では無かっただろう。良く分からないが、もしかしたら二人は恋人だったのかもしれないし。 「なんで? あいつ、だって、俺と同じぐらいの歳だったろ?」 「娘さんの出産の時に身体を崩されて――元々、あまり身体の丈夫な方ではありませんでしたから」 「そうか。あいつ、子供産んだのか」 親父は少し沈黙した後、ゆっくりと自分の左腕に視線を落とした。 「この腕、あいつの形見になっちまったな」 「シルヴィア・エンクィストは死後、伝説的存在となっています」 護衛はまるで自分の死んだ母親のことを語るような口調で言った。 「何故なら、彼女が1万6千枚に及ぶ工学論文「半有機分子集積体による生体エネルギーの波動変換、その展望と基礎理論」を残して逝ったことが分かったからです。現在、『シルヴィア・レポート』の通称で呼ばれる極秘文書がそれです」 「それは?」 香里は様々な意味でそれに興味を持ったらしかった。俺としては、タイトルを聞いた時点で「ごめんなさい」と謝りたくなるんだが。 「マイクロ・マシンとかナノ・マシンといった存在をご存知ですか?」 「Nano-machineは、K・エリック・ドレクスラーが提唱した機械ですね。ナノメートル(1ミリメートルの百万分の1)の単位で大きさが測定される程度の小型機械の総称だわ」 高卒のはずだが、母さんはとても博識だ。彼女に学歴の概念は通用しない。それは親父にも言える。相沢ファミリィ全体に通じる特徴のひとつだ。 「生物に近い仕組みを使って周囲の環境からエネルギーを得つつ、あらかじめプログラムされた単純な動作を行うんですよね。生物の遺伝子内において、DNAやRNAを転写、操作する酵素は自然が生み出したナノマシンと言えるかも。将来的には、色んな病気への対抗、生活の補助、肉体機能の強化、それにミクロレヴェルでの人体のケアといった、生命へのダイレクトアプローチ手段として期待されているって聞くわ」 香里が補足するように言った。 なるほどな。要するにアシモフの考えた「ミクロの決死圏」を小型ロボットでやってしまおうっていう発想だな。 「そのナノマシンを、実用レヴェルまで高めたのです。偉大なるシルヴィアは」 護衛の口調は、神の教えを説く神父のようだ。 「彼女は人間の精神に感応するという、極めて特異な性質を持つナノマシンの開発に成功しました。観念的、概念的な存在であった人間の『精神エネルギー』に反応し、それを物理エネルギーに変換してしまう力を持つという、信じ難いナノマシンです」 「そんな、それこそSF小説じゃあるまいし……」 リアリストの香里は、俄かには信じ難いらしい。そんな彼女の言葉を無視して、護衛は続ける。 「シルヴィアはそのナノマシンを『ILIS』と名付け、それに関する基礎理論と将来的な展望をレポートに纏めました」 「それが、さっき言っていた『シルヴィア・レポート』なんですか?」 「その通りです」 母さんの言葉に、護衛は頷いた。 「うぐぅ……。祐一君、みんながなに話してるのか分かる?」 「安心しろ、友よ。俺にも既に何が何だかサッパリ分からん」 俺とあゆは、固い友情の証にガッチリと握手を交わした。 「Mr.Aizawa、あなたがシルヴィアから受け継いだその『KsX-Romancer』は、彼女が生み出したナノマシン『ILIS』が組みこまれた唯一にして最後の存在なのです」 「こいつが、か?」 親父は不思議そうに自分の左手を見詰めた。 「でも、その『シルヴィア・レポート』とやらを見れば、ナノマシンの作り方が分かるんじゃないんですか?」 俺は素朴な疑問をそのまま口にした。香里をはじめとする皆も頷いている。 「シルヴィア・レポートは、高度に暗号化された挙句、幾つかのプロテクトが掛けられているんです。ですからその存在自体は知られていても、解読に至ったものはありません」 「なんか、財団が興味を持ちそうな話ですね。