GMTFri,21 July 2000 17:31 P.M.
15 Oak Hill Way NW7 Hamsted
7月21日午後5時31分 ハムステッド佐祐理の別荘

 旅人は、疲れている。そう、基本的に長旅というのは疲労を伴うものなのだ。
 増して、地球の裏側まで遥々海を渡っての旅となれば、その疲労も距離に比例して深まると言うもの。
 ご多分に漏れず、俺は疲労の極地にあった。なんでも良いから、今日はさっさと休みたい。
 そんな切実な願いとは裏腹に、難航を極めた部屋割り。それがようやく決定されたのは、佐祐理さんの別荘に到着してから、タップリ1時間以上経過してからのことだった。
「――で、あれだけ渋っていたにも関わらず、結局俺は天野と同室になったわけか」
 どういう心境の変化か、天野は俺と同じ部屋で寝泊りすることを最終的には承諾したらしい。
 なんでかな? まあ、この際理由は何でもいいか。これでようやく落ちつけるわけだし。
「女心とロンドンの空ってか。変わりやすいもんな、この国の天気」
 鷹山さんの部屋まで呼びにきた女の子たちと一緒に、早速二階の客室に荷物を運び込むことになった俺は、小さくそう呟く。
 すると、それを耳聡く聞きつけた香里がニジリ寄ってきた。
「可愛いじゃない。天野さんも女の子ってことね」
 天野本人に聞こえないように、彼女は俺の耳元で囁いた。
「ん、どういうことだ?」
 女の子だからこそ、俺と相部屋になりたくなかったのだと思うんだが。
 たとえば、それが名雪や舞であったなら、天野ほど嫌がりはしなかったと思う。名雪や舞、それからあゆは、多分――俺の自惚れな勘違いでなければ――相沢祐一に、それなりの好意を持ってくれている節があるからだ。
 無論、それは友人としてでもあるが、異性として恋愛対象としての好意を意味する。
 だが天野からは、名雪たちが俺に向けてくるものと、同種の視線を感じたことがない。 彼女は単純に、俺を友人としてしか考えていないように見えるのだが……。まあ、全く脈が無いかと言うと、そうでもないけど。
 名雪やあゆの様に、感情をストレートに表現する単純なヤツならまだしも、内向的で感情を露にしたがらない天野みたいなタイプは、とにかくその思考が読み難い。これは、俺が鈍感だとかそういうのではなく、万人に言えることだろう。

 だが、香里は天野を理解しているらしい。
「相沢君。アナタ、恋人と長続きしないでしょう?」と、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべながら言った。
「なんでだ?」俺は問う。
「女心が分かってないから」
「大きなお世話だよ。第一、俺は恋人なんか作った経験は無くてね」
「あら、そうなの。それは良かったわ」
 女は色んな種類の微笑を持っている。先程とは雰囲気の違う香里のその微笑みが、果たしてどんな種類に属するのか。残念ながら、俺にはまだ分からない。
「良かったって、それはどういう意味だ?」
「――言葉通りよ」そして、彼女はまた嫣然と微笑む。
 今度のは、流石に判別できた。『何も分かってない』と俺をからかって遊んでいる笑みだ。
 だが、どうせ訊いてもこれ以上ははぐらかされるだけ。そう判断した俺は、口を噤むことにする。
「私が思っていたより、結構、天野さんも乙女してるのね。ちょっと意外だわ」
「だから、一体何のことだよ? あいつは乙女って言うより、おばさんっぽいぞ」
 香里の言っている言葉自体が理解しきれない。多分、考えても無駄だ。俺はそう直感した。きっと、これは永遠に謎のままなのだろう。
「相沢さん、どうしたんですか? 部屋はこちらですよ」
 香里と話し込んでいた俺に、天野が怪訝そうな声を掛けて来る。足元には、紺色の大きな旅行鞄。彼女も年頃の女の子ということか、結構大きめだ。
「ああ、スマン。今行くよ」
 俺はスーツケースのグリップを握り直すと、この国にいる間、寝泊りすることになる部屋に向かった。入り口前の廊下で、天野がドアを開いて待ってくれている。
「じゃあな、香里」
「ええ。ディナーでね」

 ――二階には、全部で7つの部屋がある。
 その内、6つまでが客室。二人ずつの相部屋になっているから、ホテルで言えばツインのスイートに相当するだろう。まだ中は見てないが、佐祐理さんの別荘だ。きっと豪華絢爛な造りをしているに違いない。
 さっきまで鷹山さんの部屋にいたから、その予想は容易につく。
 残るもうひとつの部屋は、遊戯室になっている。
 階段を上り切った真向かいにあるので、チョット覗いて見たが、これが結構広い。
 部屋の中央にビリヤードの台が3つ、左の壁際にブリッジ(カード)用のテーブルセットが5つ。
 そして右側の壁沿いに、カクテルの並んだバーがある。
 入り口向かいには大きなガラス製のドアがついていて、そこからバルコニーに出られるようになっているようだった。いずれにせよ、かなり本格的な造りである。
 夜はきっと、皆がここに集まってワイワイやることになるんだろう。夏の間ずっとここにいるわけだから、その機会もきっと幾度かはあるに違いない。

「思っていたより、随分と良い部屋ですね」
 部屋に入ると、天野は開口一番そう言った。勿論、俺も彼女と同じ感想を抱いている。
 予想していた通り、部屋の造りは鷹山さんが使っている部屋とほとんど同じだった。が、グレードは少しこちらが上だろうか。幾分、俺と天野の部屋の方が広いように思える。内装も豪華だし、細々としたものが色々と揃えられていた。
「ミッシーはどっちのベッドにする? 俺は一緒でも全然構わないけど」
 寝室に入ると、重いスーツケースを床に下ろしながら訊いた。
 ベッドは、少しの間を挟んでふたつ綺麗に並んでいる。セミ・ダブルほどのサイズはある大きなものだから、細身の天野が相手なら充分並んで眠れるはずだ。無理なら上下に重なって眠れば良い。……フッ。
「今、なにやら貞操の危機を感じましたが――とにかく、相沢さんが使わない方であれば私はどちらでも結構です」と、天野はいたってクールに返してくる。
 せめて、チョッピリ頬を赤らめるくらいのサービスは付けて欲しいものだ。香里はさっき、天野が俺を異性として意識しているという節のことを口走っていたが、この反応を見る限りとてもそうは思えない。

「んじゃ、俺右側な。……とうっ」
 宣言し、早速ベッドへ身体を投げる。着地の瞬間、柔らかなマットレスがバイーンと俺を弾いた。いやあ、実に柔らかくて快適だ。トランポリンの要領で遊べる。
「子供ですか、あなたは」
 ぼい〜ん、ばい〜んと宙を美しく舞う俺に、美汐は呆れたような視線を送ってくる。
「ん、どうした。ミッシー。一緒にやりたいのか?」
「そう見えますか?」
 相変わらず冷たい視線を投げかけてくるミッシー。
「ウーム。見えないこともないな」
 確かに真琴じゃあるまいし、ベッドの上で元気に飛び跳ねるというのは天野のキャラクターじゃない。
 だが、だからこそ、それに憧れるというのはあり得ることだ。フィクションが現実性を求め、ノンフィクションがファンタシーを求めるように。今の自分から脱皮し、未知の世界に向かって羽ばたきたい。今までに無かった自分に変身してみたい。
 これは人間として、実にナチュラルな欲求である。

