7
香里が通う高校は、私立の進学校でありながら『完全週休二日制』を早い時期から導入しているという、不思議な特徴を持っていた。公立ならばまだ頷ける話であるが、香里の知る限り、私学で土曜日を無条件に休校としている学校は、県内でも珍しい。だが、香里自身はこのシステムを歓迎していた。
日本人は、とにかく勤勉過ぎる。それが、彼女の認識だったからだ。仕事にしても勉強にしても、合理化を図り、短時間に集中してこなした方が効率が良いに決まっている。 根性だ気合だといって、無駄な方向にエネルギーを使い、ガムシャラに長時間を費やせば良いという考え方は下等だし、彼女にとって絶え難いエネルギーの浪費でしかなかった。だから、香里は『努力』という言葉が嫌いだった。
こんな言葉をわざわざ作らなくとも、努力する人間はする。概念はあった方が便利かもしれないが、わざわざ口に出してみるほどの価値はない。古い時代には必要だったのかもしれないが、人類だって無駄に歴史を積み重ねているわけではないのだ。
そんなことを考えながら、香里はその貴重な土曜日を、自室での読書に費やしていた。
「香里、お客様よ」
不意に階下から聞こえてきた母・
沙織の声に、香里はふと視線を本から壁掛け時計にスライドさせた。
なるほど、約束の時間の2分前だ。彼女は納得すると、読みかけのページ数を記憶し、本を閉じて立ち上がった。部屋を出て階段を降りると、沙織がまだ1階の手摺りのあたりで香里を待っている。
「お友達かしら、倉田さんっていう女性。門のところで待ってるわ」
彼女は、階段を降りてくる娘を上目遣いに見上げながら言った。
「ありがとう。約束していた人よ」
礼を返すと、沙織は一瞬だけ微笑を見せて、すぐに踵を返した。そしてそのままリビングへと続く廊下を戻りかけるが、何かを思い出したのか、再び香里を振り返った。
「出かけるんでしょう? 帰りは何時頃になるかしら」
「夕食までには戻れると思うわ」
「そう。いってらっしゃい」
親友の母親には及ばないものの、それでも年齢からすれば随分と若々しい美坂沙織は、そう言い残すと今度こそ廊下の奥へ消えて行った。その背中を途中まで見送ると、香里は靴を履いて玄関を出る。外は見事なまでに晴れ渡っていたが、一応折り畳み傘は持参することにした。
「あ、美坂さ〜ん。こんにちは〜」
煉瓦敷きの洒落た小道を挟んだ門の前で、薄い栗色の髪が印象的な女性が手を振っていた。香里ほど見事なウェーブではないが、くるくると少し癖っ毛なのが、また彼女に良く似合ってチャーミングだ。
「すみません、倉田先輩。厚かましいお願いをした挙句、わざわざ迎えにきていただいて」
自分の背よりほんの少しだけ低い丈の鉄門を潜ると、香里は軽く頭を下げた。
「あははー。ちっとも構いませんよ」
ひまわりのように笑う佐祐理の後には、胴の長い黒塗りのリムジンが停まっていた。普通の4人乗り乗用車より、座席2列分ほど後部が拡張されている。つまり、8人乗りだ。
運転席と助手席より後部の座席ウインドウには、白いレースのカーテンが掛かっていて、中を覗うことはできないようになっている。ただ、前から3番目のドアが開いていて、その奥に川澄舞が乗っているのは見えた。どうやら、ストローでオレンジ・ジュースを啜っているようだ。よって、香里は眼中にないらしい。
「あ、これですか?」
香里の視線がリムジンに向いていることに気付いた佐祐理は、嬉しそうに言った。いや、彼女はいつも嬉しそうに、もしくは楽しそうにしているので、これは特筆する必要はないかもしれない。
「今日は人数が多いので、舞のバイクは使えないんですよ。だから、車を用意しておきました。勿論、佐祐理は免許を持っていませんから、運転手さん付きですよ」
佐祐理が言うと、車体を挟んで向かい側に立っていた若い女性が上品に会釈してきた。意図的に気配を消していたのだろうか、香里はその時になって、はじめて彼女の存在に気付いた。
