垂直落下式妹
Hiroki Maki
広木真紀




5



 2日後、武田玲子の死は、自殺として報道された。
 事件も捜査も、極めて単純なものだった。動機や遺書などは見つからなかったが、状況から考えて自殺以外にあり得ない。警察はそう判断し、この事件を早々に結論付けた。捜査は一般報道があった日には打ちきられ、警察は一件から速やかに手を引き、全ての幕は下りた。
 もちろん、世間的には小さな事件であるが、祐一たちの学校では大騒ぎである。なにせ、生徒会の中枢にいた優秀な生徒の1人が自殺したのだ。武田玲子の死が発表された日には、全校集会が臨時で行われ生徒たちは彼女に黙祷を捧げた。

「――でも、倉田先輩たちの話を総合する限り、不審な点は幾つかあるわよね」
 午後12時30分。いつもの公園で、いつもの様に祐一たちと昼食をとっていた美坂香里は、手際良く皿におかずを取り分けながら言った。
「不審な点、ですか?」
 この件にはさほど関心を持っていないのか、天野美汐は表情を変えずに問い返す。
「倉田先輩と会う約束をしていたにも関わらず、なんで彼女は先に自殺したのかしら。しかも死亡推定時刻は、倉田先輩との電話を終えてから僅か4時間後の、午前3時。明らかに不自然だとは思わない?」
「……うーん。確かに、ちょっと変かもしれないね。私なら、4時間後に死んじゃうつもりなら、電話なんかかけないよ」
 水瀬名雪は、親友の指摘にウンウンと頷きながら言った。いかにも『切れ者』といった感じの香里に対し、トロンと眠たげでどこかボーっとしたスローペースの名雪。全くタイプの違う2人だが、彼女たちは高校に入学して以来の無二の親友といった間柄だ。この辺り、特徴的に舞と佐祐理の関係に近しいものがある。
「名雪の場合、佐祐理さんと電話する以前に寝ちまうだろう。お前にとっては、23時も夜中の3時も同じ未知の世界なんだからな」
 彼女の寝起きの悪さに毎朝苦しめられている祐一が、従妹の少女にジト目をくれながら言った。
「うー。祐一がまた酷いこと言ってるよ」
「事実だろ」
 祐一は両親の仕事の都合で、現在親戚の『水瀬家』に居候として厄介になっている。名雪はその水瀬家の一人娘で、祐一とは幼馴染みであり、イトコ同士という間柄だ。つまり、2人は1つ屋根の下に暮らす同居人ということになる。
 そこまでは良いのだが、問題は、数十個の目覚し時計の大合唱でも目を醒まさない彼女を、毎朝多大な労力を強いられながら目覚めさせ、遅刻ギリギリで登校することを余儀なくされているという事実だ。名雪を朝起こすのは、何故か何時か祐一の役目と決まってしまっていたのである。

「――それから、警察の対応もどこか変よね。倉田先輩の証言で、彼女が何かに怯えていたってことが分かってるのに、彼らはさっさと『自殺』と断定して捜査を打ちきってる。普通、不審な要素があったらそれなりに調べてみるものじゃないかしら?」
「……なんだか香里の言い分を聞いてると、武田玲子が自殺じゃないとでも言いたいように思えるんだが、オレの気のせいか?」
 祐一は最後に残った唐揚げを巡り、舞と激しい争奪戦を繰り広げながら言った。
「可能性の問題よ。顔見知りの子が自殺したって言うのに、スッキリ事が片付かないなんて後味悪いじゃない」
「香里は、完璧主義者みたいなところあるもんね」
 何が嬉しいのか、ニッコリと笑いながら名雪は言った。
「確かに色々気になることはあるけど、決定的な自殺っていう証拠があるんだぜ? 警察だって忙しいだろうし、グゥの音も出ない状況証拠が揃ってんだから、深入りなんてしないさ」
 ――そう。祐一の言う通り、警察がこの件を早々に『自殺』と断定したのには、それなりの理由がある。些細な違和感や不審な点など、一蹴してしまえる程に強力な説得力をもつ自殺の証拠だ。
「状況証拠って、侵入経路が事実上ないっていうアレですか?」
 今まで一同の話を黙って聞いていた佐祐理が、初めて口を挟んだ。
「そう。武田玲子の家に外部からの侵入経路はなかった」
 祐一は、舞との唐揚げ争奪戦に敗れ、滝のような涙を流しながら言った。
「武田玲子の住んでいた106号室には、外との接点が合計4ヵ所あった。まず、玄関。これは内側から鍵がかかっていて、おまけにチェーンまでしてあったらしい。当然、ここからは誰も入れない。それから、裏手にあるベランダのガラス戸。これにも、内側から鍵が掛かっていた。これは、何よりオレ本人が確認している」
 その時の様子を思い出したのか、祐一は微かに顔を歪めた。
「あの鍵は結構シッカリした造りになっていて、どうこう細工できるシロモノじゃないらしい。だから、ここも白だ。それから、トイレの窓。これはA4のノートくらいの大きさしかない。子供だってここから出入りすることはできないだろうな。
 最後に、風呂場の窓だが、これもアウトだ。一応窓は窓だが、普通の奴じゃなくてガラスで出来たブラインドって感じのものらしいからな。これも、人が通れるような隙間はないし、細工をした形跡もなかったらしい」

