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 第二部 「一七年前」


 4

 靴を履き階段をおりると、そこは警察署であった。
 和泉光司こうじにとっては、もはや当たり前となった事実である。警官の独身寮はそのほとんどが職場の敷地内に設置されており、警察署の最上階をそれとしているところも決して珍しくない。有名どころでは、新宿署の <清和寮> などが代表格である。未婚の署員は、通例としてこの独身寮に入らなければならないのだった。
 本来、寮のような強制入居に近い生活空間を職場内部に設けることは、法律で明確に禁止されている。そこで上層部は、独身寮に待機所という余分な名目を加えることで、その無理を強引に通していた。卒配から約四年。学んだのは、警察がおおむねそのような組織だという現実である。
 とはいえ、警官の仕事は悪くない。ごく稀に報われることもある。忘れたころ誰かのために貢献しているのだという実感を得られることがある。理想と現実とにギャップがあるのは、なにごとにも共通したことだ。しかし、それを理由になにかを放棄することが許された時期はとうに過ぎ去っていた。なにより、刑事になるのは幼いころからの夢だったのである。
 寮部屋から持ってきたサンドウィッチを齧りつつ、和泉はその夢の職場へむかった。地上二階、刑事課強行盗犯係。所轄署に勤務する刑事としては花形ともいえる部署である。
 入口ドアに手をかけようとした瞬間、それが内側から開かれた。出てきた中年の婦人警官と衝突しかける。体勢を崩しかけた相手の肩をつかまえ謝罪した。虚をつかれたような彼女の表情が軽い笑顔にかわる。通常の挨拶が交わされた。
「そうだ。和泉くん、急いで課長のところ行ったほうがいいよ」
 彼女に言われるまでもなく、職場の雰囲気が普段と違うことは入口からでもわかった。そもそも午前八時まえに課長が顔を見せていること自体、普段からは考えられないことであった。その課長のデスクを取り囲んでいるのは、強行盗犯係の長と主任のふたりである。刑事課の核を成す者たちだった。
「なにかあったんだろうか」
「くわしくは分からないけど、県警本部から入電があって」
 自分も聞いただろう、という眼を彼女がむけてくる。放送で起きたのだ、と和泉は弁明した。事実、まだ七時半で半分眠っていた。前の二日間はまるで睡眠をとっておらず、昨夜も泥酔した男たちの暴力沙汰を収めるため夜中にたたき起こされた。三時間前後しか横になっていない。
「どうも、子供が自宅からいなくなったみたいよ」彼女がいう。
「学校にいったのではなく?」
 そこまでは知らない。詳細は仲間に直接たずねろ、と冷たくあしらわれた。立場からすれば当然の言い分ではある。彼女に礼をいい、その提案にしたがうことにした。サンドウィッチの最後のひとかけらを飲み下し、足を速めて上司たちのもとにむかう。
「――おはようございます」
「和泉、遅いぞ」課長から丁寧な挨拶が返る。
「なにがあったんです」
 問うと、課長は直答せず傍らの男に視線で合図を送った。綾瀬今日也きょうや。強行盗犯係の主任をつとめる警部補である。階級と実績からいえば、係長や課長代理の席に座っていても決しておかしくない人物だった。特殊な事情を抱えていなければ、事実そうだっただろう。
 彼はその大柄な身体を和泉にむけた。
「今朝七時一四分、通信司令室に一一〇当番通報があった。通報者は今泉台一丁目在住の城戸早奈子。女性。既婚、三一歳。前科はなし。今朝、起床して子供部屋をのぞいたところ、下の息子が姿を消していたらしい」
「子供の家出なら下の領分でしょう」
 ここでいう <下> というのは、署の一階に陣取っている防犯課である。同課は少年係というセクションを設置しており、未成年者の補導や少年犯罪の処理は彼らの担当だった。
「生後何ヶ月の赤ん坊が自分の足で歩けるかは疑問だな」まして家出となると、と綾瀬が苦笑する。「もうすこし上ならその家出を代表に、早めの登校、無断外出、いろいろ考えられるんだろうが」
「赤ん坊でも、手足を総動員すれば移動はできるのでは?」
「子供はね、いくら早くても半年からだよ。そうやって動くようになるのは」
 二人の子供をもつ係長が、マッチ棒のように細く長い身体を揺すりながら指摘した。落ち着きを失ったとき彼が無意識に見せるこの動きは、同僚たちにメトロノームと呼ばれている。
 いなくなった子は五ヶ月。動きだすにはちょっと早すぎるだろう、と彼はつけくわえた。
「だったら誘拐なんじゃないか、という話をしていたのだ」
 課長が苦虫を噛み潰したような調子で締めくくった。
 大田真之警部、四八歳。若い時分、コーヒーとドーナツが欧米型警官の代名詞であり、逸早くこれを取り入れた自分を別格にスタイリッシュな警官なのだと考えていた。そう噂される人物である。
 実際はスタイリッシュとはほど遠く、揚げ物の過剰摂取が祟って横に余分な肉のつきすぎた体型をしている。
 彼は基本的に、自分の担当区域に存在するすべての犯罪者を憎悪していた。義憤ゆえではない。犯罪者たちは自分に面倒ごとを押しつけるために問題を起こしているのだ、と固く信じるためである。
 平穏第一が大田課長のモットーであり、厄介ごとやリスクを極端に嫌う。重犯罪も同様であった。上手く処理すれば昇進につながるが、下手すれば上層部に消えないマイナス評価の烙印をおされる。大田は特に後者に注目し、恐れる人間なのだ。
「この件に関しては防犯課長とも話した。遺憾なことだが、ウチの仕事になるかもしれない。そこで異例だが下からひとり、ウチからはきみと――」大田課長は和泉を一瞥し、すぐに厄介者と認識するもうひとりの部下に視線を移す。「綾瀬警部補に行ってもらおうと思っている。まだ誘拐と決まったわけじゃないから、県警もどう対応するか迷ってるようだ。機捜は一応むかってるらしいが」
「ともかく現場に行ってみましょう。少年係からは誰が?」
 綾瀬警部補が問うと、課長が定年近いベテランの名を挙げた。部署がまったく違うため一緒に仕事をする機会はないものの、署内の最年長者ということで良く知られた警官である。課長によると、彼は既に現場にむかっているとのことであった。
 綾瀬は頷いて諒解をしめし、背をむけて歩きだした。慌てて後を追いかけ、肩を並べる。
「足はどうします?」
「そうだな――」綾瀬は前をむいたまま、しばらく思考した。「北鎌まで列車で行って、あとは山越えの徒歩か。渋滞の車か」
 どっちが良い、と問うような眼をむけられる。どちらもご免こうむりたかった。通勤通学の時間帯であることが災いしている。車なら普段なら三〇分の距離だが、混めば倍ちかくかかる可能性もある。電車と山越えを選んだ場合、着いたときには疲労困憊だろう。
「いまのうちに贅沢をしておくのも良いかもしれんな」
 足をとめると、綾瀬が思いついたようにいった。ことによると今後はそういう機会が減るかもしれない、とつづける。
「どういうことです?」
「これがもし誘拐なら、県警が出てきて特捜本部がたつ。費用は所轄もちだ。おれたちの署員会費や超勤手当も財源にされるかもしれない」
 彼は和泉に顔をむけ、そういうことだ、と片眉をつりあげた。
 特別捜査本部。和泉の頭から完全に抜け落ちていた存在であった。もともと大船拠点の鎌倉北部は平和な地域なのである。管内で発生した刑法犯はこの三日間だと合計四件にすぎず、内訳は三件の自転車盗難とひったくりであった。特捜本部は殺人、強盗致傷、誘拐などといった凶悪事件の際にしか設置されない。和泉が刑事に推薦されてから一年近くが経つが、自分の職場に特捜本部を迎えた経験は一度もなかった。強行盗犯係の刑事は、もっぱら空き巣の取締りや事務所荒らしの捜査に明け暮れる毎日である。
「そういうわけだ。和泉、タクシーを呼んでくれ」
「諒解」
 腕に鳥肌がたつのを感じながら自分のデスクにむかう。特捜本部。念じつつ受話器をとった。呼び出し音を聞きながらメモ用の大学ノートを用意する。部屋に革製のスニィカーをとりにいくべきだろうか。山狩の捜索隊などに放り込まれた場合、革靴では難儀するだろう。迷ったがこのままいくことにした。そうした仕事は、刑事課ではなく警備課にまわることが多い。結論し、ひきだしの奥から手錠を引っ張りだした。カメラ、腕章、手袋なども鞄につめこんでいく。やけに時間がかかった。寒さでかじかんだように指がうまく動作しない。突然、レギュラー入りを発表された万年補欠選手のようなものである。現場での自分の役割がまったく想像できなかった。
 しばらくすると電話が通じた。近くを回っている車両があり、数分で寄越せるという。刑事課がもっぱら一社としか取引しない所以であった。一種の独占契約を結ぶことで、彼らに便宜を図ってもらう。強制力はまったくないが、優先して車を手配するような協約ができあがるのだ。警察が求めれば、彼らは常に一〇分以内で駆けつける。
 話をつけ、受話器をおいた。すこし迷って再びもちあげる。入力待ちの発信音を聞きながら考えた。本来、今日は非番であり一日を自由につかえたはずである。だがこうした呼出されてしまった以上、休日は潰れると考えたほうが賢明であった。私服警官としてはまったく珍しいことではない。しかし、だからこそ生じる問題もある。ため息をつきながら暗記している番号をよびだした。まかせておけば自動的に指が動く。和泉千鶴。何百回とかけてきた相手であった。
 コール音を聞いたのは数瞬にすぎなかった。すぐに「和泉です」という若い女性の声が耳朶にふれる。そばで待ち受けていたかのような反応速度であった。事実、そうであったとしても驚くには値しない。
「義姉さん、私です」
「光司――」咲くように笑顔があらわれ、即座に萎んでいくのが眼に見えるような声だった。「来れなくなったのね」
「そうです。急に呼びだしがはいって」
 しばらく反応を待ったが、千鶴は無言をつらぬいた。すすり泣きが返らなくなっただけ、一時期よりはましともいえる。
「申しわけありません。自分からいけると言っておいて」
 明日は休みがとれそうだ。昼頃に会いに行けるだろう。そう連絡をいれたのは、確かに自分からだった。彼女はそれを喜んだし、昼食の準備に腕まくりしていたのだろう。この二年間、常にそうだった。いわゆる労災で夫を失って以来、彼女は自慢とする料理の腕をふるう機会をなくした。義弟の訪問をうけたときが唯一の例外なのだ。
「気にしないで。私なら大丈夫だから」
 そう言うと、彼女は声のトーンを変えた。努めて明るくつづける。
「それに明日の夜はね、学生時代の友達が泊まりに来るの。大阪の旅行代理店にいる人なんだけど、東京に出張になったんですって。だから二、三日は退屈しないと思う」
「そうですか。しかし、本当にすみません。次回は必ず」
「いいのよ。しかたないことだから」
「それより、身のまわりのことは大丈夫ですか。つきまとっているという相手は?」
「分からないの。もうあきらめたのかもしれない。最近は、買い物のときくらいしか外にでないから」
「自宅周辺にも注意を払ってください。不自然な場所に長時間いる人間や車は必ずチェックするように。特徴やプレートナンバーなどをメモに控えておいてください」
 義弟がそばにいることを彼女が強く望む一因だった。外出すると、ときどき不審な人物が近くをうろつくことがある。そのような相談を受けたのが半年前のことだ。孤独が生み出した幻の存在ということもある。あるいは、実際にそうした人間がいるのかもしれない。実害がでていないので何ともいえないが、どちらにしても最近はなりを潜めているようだった。
「とにかく、なにか変化があったら必ず連絡してください。夜中でもいつでも」
「ありがとう。そうする」千鶴は柔らかくいうと、間をとってからつづけた。隠そうとはしているが、訊きたくてしかたのないことであったのは明白だった。「ねえ、次はいつごろ休みをとれるの。呼び出しって、事件が起きたってことでしょう。大きな事件なの? 危険はないのよね」
「まだ詳しいことは分からないんです。危険はないですが、大きな事件になるかもしれません」
「じゃあ、一ヶ月くらい?」
「そのくらいかかるかもしれません。でも――泊りがけは無理ですが――少しなら顔をだせることもあるでしょう」
「そのときが分かったら電話してね」
 絶対に、と約束して通話を終えた。受話器をもどすと、自然に重たい息がこぼれでた。
 義姉に対しての付き合いかたは、日を追うごとに難しくなりつつある。第一に、和泉と兄とでは外見的な相似部分が多すぎるのだった。亡夫の面影を強く思わせる人物がちかくにいることは、彼女にとってネガティヴにしか作用しないのかもしれない。また、和泉自身にも問題はあった。あるいはもっとも深刻な問題である。つまり、将来の相手として千鶴の存在を真剣に考えていた時期があった、という事実である。
 唯一の救いは、彼女が和泉のそうした気持ちをまったく知らずにきたことであった。そのため、彼女は将来について思い悩む必要もなかった。そうして三年前に兄と結婚し、八ヶ月して独身にもどったのである。
 和泉としては、自分の気持ちに整理をつけたつもりだった。しかし彼女はまだ若く、子供もない。なにより人を引きつけるに充分な魅力をもった女性なのである。
 まとめた荷物をもって一階におりた。千鶴との問題には時間がいる。慎重であらねばならないと己に言い聞かせ、頭をきりかえた。インフォメーション・フロアで綾瀬と合流する。
「どうだった」彼がいった。
「近くの車両をまわすそうです。すぐに来ますよ」
 ふたりで正面玄関をでた。タイミングよく、門を潜ってタクシーが頭をだした。顔馴染みのベテラン運転手がステアリングを握っているのがみえる。停車するのをまつと、先に綾瀬が乗り込み、行き先を告げた。急ぎですか。運転席から短い確認の声が返る。和泉がうなずいて答えると、運転手はサイドブレーキをおろした。なにがあったのか、どんな事件が起こったのか。そういった類の質問はまったくしてこない。経験から、まともな反応が返らないことを知っているのだ。わきまえている運転手ほど余計な口ははさまなくなる。
 軽く身震いしたあと、車は速やかに走りだした。こちらが神経質になっているのを察知したに違いない。運転手はいつも投げかけてくる簡単な世間話すら放棄し、終始無言をつらぬいていた。
「前から思っていたんですが、ウチは捜査車両が少ない」
 鎌倉街道にでてから、和泉はさり気ない調子で沈黙を破った。綾瀬が唇の端をもちあげてみせる。
「私服を着るようになったら誰もが最初にそう思う。バスや電車で現場にいく関係者の姿は、外野からだと想像しにくいようだ」
 まさにその通りであった。小中規模の所轄署では常に車両が不足している。しかも限られたパトカーは――覆面車も含め――そのほとんどが交通課の業務、あるいは警ら課の巡回のために割り当てられているのが現状だった。
「城戸家でしたか。通報者の情報は出てるんですか?」
「本部から簡単な照会結果が来てる」綾瀬は懐から小さなメモ用紙をとりだした。「家主は城戸芳晴。いわゆる二世帯家族で、彼の両親が同居しているようだ。あとは妻、子どもが男女ひとりずつといった構成らしい。全六人家族、いずれも前はなし」
「長男の名前は」
「祥平。しめすへんに羊と書いて祥。これに平らだな」
 いわれたままの名前を幾度か反芻した。城戸祥平。生後五ヶ月。仕事柄、和泉もさまざまな人間と接する機会をもつ。しかし子どもはその例外といえた。
「名前といえば」メモをポケットにしまいながら綾瀬が話題を変える。「お前さん、下は光を司ると書いて <こうじ> だったろう。なにか由来でもあるのか」
「父が孝光というんです。考える光」
「なるほど、連続性があるわけか。尾の一文字を子どもの頭にもってくる」
「そのような意図でつけられたようですね。兄の場合、光一だった」
 なるほど、とつぶやきながら綾瀬はあごをさする。
「それがなにか、今回の話と関連性でも?」
「――いや、そういうわけでもないんだがな。脈略のない話ができる程度には精神的な余裕を維持していたほうがいい、というだけのことだ」
 言葉とともに軽く肩をゆすられる。態度にでないよう抑制していたつもりだったが、見透かされていたらしい。
「本部設置事件の主導権は県警が握る。その連中からみれば、ウチは田舎署の典型なんだ。手ごまではあるが戦力ではない。そういう見方をされる」
「それはつまり、刑法犯処理数が極めて少ないという意味で?」
 綾瀬がうなずいた。「まして殺人を含めた本部設置クラスの事件となると、ここ数年まるでない。恐らく連中は我々なぞ歯牙にもかけないだろう。最悪、道案内か運転手だ」
「そんなものですか……」
「県警本部の刑事には、ヒラにまで小なり派閥の影響力がある」綾瀬は運転手に届かないよう声量をさげた。一拍おいて再び口を開く。「最近、いわゆる本流筋の対抗派閥が勢いづいているらしい。それで焦りだしてる連中がいる、という話を聞いた」
 みなまで聞く必要もない。彼がなにを言わんとしているかは明白だった。派閥抗争が表面化してきたたとき何が起こるか。知れたことである。
「手柄争いですか」
 確認の意味もこめて問うと、彼は首肯した。誰がどの事件を解決し、どれだけ点数を稼ぐか。課内での競争が激化し、捜査員たちは個人プレイに走りだす。いわゆる「同僚は敵」というような意識が高まる。それが捜査一課の現状だと考えてよい。綾瀬はそう補足した。
「そういうときは、有力な情報をつかんでも捜査会議で報告しないことがある。すれば対立派閥やライバルにも伝わる。だから伏せておく」
 和泉からすれば別次元の話であった。当然なのだろう。綾瀬の古巣では、特捜本部がたっていないときの方が珍しかったという話もある。ときには複数の本部を同時に抱えることもあったらしい。
 綾瀬今日也は、三〇そこそこの若さながら大変な経験と実績をもつ手練である。高校卒業直後に採用試験を受け、地方公務員として巡査を拝命。警察学校を出た新人は卒業配置で交番勤務を命じられるのが通常だが、彼は違った。実科――射撃、逮捕術、柔剣道などでよほど非凡なものを見出されたのだろう。いきなり機動隊に配置されたと聞く。これは大空港を抱える千葉などでは良くある話だが、神奈川県警内では異例の人事であった。
 その後は相模原署や県本部内で各課を点々とし、再び機動隊に戻ったらしい。三年前に警部補に昇格。一説では本庁の、かつて <特科中隊> と呼ばれていたセクションに推挙されたこともあるとのことだった。これはハイジャック事件や対テロ活動などを一手に引き受ける特殊急襲部隊である。本来は志願制。任務、訓練内容ともに警官のイメージからは遠く、むしろ軍人に近しい集団であるという。当然、極めて優秀な者でなければ構成員として登用されることはない。
 彼の容姿は、そうした特殊経歴にそぐわしいものであった。大柄な身体は細部まで鍛練が行き届いており、頭髪は短く刈りこまれている。普段は控えめなユーモア性をおもてに湛えているが、その気になれば人を芯から震え上がらせることも容易なのだろう。
 とはいえ、普段の彼は感情表現を抑制する傾向のみられる男だった。表情からなにかを読み取るのは常に至難である。詩作という冗談のような趣味が早い時期から知れわたらなければ、単にいかついだけの男だと見なされていたかもしれなかった。
 都の中枢で活躍していた彼が、なぜ小さな所轄署に辿り着いたのか。明らかな懲罰的人事ということもあり、これに関しては署内でも様々な憶測が飛んでいる。しかし事実を知る者は少なく、知っているはずの人間たちは一様に固く口を閉ざしていた。
 交番勤務と看守を含む警務生活を経て刑事課へ配属。和泉は私服警官に至るまで標準的な道を歩んできた。いささか刑事に登用されるまでの期間が短かかった、とはいえるかもしれない。が、それも田舎ではままある話だった。どのような見方をしても、綾瀬は特殊すぎるのである。和泉にとってばかりでなく大半の警官にとって、彼のような来歴の持ち主はほとんど空想上の存在にも近しいのだった。


 5

 にわかにタクシーの速度がおちた。車窓へ眼をやると、いつのまにか景色が変わっている。静謐と緑と一戸建て。三つの要素のみで構成された一帯である。その眺めには見覚えがあった。今泉台に間違いない。