「倉田家にお仕えしております、
鷹山と申します」
社長秘書のような、黒のパンツ・スーツに身を包んだ彼女は、香里に歩み寄ると再び頭を下げる。言葉遣いは丁寧なのだが、それに温度が感じられない。どこか、冷たいような声音だ。
「今日は、皆さんを御車でご案内させていただくことになっています。どうぞ、よろしくお願いします」
「美坂です。こちらこそ、お世話になります」
年の頃は恐らく20後半か、上でも30前半。川澄舞よりも更に10cmほど長身(つまり、190cm前後)で、目付きが妙に鋭いことに目を瞑れば、結構な美人だ。ただし、化粧はまったくしていない。見事なまでの素っぴんだ。
人種は、明らかに生っ粋のアジア系ではない。白人の血が混じっているのは一目瞭然だった。背中の半ばまで伸びた頭髪の色は、黒。だが、その瞳は限りなく深いブルーだ。挙動に妙に隙がなく、纏う雰囲気も凛とし過ぎていて鋭利ですらある。たとえるなら、日本刀のような切れ味があった。
「……ええと、ルートからすると、私が最初ですよね?」
香里は、ざっと目的地までの地図と道順を脳裏に描き出しながら言った。彼女は、祐一と違ってこの街のベテランだ。したがって、土地鑑もバッチリである。
「ええ、そうです。これから、祐一さんたちをお迎えに行って、それから武田さんのアパートに向かう予定です。鷹山さんは運転が上手ですから、すぐに着きますよー」
佐祐理から、『武田玲子のアパートに行く』という話を聞いた時、香里はそれに同伴させて貰えるよう、自ら申し出た。武田とは生徒会を通じてそれなりの面識があったし、何より、この件に興味があったからだ。
こんな不謹慎な興味を事件に抱く辺り、祐一の悪癖が伝染したのかもしれない。逆に、美汐は他人が自殺で死のうが、他殺で死のうが関心がなかったらしい。佐祐理の誘いを断って、今回は同行していない。
「それでは、鷹山さん。出発進行です」
「承知しました」
乗り込んだ佐祐理のリムジンは、非常に乗り心地が良かった。内装も豪華で、座席が全て皮張りなのは勿論、ワインボックスと言うのだろうか、ジュースやカクテルを冷蔵保存しておける小型の冷蔵庫や、グラスが納まった棚などもある。
また、振動が非常に小さいのも特徴で、発進の際に微かな揺れを感じた以外は、本当に走っているのかと疑惑を抱かせるほど静かだった。「滑るような走り」という表現は、こんな時にこそ相応しいのだろう。
車で移動すると、水瀬家までは10分も掛からなかった。水瀬家を訪ねる時は、徒歩で20分ほどの時間を掛けることが常であるせいか、香里にとっては、本当にあっという間に感じる。
「では、祐一さんを呼んできましょう」
「……私も行く」
車が完全に停車すると、佐祐理と舞はさっさと車を降りていった。
「あ、先輩。私もご一緒します」
ドアを開けると、香里は慌てて彼女たちの後を追った。
佐祐理たちがやってくるのを心待ちにしていたのか、チャイムを押すと、すぐに玄関のドアが開き、無地のシンプルな白いシャツにジーンズ姿の祐一が姿を現した。彼には、こう言う飾気のないプレーンな服装が1番良く似合う。洒落っ気を出して着飾ってしまうと、逆にダメなタイプだ。少なくとも、香里はそう評価していた。
そこまで考えて、香里は、最近、彼の私服姿を見慣れてきている自分に気付いた。この事実は、どう解釈するべきであろうか。少なくとも、同年代の異性の中で、パッと私服姿を脳裏に描き出せる人物と言えば、相沢祐一が唯一の存在だ。つまり、それだけ彼との付き合いが親密になったということだろう。
これは、かつてなかったことだ。果たして、良い徴候なのだろうか。それとも、退化なのだろうか。香里には、判断がつかない。
「あははー、祐一さん。こんにちは」
「こんにちは、佐祐理さん」
佐祐理と笑顔を交換すると、祐一は香里と舞にも同様に挨拶した。