「……ミステリ小説でいうところの、『密室』というやつですね」
「ウム。ミッシーの言う通り、あの部屋は事実上の密室状態になっていたのだ。よって殺人の線は消える。消去法で行けば、もう自殺しかない」
 美汐の言葉に大袈裟に頷くと、祐一は言った。
「警察も最近忙しいようですからね。たかが高校の女子生徒の自殺と思われる事件程度に、無駄な時間をかけるとは思えません。ただ、気になるのは……この件に、学校の上層部が圧力をかけたという可能性があることです」
「え。それ、本当なの?」はじめて聞く話に、名雪は少し目を大きくする。
「ええ。まあ、噂程度の信憑性の低い話ですが、全くあり得ないかと言うとそうでもありません」
「ウチの学校は、外面に煩いから。自殺程度でイメージを悪くしたくないんじゃないかしら」
 その香里の指摘には、充分に頷けるものがあった。
「それは置いておくとしても……だ。天野、お前、そんな情報どこから仕入れてくるんだ?」
 祐一のもっともな質問に、美汐は唇を斜めにして不敵に笑う。
「――残念ですが、その手の質問には答えかねます」
「あははー。ヒ・ミ・ツということですね」
 佐祐理が、人差し指をチョンチョンとリズミカルに揺らしながら、楽しそうに言う。
「謎は、謎のままにしておいた方が良いこともありますからね」
 美汐は目を細めて、再び微笑んだ。




6




 武田玲子の親族と名乗る女性が、倉田佐祐理のマンションを訪れたのは、翌日の夕刻のことだった。
 歳は40歳前後か、今時珍しく、和服――淡い紫色をした着物に身を包んだその女性は、確かに佐祐理の知る武田玲子に面影が似通っていた。
 佐祐理にとっては思わぬ来客であったが、彼女は笑顔のモードを上手にシフトさせて――相手は、わが子を失ったばかりの遺族なのだ――その婦人を迎え入れると、いつもの応接セットに案内した。
 佐祐理は、今年大学に入学したばかりの18歳の娘であるが、地元政界の大物、倉田圭一郎くらたけいいちろうの一人娘であり、若くして事業を成功させ巨万の富を築き上げた大富豪でもあることから、既に社交界のビッグネームとしてその名を轟かせている。
 そんな彼女が、街の南側一帯に広がる高級住宅街の一角に5階建ての億ションを築き、それを住処とし始めたのは高校を卒業してからのこと。今から、4ヶ月前の話だ。
 佐祐理の建設したマンションには、3LDKの部屋が全部で25戸あるのだが、分譲は全くしておらず、親友の川澄舞と共に5つのフロアに跨って、優雅に暮らしている。もちろん、このマンションは佐祐理が自分の稼ぎで建てたものであり、彼女は他にも市の内外に幾つかの大型物件を所有していた。
 客人も、高校卒業したての少女が自力で築き上げたというこのマンションのグレードとスケールに、些か圧倒されるものがあったらしい。応接間に通され、ソファに腰を落としても、暫し室内をキョロキョロと見回していた。ある意味、無作法ではあるが、気持ちは分かるというものである。
 最上階に構えられたその応接室は、3LDK全室の壁をぶち抜き、単独の一部屋として改造したものだった。20畳を超える広大なスペースには、一面に毛並みの長い白の絨毯が敷かれており、部屋の中央部に10人は腰掛けることが出来るであろう、巨大な皮張りのソファが鎮座している。部屋の奥は、カウンタ付きのバーになっているようで、彼女に出されたコーヒーはそこで淹れられたものらしい。
 天井が高く、採光性に優れた大きな窓が幾つもあるせいで、部屋の中は日が落ちかけているにも関わらず、かなり明るかった。

