東北技術科学大学
「……おり……しおり」
ふと気が付くと、眼前間近に姉の相貌が迫っていた。そう言えば、体もユサユサと左右に揺さぶられているような気がする。
近くで見ても、姉は綺麗だ。血の繋がった姉妹であっても、心からそう感嘆してしまう。
「しおり、栞ってば!」
「え、あ……はい?」
「なにボーっとしてるの」香里が呆れたような顔で急かす。「着いたわよ。ここからは歩きなんだから、早く降りなさい」
「え、着いたって」
「寝ぼけてるの? 大学よ。もう、みんな先に行っちゃったわよ」
その言葉に、栞はハッと覚醒した。どうやら、思考に没頭している内にイベントは勝手に進行していたらしい。慌てて車内を見回してみれば、既に運転手以外は誰もいなくなっている。彼女は漸く、自分が取り残されかけている現状を把握した。
「わ! た、大変です。急ぎましょう、お姉ちゃん!」
栞はワタワタと慌てて、車から飛び出した。
「こっちよ。急がないと世紀のイベントを見逃すことになるわ」
「は、はい!」
栞が頷いたのを合図に、2人は夜のキャンパスを駆け出した。
流石に草木も眠る丑三つ時ということもあり、学内は静まり返っていた。昼間はカラフルで洒落たデザインに見える煉瓦畳の歩道も、この時間では文字通りその精彩を失い、逆に不気味にすら見える。物音1つしない構内に、ただ姉妹の駆け音と乱れた微かな呼吸音が木霊した。
「――たぶん大丈夫だとは思うけど、人に見つからないように静かに行動するのよ、一応」
暫くすると、先頭を走り、妹を無言でナヴィゲートしていた香里が、振りかえらずに言った。
「え、こんな時間に、だれかいるんですか?」
栞は虚を付かれたような顔をする。
少し遅れて後を走る彼女は、快調に疾走する香里とは対照的に、少し走っただけで既にヘロヘロだ。長年の入院生活と運動不足のつけであろう。
「可能性はあるわ、ここは中学校や高校とは違うから。一応、私たちは部外者で、しかも未成年者よ。誰にも見られない方がいいわ」
大学というのは、時期や学部にもよるが完全に無人になることは殆どあり得ない空間の1つだ。前・後期の試験前や、卒業が近い4年生、それに院試験を控えた者たちは泊まり込みでレポートや論文を書き、或いはデータを纏め、製図し、資料を漁り、研究や実験を続ける。つまり、いつも徹夜で学内に居残る者がどこかにいるものなのである。
だが香里と栞が、先行した祐一たちに遅れて辿りついた「8号館」と呼ばれる場所だけは、別だった。
「――こちらです」
館前に辿りつくと、暗がりの向こう側で、見知らぬ男が手招きしてきた。勿論、佐祐理の雇っている護衛の1人だろう。美坂姉妹は彼に駆け寄る。
「倉田嬢のお友達ですね」
「ええ」香里は頷いた。
周囲がほぼ完全な闇に閉ざされているせいで、男の顔は良く確認できない。学内は一種の治外法権。街灯など無くても、突つかれたりはしないのだ。
「倉田嬢たちは、既に中に入りました。中は完全な無人です。主任がついていますから大丈夫だとは思いますが、注意してください。10秒前まで、一行は突き当たりの階段を3階へ向かって登っていました。急げば追いつけます」
そういう男の手には、広帯域の無線機があった。軍用品だ。恐らく、これで校舎の内部に入り込んだスタッフと連絡を取っているのだろう。
「分かりました。どうもありがとう」
香里は一応微笑みを返した。そして男が身を外して譲ってくれたスペースを通り、8号館の裏口から内部に入り込む。勿論、栞もその後を元気良く追った。ただし、できる限り足音を忍ばせながら。一応これでも、彼女たちは隠密行動を行なっている最中なのだ。
「ここって何の建物なんでしょうか? 時間が時間とはいえ真っ暗ですし、それに人の気配が全くありませんよ」
たとえ振りかえらずとも、栞が眉を顰めて不安そうな表情をしているであろうことは容易に予測できた。頼りなくか細いその声は、冷たく静まり返った夜の校舎に反響し、そして闇に溶け込むように消えていく。昼間に賑わう学内を見知っていたせいか、香里には一層この夜の校舎が無気味に思えてくる。得体の知れない不安感を振り払うように、彼女は事務的な声を上げた。
「倉田先輩から聞いた話では、この8号館は工学部棟らしいわ。ただし、今は使われてないって話よ。人がいないのと、明かりが全くないのは多分そのせいね」