そのナノマシンは、シルヴィア女史が独自に研究したもので、財団はタッチしていないんでしょう?」 香里のその目の付け所は実に面白かった。確かに超能力やら異能者やらに興味を持つなら、実用レヴェルのナノマシンに興味を示しても可笑しくない。用途はそれこそ様々だから経済的にも凄い力になるだろうし、肉体を強化できるならサイバードールなんかが使いそうだ。軍事利用もできるかも。 「財団は今、血眼になってシルヴィアが隠したプロテクトを解除するキィを探し、暗号を解読しようとしています。いや、財団だけじゃない。各国の諜報機関が一番関心を抱いているのが『シルヴィア・レポート』なんです。このレポートを最初に解読した者は、次代の地球圏を掌握する力を手に入れるだろうというのが世界の統一された見解です」 「オイオイ、何やら燃える展開になってきたな」 親父がハリキリ出した。こいつを暴走させると危険だ。――だが、その親父を見て俺はあることに気付いた。みんな、根本的なところを見失ってないか? 「だったら、親父をフン捕まえて、ロマンサーを奪っちまえば良い。親父の義手の中には、そのナノマシンの雛型が組みこまれてるんだろう? レポート解読しなくても、現物を手に入れて解析しちまえば良いじゃんよ」 「それは――」 盲点を突かれて、香里は少し驚いたようだ。 「そうね。相沢君のくせに、侮れないわ」 「うぐぅ、なんだか良く分からないけど、祐一君、凄いよ!」 あゆも俺を湛えてくれるが、状況を理解していない彼女に誉められてもイマイチ嬉しくない。 「それは不可能です。ILISは一種の意思を持つそうです。彼女(ILISは女性名)は主を選びます。シルヴィアが選ぶであろう人間にしか機能しないようにプログラムされているという話です。そして、一旦登録されると主の意思に感応しなければプログラムは起動しない」 ダメだ。難しくて、ボディガードが何を言っているのか、サッパリ理解できない。 「つまり、一度おじさまの物になってしまったら、もうおじさま抜きではILISはILISたり得ないと云うことですか?」 「そう考えてもらって問題無いと思う」 香里の言葉を護衛は肯定した。そして、自分もILISを完全に理解しているとは言い難いのですがと付け加えた。 「もはや、『ILIS』の機密を知る人間は、シルヴィアの弟子である『カストゥール研』の幹部くらいしかいません。それと、Mr.Aizawaのものと対になる右のRomancerを除いては」 「財団がその研究所を襲撃する心配はないんですか?」 母さんが訊いた。俺も同じ質問をしようとしたが、先を越された恰好だ。 「あります。ですから、我々『Thuringwethil』のPSYMASTERSが24時間態勢で研究所と研究者たちを守っています。Aランク以上の能力者で固めていますから、財団のHoly Orderでもアメリカの特殊部隊でも簡単には陥とせないでしょう」 「そうか。俺の義手って、わりと凄いんだな。まぁ、便利だし触ったものの手触りとかまで伝わってくるから、変に良く出来てると思ってたが。流石はシルヴィアだ」 「偉大なるシルヴィア・エンクィストは、自分のナノマシンが身体に障害を持った人や、今まででは治療できなかった病人の役に立つことを願って、『ILIS』を開発したそうです」 ボディガードは、まるで女神の化身を見るような目付きで親父のロマンサーを見詰めた。 「――きっと、とても優しい人だったのね。最初に義手という福祉機器にそれを導入したことからも、それは如実に窺えるわ。ハンデで苦しむ人たちのハンデを取り除くために。その人たちの笑顔のために。流石は、私の伴侶に『好きだ』と言わせるだけの女性だわ」 母さんは慈しむような微笑を浮かべて言った。 「ですが、聡明なシルヴィアは『ILIS』が軍事利用された時の脅威を危惧しておられたそうです。