GMT San,23 July 2000 04:40 A.M.
15 Oak Hill Way NW7 Hamsted
7月23日 深夜04時40分 ハムステッド 佐祐理の別荘

 銃声で目が醒めた。
 いや、それともこれは何かの悪い夢なのか?
 寝ぼけているので無ければ、俺はライヴを終えて別荘に戻り……戻って……あれ?
 うーむ。何やら戻ってからの記憶が無いが、とにかくここはアメリカのダウンタウンじゃない。日本ほど治安が良いとは言えないが、マシンガンをフルオートで連射するような銃撃音が聞こえてくるような場所でないことも確かだ。少なくとも、ハムステッドってのは洒落た邸宅が立ち並ぶ高級住宅街なんだからなあ。
「相沢さん、気付かれたんですか?」
 何故か、身体の下から天野の声が聞こえてきた。ちょっと気だるげで疲れたような声音だ。
 俺はどうやらベッドに倒れこむ様にして、うつ伏せに寝ていたようなのだが――
 ここが別荘の部屋のひとつなら、ミッシーは隣のベッドに寝ているはずだ。俺の身体の下から声が聞こえてくる道理はない。
「目が醒めたのなら、早々にどいて下さい。非常に苦しいんです」
 ベッドが俺の身体の下でモゾモゾと身動ぎする。何だかくすぐったい。
 あたたかくて柔らかいマットレス。良い匂いがする。女の子みたいに甘い匂いだ。
 俺は布団に顔を埋めて、その香りを堪能した。誓って言うが、この時の俺はまだ完全には目が醒めてなかった。だから、これ事故だ。ワザとじゃない。

「ちょ、ちょっと、相沢さん! 寝ぼけてるんですか。それともセクハラですか? 首筋に顔を埋めないで……あぁ、匂いを嗅がないで下さい」
 下でバタバタとベッドが暴れる。それと同時に甘い香りがふわりと広がり、更にミッシーの抗議の声が耳に飛び込んで来た。
「――って、あら?」
 そこにきて、ようやく現状を正しく把握するに至った。
 どうやら俺は、天野をベッドに押し倒したまま彼女を抱き締めて眠っていたらしい。
 なんということだ、勿体無い。記憶が全然ないとは。せめて手触りくらいは……
「あら、ではありません。早くどいて下さい。ハッキリ言って、これは強姦です」
「す、すまん。なんか良く分からんが、天野の上で寝てたらしい。ワザとじゃないんだ。本当だ。クラスの連中にはなにとぞ内密に」
 俺は慌てて飛び退いて、天野に必死に弁解した。本当にこうなるに至った経緯に記憶が無い。
 だから、こうなったのは決してワザとじゃない。そこを誤解されて、天野に嫌われるのが怖かった。
 天野はオバさんくさいところもあるけど、とても良い子だと思う。
 ときどき思い出して落ち込んだりもするけれど、真琴の件で俺が俺のままいられたのは、間違い無く天野美汐という少女が傍に居てくれたからだし、何より俺は彼女が好きだ。一緒にいて楽しい。こんなことで決定的に嫌われて、二人の関係が崩壊するのは嫌だ。

「事故であったことは分かっています。非常に苦しかったですが、まあ誠意のある謝罪が聞けたので今回だけは許してあげます。なんだか最後に保身らしき言葉があったのが気に入りませんが」
 天野はベッドの上で乱れた衣服を正しながら言った。その仕草が、なんか妙に生々しくて色っぽい。流石に恥ずかしかったのか、彼女も頬を紅くしていた。きっと俺もそうだろう。
「一体、どうしてこんなことに?」
 テレを隠す意味も兼ねて、質問してみる。
「コンサートから帰って来て、半分眠っている相沢さんに肩を貸してこの部屋まで連れてきたんですが、相沢さんをベッドに放り出そうとした時、不幸にもバランスを崩しまして一緒に倒れこんでしまった次第です。それで、何故か相沢さんに抱き締められてしまって身動きが取れず」
「あ、俺ってガキの頃、枕抱いて寝ると安心したらしいから」
「私は枕ですか。まあ、今はそれどころではないので不問に処しますが」
「そうだよ。それどころじゃない。さっきから、この轟音はなんなんだ? 銃声みたいにも聞こえるが」
 アメリカに行った時、実際に撃たせてもらったことがあるし、ハンティングの経験も何度かあるので銃声は聞き分けることができる。だから言えるが、これは間違い無く銃声だ。それもかなり近い。

「重さからいって拳銃の弾丸を発射しているとは思えません。それをこれだけ連射しているということは、改造したアサルトライフルかガトリングでしょう。誰かは知りませんが、この別荘の一階を外からメチャクチャに撃ちまくっている人物がいるようです」
「なにぃ」
 今度こそ、完全に、完璧に目が醒めた。これ以上無いと言うほど醒めた。
「ガトリングだあ? ターミネーターじゃねえんだぞ」
「分かっています。ちょっと、ただごとじゃありません」
 天野の表情はいつにも増して硬く真剣なものだった。珍しく、彼女も焦りを感じているらしい。
「既に甚大な被害が出ているようです。銃声は続いているのに、もうガラスが割れる音すらしない。一階が心配です。下には倉田先輩に川澄先輩、それにあゆさんがいるはず」
 事態の深刻さに気がついて、俺は跳ね起きた。
 一〇〇メートルを何度も全力疾走したように、早くも鼓動が最高速度で高鳴りはじめている。
「相沢さんは部屋を出て護衛の方々と合流し、指示を仰いでから私を迎えに来てください」
「わ、わかった。でも、天野は?」
「私はこれでも女性なんですよ。着替えや準備というものがあります」
「着替えって、お前」
 そんな悠長なことを言っている場合では無いような気がした。たとえシャワーを浴びている途中だって裸のまま逃げ出さなきゃならないような事態だ。
「相沢さんがいけないんです。見て下さい、首筋のところ。相沢さんが豪快によだれを垂らしてくれたおかげでベトベトです」
「う、……すびばせん」
 見ると、確かに天野の透ける様に白い胸元の肌は透明な液体に塗れて光っていた。よりにもよって女の子に涎を落としてしまうとは、相沢祐一セクシーな不覚。えへ。
 ごめんなさい。全然反省してません。

「とにかくです。私は相沢さん以上に今の状況を正しく認識していますから。今は私の言う通りにして下さい。一刻を争うんです」
「分かったよ。何を企んでいるのかしらないが、くれぐれも無茶なことはしないようにな」
「それは私の台詞ですよ」
 天野とワイズクラックを交し合うと、俺は直ぐに部屋を出た。
 既に眠気は数億光年の彼方まで遠ざかって久しい。完全に覚醒しているし、頭もスッキリとクリアだ。――大丈夫。俺は冷静に事に対応しきれる。そう自分に言い聞かせた。
「……って、なんだこれは」
 廊下には薄い煙のようなものがたち込めていた。視界が利かない程ではないが、出所が気になる。火事になっているかもしれない。
 と、いきなり頭上から爆発を思わせる轟音が鳴り響き、目の前の廊下に天井から何かが落ちてきた。
「うおッ」
 恐らく、天井裏の天窓を突き破って降りてきたのだろう。衝撃で地震のように床を振動させるほどの豪快な着地を決めたのは、全身を金属ボディ・アーマーで固めた見知らぬ大男だった。
 映画のロボコップみたいな奴だ。首の下から爪先に至るまで銀色に鈍く輝く金属に包まれている。ナイフも拳銃の弾も跳ね返しそうな分厚い鎧だ。その姿は全身甲冑で完全武装した中世の装甲騎兵のようにも見えた。
 ――なんなんだ、こいつは。
 背中を向けているので顔を窺うことはできないが、どう考えても俺の知り合いにこんな奴はいない。天井を破壊していきなり降りて来たことを考えても、こいつは銃を乱射している奴らの仲間なのだろう。
 少なくとも、「やあ、ロンドンへようこそ。お友達になりにきました」ってな格好はしていない。

「CYBER-DOLL!?」
 どこかで驚愕の声が上がる。確か、佐祐理さんが雇ったボディガードの人の声に――
 いや、そんなことを考えている暇は無かった。
 良く見ると、そいつは右腕に仕込まれた小型のガトリング砲を持ち上げ誰かに狙いを付けようとしている。
 その視線の先には、恐怖で身体を硬直させている美坂香里の姿があった。
「オォォオォッ!」
 気が付いた時には、叫び声を上げて俺はそいつに突進していた。
 栞やあゆのことで痛感した。ひとが苦しんでいるのに、自分ではその人たちの力になってやれないことがこの世にはある。悔しいけど、それが現実。
 俺は医者じゃない。だから病気で苦しんでいる栞を癒すこともできなかったし、昏睡状態に陥ったあゆを目覚めさせることもできなかった。それは仕方の無いことなんだろうけど――
 でも、自分じゃ力になってやれない歯痒さ。一緒に闘うことのできない無力感。あれほど辛いことなんてなかった。
 そんな想いをした今だからこそ言えることがある。それは、たとえ絶望的な勝負であっても、戦う術が残っているというのは幸せだということ。まだ自分にやれることが残ってるってのは、ありがたいことだってこと。
 だから、自分に足掻けるチャンスが欠片でも残されているなら、俺は躊躇いなくそれに賭ける。絶対に逡巡しない。四年前、そう決めた。

 もう、大樹から転落した少女を目の前に、一歩も動き出せなかった俺とは違う。
 思いっ切り助走を付けて飛び上がり、背後からそのガラ空きの後頭部に渾身のケリを叩き込む。男は不意の一撃を食らって、倒れこそしなかったが大きくよろめいた。
 追い討ちを掛けるように、香里の近くにいた女性のボディガードが拳銃を男に向けて発砲する。一発、二発、さらにもう一発。乾いた銃声が周囲に響き渡った。
 だが、男の身体を覆う分厚い金属の装甲は全ての弾丸を簡単に弾き返す。
 本気でロボコップか、こいつは。
「ダメだ。9mmじゃ歯が立たない。FMJ弾でもないと――」
 女性のボディガードは歯噛みするが、俺にそんな余裕は無い。
「香里、大丈夫か」駆け寄って彼女の腕を取る。
「え、ええ。ありがとう」香里は未だ呆然としていた。「それにしても、こいつ何者なの」
「知らねえよ。お前にラヴレター送って、返事を貰えなかった近所の高校生じゃねえのか」
「そういうのを、最近じゃストーカーって言うんじゃなかった?」
「とにかくこっちへ。皆と合流する」
 先ほど発砲した女性ボディガードが、俺の腕を引っ張る。名前は忘れたが、確かドイツ人だ。
 まだ二八歳らしいが、ドイツ警察の特殊作戦コマンドの一員だったとか。とにかく凄腕らしい。赤味がかったブロンドに蒼い瞳。鷹山さん程ではないが、まあ美人と言えなくもない。