 和泉がこの住宅街をおとずれるのは、今年になって三度目であった。過去二回はいずれも空き巣の捜査である。自転車泥棒やスリなら交番や駐在が処理。施設内に侵入しての窃盗は、基本的に本署の刑事が担当することになっている。
「一丁目でしたよね」あたりを見回しながら運転手がいった。
「そう。一二番地」綾瀬が応じた。「城戸家だ」
「このへんだと思うんですが」
 今泉台は、ゴルフ場と隣接するような区域であった。東側半分――五丁目あたりから七丁目までは造成も進んでいない。そのため湖や樹木といった周囲の自然は美しく、住宅街よりは別荘むきの土地といった印象もある。刑法犯の発生件数は、大船を中心とする鎌倉市北部のなかでも極端にすくない部類に入った。ここで一年間働くより、繁華街を管轄とする交番に三ヶ月勤務するほうが経験になるだろう。
「とめてくれ。彼女に訊いてみよう」綾瀬がいった。
 彼の視線をたどる。車庫からスクーターを引っ張り出そうとしている中年の女にむいていた。一戸建ての住人らしい。位置的に一番近かったため、和泉はウィンドウを上下するハンドルに手をかけた。それを制するように綾瀬が反対側のドアを押し開ける。彼はそのまま車をおり、女性から必要な情報を得て速やかにもどった。
 刑事に任命されれば一般人にはない様々な特権を得る。和泉がそれを鼻にかけた公人とならずに済んだとすれば、それは早い時期から綾瀬のような先達の影響を受けてきたためだろう。つねづね感じていることだった。
 新人が窓越しで充分と判断すれば、無言でドアを開けてみせる。思い上る余地など、最初から与えられないのだった。自分よりはるかに経験のある警官がより腰を低くかまえ、配慮のいきとどいたきめ細かな行動を心がけているのだ。すこしでも自尊心のある者にとって、これに勝る戒めはない。彼らは日常的言動の端々から、学ぶべきことが無数に存在することを指摘してくれる。
 社会は常に変化し、同時に犯罪も変わっていく。現実に対するある種の謙虚さを失えば、それらに対応していくことは永遠にできない。
「和泉、残念だが車はここまでだ」
 いうと、綾瀬は懐から財布をだして運転手に料金を訊ねた。領収書を発行させ、再び外にでる。
「近いんですか?」
 去っていくタクシーを見送りながら問う。綾瀬はうなずき、それもあるが――とつづけた。「どうも、両親が子供をさがして近所を訪ねまわったらしい。既にかなりの噂になってるようだ。自宅周辺に野次馬がつめかけているせいで、歩いたほうがスムーズに進めるような状況だそうだ」
 その情報が真実であると判明したのは三分後であった。女性の指示どおりに歩くと、それだけの短時間で現場は見つかった。周囲には聞いていたとおりの人だかりができている。それは、ある一点を取り囲む輪のようにして形成されていた。中心部になにがあるかは考えるまでもない。
「朝も早くからご苦労なことだな」
 綾瀬が欧米人のように肩をすくめた。呆れ半分、感心半分といった様子である。和泉としてもまったくの同感であった。
 野次馬のなかで目立つのは、やはり主婦らしき女性だった。若干ながら通勤途中らしいスーツ姿の男性も見られる。これらをひとりの制服警官が必死の形相でおさえ込んでいた。四〇絡み、あるいは若干それより若いか。今泉駐在所の者だろう。
 ――緊張しすぎてはならない。
 彼を見るうち、綾瀬から受けた忠言を思いだした。駐在の顔には血の気がまったくなく、動きから極度に萎縮している様子が遠目にもわかる。誘拐という大きな事件である可能性を知っているのだろう。必要以上に神経質になり、それが物腰まで硬直させているようだった。声量もまったくコントロールしきれていない。喧騒と張り合うかのような怒号をあげ、手荒に人々を扱っていた。
「機捜と鑑識はきてないようですね」
「それはいいが、ウチの警らもまだというのはな」綾瀬が眉をひそめる。「本部の連中と違って裏道にも精通しているはずだろうに」
「機捜の場合、出る幕ではないと判断した可能性は?」
「それは考えにくいな。来るよ、連中は」
「いずれにしても、県警にこの光景は見せたくないですね」
 過剰反応。平常心の忘却。本部の人間があの駐在を見れば、即座に所轄を足手まといの素人集団とみなすだろう。
「見ても単に確信を強めるだけだと思うがね。まあ、それでも現場の保存くらいはきっちりやっておくべきだろう」
 綾瀬がつぶやく。どこか自嘲的な響きが感じられたが、和泉の気のせいかもしれなかった。
 ふたりで人波をかき分け、現場にむかいはじめた。思ったより群れの規模が小さい。それほどの苦労もなく、すぐに人の輪の最前列に到達する。
「貴方がたは、何度いったらわかってくれるんです」とたんに制服が飛んできた。不審物をかぎつけた麻薬犬のような勢いである。「必要以上に現場へ近づかないでもらいたい。捜査の妨害になる」
 言葉の選択にはまだ理性的な部分が残っていた。が、語調はあきらかに叱責のそれであった。周辺住人が良い印象をうけたとは思えない。ただでさえ警察組織に対する不信感が高まっている時期である。去年刊行された、元警視監による内部告発書籍の影響だった。全国警察組織のトップ5に名を連ねた人間のものだけに、かなりの物議を醸し出したのだ。
「あまり肩に力を入れすぎない方がいい」和泉は自戒の意味もこめて穏やかにいった。「私も注意されたことだが、貴方を見てよく意味がわかった」
 一般人による侮辱とうけとったのだろう。蒼白だった男の相貌が一瞬で紅く染まった。極めて厳しい口調で誰何の声をむけてくる。
「本署の刑事課だ」綾瀬が応じた。「強行盗犯係の綾瀬と和泉巡査部長。当面、ここは我々が管理する。きみは?」
 駐在は一瞬呆然とし、ようやく相手が自分より場にふさわしい人間であることを認識した。慌てた様子で名乗る。階級は巡査部長。やはり今泉の住込み駐在であるという。
「少年係の橘巡査長は来ておられるだろうか」綾瀬がいった。
「はい、中に。現在、お宅の方に事情をうかがっておられるようです」
「ありがとう。引き続きここをお願いしたい」
 警部補の笑顔に駐在は敬礼で応じた。そのとき、和泉の視界の端にパトカーの姿が映った。通りの突き当たりにあたる角を、こちらにむかって曲がろうとしている。遠目にも騒音走行認定を受けた車両であるのがわかった。恐らくは警ら担当なのだろう。ほとんど同時に、綾瀬もその存在に気づいたらしい。彼は車が接近してくるのを見とどけ、城戸邸にむかった。その背を追う。鉄扉をつけた鳥居のような門を潜った。
 いつドーベルマンが飛んでくるか分からない。城戸家の敷地内は、そのような危惧を抱かせる種の空間だった。玄関までの小道には砂利が敷き詰めてあり、その両側に手入れの行き届いた芝の庭が広がっている。小さなブランコや木馬など、子ども用の玩具があちこちに見えた。正面に見える邸宅は二階建ての洋風建築である。壁面は青みがかった灰色に塗装されており、屋根を含めて綺麗な箱型のシルエットをもっている。よく見ると、二軒の家がバルコニィと渡り廊下で一つに接続されたような造りであることがわかる。
「こういう家が欲しかったら警察は辞めるべきだろうな」
「弁護士にでも転職しますか」
 そういう例がかつて無いわけではない。
「これから、ここの地価はどこまで上がるか。億単位になるかもな」
 投資するならいまのうちだ、と綾瀬が冗談めかして笑う。
「確かに激動の時代になるとは言われているが」驚いて返す。「そんなに急騰しますか」
「例のプラザホテルでの会合だ。あれ以後、いろいろ変わりはじめただろう」
 それは和泉も知っていた。各メディアでもさかんに叫ばれだしたことである。いわゆる <プラザ合意> から二四時間、為替レートにおいてはドルが円に対してその価値を二〇円もさげた。
「こういう話の影響は、まっさきに地価に反映される」綾瀬がつづけた。「我々にも小なり影響はでるだろう。景気の変動は犯罪の種類、手口の変動につながるものだ」
 立ち止まって庭を眺めていた綾瀬は、再び歩きはじめた。門から玄関にたどり着くまで今回ほど時間をかけたことはない。正面に見えるドアは、すでに半ばまで開いていた。何者かの背中がストッパーになっている。小柄な男性のもので、色褪せた紺色のスーツ姿であった。セールスが押しかけているようにも見えるが、足元のスニィカーがそれを否定していた。スーツに平然と運動靴を組みあわせるような商売は、きわめて限られている。警官か教師だ。
 足音を聞きつけたのか、男が後ろへ首をまわした。その見事な白髪には見覚えがある。少年係の橘巡査長であった。
「見たことある顔だな。刑事部屋の人かい」
「そうです」綾瀬が微笑で応じ、和泉は会釈を返した。
「早かったな。おれもいま着いたとこでね」橘がドアを押さえながら場所を譲る。屋内への視界がひらけ、女性の立ち姿が見えた。「こちら、通報者の城戸早奈子さん」
「お忙しいところ、お騒がせして申しわけありません」
 眼があうと、彼女は慇懃に頭を垂れた。三〇そこそこのはずだが、教育と礼儀を感じさせる女性である。事態の大きさを考えれば落ち着いた態度であった。色白で線が細く、温和そうな顔立ちをしている。三者間で簡単な挨拶と自己紹介が交わされた。
「悪いが外を頼めないだろうか」夫人に名刺をわたした直後、綾瀬が老警官に顔をむけた。「ご覧のとおりの人だかりだが、交番《ハコ》のが舞い上がって対応しきれてない。警らの応援も含めて、慣れた者の助けがいる」
「おうよ」橘巡査長は愛想よく諒承し、踵をかえした。使い古された廃品同様の鞄を右手にぶらぶらと歩きだす。大事になるかもしれねえな。すれ違うとき、和泉の耳元でそうささやいていった。はっとして振り返るが、既に彼は完全に背をむけていた。そのままゆっくりと遠ざかっていく。
「それで――」綾瀬が口調を改め、仕切りなおした。「お子さんがいなくなったとお聞きしましたが。状況は変わりませんか?」
「はい」夫人がうなずく。「いまも主人が外を見まわっているはずです」
「では、とりあえずお邪魔させてもらいます。できればお子さんが寝ていたという子供部屋を見せていただきたいのですが」
「わかりました。よろしくお願いします」
 彼女は再び深く頭を下げた。それから先導するように歩きだす。むかったのは玄関そばの階段であった。片側に手すりがついており、大人が横に並べる幅がある。二階につづいていた。
「最後にお子さんの姿を確認されたのはいつですか?」
 手袋を着用しながら綾瀬が訊ねた。夫人は首を背後にひねり、また正面に戻した。「昨夜の四時ごろだったと思います」
 午前四時。予想外の時間帯であった。夜としては遅く、朝としては早すぎる。和泉は感想をそのまま口にした。
「おとなのように、昼間おきて夜寝るというパターンではないんです」母親がいとおしむように言った。「あのくらいの子は、起きて寝てを一日のうちに何度もくりかえしますから」
 案内された子供部屋は、階段を上りきった最寄の位置にあった。ここですと告げてから、夫人がドアの横へしりぞく。綾瀬がノブをひねって押し開けた。入って調べるのは鑑識の仕事である。廊下側から覗きこむにとどめた。
 子供部屋は、甘いにおいのする六畳前後の空間だった。家具といえばタンスとキャスターつきの椅子くらいしかない。かわりに、片隅に積み上げられたベビィ用品がやけに目立つ。床は板張りで、正面奥にバルコニィへ出られる大きなガラス戸があった。そちらが南なのだろう。ほかに窓の類はない。
 問題のベビィベッドは東側の壁際にあった。木製で成人の腰ほどの高さがある。寝台には標準的なシングルベッドの半分にも満たないスペースしかない。周囲には、落下を防止するための枠が設けられていた。
「本当にあのベッドで眠るんですか」和泉は思わず確認していた。「つまり、あれだけの場所に乳児というのは収まる――?」
 普段から、子供とふれあう機会など皆無である。まして生後数ヶ月の赤子となると完全な未知の生物であった。姿、生態、特性。まったくイメージできない。足がかりさえない。
 城戸夫人は無言だった。次の瞬間、彼女の目尻に突然涙があふれ、流れだした。思わずその横顔を凝視する。本人は自分が泣いていることにすら気付かないようだった。ただ、壁にハンガーでつるされた――冗談のように小さな――子供の服を見つめている。
 不意に、交通課の同期に聞いたことを思いだした。
 交通事故で子を失ったとき、どんなに気丈に振舞う母親でも涙をこらえ切れない瞬間がある。わかるか。そのように切りだされた話だった。少し考え、わからないと素直に返したのを覚えている。
 遺品の整理で子どもの衣類をまとめるときだ。彼はそう言って、つづけた。この服には、もう二度と腕が通されることもない。そう考えると思いをこらえきれなくなるのだろう。子供はとくに成長がはやく、服のサイズが驚くべき速度でかわる。特に生後間もない場合は、たった二ヶ月で身長が一〇センチ伸び、体重は倍になる。
 だが子供が死ねば、それ以降は服が大きくなることもないのだった。買いかえる必要はなくなり、サイズはそこで永遠に固定される。そのように考えだすと、もう親は耐えきれないのだという。
 また、子供のにおいの染み付いた衣類は特にひとを感傷的にさせるのだ、とも指摘があった。捨てるのはしのびない。しかし、保管しておいても香りが少しずつ薄れ、消えていくことは分かっている。だから考えるだけで辛くなる。
 服を握りしめてすすり泣く彼女たちの気持ちは、いつも痛いほど伝わってくるのだ。彼はいい、自分も子持ちだからではない、と強調していた。それ以前から変わらないことなのである。彼の語りに誇張がないことは、紅くした眼のまわりを見れば明白であった。
 城戸早奈子もまた同じなのだろう。子供はおそらく誘拐されたのだ。母親を探してつらい思いをしているに違いない。あるいは、もう死んでいるのかもしれない。だとすれば、ここにあるものはすべて必要性をうしなう。彼の身体を、あの小さな衣類で包んでやることもできなくなる。もう新しい服を買ってやる意味もなくなってしまう。そうした思いが直接伝わってくるような涙であった。
「お子さんがいなくなったのを見つけたのは誰で、それは何時ごろのことですか」
 綾瀬がいった。母親の涙に気づいたはずだったが、あえてその素振りを見せない。無神経な一言にさえ聞こえた。が、彼女がよけいな想像力をはたらかせるのを抑止する効果はあった。それは下手な慰めの言葉より本人の助けとなることがある。
 われに返った夫人が、あわてたようすで涙をぬぐう。気づいたのは自分だ、と取りつくろうような早口でこたえた。息子は長いときで六時間ちかく眠るが、これは滅多にあることではない。通常は二、三時間の睡眠で泣きだすのがパターンである。昨夜は四時に寝かしつけたが、八時になっても反応がなかった。怪訝に思って部屋をのぞきにいくと、ベッドが空になっていたのだ。なにが起こったのか、そのときはまったく理解できなかった。自分の中の何かがおかしくなったのだと考えた。彼女はそのように説明した。
「失礼ですが、記憶的な混乱ということはあり得ませんか」
 いってから、和泉は即座に補足した。かつて、彼女と同じように子供がいなくなったと騒ぎ出した女性があったのだ。
「その子供は五歳でしたが、近所の人間が預かっていました。外出の予定があったので、母親が自分から預かるよう頼んでおいたんです。しかし、彼女はそれを完全に忘れて大騒ぎした」
 冗談のような話であるが、現実におこった騒動である。ひとたび大きな事件だと信じ込むと、人は己の思考力や記憶力を駄目にしてしまうことがあるのだった。
「それはないと思います」母親ははっきりといった。
 預けるとしたら同居している義父母だが、彼らは先週から海外にでかけてるらしい。ほかに午前四時から赤子を預けられるあてなどなく、あったとしても夫と揃って預けた事実を忘れるとは思えない。
「では、子守りのような人間は? ときどき家にきて、面倒をみたり、外へ散歩に連れ出したりというような」
「ベビィシッターのようなものを言っておられるなら、うちでは雇ってはいません」自分たちに断りなく家に入り、子供を外に連れ出すような気安い知り合いもない、と彼女はつけ加える。
「となると――」
 いいながら綾瀬に視線をおくる。彼と眼があい、同じことを考えていることが確認された。誘拐の線がもっとも有力だと認めたのだ。
 城戸祥平、生後五ヶ月。彼がみずから寝台の柵をのりこえた可能性は無視できる。屋外に消えるためには、さらに二階バルコニィから飛び降りるか、もしくは階段を下りてドアノブをまわす必要がある。彼にその力が備わっているのなら、探さなくても自力で空を飛び、家に戻ってくることも可能だろう。
 城戸祥平には両親と二歳の姉がいるが、三人の誰が外に連れ出したとも考えられなかった。動機がない。普段は祖父母とも同居しているが、これは現在海外旅行中である。そうなれば外部の人間が連れ去ったとするのが、現状では一番自然のようにおもえた。
「以後、鑑識が調べ終えるまで、ご家族も含めこの部屋は立ち入り禁止にさせてください」ドアをしめながら綾瀬がいった。「ご夫婦と娘さん以外で、今日この部屋にはいった者はありますか」
 夫人はいないと答えた。バルコニィに通じる戸は施錠されていたか、という問いにも否と返す。二階であるし、定期的に出入りをくり返すので戸締りの必要性は感じていなかったという。
「一階の鍵はどうでしたか」和泉は鞄を漁りながらたずねた。「これだけ大きなお宅ですが、警報のような防犯システムは?」
「一階の窓やドアは、もちろん施錠して寝ました。防犯装置のようなものは取り付けておりません。警備会社と契約したこともありません」
 ノートをとりだし、その証言を記録した。いままでの段階で得られた情報も整理してまとめる。
「お子さんはここで寝かせて、ご両親や娘さんは別に寝室があるわけですか」綾瀬が重ねて問うた。「添い寝はなさらない?」
「そうです。私がアメリカで育ったものですから。隣が娘の部屋で、私たちの寝室は――」いいながら、彼女は少し離れたドアを眼でしめした。「あそこです。寝室は全部二階にありますが、子供たちの部屋は分けてあります」
「バルコニィ、あるいは階段をのぼって二階に侵入した者があった場合、寝室からそれに気づくとおもいますか」
 綾瀬の言葉に彼女はかぶりを振った。気づくと思っていたが過信であったようだ、と悲しげにつぶやく。今回、それが最悪の形で実証されたのだ。
「もし本当に誰かが入り込んで、寝ているお子さんを連れ去ったなら大変なことです。我々のような地域を担当する人間の手にはあまる。県の警察本部から、経験を積んだ専門の職人が送られてくるでしょう」綾瀬は声音を和らげてつづける。「くわしいことは、彼らに話していただくことになると思います。場合によっては同じことを何度も証言させられることになるかもしれません。しかし、彼らはそれを必要と信じておこないます。お気に触ることもあるでしょうが、解決への近道だと考えてご協力いただけると幸いです」
 そのとき、階段をのぼってくる音が聞こえた。すぐに壮年の男性が姿をあらわす。白いスラックスをはき、灰色のジャケットを羽織っていた。カジュアルな格好だが雰囲気がある。姿を見なくとも、周囲の空気から存在を感知できるタイプだった。既にある種の風格と余裕を身につけている。反面、肉体的な年齢はまだ若そうだった。すくなくとも四〇には達していまい。顔立ちもよく、自宅を見る限り経済力もある。夫人は非常に高い競争率を勝ち抜いて、現在の地位を築いたに違いなかった。
 顔を見るや、その夫人は彼に駆けよった。期待を込めて「どうだった」と問う。が、男は力なく首を左右してこたえた。情報はまったく集まらなかった。会社の人間が協力してくれることになり、顔写真をのせたビラを作ってくれている。その後、グループを組織し捜索を開始する予定だ、と続けた。
「警察のかたですか」彼が和泉たちに視線をむけた。
 応じようとしたが、夫人がさきにそれを認めた。綾瀬が渡した名刺を見せる。男はそれを一瞥し、再び顔をあげた。
「城戸芳晴です。いなくなった子供は、私の息子にあたります」
「刑事課強行盗犯係主任の綾瀬です。こちらは同係の和泉巡査部長。よければお話をうかがいたいのですが」
 彼はもちろん構わないと返し、居間に案内するといった。先に階段をおりていく。誰もが無言でつづいた。