香里の言う通り、そこは旧工学部校舎で、かつては学部事務所や各学科実験室、売店、クラブハウスなどがあったらしい。非常灯の光を頼りに目を凝らしてみれば、それを証明するように『真空電気炉室』『破壊力学実験シミュレーション室』『SEMサーボ室』『電解研磨室』『光学・電子顕微鏡室』など、文系の栞には馴染みのない名を冠した部屋が幾つも並んでいるのが分かった。
だが今年の4月、新工学部棟がその隣の空き地に完成したせいで、工学部に属する「土木工学科」「建築学科」「機械工学科」「電気工学科」などは、そちらに移ったそうだ。つまり、ここは既に2ヶ月前に放棄された廃墟なのである。
聞くところによると、今年の8月、大学が夏休みを迎えた頃を見計らって壊される運命なのだそうだ。
「さ、急ぐわよ。栞。駆け上れば、多分追い付く筈だから」
「はい!」
だが、そう意気込む必要もなく、彼女たちは割合簡単に先行する祐一たちに追い付くことができた。
どうやら彼らは屋上に向かうつもりらしく、ひたすら階段で上を目指していたわけだが、途中で体力のないあゆが足を引っ張り、極端にペースが落ちていたのだ。結局、5階の踊り場で美坂姉妹は一行を捕まえた。
「お、香里に栞。来たか」
暗がりの中から姿を現した彼女たちを、祐一は笑顔で迎え入れた。
「栞のおかげで、随分と走らされたわ」
乱れた呼吸を正しながら、香里は皮肉混じりに言う。勉学だけでなく、運動全般にも非常に秀でた才を見せつける彼女は、この程度の運動は軽くこなせるらしい。だが、栞とあゆの入院経験組は、既に満足に喋れないほどに疲労しきっていた。
「で、犯人さんは何処に行ったの?」
「報告では、どうやら屋上のようです」
香里の質問に応えたのは、佐祐理だった。生っ粋のお嬢様だけに運動はダメかと思いきや、彼女もまた見かけによらない基礎体力を持っている。大して息も切らさず、何時もの笑顔を香里に向けていた。
「え、えぅ〜。よりによって屋上ですか」
手摺りに凭れ掛かり、栞はガックリと項垂れる。
「それで……ここって、何階建なんですか?」
「佐祐理の記憶が正しければ、8階建てです。屋上にはEV機械室や気象観測機械室などがありますが、基本的に普通の校舎の屋上と変わらない筈です。勿論、フェンスはありますがそこから外へ出ることも可能です」
「――拙いですね。場所が悪いです。死人が出る確率が高まりましたよ」
飛び降りが可能であることを示唆する佐祐理の言葉に、美汐が低く呟く。
「ああ。だから、急ぎたいところなんだけどな」
そこで言葉を切ると、祐一は喘息患者のようにゼハゼハ言っている2人に一瞥くれる。
「なにしろ、極端に体力のない奴らが約2名ほどいるから」
「う、うぐぅ」
「そんなこと、言う人……嫌い、です」
祐一の言葉に思い当たる節があるらしい栞とあゆは、肩を荒く上下させながら項垂れる。
「エレベータが動けば、階段で行く必要もないんですけど」
佐祐理が困ったような笑みを浮かべた。
「とにかく、ゆっくりと――できるだけ急ごうぜ!」
「相沢さんも、なかなか無茶なことを仰いますね」美汐が苦笑した。
普段運動しないものにとって、8階分の階段を一気に上り詰めるのは結構な重労働となる。一行は動かないエレベータにブーブーと文句をつけながらも、バテている栞とあゆに肩を貸し、背中を押しつつ階段を上り詰めていった。
そして最上階の8階に到達すると、『応用電機実験室』『放射線測定質』『ジオ分析室』『界面科学実験室』などの実験室・研究室がズラリと並ぶ廊下を、力強く駆け抜ける。
「この8号館には全部で左端、中央、右端の3ヵ所に階段がありますが、屋上に通じているのは中央階段のみです。いま佐祐理たちが登ってきたのは左側の階段ですから、廊下を通って中央階段に向かわなければなりません」
先頭を走り、皆を先導しつつ佐祐理が説明する。
――その時だった。微かだが、男性の呻き声のようなものが闇の向こう側から響いてきた。
誰もが気のせいかと思ったが、全員が同じものを耳にしたのを悟り、ピタリと立ち止まる。微かで、しかも彼方此方に音が反響しているせいで位置は特定できないが、推測は容易であった。
「今の!」
「ああ、多分屋上でなにか起こったんだ。急ごうぜ」
一行はギアをシフトフップするように、走る速度を上げた。突き当たりに見える『水質環境科学実験室』の前で左折し、更に『建築学専攻講義室』の手前で左折。左手に見える中央階段を、一気に駆け上る。その階段は極めて短く、瞬く間に屋上へと続く鉄製のドアに辿り着くことができた。
「――こっちです」
そのドアの前に、鷹山小次郎がいた。いきなり視界に飛び込んできた人影に一瞬驚いたが、一行はすぐに彼女の元に駆け寄った。
「鷹山さん、状況は?」