「うおっ、今日はリムジンかい! ブルジョワジー」
門を潜った瞬間、視界に飛び込んできた高級車に、祐一は少なからず驚いたらしい。意味不明な言葉を口走って、その驚愕を表現している。
「すげ〜。長いぞ。長いリムジンだ。TVでは見たことあったが、まさか実在するとは……」
「なに興奮してるのよ、相沢君」
ギャーギャーと騒ぎたてる祐一が恥ずかしくなって、香里は言った。
「参加者は、相沢君だけ? 名雪はこないの」
「ああ、名雪なら来ないぞ。あいつは、秋子さんと一緒に病院に行ってるからな」
「病院?」怪訝そうな表情で、香里は呟いた。
「はぇ〜。名雪さん、どこか悪いんですか?」佐祐理も心配そうに言う。
「いや。ちょっと寝起きが悪過ぎる以外はいたって健康だよ」
祐一は苦笑いしながら言った。
「そうじゃなくて、迎え。今日、あゆの奴が退院してくるんですよ。あいつ、病院を出たら水瀬家に引き取られることになってたから」
「ああ、7年間の昏睡状態から目覚めたっていう噂の少女……」
香里が、ポンと小さく手を打ちながら言った。
「そう。その噂の少女だ」
意外かもしれないが、あゆの存在は少なからず有名であったりする。勿論、プライバシー保護のため、一般には実名は伏せられて報道されていたが、7年もの超長期に渡る昏睡状態から覚醒したケースは、世界でも珍しい。そのため、医学界は勿論、地元ではちょっとした時の人になっているのだ。
祐一は極親しい友人(つまり、香里や佐祐理、舞たちのことだ)には『月宮あゆ』とのことを予め教えていたため、香里たちもその辺りの事情は大体把握していた。
「退院ですか。良かったですね〜」佐祐理は、自分のことのように喜んでいた。
「ま、昏睡から醒めたのは4ヶ月も前の話だったんですけどね。何せ、7年も惰眠貪っていたもんだから体が鈍りに鈍っていて、リハビリに時間がかかったんですよ」
うぐぅ、うぐぅ言いながら、歩行器に掴まって必死に体を慣らしていたあゆの姿を思い出し、祐一はクスリと笑う。
「あいつ、天涯孤独の身でね。だから、世話好きの秋子さんが引き取るって言い出したんです」
月宮あゆは、7年前、祐一がこの町にいたときに知り合った少女の名だ。それから親しくなって一緒に良く遊んだものなのだが、ある時、木登りをしていた彼女が頭から転落して意識を失うという事故が起こった。
結局、祐一はそのまま町を後にして、あゆとはそれっきりだったわけだが――兎に角、彼女は7年間の昏睡状態から奇跡の覚醒を果たし、遂に戻ってくるわけだ。淡々と語ってはいるが、そのことを1番喜んでいるのは祐一本人である筈だった。
「なかなか活発な子だったって話だから、また水瀬家は賑やかになりそうね」
「ああ、ホントだぜ」
香里の言葉に、祐一は肩を竦める。だが、その口元には満更でもないという笑みが浮かんでいた。
「うぐぅ〜! 祐一君だ〜!!」
「そうそう。なかなか上手いな。そんな感じに、またうぐぅ、うぐぅと喧しく……」
言いかけて、祐一はハッと目を見開く。
「……って、なにィ?」
慌てて声のした方を振り向けば、背中に小さな白い羽を背負った少女が、こちらに向かってパタパタと元気に駆けて来る。
とても同い年とは思えない小さな体と、幼さの残る相貌。そして、地球が誕生して間もなく土星から飛来してきた、≪邪神ツァトゥグァ≫によってもたらされ、謎の原住民・ヴーアミ族によってヒッソリと伝えられてきたという(嘘)、あの伝説の『うぐぅ言語』。――間違いなく、月宮うぐぅ本人である。
その少し後方には、そんな『うぐぅ』の様子を微笑ましく見守っている水瀬親子の姿があった。
「うぐぅ! 祐一く〜ん、会いたかったよぅ」
うぐぅは全力疾走で祐一との間合いを詰め、そのままの勢いで祐一に向かって飛翔する。そのアクションを一言で表すなら――そう、「私の全てを受けとめて」だ。