「ヒルデ、大丈夫か」
 と、廊下の向こう側から、残りの護衛5人が水瀬親子を引き連れてやってくるのが見えた。
「至急、援護を」
 女性ボディガード――ファーストネームはどうやらヒルデらしい――は、オートマティックのハンドガンを連射して敵に叩き込みながら叫ぶ。
 普通の弾では奴を貫くことはできないようだが、幾らロボコップもどきと言えどダメージくらいは受けるだろう。何しろ大型ハンドガンの初速は音速を超える。つまり音速で石を投げつけられるようなものだからな。貫通して肉を穿つことはできなくても、衝撃でダメージは与えられるはずだ。
「リロード!」
 全弾撃ちこむと、彼女は空になった拳銃を仲間の方に投げる。代わりに弾の入った拳銃が二挺投げ返されてきた。それを器用に受け取ると、彼女は片方に一挺ずつ構えて再び発砲を続けはじめた。
 その隙に、俺たちは無事に仲間との合流を果たす。名雪と秋子さんは無事だった。だが、下の階ではまだ銃声が続いている。舞と佐祐理さんと、それにあゆ。心配だ。

「状況を確認する。まず、メンバーだ。誰がいて、誰が足りない?」
 FBIのスペシャル・エージェントだったという護衛が早口で言った。日本語だ。
 鷹山さんが留守にしているため、今この別荘には男性四人、女性二人、合計六人の護衛がいるが全員が流暢に日本語を喋る。特殊部隊や情報部員は、母国語のほかにも色々な言語が使えないといけないとか。俺は軍には入れそうも無い。
「栞が! 栞がまだ部屋に残っているわ」香里が蒼白な顔で言った。
「天野もだ。まだ部屋にいる」俺はできるだけ冷静になるよう務めながら言った。
「シェフがいないなら、一階には倉田嬢と川澄さん、それに月宮さんが残っているはずだ」
 ボディガードの一人が指摘する。
「敵は何人いる。武装は? 目的は?」
「こんな奴らが世界にふたつと存在するものか!」
 起き上がろうとするサイボーグもどきに、再び銃弾の雨を浴びせながらヒルデさんは叫ぶ。
「サイバードールだ。一階でも銃撃が続いているから少なくとも二人はいる」
「よし、レジーナ、エリック、それにヘンリーは一階に降りて、残りの女の子たちを救出してくれ」
「――了解」

 だが、その必要は無かった。
 突如、一階へと続く大きな階段から黒い塊が高速で上昇してきた。駆け上ってきたのではなく、まさに弾丸のように飛んできたのだ。
 何事かとその方向に拳銃を構えるボディガードを尻目に、その高速移動物体は軽やかな着地を決める。左手に気を失ったあゆを抱え、右肩に佐祐理さんを担いだ――それは間違い無く川澄舞の姿だった。
「川澄さん。無事だったのね」秋子さんは安堵に胸を撫で下ろしながら言った。「心配していたのよ。本当に良かったわ」
「……寝ていたら、いきなり撃って来た。一階はメチャクチャ」
 舞は少し息を乱しながら言った。良く見ると、激しい戦闘でもこなしてきたかのように、身体のあちこちに擦り傷ができていた。だが、大きな外傷は幸いにも見当たらない。
「二人屋敷に入り込んで来た。一人は片付けたかもしれない。外に多分、あと三人くらいいる」
「サイバー・ドールを倒した? 殺したのか」
 護衛の一人が驚愕の声を上げる。それもそうだ。拳銃を跳ね返すような連中なのだ。――いや、全員が全員こんな金属で身を覆っているとは限らないけど。
「殺してはいない。剣で腕を切り落した。普通の人間なら……戦闘不能になったはず。でも、あれは普通の人間じゃない」
「剣って、舞。お前剣なんか持ってきてないだろう?」
 あんな物騒な真剣を国外に持ち出せるはずは無い。だとすると、キッチンから包丁でも持ち出したのだろうか。
「あの剣じゃない。武器が無かったから、試しに“魔”を剣の形に変えてみた」
 舞は俺たちの前で手を翳して見せる。次の瞬間、その掌に淡い光が収束していき、やがてそれは歪ながらも刀剣のフォルムを形成した。
「……そしたら、これが出来たから使ってみた」
 えらくアッサリ言ってのけるが、これまた凄いワザを編み出したものだ。
 俺は舞の奇行や不可思議な力を見慣れているからあまり驚かないけれど、れっきとした超能力だもんな。
 あ、でも、舞の言う“魔”っていうのは、舞の想像が現実に形になって現れたものだ。
 明確なイメージではなく、自分の邪魔をする怪物みたいなもの――というようなものを想像したから、ああいう不確定な化物になったわけだけど、舞がイメージを具象化させる不思議な力を持つことだけは確か。
 ならば、剣をイメージすれば、それを作れたとしても不思議は無い。
 しかも、今度のは慣れ親しんだ明確な物体だからして、目に見えるくらい確固とした奴を作れたのだろう。下地というか、基礎は出来上がっているわけだから、応用は利くというわけだ。
 イメージを具現化して作った剣。魔で出来た、金属をもぶった斬る真剣か。
「まさに、魔剣ってやつだな」

「なにを悠長なことを! みんな、躱して」
 ヒルデさんに身体ごと床に押さえ込まれる。一瞬後、俺たちが立っていた場所を数十発の弾丸の奔流が流れていった。後ろの壁が蜂の巣となって崩れ落ちる。
 冗談じゃねえよ――。背筋をゾッと冷たいものが走り抜けていった。こんなものまともに食らったら一瞬であの世行きだ。
「クソッ」
 反撃とばかりに、ボディガードたちのハンドガンが一斉に火を吹いた。
 が、9mm弾や357マグナム程度では、サイボーグ野郎の金属の装甲を撃ち抜くことはできない。精々、援護程度。倒すのではなく隙を作って逃げるくらいが関の山である。
 再びロボコップもどきのガトリングが火を吹く。俺たちは悲鳴を上げながら床に伏せるのがやっとだ。
 コッチは、護衛の人たちが持っている拳銃が数挺。対して、向こうは一瞬で一〇〇〇発の弾丸を撃ち込めるガトリング砲だ。火力が違い過ぎる。
 意匠を凝らした廊下の手摺が無残な木片となって俺たちの背にバラバラと降り注いできた。こいつらをのさばらせておくと、二〇分もあればこの豪邸が廃墟に変えられちまうだろう。
 と、今度は奴がシュガレットケースのような、平たい金属の塊をこちらに放り投げてきた。
「危ない。遊戯室に!」
 ボディガードたちが血相変えて、俺たちを遊戯室に誘導する。
 全員が何とか室内に駆け込んだ瞬間、先ほどまで俺たちがいた廊下で爆発が起こった。
 奴が投げてきたアレはどうやら小型の爆弾らしい。ボディガードたちが誘導してくれなければ、今頃バラバラに吹っ飛ばされていたところだ。

「歩く弾薬庫みたいな奴だな」
「どうする。強甲鋼のFMJ弾かコップキラーを持ってきた奴はいないか?」
「だめ。9パラしかない。IMIの.50AEは日本に置いてきた」
「俺もだ。部屋にもどればワイルドキャットがあるが……効くと思うか?」
「無理だろう。どう考えたって、あのボディ・アーマーの耐弾性がIIIA+(.44Mag防御)以下ってことはない。リボルバーを単発で撃ちこんでどうにかなるとは思えん」
 ボディガードたちの顔にも、焦りが見えた。どうやら、彼等は鷹山さんのような超能力は持っていないらしい。当然だ。期待する方が間違っている。
「関節と頭部を重点的に狙うしかないですね。9mmじゃ、ボディにいくら当てても同じみたいですから」
 秋子さんが言った。彼女はこの状況下でも冷静を保っている。――流石だ。
「余っている銃があったら私にも貸していただけませんか?」
「使えるのですか? こういう局面で素人さんに武器を持たせるのは危険なのですが」
 壮年の屈強なボディガードが難色を示す。
「使い方くらいなら分かると思います」
「そんなことより栞を早く助けに行かないと」
 香里が泣きそうな顔で主張した。普段の落ち着きを完全に失った、悲鳴のような声。余程妹のことが気がかりなのだろう。俺も部屋に残してきた天野のことが気になって仕方が無い。

「舞、こんな時に頼りたくないが……お前の力でなんとかならないか」
「……やってみる」
「舞!」神妙な顔つきで頷く舞を、佐祐理さんが慌てて押し止めた。
「佐祐理、やらなければやられる。いくしかない」
 佐祐理さんの手を優しく解きながら、諭すように舞は言う。
「――でも!」
「そもそも、奴等は何者なんですか? なんでいきなり」
 ずっと全員の頭にあった疑問をボディガードたちに向けてみる。彼等の様子を見ると、どうやらあのイカレたサイボーグ野郎たちのことを知っているような節が見受けられるからだ。
「何なんです。知ってるんでしょう」
 しばらくの逡巡を挟み、渋々と言った様子で彼等の一人が口を開いた。
「彼等は、大義や金のためではなく自分の美学や欲求を満たすためだけに仕事を請け負うフリーランサーだ。もっと言えば、快楽を目的として人を殺しまわっている殺人集団だな。無差別虐殺やテロを繰り返しているせいで、国際刑事警察機構にも国際手配されている。ICPOでのファイル・ナンバーはIKO-6987。 <サイバードール> の通称で知られる奴らだ」
 その言葉が終わるのを待ちうけていたかのように、突然、外側から壁越しにガトリング砲の掃射が始まった。広い遊戯室の白い壁が一瞬にして銃痕でボロボロになっていく。流れ弾がカーテンを割き、バーの酒瓶を割り、木製のテーブルを粉砕する。
 弾は俺たちが隠れている場所から大きく外れていったが、いつ自分のところに来るか分からないという恐怖で心臓が止まりそうだ。

「……っくしょう! 佐祐理さんの屋敷を滅茶苦茶にしやがって」
「出る。援護を」
 黒い旋風が遊戯室の出口へ走り抜ける。舞だ。
 同時に護衛の六人が手にしたハンドガンで一斉に廊下のサイバードールに銃撃を開始する。これで相手の動きを封じ、舞が攻撃するまでの時間を稼ごうという算段だ。
「破ッ――」
 神速で駆ける舞の口から、自然と漏れる気合の声。その高速移動においては、ほとんど地に足がついていない。半ば物理法則を無視した体捌きで、風の様に宙を走る。
 敵も逸早く舞の反撃に気付き、反応した。護衛たちの援護射撃をものともせず、舞に向けてガトリング砲を放つ。だが、ほとんど肉眼で捉えるのが困難な速度で動き回る舞を捕捉しきれない。
 しかも、奴は全身を分厚い金属プレートで覆っている。攻撃力・防御力共に高いが、動きは緩慢。舞にとっては動きの止まった木偶の棒と大差ないはずだ。
 彼女の手に青白く輝く光が収束していき、それは歪ながらも西洋剣の形をとった。魔剣だ。

