Dの微熱
Hiroki Maki
広木真紀




14



 視界の先に、黄色と橙色のツートンカラーが印象的な巨大テントが見え始めたのは、舞のBMWが走り出してから20分ほど経ってからのことだった。
 場所としては、恐らく市外に出たことになるのだろう。ここまで来ると、ただでさえ周辺地理に疎い祐一には、全く未知の土地である。唯一分かったのは、そこが自宅としている水瀬家からは歩いていける距離にないという事実だけだった。
 そんな土地鑑ゼロの祐一とどこか方向音痴のような気がする舞の2人が、1度も道を誤ることなく無事に目的地に辿りつけたのは、一重にサイドカーに乗り込んだ香里のナヴィゲーションがこの上なく正確であったからである。
「へぇ〜、こりゃ予想していたより大きいな」
 祐一は間近でテントを見上げながら言った。
 その言葉が告げるとおり、近付いてみると、それは一口にテントとは言ってみても非常に大規模なものであることが知れた。材質は分厚くて丈夫な化学繊維かビニールのようだが、それがあたかもドーム球場のようにドンと構えているわけだ。もちろん、普通のスタジアム程の規模はないが、各地を回る雑技団が一夜にして建てたテントとして考えるなら、それは充分過ぎるほどの驚きだった。
 恐らく数百人、もしかすると千人くらいは観客を導引できるかもしれない。
 聞くところによると、このテントは、不況の煽りを受けて大規模な開発計画が頓挫し、長い間野晒しにされていた広大な空き地を借りて建てられたものらしい。つまり、本来ならば、ここには大きなショッピングセンターが鎮座していたはずなのである。世紀末にあっては、然して珍しくもない新鮮味に欠けた話だった。
「設備だけじゃなくて、内容の方もなかなかのものらしいわよ」
 サイドカーから降りた香里は、どこか上機嫌のように見えた。初めて乗った側車が気に入ったのか、それとも雑技団の公演に胸を躍らせているのか。流石の祐一にも、そこまでの判別はつかない。
「さ、何時までも外観眺めていたってしょうがないわ。入りましょう」
「そうだな。行こう、舞」