人間の生命力をエネルギィ変換できるということは、大きな武器となります。能力を持たない普通の人間が、PSYMASTERになれる可能性が出てくるのです」 「そうか。なるほどな」 それで合点がいった。財団の狙いはそこにあるわけだ。 「親父の義手のように、福祉や医療にも確かに使える。世界に革命を齎すほどの画期的なものになるだろうから、ライセンス製にでもして売り出せば巨額の富を生み出す。――でもそれ以外に、軍事利用もできる。普通の人間を一種の超能力者にしちまえるかもしれないわけだ。怪我しても、ナノマシンが治癒してくれる。遺伝子レヴェルで肉体を強化してくれる。生命エネルギーを武器に使える。そんな兵士だけで構成された軍隊が出来あがるってわけだな?」 「それは極めて極端な例だし、そう簡単に上手くいくかは分からないが、そういう可能性も否定できないということだ。だから、シルヴィア・エンクィストは自分の研究成果を封印した。簡単には人手に渡らないように」 「なるほど。原爆作った連中のように、単なる発明馬鹿じゃなかったってわけか」 確かにな。視野の狭い奴や、物事の本質を見ぬく目を持っていない奴は、親父に認められない。本当に頭が良くて優しい人だったからこそ、親父に気に入られたんだ。そのシルヴィアって人は。 そういう意味で、親父が『好き』と判断するか『嫌いだ』と切って捨てるかは、その人物の本質を見抜く上でのひとつの判断材料にもなる。アホで馬鹿で腐れ外道だけど、人を見る目だけは確かだからな、親父は。 「それにしても、親父」 俺は奴を睨みつけた。そうしたくなる気持ちは、誰もが分かってくれるだろう。 「なんだかんだと言って、結局アンタも財団と1枚噛んでたわけじゃねえか。しかも、考えようによっては俺たちなんかより断然ディープにさ」 「うむ、何だか知らんがそのようだ」 親父は厳粛に頷いた。流石にちょっと驚いてるんだろう。 「いいね、面白くなってきた。俺好みの展開だぜ、これは」 「力と力は惹かれ合う。力は力を呼び寄せる。そして、力は悲劇を呼び寄せる」 ボディガードは険しい表情で呟く。 「至るところで君たちは財団と関連している。まるで何か巨大な意思が作用しているように、財団と惹かれ合っている。俺たちの知らないところで、何かが起こりはじめているのかもしれない――」 その言葉には、奇妙な説得力があった。
GMT Mon,24 July 2000 15:01 P.M.
The London Dungeon Tooley St. SE1 London U.K. 現地時刻7月24日午後3時1分 ロンドン・ダンジョン ロンドン・ダンジョンの前になぜ行列ができて、しかも入場までに30分は並ぶことを強いられるのか。それには勿論のことだが理由がある。ひとつは、ここがガイドブックでも紹介される人気のスポットであること。更に今が観光シーズン真っ盛りであるということだ。一番込み合う時期に、一番込み合う場所にやってきたのだから、ある意味当然だ。遊園地だって、一番人気のジェットコースターの前には常に長蛇の列ができる。それと同じことだ。 だが一番の原因は、入り口付近で、入場者ごとに記念写真の撮影を無理矢理させられるからだと俺は密かに考えている。ようやく行列の先頭に踊り出たと思ったら、いきなり「何人だ?」と聞かれ撮影用のセットに連行される。そして俺は有無を言わさず断頭台の処刑セットに首を突っ込む羽目になり、斧を持った死刑執行人の姿が妙に似合う香里と親父に挟まれて、無様な姿を写真に撮られているわけだ。いちいちポーズなんかも取らせるものだから、時間がかかって仕方が無い。 「みじめだ。惨め過ぎる……」 何が悲しくて、こんなところまできて処刑台に掴まって殺されかけてるところを激写されなければならないんだろう。呪われているとしか思えない。 「ぷくく、良い恰好だな祐一君。