Dの微熱
Hiroki Maki
広木真紀




15



「どうしたんだ、ミッシー!? なんでこんなところにミッシーがいるんだ?
何故だ。何故なんだ、ミッシー!! 答えてくれ、ミッスィー!!

「そうミッシー、ミッシーと恥ずかしい呼び名で連呼しないで下さい」
 祐一の後部座席に座っていた天野美汐あまの みしおは、その柳眉を顰めて抗議の声を上げた。よほど恥ずかしいのか、俯き加減のその顔は一目見て明らかな程に紅潮している。
「OK、ミッシー。お互い、腹を割って話そうじゃないか」
 大袈裟なジェスチャーを見せて、祐一は言った。
「ですから、私をミッシーと呼ぶのは是非やめてください」
「なんでだよ。無愛想な天野には、ミッシーくらい可愛らしいニックネームがあった方が良いと思うぞ?」
「――大きなお世話です」
 ミッシーこと、天野美汐は素っ気無くそう言った。
 彼女は祐一と同じ学園に通う後輩で、この春から2年生になる少女である。ふとしたことで彼らは知り合い、その間には友情とも愛情ともつかない、奇妙な信頼関係が成り立っている。だが、学年も違い、これといった接点もないに関わらず、何故こうまで親しくなってしまったのか。訊ねられても、2人は上手くその理由を説明できないに違いない。
「しかし、天野の私服姿を見るのは久しぶりだな」
 祐一は顎に手をやると、ジロジロと無遠慮に美汐を観察した。
「うむ。なかなか魅力的だぞ。新鮮だしな。合格!」
「それはどうも」
 照れたのか、いつも以上にぶっきらぼうな口調で美汐は言った。
 祐一の言葉は決して世辞ではなく、美汐は本来、目を見張るような美人タイプだ。その社交性を完全に否定するような行動パターンと、どこか翳のある表情が、彼女本来の魅力を軽減させてきた節はあるものの、場合によっては、そんな負の面さえも「神秘的」というプラスの評価に変えてしまうくらいの力が彼女にはある。
 今日の服装は、彼女らしく地味に纏められていた。膝あたりまでの白い無地のスカートに、シャツ。その上に紺色のカーディガン。見事に相手の記憶に残らないような、味も素っ気もないファッションである。が、何故か彼女には良く似合っていたし、祐一の評価通り魅力的にも見えた。
「で、美汐はどうしてこんなところにいるんだ? デートか」
「いえ。残念ながら、1人です」
 だと思った、と言いかけて祐一は慌てて口を噤んだ。
 美汐はどう見ても、友人が多いタイプではない。愛想ゼロだ。そして、友情以上に恋愛感情にも遠い少女でもある。浮いた話しも全く聞かない。きっと彼女は、異性としての男性に存在価値を認めていないに違いないというのが、祐一の考えだった。
「贔屓にしている米屋で、この雑技団のチケットを戴いたのです。放置するのも勿体無いので、折角ですからこうして足を運んだという次第です」
「……ふぅ。相変わらず、なんともオバさんくさい話だな」
 ニヤリと意地悪く笑って、祐一は言った。
「花も恥らう女子高校生に『オバさん』とは失礼ですね。せめて、経済観念のしっかりした美少女くらいは言って欲しいものです」