 3人は特設の駐車場を後にすると、チケット売り場に向かい、当日券を購入した。公演はかなり盛況のようで、当日券を買い求める列に並び、実際にチケットを買い求めるまでに10分ほどかかった。
 まあ、娯楽に乏しい辺境の街である。そこに「中国から雑技団がやってきた」と聞いて、人々が詰め掛けるのも頷ける話であった。
 因みに、香里と舞のチケット代金は祐一が持った。これで彼は、暫くの間、倹約の生活を強いられることになりそうである。スッカリ軽くなった財布をズボンのポケットに押し込みながら、祐一は密かに溜め息を吐いた。
「席は自由みたいね」
 係員にチケットを渡し半券を受け取ると、3人はテントに空けられた大穴から中に足を踏み入れる。公演は1日に2回行われているようで、彼らが目当てとしてきた午後の部は14時に開演となっていた。
 薄暗い内部は、中央に舞台。それを取り囲むように、コロシアムのような階段式の客席が取り巻くという構造になっていた。
「……人が一杯いる」キョロキョロと辺りを見回しながら、舞は言った。
 彼女の言葉通り、開演30分前であるにも関わらず既に客席の殆どは埋まっていた。満員御礼というやつである。
 彼らは客席の中段辺りに、3人並んで座れる席をどうにか確保して腰を落とした。そして近くを通りかかった売り子から、ホットドッグと各々の飲み物を購入する。この代金も、祐一が胸の中で泣きながら支払った。
「うう、諭吉おじちゃんが既に1人半も……」
「なに泣いてるのよ、相沢君。不気味ねぇ」
 1番通路側に座っている香里が、売り子から受け取ったホットドッグとジュースをリレーしながら言う。
「――それで、そっちはどうだったの? 色々、情報入ってきたんでしょ」
「ああ」祐一は真顔に戻って頷いた。「結構、面白い情報もあるぜ」
「じゃ、早速聞かせて頂戴」
 どうやら、祐一の持つ情報に興味津々なのは香里だけらしい。舞は関係ナッシングと言わんばかりに、早速ホットドッグをぱくついていた。
「そうだな。で、なにから話したもんかな。3つニュースがあるんだが。小さい順と大きい順、どっちがいい?」
「あたしは美味しいものは最後まで取っておく性質たちよ」
「じゃ、まずは水瀬家の捜査と鑑識の結果からだな。ま、オレは立ち会ってないんで、電話で秋子さんに聞いた話だけど」
 祐一はそう前置きすると、続けて言った。
「結果から言えば、収穫は完全にゼロ。見事に何も出なかったそうだぜ。あれだけ派手に漁っておきながら、遺留品はもちろん、指紋、足跡、髪の毛1本残してない。完璧にプロのお仕事さ。警察も、それは認めていたそうだ。――それから、侵入経路も不明。多分どこかの窓の鍵をピッキングしたと思われるらしいが、それらしい工作の形跡が見つからないもんで、これも現段階では想像の域を出ないらしい」
「なるほど」香里は少し俯き加減になって、何かを思案しながら呟いた。
「次、ダイヤの鑑定結果。盗まれた店の店長兼鑑定士に見てもらったが、本物だった。間違いなく、盗み出された『シリウスの瞳』らしい。カットも変わってなかったっていうから、盗まれたまま無事な姿で見つかったって事になるな」
「それで、今、ダイヤは?」
「まだ返してない。鑑定してもらった時点では、北川の無事は確認できてなかったからな」
「そうね。まあ、分からないでもない判断だわ」
「最後に、この雑技団。どうやら、アタリっぽい」
「アタリっぽい?」
 怪訝そうな顔をする香里を見て、祐一は微かに笑った。
「ああ。ビンゴってことさ。ダイヤを鑑定してもらった後、時間があったんで色々と調べてみたんだが……なかなか、面白いことが分かったぜ」
「具体的には?」
「今年に入ってから大口の窃盗事件が起こった時期と、雑技団がその県内にいたタイミングが一致するんだな。ま、疑われないような間隔で、微妙にズレは作ってあるけど」
「つまり、地理的・時間的に大きな事件と雑技団が近しいということ?」
「そのとーり」纏める香里に、祐一は大きく頷いて見せた。
「たとえば、この雑技団。年末年始は東京で公演をやっていたらしいんだが――」
「ええ。そうらしいわね」
「うむ。で、その期間内の12月22日、神奈川にあるティファニィだったかどこだったかが襲撃を受けて、1億円近い大損害を出している。これは、図書館の新聞で調べたから間違いない。その前は、名古屋公演だ。期間は、10月1日から15日までの2週間。その時、市内で宝石展をやっていた博物館が賊の襲撃を受けて、やはり全国的にもそれなりのニュースとして伝わっている。これが、10月の17日の話だ。期間からは2日ズレるが、そう無理な展開じゃない」
「そして、今度はこの街の宝石店ね。で、雑技団は隣接した市で公演の真っ最中。更に、盗まれたシリウスの瞳は中国系の男が持っていた。少し弱いけど、状況証拠は揃いつつあるわね」
 何度か小さく頷きながら、香里は情報を整理するように言った。
「警察もバカじゃないから、気付きつつあるかもしれないが、まだ3件だからな。確信には至ってないだろう。ひょとすると、気付いてないかもしれない。だが、被害総額は推定で10億を超えるからな。このままじゃ済まされないぜ」
「これで、この会場で働くスタッフの中に、相沢君が見た2人組が確認されれば、まず間違いないと言って良さそうね」
「ああ。多分、オレが見たのは裏方のヤツだとは思うが。運が良ければ、この公演中にお目に掛かれるかもしれない。そうすれば、ダイヤを持って警察へ直行だ。それで、警察が雑技団のスタッフを絞り上げれば、宝石の隠し場所も吐くだろう。多分、シリウスの瞳みたいに、何処か安全な場所に隠してるだろうからな」
「そうね」
 確かに祐一の言う通り、公演で舞台に上がるスターたちは一般にも顔が割れている。そんな人間たちに、実行犯として街中をうろつかせるほど連中も頭は悪くないはずだ。となれば、祐一が出会った男たちは、裏方のスタッフである可能性が高いと考えて良い。