だが対する祐一は、自分に向かって渾身のタックルを仕掛けて来る少女に本能的な危険を感じ取り――
「右っ! いや、正面か?……だが、当たらんよ!」
……などと口走りつつ、これを避けた。
「う、うぐぅぅぅ〜〜!?」
計算外だったのは、少女である。結果的に抱きつく対象を失った彼女は、そのまま華麗なダイビングを続け、やがて頭から地面に着地を果たす。そして、ズザザザ……という凄い摩擦音と共に、アスファルトに顔面を擦り付けていった。
そのブレ―キングの甲斐あって、彼女は漸くポテッと崩れ落ちる恰好で、着陸を完了させることに成功。祐一は、やんややんやの喝采をもってそれを祝福した。
「おお、相変わらず凄いパフォーマンスだな。その体のキレ、スピード、角度ともに他の追随を許さない。流石だな、あゆ! 素晴らしく恰好良かったぞ」
「ちっともカッコ良くなんかないよっ」
ガバッと跳ね起きた少女は、目に涙を溜めながら抗議の声を上げる。あれほど激しく顔面を擦り付けたというのに、鼻の頭が少し赤くなっている程度というのは、やはり特筆に価する偉業なのだろうか。
「うぐぅ……祐一君がまた避けた」
あゆは、その大きな瞳いっぱいに涙を溜めて、悲しそうに言う。そして祐一は、昔から彼女のそんな顔が苦手だった。
「いや、悪かったな。だけどな、あゆよ。突如、『うぐうぐ』言う羽付きの正体不明生物が飛びかかってくれば、誰でも回避行動をとると思うぞ?」
「うぐぅ……でも、感動の再会が」
「再会って言っても、昨日、ちゃんと病院に会いに行ってやっただろう?」
「うぐぅ」
だが、まだ納得のいかない様子のあゆは、俯いたまま何時もの笑顔を見せてくれない。
「……ふぅ」
祐一は彼女に気づかれないように小さな溜め息を吐くと、「仕方ない」という調子で肩を竦める。 そして、慎重に彼女の小さな体を腕の中に収めた。俗に言う、抱擁である。
「あ」 驚いて少し目を見開くあゆに、祐一は優しく告げた。
「おかえり、あゆ。お前が目覚めなくなって、オレ、凄く悲しかったんだぞ」
それこそ、記憶を封じてしまうほどに。
「だから、もう、勝手に眠っちまったら駄目だぞ」
その声は、あゆも、名雪も、香里も、そして佐祐理も聞いたことがないほど、優しい声だった。
唯一舞だけは、その祐一のあたたかい声音に聞き覚えがあった。魔との決着をつけた日、『ずっと一緒にいる』と約束してくれた、あの時の声と同じだ。
「うん。ボクはもう、祐一君たちとずっと一緒にいるよ」
あゆは満面の笑みに涙を流しながら、頷いた。そして、祐一の胸に頬を摺り寄せ、子猫のようにのどをならす。そこには、アメリカのホームコメディも裸足で逃げ出すような、微笑ましい光景が広がっていた。
「うう、良い話だよ」
「そうね……」
エグエグと感動の涙を流す名雪と、そんな彼女にそっとハンカチを渡してやる香里。妹の栞が退院してきたときも同じような感動があるのではないかと思うと、香里にしても、ジンと目頭が熱くなってくる。
「あはは〜。では、話もまとまったところで、さっそくお出かけしましょう、祐一さん」
「はぁ〜い。佐祐理さぁ〜ん、今行きま〜っす」
佐祐理の呼びかけにデレ〜っと鼻の下を伸ばす祐一は、抱きしめていたあゆをポイっと投げ捨てると、美人のお姉さんにイソイソと駆け寄った。
一方、突如支えとなるものを失ったあゆは、再びアスファルトと口付けを交わすことになる。
「いやあ、休みの日にも佐祐理さんに会えて、しかも一緒に出掛けられるなんて、オレは幸せだなぁ」
「あはは〜。佐祐理も嬉しいです。あ、紹介しますね。こちら、運転手を務めてくださる鷹山さん。普段は、佐祐理専属のボディガードで、SASの技術教官をされていた方なんです。しかも、ライフルのゴールド・メダリストで、女性なんですが、舞と同じくらい強いんですよー」
「はじめまして。
鷹山小次郎です」