「さて、夫婦漫才はその辺で良いかしら?」
 横から、どこか不機嫌な香里の声が掛かった。
「これは申し訳ありません。美坂先輩、それに川澄先輩。失礼しました」
「あら」素直に頭を下げる美汐の言葉に、香里は少し驚いたようだった。「貴女、あたしたちを?」
「無論です。2年の学年主席・美坂香里の名は、貴女が思っているより有名なのではないでしょうか。もちろん、川澄先輩の噂もまた有名であることは、私が改めて言うまでもありませんね」
 澄ました表情で、美汐は言った。
 事実、香里はその才色兼備もあって、全校のちょっとしたアイドルだったりする。たとえ学年は違っても、彼女に密かな憧れの視線を向ける男子学生は数多い。
 逆に舞が有名なのは、悪評からだ。誤解を受けても敢えて弁解も釈明もしない彼女は、何かと生徒会や教育指導教官に目を付けられやすいポジションにあった。一時は、退学処分を下されかけるまで事態が発展したこともある。
「それで、先程の話ですが――」
 美汐は落ち着いた口調で仕切りなおした。
「高価な宝石には、必ずイミテーションが存在すると言います。勿論、ダミーとは言ってもシロウトでは容易には見分けることはできません。これを持って、今夜倉庫街へ行くことを私はお薦めします」
「なあ、ミッシー」
 暫くの沈黙の後、難しい表情で祐一は口を開いた。
「天野です」
「なあ、天野。お前、どこからオレたちの話を聞いてた?」
「洗いざらい、全て聞かせていただきました」
 それを聞いて、祐一はズコッと転ぶ。
「聞くな!」
「いえ、聞くなと申されましても、聞こえたものは仕方がないでしょう。むしろ、こんな人口密度の高い場所で『拉致』だの『脅迫電話』だの、挙句の果てには『殺される』だのと、実に物騒極まりない単語を人目を憚らず叫ぶ方に問題があると思うのですが」
「もっともな言い分ね」と香里。
「祐一が悪い」と舞。
「うなぎりもの!」と祐一。
 どうやら、彼の味方は誰一人としていないようであった。
「因みに、それを言うなら『裏切り者』です。日本語は正しく使ってくださいね、相沢さん」
 トドメはやはり美汐が刺した。
「――断片的に耳に入ってきた情報から察するに、相沢さんがまた余計な厄介事に手を出して、盗品の『シリウスの瞳』を入手。周囲の知人友人に迷惑を掛け回った挙句、最終的に同級生の北川さんという方を犯人グループに拉致されてしまった、という喜劇であると解釈しますがいかがでしょうか?」
「巻き込まれたあたしとしては、喜劇ならぬ悲劇なんだけどね。まぁ、大筋はその通りだわ」
 香里はジト目で祐一を苛めながら、美汐の分析を認めた。
「なるほど。それで、どうするつもりなんですか。相沢さん」
 香里の言葉にひとつ頷くと、再び視線を祐一に戻して美汐は言う。
「喜劇とは言いましたが、相沢さんに死なれてしまっては、私としても流石に洒落にならないものがあるのですが」
「おお。オレを心配してくれるとは。やはり、ミッシーはオレを愛して――」
「ません」
 キッパリと断言する美汐に、彼女を抱きしめようとしたポーズのまま、祐一はガックリと崩れ落ちた。
「あなたは、一応でも私の顔見知りなんですよ? しかも、今日こうして言葉を交わしたわけです。そんな人物が、明日の朝刊の死亡欄に並んでいたら寝覚めが悪いなんてものではありません。殺されるなら、せめて2〜3ヶ月の間を置いてからにして下さい」
「祐ちゃん、ショック!」