「しかし、なんだな」
 祐一はチケットを購入した時に受け取った、簡単なパンフレットを叩いて言う。
「こりゃ、雑技団っていうより舞踏団だな。あるいは武芸団」
「そうね。中国武芸をベースとした、拳法の“かた”の披露だとか青龍刀を使った演舞だとか。確かに、舞踏団と表現した方がシックリくる部分もあるわよね」
「中国武芸をベースとした舞踏――か」
 香里の言葉に、祐一は少し考え込むような仕種を見せた。これも状況証拠の1つになりそうである。
 あのとき、北川と一緒に戦った2人組。彼らは、明らかに格闘技か拳法に精通した経験者であった。 中国人の全員が、中国拳法使いであるわけがない。これが通れば、日本人はみんな歌舞伎役者だということになる。本場の人間とは言え、あそこまでの使い手となると、そうそう居はしないだろう。
「謎のカンフー男と、中国武芸に通じた雑技団。やっぱ、偶然にしちゃ出来過ぎだよな」
 その思考は、唐突に鳴り始めた携帯電話の着信音に遮られた。いや、それは着信音と言うより、一種の『着信メロディ』と表現すべきものなのだろうが、
『だおー。だおー。電話だおー。携帯とって、お喋りするおー』
 ――という、半ば呪いとしか思えない、名雪本人の録音音声によるものであったからして、これをメロディと表現していいのかは甚だ疑問だった。
「うおっ!?」
 祐一は、慌ててズボンのポケットから電話を取り出す。
「どういう仕組みなんだ、これ」
 技術的には簡単なものなのだろうが、疑うべきは名雪のその趣味である。
「ダメじゃない、相沢君。こういう場所では、携帯の電源は切っておかないと」
 香里が柳眉を顰めてそう言った。
 彼女は、携帯電話のこういう無粋さを嫌悪している。確かに自身も携帯電話を所持してはいるが、電話番号を誰にも教えないのも、自分から殆ど使うことがないのもそのためだ。香里から見れば、所構わず液晶に向かい一心不乱にメールを打ち込んでいる連中の姿は、病気にしか見えない。結局、本物のコミュニケーションを知らない愚者の戯れである。
「わ、悪い。普段は携帯電話なんて持ち歩かないから、うっかりしてた」
 祐一は、些か狼狽した様子でそう言った。携帯電話を持たない彼は、こういう事態に慣れていないのだろう。
「そう言えば、昨夜、名雪から借りたままだったんだ」
 確かに祐一は、女性が好んで使うような、青いパステルカラーをした携帯を掴んでいた。香里も見覚えがある、名雪のものである。
「はい、相沢です」
 一瞬席を外そうかと考えたが、まだ公演前だ。祐一は、結局そのまま通話ボタンを押した。
『……』
「もしもし、聞こえてるか? これは名雪の携帯だが、オレは名雪じゃないぞ。それとも、悪戯か?」
 出たはいいが、何の反応も示さない相手に祐一は言った。だが、それからも尚、暫くの沈黙が続く。
『相沢、祐一、だな』
 やがて向こう側から聞こえてきた声は、聞き覚えのない奇妙な訛りのある日本語だった。声から察するに、男性であることは間違いないであろうが、どちらにしても祐一に心当たりはない。かといって、名雪の知り合いとしても相応しくないような気がした。
「――誰だ?」
 祐一は、表情を険しくしながら訊いた。
『北川潤を、あずかっている』
 相手の男は、質問には答えず簡潔にそう言った。
『お前の持っているダイヤ、持って来い』
「な……ッ!?」
 祐一は、驚愕に身を強張らせた。
「なに、誰から?」
 香里が怪訝そうな顔をして、隣から訊いてくる。流石の舞も、不穏な空気を察知したのか、祐一の表情を無言で見詰めていた。
「香里、北川は学校に来てたんだよな? 確かなんだな!?」
「え、ええ。確かよ。補習が終わって教室を出て行くのを見届けたもの」
「……ってことは、その後かよ」
 祐一はダンッ!と片足で地面を踏みつけると、小さく叫んだ。
 香里が襲われたのも、補習を終えて学校を出た帰宅途中でのことだ。同時に北川にも連中の手が伸びていたと考えて、別段おかしな話ではない。恐らく、相手は祐一を昨日1日監視して、彼がダイヤを持っていることに確信を持ったのだ。賊の方も焦っている。祐一がいつ警察にダイヤを持ち込むか、それを心配しているのだ。だから、遂にこれ程までの強行手段に出たのだろう。
『警察に言えば、男は殺す。お前、ダイヤを持って今日の夜、10時。駅東の倉庫街、25号庫に来い。美坂香里も連れて、2人で来い。北川潤は、その時ダイヤと引き換えだ』
「おい、北川は無事なんだろうな! 声聞かせろ」
 あまりに一方的な言い分に、祐一は声を荒げてそう返す。だが、相手はあくまで取り合わなかった。
『頭使って、確認しろ。……相沢祐一、必ず来い。来なければ、人質殺す』
 言いたいことだけを言い残し、そして唐突に通話は途切れる。