「すみません、お待たせしまして」
 自分の分のオレンジ・ジュースをお盆に載せて、家主の倉田佐祐理が応接セットに戻ってきた。
「使用人がいないものですから、こういう時ちょっと不便なんですよー」
 彼女はニッコリと完璧な笑顔を浮かべて、武田婦人の向かいのソファに腰を落とした。体重を全く感じさせない、極度に洗練された優雅な動作である。
「あ、いえ……」
 そんな佐祐理に見取れていたことに気付き、婦人は慌ててそう言い繕った。
「こちらこそ、突然押し掛けてしまって申し訳御座いません」
 彼女は丁寧に頭を下げると、居住まいを正す。
「申し遅れましたが、わたくし、武田玲子の母で武田博子たけだひろこと申します」
「あ、どうも。私は、倉田佐祐理ですー。玲子さんとは、あまり顔を合わせる機会はなかったのですが、それでも仲良くしていただいてたんですよ」
 それから幾分声のトーンを落として、佐祐理は言った。
「この度のことは、本当にご愁傷様でした。私も本当にショックで、未だに信じられないと言いますか……まさか、自分があんな場面に遭遇するなんて」
 普段は、自分のことを『佐祐理』と呼ぶ彼女だが、今日は来客モードのようだ。
 事業に手を出して以来、彼女も社会に様々なことを学んだ。奔放で自由な彼女にとって、それはある意味で退化であったのかもしれないが、とにかく彼女が変わったことだけは確かなようだ。
「実を申しますと、私もそうです」
 暫くの沈黙の後、武田博子は低い声でそう言った。
「どうしても、玲子がいなくなってしまったことが、信じられなくて……」
 婦人は、白いハンカチで目元を拭う。
玲子が亡くなって、まだ4日しか経っていない。佐祐理も、昨日執り行われた葬儀には出席したが、博子婦人の心労は相当のもののように思えた。それで尚、わざわざ自分を訪ねてきたのだ。相当のことに違いない。佐祐理はそう考え、表情を引き締めた。

「警察の方は、自殺だと仰っていましたが、私は到底それが信じられないのです」
 言葉を紡ぐことさえ、今は苦痛を伴う作業なのだろう。武田博子は、一言一言を噛み締めるようにして、漸くそれだけを告げた。
「あの子は、自殺をするような娘じゃ、ないんです……」
 確かに、佐祐理の知る範囲で『武田玲子』という少女は、自殺というイメージから1番かけ離れたタイプの娘だった。明るく社交的で、歳相応にエネルギッシュであった彼女は、とても独りで悩みを抱えて、首を括るような思えない種の人間だ。
「私も、玲子さんの自殺をそのままストレートに受け入れることには、多少の抵抗を感じています」
 オレンジジュースのグラスを持ち上げ、ストローで氷を軽くかき混ぜながら佐祐理は言った。耳に心地良い、涼しげな音が透明感を伴って周囲に響く。
「あの日、私が玲子さんから電話をいただいたことは、ご存知だと思います。警察が発表した死亡推定時刻は、電話で言葉を交わした23時から約4時間後の午前3時前後。私と翌日会う約束をしていながら、僅か4時間の内に考え方を変えて自殺に及んだとは、ちょっと考え難いです」
 ただ、問題としなくてはならないのは、「自殺」でなければ「他殺」しかないということだ。表の反対は、裏。この場合、事をひっくり返せば、『殺人』という厄介な問題が浮上してくる。
「ですから、武田さんが娘さんの自殺を信じられないと言う気持ちは、少しですが分かるような気がします。状況的に、という条件付ですが、玲子さんの自殺には不審な点が付き纏いますから」
 武田博子は、佐祐理の言葉に軽く頷きながら、相変わらず涙を拭っていた。その姿は、佐祐理の口元から微笑を奪うには充分過ぎるほど痛ましかった。
 我が子を失った親の心痛とは、果たして如何ほどのものか。佐祐理には、想像すらつかない。だが、大切な家族を失ってしまうことの哀しさなら、良く知っているつもりだった。彼女はかつて、大変仲の良かった、たったひとりの幼い弟を亡くしてしまった経験がある。
「――でも、警察の調べでは、玲子さんの部屋はあらゆる面から完全に人の入り込めるスペースはなかったそうです。玄関も、ベランダのガラス戸も、その全部に鍵が掛けられていた。確かに、この事実を考えると、玲子さんの自殺は疑い様のないものです」
「ええ、それは……分かっているつもりです」
 掠れた声で、婦人は言った。
「それに、あの子は誰かに恨まれるような、そんな子ではありませんから」
「はい。玲子さんは、とっても良い方でしたよ」
 佐祐理は、漸く婦人と微笑を交換することができた。