 全員が一階にたどりついたときだった。長い廊下のむこうから、湿り気を帯びた落下音が聞こえてきた。夫人が形の良いまゆをひそめる。前を歩いていた夫が彼女に振り返り、夫婦の間で一瞬、無言のやりとりがあった。「娘だと思います」と言ったのは、夫人のほうだった。言葉のあと、会釈を残してすぐに駆けだす。見かけそのままの軽い足音が遠ざかっていった。
「二歳なのですが、なんでも自分でやりたがる子なのです」
 妻を後姿を見送りながら城戸が苦笑した。幼児特有の心理なのだ、とつけ加える。彼らは経験が少ないため、なにが自分にでき、なにがそうでないかを理解しない。
「基本的な質問で恐縮ですが」和泉は躊躇いながら口を開く。「二歳くらいの子供というのは、どのていど話せるものなんでしょう」
 城戸があごをなでる。「そうですね。実例をあげると、彼女は真ん中を <まんかか> と発音します。制服を着た貴方がたの同僚については <おわまいさん> と呼んでいるのを聞いたことがありますね」
 ひらがなにして五文字を超える言葉は、まず正確にはいえないとのことだった。思わず天井を仰ぐ。絶望的な参考人であった。
 突きあたりまで廊下を歩き、城戸がドアを開けた。身振りでなかに入るよう促される。ダイニングキッチンだった。居間と接続された大きな空間で、総合すると署の小会議室より広い。規模から、二世代が共同で使用しているものだと思われた。
 食堂の中心部には、楕円形の大テーブルが鎮座していた。どっしりとした木製の代物で、周囲を八脚の椅子が取り囲んでいる。明らかに子供用と分かるものも二つあった。その片方の足元に、シリアルとミルクがぶちまけられていた。上下が逆さになった皿も見える。先ほどの落下音の元凶であることは疑う余地がない。
 突然、「おじちゃん」という呼び声がきこえた。眼をやると、小さなエプロンをつけた子供が眼を輝かせていた。城戸家の娘であることが一目でわかる。色白で眼が大きく、睫毛がながい。母親によく似ていた。少女は短い足を懸命に動かしてよたよたと走り、綾瀬の脚部に飛びついた。四肢すべてをつかって力強くしがみつく。木によじ登ろうとしているようにも見えた。
「――だめよ、舞子」
 雑巾で子供の不始末を片付けていた母親が、あわてた様子で飛んできた。綾瀬から娘を引き剥がし、小さくたしなめる。
「あとは私がやっておくから」強張った表情で城戸が声をかけた。「君は舞子を見ていてくれるか」
 細君はうなずいて諒解をしめし、綾瀬に頭をさげてから出ていった。抱かれて連れ去られるのを新しい遊びだと認識したのだろう。子供のはしゃいだ声がドアの向こうから聞こえ、遠ざかってゆく。
 恐るべきは幼児の影響力である。和泉はそれを痛感していた。城戸舞子の登場と、一瞬の笑い声で場の空気はまったく変わっていた。大人たちの生んだ沈痛なばかりの雰囲気が、わずかながらも確実になごんだのだ。
「手を貸します」
 椅子にかけられた予備の雑巾をとり、綾瀬がかがみこんだ。城戸は遠慮しようとしたが、それが通じる相手ではない。最後は恐縮しつつも二人で作業をすすめる。
「しかし、主任が子供になつかれるとは」
 和泉は、転がったままの皿をひろいながら言った。大部分が牛乳にまみれている。キッチンの流し台まで運び、軽くゆすいでおいた。
「はからずも、本職の清心を証明することになっただろうか」
「いや、等身大のクマのぬいぐるみだと思われた可能性のほうが高い」
 綾瀬は苦笑いし、ゆかを拭きながら器用に肩をすくめた。和泉は父親に顔をむけた。娘が人懐っこい子なのかと訊ねる。どちらかというと人見知りするほうである、という答えが返った。
「彼女は、弟が消えたことを?」綾瀬が父親に眼をやる。
「気づいています。どこに行ったのか訊かれたので、適当にごまかしました。いまはそれで納得しているようです」
 しかし、とつぶやき、城戸は雑巾をもつ手をとめた。固い表情のまま、ゆっくりと顔をあげる。その声音は微かに震えていた。青ざめ、額には小さな汗の粒が無数にういている。常に抑制されていた感情が、今ははっきりとした動揺として双眸にあらわれていた。
「やはりこんなことは――」
「城戸さん、落ち着きなさい」
 綾瀬がさえぎった。一呼吸おき、ゆっくりとした口調で諭し聞かせる。
「状況を見るかぎり、確かにお子さんは誘拐されたのかもしれません。気が焦るのはわかります。しかし県警が本腰をいれれば、数十数百という人員を導入できる。必ず息子さんは見つかります」
 城戸はそれでも納得せず、なおも言い募ろうとした。が、屋外から聞こえてきた無数のブレーキ音がそれを阻止する。野次馬たちのざわめきが大きくなった。
 和泉は食堂と居間を横切り、通りに面したガラス戸に近寄った。カーテンをめくり外に眼をやる。モーセが海を割るように人波を裂き、何台かの車が城戸邸につけていた。植え込みを挟んで見えるかぎり、ボックス型が二台。セダンが三台。後者はすべて覆面車であったが、ボックス型の一台には <神奈川県警察> のペイントがあった。
 各都道府県の警察本部には、重要犯罪の初動捜査を主な任務とする専門集団が存在する。三交代勤務制で二四時間活動し、平時は特殊装備をつんだ覆面パトカーで県内全域を巡回している部隊だ。緊急指令がおりた場合は現場に急行。事件発生直後の初期捜査にのりだす。さらには所轄の警官らを指揮下におき、周辺の警戒や聞き込み、目撃者の証言確保などおこなうのだった。
 タイミングと強引さからして疑う余地はない。彼らである。
「和泉、なんだ?」清掃を終えた綾瀬が立ちあがった。
「機動捜査隊のおでましです」


 6

 翌日未明、和泉はおよそ二四時間ぶりに署へ帰った。正確には夕方、一度だけ戻ったともいえる。が、それも夜間配備にそなえ装備を換えに寄っただけであった。初動捜査は実質、夜通しだったといえる。街じゅうに検問がはられ、城戸家の周辺住人にはあまねく聞き込みがおこなわれた。和泉たち所轄の警官は、機動捜査隊の指示で管内のあちこちに飛ばされていた。不審人物、不審車両のチェックが主な目的である。挙動の目立つ人間には片っ端から職務質問をかけろ。その指示に従い、この一日で何人に声をかけたか。和泉は計算しようとして、すぐにそれを放棄した。考えたくもない。ただ、個人としての新記録であることは疑う余地がなかった。
 それよりも、いま必要なのは思考ではなく休養である。とにかくシャワーを浴び、ベッドに倒れこみたかった。頭が異様に重く、思考が正常に働かない。しかし、その眠気も正面玄関を潜った瞬間に霧散した。一歩踏み込んだ体勢のまま、思わず動きが凍りつく。
 署の風景が一変していた。インフォメーション・フロアにカメラやメモ帳、テイプレコーダーをもった人間たちが氾濫している。普段なら、キャッチボールをはじめても人にぶつける心配のない空間である。いまなら確実に複数の怪我人がでるだろう。報道関係者のおびただしい群れだった。ふと、署の周囲に見慣れないワゴン車が停められていたのを思いだす。中継車だったのだ。早朝のニュース番組にそなえ、既に準備をはじめているのだろう。記者らしき姿も相当数みうけられた。耳にイヤフォンを突っ込んだ背広姿――県警の捜査官を探して血眼になっているのが分かる。彼らに、かつて人間であったころの面影はすでになかった。完全に餓えたハイエナと化している。
 和泉はまっすぐに、だが通常の数倍の時間をかけて署在交番の受付へむかった。マスコミの眼があるせいか、カウンターに制服姿の警官が直立不動でついていた。制帽を深々とかぶり、指先をまっすぐに伸ばしている。立番としてよく見かける署員だった。
「満足に眠っていないせいで頭がどうかしてるのかもしれない。ここは自分の職場に間違いないかな。一見、TV局にもみえるが」
「お疲れさまです」早番の警官は短い敬礼をよこした。直ると同時にプレスの人間たちを一瞥し、ため息混じりにつづける。「疑いたくなるのもわかりますよ。まるで別の場所ですからね」
 捜査本部が設置されたのだった。それにともない、神奈川県警の捜査員が大挙して押し寄せたのである。今回の事件が大筋で誘拐と認められた証であった。さらにいえば、上層部は最初から公開捜査として話を進めていくつもりらしい。
「うちの署に本部がたつなんて、ちょっと現実感ないですね」
 制服警官が階上を見上げながらいった。通常、特別捜査本部というのは所轄署の講堂か大会議室を拠点とする。本署のそれは二階にあった。
「本部はどれくらいの規模になった?」
「午前中に機動隊も到着するらしいですから、最終的には三桁いくみたいですよ。炊出し部隊とか警察犬も出るって噂です」
「本当なら、消防含めて二〇〇人を超えるな」
「そういう話は、ウチの課長たちがしてましたね。もっと多くなるかもしれません。戸塚南署とか鎌倉署のほうからも何人か吸いあげてきてるみたいですし」
 戸塚南署が絡んでくるのはある意味当然である。管区が隣接しており、大船中央署との境界線が非常に曖昧だからだ。両区の間には国鉄大船駅が存在し、これは戸塚南と大船中央とをまたぐように存在している。駅でバッグを引ったくった犯人を追い、駅の中を走り回っているだけで南署の管区に入り込むことも珍しくない。常日頃から連携と牽制とを繰り広げている間柄なのだった。
「警務課の人たちが武道場に布団敷いてますよ」制服警官はそう言ってつづけた。「うちの道場って、柔道用の畳スペースと剣道用の板張りスペースが半々じゃないですか。畳のほうが寝心地が良さそうだっていうんで、そっちは役職が高いほうって決まってるみたいです。班長クラス以上とか。そういうマニュアルでもあるんですかね」
「さあ、どうだろうか」笑んで返そうとしたが、うまくいかなかった。疲労で顔の筋肉が強張っている。顎をなでると無精ひげが指に触れた。「なんにせよ、しばらく徹夜が続きそうなのは所轄も同じだ」
 社会的に影響力の大きな事件ともなれば、県警の刑事たちは夜を徹して働く。多くは帰宅を放棄し、所轄署の敷地内に設けられた武道場に寝泊りするのだった。長期戦になると、三ヶ月ほどそうした期間がつづくという。彼らがそうであるというのなら、当然のこと所轄の刑事も働かないわけにはいかない。どこの署に本部が置かれようと変わることのない事情である。
「とにかく年末年始を越える騒ぎです」立番が興奮をどうにか抑制しながらいった。「本部の設営も大変みたいですよ。机並べて、電話機増設して、お酒と茶菓子用意して。会議が終われば酒盛り。居酒屋を案内させられた者もいたらしいですよ。マスコミの対応もありますしね。警務課だけじゃ足りないから、通常業務縮小してどの課からも人手を引っ張ってきてるみたいです」
 知っている、とこたえた。「私も交通と組んで緊配にまわされていた。裏方にも相当の負担がかかっているだろうな」
「自分は差し入れの窓口役をやらされましたよ。協力団体からどしどし届いてるんで、臨時にそういう係をつくったんです。のしつきの清酒だとか」彼は珍しがるように顎をさする。「昨夜までのぶんは、署長と副所長が公舎に運び込んじゃいましたけど」
「さもありなん、だな」
 特に副署長の狡猾さは全職員にしられている。非公式の資金プールにも精力的で、経理の裏側でなにかと励んでいるようであった。特捜本部が設置されたからには、そうしてためこんだ金がいよいよ活用されるのだろう。
「ところで新聞は? この件は、もう報道されてるんだろうか」
「自分は見てないですけど、今朝の新聞にはもう出てるみたいですよ。誘拐とみて捜査中とかなんとか。実際、どうなんです?」
 眠気でぼけた眼でも、彼の瞳が好奇心に満たされていることがわかった。話の相手が無邪気な刑事志望者であったことを思いだす。
「今朝の会議待ち、といったところかな。昨夜のは情報の持ち寄りと幹部同士の方針模索といった雰囲気だった」
 そのように前置きしてから、大体の情報をおしえた。受付係は神妙な顔つきで聞き入り、最後に腕組みして小さくうなった。
「赤ん坊が夜中にベッドから消えたなら、そりゃ誘拐ですな」
「一般人なら普通はそう思う。県警も同じくらい普通の考えかたをするらしい。だから新聞にも誘拐という言葉が使われたんだろう」
「どっちも普通の考えかたをするなら、一般人と刑事はどこで違ってくるんです?」
「そういうことは、もう少し経験のある人間にきいてほしいが」自嘲に近い苦笑いを浮かべつつ、綾瀬を思い浮かべた。「自分の知る刑事というのは、普通の考えかたを一般人よりヴァリエーション豊かに用意する。何通りも考えて、その可能性を全部しらべていく」
 なるほど、とつぶやき、彼は感心した様子で何度かうなずく。
「それより、腹が減ってるんだ」胃のあたりをさすりながら訴えた。「おおかた昨夜は、県警の連中に夜食でもふるまったんだろう。余り物でも残ってないかな。この時間じゃ食堂もあいてない」
「夜食のことはわかりませんが――」彼は小さく首をかしげた。それから少し待つよういい残し、小走りにカウンターの奥へ消えていく。もどってきたときには、手にちらし寿司のパックを握っていた。ラップで包装された市販品である。「よかったら、これ。自分が夜食用に買ってきたやつですが」
「ありがたいが、本当にいただいても?」
 構わない、と手に押しつけられた。自分は夕食をきちんととったため、夜食が必要なほどの空腹感はなかったのだという。
「昨日の昼に買ったものですが、まあ、一〇月ですしね。悪くなってることもないと思いますよ。それより事件のほう、なんか進展があったらこっそり教えてください」
 規則に抵触しない範囲で、と約束した。丁重に礼をいってその場を離れる。欠伸をかみ殺しながら階段をのぼった。腕時計を確認すると、午前六時をすこしまわっている。足をとめ、玄関周辺のフロアを見下ろした。レポーターらしき女性がリハーサルにいそしんでいるのが見える。彼らが熱心なのか、事がそれだけ大きいのか。刑事以上のバイタリティであった。
 彼らが待ちわびている捜査会議がはじまるまで、約二時間半。その間に、昨日の報告書を作成しなければならなかった。刑事の仕事は書類にはじまり書類に終わる。たとえ非番で呼びだされていたとしてもそれは変わらないのだった。
 外に出ての捜査活動とデスクワーク。実際の割合は五分五分なのだろう。しかし主観では七割近くが書類の整理で占められているような気さえする。
 たびたび指摘されていることだが、刑法犯のほとんどは窃盗であった。そして盗犯捜査の基本は手口調査なのである。ガラスを割るか、鍵をやぶるか。犯行にかける時間の長短。対象の絞り方や盗む物の種類。そうした犯人の個性から、誰がどの盗みを手がけたか割りだしていく。そのときに必要となるのがデータであった。このデータがどこからくるか。刑事が手作業で作成していくのである。事件が起こるたび電話帳より分厚いファイルをもちだし、蓄積した情報を整理するのだ。「自分は塀の高さで獲物にする住宅を選んでいる」逮捕した空き巣犯がそういえば、メジャーをもって塀の高さを計りにいく。いわゆる精査と呼ばれる作業である。一七〇センチ。たったそれだけの数字を明らかにするためだけに、何時間も歩き回ることさえあった。ことが誘拐なら、更にけた違いの資料をあたる必要がでてくるだろう。考えるだけで無意識にため息がこぼれた。
 開け放たれた刑事課のドアをくぐると、なかは閑散としていた。時間を考えれば当然ではあるが、それにしてもほぼ無人に近い。電話番と当直、あとは課長の顔がかろうじて見える程度だった。
「ようやく帰ったか。何をしていた」
 疲れも消しとぶ、素晴らしい労いの言葉が投げかけられた。声の主は課長のデスク上で腕を組み、なにもない虚空に睨みをきかせている。彼にしか認識できない敵がそこに存在するかのようだった。
「もどったなら報告書をはやくあげてくれんかね。遅れて本部の連中にせっつかれるのは私なんだ」
 叱責ではなく、大田課長にとってそれは通常の挨拶であった。彼の下でやっていくためには、まずそれを悟らねばならない。
「下の様子を見ましたか」まったく意に介さず返した。「この調子だと、署がマスコミに占拠される日も近そうですね。警官より報道関係者のほうが確実に多い」
 課長は答えなかった。期待もしていない。和泉は自分のデスクに向かい、椅子を引いた。腰を落ち着けるや、さっそくちらし寿司のパックをあける。なかほどまで開きかけたとき、箸がないことに気づいた。
「おつかれさん。緊配だったんでしょう?」
 突然、視界を横切るように細い腕が伸びてくる。それはデスクの上に湯呑をおき、引っ込んでいった。見上げると事務職の女性警官が立っている。もう四〇近い女性で、いわゆる課の古株であった。刑事課職員の出張費や業務記録の管理が主な任務である。本部設営に駆りだされていたのか、目元にすこし疲れが見えた。
「この一晩で一ヵ月分の職質をかけたかもしれない」答えると、和泉は湯飲みを軽くかかげて見せた。「ありがとう。ちょうど欲しかったところです」
「お礼ならもう一回いっておいたほうがいいよ。それ淹れるついでに、洗い場の食器も片付けといたから」
「本当ですか」お茶汲みやその片付けは、もっともキャリアの浅い課員の仕事である。すなわち和泉の役割だった。「ありがたい。助かります」心からでた言葉だった。いまはその小さな親切が気を楽にしてくれる。
「私も新人の頃、先輩にそうしてもらって嬉しい思いしたからね。いい上官をもって良かったね。お嫁にしたいくらいでしょう」
「どちらかというと」お茶を一口すすっていった。「お嫁にしてもらいたくなった気がします」
 性別が違っていたら、彼女は間違いなく快男児と評される人物になっていたはずだった。本人も自覚があるのだろう。大きな口をあけて笑う。
「それにしても、なんだか凄いことになってるね。捜査本部のことは聞いた?」
「八時半から捜査会議だそうで。――ところで、ありがたついでに割箸を持ってませんか」
 彼女はにやりと笑い、「ちょっと待ってな」と踵をかえした。自分のデスクに歩み寄り、引き出しを開ける。なんのためか、新品の綺麗な割箸を大量に保管していた。一本引き抜き、戻ってくる。和泉は礼をいってそれを受けとった。
「しかし、本部なんて何年ぶりかね」彼女がいった。「あたしらも準備で大変だったよ。なにせ、今度のは人数が多いからね」
「鎌倉で本部がたつような事件があったんですか?」
「うん、四年くらい前だったかね」婦警は頬をなでるような仕草を見せ、当時を思い起こすように視線を泳がせた。「そのときは一年に二度たったよ。最初がひき逃げ。老人が亡くなってね。県警が出てきて本部たてたけど、こっちは二日で解散した」
 随分とスピード解決である。そう口にすると、被疑者が愚かだったのだ、という答えが返った。破損した車を修理にだして即座に足がついたのだ。
「で、次が冬の連続放火。こっちは死人は出なかったけど、小さな山火事に発展したりしたからね。やっぱり対策本部みたいなのができたよ。消防と合同だった。県警本部からも何人か来てたし」
 しかし今回ほどの大所帯ではなく、雰囲気もそこまでの緊張感はなかったという。
「まだ田辺って警部補が係長やってたころでね。これがまた勉強ばっかりしてる世渡り上手タイプだったのよ。で、その係長さん、大きな事件だからってハリキっちゃって。現場に踏み込んで荒らしちゃったのね」
「しかし、警部補にまでなった叩き上げでしょう」
 にわかには信じがたい話である。
「でもほら、火事場ってちょっと特殊らしいじゃない。経験のある専門家じゃないと、なにが重要かわからないこともあるみたいよ」そこまで言ってから、彼女は大きく手を打った。「それで思い出した。消防やら県警から、ウチの署は駄目だって烙印おされちゃったのは、その件が原因なんだよ。田舎者だの半人前だの色々いわれて」
 と、彼女の部署の電話が鳴った。婦警は和泉の背を豪快に叩き、がんばりなよ、と一声かけて去っていった。しばらく痺れがのこるほどの強烈な一撃であった。
 静けさがかえった。お茶を一口含むと、箸を割る。散らしを口に詰め込みながら、机に資料をひろげた。城戸家で得た情報、職質の際にとった記録。大学ノートに書き込まれたメモは、改めて確認すると四〇ページを超えていた。それでも有力と思われる情報はない。ちらし寿司は三分足らずで胃袋に消えた。給湯室でコーヒーをいれ、一時間かけて報告書にまとめた。
「課長、係長はどうされたんでしょうか」