 夫れ神とは……

 だが、その剣が奴の金属の身体を両断する前に、決着は意外な形で着いた。

 天地に先立ちて 而も天地を定め
 陰陽を超えて 而も陰陽を成す

「なんだ――?」
 何処からとも無く、詠うような不思議な抑揚のある声が聞こえてくる。
 どこかで聞いたことがあるような気もする、静かに澄んだ女性の声音。
 まるで経文を唱えるかのようなその声は、高まり、響き、空間を緩慢とだが確実に支配していく。

 天地に在りては神と云ひ 万物に在りては霊と云ひ
 人に在りては心と云ふ
 心とは神なり

 ゾワリ。
 悪寒が、狂気的な速度で身体を駆け抜けていった。
 戦慄に全身の毛が寒気立つ。気が付けば、周囲の気温が体感できるほど一気に下降していた。そして、本能は警鐘と共に主張する。今、俺たちはとてつもない何かを目撃しようとしている――。

 故に神は天地の根元 万物の霊性
 人倫の運命なり当に知る
 心は即ち神明の舎 形は天地と同根たる事を

 一体何が起こっているのかは分からない。だが、何かが起ころうとしていることだけは分かった。その証拠に、息苦しく思えるほど場の空気の密度が濃く高まっていく。周囲を漂う目に見えない何かがこの空間に集まってきているかのようだ。
 たとえるなら、怨念とか怒りとか呪詛の心だとか。人間が処理し切れず溢れ出した負の想念が呪文のようなこの歌に引き寄せられるように集まってきているような感じがする。
 鳥肌が立ってきやがった――。

 ひと、ふた、み、よ、いつ、むゆ、
 なな、やは、ここの、とをなりけりや
 ふるへ ゆらゆらと ふるへ
 布瑠部由良由良止布瑠部

「これは……」
 舞もこの異様な想念と咒力の収束を感じているのか。攻撃を止めて油断無く周囲に視線を巡らせている。
 いや、舞だけじゃない。敵も、味方も、この場に居合わせる全ての人間が得体の知れないこの異様な空気を感じているらしい。理屈ではなく、恐らく人間の生物としての根本の部分。本能的な何かでこれを察知しているんだろう。
 そして――

 弐億四千万之悪夢

 その囁きと同時に、空間全域を満たしていた不可思議な力が一箇所に集い、収束帯となって機械仕掛けの殺人鬼に一気に襲いかかった。目には見えなくても、それが分かる。怖いくらいにハッキリと分かる。
 そして、スパーク。
 凝縮されていた力が男を中心にして一気に爆発する。それは物理的な影響力すら持ち、奴に打ち掛かった。
 耳を覆いたくなるような、獣の断末魔を思わせる絶叫。そして静寂。
 全ては一瞬の出来事だった。
 男の銀色の巨体が、何か爆発的な力で宙に舞い上がり、そして墜落する。
 確認するまでも無く地に落ちた奴は絶命していた。
 まるで、何かの爆発に至近距離で巻き込まれでもしたかのように、その五体は歪に破壊されていた。腕も首も足も、全てがあり得ない方向に曲がっている。それは、寒気を覚える程に凄まじい衝撃を物語っていた。
「なんだったんだ……今のは」
 ボディガードの一人が、ポツリと呟くように言った。それは全員の心内を代弁する言葉だった。
 廊下に出た舞も、険しく目を細めてその惨状を観察している。彼女になら、何か分かるだろうか?
 俺には、何か呪いの力が奴に降りかかったようにも見えたが――いや、そんなことはあり得ない。それは最早、超能力の領域すら越えて既に魔法だ。

 全員が、恐る恐る遊戯室から廊下に出てみる。
 破壊されたのは、銀色の男の肉体と魂だけ。爆撃を受けたかのように、それらは無残に破壊され尽くされているものの周囲には一切の変化が見られない。板張りの廊下には焦げ痕ひとつ残っていなかった。
 物理的にあり得ない話だった。
「舞。これ、舞がやったんじゃ……ないよな?」
 絶命した男をじっと見下ろす舞に、静かに歩み寄りながら問う。案の定、彼女は静かに首を左右した。
「私じゃない。私にこんな力はない」
 そう言って舞は視線を、前方に投げ出す。それを見計らっていたかのように視線の先にある客室のドアが開いた。俺が泊まっていた部屋だ。
 そしてそれは同時に、天野美汐の部屋でもあった。
 その天野に続く様にして隣室のドアが開き、栞も顔を覗かせる。彼女は俺たち一団の姿を発見すると、あからさまに安堵の表情を見せ駆け寄ってきた。
「お姉ちゃん」
「栞――!」
 美坂姉妹は感極まった様に抱擁を交わす。二人とも、目に涙を溜めていた。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん! どうして一人でいっちゃったんですか。怖かったですう」
 栞は泣きながら香里の胸に縋っていた。相当怖い想いをしていたのだろう。それも無理はない。突然、銃声と悲鳴が響き渡り、気が付くと一緒にいたはずの姉の姿がない。その不安は想像するまでもなかった。
「ごめんね、栞。ごめんなさい。もう安心だから。ね、だからもう泣かないで」

「……相沢さん、それに皆さん。無事なようで何よりです」
 栞とは対極的に天野は落ち着いたものだった。テクテクと余裕の足取りで歩み寄ってくると、世間話でもするような口調で話しかけてくる。廊下に転がっている死体にもほとんど特別な感慨を抱いていないようだった。
「こっちの台詞だぜ、天野」
 その姿を見ることができて、酷く安心している自分に気付く。無意識の内に彼女を抱きしめようとしていたが、それはやり過ぎだと判断し肩に手を置くにとどめた。
「大丈夫だったか? 怪我は無いか」
「はい。大丈夫ですし、怪我は全くありません」天野は素っ気無く返してくる。
「……ったく。お前さんはこんなときにでも鉄仮面なんだな」
「あゆさんのように気絶した方が良かったですか?」
「ねえ、祐一。一体どうなってるの? 私たち、どうなっちゃうのかな」
 名雪が心配そうな顔つきで俺と天野の会話に割り込んできた。夜明け前だというのに彼女が起きていること自体驚異的な出来事であるが、場合が場合だけに驚いている暇は無い。
「俺が訊きたいくらいだよ。サイバードールだかベビィドールだか知らないけど、こんな奴等に命狙われる覚えなんぞないからな」

「命狙われる覚えならあるでしょう?」
 栞と合流してすっかり気を落ち着けた様子の香里が、いつもの冷めた口調で言った。
「例の <シリウスの瞳> の件を忘れたの? あたしたちは不本意ながらも国際的な窃盗事件のひとつを潰して、ウチの学校に潜入していた得体の知れない男の正体を暴いてしまったのよ。彼が所属する組織が証拠隠滅を図って私たちを消そうと考えるのは無理な話じゃないでしょう」
「はぇ〜。なんか、ハリウッド映画みたいな筋書きですね」
 別荘を滅茶苦茶に破壊された挙句、あやうく殺されかけたというのに佐祐理さんは結構余裕だ。
 保険にでも入ってたのかな。でも、凶悪犯に破壊された住居に保険は降りるのだろうか。謎だ。
「あり得ない話ではないですよ、倉田嬢」
 ボディガードの一人が言った。
「サイバードールというのは、とにかく殺しを楽しんでやっている連中です。見て御覧なさい」
 彼は、絶命してうつ伏せに倒れている鋼鉄の男を指差した。
「全身を銀色のボディ・アーマーで覆っているでしょう。自分の持っているTitanMan Model-20っていうアサルトベストは45マグナムを受け止め、アイスピックも通さないってのがウリですが、こいつは受け止めるんじゃない。跳ね返す。下にスペクトラ・パネルを三〇枚前後重ね、着弾時の衝撃を抑えるラミネート加工を加えて、更にその上に軽量チタニウム合金を被せた防弾スーツ。頭部には特殊部隊が使うものを改良したスペッシャーの防弾対破片ヘルメット」
 さらに、その指先はスライドして奴の右手に向かう。
「あの腕は肩から下は完全な機械です。肘から先は小型のガトリング砲になっていて、弾切れになると切り落せるようになっています。他にも身体中に武器を埋め込んでいる。反応速度を上げるために神経系を弄っているし、重量のある武器と自分の身体を支えるために骨をセラミックのフレームで補強し、培養した人工筋肉で筋力を強化しています。酷い奴になると頭部にハードウェアを埋めこんだり、眼球を赤外線や熱感知機能を持った人工のものに入れ替えているのもいる」
「M93RのAUTO9タイプを持たせたら、相沢さんの言う通りロボコップですね」
 ミッシーが何やらボソリと呟やいたが、俺には意味が分からなかった。

「なるほど。足の裏に、ローラーブレイドのようなものが取り付けてあるわ」
 地に伏したサイバードールを、香里は興味深そうに観察して、その所見を述べた。
 彼女の注目している脚部は、膝の下から下の方に向かってラッパ状に膨らんでいる。ガンダムに出てくるドムみたいだ。重い身体を支えなくてはならないし、色々なギミックを仕込んでいるから自然と足は太くて大きくなってしまうのだろう。
「これだけの装備を纏うとなると、総重量は軽く一五〇キロを超えてしまうでしょうから俊敏性が犠牲になる……それをカバーするために、強化した脚部に内蔵したモーターでローラーブレイドを回転させて直線移動を高速に行えるようにするわけですね。小回りは利かないけど、砲弾や爆弾の的になることは回避できる。私が聞いたモーターの駆動音は多分これだわ」
 香里の口調は何だか楽しげだ。
 理系のやつはこれだからいけない。技術的な話になると状況と人間的な感情を忘れちまう。
 対照的に、聞いているうちに気分が悪くなってきたのか、栞や佐祐理さんは口元を手で塞いでいた。かく言う俺も微かな吐き気を感じはじめている。
「それにしても信じられない。問題を解決するために装備を改良するんじゃなくて、自分の身体の方を改造するなんて。装備に身体を合わせる……発想が狂気的だわ」
「その通り。こいつらは車を改造して喜ぶ若者のように、自分の身体をカスタマイズして人間を超えた力を得ることに喜びを感じている。それが奴等の生き甲斐であり、最大の快楽。そして、その力を試せる場所と得物を絶えず探しているんです」
 俺を助けてくれたドイツ人女性のボディガードが言った。
「こいつらが仕事に思想や大義を掲げないのも当然ね。ただ改造した自分の身体と武器を試し、人を殺せればそれでいいんですから。逆に言えば、サイバードールは依頼がくればどんなものでも引き受ける。たとえそれが、あなたがたのような年端の行かない高校生程度の若者の抹殺であろうと」