とっても似合ってるぜ」 そんな俺を実に嬉しそうな顔で見下ろしている親父の顔がまた腹ただしい。むしろ処刑されるべきはこいつではあるまいか。なにかが間違っている。 この苦行としか思えない記念撮影から開放されると、ようやくチケット売場だ。チケットは£8.95。学割で1ポンド安くなる。これを人数分購入すると、ついにアトラクションに挑むことになる。さーて、ここからは月宮うぐぅ君の動向に注目だ。どんなリアクションを見せてくれることやら、今から楽しみである。 ロンドン・ダンジョンってのは、国鉄高架線下の約3000m2の敷地内に、イングランド中世時代の歴史的な出来事を等身大のリアルな蝋人形で再現している場所だ。数字からも分かるように中はけっこう広くて、壁際にいくつも小部屋が並び、暗闇の中に様々なホラー顔負けの怖さ爆発なアトラクションが浮かび上がる。 なんて言うのかな、とにかく血生臭いんだよな。昔は『基本的人権の尊重』だとかいう甘ったれた概念も無かったから人間のやることもえげつなくて、中世の拷問や虐殺の模様を再現しているところなんかは特に酷い。「この世で最も残酷になれるのは、人間自身である」というような格言を誰もが思い付いてしまえるほどだ。 他にも色々あるんだぜ? 生きるために強盗殺人を繰り返して、殺した人間の肉を食って生活してたっていうスコットランドの一家の食事模様だろ、麻酔無しのノコギリで散髪屋と洗濯女がケガ人の足を切断するっていう当時の手術風景だろ、それから内臓をもぎ取って体を4つに切断するっていうゴトリー・ブッチャーなる処刑の様子。出口付近には、あの有名なジャック・ザ・リッパー(切り裂きジャック)のコーナーもある。他にも断頭、投石、火炙り、手足の切断、ありとあらゆる処刑と拷問の光景とそれに使われた道具も実物が展示されてるし。 うーん、こうして見るとあれだな。実際に行われていた、現実に存在したというリアリティも含めて下手なホラーハウスなんざより数倍は強烈かもしれない。 辺りには中世時代の格好をしたスタッフが動き回っていて、各コーナーでは芝居掛かった講釈を述べている。もちろん英語だ。各国の言葉で状況を説明しているプレートもあるんだが、なぜか日本語はない。ま、俺は一度来た時に母さんに大方説明して貰ったから、大体は説明されなくてもわかる。 でも、アトラクションは遊園地みたいに所々新しくなってるみたいだな。俺が昔来た時は1666年のロンドン大火災の超リアルなアトラクションがメインだったんだが、それが無くなってる。 ――と、そうだ。アトラクションを楽しんでる場合じゃない。あゆだよ、あゆ。俺はあいつの反応を楽しみにわざわざ大嫌いな行列に並んでまでここに来たんだ。いかん、目先の楽しみに目を奪われて本来の目的を忘れるところだった。 俺は慌てて暗い周囲に視線を凝らし、うぐぅを捜索した。まあ、あいつはチビっこくて目立つ羽リュックを背負っているから、探せばいつだってすぐに見つかる。ある意味で特徴と識別点の塊みたいなやつだからな。 御多分に漏れず、やっぱりあゆあゆはすぐに見つかった。溺れる人間が救命用具にしがみつくようにして母さんの服の裾を握っている彼女は、「うぐぅ、うぐぅ」言いながら目に涙を溜めている。飽きれるくらいに予想通りのリアクションを見せてくれる奴だ。入る間際から嫌な予感を感じて身を縮めていたが、今は更に小さくなって丸くなったリスみたいだ。 「よっ、あゆあゆ。楽しんでるか!?」 目論みが成功して上機嫌な俺は、にこやかにあゆに歩み寄った。 「ちっとも楽しくなんかないよ」 あゆは小刻みに震えつつ、周囲をオドオドと見回しながら言った。 「うぐぅ、ボクが暗いところが嫌いで、怖いのが苦手だって知ってるのにこんな所に連れてくるなんて、祐一君いじわるだよ!」 「まぁ、そう言うなよ。あゆ、俺はお前の怖がりな性格を治すために、敢えて茨の道をいかせておるのだ。