「くそっ!」
 祐一は吐き捨てるように言うと、乱暴に携帯を切った。そして脱力したように、客席の背もたれに体を預けて深い溜め息を吐く。
「一体何があったの、相沢君。今の、誰? 名雪じゃないわよね」
 明らかに様子のおかしい祐一に、香里が詰め寄る。だが、祐一は片手で覆うようにして目を隠すと、それっきり黙り込んだ。
「ねぇ、相沢君」
 尚も香里が言い募ろうとした時、徐に祐一は口を開いた。
「……北川がやられた」
 掠れた低い声が告げたその内容に、香里は驚いた。
「や、やられたって?」
「拉致だ。捕まっちまったらしい」
「――ッ」
 予想はしていたが、やはり衝撃は大きかったらしい。香里は絶句した。
「今日の夜10時、駅東の倉庫街に来いとさ。オレと香里で、ダイヤ持って」
「私も……?」
「多分、殺すつもりなんだろうな。香里も呼べってことは、ダイヤだけが返ればそれでいいって考え方はしてないって証拠だ。この件に関わり合った人間を全員呼びつけて、ダイヤを取り返したらその場で殺るつもりだろう」
「じゃあ、現状で北川君は――」
 その言葉を、香里は最後まで続けることができなかった。
「殺されてる可能性もある。まぁ、取引をやろうって言うんだ。ダイヤを確認するまでは、生かしておくとは思うが」
 祐一はテントの天井を見上げると、そのまま深く息を吐いた。
「読み違えたぜ。まさか、連中がここまでやるとは。盗みしかやらない組織だと思ってたのに」
 そこまで言うと、祐一は突然体を起こし、自分の両膝を拳で殴りつけた。
「オレのミスだ! もっと早くに警察に連絡しておけば」
 その拳に、香里の白い手が重ねられた。
「今それを言ったところで詮無いことよ。冷静さを失ったら負け。落ち着きなさい、相沢君」
 頭に血が上りやすい息子を諭す母親のような口調で、香里は言った。
「――そうだな」
 暫くすると、祐一は小さくそう言った。
「祐一、どうするの」
 舞も事が危険な方向に流れ始めていることを感知しているらしい。表情こそいつもと変わりないが、祐一たちを心配しているようだ。
「どうするって、行くしかないだろう。アドバンテージは向こうにあるんだ。指示には従わざるを得ない」
「警察には知らせないの?」
「それは難しいところだ」
 香里の問いに、祐一は再び考え込む。
「連中は、10中8、9オレたちを殺すつもりだろう。北川も端から返すつもりはないだろうしな。……ってことは、人質になっちまったあいつの立場は極めて危険だと言える。連中が今1番恐れているのは、オレたちを切っ掛けに警察が介入してくることだ。そのオレたちが警察に駆け込んだら、北川はどうなる?」
「まあ、殺すでしょうね。どの道、自国に帰るときは海を渡ることになるわ。人質なんて、その時は邪魔になるだけだもの。あたしでも処理を考えるわね」
「とにかく、今はオレたちでやるしかない。警察に駆け込むのは、どうしようもなくなった最後の最後だ。良く言うだろう、『困ったときのお上頼み』ってな」
「それを言うなら、『困ったときの神頼み』よ」
 香里はいつも通り突っ込んでくれたが、そこにいつものような呆れ混じりの苦笑はなかった。
「まったく。相沢君と付き合ってるとロクなことがないわ」
「すまん。香里には悪いことをしたと思ってる。
 完全に無関係だったのに、巻き込むことになってしまった」
「まあ、滅多にない経験ですもの。精々、楽しんでみることにするわ。でも、全部無事に済んだら、また何処かに連れていってもらいますからね」
「分かったよ。天国でも桃源郷でも愛の逃避行でも、好きなところに連れていく」
「じゃあ、動物園にいく」
 好きなところと言われて、舞はすかさず答えた。
「そっか。じゃ、動物園に……って、オメーは全然関係ないだろが、舞」
「……残念」
 ガックリと項垂れる舞。それを横目に、香里は言った。
「でも北川君、本当にさらわれたのかしら? 電話で声は聞けなかったんでしょう?」
「あ、ああ」祐一は渋い顔で頷く。「聞けなかった」
「じゃあ、本当に拉致されたかどうかは分からないわよね。連中のプラフかも知れない」
「でも、『頭を使って確認しろ』とか何とか、奴らは言ってたぞ?」
「頭を使って? どう言うことかしら」
「さあな。オレが聞きたいよ」祐一は肩を竦めて言った。
「頭を使ってってことは、きっとそれを確かめる方法があるのよ」
「たとえば?」
 すかさず訊き返す祐一に、香里は思考する。
「たとえば、そうね」
 考え込む祐一と香里だが、なかなか結論には至らない。その時である。
「――電話」ボソっと、囁くように舞は言った。
「祐一の電話に掛かってきた。電話番号、分からないはずなのに」
 その言葉に、香里は天啓を得る。いや、正しくは舞啓か。彼女は、ハッと目を見開いて言った。
「そうか! 携帯電話の番号よ。それ、名雪から借りた携帯電話でしょう?」
「そう言えばそうだな。なんで、奴らはこの番号を知ってたんだろう」
「方法は1つしかないわ。水瀬家に電話をかけて、名雪本人から直接聞き出したのよ」
「ってことは、名雪に確認すれば真偽はハッキリするな」
 香里と顔を見合わせて頷き合うと、祐一は早速、名雪の携帯電話を使って水瀬家に電話をかけることにした。4度目の呼び出し音で、向こうの受話器が取られる。
 そして『はい、水瀬です』という、聞き慣れた若い女性の声が聞こえてきた。
「あ、秋子さんですか」
『あら、祐一さんですか? 今、どちらにいるんですか。警察の方が、祐一さんにも是非事情を伺いたいと言ってるんですけど』
 どうやら、今、水瀬家は空き巣の件での捜査と事情聴取の真っ最中らしい。
「すみません。まだちょっと帰れそうにないんです。色々と……事情がありまして」
 こう言えば、秋子は深く追求するような女性ではないことは分かっていた。心の中で彼女に謝罪しつつも、祐一は一方的に続ける。
「それより、秋子さん。さっき電話かかってきませんでしたか。オレか名雪あたりに」
『ええ。ありましたよ。北川さんというクラスメートの方から。最初は祐一さんに代わってくれと言ってましたが、外出していると答えると、では名雪にと』
「で、名雪はその電話に出ましたか?」
『ええ。暫く、何か話していたみたいですよ。名雪に代わりますか?』
 何かを察してくれたのだろう。秋子はそう言ってくれた。本当に聡明な女性である。
「お願いします。ちょっと聞きたいことがあるもので」
『はい。では、呼んできますから。ちょっと待ってくださいね』
 その言葉で一端電話は切れ、代わりに保留のメロディが聞こえてきた。曲名は知らないが、水瀬家の雰囲気にあった落ち着いた感じのクラシックだった。