「よし。そうと決まれば一緒に楽しもうぜ、天野っち!
 クール&ビューティの殻を破り、新たな自分に目覚めるんだ。昨日まで自分にここでサヨナラ言おうぜ。さあ、共に未知の世界へ羽ばたこう。ヘイ、カモン!ミッシー!」
 俺は歯を無意味に光らせながらパンと手を打ち鳴らし、そのまま両手を広げて彼女を招く。
 だが、ミッシーは相変わらず冷ややかな目をこちらに向けるだけで全くの無反応。
 何故だろうか。発音が悪かったのだろうか。
 やはりここは英語発祥の地、イングランド。並みの発音では振り向いてもらえないのかもれしない。よーし、ならば――
「さあ、共に未知の世界へ羽ばたこう。ヘイ、カマーン。ミッスィー!」
 ――完璧だ。ハッキリ言って、もはや現地の人間と比較しても遜色ない。
 クイーン・オブ・クイーンズ・イングリッシュ。まさに英語の中の英語とも言えそうな発音である。自分で自分が怖い。怖いくらいなのだが……
 考えられ得る限りほとんどパーフェクトと表現しても過言で無い俺のイングリッシュを前にしても、天野の絶対零度を思わせる目線は氷解しない。
 何故だ。俺に一体何が足りないというのだろう。
 まだ発音が悪いというのか。至高を越えて、究極になれというのだろうか。そうなのだろうか。
 上等じゃねえか。やってやる。お前にも、本物の究極ってやつを教えてやるよ。
 いくぜ、天野。しかと聞くがいい。俺の熱いビートをよ――
「さあ、共に未知の世界へ羽ばたこう。ヘイ、カムァーン。ムゥウィットゥスゥィー!」

 ――それは、既に原型を留めていなかった。



GMT Fri,21 July 2000 22:21 P.M.
同日 午後10時21分 佐祐理の別荘二階 遊戯室

 これは、UKに行ったことのある日本人なら口を揃えて主張することなのだが、イングランドの料理はあまり美味くない。……いや、俺らしくハッキリ言おう。不味い。
 迂闊にスーパーで缶詰なんかを買ってきて、それを期待と共に口に放り込むような無謀な真似をすれば、そいつはきっと自分の浅はかさを大いに後悔することになるだろう。
 どうも、日本人の口には合わないんだよな。こっちの料理ってのは。
 だから、イングランドにある日本料理店が、観光に来た日本人で賑わうって話にも頷けるものがある。
 元々、長く外国にいると祖国の素朴なメニューが恋しくなるのは良くあることだし、その国の食事が口に合わないのなら尚更その傾向は強まることだろう。
 まだ中学生の頃、夏休みを利用してUKの農村にホームステイしにきた日本人の女の子と偶然知り合う機会に恵まれたのだが、彼女はトランク一杯に、携帯用食品――カロリーメイトを詰め込んできて、それをいつも齧っていたくらいだ。ま、あれは極端な例なんだろうけど。

 そんなわけで、食事に関しては過剰な期待はせず、むしろハズレを覚悟してすらいたのだが、予想に反して、佐祐理さんの別荘で振舞われた最初のディナーは最高に美味いものだった。
 まあ、作ったのは佐祐理さんを筆頭とするAMSお料理大好き部隊だったし、それに秋子さんも応援に加わったから不味くなるはずはない。
 なんとなく家事が似合わないイメージのある鷹山さんも、そして俺も、夏休みにキャンプに出かけた学生よろしく全員でやる食事の支度に加わったこともあって、夕餉の席はいつも以上に盛り上がった。
 程好く腹が膨れたところで、今度は二階の遊戯室に集まりイングランドで最初の夜を優雅に過ごすことになった。良いのだろうか、こんな贅沢。
 まあ、この夏の間だけ許されることだし、折角だから満喫しないと勿体無いかな。……この『せっかくだから』とか『勿体無い』というフレーズに、俺に染みついている貧乏性が窺えるような気がするが。

 遊戯室にはAMSの面々ばかりでなく、護衛の人たちも集まっていた。今回は彼等にとっても仕事抜きのバカンスだ。当然の権利である。
 彼等は主にビリヤードとブリッジを楽しんでいるようだった。バーでカクテルを飲んでいる人もいる。
 お、珍しいスコッチがあるな。後でいただいてみよう。俺はあと数日で満18歳を迎えるから、飲酒は法的に許されても良いはず。こっちは、18から飲めるからな。
 ひとつ気になったのは、鷹山さんの姿は見えないことだった。
 恐らく、まだ自室で仕事を続けているのだろう。なんだか昼間あったときも忙しそうだったし。
 明後日から単独行動をとって何処かに行くとか言ってたから、その準備で大変なのかもしれない。まあ、人には其々プライベートな事情ってのがあるもんだし、夜は特にそれが強調されるべきだ。俺が首を突っ込むような問題ではない。
「ねえねえ、祐一君。トランプしよう」
 部屋でシャワーを浴びてから一足遅れて遊戯室に足を踏み入れた俺を、目聡く発見したあゆが嬉しそうな顔をして駆け寄ってきた。
「トランプねえ」見ると、あゆの手にはファンシーなトランプが握られていた。
「やりましょう、やりましょう。大富豪がいいです」
 あゆに少し遅れて寄って来たのは栞だ。どうやら、彼女も参加するらしい。

「他の連中はどうしてるんだ?」
「香里ちゃんと美汐ちゃんは、なんか良く分からないことやってるよ」
「良く分からないこと?」あゆの返事が要領を得ないので、仕方なく彼女たちの姿を探してみる。
 彼女たちはテーブル席に向かい合って座り、紅茶を飲んでいた。香里はカバー付きの文庫本を広げているが、美汐は紅茶のカップ以外なにも持っていない。
「ふたりで茶ァしばいとるだけやないかい。あれのどこかわけ分からんちゅうんや」
「何故いきなり似非関西弁なのかは不明ですが、ワケが分からないのは二人がなにかゲームをやってるみたいだからなんですよ」栞が横から言った。
「ゲーム?」
 少なくとも、彼女たちはカードを広げているようには見えなかった。勿論、ビリヤードをやっているようにも見えない。そう見えるんなら、俺は即刻眼科か精神病院いきだ。
「ホラ、よく将棋のプロの人が、頭の中だけで将棋をやってたりするじゃないですか。盤も駒もなしで」
「ああ、記憶力だけでやるやつな」
 どうやったらあんな真似ができるのかは分からないが、確かにそういう方法で将棋をやる人間の存在は知っている。TVなんかでも時々見かけたりするものだ。
「それに似たことをやってるんだよ」あゆはUFOでも見たかのような調子で言った。
「五の17とか、テンゲンとかコモクとか、なんか難しいこと言ってたけど」