「エリック、ヒルデ。説明はこの場を切り抜けてからゆっくりやろう」
 ガッチリとした体格の、いかにも退役した元軍人といった風貌のボディガードが言った。
 このイカツイ顔のおっさんが、どうやら鷹山さんがいないときの臨時リーダーといった存在らしい。雰囲気もそれっぽいし、皆も自然に彼の指示を待ってから動くようにしているような感じだ。
「川澄嬢の話だと一階にあと二人。外にも何人かいるようだ。……ですね?」
 舞はその問いにコクリと頷いて答えた。
「一階の奴が上がってこないところを見ると、川澄嬢が手負いにした仲間を外に運び出しているんだろう。少し時間が稼げたわけだ。今はその時間を最大限有効に使いたい」
「OK、ラルフ。それで、どうする?」
「選択肢はふたつだ。既に付近住民が通報しているだろうから直に警察が来る。それまでここで粘るか。或いはこの屋敷を捨てて外に出て逃げるかだ。倒すつもりなら、奴等は小回りが利かないからインドアの方が有利だ。ただし、こっちにはほとんど武装がない。逃げるにしてもこの大所帯だ。奴等もプロ、足になる車は最初に潰されているだろう。そうなると、この住宅街を舞台にしたハンティングゲームになることは必至。周囲にも被害が及ぶ」
「警察が来ても、奴等が喜ぶだけじゃないか?」
 ハンドガンを手に油断無く周囲を警戒しつつ、別のボディガードが言った。
「ガトリングに手榴弾、多分バズーカやらランチャーも持ってきてるはずだ。パトカーの二、三台来たところで、警官が降りてくる前に爆殺されるのがオチだ。SASでも駆り出してくれないと歯がたたんよ」
「シェフがいてくれれば、あんなヤツら瞬殺なんだが――」

 確かに鷹山さんがいてくれればどうにかなりそうな気もする。なんたらバリヤーだったか、あの光る結界はバズーカだろうと高性能爆薬だろうと破れないらしいからな。
「シェフとは連絡がつかないのよ。ここは私たちでやるしかないわ」
 アメリカ人の女性ボディガードが言う。女性スタッフは、彼女と俺を助けてくれたドイツ人の二人がいる。あとの4人は全員が男性だ。
「相手は一班から一分隊クラスとみていい。多分、五人から八人程度。更に、向こうはこちらの大まかな人数や兵力、武装を把握している。よって圧倒的にあちら側が有利。任務は目標の抹殺。これを条件とした時、お前たちがサイバードールの立場であったとしてどういう行動をとる?」
 仲間からラルフと呼ばれる、リーダー格のガードが言った。
「ヤツらの性格からして、あまり回りくどい行動はとらないでしょう。俺ならストレートにダイナミックエントリィでいきますよ」
「賛成。クロスオーヴァで一斉突入して、サーチアンドデストロイ」
 ヒルデさんが挙手して述べる。
「あの、そのダイナミックエントリィってなんですか?」
 水を差すことになるのを承知で訊いてみた。どうしても好奇心に勝てなかったのだ。
「凶悪犯が人質をとって建物に立て篭もった時なんかに、特殊部隊が建物に突入することがあるでしょう? その時に採用される最もスタンダードな突入作戦のことよ」
 ブロンドのアメリカ人ボディガードが答えてくれた。
「具体的には?」
「具体的には建物の出入り口や窓なんかにそれぞれ人員を配置し、合図と共に一斉に突入するの。その際、CSガス弾を撃ち込んだり、窓ガラスを割って閃光・音響手榴弾を投げ込んだりして敵を陽動し、隙を作るわ」
「さっきの奴らの突入も、その応用だ」別のボディガードが言った。
「外から一階を一斉射撃。注意を下の階に向けさせておいて本命は催涙弾を投げ込み、そのスキに乗じて二階から侵入。それが成功した瞬間、一階からも同時に突入。退路を断って一気に目標を殲滅する」

「川澄先輩がいなければ、それは恐らく成功していたでしょうね」香里が指摘した。
「その通りだ。ヤツら、想定していなかった敵の存在に今ごろ慌てふためいて体勢を立て直していることだろう。再突入が遅れて、我々がこんなにノンビリ作戦会議ができているのもそのおかげだ」
「――これ以上考えてもラチがあかない。仕方ないな、隊をふたつに割ろう。CQBに持ち込んで徹底交戦と見せかけ、隙を作りつつ非戦闘員を逃がす。どうだ?」
「俺はラルフに賛成だ。現状ではそれしかない」
「私も、賛成」
「よし、決定だ。残るのは俺とヘンリーとスコット。エリックは、援護するから一足先に出て足を探してくれ。レジーナとヒルデガルドは子供たちを守りつつ逃がせ」
「――了解」
「私も戦う」舞が一歩進み出て言った。
「断る」リーダーは即座に返す。「これは戦争だ。子供の出る幕じゃない」
「でも、有効な武器が無いなら私も戦うしかない」
「川澄嬢、何度も言わせないでくれ。これは戦争だ。確かに君の持つ不思議な力は大きな助けになる。そして、その勇気にも敬意を表する。だが君はあくまで非戦闘員として扱わせてもらう」
「……何故?」舞は納得がいかないのか、引き下がる気配を見せない。
「戦争とは、全体を生かすために個を殺すことを厭わない状況を言う。君を戦闘員として採用するとするなら、場合によっては、ここにいる皆を生かすために君に『死ね』と命じることもしなければならない。だが、我々にとてプロとしてのプライドがある。子供にそんな命令は下せん」
「そうよ。私たちはボディガード。あなたたちは、護られていればいいの」
 ボディガードたちは、口々に舞を諭そうとする。言葉は完全な拒絶であったが、そこには優しさがあった。無論、それが分からない舞ではない。
「……分かった」
 遂に、渋々といった感じではあったが、舞は折れた。
「でも、助けが必要な時はいつでも言って欲しい」
「ありがとう」
 リーダーは微笑んだ。だが、直ぐに表情を引き締めて宣言する。
「よし、やるぞ。総員戦闘配置。武器になるものは全て使って抗戦するぞ。過去、我々スリングウェシルがサイバードールと正面からの抗戦状態に陥った経験はない。よって、これが奴等との初の実戦となる。様々な戦術を可能な限り試してデータを集めたい。協力してくれ。無論、生きて帰るのが大前提だ。でないと、シェフにブッ殺されるぞ」
「了解」

 ――スリング、ウェシル?
 何故だかその聞き覚えの無い言葉が、気に掛かった。
 我々スリングウェシル、か。どうやら、鷹山さんやこのボディガードたちには何か隠し事があるらしい。裏の顔とでも言うべきところか。
 だが、今はそれを正面から問うべき時じゃない。俺はスリングウェシルという言葉を胸に刻み付けておくにとどめた。
「倉田嬢、厨房に料理用の油はありますか?」ボディガードが言った。
「え、あ、はい。ありますよ」
 唐突な質問に、佐祐理さんは少し狼狽した様子を見せた。それでなくても、意図の掴めない種の問いだ。非常時でなくとも、反応はさほど変わらなかっただろう。
「どのくらい?」
「いっぱいありますよー。お風呂を一杯にできるくらいは。地下に降りればもっと……あっ」
 突然、佐祐理さんは大きな目を更に大きく見開いて、叫びを上げた。
「どうしたんですか、倉田さん?」名雪が心配そうに彼女の顔を覗き込む。
「そういえば、あの地下は今ではワインを置く酒蔵になっていますが、元はソドミィ(同性愛。教会が強かった頃のイギリスは違反者を火刑に処すほどこれを厳しく禁じていた)の密会を隠すための秘密の地下室だったらしいんですよ。レンガで埋め立てられている場所を壊せば、外へ通じる古い地下通路に繋がるという話を聞いたことがあります」
「なるほど、昔からこの辺は金持ちの住む一角だったからな。金に物を言わせて変わった趣味の成金が色々やったわけだ。今回ばかりはその背徳の愛に感謝だな。古いレンガなら簡単に壊せる。そこから脱出できるかもしれない」
「よし、目処が立ってきた。取り敢えず一階に降りよう。大人数で一気に駆け抜けるのは無理だ。班をふたつに割る。レジーナと俺は残って援護する。ヘンリィとヒルデが先行、スコットとエリックは後ろに付け。非戦闘員は安全を確認した後、ボディガードの指示に従って行くんだ。……いいか、絶対に頭を上げるなよ!」



15 Oak Hill Way NW7 Hamsted
GMT San,23 July 2000 04:47 A.M.
現地時刻 7月23日 深夜04時47分 ハムステッド 佐祐理の別荘

 弾ける火薬の匂い。排出される薬莢が続々と床に零れ落ち、硬質の連続音を奏でる。
 止むことのない銃声で、既に耳は正常に機能していない。もう滅茶苦茶だ。
 一階に降りてみると、その惨状は目を覆うばかりだった。艶のあるフローリングの床は、無数の弾丸に穿たれ見る影もない。あたり一面にガラスや陶器の破片が散乱していて、一歩足を進めるたびにそれが靴底の下で弾けた。窓はその全てが完全に粉砕されていた。床一面にばら撒かれているガラス片は、完膚なきまでに割られ尽くした窓ガラスの慣れの果てなのだろう。支えるものを失った窓枠が何とも哀れだ。
「絶対に頭を上げるな! 指示に従って進むんだ」
 先に立って俺たちを先導するボディガードが、轟く銃声に負けないような大声で叫ぶ。俺たちは2班に分かれて、地下に下りる扉を目指してジリジリと前進していた。無論、サイバードールとかいう連中が、無闇矢鱈と弾幕をばら撒いてくれるおかげでなかなか先に進めない。ボディガードの人たちが援護射撃で隙を作ってくれる僅かな時間で、物影から物影へとゴキブリのようにカサカサと地を這って移動するので精一杯だ。
「栞、大丈夫か?」
 怖くて仕方がないのだろう、大きな目いっぱいに涙を溜めた栞に声をかける。彼女は言葉にならない悲鳴を上げながら、香里に縋り付くようにして震えていた。
 俺はふたつに別けられた班の内、後半の方にいる。もうひとつの班が先行し、俺たちはその後を追うといったような形だ。一緒にいるのは、俺、天野、美坂姉妹、そしてボディガード二人だ。あゆも居るには居るんだが、気を失っているため勘定には入らない。ボディガードに背負われて、何も知らないまま運ばれている。
「……ッ!?」
 恐らくサイバードールのものだろう。遠くから男の呻き声が聞こえてきた。同時に、ガラスが砕ける連続音。頭を上げないように注意しながら音の方向に視線をやると、何やらズブ濡れになった銀色のボディが見えた。その足元には、割れたダース単位の酒瓶が無数に転がっている。
「お酒って……」
 二階から、女性の声。そして、それと共に落ちてくるジッポのライター。それは緩やかな放物線を描き、酒を浴びせ掛けられたサイバードールの足元に落ちた。
 次の瞬間、微かな爆ぜるような音と共にヤツの身体が燃え上がる。
「グォオォォォオッ!」
「――度数が高いと燃えるのよ。ご存知?」
 のた打ち回る金属の身体を持ったバケモノと、抗戦のために二階に残った護衛の声。
 なるほど、銃弾が効かない装甲で身を守ってはいても、火に包まれてしまえば、呼吸困難と全身火傷のショック反応で人間は死ぬ。使える武器は何でも使うって言ってたけど、こういう意味か。佐祐理さんに料理用の油があるかを訊いたのも、きっと同じような理由からだろう。
「流石はレジーナだ。これで1体片付けたな」
 同じチームに属しているボディガードの一人が言った。奴らは10人もいない。一人ずつ個々に潰していけば、必ず勝機は見えてくる。火力で劣る分、トラップや奇策で勝負と言うわけだ。
 だが、味方一人がやられた程度じゃ連中も怯まない。相も変わらず、ガトリングやアサルトライフルをフルオートで発射し、ところ構わず弾丸をバラ撒いている。たまに手榴弾が飛んでくるので要注意だ。