言わば、これは愛の鞭である。あゆよ、その弱点を克服し一番星になれ!」 断っておくが、今の俺は自分でも自分が何を言っているのかサッパリ分からない。 「うぐぅ、怖いよう。怖いよぅ」 ははは……。怖がってる、怖がってる。これだけ怖がってくれると、ここのアトラクションの設計者も喜ぶことであろう。 「あゆよ、今お前は人間一人を幸せにしたぞ」 「うぐ、何がなんだか良く分からないけど、ボクは全然しあわせなんかじゃないよ」 それにしても、困って小さく丸まったあゆって、なんか小動物みたいで可愛いんだよな。反応が面白くて、ついつい苛めてしまいたくなるのは俺だけでは無いはずだ。 そうこうしている内に、俺たちは『ウォーター・スライダー』のアトラクションに差し掛かった。展開としては、何やら悪者を演じさせられている客が裁判で有罪判決を食らい、牢屋に放りこまれるといったシナリオらしい。で、牢屋に団体で放りこまれると、そこにはディズニーランドの『スプラッシュ・マウンテン』みたいなボートが待っているというわけだ。 「これから、貴様らに刑を執行する!」とかいった感じのことを英語で言われ(なんとか分かった)、俺たちはその怪しげなボートに乗り込む。それからゆっくりとボートは動き出し、最終的には高低差を利用して後ろへストーンと落とされた。銃で撃たれたっぽい演出だ。 「なんだか、遊園地に来たみたいだわ」 船着場に到着した時、香里が言った。どうやら彼女もそれなりに楽しんでくれているようだ。 意外な話だが、彼女はこういう派手なアトラクションが結構好きみたいだ。もしかすると、栞のこともあって遊園地なんかに行くことがあまり無かったのかもしれない。――だとすると、普通の子供には当たり前のことも彼女には新鮮で珍しく見えるといったこともあり得る。 「う、うぐぅ〜〜っ!」 突如、誰が聞いても明らかなあゆの悲鳴が響き渡った。どうやら、船着き場で悪魔の扮装をしたスタッフに脅かされたらしい。このロンドン・ダンジョンは一種のオバケ屋敷だからして、そういう連中が所々にいる。客を威嚇してヒヤリとさせるのが彼らの仕事だ。だが、あゆのリアクションがあまりに素敵過ぎたせいだろう、気をよくしたスタッフは逃げるあゆを追っかけてまで仕事に熱中している。よほど良い反応を見せてくれたことが嬉しかったのだろう、サービスのつもりなのだろうが―― 「あら、あゆちゃん、行っちゃったわよ?」 あゆはキャーキャー良いながら、目を固く閉じて走り去ってしまった。恐怖が許容限界量を超えてしまったんだろう。どうやら出口の方向に向かっていったようだが、一人にするとちょっと不安だ。 「しょうがないな。母さん、俺ちょっと行って捕まえとくから。出口で合流しよう」 「ええ、お願いね」 母さんと頷き合うと、俺はあゆを追って出口方向に向かった。走り出すとすぐに辺りの風景が変わり、19世紀のロンドンに迷い込むことになった。ちょうど百年前の世界だな。 ロンドンは名探偵――俺から言わせりゃ、迷探偵だが――シャーロック・ホームズの故郷でも知られていて、19世紀って言えば彼がまさに現役で活躍していた時代だ。 そしてそれは同時に、切り裂きジャック《ジャック・ザ・リッパー》が連続猟奇殺人を繰り返していた時期でもある。シャーロックとジャックの活躍していた時期はピタリと合致していて、一部のシャーロキアン(ホームズの熱狂的ファン)の間では「どうしてホームズは、ジャック・ザ・リッパーの事件を捜査しなかったのか?」という話題で一時期盛り上がったらしい。 そこは犯罪史上最大の謎とされている、その『ジャック・ザ・リッパー』の世界を再現したセットだった。奴はホワイト・チャペルだったかな、日本で言えば歌舞伎町のようなところを徘徊し、娼婦ばかりを狙ってナイフで人間を斬り殺しまくってた変わった趣味の持ち主だ。そんなに人を斬りたきゃ、外科医になればよかったものを。