『もしもしー。お電話かわったよー』
 暫くすると、受話器の向こうから甘ったるい名雪の声が聞こえてきた。相変わらず、どこかフワフワとした半分眠っているような喋り方だ。
「おお、名雪か。オレだ」
『祐一、どこにいるの? ちゃんと部屋の片付けして、警察の人に協力しないとダメだよー』
「スマン、スマン。その内、ちゃんと帰るから。でも、今はその暇がないんだ」
『ん。で、なーに。私になにか用なの?』
「ああ。お前、北川から掛かってきた電話に出ただろう?」
『うん。出たよー。北川君から電話掛かってきたの初めてだったから、びっくりしたよ』
 全然ビックリしたとは思えない口調で、名雪は言った。
「で、それは北川本人だったか?」
『そうだよ。流石に毎日学校で会ってるんだから、声だけでも間違えないよ』
「そうか。それで、何を話したんだ?」
 普通こんな聞き方をすれば、不審に思われて逆に追求されるものだが、幸運にも名雪は秋子の遺伝子を少なくとも半分は継承していた。そんな些細なことにはキッパリ拘らず、素直に答えてくれる。こういうとき、この大らかな性格は非常にありがたいものであった。
『うんとね、祐一に至急連絡をつけたいから、連絡先を教えてくれって。それで、祐一、わたしの携帯電話持って行ってるみたいだったから、番号を教えてあげたよ』
「おいおい。幾ら顔見知りのクラスメイトとは言え、簡単に番号教えるなよ」
『大丈夫だよ。なんだか、とっても急いでたみたいだし』
 何が大丈夫なのか、見事に解析不明な解答をよこす名雪。流石、秋子の娘である。このあたり、何を考えているのかサッパリ分からない。
「で、電話番号を教えて、他に北川は何か言ってなかったか?」
『あ、そう言えば、もし祐一が帰ってきたら、伝言を頼むって言ってたよー』
「伝言? なんて?」
『えっとね、良く分からないけど「すまん。油断した」って伝えてくれって』
 これで全ては証明されたわけだ。祐一は、脱力した。北川は、間違いなく連中に拉致されたのである。そして脅されて、水瀬家に電話を掛けることになったのだろう。それから聞き出した携帯電話の番号に、連中は連絡を入れてきた。『頭を使って確認しろ』というのは、このことを示していたに違いない。
「良く分かったよ。サンキュー、名雪」
『私、役に立った?』
「ああ。大活躍だ。家に帰ったら、ご褒美に抱きしめてチューしてやるぞ」
『えー。そんなのいらないよう』
 名雪はクスクスと笑いながら言った。
「じゃ、用件が済み次第帰るから。秋子さんにもそう伝えておいてくれ」
『うん。早く帰ってきてねー』