 ――ボディガードたちが立てた作戦はこうだ。
 まず、非戦闘員を2班に分ける。そしてそれぞれの班に護衛を二人ずつ付け、サイバードールの猛攻を凌ぎながら一階にある地下室への入り口に向かう。残ったボディガードの二人は二階に残って奴等と抗戦。注意を引き付け、俺たちが地下室に行くまでの時間を稼ぐ。
 非戦闘員が無事に地下室に入ったら、今は使われていない地下道を通って外に脱出。地下道の入り口はレンガで塞がれているらしいが、これは簡単に破れるだろうとの話だ。
「ガトリングから、アサルトライフルに変えてきましたね」
 一歩間違えば死ぬという事態においてなお冷静な天野が、呟くようにしてきした。
 アサルトライフルっていうのは、たぶん機関銃のことだと思う。ハリウッド映画に出てくる特殊部隊の兵士が持っているような、両手で持つ大きなやつだな。ハンドガン――いわゆる拳銃は、一発撃つ度に引金(トリガー)を絞らなくちゃならないが、アサルトライフルは引きっぱなしにしていれば、マシンガンのように弾を連続して発射することができると聞く。
「ガトリングの欠点は、弾切れを止められないことだ。あれだけ撃ちまくればな」
 言った瞬間、俺たちの護衛についているボディガードが遮蔽物から身を乗り出し発砲する。勿論、連中を倒そうと云う攻撃ではなく弾幕を張って、移動の隙を作り出すのが目的だ。
「問題は、こっちの弾数にも限界があるってことだ。エリック、あとどれだけある?」
「マガジン2本。あと、リボルバーの22口径6カート」
「22なんて役に立つかよ」
 射撃の腕だけ見れば、サイバードールより俺たちの護衛の方が数倍上だ。奴等は物量に任せて撃ちまくるだけだが、こっちの兵士は一発一発を的確にヒットさせている。無駄弾は一発たりとも使わない。全てが計算尽くの行動だ。だけど、火力の差ってのは如何ともし難い。ガトリングが弾切れになったら、今度はアサルトライフルのフルオート掃射だ。歩く弾薬庫という表現は、そう大げさなものじゃないらしい。
 対照的に、こっちは装備がほとんどない。護身用として持ち込んだ、最低限度のものだ。最初から撃ち合いの戦闘に持ちこむつもりで用意してきた奴等とは、基本的に違い過ぎる。
「よし、移動するぞ。エリック、先に行け」
 射撃にも呼吸というものがある。連射していれば弾が無くなるから交換の必要も出てくるし、それでなくても相手との攻守のターンが入れ替わる瞬間というものがあるからな。撃って、隠れて、また撃つ。自然とそういう流れができるものらしい。
 ボディガードは相手の息継ぎの瞬間を狙って、遮蔽物から身体を出す。そして、援護射撃を開始した。
 まず、気を失ったあゆを背負うガードが先を走る。その後に間髪入れず俺と天野、そして美坂姉妹が続く。最後に、残ったボディガードが追いついて移動は完了だ。
 基本的にこの手順を繰り返しながら、俺たちはゆっくりと前進していく。目的となるのは、一階の西側にある地下への入り口だ。食堂とホールの間に挟まれるようにしてそれは存在するらしい。
 今俺たちがいるのは、階段から下りてすぐのホールだ。この別荘は、映画に出てくる洋館のような造りをしているから、それはつまりエントランスに相当する。両開きの玄関ドアがあって、外から入ってくるとそこは巨大な吹き抜けのホールになっているという寸法だ。正面に二階へと続く階段があり、その更に奥に食堂やキッチンに続くドアがある。

「名雪や秋子さんたちの班は大丈夫かな」
 先行する班は既にこのエントランスを抜け、西側のドアを潜り廊下に出ていった。廊下は北に向かって真っ直ぐ伸びていて、その左右にドアがついている。そこから、食堂や厨房などに入るわけだな。
「優秀な護衛もついていますし、川澄先輩もいます。大丈夫でしょう」
 天野が励ますように言ってくれた。他人の口から聞かされると、なんとなく落ち着くもんだ。本来、年上の俺が天野を励ますような立場にないといけないんだろうけどな。親父なら、こんな時どうするだろう。
「キャアアァァアッ!」
 機関銃を連射する怒涛のような連続音。同時に、栞が悲鳴を上げて頭を抱えた。
 遮蔽物としている柱が鉛の弾丸に穿たれ、細かい木片を散乱させる。迫り出した二階部分を支える円柱形の巨大な柱だが、何千発という弾丸を受けてもうボロボロだ。
「ヤバイっスよ。もう遮蔽物も限界だ」
 護衛たちはプロだ。言わなくても把握しているだろうが、言わずにはいられない。
「……ヒック……もう、嫌です。ヒック、お姉ちゃん。怖いですぅ」
 泣きながら訴える栞。その相貌は、もう涙でグチョグチョだ。身体を丸めて小動物のように震えながら、香里に縋っている。
 ドラマ好きの彼女も、実際に生きるか死ぬかの戦場に送り込まれるのはゴメンらしい。日常とは明らかに雰囲気を異にした、死と隣り合わせの空間。そこに漂う触れれば切れそうな程の緊張感は、それでなくても常人の精神を蝕んでいく。外の世界を知らない少女に耐えきれるものではないだろう。
 俺だって、過剰なまでに怯える栞を前にしているから自分を保っていられるものの、一人でこの場所に放り出されたら絶対パニック状態に陥ってしまうだろう。
「一番遮蔽物が少なく、一番広い空間がここだ。ここを乗り切れれば、何とかなる」
 栞を慰めるように護衛の一人が言う。彼の背中に抱えられたあゆは、今も気を失ったままだ。ハッキリ言ってこれは幸いだよな。ここであゆが覚醒してギャースカ騒がれたんじゃ、余計な手間がかかる。
生きるか死ぬかって時に泣いて蹲るしかできないタイプの人間は、本来切り捨てられるのが戦場での鉄則なんだろう。
 銃撃の勢いが衰えた瞬間、素早く身を乗り出しオートのハンドガンを連射。ボディガードたちは、なんとか移動の隙を作ろうとするが奴等はそれを許さない。一発撃てば、次の瞬間には100発の弾丸が俺たちの頭上に降り注いでくる。
「クソッ、火力が違い過ぎる」
 マガジンを交換しながら、護衛は吐き捨てた。ゴトリと重い音をたてて弾の無くなったマガジンが床に転がる。周囲には、鉛弾に削られた木片に混じり金色の薬莢が無数に散らばっている。
「予備のマガジンもこれがラストだぜ……」
 二階でも激しい銃撃戦が繰り広げられているらしい。催涙ガスの白い煙と、途切れることの無い銃声が先程から続いている。残った二人の護衛はまだ無事だろうか。ある意味、俺たちを逃すために囮になってくれている彼等が一番危険だ。
 小回りの利かない奴等が相手の屋内戦とはいえ、先程から散々悪態吐かれているように基本的な火力が違い過ぎる。弾だって無尽蔵じゃないんだ。
「仕方ない、俺が囮になる。エリック、お前はこの子たちをキッチリ連れて行けよ」
「スコット!?」
 あゆを背負った護衛は、相棒の言葉に目を見張る。俺にもその理由は分かった。
「こんな商売やってるんだ。いつかは順番回ってくることだろ?」
 スコットと呼ばれたアメリカ人は、唇の端を持ち上げた。
 アンダースローで投げられた手榴弾が地を滑るように飛んできた。信じられないことに、アメリカ人護衛はそれをハンドガンで正確に撃ち返した。弾かれた手榴弾は明後日の方向に飛んでいき、爆音を轟かせる。
「2歳だが俺の方が長生きだ。それに、お前にはレジーナがいる」
 二人の男の間で、視線が交錯する。言葉は無かったが、幾百の言葉に匹敵する意思は飛び交っていた。
「……分かった」
 しばらくの逡巡の後、あゆを抱えた男は苦々しく言った。それを見て、相棒は笑顔を見せる。
「よし、決まりだ。3でいくぞ」
 スライドを引き、彼はチャンバーに初弾を送り込む。次の呼吸の瞬間が勝負だ。

「いいか、君たち。合図と同時に全力で走れ。絶対迷うな。振り向くな。何も考えずにとにかく走れ」
 俺たちは頷く。今一番やっちゃいけないのは、囮になる人間の行為を無駄にすることだ。
「いくぞ。1、2、……3!」
 掛け声と同時に、彼は柱の影から飛び出した。雄叫びを上げながら、敵に突撃していく。左手にオートマティック、右手にリボルバー。手にした拳銃から放たれる銃声が木霊した。
 ほぼ同時に俺たちも行動を開始した。サイバードールの注意は、玉砕覚悟の護衛の行動に引き付けられている。その隙を狙って遮蔽物の陰から飛び出すと、一気に廊下へと続くドアに向かって走る。
 イチかバチかの賭けだった。
 走っている途中、後ろの方で拳銃の発砲音とは明らかに種類の違う銃声が響き渡った。声にならない男の呻き声。柔らかい何かを弾丸が穿つ特有の音。血の匂い。
 それが何であるか、何を意味するか、俺には分かったが分からないふりをした。ここで少しでも考えてしまったら、俺はきっと足を止めてしまうだろう。そして、もう動けなくなる。そんな気がしたからだ。
 頭の中で繰り返す。絶対迷うな。振り向くな。何も考えるな。今一番やっちゃいけないのは、囮になる人間の行為を無駄にすること。彼の言葉を忘れてしまうことだ。
 ――でも、現実ってのは残酷だ。
 結局、彼一人では囮としては不充分だったらしい。機械仕掛けの殺人狂たちは、囮を一瞬で片付けると直ぐに俺たちに攻撃目標を修正してきた。その銃撃を受けるより早く駆け抜けるには、あまりに距離があり過ぎ、ホールはあまりに広過ぎた。
 涙で視界を歪ませた栞が、恐怖と焦りで足を縺れさせる。それを支える香里共々、彼女たちは一瞬ではあるが足を止めてしまった。
 勿論、戦闘のプロフェッショナルはその刹那を見逃してくれるほど甘くはない。鈍く光る銀色のメタリック・ボディに身を包んだ男の一人が、そんな彼女たちにサブマシンガンの銃口を向けた。そして、そのトリガーは何の躊躇いもなく絞られる。

