エピローグ
3月が終わった。
雪に閉ざされていた街にも本格的な春が訪れ、視界を覆っていた白い粉雪のベールは舞散る桜の吹雪に変わった。学生たちとっては、新しい年度の始まりである。
この春、倉田佐祐理と川澄舞は、既に合格を決めていた市内の大学に揃って入学した。佐祐理は経済学を、舞は生物学を専攻するそうだ。彼女たちのことである、きっと類を見ない破天荒なキャンパス・ライフになるに違いない。高級マンションから、黒のBMWのサイドカーで颯爽と通学する美女2人の存在は、早くも学園の注目を集め始めたようだ。
相沢祐一と、その幼馴染みの水瀬名雪、そして美坂香里は揃って高校3年生になった。泣いても笑っても高校最後の年。俗に言う受験戦争が彼らを待っている。進級と共にクラスの再編成が行われたが、3人とも理系のコースを選択したため、今年も同じクラスになることができたようだ。特に名雪は、それを大いに喜んでいた。
北川潤の存在は、生徒会と理事会の協議の結果、除籍処分となったようだ。身分詐称をしていた生徒だからして、その存在そのものを抹消しようということらしい。『除籍』は『退学』と違って、学校に生徒として登録されていた記録そのものが、完全に無かったことにされる。つまり、北川は名実ともに祐一たちの前から消え去ったことになるわけだ。香里の予測通り、もう彼が皆の前に姿を現すことも無いだろう。
ただ、消え去った彼ではあったが、幾つかの謎は残していっている。祐一たちの様々な調査に寄れば、北川潤は高校1年生の入学の時、余所から引っ越してきたらしい。つまり、元々地元の人間ではなかったわけだ。ところが、この街に来る前、どこに居たのかはまるで分からない。住民票の移動の形跡も、全く残っていなかった。判明している事実だけを総合するなら、彼は2年前、突如この街に15歳の少年の姿で生れ落ち、高校1年生として祐一たちの学校に入学したことになる。15歳以前の彼の経歴に関するデータは一切無く、また住民票や戸籍に登録されていた彼の両親の存在は、架空のものだった。
――天野美汐は、この春高校2年生になった。
今回の事件を切っ掛けに、祐一をはじめその周囲の人間とも仲良くなった彼女は、昼休みになると彼らと共に昼食を共にするようになったらしい。学校の近くにある公園に彼らは集まり、大学からわざわざ駆け付ける舞と佐祐理も含めて、皆で和気藹々と弁当箱を突つく。無愛想なのは相変わらずだが、これで彼女も中々、社交的になってきたようだ。そして今日も、祐一に『オバさんくさい』とからかわれては、憮然とした表情で遣り返す。しばらくは、こんな日々が続きそうだ。
*
事件の方は、雑技団の全滅を以って一応の解決となった。警察は、雑技団の背後に存在すると思われる組織について引き続き捜査を続けているが、これは全くと言って良いほど進展していないらしい。結局、北川の行方も掴めていない。
雑技団は、連続した宝石泥棒の犯人として報道され、暫くの間センセーショナルな話題を呼んだ。彼らの盗んだ宝石は、その後の捜査でその殆どが発見され、持ち主の元へ還された。勿論、佐祐理の『シリウスの瞳』も彼女の手元に戻った。被害にあった『Aries』の店長である富田女史は、これを非常に喜び、祐一たちに礼状を送った。また、香里が予測していた通り、保険会社もこの結末に大いに安堵したようだった。おかけで、非公式な形ではあるが、祐一は保険会社から金一封をはじめとする色々なプレゼントを受けとることになって、終始ウハウハだった。
そんなこんなで、「シリウスの瞳盗難事件」は一応のハッピーエンドを迎えたわけである。
*
「みっしおん!」
「……っ!?」
校門の隅、壁に肩から軽く凭れ掛かるようにして佇んでいた美汐に、祐一は背後からいきなり抱きついた。