祐一が勢い込んで聞いた。音量はコントロールされているが、興奮までは隠しきれない。
「現在、屋上には3人の男女がいます。全員が、この連続殺人の犯人です。もし今から出ていかれるつもりなら、気を付けた方がいいでしょう」
祐一とは対照的に、鷹山は極めて冷静だった。
「さっき、呻き声というか、悲鳴というか、とにかく男性の声が聞こえましたが」
祐一に代わって、佐祐理が訊く。
「犯人の1人が、別の1人によって刺された時の悲鳴です」
鷹山は事務的に告げた。
「状況は単純。選べる選択肢も、はっきりとしています。倉田嬢、どうしますか?」
「勿論、ここまで来たのは犯人の方から事件の真相を聞き出すためです。佐祐理たちは、今からドアを開けて犯人さんたちの所へ赴きます」
「――了解です」
鷹山は軽く頷くと、屈み込んで足元に置いてあったスーツケースを開いた。
中から取り出されたのは、彼女が車内で調整を行なっていたのとは違う、ストックとレシーバが一体化した、極端に短い狙撃銃だった。
WA2000と呼ばれる、対テロ警察向けに開発されたワルサー社のスナイパーライフルである。
全長が905ミリと、狙撃銃としては極めて短い。恐らく、相手の人数を知って装備を変えたのだろう。連射が可能なセミ・オートマティック・タイプだ。
AMSのメンバーたちは、いきなり露になった人殺しの道具ににハッと息を呑んだ。だか、鷹山はそんな彼らには目もくれず、銃を担ぎ上げると、改めて佐祐理に視線を戻した。8キロを超える重量を片手で軽々と扱い、しかも眉1つ動かさない。
「私はバックアップに当たります。つまり、犯人が不穏な動きを見せたときは、然るべき対処をすることになります。そうならないように、倉田嬢はなるべく穏便に事を運ぶよう心掛けてください」
「分かりました」
佐祐理は神妙な顔つきで頷くと、今度は後方に控える祐一たちに顔を向ける。
「そういうことになりました。皆さん、心の準備はいいですか?」
「みんなは、私が守るから」今まで沈黙を守っていた舞が、小さく呟いた。
「そりゃ、心強いな」力強い舞の言葉に、祐一は破顔一笑する。「それに、佐祐理さんの優秀なガードの人たちも影からバックアップしてくれてる。心配することなんて何もないさ。……なぁ、みんな?」
あゆは怯えているようだったが、香里、栞、そして美汐は頷いて見せた。
「分かりました」
佐祐理は1度頷いて見せると、体を反転させ鉄製のドアノブに手をかける。
「それでは、みんなで参りましょう」
そしてそれをゆっくり回すと、一気に扉を開け放った。
33
夏の風が、微かな異臭を運んでくる。錆び気を含んだ、微かな香りだ。
広い屋上は夜闇に包まれていて、10メートルより先は殆ど視界が利かない。ただ、上空に浮かぶ満月に近い青白い月の光だけが、唯一の光源だった。しかし視界は封じられていても、嗅覚が何らかの異常を察知している。
「何の匂いだ?」
祐一は戸惑ったような呟きを洩らした。
「――血よ」隣に並び立つ香里が即答する。「これは間違いなく血の匂いだわ」
「分かるのか?」
「女なら、誰でも分かると思うわ」
そう言い残すと、香里はさっさと暗がりの中を前進していく。祐一たちはその後を慌てて追った。
足元に空き缶やブロック片などが落ちているせいで、何度か躓きかける一行であったが、暫くすると、流石に目が屋上の闇に慣れてきた。月が大きく明るいことも手伝って、大体のものの位置を確認できるようになる。少なくとも、星も月もなかった8号館の校舎内よりかは幾許かマシであった。
そして、彼らは前方に立つ2人の人影に気が付いた。いや、正確には3人。1人が地に倒れ込んでいるために、2人に見えたのである。
歩み寄ると、漂ってくる血の香りが1段と濃くなった。そこに源を見出すのは、容易であった。
「誰だ……?」
AMSのメンバーたちに気付いたのか、立っている人影の1人が鋭い誰何の声を上げた。純粋な日本語ではない。鈍りの激しい、明らかに外国人男性の発音だ。して、祐一と香里の2人には聞き覚えのある声でもあった。
「驚いたな――」
祐一の目が鋭く細まっていく。
「ジョージ・クーパー。まさか、アンタが関係していたとはね」
「誰だ、お前は」
祐一がクーパーと呼んだ男は、ハンドライトを持っていたらしい。大きな光の輪がAMSに向けられ、その姿がスポットライトを浴びたように浮かび上がる。
「オレは、相沢祐一」
祐一は眩い白光に片手を翳しつつ、キッパリと名乗った。
「一応、オレたち3年の担当教師だろう。生徒の名前くらい覚えとけよ」