そうすりゃ、合法的に人を切り裂けるし他人からは感謝される。 このアトラクションには、実際に奴の被害者となってしまった娼婦たちの無残な様子を模した蝋人形が並べられていて、さらに当時の新聞記事や現場写真、被害者の写真などがスライドで次々と上映されていた。それをバックにして、妙なコスチュームを身に纏ったオッサンが、シェイクスピア劇を見ているような朗々とした口調で色々なことを解説している。喋り方が独特だし、元々英語に堪能というわけではないから俺にはサッパリ意味がわからない。 結局、問題は「切り裂きジャックは誰だったのか?」といった内容になってくるのだろうが、俺の抱えている今の命題は「あゆは一体どこにいってしまったのか?」だ。 「ったく、一体どこまで逃げたんだ。アイツは」 食い逃げの時に思い知ったが、運動神経は皆無と言って過言でないまでに欠落してるくせ、逃げ足だけは驚異的に速いからな。 『ジャック・ザ・リッパー』のスライド・ショウを抜けると、もうダンジョンの出口だ。ここまでの順路で見つけられなかったってことは、要するに外に出ちまったってことだろうな、やっぱり。 「手間かけさせやがって、本当に」 そんなに怖かったのか? ちょっと気の毒な気もしてきた。まだ震えてたら、抱き締めて安心させてやろう。ここに連れてきたのは俺だから、責任はある。 出口付近では怪しい土産物やグッズ、それに入り口の断頭台で強引に撮らされてしまった例の写真を販売していた。値段は£3.99か。日本円に換算すると8百円くらいか? 誰が買うかよ。――でも、親父の奴はわざわざ買って、あとで俺に見せびらかすんだろうな。容易に予想がつく。あいつの性格の悪さは、イヤと言うほど知ってるからな。 そんなことを思いながら、俺はあゆを探して周囲に視線を巡らせた。出口のところにカフェテリアがあるんだが、ここも一応覗くとしよう。あんな拷問模様やスプラッター顔負けの残虐シーンを見た後に食欲があるものなのか? ――誰もがそう思うだろうが、いるんだよな。前に来た時、まさに親父の奴は「そういや、腹減ったな」とか言ってスパゲティをガバガバ食ってた。だけど、あゆがそうだとは思わない。案の定、カフェテリアに彼女の姿は見当たらなかった。 「おーい、あゆ〜」 ダンジョンを後にすると、通りに出る。早く見つけないとマズイかもな。ここは人が山ほどいるロンドンだ。迷子になられたら、まず見つからない。 本格的に心配しかけた時、ロンドン・ダンジョンが面するトゥーリィ・ストリートのテムズ河サイド一角で、「うぐぅうぐぅ」言っているあゆを発見。彼女はこちらに背中を向けて、独りでしくしくと泣いていた。その背中のリュックの羽アクセサリが、頼りなく揺れている。 そんなあゆの後姿に、小学生の頃、飼育委員の当番で面倒を見ていたネズミのことを思い出した。ある冬の日、飼育箱の中を覗くとネズミは丸くなって震えていた。その時はあまり気にしなかったんだが、次の日に担任の教師からネズミが死んでしまったことを聞いた時は、何故だかとても悲しかったもんだ。10年経った今でも覚えているということは、俺にとってあの記憶はとても大切なものなんだろう。今のあゆの姿を見ていると、あの時のネズミのことが脳裏に甦る。なんだか胸の締め付けられる光景だ。 「あゆ……」 歩みよって背後から肩を叩くと、あゆは振り返って涙に塗れた顔を上げた。 「うぐぅ、祐一くん」 飛び込むように抱きついてくるが、さすがに今回ばかりは躱す気は起こらない。俺はあゆの小さな体を抱きとめた。あの時のネズミと同じように――そして、いつか拾ってきた子狐と同じように、あゆはとても小さくて温かくて、ふわふわしていた。 果たしてあの時の俺は、ネズミが死んだことを正しく認識していたんだろうか? ――この体温を感じていると、不意に思う。