▼2000年6月19日(月)時点の生徒会役員一覧表
役職 |
1999年度
(前年) |
2000年度
(今年) |
セキュリティ・レベル
(=権力) |
生徒会長 |
よしだたくろう
吉田卓郎 |
くぜとおる
久瀬透 |
LEVEL 4 |
事務書記長 |
たけしたけいた
竹下啓太
(死亡) |
たけだれいこ
武田玲子
(死亡) |
LEVEL 3 |
会計長 |
おだぎりたかゆき
小田桐孝之
(死亡) |
おだぎりひでゆき
小田桐英之
(死亡) |
LEVEL 3 |
風紀委員長 |
さわだのりこ
澤田紀子
(死亡) |
うちだひろし
内田弘 |
LEVEL 2 |
23
6月20日(火曜日) 14:21
停留所から遠ざかったいくバスをボンヤリと見送ると、少年は太陽を見上げて眩しげに目を細めた。2年ぶりとなるの故郷の街の姿は、自分の中の記憶と殆ど変わっていない。彼は、そのことに安堵にも似た不思議な安心感を感じていた。
変化そのものが無ければ、つまり「進化」も「成長」もあり得ない。だがそれでも、「変わらない」ということが心地良く思えることもある。故郷の景色、というのはその代表的な例の1つであるに違いない。
そんな自分の思考に少年は軽く苦笑すると、右肩に担いだデイパックの位置を正し、左手でスーツケースを引っ張りながら歩き始めた。
――しかし『故郷』といっても、この街には全く思い入れはない。四国から父の仕事の都合で転勤が決まり、遥々海を超えてこの北国にやってきたはいいが、彼はすぐに海外留学に旅立った。実際にこの街で生活をしたのは、恐らく1週間程度であろう。
それでもこの場所に帰って来たことに落ちつきと懐かしさを感じるのは、つまり海外から日本に戻ってきたという実感のせいだ。要するに、この街に戻ったことに感傷を抱いているのではなく、久しぶりに見た自国の風景と雰囲気に懐かしさを感じているのだ。
そう言えば、父と母は元気にしているだろうか。
この2年間、電話1つ手紙1通やりとりしていなかったが、どういう生活を送っていたのだろう。
少年は、両親の面影をすぐに脳裏に思い描くことができなくなっている自分に少し驚いた。連絡をしなかったのは、少し異常だっただろうか。せめて半年に1度程度は、近状報告くらいはいれておくべきだったかもしれない。少しだけ、自分の薄情さに後悔する。
初めての、しかもたった1人での海外生活は思ったよりも大変だった。誰も助けてはくれない。何も頼りにはならない。自分で動き、自分で働きかけなければ何も変わらないのだ。そんな現実があったから、日々の生活に馴染むまで、それこそ目の回るような忙しさだった。
両親は2人とも仕事を持っているし、それなりに多忙な日々を送っていることだろう。敢えて連絡を入れる必要もあるまい。それに、ホームシックになったみたいで――あるいは、親に甘える子供のようで、手紙や電話を遣すなんて格好悪いではないか。
そんな色々な言い訳があって、結局、彼らとコンタクトを取ることは1度も無かった。
「しかし、覚えてるもんだな――」
少年は、我ながらに感心したような呟きを洩らす。2年前、僅か1週間程度滞在しただけだというのに、当時住んでいた我が家への道を何となくではあるが記憶している。多少迷うこともあったが、ほぼ真っ直ぐ見覚えのあるアパートに辿り着くことができた。
玄関口には大理石でできた台形型のプレートがあり、そこにアパートの住所と名前が彫り込まれている。同じような外観をした集合住宅が林立している地帯ゆえの配慮であろう。
――西6丁目5−14『コーポ・フレグランス』
その表示を確認して、少年は間違い無いと1つ頷く。そしてアパート玄関のガラス戸を押し開いた。
入るとすぐ正面に、銀色の集合ポストが並んでいた。203号室の文字を見つけると、そこには『北川』の2文字が黒の極太マジックで記されている。字が上手い、母の筆跡だ。
少年はその自宅のポストを開き、一応手紙の有無を確認する。そして左側にある階段を登っていった。
2階に上がると、手間から3番目のドアが北川家の玄関ドアになる。
さて、いきなり帰国してきた息子を見て、両親たちはどんな反応を示すであろうか。少年は想像して、ほくそ笑んだ。
この2年間で随分と背が伸びた。顔つきも変わっただろう。フランス語だって、ペラペラとはいかないまでも、大学で第2外国語として履修すれば、目を瞑っても「優」を取れるくらいにはなっているはず。きっと、息子のあまりの変貌ぶりに両親は仰天するに違いない。男子、3日会わざれば活目して見よ――とかいうやつだ。
まあ、まだ昼だから両親は勤めに出ていて留守にしているだろう。楽しみは夜だ。
そんなことを考えながら、彼はジーンズのポケットを漁り、玄関の鍵を取り出しつつ自宅へと向かう。
だが彼は、自宅に到達する前にその足をピタリと止めた。向かい側から廊下を歩いて来た男2組が、なんと203号室の前で止まり、何の躊躇もせず鍵を開け始めたからだ。
203号室は、間違い無く自分の家族が入居している部屋の筈だ。集合ポストにも、北川の名があったではないか。
……では、今その203号室の玄関の鍵を開けようとしている背広の2人組は何者なのか?