「おおっ、これはまた、凄い美人! はじめまして。相沢祐一、断固独身です。結婚を視野にいれた親密なお付き合いを、どうぞよろしくおねがいしまっす!」
「あははー。祐一さんは佐祐理の大事なお友達なので、彼のこともよろしくお願いしますね、鷹山さん」
「承知しました」
「でも、鷹山さんって背が高いですね。しかも、女性なのに小次郎って名前なんですか?」
「はい。実はこれには理由がありまして――」
和やかな会話が進み、彼らは楽しげな笑みを浮かべてリムジンに乗り込んでいく。
一方、束の間のヒロイン・タイムに終止符を打たれたあゆの心には、季節外れの木枯らしが吹いていた。
「う、うぐぅ……祐一君がまたすてた〜!」
8
祐一が『メイプル・グランハイツ』という名のアパートに足を運ぶのは、これが通算2度目である。もちろん、1度目は忘れもしない武田玲子の自殺死体を発見した、あの時だ。今でも、天井からぶら下がる彼女の姿を思い出すと、食事も満足に喉を通らなくなる。
だから、ダイエットをどうしても成功さたい人間は、自殺した人間の死体を見るといい。発見時の光景を頭の中で思い出すだけで、一時的な拒食症にかかることができる。嫌でも痩せるという寸法だ。
――そんなことを考えながら、祐一はそのコンフォート・グレーの外壁を見上げていた。
リムジンを降り、一行が武田玲子の部屋であった106号室を訪ねると、玲子の母である博子が出迎えてくれた。先日、佐祐理があった時は和服姿であったが、今日は動き易い洋服を着ている。彼女は遺品の整理をするためにここに来ているわけだからして、作業のしやすい恰好を心掛けるのは当然のことだろう。
「倉田さん、来ていただけたのですね。お忙しいところを申し訳ありません」
「約束でしたから。当然ですよ」
深深と頭を下げる博子に、佐祐理は笑顔で言った。
「えっと、玲子さんのお友達を連れてきたんですけど、ちょっと……沢山いるんですよ」
「まあ、この方たち皆が玲子のお友達なのですか?」
玄関口に押しかけた祐一たちを見て、婦人は驚いたようだった。無理もない。佐祐理を筆頭として、その親友である舞、祐一、香里、何故か着いて来ることになった名雪とあゆ。それから佐祐理専属の護衛兼運転手である鷹山小次郎と、総勢7人がそこに並んでいるのだ。
「はじめまして。玲子の母、博子です。皆さん、今日は玲子のために本当にありがとう御座います」
「いえいえ。みんな、玲子さんのお友達ですから」一同を代表して、佐祐理がにこやかに応える。
「では、どうぞお上がり下さい。狭い上に散らかっておりますが」
「はい。お邪魔します」
佐祐理を先頭にして、一行はドヤドヤと武田玲子の部屋に足を踏み入れる。確かに狭いというのは謙遜などではなく、室内は独り暮しの女性に充分と言える程度のスペースしかなく、流石に10人近くが上がり込むと、多少窮屈に感じられた。
「部屋の片付けは、今日1日で終わらせるのですか?」
居間を見回しながら、香里は言った。流石に年頃の女性だけあって、部屋には装飾品や小物の類いが多い。これを1日で整理するのは、至難と思われた。
「いえ、ええと……」
「ああ、失礼しました。私は、美坂といいます。美坂香里。玲子さんとは同学年で、生徒会を通じてお付き合いさせていただいておりました。今回のことは、お悔やみ申し上げます」
今時の女子高生と言うにはあまりに礼儀を心得た香里に、婦人は些か面食らったようだった。暫く言葉を失い、その後慌てて頭を下げる。
「すみません。美坂さんですね」
そう言ってから、博子婦人は苦笑する。
「あまりにしっかりなさっているものですから、驚きました。……ええと、お部屋の片付けの方は、今日・明日と2日掛ける予定です。夫が仕事で参加できないものですから、私ひとりで作業しなくてはならないので」
そして、感慨深げに彼女は室内を見回した。
「今日は、大きな家具の類いを粗方運び出す予定です。そして、明日お掃除をして、管理人さんに鍵をお返しすることになっています」