俺が子供心に悲しみ喪失感を覚えたのは、ネズミの死そのものに対してではなくて、手に乗せるとあんなにフワフワしていて温かかったネズミが冷たく静かになってしまったからじゃないだろうか。もう、二度とあの温かさに触れられないと思ったからじゃないだろうか。 「あゆ、もう大丈夫だ」 何故だか良く分からない感情が高まって、俺はあゆを抱き締める腕に力を込めた。人間は『幸せ』とかいう良く分からないものを追い求めるものだが、それは実のところ信じられないくらい近くにあって、実に単純な形をしているのかもしれない。 「怖かったか、あゆ」 「死んじゃうかと思ったよ」 あゆはポロポロと零れる涙を、一生懸命に拭いながら言った。こいつは戸籍上は17歳だが、身体はどう見てもそれより3歳分は幼い。そして心は更にそれより3歳分幼い。たまに忘れそうになるが、こいつは七年間も眠っていたんだ。誰が忘れても、あゆにとってその事実は重要だ。 「あゆ、良いことを教えてやる」 俺は膝を軽く曲げると、俯いて泣いているあゆと視線の高さを合わせて言った。 「いいか、世の中にはオバケと同じくらいか、それよりももっと怖いものが沢山あって、時々俺たちを苛めにくる」 例えば七年前、それはあゆの元にも既に訪れている。そして彼女を深い眠りに就かせた。同じように栞の元にも訪れ、彼女に死の病を与えた。名雪の元には俺という名の悪夢が訪れ、彼女を苛ませた。舞の元にも、それから多分――佐祐理さんの元にもそれは行ったようだ。四年前は親父のところに来て、左腕を奪っていった。悪夢や恐怖はどこにでも潜んでいる。 「だけど、怖いからって今のあゆみたいに逃げちゃダメだ。奴らは相手が逃げると喜んで追いかけてくる」 「うぐ、犬さん、みたいに?」 嗚咽まじりにあゆは言った。そう言えば、こいつはガキの頃から野良犬に追いかけられるのも得意だった。タイヤキ屋の親父に追いかけられるのと同じくらいに。 「そうだな、犬みたいなもんだ。連中は、逃げれば逃げるほど逆に元気になって追いかけてくるだろう?」 俺の言葉に、あゆは頷いた。 「だから、逃げたらダメだ。そうじゃなくて、追っ払う方法をかんがえなくちゃな」 「どうすればいいの?」 迷子がママの居所を問うような目付きで、あゆは訊いてきた。 「一番手っ取り早いのは、どんなオバケや犬や怖いものが来ても平気になるように強くなることだ。だけど、それは簡単にはいかないし時間がかかる。だから、神はそのために『友達』という考え方を人間に与えてくれた」 誰も信じてはくれないが俺の母親は敬虔なカトリック教徒で、俺は彼女に育てられたせいで少なからずその影響を受けている。 「怖い時は友達と一緒にいれば良いんだ。誰かと一緒だと、一人じゃ行けないような怖い所にも行けるだろう? 暗い所だって安心だ」 あゆはコクリと頷いた。 「俺とあゆは友達だ。だから、大変なことになったら別々に逃げるんじゃなくて、一緒に居ればいい。あゆが犬に追いかけられた時、俺が追い払ってやっただろう? それと一緒さ」 「祐一くんが助けてくれるの?」 「お前ひとりじゃどうしようもなくなった時はな。頑張ればどうにか出来そうな時は、簡単に人に頼っちゃダメだ。大変なのはみんな同じ、あゆだけじゃないから。――でも、自分だけじゃどうにもならないと思ったら、人に力を借りるのも大切なことだ。友達ってのは、そういう時に頼りになる奴のことを言うのさ。あゆにはそういう人が一杯いるだろう」 「……うん」 少し考えると、あゆは言った。きっと、その頭の中で危急の際に力添えしてくれる人物を列挙していたのだろう。水瀬家の家族をはじめ、それはAMSのメンバーや俺の両親などにまで広がったはずだ。中には付合いはじめて日の浅い奴もいるが、俺たちがクリアしてきた難題の山は並じゃない。その中で培われた絆は、とても強固なものであると信じられる。 「怖いからって逃げばっかじゃ、いつか追い詰められるぞ。