「あの、それで……」
 婦人は、漸く本題に入る気になったようだった。控えめに、佐祐理の大きな瞳を覗き込む。
「2、3日の内に、玲子の遺品の整理をすることになりました。いつまでも……あの部屋を空けておくわけにもいきませんし」
 そう言って、婦人はまた物憂いげに目を伏せた。実の娘が死んだ。だが、まだそれを信じられない。受け入れられない。なのに現実には、通夜を終え、葬式を行い、部屋の片付けをしようとしている。 それらは、娘の死を受け入れる行為だ。そのギャップが、また苦しいものなのだろう。
「遺品を――。そうですか。そう言えば、玲子さんはアパートに独り暮しでしたね」
 なぜ玲子が高校生でありながら独り暮しをしていたのか、佐祐理は知らなかったが、彼女が亡くなってしまった以上、婦人の言う通り、現実問題としてアパートを引き払うのは当然の流れだろう。
 住人のいなくなった部屋を無駄にいつまでも賃貸しておくわけにもいかないことくらいは理解できる。
「ええ。それで、よければ倉田さんにも立ち会っていただきたいのです。何か、あの子の身の回りのものを……せめて、お友達の方にも持っていて欲しくて。あ、いえ、すみません。勝手なことを申しまして」
 婦人は自分の感傷を佐祐理に押しつけていたことに気付き、慌てて謝罪した。
「あの子がどなたと親しくしていたかは、良く知らないのです。それで、その、勝手ではありますが、警察の方から倉田さんのお話を伺いましたもので」
「そうですか」佐祐理は納得したように、小さく頷きながら言った。
 武田玲子が自殺したのは、4日前の午前3時。他人との最後の接触が行われたのは、その4時間前、23時頃の電話であることがハッキリしている。つまり、直接は会っていないものの、彼女と最後に言葉を交わしたのは倉田佐祐理その人なのだ。
 この件は、勿論警察も既に知っているから、そのことを婦人は聞きつけたのだろう。理解できるとまでは言わないが、娘の身の回りの物を親しかった友人・知人に貰って欲しい。そう考えるのも、何となく佐祐理には分かる気がした。遺品を渡すことで、娘のことを1人でも多くの人に覚えておいてもらいたい。無粋な行為だが、言葉に還元すれば、つまりそういう心境からくる願いなのだろう。
「あははー。分かりました。もちろん、喜んでうかがいますよ。武田さんは、佐祐理のお友達ですから」
 沈痛な面持ちの婦人を少しでも励まそうと、精一杯の笑みを浮かべて見せる。
「あ、それからですね。私の他にも、色々と武田さんのお友達に心当たりがあるのですが、その方達もお連れして構いませんか?」
「え、……ええ」
 他にも友達がいる、という話に婦人は微笑む。その笑顔は、なにか、硬く結ばれていた紐がゆっくりと解けていくようなイメージを佐祐理に抱かせた。
「勿論です。詳しい日程は、決まり次第改めてお報せいたしますので。申し訳ありませんが、どうかよろしくお願いします」







to be continued...
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