 通常、報告書は係長を経て課長代理へ、代理から最終的に課長へ至る。警官が取り扱う書類のほとんどは、上役たちの認印を得るまでは単なる紙くずに等しいのだった。
「消防と打ち合わせをしているはずだ。捜査会議までには戻るだろうが、報告書なら私があずかる」彼は催促するように手を差しだした。
 席をたち、言われるままに書類をわたす。フランクフルトのように太い指がそれをつまみあげていった。課長はざっと眼を通し、すぐにそれをデスクの隅に押しやった。しばらく沈黙し、やがて重いため息をもらす。
「人生とは問題の発生とそれの解決とでなりたっている。起こった問題をひとつ解決すると、また次の問題が起きる。その繰り返しだ。生きるということは、リスクマネジメントにいそしむことと同義なのだ」
 経験的に、彼が人生を語りだすのは危険な兆候だと知っていた。しかし退路がない。
「私はただ、自分の管理する地域が平和であるよう願っているだけだ。問題が起こらないよう、起こっても小さなものであるよう祈っているだけなのだ。警察官として犯罪を憎む。当然のことだ。それともなにか間違いでもあるか?」
 睨めるような一瞥とともに問われる。否と答えるよりほかなかった。大田課長は鼻をならし、当然のようにその返答を受け入れる。
「憎むべきは犯罪者なのだ。連中は次から次へと新手の嫌がらせを考えだし、私を苦しめようとする。バイク泥棒や路上強盗ならまだいい。しかし、今度は誘拐ときた。誘拐といえば重大犯罪だよ。公安の根暗連中でさえ誘拐まではやらない」
「しかも今回は子供が被害者だ。大変、衝撃的な事件です」
「そうだ。衝撃的な事件だ。人命に関わるかもしれない、厄介かつ迷惑な事件だ。できるならこの手で犯人を見つけ出し、絞め殺してやりたいほどだ」
 大田課長は、いまや本当にそれをやりかねないほど感情的になっていた。色白の肌が興奮のあまり全体的に紅潮しつつある。
「人の迷惑も考えず誘拐なぞやらかす莫迦者のおかげで、ウチに特捜本部が設置されてしまった。県警がわらわらと本署に乗り込んできて、わがもの顔でふんぞり返っている。家に帰れば、今度はブンヤどもが夜討ちをかけてくるわけだよ。こっちは眠れもしない。かと思えば、日も昇りきらないうちから今度は朝駆けだ。それもこれも上層部が誘拐の線で公開捜査をはじめたからだ」
「それなんですが、ちょっと早すぎませんか」反応をうかがいつついってみた。「身代金の要求があるなり、誘拐だと確定してから公開したほうがなにかといいような気もしますが」
「刑事部長がメディア対策に熱心な方なのだ。しかし、それより問題になっているのは子供の年齢だ」
 言下のもと、課長が噛みつくような調子でいい放つ。少しその意味するところを考えた。が、理解できない。
「赤ん坊は人質としてもっとも不向きだ」彼はなおも収まらないようすでつづけた。「利点といえば、口封じのために殺す必要がないことだ。あとは身体が小さいことくらいしかない」
「あれだけ小さいと、簡単な手さげバッグにも収まりますね」
 反面、彼らには言葉が通じない。泣く子に黙れと命じて鎮めることは不可能。脅し、懐柔策、なにも効果がない。そこがネックになるのだ、と課長は指摘した。
 確かにそのとおりだった。乳児は意思表示のすべてを泣き声でおこなうと聞く。腹が減っては泣き、機嫌を損ねてはわめき、成人には理解しがたい何らかの理由で騒ぎたてる。しかも彼らは身体が弱い。抵抗力が低く、ささいなことで体調を崩す。軽い衝撃で致命傷をおう。洗面器のなかで器用に溺れ死ぬことすら可能なのだ。首の力がよわく、水に浸かった頭を自力でもどせない。
 同じことを思いおこしたのだろう。課長が、昨年末の若い母親のことを覚えているか、と不機嫌そうに訊いてきた。うなずいて返す。
 去年の一二月、まさにそうした事件が発生した。浴室で子供を死なせてしまった、と青い顔で署に駆け込んできた女性があったのだ。彼女は完全に我をわすれ、救急車を呼ぶことすら思いつかなかった。ほとんど裸同然の格好で子供の亡骸を抱き、足元はサンダルだった。
「食事のこともありますね」
 ちらし寿司だけでは鎮めきれなかった空腹感が、和泉にそれを気づかせた。大田が渋い顔で首肯する。
「五ヶ月ていどの子供だと、基本的にはミルクしか飲まんだろうからな。歯すらない。食べられても、極めて液体に近いものだけだろう。水みたいな粥やすり潰した果物あたりが精々だ」
 それでも細心の注意を払う必要があるに違いない。それは想像に難くなかった。赤子というのは王侯貴族なみに限られたものしか口にいれない存在だという。誘拐犯が、そのあたりを考慮して城戸祥平を招待したとは考えにくい。
 こうして列挙していくと、よく分かる。極めてきめ細かなメンテナンスを要求される人質。それが乳幼児なのだ。
「仮にこれが誘拐だったとして、だ」右手を頭部にやった課長は、そのまま軽く髪をかき回した。「犯人がきちんと赤ん坊の世話をみるか。これも微妙なところだ。抵抗できない弱者だからと短絡的に選んだだけなら、そのうつけ者は即座に後悔することになる」
「最悪、殺すかもしれません。追われる身だけあって神経質になっているでしょう。話を聞くかぎり、乳幼児というのは人に重度のストレスをかける天才らしい」
「そういうことだ」吐き捨てるようにいう。「人質が生還できる見込みは過去の統計からみると半々といったところだ。しかも誘拐犯というのには特に最低の人間がそろっている。足手まといになった人質を早期に殺害するケースも少なくない。赤ん坊の場合、面倒を見きれないからと三日放置されれば、それだけで危なくなる。他のケースと比較して、あらゆる要素が生命の危機に直結しやすいのだ。さらわれたのが五ヶ月の子供であるという事実が今回の話を少なからず特異なケースにしている」
 課長は一息にいいきり、手元にあったマグカップを引っ掴んだ。湯気さえあがっていないそれは完全に冷え切っているようにも見える。が、彼はお構いなしに中身をあおり、卓上に戻した。力の制御ができていない。琥珀色の雫が数滴、あたりに散った。
「早期解決、スピード勝負の構えでいかねば人質の生命が危ない。経験的な蓄積のある県警はそう考えるだろうし、上層部もそこを危惧しているだろう」
「それで、マスコミを動員しての公開捜査ですか」
 大田課長は、和泉の言葉をまったく無視して苦々しげに顔を歪める。なぜ、あと五〇〇メートル北であってはいけなかったのだ。呪詛のようにつぶやくのが聞こえた。
「そうすれば、戸塚南署の管轄だった。あっちに本部がたった。私は綾瀬を引き受けたのだ。それで厄介ごとは充分だったはずだろうに。なぜ私ばかりに問題が起こるのだ」
「綾瀬警部補になにか問題でも?」
 かねてから気になっていたことだった。本庁に引き抜かれるような人間が地方の所轄署に飛ばされたのである。昇格前のワンクッションならわかるが、綾瀬のそれは明らかに懲罰的異動の色があった。当然、理由がいる。課長が蛇蝎のごとく綾瀬を忌み嫌うことと無関係ではないはずであった。
「あれはつまらない男だ。つまらないことにこだわって、つまらない理由で自分の可能性を自らつぶす」
 彼はまたマグカップをつかみあげた。口元に寄せるが、さきほど自分が空にしたことを失念していたらしい。乱暴な手つきで叩き戻した。
「警察も組織だよ。そしてどんな組織とも同じように完璧ではない。システムもそうだ。未成熟な部分もある。それは仕方のないことだし、ある意味で必要なことなのだ。それも、だ。警察組織の根幹にかかわる深刻な腐敗をどうこういうなら分からんでもない。しかし、あの男が騒ぎ立てたのは放置しておいてなんら害のない瑣末な問題なのだ」
「――瑣末というと?」
「本人に聞け」課長が声を荒げた。「くだらない、実にとるに足らない話だ。もう少し器用に振舞えば、その才能をいかして幾らでも他の道を歩めた。それを解さず、あの男はつまらない矜持にしがみついたのだ。愚か者のすることだ。才能を共同体に還元しないというのは罪に値する」
 その主張には多少の意外性があった。大田課長が綾瀬今日也を嫌悪するのは、組織内で揉めごとを起こした人間だからである。自分の下でも同じことをやりかねない不穏分子。厄介者。そう綾瀬を認識するからにほかならない。――これは課内で大勢をしめる見解であった。事実同然のこととしてささやかれている。
 が、今の話を聞く限りそれだけではないらしい。課長もある部分において、綾瀬の能力を認めてはいたのだ。問題は、小さなこだわりを捨てきれないばかりに、才を活かす道を自ら閉ざした綾瀬の生き方。課長はむしろ、そちらに不快感を示している節がある。
 綾瀬以上に、大田真之という人物は誤解を受けやすい男であるのかもしれない。ふとそのように思えた。
 考えてみれば、彼が罵詈雑言をまじえて披露した事件への個人見解は、状況を良く見通したものであった。経験を積んだ、優秀な警官としてのそれであったとさえいえる。垣間見えた分析力は、少なくとも和泉の凡庸なそれとの明確な差をみせつけるものであった。
「綾瀬や管轄のことはこの際いいとしてだ。私が納得できんのは、なぜ赤ん坊を人質に選んだかということだ」
 もはや課長は、聞き手として和泉を引き止めていることすら意識にないようだった。ほとんど独り言のように喋りつづける。
「大人であったなら、今回ほどケースとして面倒ではなかった。そもそも誘拐と早々に認定されたかもあやしい。仮に誘拐であったとしても、114号の時のように監禁先からすきを見て自力で脱出という可能性もある」
「聞いていると、救いようのない最悪のケースといった感じですね」
「そうだ。最悪だ。しかし、まったく救いがないわけではない」
 彼がポジティヴなことを言いだすのは、すくなからぬ驚きである。話の先をうながすか迷った。が、その必要もなく大田は勝手に言葉を継ぎだす。
「地取り鑑取りを徹底すれば、恐らく早いうちから線を数本に絞れるだろう。考えてみろ。さらわれた人間が特殊だということは、さらった人間の事情も特殊だということだ。それに、犯人は城戸邸に侵入して連れ去っている。下調べをしていた可能性が高い」
 そのことは和泉にも理解できた。強行盗犯係の仕事で、窃盗犯を数多く相手にしてきた賜物である。自宅に侵入して物を盗む――空き巣の類は、そのほとんどが事前に下見を行った計画的なものなのだった。獲物を定めると、まずは家の人間の生活パターンを調べる。侵入経路を設定し、犯行の時間帯を決める。侵入型の犯罪に共通することだ。
「事前に調査していたなら、その家に子供がふたりいることを知っていたとも考えられる」大田がいった。「だったら、なぜ二歳の娘ではなく、人質として厄介な五ヶ月の男児を選んだ」
「赤ん坊の面倒さを知らなかった?」
「もしそうなら、被疑者は未婚の人間かもしれん。結婚していたとしても子供はいない。年齢も若い。兄弟姉妹がいない家庭で育ったか、末っ子である可能性が高いだろう。小さな子供と触れあったことのない――」彼は和泉を一瞥してつづけた。「人物像として、きみのようなタイプだ。独り者というのはどんな世界でも半端者なのだ。世界が小さい。なにも知らん」
「なるほど」犯人像としてあり得そうなものだった。
「生まれたての子を選んだほうが城戸家の人間に大きな衝撃を与えられると考えてのことなら、相応の恨みを持つ人間の仕業かもしれん」
 ほかに、子供そのものが狙いであったケースも想定される。大田課長はそう指摘した。このような場合、犯人かその配偶者などに不妊症の女性が絡んでいる可能性が高い。子供ほしさに他人のそれを奪おうという犯罪には、統計的に女性の姿が目立つ。子供を産めない自分への絶望や劣等感は、彼女たちの精神に深刻な影響をもたらすのだ。
「子供は――」一瞬ためらい、和泉はそれを口にした。「無事に戻ると思いますか」
 課長は顎をあげ、小さく息を吐いた。
「そのために全力をつくさねばならん」
「しかし、ですか」問うと、彼は厳かにうなずいた。
「しかし、難しいだろう。自分の子供として育てるために連れ去った、というパターンであれば別だがね。いまは、そうであることを祈るしかない」
 三時間後、会議中の捜査本部に一通の手紙が届く。
 それは、課長の祈りが届かなかったことを示すものであった。


 7

 午前八時半。捜査会議は予定通り開始された。
 会場となる二階大会議室には、署内のあちこちからかき集めてきたと思わしき長テーブルが等間隔に並べられていた。据えられた無数のパイプ椅子は背広の後姿で埋め尽くされている。大部分が、県警から出張ってきた捜査一課の刑事たちのそれであった。
 和泉の見た限り、席は国会よろしく所属別にわかれているようだった。おそらく自然とそのようになったのだろう。県警連は固まって片側に陣取り、所轄の警官たちとは全く違った雰囲気を形成している。大学の教室を思いだす光景だった。少なくとも人の配置はそれに近しい。教壇に相当するデスクもあり、そこには本部をとりしきる県警上層部や所轄署幹部たちの姿がある。
 建前上、捜査本部の最高責任者は署長がつとめることになっている。が、彼はまだ和泉といくつも違わない二〇代の若者であった。キャリア組で、階級は警視。警察庁から一時的に預かっている客人に近い存在である。本部においてもお飾りに等しい。彼らは巨大なホワイトボードとプロジェクター用の大型スクリーンを背にして座り、一様に厳しい面構えをしていた。
「――それでは、これより捜査会議をはじめます」
 マイク越しに、三〇代半ばから後半と思わしき壮年の男が宣言した。署長の挨拶などをバッサリと省略するあたり、かなりの合理主義者なのだろう。小柄だがカッターシャツから伸びる首は丸太のように太く、ネクタイが非常に窮屈そうにみえる。彼は気構えについて軽く触れ、本部設置に至った経緯を淡々と説明した。
「あれが今回の本部長だ」隣に座った綾瀬が耳打ちするようにささやいた。「岩田義隆だか隆義だったか。管理官、警視殿だ」
 どんな人物なのか訊ねかえしたが、良くは知らないという答えが返る。近年の人事で今のポジションについたらしい。綾瀬が県警にいた頃からの人間ではないとのことだった。
 その岩田は、眼を細めながら室内の捜査員たちを眺め回していた。神託を告げるように厳かな態度で、ふたたび口を開く。スピーカーを通して聞こえる声には、微かなエコーがかかっていた。
「今月七日、午前七時一四分。子供が行方不明になったと本部通信司令室に一一〇番通報があった。通報者は子供の母親で、第一発見者でもある城戸早奈子。同日七時二八分、駐在所の巡査部長が臨場。状況を確認したところ、通報どおり子どもの姿がなくなっていた。いなくなったのは今泉台在住の会社経営者、城戸芳晴氏の長男。城戸祥平、生後五ヶ月。――この城戸家についての補足は?」
 事前の打ち合わせがあったかのように、素早くスーツの二人組みがたちあがった。両者とも手にメモ用のノートを持っている。室内後方に詰める和泉からは、人相の確認は難しかった。ただ、県警の捜査員であることは間違いない。
「城戸家の構成員は全六名。世帯主は城戸芳晴、三三歳です」片方がメモを読みあげた。「この城戸芳晴氏は学生時代に起業。当初はレース用の自動車の部品を細々と製造していましたが、徐々に事業を拡大。現在は一般車両用のカーオプションも含めた、自動車用品全般を扱っている模様。業績はよく、県内を中心に東京、千葉などにも支店を設けています」
 業界全体からすればようやく中堅といったところだが、それでも優良企業であることにかわりはない。先月以降の急速な為替相場の変動にも柔軟に対応。事前に予測していた節もあり、既に活発な動きをみせているという。今回の事件は、その最中に起こった思わぬ災難だった、ということだろう。思わず城戸芳晴の相貌を思い浮かべた。直接あったのは二四時間まえのことに過ぎないが、なにか遠い昔のできごとであったような気もする。
「城戸の両親は健在で、これが今泉台の自宅で同居している老夫婦です。夫は城戸歳次、六八歳。妻、文子。五九歳」
 県警の二人組みは、テンポよく交互に情報をあげていく。派閥争いや同僚同士の確執、競争などの話も聞くが、能力は高く充分な経験を積んでいる。それに間違いはなかった。
「芳晴氏の父、歳次はペンキ屋の職人でした。当時は特に裕福でもなく、現在の富は息子の芳晴が一代で築いたものです。件の二世帯住宅も、芳晴氏が結婚を機に建てました。そこに両親を呼んで住まわせている、という構図です。で、この両親ですが、先週の日曜日――九月二九日から中国へ旅行にでていて国内にはおりません」
 夫の方が、戦時中に中国へ赴任していたのだ、と報告はつづけられた。今回の旅はそれを懐古したものであるらしい。赴任中に夫が中国語を身につけており、またあちらの事情にも精通しているため、ツアーには参加せず個人で気ままに大陸をうろついている。おかげで未だに連絡はとれていないとのことだった。とはいえ、渡航している事実については既に裏が取れている。事件との関連性は極めて薄いだろう、と添えられた。これは和泉も同感である。
「それから芳晴氏には妻がおり、これが通報者の早奈子氏です。両親は共にアメリカ国籍をもつ日系人で、早奈子本人もアメリカで生まれたアメリカ人です。旧姓はフリーマン。三一歳、前科なし。一六まではアメリカで生活。優秀だったらしく、この時点で高校を卒業しています。その後、ヨーロッパ留学をはさんで来日。神奈川県の大学に入学しています。夫の義晴氏とは大学生時代からのつき合いで、夫人側の卒業を待って結婚しています。経営学の修士で、夫の経営する会社でも役員待遇。お飾りではなく実務をこなすやり手です。山ノ内にも小さな喫茶店を構えている模様。子供はふたり。上は二歳の娘で、名前は舞子。行方不明になった祥平は城戸夫婦の第二子です」
 子供が行方不明ということは怨恨を動機とした誘拐の線もあり得る。これは会議がはじまる以前からの、全捜査員に共通した考えであった。ところが、調べてみると城戸家の評判は近所でも悪くない。つづく報告によれば、城戸芳晴は事業での成功を地域に還元しており、その働きが評価されて市から表彰を受けたこともあるという。社会福祉団体やボランティアグループなどにも支援金を寄せている、とのことだった。恨みうんぬんより、むしろ人格者といった側面のほうが強い。会社のほうでも、実直で地味なタイプだと認識されているが、社員からの人望は大変に厚いという。夫人にも特別な問題はなかった。見かけどおり温和な性格の主で、近所とトラブルを起こしたというようなこともない。喫茶店も仲間内でわきあいあいとやっており、こちらでも主だった問題は発生していないようである。
「――以上のように、城戸家に対する怨恨からの線は現在のところはっきりしていない。この点に関しては継続して捜査を行う予定です」
 岩田管理官の声が響きわたった。
「次に、行方不明になった城戸祥平についての詳細」
 先ほどのふたりが着席し、入れかわるように違う背広組が立ちあがる。両者ともそろって頭頂部に地肌が見え隠れしていた。背格好や着衣の色も似通っており、兄弟のようにも見える。わずかに背の高いほうが口を開いた。
「城戸祥平は、先ほどもありましたように城戸夫婦の第二子で長男です。一九八五年五月一五日うまれ。〇歳五ヶ月。母親がかなり詳細な育児日誌をつけておりまして、いなくなる前日までの記録が残っていました。それによると、身長は六六・五センチ。体重七キロちょうど」
 しかしこれは参考上のデータでしかない。捜査員はそう補足した。乳児は手足を丸めた状態でいることが多いため、身長は数字よりはるかに小さく見える。体重も一日ごとに増加していく。
「胎児のように丸めてしまえば、小さな段ボール箱やバッグにも簡単におさまってしまいます」
「わかった」岩田管理官が仰々しく顎をひく。「検問を実施している捜査員たちにも伝える。今後は職務質問の対象者に中型以上の鞄や箱を携帯した者を含めるよう徹底。――他には?」
 発表者が、子供の写真と映像とを用意している、と応じた。即座に部屋の照明が落とされ、プロジェクターに電源がいれられた。部屋前方に吊るされたスクリーンにスライド写真が映される。
「まずは写真です。先月末、祖父母を空港へ送り届けたときに撮影されたもので、もっとも最近の絵ということになります」