 あんまりと言えばあんまりな言われように、そう叫ぶと祐一はオイオイと号泣し出した。
「ちょ、ちょっと相沢さん?」
 流石に悪戯が過ぎたと思ったのだろう。美汐は慌てて彼の肩に手をやる。
「冗談です。相沢さんに危険な目にあって欲しくないんです。あなたは……あなたは、その、私の大切な友人ですから」
「ホントか?」
 泣いていた筈の祐一は、0.2秒で復活し、無駄に爽やかな笑みを浮かべて美汐に迫った。
「ほ、本当です」
「じゃ、オレのこと嫌いじゃないんだな?」
「嫌いじゃありません」
「じゃ、好きか?」
「え……」ピタリと美汐の動作が凍り付く。
「オレのこと、好き?」
「え、ええとですね、それは――」
「やっぱり嫌いなんだなー。オレなんか、奴らに殺されちまえばいいと思ってるんだ!」
 再び号泣する祐一。傍目からはこの上なくワザとらしく見えるのだが、不幸にもこの時の美汐は些か動転していた。従って、祐一のウソ泣きを見抜けない。
「そんなこと思ってません。……好きです。相沢さんのこと、好きですから」
「ホントか!?」
 泣いていた筈の祐一は、0.1秒で復活し、満面の笑みを浮かべながら美汐に再度迫る。
「ほ、本当です。あ、でも、あくまでそれは友人としての好きであって、つまりですね、要するにその感情はあくまでライクであって――」
 慌てて言い繕う美汐であったが、祐一は既に聞いちゃいない。
「じゃ、抱かせてくれ! ミッシー・アイ・ニージュー!!」
「いい加減にしなさい」
 ドスッ! っという鈍い音と共に、香里の拳が祐一のボディに埋め込まれた。
「ぐっはー!!」
 祐一は2リットルほど吐血しながら、辺りをのたうちまわる。その様を冷たく見下ろしながら、香里は低い声で言った。
「……相沢君。真面目に考えるようにと忠告しておいたはずよ。連中は、北川君とあたし、それにあなたを始末しようとしているんだから。コメディやってる余裕なんかあたしたちにはないの。本当、ふざけてると死ぬわよ?」
「なんだよ。オレはただ、場の重苦しい雰囲気を和ませようと――」
「キッチリ逆効果よ」
 祐一の見苦しい言訳を、香里はそう一蹴して見せた。
「とにかく。考えなくちゃならないのは、警察に頼らずどうやってこの件を上手く処理するかよ。多分、連中はダイヤを受け取った瞬間、あたしたちを殺そうとするはずよ。この最悪の事態だけは、どうやっても避けなくちゃならないわ。そうでないと、天野さんの言う通り、あたしと相沢君、ついでに北川君は並んで仲良く翌日の朝刊の死亡欄に載ることになるわ」
「だな」
 祐一は表情を引き締めて言った。モードを、コメディからシリアスに切り替えたらしい。
「ここで問題になるのは、奴らがどうやってオレたちを消そうとするかだ」
「どういった武器を所持しているかも考えるべきでしょう」
 後ろの席から、チョコンと顔を覗かせて美汐は言った。
「この雑技団なら、或いは本国からのルートで銃器も持ち込めるかもしれません。改造拳銃や、トカレフあたりですね。粗悪品が多いと思いますが、それでも人は殺せます。それに、こういった国境を超えるプロの犯罪では、多くの場合『実行犯』『運び屋』『逃がし屋』『闇ブローカー』というように、それぞれ専門とするプロによって役割分担がなされているものです。
 つまり、盗品を国外に出そうとする今回の犯罪に、『運び屋』が介入している可能性は、充分に考えられるわけです。だとすれば、そのルートで銃器を密輸入し実行犯が受けとっていたとしても、なんら不思議はないでしょう」