見たところ、どこにでもいそうなサラリーマンにしか見えないが、その顔は少年の記憶の中には無い。
「ちょっと、すみません」
少年は彼らの元に駆け寄ると、慌てて声を掛けた。
「その部屋になんか用ですか?」
すると、背広の2人組は驚いたような顔を少年に向けた。40代程度の背の低い男、そして30前後の背の高い若い男。やはり、その顔に見覚えは無い。
「わたしは、県警捜査1課の――」
そう言って、背の低い年配の方が背広の内ポケットから、ドラマの中でしかお目に掛かれない黒の手帳を取り出す。ただし刑事ドラマとは違って、表紙ではなく名前や階級が記されている写真つきのページを開いて見せつけてきた。
「渡辺刑事部長です。隣にいるのは、中田巡査長。我々は失踪している北川さんに関する調査のためこちらに伺っているわけですが、何か?」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。……失踪!?」
少年は驚愕していた。相手が刑事だというこも勿論だが、彼らの口から自分の名字が出たこと――
なにより、『失踪している北川さん』とは一体どういうことだろう。
「失踪って、オレはここにいますよ。そりゃ、この2年はフランスに留学してましたけど……でも、1度だって失踪した覚えは無いし、この留学には両親の許可だって得てる。当たり前でしょう? 警察の厄介になるようなことは何も無い筈だ」
少年は早口でそう言いたてる。刑事は、その勢いと内容に明らかに驚いているようだった。
「あの、失礼ですが」
恐る恐ると言った感じで、若い方――中田と紹介された刑事が口を開いた。
「あなたは?」
少年は間髪入れずに応えた。
「北川潤です。その家の住人ですよ」
24
「な、なんですか、それは〜〜〜〜!?」
6月20日火曜日(停学期間最終日)。
小田桐兄弟の死体が見つかった翌日の朝、佐祐理と舞のマンションに栞の絶叫が木霊する。マンションの全室が徹底した完全防音処理を施されているため、その声が近所付近に迷惑を及ぼす事がなかったのは、せめてもの幸いであった。
「せっかく今日で自宅謹慎処分も解けて、明日からはみんなで楽しく学園生活だと思ってたのに、無期限の休校とは、一体どういう了見ですか〜! 横暴です。暴挙です。もはや、これは嫌がらせに違いありません。人類の敵です! さあ、お姉ちゃん。今こそ立ち上がる時です。共に世の不条理と戦いましょう!」
朝食をとろうと全員が集まった午前8時の食堂で、栞が拳を握り締めつつ熱弁を奮う。
「――落ちつきなさい、栞」
既に食卓に就いて、ベーコン・エッグが乗せられた皿が運ばれてくるのを待ちながら、香里が諌める。因みに、今朝の食事係は祐一、名雪、佐祐理の3人だ。
このマンションでは、食事は当番制で自炊することが何時の間にか決められている。最近、秋子の手解きを受けて料理を覚えつつある祐一も、勿論メンバーとして勘定に含まれていた。
「これが黙っていられるか〜っ……です!」
プリプリと怒りながら、栞は言った。だが毎度のことだが、彼女が怒っても可愛さが先行して全く怖くはない。
「お姉ちゃん、なんでそんなにクールなんですか!」
「あたしだけじゃないわよ。栞、あなたが1人で盛り上がってるだけ」
「だって、学校が休校になっちゃったんですよ! これは天下の一大事です。なのにお姉ちゃんときたら、『――落ちつきなさい、栞』とかなんとか。まるでやる気ナッシングじゃないですか。そんなこと言う人、大っ嫌いです!」
そして栞は、涼しい顔をして食卓の向かい側に座る姉をキッと睨みつける。
「悔しくないんですか、お姉ちゃん。理事会の横暴と戦わないなんて、それでも軍人ですか!?」
「私は単なる美人よ」
サラリと香里は言うが、事実であったりするので、悔しいが誰も突っ込めない。