 全員の視線がスクリーンに注がれる。そこには、母親に抱かれた赤ん坊の姿があった。老人にむかって手を伸ばしている。黒目が大変に大きく、あめ玉でも含んでいるかのように頬がふっくらとしていた。唇は鮮やかな桜色で、睫毛が長い。全体的に母親の外見的特長を強く受け継いるようにみえた。事前の情報がなければ、女児と見間違えたかもしれない。
 写真がいれかわった。一定間隔で次々とスライドしていく。母の胸から、父親の腕に映った瞬間。老人に抱きかかげられているシーン。祖父母を見送る際、むりやり手を振らされている光景。
「次に映像。これも先月のもので、二三日の秋分の日に撮影されています。場所は自宅近くにある児童公園。着衣はいなくなった当日に着ていたものと同一なので、その点にも注目してください」
 一瞬、画面がおおきく揺れ、そして安定した。スクリーンに城戸祥平の姿が現れる。今度は撮影者とふたりきりのようだった。カメラのほうへ、その大きな瞳をむけている。透明感のある優しい声が彼の名を呼んでいた。昨日耳にした城戸早奈子に間違いない。
 子供は水色のベビィ服を着用し、芝の上に腹ばいになっていた。さかんに手足をばたつかせている。口の周囲はよだれにまみれており、服の胸元にまで達しているようだった。その部分だけ濡れて変色しているのがわかる。機嫌は悪くないようであった。ときどきあがる意味不明なはしゃぎ声がそれを証明している。手元の細い草をむしりとっているのは乳児なりの遊びなのか。千切ったそれを口に突っ込もうとして、母親があわてて制止にはいる。そこで映像はとぎれていた。
 部屋の照明が再びともされた。部屋全体から浅いため息が漏れだした気がした。和泉自身、自分の口元がかすかに綻んでいることに気付かされる。城戸祥平の固有の力なのか、あるいはあの年代の子供が等しくもつ力なのか。この強大な影響力を、あの母親は突然に失ったのだ。彼女の痛みにもっとも共感できた瞬間があったとすれば、多くの者にとって今こそがそうであったのだろう。
「母親の証言によると、寝返りはまだはじまっていません。自力で移動することも不可能で、歯はまったく存在せず。よく観察すると、下の歯ぐきの下に薄っすらと二本見えるのみだとのことです。泣き声はちいさく、性格は臆病。鈴のなるような高音に関心をしめす。勢いをつけて抱き上げられると怖がって泣きだすことあり。いなくなった当夜は、先ほどの映像にもあった淡い青色のつなぎ型子供服を着用していたそうです」
 以上、と区切って捜査員は着席した。挙動や好みについての特徴はともかく、人着――歯の生えかたや人相、着衣などは識別の目安となりそうである。和泉は一応、記憶にとどめておくことにした。
「次に現場の状況だが」管理官が手元の資料をめくる。隣の補佐らしき男と小声で二、三言葉を交わし、つづけた。「子供が寝かされていたのは、二階の六畳部屋。南側にバルコニィに通じるガラス戸があり、これは施錠されていなかったことが確認されている」
 他に窓の類はなし。これは和泉も夫人から直接確認したことであった。ドアは鍵のついていない木製のそれが一つ。廊下に接続されている。外部との連絡口はこの二つのみ。
 また、子供が消えた時間帯について。これは午前四時から八時までの間に限定できる。母親が四時に寝かしつけ、八時に起きて様子を見にいったところ、寝床が空になっていた。この間にことは起きたのである。配布された手元の資料にもまとめてあることだった。
 綾瀬に声をかけ、自分たちが報告した情報も役立てられたのだろうか、と訊ねた。彼が顔をあげる。唇の端を吊りあげてそれを認めると、またすぐに手元へ視線をもどした。相変わらず熱心にペンを走らせている。
「そんなにメモすることがありますか」
「いや」綾瀬は手を休めずいった。「今のところ、特にないな」
「だったら、さっきからなにをやってるんです」
 彼はノートを閉じ、それを和泉の方へ滑らせた。無言で受けとり、小首をひねりながら表紙を開く。奇妙な短文の羅列があった。最初の一頁だけではない。ノートのほぼ半ばまで、わけの分からない文章がびっしりと書き連ねてあった。接続詞を微妙に変えたり、句読点の位置を微調整するために何度も書き直されている箇所が無数にある。少なくとも会議で得た情報を記録したものだとは思えなかった。
「――なんです、これは」
 半ば予想はついていたが、思わず訊いていた。
「詩集だ」さらりとした口調だった。「唯一の道楽だ」
 綾瀬が眼を合わせてくる。どう思うか、と真顔で問われた。
 どうもこうも、ただ信じがたい。即座にそう返した。関連する素質にまったく恵まれていないくせ、綾瀬が詩作を趣味としているとは知っていた。以前、興味本位から、なかば無理に作品を披露するよう迫ったこともある。当時も、素人にさえわかる欠陥品ばかりであった。それ以前に、時と場合を問題にしなければならない。職務中――捜査会議の最中であることを考えれば、不謹慎としかいいようがない話である。
「出来の話をしてるんだがな」彼がいった。
「前の時と同じです。申し訳ないが、理解できそうにない」
「そうか」気落ちした様子もなく、綾瀬はあっさりとうなずいた。腕を組み軽く唸る。「空いた時間に研究はしているんだが。感性で勝負する分野だけに、やはり才の欠如は致命的ということか」
「分かってるなら、なんだってつづけるんです」
「ぽろっと漏れた無意識の言葉には本音が出やすい。取調べのときもそうだろう。創作から近いものが得られるような気がしている」
 箱庭療法というのを知っているか、と綾瀬はつづけた。知りはしないが、聞いた言葉ではあった。そう和泉が答えるよりはやく、彼が自ら言葉をつなぐ。
「砂を敷いた小箱のなかに人間だとか建物だとかのミニチュアを配置していくものだ。自分なりにレイアウトを考えてオリジナルの庭をつくる。どこに何がおかれたか。それが何を象徴しているか。その辺を分析して、創作者の心理や精神状態を知ろうって試みだな。あらかじめ存在する言葉を使って、自分なりの世界を構築してみる。詩作と共通点はありそうだろう」
「それで、分析の結果は?」
「お前がいったとおりだよ」
 理解はむずかしい、と彼はつづけた。己のことほど分からないことはない。案外、そういうものなのだろう。
 我々が相手にしている犯罪者たちもそれを証明しているのではないか。綾瀬はそのように主張した。確かに同意できる部分はある。自分がどうして道を誤ったのか。なにをすれば自己の復権をなせるのか。理解できずに迷走しつづける者は多い。気づくとやってしまっているのだ。自分は精神を病んでいるのかもしれない。異常者なのかもしれない。すりや万引きを常習する犯罪者のなかには、泣きながら助けを求めてくる者も存在する。それが芝居であるケースもあるが、真剣な訴えであることもあった。
 ノートの頁をめくっていく。抽象的な作品が多く、ものによっては言葉の意味をひとつも理解できないことがあった。他人の眼にさらすことを最初から考えていないのだろう。
 唯一の例外は、最新のものと思わしきそれであった。「小さな空の寝台」と題されている。
<――静かな部屋に、かすかな残り香。ひとつの窓。冷え切った寝床。壁にかけられた主のない産衣。むつきと玩具が取り残された>
 それは、単に無人の子ども部屋を描写した散文であった。多くの者はそのようにしか感じないだろう。しかし、和泉は自分がその例外であることを知っていた。綾瀬の脳裏に思い描いたものに察しがつく。情景がはっきりと眼に浮かぶ。
 どこか遠くから響いてくるように綾瀬の声が耳朶に触れた。
「あのときの母親を覚えているか」
 はっとさせられる。
 明確に覚えていた。大きく首を縦に振ってかえしながら、思い起こす。容易な作業だった。朝の淡い白光に照らされた、その場の情景が蘇る。彼女の横顔は青ざめ、一切の表情が失われていた。ゆるやかな曲線を描く頬を涙が静かに伝っていく。本人はそのことに気づきさえせず、ただ我が子の服をみつめていた。小さな服だった。
 生涯、忘れることのない光景だろう。
「前に言ったな。捜査会議では、だれも有用な情報を出さない」
 綾瀬は手を伸ばし、ノートを自分のもとへ引き寄せた。和泉が見ていたものに視線をあわせながら口を開く。
「現状でメモが必要になることはない。基本情報が必要なら配布された資料を読めばいい。だが、本当に必要なのはそうしたものじゃない。自分の眼で見て、肌で感じ取ったものだ。そうしなければ得られない感覚だ。俺たちは昨日、それを得てきた。あとは残すことだ。自分なりのやり方でそれを維持しつづける。必要な時いつでも確認できるように」
 ゆっくりとうなずき、視線を前方にもどした。もやのように頭にかかっていた眠気は、もはや完全に消滅していた。詩作は単に自己へのアプローチだけでなく、心情の外部記憶装置としての役割を果たすことがある。和泉には似た効果をもつものがない。ならば、絶えず自分のなかで繰り返すしかなかった。
 壇上では、岩田警視が淡々と場を進行させていた。現場付近で見られた車両について語っている。事件当日、乗用車が長時間停められていたという証言があるらしい。とはいえ、その一帯は付近住人を訪ねる客たちが駐車場代わりに利用している場所だという。時間的に事件との関連性は薄いものとみられる。そのようにまとめられた。
「また初動調査にかける地取りから、午前四時五〇分ごろ、さらに五時四五分ごろ、それぞれ新聞各紙の配達員が城戸家まえの道を通っていたことが確認された。彼らの証言によると、普段見かけないような不審車両などには気づかなかったとのこと。その他、付近住民からも有力な目撃情報は得られていない」
 そこで言葉を区切ると、管理官は補佐から別の資料をうけとった。一枚目をめくりながら、再び平坦な声で読みあげはじめる。姿勢、口調、表情ともにまったく変化が見られない。もともとそれらにヴァリエーションなど存在しないかのようでもあった。
「次に鑑識の報告。子供部屋周辺からは、同居する家族以外に目立った指紋は検出されず。頭髪、遺留品等もなし。ただし、家人のものと一致しないスニーカーの足跡――いわゆる下足痕が、屋外の各所より見つかっている」
 俄かに場の雰囲気が引き締まった。室内がざわつき、しばらくすると真逆に静まりかえる。そうなることが分かっていたかのように、岩田管理官が絶妙のタイミングで読みあげを再開した。
「足跡は新しく、大量に出回っている台湾製のもの。サイズは二八。この大きさと歩幅等から、主は身長一七五センチ以上の男性と推測される」
 スニーカーの足跡は庭、通りから見た裏に置かれた物置と一階部の屋根、二階西側にあるトイレの窓枠付近からも見つかったという。いずれも同じ靴、同じ人物によるものである可能性が高い。
 城戸家の人間に確認したところ、近く屋根にのぼった者はいない。アンテナの設置や屋根のメンテナンスのために業者を呼んだこともないという。九月の半ば頃には数日に渡って豪雨にさらされたこともあり、少なくともそれ以降につけられた足跡であると見られている。
「当本部はこれを有力な手がかりとみて、重点的に捜査を展開していく予定である。いまさらのようだが、マスコミに情報を流し、公開捜査の方針をとったのはそれゆえと考えてもらいたい」
 管理官がわずかに声量をあげた。つまり、足跡は侵入者のものだと判断されたのだ。そのことを根拠に、本件を誘拐であると認識。そちらに方向性を絞って捜査をすすめていく。彼の言葉はまさにその宣言でもあった。
「行方不明になったのは――既に明らかにされたとおり――移動能力を持たない乳幼児である。成人の場合にときおり見られる、監禁場所からの自力による脱出というようなケースを期待できない。その意味でも状況は厳しく、また健康状態についての懸念もある。乳幼児の場合、あらゆる因子が成人と比較して生命と直結する問題につながりやすい。捜査員は個々、そのむねを念頭に置き捜査活動に専念してほしい」
 その後、いくつかの細かい確認が行われ、待機が命じられた。捜査の割り振りを決めるためだった。県警と所轄の合同捜査においては、個々に明確な役割と捜査対象が与えられる。たとえば警備課は機動隊や消防と連携し、今泉台東部に広がる山林地帯の捜索を行うことになっていた。山岳部で発生する遭難者の捜索は、普段から彼らの受けもち業務である。県警は、警察犬チームの派遣準備も進めていると聞く。
 一方、公安は企業恐喝の路線で捜査を進めるに違いない。彼らの専門分野である。また交通関係のセクションは、パトカーや二輪車で巡回、という指示がくだされるはずだった。
 私服刑事たちの仕事は、これらの部署よりさらに範囲が絞られる。足跡をつけたスニィカーを特定、出所をつきとめる班。聞き込みを専門的に行う班。関係者の個人情報を洗いなおす班。城戸のもつ自動車用品店の調査班。その対象によって仕事は細分化されるのだった。地取り――すなわち聞き込み捜査の地域すらも番地単位で分担されるのである。
「割り振りには、どれくらいかかるんでしょう」
 大津に顔をむけ、和泉がたずねた。
「美味しい仕事の取り合いでも起こらない限り、今度の場合はそう長くはかかりそうにない」彼は詩作用のノートを閉じて立ちあがる。「はじまる前から上層部には青写真ができあがってるはずだ。あとは会議上で出た細かい情報を織りこんで微調整するだけだろう。コーヒーでも飲んでれば、そのうちお呼びがかかる」
 実際には一服する暇すらなかった。不意に、あまり友好的とはいいがたい声で綾瀬の名が呼ばれる。ふりむくと、三人ばかりの男が名の主に歩み寄ろうとしていた。管理官のかたわらで捜査会議の進行役を務めていた背広たちである。彼らは被疑者を扱うように綾瀬を取り囲んだ。圧力に屈し、和泉は後退を余儀なくされる。気づくと、彼らの形成する人の輪からはじき出されていた。
「所轄での勤務はどうかね、綾瀬主任」
 黒髪をうしろに撫でつけた男が、代表するように一歩前へでた。綾瀬と正面から対峙する。年齢と口調から察するに、恐らくは同期なのだろう。とはいえ、友情を確かめあうために顔をみせたのではなさそうだった。
「充実している」短い返答がよこされる。
「きみのほうはそれで良いかもしれないがね」男は含みのある笑みを浮かべた。「居つかれて迷惑する者も多そうだ。人間、本質というものはそう変わるものではない。組織に適合できない者はどこに移ろうとそうだ。違うか」
「そのとおりかもしれない」綾瀬はまったく表情を変えないまま同意をしめした。「それで、私になにか?」
「今泉台の現場近くに宮川竹一郎という男が居住している。六二歳、男性。同居者なし。知っているな」
「記憶が正しければ、以前、捜査上の都合で知り合った人物だな」
「なんの捜査だ」
「窃盗だった。夜、物音がして家の者が様子を見にいくと侵入していた男を発見した。犯人は逃げ、あとで金品が一部なくなっているのが分かった。去年亡くなったが、彼の身内の者がそれで長くショック状態にあったのでね。何度か自宅まで様子を見にいったことがある」
「窃盗」県警の男は大仰に反応してみせた。「きみは強行の人間だと聞いていたが、私の勘違いか。それとも特科に推薦されるほどの男でも、地方に飛ばされればドロボウ刑事の真似事までするようになるのか」
「強行犯係でもあるが、同時に盗犯も扱う。かけもちなら自然、後者の色合いが強くなる。うちの署は強行犯係と盗犯係を独立させるほど大きくないのでね」
 事実であった。小規模な警察署では、大きなところだと独立して存在する部署が統合され、ひとまとめにあつかわれる。強行犯係と盗犯係をかね合わせた強行盗犯係。知能犯をあつかう刑事二課と暴力犯係を結合させた知能暴力犯係などがそうだ。過疎地では刑事課と防犯課を融合したような部署も存在する。
「盗犯係としてあつかうのは、たしかに警官としての点数になりにくい事件といえる」綾瀬は認めつつ、言葉を継いだ。「反面、さっき話した老人のような被害者と出会うことも多い。人にとって、もっとも身近な犯罪を対象とする業務ともいえる」
「本部の元主力級も、所轄に落ちるとそうやって己を慰めるまでになるわけか」
 それは県警の背広組に共通する見解であるようだった。三者ともが、憐憫にも似た眼をかつての同僚にむけている。
「きみを見ていると、ときおりぞっとすることがある。一度、足を道を踏み外した者の末路がどのようなものか。心底、ひとのふり見て――という気にさせられるよ」
「それが一般的な見方だということは知ってる」綾瀬は静かに返した。「しかし、中枢にいた人間が外から己の位置を見なおすには良い機会になった。いまはそう考えてるよ。上にしか眼のいかない我々の視野にはおのずと死角が生じてくる。その死角が市井との距離感をつくる。警察としての限界を生む」
「そうした理屈こそ、君の限界を示しているように聞こえるが」
 男は微笑でこたえた。たっぷり間をとってからつづける。
「我々は組織力としての警察を考えている。綾瀬、きみのやり方でできるのは、精々が両手の届く範囲に限られた雑務処理だ。だが、そんなことは警察という組織内でなくともできる。考えてみるといい。組織と個人。より効率的にものを動かせるのはいずれか」
 自明の理だ、というような調子で彼は眼を細めた。
 警察官というのは不思議な職業で、上にいっても経済的なメリットはほとんどない。むしろ幹部に昇進して管理職手当がつくようになると、超過勤務手当の支払い対象からはずれる。つまり、残業が金に変わらなくなるのだ。トータルしたとき、昇進が収入減につながることさえある。
 そうした背景がありながら上を目指す者があるのは、上級職に強大な権限が与えられるからである。マネーゲームではなくパワーゲームをしたいものが昇進したがるのだ。
 実際、この会議上には五〇人前後の捜査員がいる。四、五〇歳代のベテランも多い。そうした大勢を統括し、指示を飛ばすのは数人の上級幹部なのだった。時に自分の親ほどの人間を顎で使い、意のままにあやつる。警察組織のもつ強大な力に魅入られる者は少なくない。
「忠言、ありがたく受け取っておこう」綾瀬が穏やかな口調でいった。両手を軽くあげ、言い争うつもりがないことを示す。一拍おき、彼はそれかけた話の軌道を修正した。「――それで、宮川氏がなにか?」
「そのことだ。昨日、我々の捜査員が聞き込みにむかったところ、門前払いをくったのだ。官憲は信用ならんそうだよ。しかし、きみは例外だという。先ほど聞いたコソ泥の話が影響しているのだろう」
「で、私に出ろと?」
「きみにしか話さないというのなら仕方がない。今日中に行って、しっかり証言をとってこい」だが、と彼は即座にいい加えた。「勘違いしてもらっては困る。きみに本部としての仕事をしてもらおうとは考えていない。獅子も、進んで身中に虫を飼おうとはしないものだ」
「そのようだ」
「当然、割り振りにも加えるつもりはない。老人の世話が終わったら、我々の邪魔にならないよう大人しくしていてもらう。得意の盗犯捜査にでも――」
 彼の言葉を遮ったのは、外側から突然開かれたドアだった。その荒々しい勢いは室内の空気を大きく震わせる。間髪いれず、ふたりの男が足早に入り込んできた。いずれも制服を着ており、五分前まで隣接する墓穴のなかで眠っていたような顔をしている。起き上がった死者さながらの蒼白さだった。他のものには眼もくれず、まっすぐに管理官へむかっている。片方が警務課長であることだけは、和泉にもかろうじて分かった。
 なにかが起こったと判断したのだろう。パイプ椅子から管理官がたちあがる。側近たちもそれにならい、闖入者たちをむかえた。不気味なほどの静寂がうまれていた。そのなかで、距離をつめた警務の制服たちが幹部連へなにかを告げる。つぎの瞬間、声の届く範囲にいた男たちの表情が激変した。
 不意に、「物は」という岩田管理官の声が響き渡った。電源のはいったマイクが声をひろい、スピーカー越しにばらまいたのだ。近くにいた者が慌ててマイクの方向を変える。
 管理官が手をつきだし、警務課長から書類のようなものを受けとった。彼は素早くそれに眼を通していく。すぐに顔をあげ、虚空を睨みつけた。手だけ動かし、資料をかたわらの補佐官に押しつける。上層部の連中がその手元に群がった。綾瀬を取り囲んでいた三人にも反応があった。状況を無視できなくなったのだろう。綾瀬に鋭い牽制の視線をくれ、司令部へとむかっていく。
「動いたみたいだな」
 声に振りむくと、いつの間にか綾瀬がそばに寄っていた。表情のない顔で慌しくなった幹部席をみつめている。