 祐一は通話を終えて携帯電話をズボンのポケットに仕舞うと、再び香里と舞に視線を戻した。そして確認の意味もこめて、彼女たちに告げる。
「どうやら、間違いないらしい。北川は連中に拉致られちまったようだ」
「状況から考えて、どうやらその確率が1番真実に近そうね」
 香里も神妙な顔つきで頷き、祐一に賛同の意を表す。
「そうなると――」
「そうなると?」
 中途半端に言葉を切る祐一に、香里は小首を傾げる。
 すると彼はいきなりニンマリと笑い、勢い良く席から立ち上がって言った。
「オレがついさっき受けた電話は、正真正銘、本物の脅迫電話ということになるな。やったぜ、本物だ! スゲェぜ、カッチョイイ」
「またはじまった」
 理解しきれない喜びを表現する祐一の傍らで、香里は頭を抱えながら呆れたように言った。
「相沢君。あなた、事の状況を正しく認識してる?」
「おお。力いっぱい、認識してるぞ」
「だったら、大人しく座って今後の対策を考えなさい。北川君は勿論、最悪のケースに至ってはあたしも貴方も死ぬことになるのよ?」
 香里の言葉を聞いて、祐一は黙り込む。
 そして暫くすると、彼は香里の言いつけ通り、大人しく席に腰を落とした。
「確かに、何とか手を打たないと非常にマズイことになりそうだな」
「そうよ」何を今更、という表情で香里は言う。
「リミットは今夜10時。それまでに妙案を捻り出さないと、あたしたち殺されるわよ」
「北川が殺されるのはちっとも構わんが、オレが殺されるのは断固嫌だ」
「北川君が殺されるのは全く構わないけど、あたしが殺されるのは断固嫌よ」
 祐一と香里は、深く頷き合う。
「まだ香里を抱いてないのに殺されてしまうなんて、絶対却下だ」
「まだ世界征服の野望も果たしてないのに死ぬなんて、絶対却下よ」
 祐一と香里は、見詰め合う。
「どうせ死ぬなら、香里の中で悦楽と共に果てたい」
「どうせ死ぬなら、世界をあたしのものにしてから死にたいわ」
「……」
「……」
 更に無言で見詰め合う。
「香里。おまえ、そんなこと考えてたのか」
「相沢君。あなた、あたしの体が目当てだったのね」