「それに、今回の事は仕方がないでしょう。一般に認知されてる分だけでも既に2人が殺されて、しかも校内でその死体が発見されたのよ? それに、犯人がまだ捕まっていないのも大きいわ。そうなれば、警察だって捜査しなくちゃならないし、万一を考えて生徒の安全も確保しなくちゃならない。事件が一区切りするまで休校するっていうのは、そう無茶な決定ではないわよ」
そうなのである。
実は今朝早く、学校の緊急連絡網で『本日20日より、本学は無期限の休校とする』という報せが全生徒の家庭に届いた。学級委員長である香里は、逸早くこの情報を仕入れてAMSの皆に伝えたわけであるが――
「でも! でも、あんまりですよ。お姉ちゃん、私がどれだけ学校に行きたかったか知ってるでしょう」
といった具合に、学校大好き少女の美坂栞は、当然のことながらこれに大反発した。ぷく〜っと頬を膨らませて、手をブンブンと振りまわしながら抗議の声を上げる。
「大丈夫ですよ、栞さん」
香里に代わって、美汐が諭すように言った。
「私の予測では、殺される可能性があるのは最大であと3人。自殺する確率があるのは最大で1人です。しかも、多分今月中に何らかの形で犯人の名前は挙がるでしょう。つまり、7月からは学校に行ける可能性は高いと考えて良さそうです」
「はぇ〜、と言うことは……天野さん、犯人が分かったんですか?」
食堂奥の厨房から、トレイに3人分のベーコンエッグを乗せてやってきた佐祐理が、大きな目を更に大きくして驚く。
「いえ。予想は着いていますが、断定はできません。彼がこれからどう動くかも、ちょっと不確定です。ただ、今回の事件に対する私なりの仮説はあります。それは、現時点で最も全ての出来事を上手く説明しているとは思うのですが――それでも、まだ不完全な部分が多いんです。特に生徒会という組織は完全なブラックボックスですから」
「確かに、生徒会の内情についてはまだ何も分かっていませんね」
「ええ。不確定性を内包する因子、或いは変数の集合体ですね。この件に対する捜査や調査が進まないのもそのせいです。ですから、我々は与えられた情報から想像するしかありません。しかし、その想像のレベルでも、犯人の目的くらいは当てられると思いますよ」
「えっ、えっ? なになに、その犯人の目的って」
佐祐理に続き、キッチンから姿を現した名雪が興味津々といった様子で訊く。
「犯人の目的ですか。それは簡単。復讐です」
「うぐぅ、復讐?」
何やら不穏な空気を感じ取ったのか、あゆが食卓の席で器用に身を竦める。
「はい。復讐です。竹下さんが殺された時点では、武田玲子さんの遺族が、娘を殺された復讐をしているのかとも考えていたのですが、それだと前年の役員を殺すのはおかしいですよね。
それに、死体の手首を切断したり、下半身を燃やしたりする理由がありません。ですが、これが怨恨からの殺人であるだけことは間違いないと思うんです」
暫くすると、祐一が朝食を載せたトレイを持って食堂に姿を現した。これで調理組の佐祐理、名雪、祐一が輪に加わり、AMSが全員集合したことになる。
皿とコーヒーが全員に行き渡ったのを見計らって、美汐は再び口を開いた。
「ですから、生徒会に退学させられた生徒が犯人という栞さんの考え方と、ベクトルは同じです。生徒会の役員を、連続して殺す。この動機として最もシンプルで論理的なものは、生徒会――延いては学校に対する『怨恨』しかありません。しかも、前年度の役員が主に殺されていることから考えて、その『怨恨』を生む切っ掛けとなった出来事が、去年起こった事は想像に難くないでしょう」
「……驚いたな」祐一は、言葉とは裏腹に不敵な微笑を浮かべて言った。「どうやら、天野の推理とオレの推理は全く同じらしい。多分、予想している犯人も」
「それに、私とも同じみたいね」