「申しわけない」いって、彼はゆっくりと和泉と視線をあわせた。「人前でやりとりするようなことじゃなかったんだが。相手の方は、人に聞かせながら俺と話すのが好きらしくてね」
「それよりもあの騒ぎです」和泉はすこし考え、思いついた仮説を口にした。「あるいは、子供が見つかったとか」
「いや、それなら電話でさきに連絡がはいる」
「では、犯行声明?」
「恐らくは。文書かなにかだろうな」
「そうなら、直接ここに届いたのかもしれない」和泉は口に出しながら考えをまとめていった。「城戸家に来たのなら――現物は鑑識にまわされるとして複製が届くのでしょうが――これもまずは電話で一報はいる。身代金要求の電話があった場合も、本部に繋がれてリアルタイムで聞けるように処理される。最低でもコピーされたテープが届く。書類ではなく」
「つまり、それらの線はなしということになるな」
 管理官が手元の電話に手をのばし、数分の間、何者かとやりとを交わした。直後、険しい表情で側近たちに指示を飛ばす。再び受話器をとりあげた。
 室内に、外で待機していた捜査員たち顔を揃えはじめていた。前後二ヶ所に儲けられたドアは、いずれも途切れることなくスーツを取り込んでいる。再びプロジェクターに電源がいれられ、スクリーンがおろされた。幹部たちが席に腰をすえる。管理官がマイクの位置を正した。
「――捜査員各位、注目。先ほど、署長あてに犯行声明と思わしき文書がとどいたのを本署警務課員が発見した」
 マイクを通した管理官の言葉に、方々からどよめきが生じる。
「封書によるもので、署内に設置された意見書投函口にはいっていたことが確認されている。もちろん切手などは貼られておらず、消印もない。封入されていたのは白色無地の便箋一枚のみ。宛先、内容ともに手書きによるもので、差出人の住所や氏名の類は一切なし。現在、オリジナルは鑑識にまわしている。これより、そのコピーをスクリーンに映す」
 照明がおとされた。映写機に複製がのせられ、影絵のようなかたちで投影された。手書の文章である。直線を組みあわせたような、角ばった文字で構成されていた。筆跡をごまかすためであることは疑いようがない。
「内容は以下の通り」
 管理官が手元のライトを頼りに読みあげはじめた。

これは新人類に対する警告である。
忍耐、感性の欠如した世代、物質の氾濫に飢えを忘れた者たちの粛清であり、これを生まんとする輩へ下された裁きの鉄槌である。断罪は続き、彼らは等しく凍餓の荒野に葬られるだろう。

「最後に、署名らしきものとして <もりびと> とある」
 明りがともされた。室内に巣くっていた薄闇が霧散する。ちいさなざわめきがあったが、管理官のマイクが雑音をたてはじめると止んだ。ややあって、管理官が口を開く。
「聞いてのとおり身代金の要求などはなく、これは単なる犯行声明にとどまったものである。本件との関連性を証明する具体的な記述も存在しない。愉快犯による便乗的な悪戯の可能性も考えられる。捜査員各位は、必要以上にこれを意識することなく受けもちの各業務を遂行されたい。――以上」


 8

 自動車を運転するのは久しぶりのことだった。
 大船地区の道幅は総じてせまく、車での移動には難儀することが多い。現に前方を右折していこうとする大型バスは、気の毒なほど窮屈そうに走っていた。河に迷い込んだクジラのようにも見える。
 午前の幹線道路は混みあっていた。戸塚南署の管区になるが、少し北にいくと公田と呼ばれる交差点がある。環状4号有数の渋滞地帯として知られる場所だった。この調子だと、あの付近は地獄のようなありさまに違いなかった。それを思えば目の前の混雑もまだ軽度といえる。
 ステアリングを切った。鎌倉街道からはずれ進路を東にとる。署をでて五分ちかく経つが、まったく運転に集中できていない。和泉は、自分でそのことに気づいていた。意図せず視線がわきに逸れてしまうのだ。体長六五センチの赤子が入りそうなバッグ。ボディの奇妙な場所に比較的あたらしい傷のある車。眼を引かれるものが無数にあった。――あの男のデイパックに城戸祥平は入っていないか。前を走る車の傷は、誘拐犯のあせりが不注意につながって生まれたものではないか。無意識に職務質問の対象を探している。
 とはいえ、刑事がわき見運転で事故を起こすわけにもいかない。信号をさける意味でも裏道にはいった。人気がなくなり、すれ違う車両も数を減らす。ようやく、視点が前方のみに固定されるようになった。
「このあたりは、もう今泉台なので?」
 しばらく走ると、後部座席から男の声が届いてきた。ルームミラー越しにそちらを見やる。県警の刑事がふたり、冷え切った視線で車窓の風景を眺めていた。本部の割り振りの結果であった。今後は彼らと組んで捜査を行うことになる。
「厳密にいえば、ひとつ手前の今泉地区です」
 単なる <今泉> と <今泉台> とが隣接して存在するのだ、と和泉はこたえた。「じきに着きますよ」とつけくわえる。
 眼だけ動かし、今度は助手席を一瞥した。同じように車外を見つめる人物の横顔があった。綾瀬である。署を出てから半時間近く、彼は一度も口を開いていない。
 目的地である今泉台は、一応ながら鎌倉市の一部である。とはいえ、この辺りまで来れば「古都鎌倉」と聞いて思い浮かぶ風情はほとんどないに等しい。そもそも大船という土地そのものが、かつて鎌倉市と呼ばれていた街にあとから組み込まれたのだ。寺社の多い南側と異なり、北の大船地区からは近代工業地帯という印象を強くうける。
 裏道を抜け、再び表通りにもどる。前方にみえてきた白山神社前の信号を右に折れた。この先の道は、時速三〇キロで規制されている場所が多い。住宅街ゆえだろう。今泉台に入ったのだった。その証として、右手に二階だての小さな建物がみえてくる。ひさしの部分に、朝日影――いわゆる桜の代紋があしらわれていた。かたわらには手配書などを張りつけた小さな掲示板がある。後部座席のふたりも気づいたようであった。
「あれが駐在所ですか」
 和泉はステアリングを握ったまま、そうだと答えた。
 城戸邸の前で蒼白な顔をしていた巡査部長を思いだした。いまや、彼の住居兼職場は捜査員たちに広く知れわたっているはずだった。現場周辺で捜査や捜索を行うとき、駐在所は良い拠点となる。トイレは駐在所か警察協力者の自宅、公園のそれを利用するよう本部からも指示が出ていた。
「――このあたりで停めてください」
 再び後部座席から声がかかった。和泉はおとなしく従い、路肩に車をよせる。サイドブレーキをひくや、県警のふたりは素早く降車した。貴方たちも降りてください。短い指示が飛ぶ。思わず綾瀬と顔を見合わせるが、彼は諦めたように肩をすくめるだけであった。しかたなくキィを抜いてドアを開けた。綾瀬も長身を窮屈そうにかがめて外にでる。
「我々の担当は、この区域の地取りだ」
 県警の片割れが、地図のコピーを片手にいった。
「とはいっても、四人が固まって動く必要はない。我々は城戸家との付き合いがあったところを中心に、各家庭をまわります」
 今度の「我々」に、所轄の警官は含まれていなかった。彼らがなにを言わんとしているか、この時点で予想がつく。それは次の言葉で裏付けられた。
「能率的にいきましょう。周辺地理に詳しい貴方たちは徒歩で区域内を巡回。なんでもいい。日ごろと違うものを逐一チェックしてください。それから綾瀬警部補については、本部からの指示どおり宮川氏への聞き込みを最優先にあたっていただきたい。あとは担当区域の外縁から、昨日収穫のなかった家庭を中心に当たってみてほしい」
 それは提案ではなく、命令であった。彼らは和泉らの返事をまたず、つづく言葉でキィを渡すよう要求した。歩み寄ってきた片割れが手をのばしてくる。その掌に鍵を置くと、彼がさりげなく顔をよせてきた。
「君は鈴だ。そのために綾瀬につけた。意味は分かるな」
 早口にささやき、何事もなかったかのように踵をかえす。そそくさと車にのりこんでいった。片方が運転席に、もうひとりが助手席へまわる。
 彼らの要求は単純明快である。車を置いて邪魔にならないよう隅のほうへ寄っていろ。そして、綾瀬が指示外の行動をおこなさいよう監視せよ。そういうことである。
「本部の指揮による合同捜査は、組織的な作業だ」助手席の男が窓を下ろしていった。「くれぐれも本分を超えた行動はつつしむよう願いたい。なにかあれば、まず我々に報告をいれるよう徹底するよう。宮川老人の件については――内容によらず――本部へ正式なものとは別に、書面にして我々にも提出するようにお願いします」
 キィがひねられ、エンジンが唸りをあげる。一瞬あと、不快な排気ガスをばらまき車は走り去っていった。
 本部の人間は所轄を軽視してかかるかもしれない。あらかじめ聞いていた話ではあった。しかしここまで見事にやられると、不快感をとおり越していっそ爽快ですらある。奇妙な笑みさえ浮かんできた。綾瀬をうかがうと、彼も似たような心境のようであった。
「和泉。お前さん、くじ運わるいだろう」
「まあ」すこし考えていった。「良くはないですね」
「本来は、ここまで徹底されているものでもない。本部にも我々に好意的な接しかたをする人間は大勢いる。自分も所轄勤務の経験があるわけだからな」
 そういうと、綾瀬は「行くか」と首をかたむけて見せた。うなずき返し、彼と肩をならべる。とりあえずは現場の方へ足をむけた。
「今回は時期やネタが悪すぎた――?」
 歩きながら問うと、綾瀬は首肯した。
「それもある。犯行声明が捜査本部に届いたことで、この事件もいよいよ大きくあつかわれだした。いまや全国のトップニュースだ。上昇志向の強い人間にとっては将来を左右しかねない話になりつつある。派閥がどうとかやっている時期にこんな状況になるとな」
「あの声明文が本当に犯人からのものなら、誘拐は確定したことになりますしね。子供が無事に帰る望みも低くなる」
「加えて俺の存在が、どうも悪影響をおよぼしているようだ」お手上げ、というように綾瀬が両手を軽くかかげた。「おかげで組んでるお前さんにまで迷惑が及ぶ。はずれくじを引かせたな」
「悪いことばかりでもない。無理に県警の連中と組んで、息苦しい思いをせずに済むという面もありますよ」
「そうか」
 刑事の仕事にも点数というものがある。もちろん、殺人が何点という具合に明確な数字が設定されているわけではない。しかし、捜査員たちは自分の仕事にどの程度のポイントがつくか経験的に知っている。それが上層部にどう受けとめられているか。出世にどう影響するか。共通認識として、確実に存在するものだった。
 今回の事件は世間的な知名度が高い。誘拐されたのが乳幼児ということで、社会的な影響も大きいと見ていいだろう。したがって早期解決を実現すれば指揮をとった人間は高く評価される。愛すべき大田刑事課長や、署長などの幹部連も高いポイントを稼ぐことになるに違いなかった。結果として、次の人事異動では条件の良い場所にいける――栄転となるはずである。逆に、失敗は将来を閉ざす汚点となるのだった。社会にとって大きな事件は、警察組織にとっても大きな事件なのである。いま一番必死なのは管理官を含めた県警と所轄幹部だろう。
 114号事件を思いださずにはいられなかった。正確には広域重要指定第114号事件。俗にいう <グリコ・森永事件> である。
 去年発生し、一食品会社の社長誘拐から複数企業に対する連続脅迫事件へと発展したこの騒動は、「劇場型犯罪」ともよ呼ばれ全国を震撼させた。犯行グループはいまだに特定されておらず、そのまま一方的に終息宣言をだして行方をくらましている。状況から考えて、今後の検挙はむずかしいだろう。捜査過程で失態を演じた滋賀県警には非難が集中。責任をとるとした県警本部長の焼身自殺へつながってしまった。つい二ヶ月まえの話である。
「――あの犯行声明、114号の模倣なんだろうか」
 思わず口にだすと、綾瀬は一瞬、足をとめた。
「そう思うのか」
「犯人を主役、警察を脇役、一般人を観客に見立てた劇場型犯罪はこれから流行するかもしれない。長く、いろんな形で模倣犯がでてくる恐れがあります。画期的というと変だが、それだけあの事件には犯罪としてこれまでにない演出がなされていた」
「エポックメイキングというやつだな。新しい犯罪は新しい法律を作らせる。上の連中は、食品へ毒物混入対策として特別措置法をまとめるつもりらしい」
 警察無線を傍受しながらの巧みな工作。その名を知られた大企業を揺るがす影響力。捜査当局をあざわらい、翻弄して逃げきった手腕。若い人間のなかには、そうした犯行グループのやりくちを「痛快」と評する者も少なくない。
「最初に江崎の社長を誘拐したグループ、のちにそこから連続企業脅迫へと事件を発展させたグループ。これらが何の関連も持たない独立した存在である可能性もあります」和泉はつづけた。「脅迫文にあった <かい人21面相> の署名で両者がひとまとめに語られているだけで」
「今朝とどいた犯行声明にも、 <もりびと> とかいう署名があったな」
「あれが劇場型犯罪に参加しないか、という呼びかけであったとしたらどうです。 <もりびと> という仮面をかぶって、それぞれが別の犯罪を起こす。あの犯行声明には、断罪は続くとあった。ならばまた犯罪が起こったとき、 <もりびと> の署名で声明がだされたら――」
 綾瀬がさえぎっていった。「関連付けて考えられるだろうな」
「新人類への警告、粛清という記述もありました。新人類というのは、最近よく使われるようになった流行語です。広義的にとらえれば六〇年以降に生まれた人間はあまねくあてはまる。対象を乳幼児から二〇代半ばまでに絞り込むという宣言なのかもしれない」
 また、こうもいえる。対象年齢に含まれる人間を標的とした犯罪は、 <もりびと> の署名さえ添えればすべてが連続する事件になりうるのだ。
「悪くない読みではある」綾瀬は認めつつ、軽くあごの辺りをなでた。「とはいえ、あまりこだわる必要もないだろう。脅迫文や犯行声明の分析はいつでもできる。しかし、目撃者や証人の記憶は三日で劣化する。半永久的にのこる手紙やテープのようにはいかない」
 まずはそちらを拾いあげることが先決である、というのが綾瀬の主張だった。課長からも指摘されたことである。
「それで、これからどうします」和泉が訊いた。
「俺は指示通り、宮川老人に話を聞いてくる。そのあと署にもどってお役御免だ」
「お役御免?」
「書面で報告して、それで終わりだということだ。幹部たちがいっていたとおり、俺は捜査班に組み込まれたわけじゃない。それに、いろいろ手続きがあるんだ。このあたりが潮時と思ってね」
 どういうことかとたずね返そうとしたとき、綾瀬が懐から封筒のようなものを取りだした。片手でもって軽く振ってみせる。その動きがとまった瞬間、辞表と書かれているのがみえた。
 思わず我が眼をうたがう。辞表。なにかの冗談ごとのようだった。それが退官、退職という現実と結びつくまで、しばらくを要した。
「――辞めるつもりですか」
 たっぷり時間をかけながら、和泉の口からでたのはそんな言葉でしかなかった。綾瀬が穏やかに答える。
「警察を辞めるつもりだ」
 しかし、と返しかけたが、つづけるべき言葉などなかった。あったとしても言う資格がない。綾瀬がなんの考えもなしに辞職を口にするとは到底思えなかった。
 商売柄、辞表をもちあるくような警官が他にいないではない。和泉も実例を何人か知っている。しかし、眼の前の男だけは例外だと考えていた。
 なぜなら警察官とは、職業であると同時にひとつの生き方そのものでもある。
 そのことを証明する材料は枚挙に暇なかった。より良い就職先を蹴って警察採用試験を受ける者は毎年必ず現れる。また、何世代にも渡って警官を輩出し続ける家庭も多い。彼らは富や老後を考えて警官を志すのではない。警官であった父祖の姿を見て――人の役にたつ職を求めて、警察学校の門戸をたたくのだ。
 そういう商売だから、ということもあるのだろう。実際に警官となった者は誰しも、己の在りかたに一度は疑問をもつものだった。通過儀礼のようなものである。これが求めていた警官としての姿なのか。果たして自分は、公人として正しいことを行えているのか。思い悩み、辞意が頭を過ぎることもある。理想と現実のギャップに戸惑う新人時代。あるいは台頭してきた若手の姿を見て、若さが自分のもとから去ったと感じるようになったとき。いまが人生をやり直す最後の機会だと感じたとき。特に、警官は揺れるものである。
 だが、綾瀬に退職を決意させた根拠は、もっと別の場所にある気がした。
「――和泉」
 綾瀬の声が聞こえた。顔をむけると、彼はいつの間にか歩きだしていた。
「お前は、どうして警官になった」
 体調を訊くような、何気ない口調だった。半歩遅れてその背を追いつつ、わけも分からぬままふさわしいこたえをさがす。
「なんとなく、警察官になるんだと幼い頃から考えていたんです」
 気づくとそう口にしていた。「小学校のころ親しくしていた友人の影響だったんでしょう。彼の父親は制服警官だった」
 ややおいて、綾瀬はそうか、と一言こたえた。それからまた数歩分の沈黙をはさみ、再び口を開く。和泉のほうを見ず、顔は前方にむけたままだった。
「俺はいままでの人生で二度、到底返しきれないと思うような助けを受けたことがある」
「なんの話です」
「むかし受けた金銭的援助の話だ」こちらが怪訝に思っていることは分かっているはずである。しかし綾瀬は取り合うことなくつづけた。「そのうちの一度は、母親が体調を崩したときだった。治療が必要だったが、高額な医療費を負担できる経済状況じゃなかった」
 そのとき、友人のひとりが自分の貯金を渡してくれたのだという。その金のおかげで、母親に適切な治療を受けさせることができた。
「本当にありがたい話だった。心から感謝した。親のことはもちろん、自分が救われたようにも感じた」
 依然として綾瀬の意図はつかめない。だが、思わずその言葉の意味を考えていた。自分が救われた。そうした感じかたが分からないでもない。和泉自身にも似た経験がある。自然と、兄と義姉のことを思い出していた。
 なんの手出しもできないまま身内の者が失われたとき、人は自分の無力を憎悪する。己を責め、その精神を自傷することがある。綾瀬は友人に、その危機からも救われたのだ。自尊心を守られた。彼ならそう考えておかしくない。しかしそれは、本人に対し改めて指摘するようなことではなかった。
「はじめて聞く話ですね」代わりに和泉はそういった。
「そうだな。他人に話すのは初めてだ」
 綾瀬は手にしていた辞表を懐にしまい、二度目は、とつづけた。
「二度目はもっと前の話になる。まだ小学生のころだった。だから、正確にはこちらが一度目ということになるのかもしれない。なんにせよ、親が倒れても治療費すら払えなかった家だ。当時の生活は楽じゃなかった。父親がいなかったのも大きな原因のひとつだったんだろう。月末から翌月の頭にかけては常に憂鬱な思いをしていたのを、いまでも覚えている。学校が定めた給食費や学級費の集金期間だった。俺の母親は必要な金を工面できないことが度々あった。級友たちからは、随分とそのことで冷やかされた気がする。給食費を払えなかった月は、毎日のように <ただ食い生徒> だと囃したてられた」
 意識して足を動かしつづけなければ自然と歩みが止まってしまいそうだった。綾瀬が身の上話をすることなど一度もなかったことである。彼がそれを語りだしたことに面くらい、その内容にもまた驚かされていた。
「ある日、俺の体操着が紛失した」綾瀬がいった。「身なりの貧相な人間はそれだけで嫌われた時期だった。誰かがその嫌われ者を困らせるためにやったんだろう。子供らしい悪意の発露ではある。――とはいえ、効果はてきめんだったよ。非常に堪えた。当時の俺には、人生を左右するような問題のように思えた」
 何年か前、京都で拳銃自殺した新人の話を覚えているか。綾瀬は唐突にそう問い、和泉がこたえる前に自らつづけた。
「一昨年だったか、交番勤務の若いのが警察手帳を盗まれた事件があっただろう。それで銃口をくわえこんで引き金を絞った」
「覚えています。私と同い年の巡査だった」
「手帳の紛失は、いうまでもなく警察官として致命的な失態だ。だが人生においてまで致命的とは言い難い。死ぬことなどなかった」
「新人だったのが災いしたのかもしれない。気持ちに余裕がない時期です。自分もそうだったから良く分かります。小さなミスをするたびに警官としての適性を疑った」