「――そりゃ、目隠し碁じゃねえか」
「碁って、囲碁のことですか?」あまり良くは知らないのだろう。栞が自信なさそうに言う。
 あゆにいたっては、囲碁の存在すら知らないようだった。
「多分そうだ。天元や小目ってのは、確か基本的な囲碁用語だったと思う。あと布石とかな」
 がしかし、十九路盤の目隠し碁は熟練者でも難しいと言われているはず。将棋やチェスとは違って、碁盤の目が多過ぎるからだ。まあでも、あの二人の頭脳を以ってすれば或いは可能かもしれないが。
「しかし、なんてシルバーなことやってんだ。きっと、天野が誘ったに違いない」
 囲碁といえば、盆栽、ゲートボールと並んで年寄りの代名詞となっている――ように思う。
 思いっきり偏見だが、そういうイメージが一般に浸透しているのは否定しようのない事実だ。同様に、AMSの内部に限定すれば、盆栽や囲碁や番茶が似合うのは天野美汐と相場は決まっている――ように思う。
 思いっきり偏見だが、そういうイメージが俺に根付いているのは否定しようのない事実だ。
「で舞と佐祐理さんは?」
「バルコニーにいるよ。二人でお話してたみたい」あゆはニッコリ言うと、俺の服の袖を引っ張った。
「ねえねえ、祐一君。ババ抜きしようよう」
「ババ抜きかい。海を越えてイングランドにやってきておいて、やることはコタツでミカン食いながらやることと変わってないとは。……所詮、お前はあゆあゆ止まりよな」

「うぐぅ。だって、ボク神経衰弱やると本当に衰弱しちゃうし。後は7並べくらいしか知らないけど、7並べは祐一君が意地悪するから嫌いだもん」
「馬鹿者」膨れるあゆの頭を、軽く小突く。「持っていても敢えて出さないというのは、戦略に他ならない。つまり、立派な技術なのだ。決して意地悪ではない」
「うぐぅ……」あゆは納得いかないらしく、フグのように頬を膨らませていた。
「秋子さんは? この時間だと、名雪に関しては聞くまでもないが……」
「秋子さんは、夕食の途中で夢の世界に旅立ってしまった名雪さんを、部屋に連れていかれましたよ」
 名雪の目が横線になったラヴリィな寝顔を思い出したか、栞はクスリと笑う。
「そっか。じゃあ、名雪のことは秋子さんに任せておけば安心だな。喜べ、あゆ。俺が直々にトランプの相手をしてやろう」
「大富豪やりましょう。大富豪。革命を落として、愚民どもを極貧のどん底に陥れてやるのです!」
 なにやら、異様にハッスルしている栞が鼻息も荒く言った。こいつは可愛い顔して、勝ち負けがハッキリ出る勝負となると、死ぬほどえげつない手をイロイロと駆使してくるタイプだ。侮れない。
「分かった分かった。まあ、そう熱くなるなよ。慌てなくてもトランプは逃げないから」
 相も変わらずお子様なあゆと栞を従え、俺はカード用の空きテーブルに向かい、ドッシリと腰を落ち着ける。
「さあ、流離の賭博士と呼ばれた相沢祐一が、身包み剥いでやるぜ!」

 ――二時間後。
「うぐぅ。イキナリどうしていいのか分からないよ……」
 覚えたてのポーカーを途惑いがちな手付きで進めるあゆが、困惑したように呟いた。自分の手札をじっと見詰めて、ポヨポヨの眉毛をハの字にしかめている。
「はぁ?」
 カードが配られて、まだ一巡目だ。どうやら、こいつはまだルールを飲み込めてないらしい。
「ボク、新しくカードを取ってもどうしていいのか分からなくて」
 たかがカードゲーム如きで、あゆは半分泣きそうな顔をしている。
「あゆさん、ちょっとカードを見せてくれませんか?」
「うぐぅ」栞の要請に、あゆはバカ正直に手持ちの札をテーブルに開けた。
 俺と栞は綺麗に並べられた五枚のカードをそろって覗きこむ。
「……って、ストレート・フラッシュやないかい!」
 信じられないことに、あゆのカードは9から始まるダイヤの連番が完成されていた。
 恐ろしい話だ。最初に配られた札で、いきなりストレート・フラッシュなんぞ作られたら、技術も駆け引きもあったものではない。
「確かに、捨てるカードがないと言うのも頷ける話です」
 そう呟く栞も、俺同様呆然とした表情をしていた。

「ぐはっ。身包み剥がされた――」
 理不尽を嘆きながら、キングのワンペアが出来あがっていた手札を放り出す。気分は、ガチガチの本命を逃したレースのハズレ馬券をばら撒く時のそれだ。……競馬、やったことないけど。
「うぐぅ。良く分からないけど、これで祐一君にタイヤキいっぱい奢ってもらえるんだね」
 俺とは対照的にホコホコ顔のあゆが、更に鬱になるようなことを言い出す。
「ちくしょう。誰だ、賭けポーカーやろうだなんて言い出したやつは」
「祐一さんです」栞に痛恨の突っ込みを入れられ、俺は完膚なきまでに叩きのめされた。
 このポーカーは俺が『おごり回避権』、栞が『アイス奢ってもらう権』、あゆが『タイヤキ奢ってもらう権』と書いたチケットをそれぞれ10枚作り、それを賭けて勝負するというものだった。
 勝った者が、相手の権利を剥奪することができるというシステムである。
 あゆが今決めたストレート・フラッシュで、俺は自分の持つ『おごり回避権』を全て奪われ、あゆが持つ『タイヤキ奢ってもらう権』×7から逃れる術を失った。つまり、帰国したら彼女に7つものタイヤキを奢らなければならないことになる。
「はう……。こいつ、ニッコリ笑って人の身包み剥いでいきやがって」
 罪のない笑顔と信じられない程の強運で、俺を破滅に追いやってくれたあゆを睨みつける。
「ビギナーズ・ラックの範囲を超えてるぞ。お前、天使でも味方につけてんじゃないだろな?」
「うぐぅ。たまたまだよ。ボク、ポーカーってやるのはじめてだったし」
 そのはじめての奴に、ケチョンケチョンにやられてK.O.された俺は一体何なのだろう。
「うぅ……。ちょっと夜風に当たってきます」
 不意に人生について考えたくなった俺は、席を立ってバルコニーへ向かった。

 この別荘には、かなり洒落た感じのそういう場所がある。
 映画の中で、麗しのレディがパーティの喧騒から離れ、夜風に当たって酔いを覚ますのに使うような場所だ。少なくとも、あゆや栞には似合いそうも無い、アダルティな雰囲気がある粋な空間であることは確かだ。俺でも多分、独りだと浮くだろう。最低でも香里クラスの色気みたいなのが無いと、きついものがある。
「――あれ、珍しい取り合わせだな」
 そのバルコニーへと続く洒落たデザインのガラス張りのドアを開けると、そこには先客がいた。
 外見、特にプロポーションにおいては対極的な二人。天野美汐と川澄舞である。
 二人は言葉を交わすことなく、静かに景色を眺めていたようだった。
 白くドッシリとした大理石の手摺には、天野が持ち込んだらしいカクテルグラスが置かれている。でも多分、真面目な天野だからして中身はきっとノンアルコール・カクテルか、ジュースだ。流石の彼女でも、カクテルグラスで番茶という展開だけは無いだろう。そう祈りたい。
「相沢さん」
 天野は俺の登場に少し驚いたようだったが、すぐに平静を取り戻して言った。
「偶然ですよ。先程まで、倉田先輩がおられましたし」
 舞も振り返って俺を一瞥したが、それも一瞬のことで、また視線をロンドンの夜空に戻した。
「邪魔じゃなかったか?」二人の間に入り込むようにして並び立ちながら、天野に問う。
「いえ」手摺においてあったカクテル・グラスをどかし、彼女は俺にスペースを譲ってくれた。