香里はガラス製のポットから、カップにコーヒーを注ぎつつ呟く。
「最初に天野さんが言った、『殺されるのは最大3人。自殺するのは最大1人』って言葉。これの自殺者する可能性がある1人っていうのは、犯人ね。そして、その人物は殺される可能性がある3人の内の1人でもある。……でしょ?」
「その通りです。全ては根拠のない空想でしかありませんが、納得のいく展開はそれしかないんです。生徒会の内部がどうなっているのか、内部で何が起こっているのか、それを知る術がない以上、推理や推測といったレベルでの仮説の構築は成立しませんからね。もはや、妄想とも近しい空想であれこれと考えてみるしかありません」
「お姉ちゃんも、祐一さんも犯人に目星が付いているんですか?」
「わ、だれだれ? 誰が犯人? わたしの知ってる人かな」
栞と名雪が俄かに騒ぎ出す。あゆは、怖いから聞きたくないようだ。
祐一は、とりあえず彼女たちを完璧に無視して、眉間に皺を寄せた険しい表情で呟いた。
「オレの考えが正しいと仮定すれば、犯人は今、かなり焦っているはずだ。殺せば殺すほど、ヤツの焦りは大きくなっていく。多分、前年度の生徒会長――吉田卓郎だったか。少なくともそいつは、既に真相と犯人に気付いているだろう。流石に、これだけ殺人が続けば悟れるはずだ」
「そして、それは生徒会に気付かれたのとほぼ同義」
香里が祐一の後を継ぐように言う。
「犯人は急がなくちゃならないわね。多分、今週中に全ての決着をつけるつもりで動き出すでしょう。警察も、生徒会関係者には注意の目を向けているだろうし、日本警察の捜査の仕方と思考をトレースした時、やはり彼らも、私たちと同じ人物を容疑者として疑っている筈。犯人は、色々な意味で追い詰められているわ。……もちろん、これは事件がまだ続くと仮定しての話だけどね」
「ね〜、教えてよー。犯人って誰?」
名雪は半分泣きそうな顔をしながら、祐一と香里の間で視線をさ迷わせる。
「ねえねぇ、だれなのー。ゆういち、教えてよー」
25
その洋館は、概観よりも寧ろ内装に意匠が凝らされていた。ナイフで抉り取ったように切立つフィヨルドを見れば分かる通り、北欧の自然は極めて厳しい。激しい寒さで外出さえも侭ならない人々は、自分たちの閉鎖された生活空間にその興味を向けた。その影響で、北欧の木製家具やインテリアは非常に洗練されていったのである。この屋敷にも、そんな北欧特有の事情が建築様式と内装に顕著に表れていた。
真夜中だというのに、右手一面にズラリと並んだ2重窓からは、明るい日の光が廊下の奥まで指し込んできている。ここ数年、海を渡った東方の北国で生活してきた彼であったが、やはり北欧はレベルが違う。正確無比に時を刻む愛用の軍用腕時計を見れば、時刻は真夜中の3時。それだというのに、外は昼間のように明るいのだ。
そんな夜の館の廊下を、彼はゆっくりとした歩調で淡々とゆく。ひっそりと静まり返った周囲に、その微かな足音が反響して消えて行った。
やがて彼は重厚な木製のドアの横でその歩みを止めると、軽くノックをしてから躊躇わずに入室した。
その広い部屋は、要人が使うような書斎――或いは執務室の様に見えた。入り口向かいの奥に、ドッシリと構えるマホガニィの巨大な机。その両側に、百科辞典のような分厚い背表紙がギッシリと詰め込まれたキャビネットと本棚。質素といえば質素かもしれないが、質実剛健。合理性を徹底追求したような、一種の神々しささえ感じられる部屋である。
「――出頭しました」
ドアを開き室内に足を踏み入れた男は、奥のデスクに腰を落としている部屋の主を見下ろしながら、低く言った。鈍りのない、完璧なクイーンズ・イングリッシュだ。
「ご苦労だったな、
砕破」
皺枯れた声が返る。皮張りの椅子に深深と腰を落としているのは、初老の男性であった。だが、老いているとはいえ、その眼光は極めて鋭い。