腕の中で、華奢な彼女の体が緊張で硬直するのが分かる。勿論、硬直と言っても、腕に抱いた彼女の肢体はすこぶる柔らかい。
「な、ななな!」
驚いて呂律の回らない美汐には、普段のクールな面持ちは微塵も見受けられなかった。この辺りは、普通の高校2年生らしい一面を覗かせる。
「待たせたか、みしおん。ごめんな。愛してるぞ」
美汐の反応が思ったより面白かったのか、祐一は更に悪戯心を刺激され、ニヤリと邪まな笑みを浮かべる。そして、むぎゅ〜っと彼女を抱く腕に力を込めながら、耳元に囁いた。
「なにやってるの、この色ボケ!」
そんな祐一の後頭部に、香里のモース硬度11のぐーパンチが炸裂する。
「ぐっはぁ〜」
5リットルほど吐血しながら、見事に陥没した後頭部を抱えて祐一は辺りを転げ回る。
「痛い〜! 頭が、頭が凹む様にイタイ〜」
「自業自得よ」
香里は腕を組んで仁王立ちすると、無様にのたうち回る祐一を冷たく見下ろす。
「まったく。ダイヤが象徴するような無垢な女子生徒を、いきなり抱くだなんてどういう了見よ。これは犯罪よ、立派な犯罪」
「うう……何だよ、そのダイヤが象徴するってのは」
不死身の肉体を持つ祐一は、常人なら致命傷となり得る打撃を食らいながら、早くも立ち上がろうとしている。
「知らない? 宝石には、花言葉のように象徴するイメージや言葉があるのよ。ダイヤの場合は4月の誕生石になっていて、『純潔』というイメージを重ねられているわ。因みに、私の誕生石は幸福、長寿、聡明を象徴するアクアマリン。先月、誕生日だったこともあるし。遠慮無くプレゼントしていいのよ?」
「するか!」
痛みに涙を流しながら叫ぶ祐一に、香里は一言、「あら、残念ね」と返した。
「ねえねえ、香里〜。わたしは? わたしの誕生石は? ……イチゴ? イチゴかな」
気が付くと、にこにこ笑いながら香里の服の裾を名雪が引っ張っている。
「あ。ちなみに、わたしの誕生日はね、クリスマスの――」
「2日前、12月の23日だったわね」
流石、親友。香里はキチンと名雪の誕生日を覚えていた。
「それから、どうでもいいんだけど、苺は宝石じゃないわよ」
「違うよ。イチゴは宝石だよ」
名雪は満面の笑みを浮かべて、己にとっての絶対的な真理を語った。
「12月の誕生石は、『ラピスラズリ』ですね」
結局、香里に代わって答えたのは、祐一ショックから復活した美汐だった。
「これは、成功、繁栄、健康、愛和などを象徴すると言われています。こうして列挙してみると、特に健康と愛和あたりは水瀬先輩にピッタリですね」
「フッ。相変わらず、みしおんの『おばあちゃんの知恵袋』ぶりは健在だな」
「実は私も12月生まれでして。水瀬先輩と同じなんですよ。それから、相沢さん。その『みしおん』というの、是非やめてください」
「なんだよ。ミッシーでもない。みしおんでもない」
大袈裟な手振りで、祐一は言った。
「それじゃ、あんた。あのコの一体なんなのさ?」
「……私が何か、ですか」
そう呟き、美汐は不思議な微笑を浮かべる。
「それは私が1番知りたい問題ですよ、相沢さん。私が何者なのか。私という存在は何なのか。思うに、『解なし』が1番正解に近しい解答だとは思いませんか?」
「全然」
祐一は胸を張って大威張りしながら、キッパリと言う。
「オレには『スーパー・ミシオカンデ』が何を言っているのか、さっぱり分からん」
「人をニュートリノ検出実験装置みたく言わないでください」
ツンと美汐は冷たく突っぱねる。だが、祐一はそれくらいで堪えるような人間ではなかった。
「いや、オレにとってはさ。天野はニュートリノより捕まえるのが難しい、魅惑の観測対象なんだよ」
「それなら、諦めたほうがいいですね」
スリスリとにじり寄って来る祐一を、キッと睨み付けて彼女は言った。