「――ッ!」

 誰もがその光景を見送るしかなかった。
 全ての音が遠ざかる。時の流れが緩慢になり、世界がスローモーションをかけた様に動きを止める。それは、人ひとりの命を奪うにはあまりにも軽く、あまりにも乾いた連続音だった。
 いや。皆が絶望に身を凍てつかせている間、一人だけその状況に対応した奴がいた。天野だ。
 俺のすぐ後ろを走っていた彼女は、美坂姉妹を庇うように銃口と姉妹を結ぶ直線上に身を滑り込ませた。発射された弾丸は、まずそんな彼女の右肩を抉った。
 血飛沫と共に、弾丸に穿たれた肉片が宙に散乱する。俺の頬に生温かい鮮血がバシャリと飛び掛った。
 続けて、2発。3発。6発、8発、そして9発……
 右胸、右の肺臓、そして心臓。弾丸が天野の身体に着弾する度、歪なダンスを踊る様に彼女の軽くて小さな身体が跳ね上がる。
 それは――それは、酷く現実感を損なった光景だった。
 あんなに撃たれたんじゃ、天野、死んじまう。
 馬鹿げた話だ。何発も、十何発も天野の身体に弾が撃ち込まれていく。心臓にも当たってる。血が飛び散って、肉片が宙を舞ってる。どう考えたって、あれは致命傷だ。
 だから、これはおかしい。そんなこと、あり得るわけない。天野は死なない。だから、これは現実じゃない。
 そのはずだ。間違いねぇよ。だって、天野はオバさんくさいやつだけど、でも普通の女子高生だし。弾丸に撃たれて死ぬなんて、だからあり得るはずないし。
 言うまでも無く、これはつまり、現実の出来事じゃない。天野が、死ぬわけない。
 死ぬわけ、ないから……。

 ガッ…! ガガガッ!

 なのに妙だ。銃声が、妙にリアルに聞こえる。弾が一発撃ちこまれるごとに、ビクリと跳ね上がる天野の体は質感充分。膝から崩れ落ちて、仰向けに倒れこんだ天野の口から溢れてくる――あの血、本物そっくりだ。
 おかしい。絶対、これは変だ。
 だって……。だってさ。
 ――そこで、俺の意識は途切れた。



GMT San,23 July 2000 04:56 A.M.
15 Oak Hill Way NW7 Hamsted
現地時刻 7月23日 深夜04時56分ハムステッド 佐祐理の別荘

 それは、壊れたマリオネットのダンスに見えた。
 乾いた銃声と共に、ビクリ、ビクリと跳ね上がる小さな身体。その度に深紅の鮮血が舞い、細かな肉片と共に私たち姉妹の頭上に降り注ぐ。それが目の前の――天野美汐という少女から生み出されているものだとは、到底信じることなどできなかった。
「こふっ……」
 喉の奥から微かに漏れる苦痛の呻き。ポタポタと紅い雫が、埃と木片に塗れた床に落下する。彼女は吊り上げる糸が切れたように、膝からカクリと崩れ落ちた。本当に、壊れた操り人形を見ているようだった。
 ペタリと床に座り込むように腰が落ち、最後にフラフラと上半身が後ろ向きに倒れてくる。ただ震える栞を抱き締めて庇うことしかできない、私のすぐ目の前に。
「ハ……ぅ、」
 口の端から、真っ赤な血の泡が吹き出してくる。とても――それはとても、現実の光景とは思えなかった。きっと、私は夢を見ているに違いない。恐らく、私の肉体はギグが終わった後、その疲れた身体を客室のベッドに横たえているんだわ。コンサートで程好く疲労したから、眠りがいつもより深くて、それで……だから、こんな妙にリアリティな夢を見ている。きっとそう。

 大体、馬鹿げてる。ナンセンスよ。こんな、いきなりワケの分からない連中が別荘を襲ってきて、それで命を狙われて、天野さんが……天野さんが、死ぬだなんて。あり得るわけないもの。ハリウッドのご都合主義の映画だって、もっとマシなシナリオ作るわよ。
 だけど――
「あぁあぁぁぁああああああああっ!」
 だけど、どうして、獣の咆哮を思わせるこの相沢君の悲鳴は、こんなにも心に痛いんだろう。これが夢なら、どうして血の匂いが止まないんだろう。どうして、こんな破滅的な夢を見ているんだろう。
 もう、何も考えられない。騎兵隊のように銀色の甲冑に身を包んだ男たちが、その狂気の銃口を私たちに向けてきても。感情を爆発させ、怒りに我を失った相沢君が、悲痛な叫び声を上げながらそれに向かって行くのを見ても、私はもう、何も感じることが出来なかった。
「……ァッ!」
 咆哮と共に、一陣の旋風が走る。それは人型をしていた。
 それは正常な思考を一時的に停止させている私にですら、無謀と理解できた。重火器の装備で固めた先頭集団に、まったくの丸腰の青年が正面から突撃していく。現実的に考えて、それは自殺行為にも等しい。
 実際、銀色と狂気の殺戮者たちは、その自殺志願者に向けて即座に銃口を向けた。だが、その顔には動揺と微かな恐怖がちらついている。相手は素手だ。それも、感情を暴走させ心神喪失状態に陥った素人の青二才。だけど、今の相沢祐一には得体の知れない何かが宿っていた。恐らく兵士としての直感が、それを感じ取っているのだろう。
 今の彼は、相沢祐一ではない。それは、ぼんやりとそれを見送る私にでさえ分かっていた。

 ――マズルフラッシュ。
 銀の巨兵たちが構える軍用突撃機関銃が、一斉に火を吹いた。あたりに爆音が連続して響き渡る。勿論、その標的として定められていたのは他ならぬ相沢祐一だった。音速を超えて発射される、絶大な殺傷能力を秘めた弾丸が数百という単位で彼に襲いかかる。
 私は新たにもう1つの死が生産される瞬間を、ただ呆然と見送るしかなかった。それが、美坂香里の精神に致命的かつ絶望的な痛みを与えるものだと知りながら、私はいつもの様にそれをただ見ていることしかできなかった。相沢祐一が死ぬ、その瞬間を――。
 だが、予測され得た悲劇は到来しなかった。相沢祐一は無数の弾丸に肉体を穿たれ、蜂の巣と表現される状況下に陥るはずだった。それは、絶対的な未来だった。しかし、その未来は覆されたのである。
 1番驚いているのは傍観者である我々ではなく、必殺の銃弾を放った彼ら銀の兵士たちだろう。
 アサルト・ライフルやサブマシンガンから発射された銃弾の雨は、少年に届く刹那、忽然と消え去った。いや、正確には消失したわけではない。弾丸が消え去る寸前、周囲に黒い霧のようなものが一時的に発生したのが見えた。その我が目を疑わないのであれば、恐らく鉛の弾丸は一瞬にして粉砕され、鉛粉となって四散したのだろう。
 しかし、あれではまるで、……まるで相沢祐一の存在に怯えた銃弾が、彼に挑むより寧ろ自害を選んだようだ――。

「能力名……」
 血の海に沈み、生死の狭間をさ迷う少女が掠れた声で呟いたような気がした。相沢祐一に絶えず着いて来た、あの存在の名を。数多の少女たちに訪れた、その名。
「奇、跡」
 そして、遂に相沢祐一の初撃が彼らに届いた。高速で繰り出される拳が、銀の男の1人に埋め込まれる。
「グフッ!」
 音速で発射される拳銃の弾丸さえ軽く跳ね返す銀の装甲。だが、彼の拳はそれを易々と歪曲させ、100kgを優に超えるであろうその巨体を粘土細工のように跳ね飛ばす。それが人間のものとはとても思えない――弾丸のような速度で男の体は宙を滑り、男は壁をブチ抜いて屋外へ消えていった。
 慌てた男たちが、常軌を逸した少年に向けて再び発砲する。だが、相沢祐一が獣のような唸り声と共に腕を一閃させた瞬間、それらの弾丸は突風に煽られた木の葉のように力を失い、見えない何かに翻弄された。軌道は大きく歪められ、尽く相沢祐一から反れていく。
 逆に、一瞬で間合いを詰められた銀の機械人形の顔に、彼の右手が牙を剥いた。まさに『喰らい付く』という表現がピッタリの凶暴性だ。野生の人食い虎が、獲物の頭部を食い千切るような勢いで襲いかかる。ミシミシと骨が軋みを上げる音が、距離のある私の耳にまで届いてきた。
 顔面を鷲掴みにされ、そのまま宙吊りにされた男は懸命にもがいて戒めを解こうとするが、人の領域を逸脱したその圧倒的な力の拘束は破れない。
 仲間を援護しようと残った3人の機械人形たちが少年に発砲するが、その弾丸は彼の一睨みによって宙で動きを止めた。カッと目を細めた瞬間、何十発という弾丸は、目に見えない壁にぶつかったように運動エネルギーを失う。そして数秒のタイムラグを置いて、力尽きたようにパラパラと地面に落下した。無論、相沢祐一に届いた弾丸は1発もない。
 彼はそのまま怒りに任せて吊り上げていた男の身体を投げ捨てた。無造作に腕を払ったに過ぎないが、銀色の巨体は凄まじい速度で吹っ飛んでいく。それは仲間の1人を巻き込み、壁に激突することでようやく止まった。意識を失ったか、或いは絶命したのか、崩れ落ちた男たちはもうピクリとも動かなかった。