「当ててみよう。サラトガクーラ?」
「正解です」ミッシーは、目を細めて微かにグラスを揺らして見せた。
 サラトガクーラは、ライムジュースとジンジャーエール、それにシュガーシロップだけを使った代表的なノンアルコール・カクテルだ。
 甘いものが多いノンアルコールの中で、俺でも唯一飲めそうなタイプだから祐一データベースにもしっかり記録してあったというわけだ。
 もちろんジュースなんだから未成年者でも飲めるし、結構夏に似合うやつだから、彼女の選択は決して間違いじゃないと思う。
「――そう言えば、香里との勝負はどうなったミッスィー?」
 ロンドンの夜風は少し肌寒かったが、緑に囲まれた閑静なハムステッドの夜景には、何か癒されるような不思議な美しさを感じた。
「その無駄に発音の良い呼び方、是非ともやめてください」天野は鋭く目を細めて俺を睨む。
「囲碁のことなら、込みを入れて9目半差で私の勝ちです」
「良い勝負だったみたいだな」
「はい。中押しで勝てなかったこと自体、久しくなかったものですから。先輩には感謝しています」

「で、舞は何をしてたんだ?」
 右隣の舞にも声をかける。普段から寡黙な天野と舞とでは会話も弾むことはないだろう。二人並んで静かに景色を眺めるに終始することになるのは目に見えている。
「星を見ていた」舞は夜空に視線を固定したまま、ぶっきらぼうに言った。「私は、日本から出たのは初めてだから」
「何か発見はあったか?」
「……あった」コクンと頷きながら、舞は言った。
「ほう。何を発見した?」
 はじめて海外にやってきた彼女が何を感じたのか。大いに関心ある話だ。
 特に、常人とはちょっと違う感性を持った舞だ。きっと俺とは違うものを見て、違う感慨を抱くに違いない。左を横目で見ると、天野も舞の反応に興味があるらしく、俺たちの遣り取りに耳を傾けているようだった。
「月は、いつもそこにある」
 舞はただそう告げた。どこかで聞いたような言葉だ。格言かなんかだっけ。
 まあ何にせよ、俺にはその言葉の意味が良く理解できなかった。だから、しばらく考えてみた。
 そう言えば、この地球上の何処からでも月は見える。国が違っても、文化が違っても、気候や緯度経度が違っても、やっぱり月は見える。
 そんなことくらい考えなくても想像がつくわけだが、実際に見知った場所を離れてそれを実感すると、またそれは別の意味を持ってくるのかもしれない。――俺には良く分からなかったが、舞はきっと、そこに言い知れない何かを感じ取ったのだろう。彼女は、とても感受性が高い人間なのだから。

「そうか」
 結局、俺はそんな言葉しか返せなかった。
「天野、まだここにいるのか? 俺はそろそろ部屋に戻って休もうと思ってるんだけど」
「そうですね。もうしばらくいるつもりです」天野は何故か横目で舞を見ながら言った。
「相沢さんは先に戻っていて下さい。多分、一〇分ほどで戻ると思いますから」
「分かった。じゃな、舞。お休み」
 俺は舞にも挨拶すると踵を返して部屋に戻った。なんだかんだと今日は疲れていた。多分、ベッドに身体を横たえた瞬間、すぐに眠りは訪れるだろう。
 だがこの時、俺は居残って天野と舞との間で交わされる話の内容に耳を傾けておくべきだったのかもしれない。無論、俺が場を外したからこそ、その密談が行われたことは事実であるわけだが――
 二人のその会話は、それだけ相沢祐一という人間にとって非常に深い意味のあるものだったのだ。



15 Oak Hill Way NW7 Hamsted
GMTSat,22 July 2000 12:11 P.M.
7月22日午後12時11分 ハムステッド佐祐理の別荘一階大食堂

 ――翌日、ロンドン第2日目。当初の予定では、我々AMSのメンバーは早速ロンドンへ観光に繰り出し、初めての海外旅行を満喫するはずだった。夏休み中はこの国に滞在する予定であるわけだから別に慌てる必要はないのだけれど、何しろ私を含めてイングランドは全く初めてだというメンバーがほとんど。そんな人間に好奇心を抑えろと言うのが土台無理な話である。
 そんなわけで、私たちは前日の夜の内から見所満載のロンドンの町に思いを馳せ、見物ルートのプログラムに余念が無かったわけである。……わけであるのだが、その計画の全ては、朝一番に聞いた相沢君の「今日の昼、客が来ることになったから」という一言で、いきなり水泡に帰した。
 もちろん、観光計画を早速台無しにされた乙女たちが、この暴挙を黙って受け入れるわけが無い。だが、最初は栞を筆頭にブーブーと不平を垂れていた私たちであったものの、実際にその客人と顔を合わせる段に至って、それが観光どころの話ではないことに気付いた。
 たとえエリザベス女王がやってきたといっても、ここまで私たちが興奮することは無かっただろう。今、別荘一階の大食堂で私たちと向き合っている客人と言うのは、考えられ得る限り最高のビッグネームだった。少なくとも、私たちAMSにとっては。
「……んじゃ、紹介しよう」
 秋子さんと名雪をを除けば、唯一客人と私たちの両方に面識のある相沢君が、口を開いた。それと共に、私たちAMSの面々は、向かい合って立つ二人の男女に改めて視線を向ける。同様に、彼等も私たちを興味深そうに観察していた。
 どうしてだろう。ただそれだけのことだと言うのに、緊張で胸が高鳴ってきた。私としては非情に稀なケースだ。自分の過剰な反応に戸惑う。
「まず、こいつがナユキビッチ・イチゴスキー」
 相沢君は、眠ったまま立っている名雪の肩を軽く叩くと言った。
「うー。イチゴ好きだおー」目を横線にしたまま、名雪が微妙な反応を見せる。
「ふむ。名前から察するにロシア系か。ともあれ、よろしくなナユキビッチ君」
 私たちと向かい合う二人組みの内、男性の方が愛想良く笑う。彼の言葉は、完璧な日本語だった。
「あなた。その娘(こ)、名雪ちゃんよ」
「え。名雪? 誰だっけか」男性は、傍らの若い女性に訊き返す。
「秋子の一人娘よ。昔、祐一と良く遊んでいた」
「ああ!」女性の一言で、記憶が甦ったらしい。男性はポンと手を打ってひとつ頷いた。「おお、そう言えばそんな娘がいたな。秋ちゃんにも良く似てるし。思い出した、思い出した」
「……ったく。自分の姪の名前くらい覚えとけよな」相沢君は呆れ顔で肩を竦める。
「ま、いいや。続けるぜ。名雪の隣にいるのが、その親友のカオリビッチ・シオリスキーだ」
「おお、ロシア系の友達はやはりロシア系か。よろしく、シオリスキー君」
 再び男性の方は破顔し、私に手を差し伸べてきた。生身の方の右手である。無論、握手を求めているのだろう。私は躊躇うことなく、その手を握り返した。熱いくらいに温かく、そして大きくて力強い手だった。
「お会いできて光栄です。美坂香里、4分の1だけWASPの血は混じっていますが、生粋の日本人です」
「そう言えば、香里の父方のジイさんはアメリカ人だったとか言ってたな」
 相沢君が思い出したように呟く。以前、一度だけ話したことがあったけど、覚えてたのね。ちょっと意外だわ。
「で、その隣のちっこいのが、意外かもしれないが――」
 相沢君は、一瞬私と栞の胸部の間で視線を往復させてから言った。
「その妹であるシオリビッチ・アイススキーだ。信じられないことに1歳違いの、血の繋がった姉妹だ」