「う〜む、銃か。ハンドガンの1つ2つならどうにかなるだろうが、マシンガンやら散弾銃、アサルトライフルなんかが出てくると、どうしようもないな」
 祐一は神妙な顔つきで腕を組む。そして、舞に視線を向けると訊いた。
「なぁ、舞。重火器持ってる連中が相手だとして、何人まで無傷で倒せる?」
 少し考えると、舞はゆっくりと口を開いた。
「――実際に戦ったことがないから分からない。それに、状況によっても変わってくる」
 そう前置きした上で、彼女は続けた。
「至近距離でなら、多分3人は倒せる。でも、距離が離れると、相手が1人でも無傷で倒せるかは分からない。でも、相手がこちらの存在に気付いてないなら、“魔”を使えば何十人いても勝てる可能性はある」
「魔? それって何かしら」
 香里が首を傾げながら言った。美人タイプの彼女だが、こう言う仕種は年相応に可愛らしい。
「信じられないかもしれないが、舞は一種の超能力者なんだ」
「……祐一」
 素直に語り出す祐一を、舞は珍しくあからさまに顔を顰めて咎める。
「大丈夫さ、舞。香里も美汐もこれで結構優しいんだぜ? くだらない理由でお前を蔑んだり、偏見の目を向けたりするような人間じゃない。信じても良いんだ」
 舞は暫し逡巡する様子を見せたが、最終的には沈黙した。
「超能力、ですか」
 美汐は表情こそ変えていなかったが、声音は明らかに懐疑的なものだった。
「そういうのは、信じないタイプか?」
「いえ、反証がありませんから。否定はしません。存在する可能性は認めます」
「あたしも天野さんと同じクチね。積極的に信じはしないけど、完全に否定もしないわ。言わなかったかしら。完全に消去できるまで、可能性はいつも真実に成り得る。これがあたしの持論よ」
 香里も肩を竦めて、美汐に賛同の意を表する。案外この2人、タイプが似ているだけあって思考のパターンも近しいのかもしれない。
「まあ、信じる信じないは別にしてだな。今分かっている範囲では、どうやら舞は、想いを形に変える力を持っているらしいんだ。具体的には、目には見えない――不可視の存在ではあるが、物理的な影響を持つ5体の怪物を作り出せる。でもって、これを自在に操れるわけだ。素手で人間を捻り殺せるくらいにヤバイ奴らだぜ?」
「目に見えないというのは分かりますが」
「それでいて、物理的な影響力を持つの? こちらから触れたりもできるわけ」
 美汐と香里は顔を見合わせる。
「そうだ。姿は見えないが、物理的な接触は双方向で可能だ。武器を使えば、倒すこともできる。逆に、向こうの物理攻撃でこっちが殺される事だってありだ」
「聞いてみると、超能力というよりは、思念体を生み出す能力みたいですね」
 そう言うと、美汐は彼らの質問を先読みして説明を始める。
「思念体というのは、要するにイメージしたものを実際に作り出す能力です。思念――つまり、想いや頭の中のイメージを結像させる力ですね。ですから『幽霊』のように、ある人には見えて、ある人には見えないということはありませんし、物理的な影響力を持つと考えられます」
「ふーん。相変わらず、ミッシーは物知りだな。さしずめ、歩く『おばあちゃんの知恵袋』ってとこだ」
「あまり言われて嬉しい表現ではありませんね。せめて、歩く『大英図書館』くらいは言えないんですか?」
「努力はするよ」
「是非お願いします」
 美汐は、睨みつけるような鋭い視線を送りながら言った。