「恐らく、それも無関係じゃないだろうな。だからこその困惑があっただろうし、絶望もあったんだろう。そして早まったまねをした」
 なんとなく綾瀬の言わんとしていることが分かった。
 なくしたからといって「代わりの物をくれ」とはとても言えないものがある。警察手帳がそうであり、綾瀬にとっての体操着もまたそうだったのだろう。実際、本人の次の言葉はそれを裏付けるものであった。
「五〇年代、六〇年代ってのは、女手ひとつで子供を育てるには苦労する時期だった。俺の母親はその苦労を厭わず我が子を養ってくれた。当然、そのことに対する相応の感謝があったし、子供ごころにも彼女を尊敬していた。だから困らせたくなかった。母親の負担になりたくなかった。――とはいえ、体育の授業をサボりつづければ、そうも言っていられなくなる。教師から親に連絡がいくからだ。そうすれば、どうしたところで事が露見してしまう」
 綾瀬は一瞬だけ歩をゆるめ、和泉を一瞥した。乾いた微笑が浮かんでいるように見えたが、錯覚であったのかもしれない。彼はすぐに顔と歩調を元にもどした。
「そのときばかりは途方に暮れた。悩みに悩んで、結局は、あてもなく百貨店にふらふらとむかった。金なんざ一銭もない。あてもない。体操着の売り場で、新品の商品をただ眺めつづけた。なにかの間違いで、あの中の一着が自分の手に転がり込んでこないだろうか――と、そればかり考えていた。
 そうして何時間かが無為に経った。ついには思考回路が麻痺してきて、なにも考えられなくなった。気づくと俺は服を手にとっていた。足は、そのまま売り場を離れようとしていた。これをもったまま店を出れば問題は全部解決する。ふと、そういう考えが頭に浮かんだ。体育の授業にも出席できる。思い悩む日々も終わる。ぐるぐるそう考えていた」
 そこで言葉をきり、綾瀬は小さく肩を揺らした。ひとしきり自嘲的に笑う。そしてつづけた。
「子供が売り場を長時間うろうろしていればチェックが入るものだ。俺はあっさり店員につかまった。事務所につれていかれ、警察が呼ばれた。いろいろ訊かれたが、俺は服をもったまま黙秘をつづけたよ。もちろん、身元についても質問された。しかし、しゃべれば親に伝わってしまう。当然ながら、店員からの追及は段階的に厳しくなっていった」
 つづく話によれば、罵倒や叱責はもちろん、暴力さえ受けたのだという。本人の表現は控えめであったが、相当の殴打であったことは確実だった。いまなら、あるいは問題になったかもしれない話である。が、当時では教育の一環だと解釈されたのだろう。親のために体操着を盗む子どもが生きていたのは、そうした時代なのだった。
「売り場の係員がそうだった反面、警官は親切に対応してくれた。父親くらい歳のはなれた、人の良さそうな小太りの中年だった。警官は辛抱強く接し、何時間もかけて俺から事情を聞きだした。話を終えると彼は俺の肩を叩いた。体操着の代金は自分が出すといい、それでおさめるよう店員を説得してくれた。そして言った」
 盗みをはたらいたのは大きな間違いだったが、他人を思いやりつづけたのは立派な態度だった。ときとして、法を遵守するより隣人の誇りを守ることのほうがむずかしい。
「八歳の子供には分かりにくい言葉が多かった。それでも、自分の血肉にすべき諭告を受けたことはわかった」
「――それがきっかけで警官に?」
 綾瀬はうなずいた。「即座にそう思ったわけじゃないがね。それでも一〇年後、就職を考えるときに少なからず影響をうけた」
 もっとも、自分を雇ってくれそうなのは当時、警察だけだったということもある。彼は笑ってそう言い添えた。上京してきた清貧の青年、徒党を組み爆音をあげて単車を乗り回していた若者。そうした人間が最後の手段として警官になる頃であったのだという。
「俺が受けたのは、二件とも金銭が直接的にからんだ援助だった。しかし、問題は金そのものじゃない。もっと別のものだった」
 語られたのは綾瀬が退職する理由ではなく、警官になったきっかけである。だが、そこから分かったこともあった。彼がなにを思って刑事をつづけ、なにを理由に辞めるかに口をはさめる余地など、やはりないのだということだ。そして、綾瀬今日也という上官を近いうちに失うであろうこともまた確定的だった。彼の考えを変えることができる者は、すでに彼自身しかいない。
 そうした結論が表情にでたのだろう。綾瀬は立ちどまり、ここで解散しようと告げた。
「解散というと?」
「俺は予定通り、宮川氏の話を聞きに行く。しかし、連れがいると先方がどう反応するか分からない。ひとりで訪ねたほうが無難だと思う」
 一時間後に駐在所で落ち合おう。それだけいい残し、彼は踵をかえした。刑事は二人一組の行動が原則である。それを根拠に呼び止めようともしたが、口は開けなかった。呼び止めたあと語りかけるべき言葉がない。角を折れ、その後姿が消えていくのを見送った。
 やがて彼は、同じように警察組織からも歩み去っていくのだろう。だが、それは今日明日のことではない。警官の数は常に不足している。辞意を表に出せば、よほどの事情がない限り慰留されるのが普通だった。問題は、綾瀬がよほどの事情を抱えた警官であるということだが、それでも時期が時期である。いまは厄介者の手でさえ借りたいというのが上の本音であるはずだ。今回の誘拐騒動がひと段落するまで正式な受理には至らないだろう。いまはそう考えるしかない。
 思考を切りかえ、仕事に専念することにした。県警に命じられた綾瀬の監視では、もちろんない。真に必要な業務、すなわち捜査活動である。重要なのは関係者の身辺調査と聞き込み。これらの徹底が検挙に結びつく。――課長や綾瀬の言葉にうそはなかった。
 歩きながら地図を広げた。コピーされた白黒の住宅地図である。重要度や初動捜査の成果によって、マーカーでチェックがいれてあった。書き込みが箇所が多すぎて、もはやカラーマップにしか見えない。現在地を確認しつつ戦略を練った。担当区域は山を切り開いた住宅街である。時計を確認すると一一時になろうとしていた。条件としては最悪に近い。
 午前中に限っていえば、住宅街の主は主婦層である。その彼女たちにとってもっとも忙しいのが今の時間帯だった。子と夫を送りだし、家事に専念している真っ最中なのである。当然、それを考慮しない来訪者が歓迎されるはずもない。
 優秀な刑事は、優秀な営業マンであらねばならない。ベテランたちがその身をもって示す教訓である。相手の歓迎を受けやすい時間と場所を選んで当たる。それを徹底せねば、情報も契約も得られることはない。
 結局、和泉は老齢者を対象に設定した。午前の今泉台に主婦とならんで多く存在するのが彼らである。核家族化の進行は、老人にかつてない孤独をもたらしつつあった。彼らの大半は常に孤独を感じ、常に話し相手を求めている。相手が警官でも構わない、という者もあるはずだった。
 昨日の聞き込みが実施されなかった世帯を中心に、幾つか候補を絞った。最寄の家はすぐそばである。方向をたしかめ、地図をたたむ。そちらへ足を踏みだしかけたときだった。突然、くぐもった電子音のようなものが聞こえてきた。懐の受令機だった。その名の示すように受信専用の無線機で、小型のものは携帯が容易である。外回りの遊撃隊にとっては本署との貴重な通信手段であった。
 なにごとかと身体がこわばりかけたが、緊急指令の類でないことはすぐに分かった。呼び出し音は通常の業務連絡だと主張している。スーツのポケットをあさり、本体から伸びるイヤフォンを引っ張りだした。耳にはめこむ。聞こえてきたのは特定の捜査員を呼びだす内容の連絡であった。名指しこそされていないが、条件づけから対象とされている個人は明らかである。和泉だった。至急、署にもどるか、または電話連絡をいれるべし。指示内容を確認し、イヤフォンをしまう。
 電話を借りるだけなら近くの防犯連絡所や民家でもいい。しかし、綾瀬への言付けを頼む必要が出てくるかもしれない。そのために具合のよい駐在所にむかった。大した用件ではないとは思うものの、自然と足が速まるのを感じる。本来は五分程度の距離だったのだろうが、それでも倍近い時間をかけた。不案内な者にとって、住宅街というのは等しく迷路として機能する。とはいえ、気を落ち着けるにはちょうど良かった。手配書をはりつけた掲示板が見えたときには、歩調も通常にもどっていた。
 見張所にはいると、中学生と見紛うほど小柄な女性の姿があった。三〇半ばといったところだろう。十中八九、駐在の配偶者とみて間違いない。美人ではないが、日本人ばなれした彫りの深い顔立ちをしている女性であった。ほとんど素顔に近いほど化粧っ気がないが、逆に彼女にはふさわしいように思える。
「お忙しいところ失礼します。駐在所のかたですか」
 問うと、彼女はそうだとこたえた。おつかれさまです、と愛想良く添えられる。無線でふくらんだポケットと腕章とを見れば、和泉が警官であることは歴然としている。
 駐在所はいくつかの点で派出所と異なる。最大の相違点は、警察官が住み込んで勤務することだろう。また、原則として妻帯者が採用されるのも特徴である。多くの場合、駐在の妻は単なる一般人だが、夫の業務を率先して手伝う。彼女たちの個性が駐在所のカラーを決めることも多い。その貢献度から報奨金のようなものが支払われさえするのだ。
「本署刑事課の和泉といいます。突然お邪魔して申しわけありません」
「ご丁寧に」彼女が慇懃に頭をさげてよこす。姿勢をもどしたとき、感心と困惑が混じりあったような顔をしていた。「若くて顔立ちのいいかたも警察にはいたんですね」それに、と和泉の足元に眼をむける。「標準より足の短くない人も。二〇年ちかく警官の妻をやっていますけど、知りませんでした」
「実は、警察にはいる前まではもっと違う顔をしていたんです。しかし刑事になると――ときには格闘して――被疑者を捕まえなければならない。連中に殴られるうち、変形してこのようになりました」
 彼女が笑う。「本当なら、世界で一番安上がりな整形ですね」
「いまは色んな警官がいるものです。去年、我が県の警察本部は史上初めて刑事部に女性を採用しましたよ」
 本当か、と彼女が眼を丸くする。背丈だけでなく、表情の彩りも少女を思わせるほど大げさな女性であった。人生とは笑顔で満喫すべきものだと心得る種の人間が、しばしば同様の性向をもっている。
「女性の刑事さんなんていたんですね」
 どんな仕事をしているのかと訊かれたため、知っていることを話した。神奈川県警初の女性刑事は、誘拐などの特殊犯罪を扱う専門班に配属された。当然、今回の城戸祥平誘拐事件にも参加している。和泉は一度、彼女の姿を捜査会議場で見かけていた。
「これは口外しないで欲しいのですが、いま、彼女は被害者宅に泊まりこんでいるはずです。そうすれば、さらわれた赤ん坊の母親になりすまして犯人からの電話に対処できる」
「そうなんですか。女性もがんばってるのね」
 軽い世間話に区切りがつくと、彼女は真顔にもどって居住まいを正した。
「それで、今日は? 主人は捜索隊の案内で山のほうに行ってるんですけど」彼女は顔のむきで東をさした。今泉台東部にはゴルフ場が広がっている。それをさらに東にむかえば山林地帯であった。警備課がもっとも捜索に力をいれているポイントである。「なんでしたら無線いれます?」
「いえ、電話をお借りできたらと思って寄っただけです」
 それならば遠慮なく使用してくれ、という言葉がかえった。当初のそれより随分と和らいだ口調であった。
「おひとりで動く刑事さんもあるんですね」彼女がいった。「私服のひとは二人一組が徹底されているとばかり思っていました」
 和泉は電話機により、近くのパイプ椅子に腰を落とした。
「くじ運が悪いんですよ。はずれくじを引いたんです」
 そう応じ、刑事課の番号をまわす。意味が分からなかったのだろう。彼女は不思議そうに首を傾げたが、考えて答えのでないことは即座に忘れる主義のようだった。明るい声でなにか飲むかと訊ねてくる。
「もし面倒でなければ、コーヒーをいただけますか」
「いいですよ。本署では絶対に出てこないようなのをお持ちします」
 奇妙な気勢をはり、奥の部屋に消えていく。入れかわるように受話器から馴染みのある声が聞こえてきた。大田刑事課長の不機嫌そうな応答である。
「和泉ですが。無線で私が呼ばれていたようでしたので」
「きみか」課長はうなるように喉をならした。「偉くなったものだな、和泉巡査部長。いつから私を伝令扱いするまでになった」
「どういうことでしょう?」
 大田は重たい溜息でこたえた。「きみあてに電話があった。それを私が受けとり、言伝てまで仰せつかったのだ。仮にも一課の長たる人間が電話番だ。なぜこんなことになったか。きみにわかるかね。簡単だ。誘拐だ。私を惨めにさせるため、人の迷惑もかえりみず子供を誘拐するような輩がこの大船から発生したからだ」
「――それで」なかば強引に口をはさんだ。自由に喋らせると明日の朝まで本題にはいれない。「私に伝言というのは誰からです」
「君の身内の女性だよ。千鶴さんといったか。お義姉さんだったな」
 そうだ、と答えるまでしばらくかかった。もとが遠慮深い性格なのである。彼女は滅多に自分から電話をかけてこない。職場に直接、ということはなおさら珍しかった。
「彼女はなんと?」
「きみが署にいるかと訊いてきたので、いないとこたえた。できるだけ早く連絡が欲しいとのことだ。きみの力になれるかもしれない、と言っていたぞ。なんのことかはまったく分からんが」
「無線の件はそのことですか」
「そうだ。彼女につきまとっている人間がいるらしい、という話をきみから聞いていただろう。それを思いだしたのだ。もっとも、きみの力になれるとかどうとか言っていたわけだからな。今回はその件と無関係なんだろうがね」
「お心遣い痛みいります」
「――で、実際のところ彼女はどうなのかね」
 一瞬、なにを訊かれたのか理解できなかった。仮にも捜査本部のたつ大事件捜査のさなかである。課長はその沈黙がなにかを物語っていると解釈したようであった。気を良くした様子でしゃべりつづける。
「気持ちというものは、そうそう隠しとおせるものではない。お兄さんと結婚していたとはいえ、彼女はもう独身なのだろう。支えが必要な女性なのではないのかね。事実、きみが外泊許可を得るときは必ず彼女が関係している。結婚する気はあるのか」
「ちょっと待ってください」
 彼は待たなかった。和泉の言葉を完全に無視してつづける。
「警察官というものは結婚を奨励されるものだ。家庭をもっていない者は半人前と考えられる世界だ。実際、きみにも見合いの話がいくつか来ている。だから、はっきりさせておいたほうが何かと良いのだ。彼女とその気があるなら、私にも早めに言ってもらいたい」
 義姉のもとをおとずれ、しばしば泊り込むのは事実であった。しかし寝室は完全に別である。こちらにはともかく、彼女は義弟と同衾する気などさらさらない。考えたこともないだろう。法律上はどうであれ、彼女はいまもって和泉光一――兄の妻であるつもりなのだ。
「見合いは断ってください。義姉を含め、私はまだ誰とも結婚するつもりはありません」
「なにを言っとるんだ、きみは」
「はずれくじと呼ばれている警官を知っていますか? 彼は未婚ですが、私の知るかぎり最も優秀な人材のひとりですよ」
 その人材を、警察は近々失うことになるのだろうが。
 なにか言いかえされる前に、すばやく伝言の礼をいって受話器をおいた。
 結婚。現実的な問題として、自分と関連付けたことのない概念だった。刑事でいる間は家庭をもつことなど考えられない。勤務時間がきわめて不規則で、休日もはっきりしない商売である。旅行はもちろん、外出の予定すら立てられないのだ。それで恋人や妻を失う者は大勢いる。自分もそのひとりになろうとは思えなかった。
 それよりも千鶴の電話が気になっていた。夫を亡くして以来、彼女が職場に連絡を入れてきたことは一度しかない。四〇度近い熱をだしたときだけだった。受話器をとりあげる。ダイヤルをまわしかけたとき、奥の部屋から陶器の鳴る音が聞こえてきた。にわかにコーヒーの芳香が漂いはじめる。電話を元にもどして、音のほうに顔をむけた。駐在の妻がカップを二つ、トレイにのせて現れた。
「お電話終わりました?」
「いえ、あと一件」
「コーヒー、ご用意できましたよ。良かったら冷めないうちに」
 トレイごと差しだされる。会釈して、片方のカップをうけとった。
「捜査のほうはどうですか。祥平君だったかしら、早くみつかるといいけど」彼女はスチール製のデスクにコーヒーセットを置いた。夫が執務用につかっているものだろう。組になったパイプ椅子に腰を落とす。「砂糖とミルクはどうされます?」
「このままで結構」そう断り、今日から消防を含めた二〇〇人体制で捜索をおこなっている、と伝えた。しかし、迷子の子供とは違う。山狩の類で見つかる場合、犯人と一緒でなければ死体になっている確率が高いだろう。が、そこまで口にする必要はなかった。
 カップを傾けながら、軽く室内を見回した。広さは見張所の六畳程度。安っぽい机が二つあり、ガタのきたキャビネットがある。すこし古いがどこにでもある駐在所であった。片隅には、街頭用のたて看板が束ねおかれていた。「この子を探しています」。横書きの大きなゴシック体の下で城戸祥平が笑っている。捜査会議で見せられたヴィデオから、静止画として抜きだしたものだろう。水色の子供服を着た腹ばいの姿だった。つぶらな瞳がこちらを見つめている。
 看板の表面にはペンキを重ね塗りした形跡がみられた。似たようなケースのために事務方が備えていたものらしい。探し人の看板が必要になるたび、彼らは内容だけ変えて同じ物を使いまわす。
 もう一口含み、コーヒーカップを電話の脇に置いた。
「電話、またお借りします」
 彼女の微笑が返るのを待ってから、黒い受話器をとりあげた。指が動くに任せて義姉の番号をダイヤルする。いわゆるイヴェント会社で企画運営の仕事をしていた千鶴だが、夫を失ってからは完全に勤労意欲を失っている。夫の命と引き換えに得た多額の慰謝料や見舞金があるため、あと何年かはそれで生活していけるだろう。いまも在宅であるはずだった。
 呼び出し音が数回くり返される。案の定といったところか、「和泉です」という彼女の声が聞こえてきた。声の調子から、明らかに和泉であることを期待していることがうかがえた。
「光司です。署のほうに電話をいただいたようで」
「ごめんなさい、仕事中に。私、すこし冷静じゃなかったの」
 迷惑ではなかったかと訊かれたため、本心からそれを否定した。
「なにかあったんですか」
「私には何もないのよ。でも新聞を読んで、TVもみたの。本当におどろいた。あの赤ちゃんが誘拐されたって事件。今泉台ってことは、光司の管轄なんでしょう」
「そのようですね」
「捜査に参加しているの?」
 こたえようとしたが、彼女がさきに言葉をついだ。
「昨日、うちに来られなくなったのは、だからなんでしょう。いま反省してたところ。知らなかったとはいえ愚痴っぽいことも言ったような気がするし、恥ずかしいことをしたと思って」
 ――大きな事件ってのはいいよな。所帯もちのベテランが、かつて酒の席で漏らした言葉である。やっぱりTVで大々的に取りあげられる事件だと、女房や子供の食いつきが違う。親父はこの事件の捜査に参加してんだ、ってことになる。帰りが夜中になろうが、休みの日の約束が潰れようが絶対に文句はでない。
 酔いどれの言葉であったが、義姉の反応をみるかぎり充分にうなずける余地はある。
「それで、その事件がどうかしましたか」和泉がいった。
「それなんだけど、もし光司が捜査に参加してるなら助けになれるかもしれないと思って。だから、迷ったけど電話したの」
 彼女の口ぶりは明らかに弾んでいた。最近では珍しいことである。
 むかしから千鶴の感情には強い伝染性があった。沈んでいれば周囲の雰囲気も重くなり、微笑んでいればこちらの気持ちも浮きあがる。兄光一を含め三人でいたころからそうだった。彼女がすべての中心だった。和泉と兄は、彼女の周囲を巡る衛星だった。
「その前に確認しておきたいんだけど、誘拐された赤ちゃんの母親は日系のアメリカ人だったひと?」
「ええ――確かそうだったと思います」