「その名前、全力で間違ってます! 祐一さん、いきなり嘘教えないで下さい。あと、その『意外かもしれないが』ってのは何を示してるんですか」
 栞は手を丸く握り締めて、それをバタバタと振りまわしながら叫ぶ。
「バニラアイスは確かに大好きですが、私は美坂栞です。祐一さんは嘘ばっかりです」
「ドラ息子が嘘しか言わないことは知ってるさ。よろしくな、シオリビッチ君」
 そう言って、男性はクシャクシャと栞の頭を撫でた。因みにその言葉からは、栞の言うことをちっとも理解していないことが窺える。この辺り、相沢君と性格がそっくりだ。
「えぅ〜。だから、違うって言ってるのに……」
 一瞬泣きそうな顔を見せるが、次の瞬間、栞はニッコリと天使のように笑った。
「まあ、この際なんでもいいです。お姉ちゃんだけ握手なんてズルイです。私にともして下さい!」
「いいぜ。ほら。しかも両手でガッチリとな」
 二人は両手で握手をし、ブンブンと元気良くシェイクした。
「おお〜。これが噂のロマンサーなんですね! 感激ですぅ」
 男性の左腕を見て、栞は興奮した様に言った。頬が紅く上気している。その左腕は、肘の下10cmあたりの所から、鈍い光を放つ黒い金属質の物に変わっていた。義手だ。
それも恐らく、手首や指の関節部がモーターで稼動する『筋電義手』と呼ばれる類のものだろう。現物を見るのは初めてだけど、電子工学の見地からこれは非情に興味深い。ペンチとドライバー片手に電子機器を弄るのが好きな人間ならきっと皆そう思うはずだ。
 私は失礼にならないように気を付けながら、それを観察した。多分、機能を重視しているんだと思う、最近の筋電義手が目指すような生身の手に外見を似せるというような細工はしていない。色が黒く、あからさまに金属質なのを見てもそれは明らかだ。
「本当に動くんですねえ。思ってたより大きいし。アニメなんかに出で来る巨大ロボットの手みたいです」
「そうかい? ま、確かに役に立つ腕だぜ。ちょっと重いのが難点だけどな」
 栞の言う様に、その筋電義手は常人の手より優に一回り以上大きい。手首より上の部分に関しては通常の2倍。両手を広げても掴み切れない太さだ。恐らく、あの部分にバッテリィと制御パネル、それにハードウェアが内蔵されているのだろう。
 関節は、超精度DCモーターで稼動させるんでしょうね、きっと。放熱はどうしてるのかしら。あと、黒く光る外装の金属。あれも気になるわね。見た限り素材が何であるか分からない。
 ただ、その義手が半端な人間が作れる代物じゃないことだけは分かった。あれは、職人――その世界に全てを掛けた本物のエキスパートでなければ開発できない、そういう類のものだ。
「凄いですねえ。これ、どういう仕組みになってるんですか?」
「おいおい。何も今からそんなに騒がなくったって、後で幾らでも時間取れるよ」
 黒い義手を握り締めたまま、目をキラキラさせて言い募る栞に、相沢君は苦笑しながら言った。
「まだ全員の紹介も終わってないし。質問タイムはそれからにしな、栞」
「祐一の言う通りよ。今日は昼食をご馳走させていただけるという話らしいから、その時にゆっくりお話しましょう」
 優しく言い諭すように、義手の男性の傍らに立つ女性が言った。
 光の加減によっては青味がかって見える長い黒髪と、口元に湛えられた穏やかな微笑。名雪の母親、水瀬秋子さんにとても良く似ている。一卵性双生児だと言われても、私は驚かない。

「じゃ、そういうわけで続きだ。こっちの二人は、俺の先輩の大学生。サユリビッチ・マイガスキー嬢と、その親友カワスミンチ・ケモノスキー」
「……祐一、違う」ポコっと川澄先輩のチョップが、相沢君の後頭部に炸裂する。
「あはは〜。私は、倉田佐祐理と言います。こっちは親友の舞です。今日はようこそ御出で下さいました。佐祐理は歓迎しますよ〜」
「二人は仲が良いのね」先程の女性は柔らかに微笑んだ。
「で、そこのオバさんくさいのが、ミシオビッチ・キツネスキー。趣味はゲートボール」
「相も変わらず失礼ですね。物腰が上品くらいは言えないのですか、相沢さん。それから、勝手に人の趣味を設定しないで下さい」
 天野さんはギロリと相沢君を睨み付けると、向かい合う男女に視線を戻した。
「お初にお目に掛かります。天野美汐と申します。相沢さんとは同じ学舎で学ぶ――」
「な、オバさんくさいだろ?」天野さんの言葉を奪って、相沢君は嬉しそうに言った。
「このパターンでいくと、相沢君のファミリィ・ネームはさしずめ『オンナスキー』よね」
 苛められる天野さんを助けるため、横から言ってやる。何人も女の子を侍らせてるんだから、間違いじゃないわよね。それに相沢君って割とエッチだし。 と言うより、青年期の男の子なんて、みんな女好きに決まってるわ。エロガッパよ。
「おんな〜、おんなが欲しい! 女体よいずこ〜」
 ホラね、やっぱり。案の定、相沢君は鼻の下を伸ばしながら己の欲望をスパークさせる。
 が、直ぐに我に返った。
「……って、俺は盛りのついたハーレムのトドか!」
「遊ばれてるな、祐一」
 義手の男性は、相沢君の醜態を見て豪快に笑ってみせた。
「ドラ息子がこんな調子だから、自己紹介だ。俺は、相沢芳樹。この腐れ外道のバカ息子、相沢祐一の実の父親だ。不本意ながらな。UKでは、ワイズロマンサーって名前で知れてる。俺はロックバンドをやってるんだが、そのバンドの名前なんだ。今夜、近くでライヴやるから見に来こいよ。楽しいぜ」
 そう言うと、ワイズロマンサーは少年のような笑みを見せた。なるほど、相沢君そっくりの笑顔だ。いや、雰囲気から容姿まで、この親子は良く似ている。
 相沢芳樹。ワイズロマンサーと呼ばれる、黒手(こくしゅ)の男。確かに、一見しただけで相沢君の父親であることは歴然としていた。
 年の頃は、どうだろう。家族構成を考えれば40を超えていてもおかしくないのだが、それにしては若々しくてエネルギッシュだ。30前後にしか見えない。
 そして最大の特徴は、やはり、息子と同様、人を惹き付ける不思議な力を持っていることたろう。一種のカリスマ性とでも言おうか。言葉にするのは難しいけれど、とにかく彼には不思議な魅力を感じた。
「隣にいるのは俺の相棒。相沢夏夜子だ。夏の夜の子と書いて、カヨコ。そこにいる秋ちゃんの姉貴で、俺のドラ息子の実の母親でもある。バンドじゃ、メインギターをやってる大事なメンバーだ」
 ポンと傍らの小柄な女性の背を叩きながら、相沢君のお父さんは言った。
「皆さん、宜しくね」紹介を受けた女性は嫣然と微笑む。
 サラサラとした綺麗なストレートの黒髪は、名雪とそっくり。癖っ毛の私から見ると、なんとも羨ましい美しさだ。腰までゆったりと流れるそれは、艶やかな光を放って本当に綺麗だった。今は向かい合っているから良く分からないけれど、きっと背後から見たら嘆息してしまうほど見事な眺めとなるだろう。
 顔は、何度も言うように秋子さんとほとんど同じ。見るからに優しく温厚そうな顔立ちで、口元には柔らかな微笑が絶えず湛えられている。驚異的な若さを維持しているのも同様で、実年齢が幾つなのかは知らないが、どう考えても相沢君の歳の離れたお姉さんくらいにしか見えない。20代で充分通じるだろう。