「捕まえられる見込みは、きっとクォークより小さいですよ?」
そのやりとりに香里が最初に吹き出し、次いで祐一と美汐が笑い出した。ただ1人、名雪だけは意味が理解できずに、不思議そうな顔をする。
一頻り笑った彼らは、やがて肩を揃えて歩き出した。今日は始業式のみということもあって、学校は午前で終わった。これから一行は、商店街に繰り出し、残りの午後を有意義に過ごそうという予定だ。
「しかし、後味の悪い事件だったよな……」
ハラハラと舞散る桜の花弁をボンヤリと眺めながら、祐一は思い出したように言った。
「事件というと、先の『シリウスの瞳』関連の件ですか?」
「ああ」美汐の言葉に、祐一は軽く頷く。「あれからと言うもの、北川の奴がいつ拳銃を持ってオレを殺しに来るかと気になって仕方がない」
「あら、それって歓迎すべきことじゃない?」
香里が悪戯っぽい視線を祐一に投げかけ、風に踊る桜と同じ色をした唇を開く。
「未来が気になる。将来が予測できない。それって、幸せなことなのよ」
香里は、重病と戦う妹のことを思い出していた。もうじき全快して退院してくる予定の彼女も、1度は『死の宣告』を受けた深刻な患者だった。次の誕生日まで生きられない。そう告げられた彼女にとって、未来は存在しなかった。どうせ死ぬ。考えるまでも無く、近い将来自分は消え去る。最悪の未来が約束された妹。絶望しか見えない将来。
「自由と不自由の違い、分かる?」
香里は3人の顔を順々に見詰めながら、優しく問うた。祐一と名雪は首を左右し、美汐は目を細めてそれに応える。暫くの沈黙の後、香里は俳句でも詠むように言った。
「未来や将来が予測できず、それが不確定であることを実感できる状態が自由。確実な未来が予測され、将来のヴィジョンが明確に描き出せる状態が不自由よ。少なくとも、私はそういう境界線を持っているわ」
「……なるほど。面白い解釈ではありますね」
少し思考すると、美汐は感心したように言った。
「そう。だから、教師たちが私たち受験生によく言う、『この受験で一生が決まるんだぞ』なんていう陳腐な文句は、自らの自由を制限する愚か極まりないものだわ。どこに就職しようが、いつ試験に落ちようが、何度リストラされようが、自分はいつだって如何にかなる。世界や環境がどんなに変わっても、自分はいつだって如何にかしてみせる。――それが自由人の発想であり、強さよ」
香里は足取りも軽く、桜並木を歩きながら祐一と美汐を振りかえる。
「18歳の子供の、大学進学をかけた、たった1回の試験で人生が決まる? 30歳の若者の、たった1度の就職試験で将来が決まる? もし本気でそう思ってるなら、その人間は間違いなく低能かつ下等ね。
3分の1しか生きてない分際で、勝手に人生決めるなっていうのよ。そういう連中は気付きもしないでしょうけどね、人間が一生かけて追う価値がある夢や研究対象なんて、この世にはゴロゴロ転がっているものよ。精神と発想の自由さえ捨てなければ、人間はいつだって希望を抱いていられるわ。私はそのことを、たった1人の妹から学んだの」
香里は粉雪のように音も無く振ってくる桜を仰ぎ、笑った。
「殺されるかもしれない。そうでないかもしれない。命の行方が、少しも予測出来ない。将来、自分がどうしてるかなんて、想像もつかない。10年先の未来、私はどうしてるだろう。どんな人と出会って、その人の側で、どんな笑顔を浮かべているだろう。そんな風に思って、未来を見詰められる。
……ねえ、これ以上の幸福が他にあるかしら?」
Fin
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次回作『垂直落下式妹』
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