「えっ、ということは、あの人は祐一さんの先生なんですか!?」
栞が小さな叫びを上げる。
「そうよ。ジョージ・クーパー。今年から新任の3年生英語担当教師。これは、流石に驚いたわね。まさか、北川君の後釜かしら?」
「……ッ!?」
香里のその発言に、クーパーの傍らに立っていたもう1人の人影が反応を示した。随分な小柄であることから、その人物が女性であることは確かだった。
「美坂さんに、相沢君。貴方たち、どうして。一体――」
その声の主にも、祐一たちは心当たりがあった。クーパーと同じく新任の教師として、今年の4月から3年生の現代国語を担当し、同時に彼らのクラス担任を務めていた若い女性教師――
「江口先生」
「信じられないわね。これは、流石に予想してなかったわ」
今度こそ、祐一と香里は本気で驚愕していた。まさか、自分たちの担任の教師がこの一連の事件に関わっていたとは思っていなかったのだ。
それ以前に、江口素子という教師は若くて美人、しかも独身で優しいとあってクラスの生徒からは絶大な人気を誇っていた先生なのだ。彼らでなくても驚くというものである。
「あ、貴方たちこんな時間に……こんなところで、一体どうしたの」
「もう、下手な演技はいいですよ。江口先生」
慌てて場を取り繕おうとする江口を、祐一は冷めきった口調で制した。
「江口先生。それにクーパー。あんたらが、武田玲子を殺したんだろう?」
「な、なにを言っているの?」
「もう止めて下さい、先生。私は茶番と茶羽ゴキブリが大嫌いなんです」
尚も言い募ろうとする江口の言葉を、今度は香里が掻き消す。
「確かに証拠はありません。ですが、今この場に先生たちがいるという事実。これは、私の推論が正しかったことの何よりの証拠なんですよ」
「それよりも、香里さん。澤田さんの方を」
「ええ。お願いします」
珍しく切迫した様子の佐祐理に、香里は頷いて見せる。そして佐祐理と舞は、倒れている人影に走りよって行った。
立っている江口素子と、ゲイリー・クーパー。そして、倒れている3人目。これが、祐一、美汐、そして香里が想像していた今回の事件の犯人たちである。
「澤田さん、澤田さん! しっかりして下さい」
佐祐理は倒れている人影の傍らで膝を落とすと、彼を抱き上げた。近くで見ると、付近に巨大な血溜まりが出来ていることが分かる。源となっているのは、彼の腹部の右に突立てられたナイフであった。腹部の傷以外にも、右手に大袈裟な包帯が巻かれている。こちらも、大きな怪我なのかもしれない。
「う、あぁ……」
抱き起こされた少年は、微かな呻き声と共に閉じていた目蓋を開いた。
「澤田さん! 澤田さん、大丈夫ですか!?」
「見たところ、急所は外れてる。でも、出血量が多い。早く手当てしないと手遅れになる」
佐祐理の後から、ナイフの沈み込んでいる腹部を観察しつつ舞が呟いた。
「澤田さん、すぐに救急車を呼びますから、頑張ってくださいね」
そう言うと、佐祐理は素早くスカートのポケットから銀色の携帯電話を取り出した。だが、それを血まみれの手が制する。
「……ぅ……倉田……先輩、でしたね。ど、うか……救急車は、呼ばないで……僕をこのまま、死なせてください」
「そ、そんな! 何を言ってるんですか」
目の前で誰かが死のうとしている。なのに、何の手出しもしない。出来ない。もう、同じ過ちだけは繰り返したくなかった。
「佐祐――私の前では、もう誰も死なせたりしません」
彼女は涙声になりながらそう言った。
脳裏に、かつて見殺しにしてしまった弟、一弥の面影が甦り、そして今、腕の中で死にかけている澤田武士の相貌と重なる。それは、もう2度と戻ることのない笑顔を浮かべていた。
「もう、私は誰が死ぬところも見たくありません。だから……!」
「死なせてあげてください。倉田先輩」
冷たくて、断固とした声が背後から振ってきた。佐祐理はハッと振りかえる。そこには、天野美汐が表情のない顔で立っていた。
「このまま、死なせてあげてください」
美汐は、再びはっきりと言った。
「彼は――澤田武士は、それを望んでいます」
澤田武士。それが、竹下啓太を殺し、小田桐孝之、英之兄弟を殺した連続猟奇殺人事件の犯人の名だった。
to be continued...
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脱稿:2001/09/01
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