「――話を元に戻すけど」
 祐一と美汐の掛け合いが一段落したところで、香里が軌道修正する。
「結局、ダイヤを持って、指定された場所に行くこと自体に反論はないのね?」
「ないぞ」祐一はアッサリと頷いた。
「でないと、北川は確実に殺されちまうからな。ま、持っていくのは、天野の意見を取り入れてダイヤのイミテーションにするつもりだが」
「OK。じゃ、そこまでは決定として。問題は、そこからどうするかね」
「ま、それは相手次第だろうな。連中がオレたちを無事に帰してくれるなら、それでよし。殺すつもりなら徹底抗戦。この2つに1つだろう」
「部外者の発言ではありますが、私は最悪のケースを想定しておいた方が良いと思います」
 美汐が控えめに言った。その言葉に、香里も頷く。
「そうね。状況と集まっている情報から考えても、彼らはあたしたちを消すつもりでしょう。大人しく帰してくれるなんて楽観は捨ててかかった方がいいと思うわ」
「まあ、そうだな」
 祐一も肩を竦めて同意する。
「思うに、連中はその場で殺しにかかってくると思うぜ。指定された、倉庫街。実際に行ったことはないが、聞いただけで人気のなさそうな場所じゃんよ。殺しをやるには、1番安全そうだしな」
「相手が銃を持ってたら、蜂の巣にされて海に捨てられるのね」
 不味いものでも食べたような顔で、香里は言った。大方、死体になった自分を想像でもしてしまったのだろう。
「考えられるな。北川が捕まっちまったのが、その証拠だ。あいつはあれでなかなか腕っ節が立つからな。男が2〜3人襲いかかってきたところで、そう簡単に負けるやつじゃない。最低でも逃げきれるはずなんだ」
「でも、北川君は捕まっちゃったわけよね?」
「そうなんだ」祐一は香里の言葉を、神妙な顔で頷き肯定してみせた。
「だから、銃で脅されたって可能性もあると思うんだ」
「お手上げじゃない」両の掌を宙に向けながら、香里は言った。
「大人しく白旗でもあげる? それとも、警察に駆け込んでみる?」
「そうなったら、恐らく彼らは人質を殺すのではないでしょうか? 私だったら、そうします。そして、シリウスの瞳のことは諦めて、即刻、国外逃亡を図りますね」
 美汐が、恐ろしいことをサラッと言う。
「自分が賊であったと仮定すれば、1番困るのは、警察に目を付けられることです。警察が動けば、それだけダイヤを密輸出することが難しくなります。あれだけの盗品宝石を国内で捌けるはずがありませんから、彼らはどうしてもダイヤを日本の外に持ち出さなければなりません。それが困難になることを、賊は1番恐れているはずです」
「結論として、警察はダメってことか?」
「私はそう思います」美汐は断言した。「相手がプロなら、尚更です」
「警察が表だって動かなければ良いんじゃないかしら? つまり、あたしたちが連中にバレないように警察に連絡して、秘密裏にバックアップをしてもらえば」
「美坂先輩の仰ることは分かりますが、賊もそれは警戒しているのでは? 現に、先輩がたは彼らに監視されてきたわけでしょう。今だって監視されている可能性があります。それに、巷で噂の宝石泥棒が噛んでいるとなれば、警察も対面を気にします。大規模な人員を動員せざるを得ないでしょう。そうなれば、どう頑張って隠密行動を試みても簡単にバレますよ。日本の警察は科学捜査は上手くても、特殊部隊がやるような作戦は苦手ですから」
「少なくとも、ここへ来るまでの尾行はなかった。それに、今も監視されている気配はない」
 今まで沈黙を守ってきた舞が、呟くように言った。普段口を開くことが滅多にないため、その一言は何故か周囲の注意を引き付ける力を持っている。この場合も例外ではなかった。
「なんだ、舞。尾行を確認しながら走ってたのか?」
 祐一の言葉に、舞はコクンと頷く。
「元々、静かなところでは尾行は難しい。ずっとエンジン音が後を付いてくると、尾行していることがバレる。だから、出きるだけ見通しが良くて静かな場所を選んで走った。それに、右左折の時も注意してたから」
「――なるほど」美汐が納得したように頷いた。
「舞って、意外なところでキレ者なんだよな」
 感心したように祐一が言うと、照れた舞は軽いチョップを入れてきた。
「でも、それはプラスになるわ。つまり、川澄先輩と天野さんの存在は連中に知られていない」
「いや、舞は知られてるだろ。香里を助ける時に、奴らを何人か倒してるんだから。それに、目立つBMWのサイドカーなんか乗り回してるんだ。身元も割り出しやすい」
「バイクは見られてない。ちゃんと、隠してた。だから、大丈夫」
 豊かな胸を自慢げに反らして、舞は言った。
「とにかく、天野さんは巻き込むわけにはいかないとしても、川澄先輩に手伝ってもらえれば何とかなるかもしれないわ。彼らはあたしと相沢君の2人しか、敵として想定していない。勿論、警察の動向には注目しているかもしれないけれど、第3者の川澄先輩は完全な不確定要素よ」
「そうだな。ここは、多少危険かも知れんが、舞を中心に攻めるしかないか」
 そう言うと、祐一は舞と正面から視線を合わせて言った。
「どうだ、舞。頼めるか?」
 舞は微かに目を細めると、力強く頷いてくれた。