「祐一!」
 異変を嗅ぎ付けたのであろう、似たような能力を持つ川澄先輩が駆け付けて来た。彼女は、先行する班に、名雪や倉田先輩と共に所属していたはず。わざわざ危険を承知で戻ってきたのだろうか。普段は表情を欠くその相貌も、今は困惑と驚愕に色濃く彩られている。幼馴染を呼ぶその声音も、かつて聞いたことがない程の声量だった。
 だが、我を忘れた相沢祐一に、彼女の声は届かなかった。彼は一瞬も動きを止めず、残った2人の敵に襲いかかっていく。
 もし彼が我を取り戻し、普段の平静な状態に戻ることがあったとして――
 果たして彼は、今この時の記憶を留めていることだろうか? 自分の行っていることを、覚えているだろうか。答えは否だろう。
 今の相沢祐一は、相沢祐一であって相沢祐一ではない。少なくとも、私は今の彼を知らない。名雪も、秋子さんも、そして恐らくは当の本人さえも、きっと知らない相沢祐一の姿なのだろう。一体、今の相沢祐一は何者なのか。
「祐一、もういい。もういい! もう、終わった」
 気付くと、動いている敵の姿はもう無かった。全部で4体。粉砕された装甲の破片を散乱させ、彼等は全員が血の海に沈んでいる。そして、天から最後の1体が降ってきた。それは轟音と共に地面に激突して沈黙する。
 頭上を見上げれば天井の一部が崩れ落ち、白々と明けはじめたハムステッドの空が覗いていた。恐らく、少年に頭上高く放り投げられ、天井を破って舞い上がり、そして落下してきたのだろう。
「ウオォォオォォォオオオォッ!」
 もう倒すべき敵はいない。それでも相沢君は泣きながら叫んでいた。焦点を失ったその目は、悲しく宙をさ迷っている。
「祐一。もう大丈夫だから。もう、終わったから……」
 暴れる彼の身体を川澄先輩は後ろから抱き締めて、必死に抑えつけようとしていた。
「……ゥッ……ウァ……」
 川澄先輩の必死の呼びかけが届いたのだろうか、風船から空気が抜けて萎びていくように、相沢祐一の身体が徐々にその力を失っていく。そのままガックリと彼は地に崩れ落ちた。興奮状態や心神喪失状態にあった者が、鎮静剤を投与されると似たような反応を示す。まるで取りついていた悪魔が払われたように、彼らは突然大人しくなり眠りに就くのだ。

「祐一、大丈夫」
 力尽きたような少年の身体を抱き支えながら、川澄先輩は彼に呼び掛ける。
「……ぅ、あ……」
 それに反応して微かな呻き声を上げると、彼は次の瞬間、いきなり覚醒した。バッと顔を上げると、忙しなく周囲に視線を走らせ、彼女の姿を探す。
「舞、俺は……! 天野はどうなった!? 天野!」
 彼は自分の身体を拘束する川澄先輩を振り払い、必死の形相でこちらに駆け寄ってきた。倒れた天野美汐の身体は、私たち姉妹の目の前に倒れている。血溜まりの中に。
「どけ! どいてくれ! 天野に触るな!」
 相沢君より早く駆け付け、天野さんの様子を見ようとしていた護衛たちを彼は怒鳴り声と共に払った。
 戦場で多くの戦友を看取ってきたのだろう。彼等の目に、天野美汐が受けた十発を超える弾丸のいずれもが致命傷となるに充分であることは歴然としていたに違いない。もはや手当てをしたところで手遅れと判断した彼等は、少年に大人しく彼女を譲った。
「天野! 天野、しっかりしてくれ」
 相沢君は、彼女の傍らに駆け寄ると優しく彼女を抱き起こした。
「……ぁ……相、沢さん」
 奇跡的に、彼女はまだ生きていた。普通、心臓を打たれれば即死か持ち堪えても直ぐに力尽きる。十発以上の弾丸をまともに食らいながら、それでなお未だに意識を保っていられるのは、だから奇跡としか言い様がなかった。
「よし、生きてるな。心配するな。直ぐに病院に連れていってやるから!」
「必要、ありません。自分の……身体のこと、くらい……自分で、分かります」
 喉の奥からようやく搾り出すようにして、彼女は言葉を紡ぐ。肺をやられているのだろう、時々声が正確な音にならずにヒューヒューと抜けていく。
「馬鹿言うな! お前は助かる! 絶対だ」
「相沢さん、……泣いて、る、んですか」
 止めど無く溢れ出すその涙は、ポタポタと彼女の頬に零れ落ち、こびり付いた鮮血を洗い流していく。
「私の、ためにナミ、ダを……流してくれ、ているの……です、ね」
「幾らでも泣く。幾らでも流す。だから死ぬな。頼む。お願いだ。死なないでくれ!」
 相沢君は彼女を抱きながら、懇願する。

「厭んだよ。もう、自分の好きな奴がいなくなっていくの。真琴1人だって、耐え切れないのに。お前なら分かるだろ。厭なんだ。耐えられないんだよ、もう、お前までいなくなったら。ずっと大切にするって誓ってたのに……」
「わた、しは……相沢さんの、大切なヒト、なのです……か」
「当たり前だ。当たり前だろが! だからいなくならないでくれ。俺のこと、全部やるから。俺の持ってる物全部やるから。だから」
 遂に、彼から嗚咽が漏れ出した。私は、駆け寄り私たち姉妹の安否を気遣うボディガードの言葉を聞き流しながら、その光景を見詰めていた。
「俺、お前がいなくなったら……、2度と会えなくなるなんてさ」
 相沢君は、血塗れの彼女を泣きながら抱き締めた。
「もう、ちょっと、そんなの耐えられないから」
「相沢さん……」
 抱き締められた時、一瞬だけ苦痛の表情を見せたが、彼女はそれでも微笑んだ。
「殿方にそこ、まで、慕われて、しまうとは……。女、冥利に尽きると云う、ものです。これは、責任を……取って貰わなければいけ、ませんね」
 途中、何度も咳き込みながらも、彼女は何とかそう言いのけた。
「そうだ。ちゃんと、責任取らせろ!」
「相沢さ、ん。1つ、お願いがあり、ます」
「なんだ!?」
「せめて、私の意識が、消えてしまう……前に、1度で良い、美汐、と」
 そしてまた、彼女は激しく咳き込む。口元から鮮血が零れた。
「オイ、もう喋るな」
「他の方は、みん、な名前で呼んでいるのに……私だけ、苗字とは、酷な話です」

「分かった。美汐、今度からは名前で呼ぶから。だから、死ぬな。な!?」
「相沢さん……」
 最後に、彼女はかつて見たことが無いほど、穏やかな微笑を見せた。
「ありがとう……ござい、ま……」
 そして、彼女はその動きを止めた。唐突に訪れる、完全な沈黙。
 コトリ……
 抱き上げた相沢君の腕の中、彼女の身体から力が消失する。その白くて細い腕がダラリと垂れ下がった。
「おい、天野?」
 蒼白になった相沢君は、慌てて彼女の身体を揺する。だがそれは、もう2度と動くことは無かった。
「冗談だろ? おい、天野」
 何度も、何度もその身体を揺する。でも、現実は変わらない。
「分かった、美汐って名前で呼ばないと返事しないつもりだな? オイ、美汐。ふざけてないで起きろ」
 だが、彼女から返事が返ることは無かった。その灯火は、もう消えてしまったから。
「天野ォ―――ッ!」
 うそ、よね……?
 だって、そんな、あり得ない。夢ならば、もうこれ以上の演出なんて必要無い。だからもう、目覚めさせて欲しい。そしてやっぱり夢だったと、思い知らせてほしい。
 でも、現実と云うのはいつも残酷で。こんな時のあたしの願いは、いつも叶えられることはなくて。私はやっぱり、奇跡を起こす力など持っていない。奇跡は、起こらないから奇跡。
 この世には、私たちを陥れようと虎視眈々と機会を窺っている明確な悪意があって。それらは予告も無しに、人が良さそうな顔をしてやってくる。いつだって、非日常は何の理由付けすら必要なく、私たちの前に顕在化するのだ。栞がいわれの無い病で命を狙われたように。天野美汐が心臓を撃ち抜かれたように。人が絶望の淵に追い込まれるのに、理由など必要無い。
 だけど、神よ。あなたがもし実在するならば、あまりに、これはあまりに――
「ああ、忘れるところでした」
 ムクリ。突如、天野さんは身体を起こした。

 死んでないし!?

「相沢さん、今のは正式な求婚ですよね? でしたら、こちらの書類に――」
 なんだか矢鱈と元気な手振りで懐を漁り、1枚の書類を取り出す。
「必要事項を記入の上、署名捺印をお願いします」
 バサリと広げられたその紙には、『婚姻届』の3文字が。しかも、天野さんの欄は記入済み。
「あま、の……?」
「あら、穴が開いてますね」
 まさに、起き上がった死体でも見たかのように呆ける相沢君を尻目に、天野さんは勝手に話を進める。
「どうやら、銃弾を受けて破れてしまったようです」
「天野さん、ちょっと失礼」
 私は栞をボディガードに預けると、彼女の傍らに屈みその服の胸元を開いた。弾丸で穴だらけになった上着の下。この人、もしかして――
「防弾、チョッキ……だな」
 後ろから見ていたボディガードの1人が、呆然と呟く。
「な、なぬ〜〜〜ッ!?」
 相沢君が素っ頓狂な叫びを上げる。まあ、それも無理はないけど。
「おい、天野。これは一体どういうことだ!?」
「どういうことだと言われましても、こういう、ことですが」
 命に別状はないらしいが、それでも喋り難そうにしている。天野さんがダメージを負って立てないのは、どうやら演技ではないようだ。
「でもお前、いつの間に防弾チョッキなんざ――」
「相沢さんに様子を見てくるよう指示した時、着替えると言ったでしょう」
 状況が掴めず混乱する相沢君をよそに、彼女は事も無げに応える。
「……あっ!?」

「わ、わかった。でも、天野は?」
「私はこれでも女性なんですよ。着替えや準備というものがあります」
「着替えって、お前」
 どうやら思い当たる節があったらしい。相沢君はハッと目を見開いて小さな叫びを上げる。
「じゃ、あの時、この事態を予測して防弾チョッキなんか着てたのか!?」
「備えあれば憂いなし、というやつです」
 サラリと天野さんは言う。まったく、この人には本当に適わないわ。役者が違うって感じ。
「ちょっと待て。そもそも、なんでお前が防弾着なんか持ってるんだよ?」
 それもあるけれど、寧ろ何故に『婚姻届』を常時携帯しているのかを私は問いたい。
「何を言ってるんです。相沢さんがくれたんでしょう」
「はぁ? 俺がやった……?」
 相沢君は小首を捻って不思議がるが、私はその瞬間、思い出した。
「そうか、あの時ね。あの、ダイヤモンド泥棒の時、相沢君が秋子さんに渡されたとか言って持ってきた」
「そうだ、これを渡しとかないと。……香里、天野、これを服の下に着てくれ」
「これを着るの?」
「ああ。それは、何故か秋子さんが持ってた。身の安全を守ってくれる一種の保険だそうだ」
「秋子さんが……?」
「――相沢さん。その秋子さんという方、失礼ですがご職業は何を?」
「さあ。俺も良くは知らないんだ。名雪も知らないらしいしな。謎だ」