「そうですか。でしたら、人手が必要でしょう? 都合の良いことに、あそこに、木偶の棒のように突っ立っている男がおります」
そう言って、香里は祐一を指差す。
「元気と力だけが取り柄の人間ですので、是非使ってやってください」
「誰が、知性と美貌、その他色々が取り柄のナイスガイだって?」
自分の陰口を耳聡く聞きつけた祐一が、2人に歩み寄ってくる。
「あら、顔と頭と性格に続いて、遂に耳まで悪くなったの? これで4重苦ね、相沢君。元気と力だけが取り柄の、木偶の棒――と私は言ったのよ」
「ふん。どうせ、お前の口の悪さを貰ったら、めでたく5重苦だよ。ほっとけ」
憮然とした表情で祐一は言い返した。
「……フフフ」
だが、2人の遣り取りを聞いていた婦人は、やがて堪えかねたように笑い出した。
「相沢さんとおっしゃるんですか? こちらの美坂さんと随分仲が宜しいんですね」
可笑しさのあまり零れてくる涙をハンカチで拭いながら、婦人は言う。もしかするとそれは、娘の死を聞いて以来、初めて見せる笑顔だったのかしれない。期待していた効果が現れたことに、香里と祐一はアイコンタクトを交わして喜び合った。
「はは。喧嘩ばかりなんですがね。ま、喧嘩するほど仲が良いってことにしておいて下さい」
祐一は目を細めながら言った。
「しかし、どうして玲子さんはアパートで独り暮しを? 学校から、実家は遠いんですか」
「いえ、家はサウスブロックですから、学校からは徒歩で通える距離です」
サウスブロックというと、町の南区のことだろう。越してきたばかりで、市内の地理にすら明るくない祐一であったが、その区域に佐祐理のマンションがあることから、南区が高級住宅街であることは何となく分かった。
「家は、昔から建て増しを繰り返してきた古い家で、最近、その中でも1番古くから残っている部分の老朽化が激しくなってきたんです。それで、その部分だけ新しく建て代えることにしたのですが……」
「ああ。つまり、その老朽化して新築する部分に、玲子さんの部屋があったわけですね?」
話の内容を先読みした香里が言った。彼女はこの手の予測が得意で、しかも生まれてから1度も外したことがない。
「そうです。あの子、大学に進学したら独り暮しをしたがっていたし、部屋が取り壊されて困っていましたから、社会勉強もかねて特別に独り暮しをさせてやろうということになって。それで、大学の近くに安いアパートを借りて、独り暮しの予行演習をさせていたわけです」
「――なるほど、納得しました」
香里はスッキリした表情で言った。
それがどんなに些細なものであっても、謎が解けた瞬間の開放感のようなものが、彼女は好きだった。だから、香里は常に進路を理系を選択してきた。文系では、解答が曖昧――つまり問われるものにファジィな要素が多く、謎がキッチリ解明できるという保証がされていない問題が多いからである。
別にそれに苦手意識を持っているわけではないが、好みとして問題にはキッチリ白黒が着けられる方が良いのだ。
「では、美坂さん、相沢さん。お気に召したものがありましたら、お持ち帰り下さい。どうせ処分するものですから、遠慮はいりません」
「分かりました。人手が必要な時は、いつでも言って下さい。お手伝いしますから」
香里が言うと、婦人は軽く頭を下げて笑う。
「その時は、お願いしますね。私は、表でトラックの荷台に荷物を積み込んでおりますので」
そう言い残すと、彼女は玄関から外に出ていった。
今の言葉から察するに、ここに来る途中アパートの前で見かけた軽トラックは、今日のために武田夫人がレンタルしてきたものなのだろう。
これで謎がまた1つ解けたわけだ。香里は、機嫌良く作業に向かった。
to be continued...
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