「姉さん、お久しぶり」
「あら、秋子。本当、随分と懐かしい感じがするわね。会えて嬉しいわ」
 双子のようにそっくりな姉妹は、軽く抱擁を交わした。
「祐一がお世話になってるわ。どう、元気にしていた?」
「ええ。名雪も喜んでいるし、とても助かっているわ」
「--よっ、秋ちゃん。良く来たな」相沢氏も軽く手を上げて、秋子さんに笑いかけた。
「芳樹さん。相変わらずお元気そうですね」
「当然さ。元気でなくなる理由なんかない」
 どうやら、秋子さんと相沢氏は結構打ち解けた仲らしい。相沢氏にとって秋子さんは義理の妹になるわけだけど、それだけの関係なのだろうか。もっと、こう、旧知の仲といったような雰囲気があるけど。
「祐一さんのご両親と秋子さんとは、随分と仲が良いんですね」
 栞も私同様の疑問を抱いたらしい。私より積極的で社交的な彼女は、実際に口に出してそう問うた。
「秋ちゃんと、その死んだ相棒と、俺の3人は大学時代からの付合いさ。俺たちは親友だった。逆に、俺と夏夜子が出会ったのは偶然なんだ。だから、付合いの長さでは夏夜子とより秋ちゃんとの方が長かったりする」
 不思議なもんだな、と相沢氏は感慨深そうに付け加えた。
「そうだったんですか」栞は納得したように頷く。
「で、祐一。このお嬢ちゃんたちは、全部お前の女なのか?」
 相沢氏はAMSのメンバーをグルリと見回すと、唇の端を吊り上げて言った。
 お、おんな? オンナって、女よね。つまり、ミストレスと言うかなんと言うか。そういう意味なのかしら?
 あたしは……あたしは、違うわよね。ええ、違うわ。相沢君なんて興味無いもの。無いわ。
 大体私は、一人の男を他の女と共有するような趣味はない。ハーレムも側室も妾もゴメンよ。栞のことで精一杯だったから異性と付き合うことなんて今まで現実的に考え方ことすらなかったけど、仮に将来どこかの誰かとそういう関係になることがあれば、あたしは美坂香里ひとりだけを見てくれる人を選ぶだろう。
 だってそうだもの。好きだと言うのなら、あたしだけを見て欲しい。あたししか見ないで欲しい。そう願うことって別に不自然ではないと思う。人間には嫉妬や独占欲っていうものがあって、それは恋愛には必ず付いて回るものなんだから。
「さあね。それも面白いかもしれないけど、まだ括り方は考えてないよ」
 皆の注目を受ける中、相沢君は苦笑しながらそう答えた。
「みんな、良い友達さ。俺たちはパーティなんだ。そりゃ、いつかはそういう決着の付け方もしなくちゃならないかも知れないが、今はまだその時じゃない」
「そうか」相沢氏は満足そうに頷いた。「まあ、人間関係に決まった形式なんてないからな。それがどんなもんであれ、お前にとって最上の選択だと思うなら、好きにやるが良いさ。俺は何も言うつもりはない」
「――そうね」夏夜子さんも、嫣然と微笑みながら頷いた。
「ただな、祐一。人とは違った自分だけのやり方で生きていくってのは、それ相応にシンドイもんだぜ」
「ああ、分かってる……つもりではいる」
 相沢君は苦笑しながら、でも目は真剣なまま頷いた。
 ま、確かに色々あったものね。名雪と同居しているせいで生徒会に睨まれたり。あたし自身も、相沢君と付き合うようになってから、抱える厄介事を等比級数的に増大させているような気がするし。
 国際的な窃盗団と戦わされるは、殺人事件には巻き込まれるはでロクなことがない。そりゃ、刺激的で退屈はしないし、ある程度の危険は人生にメリハリをつける。でも、危険過ぎるのもちょっとね?
「そう言えば、芳樹さんも大学時代は、祐一さんみたいに色んな女性に人気でしたね」
 秋子さんはニッコリと微笑んで言った。大学時代からの知り合いだったという話だから、その時のことを思い出しているのかもしれない。
「いえ、祐一さんの倍は凄かったかしら……。同性からの信頼もあったみたいだし」
「フッ。それはつまり、俺は祐一の倍は格好良いってことだな。本当に良い男ってのは、男からみても格好良く見えるもんだ。女にモテるだけで一流気取ってるやつは所詮俺には及ばないってことだな」
 相沢氏はキッパリとそう言い切った。……呆れるほど凄い自信。
「けっ。言ってろよ、バカ親父」相沢君は、憎まれ口と共に笑い飛ばした。「それよりライヴの準備は良いのか? リハとか色々あるんだろう」
「そのことなんだけど……」夏夜子さんは思い出したように言った。
「お昼を食べてから、ちょっと祐一を借りたいんだけれど。構わないかしら?」
「えっ?」少し躊躇したが、誰も答えなかったので私が代表して言う。 「それは、相沢君さえ良ければ構いませんけど」
「じゃあ、決定だ」相沢氏は言った。「そうと決まれば、メシだ。メシ。ランチタイムと洒落こもうぜ」