世の中、出口までの順路が示してある親切なダンジョンばかりじゃないからな。俺も香里も、親父や母さんだって一緒にいたんだから頼れば良かったんだ」 そこで言葉を区切ると、俺はあゆと視線を合わせたまま唇の端を意図的に吊り上げて見せた。 「俺だった迷わず香里に助けを求めて、怖い物を見ないで済むように胸の谷間に顔を埋めさせてもらうね」 「もう、祐一くんはいつも結局はエッチなことばっかりだよ」 あゆは笑いながら言った。まったく、単純な奴だ。さっきまで泣いてたのに。 「さて、それじゃ皆のところに戻ろうぜ」 俺はあゆの頭にポンと手を置いて言った。あゆは俺たちの中で一番背が低い。この前栞が「1センチ成長して、158センチになったんですぅ!」とか狂気乱舞してたから、あゆはそれ以下ということになる。俺の胸くらいまでしか届かないものだから、実に手を置きやすいポジションに頭がくるのだ。 「うぐぅ……ボクが勝手に出てきちゃったから、みんな怒ってるかな?」 「いや、心配はしてたけど怒ってはなかったぞ」 本人は自覚していないが、月宮あゆってキャラクターはどうやっても憎めないものだ。ドジやらかしても、ヘマしでかしても、大抵のことなら笑って許せてしまう。碁石のように固く焦げたクッキーを食わされるのだけは勘弁だけどな。あゆはなかなか料理の腕が上達しないのだ。 「時間的にもちょうど良いんじゃないかな。そろそろ、親父や香里たちも全部見終わって出てくる頃だろう」 俺はあゆの背に手を添えると、ロンドン・ダンジョンに戻るために通りに戻った。 今俺たちがいるのはテムズ河の南側、サザークと呼ばれる一帯にある『トゥーリィ・ストリート』。名前だけなら日本人にも有名な『タワー・ブリッジ』や『ロンドン橋』のすぐ近くにある大通りだ。特別行政区《シティ》の真向かいだけあって、非常にモダンで綺麗なところ。テムズ河の豊かな流れの対岸には、ロンドン塔が聳えているし、西に行けばシェイクスピア・グローブ劇場が、東に行けば昔盗品が売られていたことから『どろぼう市』とも呼ばれていたらしい、有名なアンティーク・マーケットがある。どれも歩いてすぐに行ける距離だ。 この一帯は基本的に近代的でファッショナブルなんだよな。タワーブリッジやロンドン橋が傍にあることからも予想がつくように、夜になればイルミネーションに彩られてかなりロマンティックな雰囲気になる。栞あたりを連れてくると「ドラマみたいですぅ」とか言って大喜びするだろう。勿論、通りを行き交う人の波も多い。 ――そんな中、その姿を見つけられたのは本当に偶然だったんだろうか。何か運命めいたものさえ感じてしまう、驚くべき再会。その瞬間、俺はまさしく戦慄した。 「祐一くん、どうかしたの?」 急に一切の動作を凍て付かせてしまった俺を、あゆが怪訝そうな顔で見上げてくる。だが、俺はそれどころじゃなかった。 あれから四年。背も伸びているし、顔付きも変わっている。だけど、忘れるわけが無い、身間違えるわけがない。あの金髪、俺を殴りつけたあの拳、口元に張りついた下卑た笑み。あいつだけは、絶対に何があろうと見逃さない。見逃すわけにはいかないんだ。 ――ゾワリ、全身に電撃にも似た痺れが全身を駆け抜ける。身体中の血が騒いで、煮え立ちそうだ。 「あの野郎、あの野郎! あの野郎だッ!」 自分の最も奥の方で、何かの回路にスイッチが入ったのが自覚できた。それは物凄い速さで相沢祐一の神経回路に伝わっていき、連鎖的に爆発を起こしていく。激情は瞬く間に炎となって、俺を内から支配した。 そして今、理性、本能、感情、欲望、混沌。俺の中のあらゆる声が告げていた。間違い無い、奴だ。そして命じる。奴だけは、あの野郎だけは――! 「キィイィィスッ!」 Keith McNaughton。 それは四年前、左手を奪い去ることでチェリスト相沢芳樹を殺した男の名だった。
|