「ウム……いや、済まん。この任務でのお前の名は何だったかな?」
「キタガワです。ジュン・キタガワ」
まだ少年と言っても良いだろう。面影に幼さが微かに残るその男は、事務的に言った。
「そう。そうだったな」初老の男は頷く。「なんにせよ、これで今回の任務は終了だ。今日からはまた元の名に戻るがいい」
砕破(サイファー)と呼ばれた少年は、黙して応えない。
「しかし、久しいな。うむ、顔つきも変わっておる。こうして直接顔を合わせるのは2年ぶりになるか。――日本での生活はどうだった?」
デスクの男は、深い皺が幾筋も刻まれた口元を吊り上げた。
「お前はチョコレイト・ハウスで生まれ、チョコレイト・ハウスで育った。一般人に紛れた普通の学生生活を送るのは、初めてのことだったろう」
「任務を遂行するには、快適な環境でした」サイファーは、ニコリともせずに応える。
「そうか。任務か。それで、その任務の成果は?」
「会館の方はそろそろ限界かと。あの処理場はもう2年もフル稼働させてきました。元は取れたと言ってよいのでは」
「ウム。まあ、それは財団の方で判断しよう。お前の後釜として送った連中からも、何やら不穏な連絡が入ってきているしな」
男は、何度か小刻みに頷くと掠れた声で呟く。
「それで、最優先にしていた例の――」
「シリウスの瞳のイミテーションについては、奪還に成功しました」
そう言って、サイファーは懐から小さなプラスティック製のケースを取り出す。そしてその箱を開き、ダイヤモンドの輝きを放つイミテーションを示すと、デスクに置いた。
「勿論、マイクロ・ドットも無事です。一通り調べましたが、バックアップされた形跡もありませんでした」
「おお……流石だ」
男は仰々しくそれを手にとって眺めた。勿論、肉眼では埋め込まれたマイクロ・ドットは全く見えないが、それは関係がないらしい。とにかく、そのイミテーションが手元に戻ったことが何よりの吉報なのだ。
「これで、我々はまた1つ『シルヴィア・レポート』に近づいたことになる」
男は満足そうに笑った。
「しかし、民間人に始末の現場を見られたという話を聞いたが」
男は一転、眉間に皺を寄せてサイファーを睨む。
「らしからぬミスよな、サイファー。民間人の子供と言えど、殺しの現場を見られたからには消すべきではないのか。しかも、その高校生はお前の顔見知りであったと言うではないか」
「消すつもりだったのですが、邪魔が入りまして。無理に消すほどの価値はないかと」
「邪魔? シロウトがお前の邪魔をできるとでも言うつもりか」
デスクの男は、白い毛の混じった眉を片側だけ吊り上げる。だが、サイファーは動じなかった。
「素人ではありません。夜の闇の中で、正確に私を狙撃してきました。彼女がその気なら、この心臓を撃ち抜くことも出来たでしょう。あの精密機械を思わせる悪夢のような狙撃の腕。――あれは、明らかに専門的な訓練を積んだ狙撃手です」
「彼女だと! まさか……」
男は表情を凍り付かせた。年齢を感じさせる白い肌から、更に色を失う。
「まさか、DEATH=REBIRTHではあるまいな」
恐怖に彩られたその声は、滑稽なほど震えていた。
「それこそ、まさかでしょう」サイファーは即座に言う。「あの女の姿を感知した者は、生きて戻れない。私も例外ではありせん。それ故の『死神伝説』。――ですが、私はこうして生きています。それが、彼女がDEATH=REBIRTHでなかった何よりの証でしょう」
「では、何者だったというのだ?」
相手がDEATH=REBIRTHでないと聞き、男は安堵したらしい。力尽きたように椅子の背凭れに身を預けながら問う。
「あの死神以外の女が、お前と対等以上に戦えるか?」
「『荒鷹』と呼ばれた、フリーの傭兵をご存知ですか?」