15 Oak Hill Way NW7 Hamsted
Sat,22 July 2000 12:34 P.M.
7月22日午後12時34分 ハムステッド 佐祐理の別荘 一階大食堂

 ロックバンド・ワイズロマンサーを迎えての昼食は、和やかに豪勢に行われていた。一階大食堂の長テーブルの上には、皆で腕を振るって用意した料理が所狭しと並べられている。和洋折衷と見事に統一性がないが、私たち日本人の口にも合うメニューに富んでいた。
「で、ドラ息子。お前、この先どうするつもりなんだ?」
 オニオンスープを些か品格にかける手付きで掬いながら、相沢氏は言った。勿論、この場合のドラ息子とは相沢祐一を指すのだろう。
「この先ってのは、どの先だよ」
「お前、確か今高校3年だったろう。留年(ダブ)らなきゃ、今年で卒業だろうが。その後の進路ってやつだよ」
「はっ、これは珍しい。親父が普通の親っぽいこと言ってやがる」
 この親子はいつもこうなのだろうか。口を開くそばから悪態を吐き合っている。
「ま、一応大学進学を考えているわけなんだが」
 そう言えば、相沢君の進路希望を聞いたことなどない。大学に進学するとしても、彼はどこを志望しているのだろう。気にならないと言えば――嘘になる。
「あ、そう。大学ね。良いんじゃねえの。でも、金は自分で出せよ」
「えっ?」父親の何気ないその一言に、相沢君は勢い良く顔を上げた。
「当たり前だろう? 高校卒業って言ったら、もう18だぜ。18」
「いや、しかしだな……」
「はぁ」相沢氏はスプーンを置くと、溜息を吐きながら頭を振った。「スウェーデンに連れていったことあったな。向こうじゃ、何歳になると子供は独り立ちしていた?」
「じゅ、18」相沢君は気圧されたように呟く。
 そう言えば、スウェーデンでは18歳を過ぎると子供はほぼ100%家を出ると聞く。その歳になっても親との同居を続けていれば、ちょっと精神的に問題があるのではないかと疑われても仕方がないらしい。まあ、それもこれも日本より数世紀分は進んだ大人の文化と、大きな政府による完全雇用政策あってのものなんでしょうけど。
「東南アジアなんかじゃ、子供が親を食わすのが当然だっただろう。5歳の子供が、親を食わすために路上で働いてる。お前も見てきたはずだ。日本とアメリカくらいだぞ。意味もなく大学行って、学歴がどうとか言ってるのは」
「だって、俺、日本人じゃん」
「祐一、自分も納得させられないような言い訳はやめとけ」相沢氏はキッパリと言った。
「大体、大学なんて必要以上に勉強したいっていう酔狂で行くようなところだろ。なんで俺がお前の酔狂のために高い金ださなきゃならないんだ。手前の酔狂には、手前で金出せよ」
「しかしなぁ」
「――とにかくだ、お前はもう自分の面倒は自分で見られる年齢に達してる。後は、自分で生きろ。本来なら家から追い出されるところを家賃無しで住まわせてもらってる上、ただでメシまで食わせてもらってるんだ。学費くらい自分で工面するのは当然だろ? どうせ、志も無く適当に進学を決めただけだろうし」
「うーむ。いきなりそんなこと言われてもなあ……」
 確かに、相沢氏の言葉はある意味で正しいのかもしれないし、それが相沢家の教育方針なのかもしれないが、いきなり『金は出さない』と言われたら私でも困ると思う。
 まあ、私なら特待生ということで学費を免除してくれる大学も探せると思うけど、それにしたって話が急過ぎる。

「あはは〜、でしたら佐祐理がお力になれるかもしれませんよーっ」
 ホストとして上座に就いている倉田先輩が、にこやかに口を開いた。
「奨学金という手もありますが、大学の学費くらいなら佐祐理が助けになれると思います」
「ん、なんだ?」相沢氏は少し驚いたように、息子と倉田先輩の顔を交互に見回している。「この嬢ちゃんは、お前のスポンサーなのか?」
「はい。佐祐理は、祐一さんのスポンサーですよ」
「えっ、そうだったの?」
 あっさりとその事実を肯定する倉田先輩に、相沢君当人が驚いている。でも確かに、この旅行にしたって旅費は全部倉田先輩が持ってくれているし、AMSの活動資金は全部彼女の懐から出ているのは事実よね。私たちのスポンサーという表現も決して大袈裟ではないだろう。
 気になって調べてみたのだが、やはり彼女は富豪だった。名義は全て代理人のものになっているが、建築および土木工事を一括して請け負う総合建設業――つまり俗に言うゼネコン――を彼女は運営していて、そこの事実上のCEOとして活躍しているようだ。地元の開発に関する事業は、そのほとんどが倉田家を介して行われていると言って過言ではない。父親が地元出身の代議士ということもあり、仕事のクチに困ることもないんでしょうね。
 元々、私たちの街は倉田派が推進していた新種の地域誘導型政策の一環、『新世紀型未来都市計画』のモデル都市として興された、極めて特異性の高い街。住人も、首都圏から送りこまれた技術者とその家族や親類を主としている。北の辺境のくせに妙に近未来的な設備が整っていたり、情報通信分野が発達していたりするのはそのため。私たちの言語に土地の方言が混じっていないのも、元はそこに起因している。
 まあ、そんなこんなで、モデル都市として開発計画は年中推進されているわけだから、彼女の事業はかなりの成功を収めている。最近進められているらしい開発計画の概要を辿ってみても、かなりのセンスを窺えるしね。TUTを街に呼びこんだのもそのプロジェクトの一環と考えれば、倉田一派の才は相当のものだ。そんな倉田の彼女なら、相沢君ひとりの学費程度など全く問題にならない出費だろうけど……。
「倉田さんだったかしら。いいの、祐一のために?」
 夏夜子さん――秋子さんに良く似た相沢夫人は言った。
 なんか、この『相沢夫人』って微妙に良い響きよね。この場にいる女の子は、その過半数がこの呼称をいずれは我が物にせんと狙っているに違いないわ。
「佐祐理は構いませんよ〜。祐一さんがどこの大学に進学されるつもりなのかは分かりませんが、国立でも私立でも、お好きなところに行ってもらえれば。佐祐理のお金は、こういう時のためにあるわけですし」
「でも、佐祐理さん。流石にそこまでしてもらうわけには……」
 アナコンダよりもず太い神経をしている相沢君にとっても、それは気の引ける話のようだった。それもそうだろう。学費まで負担してもらっては、ほとんど『ヒモ』だもの。
 勿論、この場合のヒモっていうのは、ホタテガイやアカガイなんかの外套膜のことじゃなくて、女を働かせて金銭をみつがせている情夫のこと。まさに、相沢君のような鬼畜のことよね。
「いいんですよ〜。できれば、祐一さんには佐祐理や舞と同じ大学に進学していただいて、また一緒に同じ時間を過ごせたらなーとか思ってましたし」
「祐一もTUTにくる」
 どうやら川澄先輩も、相沢君とのキャンパスライフを心待ちにしているようだ。
「そういうことですので、お金のことは気にせず祐一さんは自分の好きな道を選んで下さい。そのお手伝いができるのは、佐祐理にとってとても幸せなことですから」
「うーむ。俺は今、男としてたまらなく甘い言葉をかけてもらっているような気がする」
 相沢君はだらしなく顔を弛緩させながら、嬉しそうに呟く。
 まったく。これだから男って嫌いなのよね。ちょっと綺麗な女性に持ち上げられただけで、すぐにこれだもの。何を考えているのやら。

 ――でも、相沢君が倉田先輩のいる『東北技術科学大学』に進学するっていうのは、私にとっても悪くない選択肢かも知れない。東北技術科学大学、通称TUTは、私が進路のひとつとして考えている国立大学。思いきり理系っぽい名前の大学の癖に、文系の学部も充実しているし、講義も斬新で面白いと聞く。何より、県内にあるというのが嬉しい。
 多分、学部はバラバラになるだろうけど、それでもまた相沢君や先輩達と同じ学校で時間を共有できるというのは願ってもいないことだ。彼等と一緒にいるのは、とても楽しいし。
 私の頭の中では、早速シミュレートが始まっていた。相沢君の偏差値は、確か50前後。TUTの合格ボーダーラインが、64。今が7月末だから、センター試験までは6ヵ月。この期間内に、彼の偏差値を15程度上げてTUT合格に導くことができるだろうか?
 不可能じゃない。全くのシロウトだった人間が、毎日12時間の勉強を2年半継続して司法試験に合格した例もある。
 合理性を徹底追求すれば、なんとかなるかも。半年の間、放課後から夜遅くまで、毎日6時間程度を貰って私が彼の自宅学習をプロデュースすれば、可能性はある。まず、簡単な心理テストと学力検査で彼の思考形態と穴を見極めて、それに沿ったプロトコルを作成し、TUTの傾向を加味した知識を叩きこんでいけば……
 天野さんにも協力を仰ごうかしら。彼女は、こういう遊びが好きそうだ。いや、絶対好きに違いない。それに、やる気にさせるために、「偏差値を上げたら、Hなことを少しだけさせてあげる」とか言って騙してやれば、エロガッパな相沢君のことだから鼻息荒くして頑張るに決まってるわ。
「――フッ。我に勝算あり、ね」
「えっ、何か言いましたか。お姉ちゃん?」
 独り言を聞きつけられてしまったのか、隣に座ってご馳走を頬張っていた栞が、可愛らしく首を傾げて私を見上げてくる。
「ほっぺにミートソースが付いてるって言ったのよ。じっとしてて。とってあげるから」
 手近にあったナプキンで、栞の頬を拭ってやる。彼女の頬は、赤ちゃんのようにとても柔らかかった。
「はい、OKよ。ご馳走は逃げないから、落ち着いて食べなさい」
「ありがとう、お姉ちゃん」
 栞はにこーっと笑う。天使のような汚れない笑顔。私には絶対にない、この子だけの愛らしさ。この笑顔を取り戻してくれたのは、相沢君だったわね。
 私の欲望もあるけど、彼のためにも何か力になれたら嬉しい。彼がもし望んでくれたのなら、大学合格のために全力で彼をサポートしよう。そう改めて思う。