16




March 2000
Picardie,FRENCH REPUBLIC

同日同時刻(2000年3月)
フランス共和国



「――あれ、おっかしいなぁ」
 北川潤きたがわ じゅんは、その栗色の髪を掻き乱しながら素っ頓狂な声を上げた。こういう無意識の時、やはり思わず口を突いて出るのは母国語とするジャパニーズだ。ようやく日常レベルでの会話ならフランス語でも何とか目処が立ってきたところだが、まだまだ使いこなしているとまでは言い難い。
「どうしたんだ、ジュン?」
 ベッドに横たわって携帯用ゲーム機で遊んでいたルームメイトのピエールが、ゲームにポーズを掛けて近付いてくる。勿論、彼が使う言語は――東部訛りが激しいものの――生粋のフランス語だ。それを聞き取るだけなら、もはや苦労はしなくなった。
「いやね、使わなくなった荷物を、先に日本の実家に送り返したんだけど」
 北川は、手に持った小包をピエールに見せ付ける。
「返ってきたのかい?」
「うん。受取人不在で、返ってきたみたいだ」
「ジュンの両親は、そんなに忙しいのか?」
 ピエールは、小包の伝票を覗き込みながら言った。どうやら彼の目には、日本語の文字が珍しいらしい。
「一応、共働きってやつさ」北川は肩を竦める。
「だけど、母さんはパソコンを使った在宅の仕事をしてるから、家にいない筈はないんだけど」
「日本の郵便局は、どれくらい不在の郵便を預かってくれるんだ?」
「確か1週間だったと思う」
 北川は適当に応えた。本当のところは、その辺りのシステムに関しては何も知らない。
「それくらいだったら、郵便局に取りに行くのを忘れてたんじゃないのかい?」
「う〜ん、そうかも。それか、不在通知に気付かなかったか」
「もう1度送ってみればいいさ」
 ピエールは既にこの事に興味を失ったらしく、再びベッドに飛び乗ってゲームを再開しだした。ソフトのラベルには、『テトリス』と書かれている。ロシア人が発明したパズルである。
「それで返ってくるようなら、電話して確認してみるといい」
「う〜ん。そうするかなあ」
 北川はもう1度、クシャクシャと髪を掻き乱す。頭のちょうど天辺、旋毛の辺りからアンテナのように一房の髪がピンと立っているのが特徴的だ。その天然の茶髪は、しばしば北川潤という少年が、実はフランス人とのハーフなのではないかと現地の人間に誤解を与えるほど見事なものである。

「そう言えば――」
 ゲームの手を止めて、ピエールは感慨深げに呟く。
「ジュンがフランスに来てから、もう2年も経つんだなあ」
「はは。そうだな。月日の経つのは早いよ」
「全くだよ。少なくとも、そうして不要品を祖国に送り返すようになるくらいには、コッチに馴染んできてるわけだしな」
「それに、言葉もそれなりに喋れるようになった」
 北川とピエールは笑みを交し合う。
 学校の寄宿舎で、北川がこの気の良いピエールとルームメイトとなってから、2人は直ぐに親友同士になった。ピエールはエキゾチックな東洋の文化に色々と関心を示したし、北川は不慣れなフランスでの生活において彼に幾度も助けられた。そうして、互いの友情は育まれていったわけである。
「でも、6月末には日本に帰ってしまうんだろう?」ピエールの声音が沈む。
「ああ。ピエールと分かれるのは忍びないけどね。向こうで進学の準備をしなくちゃ」
「もう決まったことなんだな――淋しくなるよ、ジュン」
 ピエールは、ゲーム機の電源を切ると俯いた。
「よせよ、ピエール。今生の別れってわけでもあるまいし。また会えるさ。会いに来るよ」
「ああ」ピエールは頷くと、ニッコリと笑った。「そうだな」
「それに、まだ3ヶ月もあるんだぜ。湿っぽいのは、早過ぎるよ」
「……それもそうだ」
 北川とピエールは互いの肩を叩き合って、大いに笑った。
 2人が別れを迎える日は近い。
 だが今、彼らの部屋のドア・プレートには、確かに2つの名が並んでいる。
 1つは、Pierre caze。そうしてその下に、Jun Kitagawa(北川潤)。
 ――北川潤。祐一や名雪、そして香里ならば、その名に聞き覚えがあることだろう。それはまさしく彼らの友人であり、クラスメイトであり、何より日本で毎日の学校生活を共にしている筈の少年の名だった。





to be continued...
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