「勿論だ。『Arcana Force』の設立案が最高幹部会で持ち上がった時、THE EMPRESSの座を用意しているという我々のスカウトを一蹴しよった、孤高にして愚かな女だよ。そのおかげで、ブラック・リストに載ることになった」
そこまで言って、男はサイファーの言葉の意味を悟り、深く頷く。
「そうか、コジロウ・タカヤマ。あの女か。狙撃とトラップでは、世界でも5指に入るスペシャリスト。DEATH=REBIRTHの『SSS』には及ばんが、確か財団によって『Aランク』指定されている不穏分子だったか。……なるほど。あれが現れたとなれば、お前が遅れをとるのも頷ける話よな」
「はっ」サイファーは頷く。
幼少の頃より工作員としての英才教育を受けてきた彼であるが、財団が『A級』以上とランキングしている、超一流の兵士たちにはまだ経験その他の面でまだ及ばない。財団のA級認定はそれほどに重い。人間の規格を逸脱した、本物のバケモノに与えられる称号である。なにより、財団に狙われて生きていられること自体が、彼らの存在が特別であることを証明していると言えるだろう。
増して、世界でただ1人『SSSランク』指定を受けているデス=リバースとなると、想像を絶する。死神をスポンサーに付けているとしか考えられない、人知を超えたリーサル・ウェポンだ。
たった1人の人間でありながら、彼女は戦略兵器として世界に認められているのである。何かが狂っているとしか思えない。
「そうか。荒鷹は日本にいたか。……しかし、何故、あの女がお前の邪魔をする?『孤高の鷹』とも呼ばれた奴ぞ。あれは、金では動かんと聞く。しかも、専属のガードは引き受けず、1仕事単位での依頼しか受け付けぬと言うではないか」
「その孤高の雌鷹を、専属のボディガードとして雇った人間が、日本にいるんですよ。信じられないことに、半年前高校を卒業したばかりの小娘がね」
「なに!」男は顎を摘むと、険しい表情で宙を睨む。「信じられんな」
「それから、これは任務とは直接関係ないのですが――」
微かに逡巡した様子を見せたが、サイファーは手に持っていた書類を男に差し出した。
「その鷹山と一緒に、偶然ですが、面白いサンプルとなるであろう少女を発見しました。目に見えない不可思議な怪物を操る能力を持っているようです。恐らく亜流の『具象思念』使いでしょう。
実際、この目でそれを目撃しましたが、そこそこのレヴェル――恐らく、C+(シー・マイナス)程度の強度はあったように思います。捕らえて渡せば、『チョコレイト・ハウス』の研究者たちは喜ぶでしょう」
「ほう、李の送った連中を壊滅させたとかいう少女か。C+とはネイティヴと考えればなかなかよな」
初老の男はその報告に関心を抱いたのか、ニヤリと唇の端を吊り上げた。そして差し出された書類を手に取り、1枚目を捲る。そこには、艶やかな長い黒髪と切れ長な瞳を持った、まさに東洋の美女といった女性の写真と、そのプロフィールが記されていた。
東洋人の子供は実際年齢よりも幼く見えるというから、恐らく20歳前後であろう。真一文字に結ばれた口元と、鋭く細められたその目は、彼女の意思の強さを代弁しているかのようだ。
チョコレイト・ハウスの研究対象になっているのは、2〜10歳の幼児が大半だが、C+となるとネイティヴのサンプルとしては珍しく高レヴェルの異能者である。確保してみてもいいかもしれない。
男は低く喉で笑うと、写真の少女を見詰めながらその名を冷たく呟いた。
「MAI KAWASUMI、か……」
to be continued...
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脱稿:2001/08/18 02:34:58
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