 不思議な微笑を交換し合った後、心地の良い沈黙を挟んで祐一は再び口を開いた。
「――とにかく、だ。みすみす殺されに行くくらいなら、北川のことは諦めて警察に駆け込んで保護を求めたほうがいいよな。北川の命は、オレのもの。オレの命はオレのものだ」
「それは、建設的な意見だわ。北川君の命より、あたしのそれの方が数億倍価値があるもの」
 再び深く頷き合う祐一と香里。既に、北川は亡き者として扱われることになったらしい。
「さて、どうしたもんかな」
「さて、どうしたものかしらね」
 腕を組んで仲良く考え込む2人であったが、そうそう妙案など浮かび上がらないものだ。
 だがそこに、どこからともなくナイスアイディアを告げる声が降ってきた。
「ダイヤを所持していた宝石商に事情を告げて、イミテーションを借り受けてはどうでしょう?」
「おお! それ、グッドアイディアだぜ!!」
「そうね。それなら、北川君ごときの命を取り戻すために、本物の『シリウスの瞳』を渡すなんて勿体無いことをせずに済むわ」
 ポン、と手を打って祐一と香里は言った。
「やるじゃないか、舞。さっきの電話の件といい、今日は冴えてるな! よし。ご褒美に、オレの熱いベーゼを……」

ビシッ!

 その薄桃色の唇に襲いかかろうとする祐一の顔面に、舞必殺のチョップがカウンターで炸裂する。
「ぐっはー!」
 額を竹刀で思いきり叩かれたような衝撃に、思わず祐一は蹲る。
「……祐一のスケベ」
 テレテレの舞は、頬を紅く染めながら更に2発3発とチョップを叩き込む。
 既に祐一や佐祐理といった極親しい人々には周知の事実であるが、舞はそのクールな立ち振る舞いとは裏腹に、実は極度の照れ屋さんなのである。要するに、とてもシャイなのだ。
 だから、恥ずかしかったり照れくさかったりすると、ついついチョップを繰り出してしまう。食らう方はいい迷惑だった。

 ぽこぽこぽこ

「いて、いてて! コラ。やめんか舞! 褒美をやろうとしただけなのに、何さらすんだ!!」
 必死に頭を庇いながら、祐一は非難の声を上げる。
「……今の、私が言ったんじゃない」
 漸く照れチョップの手を止めた舞は、ボソッと囁くように言った。
「あ? 舞じゃなかったら、誰だよ。オレと香里じゃないんだぜ?」
「祐一、後ろ」
「ん?」
 スッと舞の整えられた指先が指す方向を見ると、そこには見慣れた少女の人影がある。どうやら、先程の助言は彼女によるものらしい。
「お、お前は――」
 その少女を視界に収めた瞬間、祐一は驚愕と共に小さな叫びを上げた。
「ミッシー!?」








to be continued...
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