「そうです。あの黒いシャツ。繊維の質を見た瞬間、それが防弾用の装備だと私は気付きました。だから秋子さんの職業が気になったわけなんですけどね」
「でも、お前……血が出てるじゃないか。怪我もしてるし、口からも血吐いてたし」
「当たり前です。彼等が撃って来たのが、拳銃の弾丸を発射するサブマシンガンじゃなければ死んでましたよ。このチョッキは、9mm弾を止めるのが精々のようですしね。それに、たとえ防げたにしても着弾時の衝撃は殺しきれません。肋骨を何本かやられたようです。それは、吐血もするというものですよ」
 確かにね。十何発も弾丸を正面から食らえば、内臓が圧迫されてカナリのダメージを負うはず。と言うより、幾ら防弾装備で固めていたとは言え10発以上の弾丸を受けて、それだけで済むものだろうか? 科学的に思考して疑問に思うが、しかし科学的に思考するなら観測によって得られた現象の証明を受け入れなくてはならない。
「骨が折れちまったのか!? 大丈夫なのか、美汐。苦しいか?」
 本当に怪我をしていると分かった瞬間、相沢君はまた慌て出した。慈しむように彼女の背をさする。
 それが単に友人のものとしてか、異性として、女性としてのものなのかは知らないが、相沢君は本当に天野さんを大切に想っているのが良く分かる。それこそ、宝物みたいに。
「命に、別状はないでしょう……。ただ、袖の部分に防弾効果は無かったので、2発程いただいてしまい、ました。おかげで右は肩から指先にかけての感覚があり、ません」
 天野さんは苦しそうに言った。肋骨をやられた多くの場合、呼吸が難しくなる。息を吸い吐きするだけで激痛が走るのだ。彼女も似たような苦痛に苛まされているのだろう。いや、殺傷能力が低いオーソドックスな拳銃弾とはいえ、それを10発以上その身に受けたのだ。ああして意識を保ち、言葉を紡ぐことができるだけで、彼女が超人的な精神力を持つ女性であることが証明される。

「天野……」
 相沢君はまた泣きそうな顔で、彼女の頬を撫でた。命に別状がないのが分かって安心した反面、彼女が重傷を負ったことが心配でたまらないのだろう。相沢君は、本当に天野さんを想っているようだ。
「天野、すぐに病院に連れていってやるからな。苦しいだろうけど、もう少し頑張ってくれな」
「問題ありません。弾は全部貫通していますから」
 アクション映画で人間が撃たれるシーンを良く見かけるけど、実際に銃撃を受けた場合、飛び散るのは血だけじゃない。弾丸に抉られた細かい肉の塊が弾け飛ぶことだってある。ピストルの弾の多くは、人体を撃ち抜くことではなく破壊することに重点を置くからだ。
「それに、先ほども言いました通り、病院に行く必要はありません。私の身体は……特別なんです。自分のことは、自分で1番、良く分かって、います……。そもそも、葛葉が『今、忙しい』などと言って面倒がらずに出てくれ、ば、あんな弾丸など……」
「馬鹿言うな! ピストルで撃たれて平気な奴がいるかよ!」
 相沢君は身動きできない天野さんをまた抱き締めた。
「頼むよ。お願いだから、もうこれ以上心配させないでくれ。好きな奴が目の前で怪我して倒れてるってのに、何もしないでいられるわけないだろ。お前が大事なんだ。銀行の預金残高よりお前が大事なんだよ。なくしたくない」
「幾らなんですか、……残高」
「264円だ。カードじゃおろせねーんだ」
 相沢君は泣いた。ある日は名雪にイチゴサンデーをたかられ、またある日は栞にアイスをたかられ、またある日は月宮さんにタイヤキをたかられ、またある日は川澄先輩に牛丼をたかられ。挙句、預金残高は小学生の小遣い以下ともなれば泣きたくもなるだろう。
「でも心配するな。郵便局の口座には幾らか残ってたはずだ。挙式の頭金くらいにはなる」
 相沢君は恋人がするように、天野さんの髪を何度も優しく撫でた。

「幾ら残ってるんですか、郵便局の方は」
「600円くらいだ。結局、カードじゃおろせねーんだ」
 因みに、それでは結婚費用の頭金にもならない。ミニ四駆(玩具のミニカー)だって買えないだろう。
「なんだか、私も泣きたくなってきました――」
 天野さんは微笑んだ。きっと私が彼女と同じ立場にあっても、同じように笑ったと思う。相沢祐一は相変わらずだけれど、彼が腕の中の人を本当に大切に想っているのが誰にでも分かるから。恐らく今の天野さんは、言葉にできないほどの幸福を感じているだろう。彼女だって、女の子だから。だから今、天野美汐と云う少女は、泣いてしまうほど嬉しいに違いない。
「それにしても、俺のミッシーをこんなにしやがって。奴等、絶対許せねえ」
 相沢君は天野さんの唇の血を、人差し指で拭いながら言った。吐き捨てるような厳しい口調だ。
「……あれ、そう言えば奴等はどうした。サイバードールは?」
 今更のように相沢君は周囲に視線を走らせる。そして、完全に伸されて地に横たわっている彼等を見て目を丸く見開いた。どうやら、先の暴走時の記憶は完全にフッ飛んでいるらしい。
「全滅か? 舞がやっつけたのか?」
 川澄先輩は、敢えて否定も肯定もしなかった。問いかける相沢君を見詰めたまま、複雑な表情を見せている。不意に視線を感じてその方向を見てみると、天野さんが人差し指を唇に当てて合図を送っていた。暴走のことは、相沢君には内緒にしておけということだろう。意図は分からないが、聡明な天野さんの判断だ。私は従うことに異論は無い。川澄先輩も、私と同じ結論に至ったらしい。
「さすが舞だな。魔剣の効果か」
 沈黙を肯定と受け取ったか、相沢君は勝手に自分なりの事実で事象を説明してしまったようだ。

「取り込み中のところ悪いが、問題無ければ予定通りここを離れましょう。まさかとは思うけど、他にも刺客がいる可能性もある。先行した班も、ほとんどがもう地下通路に入ったそうだし。こういう時だからこそ、当初の予定は崩さない方が良いわ」
 2階から降りて来た女性の護衛が言った。その背後で、もう1人の屈強な男が射殺された仲間の遺体を肩に担ぎ上げている。彼等は同僚を失った痛みを、少なくとも表には出していなかった。
「それに、申し訳ないが今彼女を999に任せるわけにはいかない」
 この国におけるスリーナインは、すなわちレスキューを意味する。消防、救急などを一括したナンバーだ。
「何故だ! 早く病院に連れていかないと、天野の命に関わる」
 納得のいかない相沢君は、天野さんを抱き上げた恰好のままボディガードたちに食らいついた。
「冷静になれ、少年。相手はプロだ。任務が失敗したとなれば、諦めるか第2の手段に訴えるかに素早く戦術を変えてくる。もし第2の手段を選択するとなれば、真っ先にマークされるのが病院だ。救急に任せて病院に運び込めば、狙ってくださいと獲物を提供することになる」
 ――なるほど。彼等はこういう時、そういう思考をするわけだ。
 確かに、怪我人が出れば病院に担ぎ込むのが普通の対応だ。それを見越して、病院をマークするのは確かに妥当な処置と言えるだろう。護衛たちの指摘は論理的で説得力がある。
「でもだな」だが、相沢祐一は理屈が通用する相手ではなかった。
 ロジカルでないというのは時として彼の大きな魅力となるが、この場合は致命的な短所として作用する。
 頭に血が上りやすい彼は、こういう時他人を巻き込んで事態を深刻化させる危険因子を孕んだ男だ。リーダーとしては些か資質に欠けると言わざるを得ない。だからこそ、私や天野さんのようなブレインが必要となるわけだけれど……

「ボディガードの方々の言う通りです」
 相沢君を諭すような口調で諌めたのは、他ならぬ天野さん本人だった。彼女は必死に自力でバランスを保とうとしながら、笑みを浮かべて見せる。
「何度も言いますが、私は大丈夫です。傷の治りが早い体質をしていますから。幸い、弾は貫通しています。安静にしていれば、自然治癒しますから」
「馬鹿言うな!」相沢君は取り合わない。「銃創を放置しておいたら悪化するだけだぞ」
 この場合、相沢君の方が常識的には正しい。ただし、天野さんが何の論理的・科学的根拠もないことを断言口調で言い切るとは思えないのも確かだ。彼女には常識では測れない何かがあるのかもしれない。
「祐一、彼女の言う通りにした方がいい」
 相沢君の背後から天野さんの顔を覗き込みつつ、川澄先輩が言った。良く分からないが、先輩と天野さんとの間には奇妙な信頼関係のようなものがあるみたいだ。
「お願いします、相沢さん。今は、私の言うことを信じてください」
 そう言えば、天野さんの口調が徐々に滑らかになってきているような気がするのは気のせいだろうか。先程までは呼吸をするにも難儀そうにしていたのに、今はその様子もない。顔からも苦しげな色が消えている。
「……分かった。ただし、少しでも悪化するような様子があれば、即座に病院に連れていくからな」
 渋々と言った様子で、相沢君は納得する。それだけ天野さんの容態が心配なのだろう。防弾装備を身に付けていたとは言え、3発も肩を撃ち抜かれているし出血も――
 そこまで考えて、私は驚愕した。相沢君に俗に言うお姫様だっこで抱きかかえられる彼女の肩。その出血が止まっているのだ。私は我が目を疑った。あれだけ流れていた血がもう引いてる。あれは、医学的に正しい止血処置をしなければ止まらない種の傷なのに。どうして?
 いや、この場合は快方に向かっているわけだからして、あたしは喜ぶべきなのかもしれない。だけど、それにしたって医学的見地からあり得ない事実だ。
 科学的に説明できない事実がそこにあるなら、考えられ得るパターンは3つ。観測が間違っていたか、結論に至るまでの仮説が誤っていたか、或いはそれが従来の科学法則に当て嵌まらない何かであるかだ。
 天野さんは一体、どれに当て嵌まるのだろう。……川澄先輩も、このことに気付いたからこそ、天野さんに逸早く賛同の意を示したのだろうか?
 いいえ、ちょっと待って。観測が間違っていた場合を除いては、天野さんが人間であることを否定する仮説に行きついてしまう。それこそあり得ないことだ。宇宙人じゃあるまいし。
 私は、何だか混乱してきていた。

 遠くから、レスキューのものだろうサイレンが聞こえてきた。銃声と爆音を聞きつけた付近住民が通報(999)したんでしょうね。イングランドのレスキューは結構レスポンスが遅いって聞くけれど、確かに襲撃を受けはじめてから結構時間が経っている。
「さあ、警察がくると厄介だ。見つかる前に脱出しよう」護衛の1人が言った。
 この別荘は倉田家所有のものだからして、後で何らかの形を以って取調べを受けることになるかもしれないけれど、今は確かに勘弁してもらいところ。サイバードールとの関連を聞かれるだなんて考えただけでも頭痛がしてくる。態勢を整えて、口裏を合わせることを考えても今は退いた方が賢明かもしれない。
 全員が頷き合うと、私たちは倉田先輩たちの後を追って地下道へ向かった。




■初出(神鳴の章)

19話「CYBER-DOLL」2002年05月19日
20話「Thuringwethil」2002年05月21日
21話「能力名“奇跡”」2002年05月28日

本作は上記の初出作品を加筆修正の上、著者が編集したものです。