「それで――姉さんたち、最近はどうしていたの?」
 相沢夫妻のほぼ向かいに座っている秋子さんが言った。改めて見比べてみると、やはり秋子さんと夏夜子さんは良く似ている。秋子さんが三つ編みで、夏夜子さんがストレートのロングヘア。これが識別点になっていなかったら、まず見分けがつかないだろう。
「相変わらずよ。秋子に祐一を預けてから直ぐに東ヨーロッパへツアーに行ったわ。バルカン半島とか。最近はお客さんが集まるようになったから遠くまでいけるのよ」
「えっ、バルカン半島って戦争してなかったっけ?」
 名雪が意外な知識を披露する。いや、高校生――それも受験生なら知っていて当然の知識かもしれないが、名雪には『当然』とか『常識』とかいう概念は尽く適応されない。そのことは、彼女との数年に及ぶ付合いの中で、イヤと言うほど実感を伴って認識させられていた。
「おお、ところによってはまだアホらしい内戦とかやってたぜ」
 相沢氏は昨日の天気を語るように、あっけらかんと言う。
「だから戦場でギグかましてやろうと思ったんだが、おしいところで軍に止められた」
「当たり前だ」相沢君が呆れ顔で突っ込む。
「でも、NATO軍の駐屯地でやったギグは盛り上がったぜ。あっちには娯楽が無いみたいでな」
「そのギグ(ライヴ)のことなんですが、確か今夜もやるというような話を先程されていましたよね」
 栞を挟んで私の反対側に座っている天野さんが、遠慮がちに口を開いた。
「興味深い話です。是非、詳しいことを聞かせていただきたいのですが」
「ああ、やるぜ。キツネスキー君」
「天野美汐です」
「OK。じゃ、親しみを込めてミッシーでいいか?」
「お願いですから、それだけはやめて下さい」
 さすが親子。この辺り、相沢君と全く同じ発想だ。容姿と言い、性格と言い、相沢君は父親の影響を色濃く受け継いだようね。芳樹と祐一。頭文字から言うと、Yの遺伝子ってところかしら?
「ま、呼び名はともかくだ。ハイゲートのザ・フォーラムっていう結構名の知れたライヴハウスで演るんだ。こっからだと、健脚の持ち主なら歩いてだって行けない距離じゃない。みんな、見に来てくれよな」
 相沢氏はそこで言葉を切ると、隣の夏夜子さんに視線を向ける。
「チケット、あったよな。関係者用の」
「ええ。バンに置いてあるから、後でみんなに渡すわ。ちゃんと全員分あるから心配しないで」
「そうか。――まあ、チケットなんざ無ければ無いで、無理矢理にでも入れてやるけどな」
 そう言って、相沢氏は豪快に笑う。
「最近、俺たちのライヴのチケットって瞬殺されちまうんだよな。Time Out(日本でいう『ぴあ』)でも即日完売とか言ってたし。会場のボックス・オフィスの前にゃ、徹夜で並ばないと買えないとか聞いたぜ」
「景気の良い話じゃんよ」相沢君は紅茶のカップを傾けながら言った。
「バカ言え、なにが景気だ」ワイズロマンサーは憮然とした様子で言う。「また、俺たちをどっかのアイドルと勘違いした流行追いのミーハー馬鹿が集まってきてるんだよ。で、本当に俺たちのギグで燃えたい奴が、そいつらに邪魔されて来られねえんだ。冗談じゃねえよ。
Wembley Stadium and Arenaでなんか、絶対演(や)らねえからな」
「うぐぅ。でも、ボク、コンサートって初めてだから楽しみだよ」
「うんうん、私も初めてだよー。楽しみだね。どんな感じかな」
 あゆちゃんや名雪だけでなく、多分、相沢君以外の全員がロックバンドのライヴ・コンサートなんて初めてだろう。私もクラシックやオーケストラのコンサートなら行った事があるけど、ロックのライヴは経験が無い。一体どんな雰囲気なのか、想像もつかないくらいだ。ときどきTVで流れるコンサートの映像を見る機会があるが、やはりあんな感じなのだろうか。

 ――キングサイズのベッドよりも大きな食卓から粗方の料理が無くなった時、相沢夫妻は「ライヴの準備がある」と席を立った。
 ライヴの準備って、どんなことするのかしら。楽器の音合わせとか?
 そう言えば、良く歌手がコンサート前にリハーサルを行うという話を聞いたことがある。それも含めて、色々な用意があるんでしょうね、きっと。会場のセッティングなんかもあるだろうし。
「今夜、22時からだ。フォーラムで会おう。燃えるぜ」
 玄関まで見送りに出た私たちに、相沢氏は爽快な笑みを投げかけた。彼の肩越しに見える門の傍に、『Y'sromancer』と大きくペイントされた白いヴァンが止まっているのが見える。あれが、彼等の足なのだろう。
「ハイゲートだったな。隣町だから直ぐ行けるぜ」
「なに言ってんだ、祐一。お前も俺たちと一緒に来るんだよ」
「は?」
 だが、相沢氏は反論の暇を与えず息子の腕を取り、そのまま有無を言わさず引っ張って行った。
「お、おい、親父、ちょっ……」
「じゃな、アキちゃん。待ってるぜ」
「はい。楽しみにしてます」黒い左手を振る相沢氏に、秋子さんは嫣然と微笑み返す。
「皆さんもお揃いで来てくださいね。きっと楽しんでもらえると思うわ」
 相沢夫人は私たちにそう言い残すと、夫と息子の後を追って歩み去っていった。
「ええっ! だって、俺はもう何年も……」
「……から、それは夏夜子がフォ……って」
「無茶言うな、俺が母さんとお……」
「ええい、ゴチャゴチャ言ってねえで、さっさと乗れい!」
 ヴァンに押し込み押し込まれながら、相沢親子が言い争っている。まあ、タイミングがタイミングだから、内容の予想はつくけど――。
 楽しみね。




■初出(神鳴の章)

16話「ムゥウィットゥスゥィー」2002年04月23日
17話「黒手の男」2002年04月30日

本作は上記の初出作品を加筆修正の上、著者が編集したものです。