 受話器を肩にはさみ、メモを探った。城戸早奈子の項目を検索する。一九五四年、アメリカ合衆国カリフォルニア州うまれ。父、ジョウ・フリーマン。母、フジコ・エレン・フリーマン。婚前はアメリカ国籍をもっており、サナコ・フリーマンを名乗っていた。名前や育ちはともかく、外見から分かるように血の大半は日本人のものである。外では英語、家庭では日本語を話して育った。UCSF経営学士。横浜国立大学経営学修士。ケイディ・モータース役員。
「そうです」改めていった。「アメリカで生まれて、一五年以上むこうで育っている。なぜ知ってるんです?」
「うん、ちょっとね。それで、彼女の学生時代のこと――人柄とか交友関係のこととか――だけど。そういう話をできるとしたら、光司の役に立つ?」
「彼女が母親の胎内にいたときからの情報を集めないといけない。我々は関係者のあらゆるデータを収集するんです」
「よかった。じつは今夜、学生時代の友だちが泊まりに来る予定なの。その話をしたことは覚えてるでしょう」
「昨日、そんなことを言ってましたね」
「彼女、高橋さんっていうんだけどね。私と高校と大学が同じだった」
 つづけて、自分の出身大学は知っているか、と問われた。
 国大でしょう。そう言いかけて、やっと気づいた。城戸早奈子に関するメモに眼を落とす。横浜国立大学経営学部、修士課程終了。自分の手によるで書き込みであったはずだが、いまの今まで気づかなかった。半分眠りながらメモしたせいもあるだろう。横浜国立大学。常に「国大」と略して呼び親しんでいたため直結しなかったのだ。
 夫の城戸芳晴も国大の同学部に在籍していた。彼らはそこで出会い、早奈子の修士号取得をまって結婚したのだ。
「じゃあ、義姉さんたちと城戸夫妻は同じ大学の出身だったんですか」
「在学の時期もある程度は重なってたのよ。朝、そのことに気づいてね。泊まりにくる高橋さんに電話して確認したの。彼女、出張の準備でニュース見てる暇がなかったんですって。だから驚いてた。城戸さんたちとは知りあいだったらしいの」
「面識があったんですか」
「私とはまったくの他人なんだけどね。でも、高橋さんと早奈子さんとはサークルが同じだったの。YWVっていって、ワンダーフォーゲル部なんだけど」
 とはいえ、特別に仲が良かったというわけでもないらしい。ただ部の活動を通して一応の交流はあった。山に登れば集合写真をとるため、一緒に撮影した写真も少なくないという。
「すくなくとも学生時代の早奈子さんたちについては、良く知っているほうだしね。光司のことを話したら、写真を見せてもいいって言ってくれて。だから、こっちに持ってきてくれる予定なのよ。電話したのはそのこと」
「同じ部だったということは、芳晴氏も写っているんでんすか」
「私はまだ見てないけど、写ってるらしいわ」彼女は至極あっさりといった。「高橋さん、ふたりの結婚式の写真ももってるのよ。卒業が決まった段階で式を挙げたらしいの。だからワンゲル部の関係者も招かれたって話」
「そんなものまであるんですか」
「だから、時間が空いたときに来て。そのときのことも含めて、少しくらいなら彼女たちのことも話してもらえると思うから」


 9

 物音で和泉は眼を覚ました。蛍光灯の光が眼にしみる。まず驚かされたのは、自分が眠っていたという事実であった。まぶたを開いたあとも、なかなか状況が掴めない。時計をみると、まもなく一〇時をまわろうとしている。部屋の明るさからいって午前のそれではなかった。
 身体を起こすと、カッターシャツにスラックスという格好をしていることに気づいた。すこし離れたところに投げすてられたネクタイが落ちている。それですべてを思い出した。駐在所と、二件の電話。綾瀬との合流。署への帰還。そして報告書の作成と捜査会議。その会議終了後、三階の自室にもどったのだった。シャワーを浴びる気力もなく、倒れこむように寝台へ身を投げだし――その後の記憶がない。この四日間、短い仮眠を何度かとっただけである。すこし横にと思っただけが、知らぬうちに眠ってしまったようだった。
 義姉の家にいく、という約束を思いだした。捜査会議が終わったあと、恐らくは一〇時すぎになるだろう。夕刻、本人にそのような連絡をいれた記憶がある。課長からは正式な外泊許可を得ていた。城戸家に近い筋から情報を得られるなら、その価値はある。そのように判断されたことは間違いなかった。明日の午前八時までに戻るという条件付だが、千鶴に会える。まったく苦にはならなかった。
 あくびをかみ殺しながら着替えを用意した。シャワーを浴び、ひげを剃る必要がある。外からは目覚ましがわりになった騒音がまだ聞こえてきていた。靴をはいて部屋をでる。ドアを開けた瞬間、眼の前を制服姿の若い婦警が通り過ぎていった。額に浮かんだ汗を拭い、二つ隣の部屋に躊躇なく足を踏み入れていく。男子寮に単身乗り込んできたにしては堂々としていた。夜の密会、という様子ではない。第一、彼女の入り込んだ部屋には住人がいない。綾瀬の前任が利用していた個室らしいが、数年前から物置代わりになっている。
 空き部屋から、また物音が聞こえた。さきほどとは別の婦警がラジカセを抱えて現れる。右腕には膨らんだスーパーのビニル袋をさげていた。和泉のわきを素通りし、そのまま廊下の角を曲がっていく。
 いまごろ新人が入居してくるとも思えない。ドアに近づき、問題の部屋をのぞき込んだ。なかは六畳程度の畳部屋であった。がらんどうに近く、物置にしても殺風景に見える。存在したもののほとんどが、すでに運び出されたあとなのだろう。あとは古ぼけたスチール製のデスクセットと、ダンボール箱が数箱が残るのみであった。ほかは戸棚と小型冷蔵庫がせいぜいだ。
「なにごとですか」
 声をかけると、婦警が顔をあげた。二〇歳を大きくは超えていないだろう。線の細さが際立った娘である。不健康さを感じさせる一歩手前だった。人によっては手前とは判断されないかもしれない。顔つきは身体と対照的な特長を備えていた。気の強そうな切れ長の双眸が和泉にむけられる。
「貴方、暇なの?」
 勝気そうな歯切れの良い口ぶりだった。いささか気圧されかけながらも、そう暇でもないとこたえる。
「いえ、暇よ」彼女は断言した。「そうでなかったら他人の部屋をのぞき込んで、必要もない質問をすることなんてないでしょう」
「一理あるが、これからシャワーを浴びて外出しなければならない。人と会う約束をしているので」
「なら、ちょうど良かった。男手が必要なの。シャワーを浴びる前にもう一汗かいてちょうだい。ご覧のとおり、大物が残ってる」
「運びだすんですか」
「そう。部屋があまってるなら仮眠室として捜査員に提供しろ、だそうよ」
「なるほど」時間を計算した。休息に使うならベッドは置いたままで良いだろう。ほかのものを全部運び出したとして三〇分はかかるまい。そのぶん義姉を待たせることになるが、もともと明確な時間の指定はしていない。しかも彼女は、一時間ていどなら誤差の範囲で片づける性格の持ち主である。
「これは私にとっても受けもち外の業務なの。つまりサーヴィスでやってるわけ。同僚として貴方に同じことを求めたとしても許されるわよね」
「そのようだ」認めざるを得ない。「手伝います」
「ありがとう」彼女はにっこりと微笑み、名前と所属をつげた。防犯課勤務。松島巡査部長。大卒そこそこにしか見えないが、競争率一〇〇倍とも、それ以上ともいわれる昇級試験を早々にパスしたようである。優秀な婦警なのだろう。彼女は和泉にも同じ情報を求めた。おとなしく応じると、驚いたように小さく口をあける。
「――へえ、貴方が和泉巡査部長」
「悪い噂があるなら信じないでください。半分は嘘だ」
「じゃ、半分は本当かもしれないわけだ」気のせいか、と思わせるほど刹那的な微笑が浮かぶ。彼女はすぐに表情をもどし、すっと眼を細めた。「貴方、女子の間ではそれなりに話題の人みたいよ」
「それは、つまりどのような意味で?」
「結婚相手よ。なにしに警察に入ったか分からないような娘も大勢いるってこと」
 顔をしかめて見せることで、彼女は自分がその例外であることを主張した。そんなだから県警の連中になめられるのよ、小声で添える。
「まあ、違反車の取り締まりばかりやらされればね。そんな気になるのも仕方ないかもしれないけど。相手見つけて、さっさと寿退職しようって子、かなり多いのよ。知ってるでしょ」
 和泉はその事実を認めつつ、手近な段ボール箱を抱えあげた。思ったより重量がある。よく見るば、マジックペンによる「書類」という表記があった。
「荷物はどこに運ぶんです」
「ついてきて」一回り小ぶりな箱を担ぎ、彼女が先に部屋をでていく。その背を追った。廊下でさきほどすれ違った別の婦警と遭遇する。
「木村さん、助っ人スカウトしたよ」松島巡査部長がいった。
「お手柄じゃない。男手は助かるわ」
「戸棚と冷蔵庫は彼にやらせるから、とっといて良いよ」
 諒解、という返事を背中で聞きつつ、彼女はきびきびと歩きはじめた。方向からして署員専用の裏階段にむかっているらしい。間もなくそのことが実証された。踊り場付近には、すでに運び出されたダンボール箱が山積みになっている。
「ここに置いておくの。不要なものは、これを機会に処分されるんですって。あとで男衆が焼却炉まで運んでいくみたい」
 彼女は自分の荷物を放り下ろすと、さっさと戻りはじめた。時間を無駄にするのを嫌う気性なのだろう。しゃべりかたと同様、素早く無駄のない足の運びかただった。
「さっきの話だけど、つづきを聞きたい?」
「私の風評ですか」
「女の子が貴方をどう評価しているか。当然、気になるでしょう」
「何としての評価かにもよりますね」
「普通、そういうのって複合的なものじゃない?」一瞬、足どりをそのままに彼女が振りかえった。「結婚相手としての評価にしたって、彼女たちは人間性も将来性も同じ尺度で考えるわよ。どれくらい仕事ができるかは、相手選びに欠かせない要素になる」
「だったら、多少は興味があるかもしれません」
「一部では悪くないって評価よ。年齢、容姿、勤務実績、将来性。どれもそこそこで、取り立てて良くもないけど穴もない。その手のが一番安心だ、と思う娘にはそれなりに支持されてるみたいね」
 なにか保険の調査のようであった。リスクが小さい者ほど、契約者として保険会社には好まれる。
「あとの大部分は?」
「あとの子は、地味で面白味に欠けると思ってるみたい。結婚したら三ヶ月で退屈して死にそうになる。そんな感じね。こっちが多数派。貴方、リストの下位にいかない代わり、上位にもいかないタイプらしいわね」
 部屋に戻った。入れかわるようにして、先ほどの婦警が箱を抱えてでて行く。松島巡査部長は、まっすぐにスチール製の机に歩み寄っていった。サビだらけの古い備品である。廃棄処分は間違いない。
「次はこれを片付けましょう。そっち持って」
「まった」制し、和泉は片隅に転がっていたガムテープをひろいあげた。訝しげに首を傾げる彼女を尻目に机に近づく。テープを切り、机のひきだしが開かないよう固定した。説明する。「抱えると、この手のものは傾きやすい。それでひきだしが開きだすことがある」
「貴方、引越し屋の息子?」
「そういう息子の親に、むかし臨時雇いとして採用されていた」
 なるほど、とうなずいて彼女は腕に力をこめた。机の片側が浮きあがる。和泉は素早く対面にまわった。出っ張りに指をかけてもちあげる。彼女に歩調を合わせながら、慎重に出入口をくぐった。
「――ねえ、捜査はどうなってるの」彼女が切れ切れにいった。
「進展はないようです。今夜の捜査会議で検討された捜査線は三本。企業脅迫。社長の女性関係。愉快犯。あるいはこれらの複合型。そんな程度ですね。子どもに生命保険をかけたうえで親がやったのでは、といった線もあったが、今日の時点でこれは消えています。契約から五ヶ月で金が支払われるケースは少ないし、そもそも息子に保険金をかけたという事実がなかった」
「企業脅迫と愉快犯はいいけど、二本目が分からないわね」
 後ろむきによたよたと歩きながら、彼女が柳眉をひそめる。
「女性関係のもつれで誘拐なんて起きるもの? 奥さんか社長本人が刺される、とかなら分かるけど」
「子供の父親はオート用品店の社長で、彼には若い女性の秘書がいる。一部関係者からはきっぱり否定されているが、城戸氏と彼女との間に男女の噂があるのは事実ですよ」
 まだ理解が及ばないらしい。怪訝そうな表情とともに、彼女は無言で話の先をうながした。
「ここからは私の想像ですが――その秘書に限らず、芳晴氏に愛人があったらどうです。また、男の真意は別として、家庭を捨てて結婚するというような話がでていたら。その言葉を女性側が本気に受けとめるようなことがあったとすれば、そこに動機が生じてくる。仮に、その愛人が城戸氏の子供を身ごもってでもいた場合はさらに面倒になるでしょう」
「たしかに、修羅場は予想されるけど」
「妻と別れ、愛人と結婚する。城戸氏がそのような約束をしていたと仮定しまょう。しかし、彼と妻との間に二番目の子供ができてしまった。愛人は、その子の存在が城戸の心を家族側に引きもどしてしまうことを恐れる。赤ん坊にはそうした力がある。結果、第二子の存在は、愛人と城戸との将来にとって大きな脅威となる。そうなると愛人は心理的においつめられていく。あの赤ん坊の存在さえなければ……そうした考えが頭にチラつきはじめてもおかしくない」
「そういう路線か」いかにも刑事が考えだしそうなことだ、と彼女が顔をしかめる。「でも、誘拐されたのが二歳の女の子じゃなくて、なぜ赤ちゃんのほうだったかって話の説明にはなるわね」
 踊り場に到達した彼女は、突き落とすように机をおろした。血行のわるくなった指先をさすりだす。しばらくすると顔をあげた。
「でも、脅迫状みたいなのが来たんでしょう。犯行声明っていったほうが正しいか。あれはどうなのよ」
「あれが本当に子供を誘拐した人間から送られてきたものか、確証はない」和泉は部屋に引き返しながらいった。「犯人しか知らない情報が書かれていたのなら別ですが、それもなかった。誘拐犯とは別の、単なる便乗である可能性も考えられます」
 彼女が小走りにより、肩を並べた。「貴方はどう思ってるの」
「あの犯行声明についていた指紋は二種類。いずれも処理の過程で触れた警官のものです。ほかには犯人の指紋ももちろん、配達員のものもなかった」今夜の捜査会議で発表された情報だった。「つまり、差出人は署に直接あれを届けたことになる。手袋をするなりして自分で意見書受付に投函した。これは一見、リスクの高そうな行為ではあるが――」
「そうでもないでしょう」彼女が即座に反応した。「聞いた話だと、あの目安箱みたいなのに入ってたらしいじゃない」
「そうです」
 署内には簡単なアンケート用紙と、それを回収するための投函口が用意している。彼女が言っているのはそのことだった。寄せられるのは意見、要望、苦情など。本署に対する様々な声が集められる。もちろん、無記名での投書も可能であった。
「あれを利用するなら、通りすがりに用意してきた手紙を放り込めばそれで完了。不自然な行動じゃないから目立たないし、アクション自体も一秒しかかからないじゃない。署まで乗り込むのは大胆ではあるけど、見かけほどリスキィではない」
「そのとおり。そして問題の文書は、被害者宅や城戸氏の勤め先には届いていない。署だけだ。となると、これは明らかに挑発だと考えられる。こうした行動は、さっきの女性関係の線から浮上してくる犯人像のそれと重なりません」
「でも愉快犯が赤ちゃんを誘拐して、警察組織をおちょくるために挑戦状だしたって考えれば矛盾はなしじゃない」
「そう。その可能性もある。私を含め、多くの捜査員がもっとも考えたくない線でもある」
「捜査が難しくなるものね」婦警は納得したように二、三度うなずいてみせた。「従来のやり方じゃ、難航するのは眼に見えてる。女関係がどうとかいう水準の鑑取りなんかだと、まず容疑者はでてこないわよね」
 和泉はそのとおりだ、とくり返した。迷宮入りも許せないけど、子供が出てこないのも問題よね。小さくつぶやく声が聞こえる。直後、話に区切りをつけるように彼女は大きく息を吐きだした。切れ長の眼が和泉にむけられる。
「貴方、刑事になるだけあって使えない人材じゃなさそうね」
 言うや、彼女は小走りに駆けだした。すこし離れた休憩コーナーに入り、自動販売機の前でとまる。彼女の手のなかで小銭のじゃらつく音がした。
「人と会う約束があるって言ってたけど、まだ大丈夫?」
 その言葉で思わず腕時計を確認する。一〇時七分。手伝いはじめて、まだ一〇分と経っていない。
「残りは戸棚と冷蔵庫くらいでしょう。問題はない範囲です。大丈夫ですよ。そのあとの掃除までは手を貸せないが」
「手伝わせるにしても強引だったわよね。ごめんなさい」
 それは独り言のようにも聞こえた。彼女は飲料のサンプルをみつめ、和泉に背をむけている。販売機からの逆光が黒髪の輪郭を淡く照らしだしていた。やがて白い指がボタンを二度押す。缶の落下音があたりに甲高く響いた。
「私も予定があってね。――こう見えて結婚してるの。誘拐された子よりすこし大きい程度の子供もいる。だから早く帰りたいのに、雑用押しつけられて頭にきて。そういうとき、他人に当たっちゃう性格だから」
 彼女は片手にひとつずつ缶を握って身体ごと振りかえった。
「奢るから許してもらえる?」
「奢りが不純物入りのコーヒーじゃないなら」
 彼女の片眉が吊りあがった。「不純物?」
「糖類です。それと加工乳」
「なら、問題なし」
 松島巡査部長は右手を後ろに引き、アンダースローの体勢で青い缶を投げた。それはゆるやかな放物線を描き和泉の手に収まる。冷えたスポーツ飲料だった。
「会う予定の相手、女の人?」彼女が訊ねた。
「そうです」
「だったら急がないとね。次、冷蔵庫を片付けましょう」また勢いのある口調がもどった。「それ、全部終わってから飲むのよ」
 彼女は返事を待たずに廊下を歩きだした。言われたとおりプルタブにかけた指を解き、その背につづく。部屋に近づいたとき、対面からキャスターの回転する音が聞こえてきた。もうひとりの婦警が接近してくる。さきほどの机と対になっていた椅子を、荷車のように押していた。座席にはダンボール箱が載せられている。
「楽しそうね」松島巡査部長が苦笑にも似た微笑をうかべた。仕事は楽しんでやらなきゃ。威勢のよい声がかえった。車輪の音が遠ざかっていく。
 現在の警察組織は完全な男社会である。だが、いずれ変わっていくだろう。ふたりの婦警をみて、不意に思った。史上初めて本部の刑事になった女性。子供を産んでも職場に残りつづける女性。彼女たちが警察で生き抜いていくには、男性の倍の努力と精神的強度が必要になる。それらをかね備えた者が出現しはじめているのだった。
 すこし遅れて部屋にもどると、松島巡査部長は冷蔵庫と対峙していた。腰に両手をあてて目標を睨みつけている。確かに戦術を練る必要がありそうだった。高さは松島巡査部長の胸ていど。小型てはあるが、彼女の肉体と同程度の重量があるに違いない。
「これ、まだ使えるのかしら」
「駆動音はしてますね」
「何年も無駄な電気代を税金から支払わせてたってことか」
 それが和泉の責任であるかのように鋭い視線がむけられる。
「コンセント、抜いちゃっていいいわよね」
「問題ないでしょう。下手をすればそれも廃品扱いで処分されそうだ」
 言い終わるまえに彼女はプラグを引き抜いていた。直前の言葉は、質問ではなく確認に過ぎなったのである。彼女は埃だらけのコードをまとめ、手首に通していた輪ゴムで固定した。
「部屋をでていくとき自分で処理していけっていうのよ。立つ鳥あとを濁さずっていうじゃない。それが大人ってもんでしょう」
 再び咎めるような目つきが和泉を射抜いた。キッチンもない男の独り部屋でさ。どうせ、ビールの保冷くらいが精々の用途だったんでしょうに。数々の悪態をつきながら上のドアを引き開ける。おそらく冷凍室のそれだろう。彼女はそこへまとめた電源コードを放り込み、叩きつけるようにドアをしめた。
「それを運べば、あとは戸棚だけだ。早く済ませましょう」
 準備が整ったとみて、シャツを腕まくりしながら声をかけた。うしろから歩み寄る。その瞬間であった。彼女の身体が感電したように小さく跳ねた。同時に、はっと息を呑む気配が伝わる。それを最後に、彼女は完全に動きを凍りつかせた。呼吸さえ忘れたかのような沈黙がおりる。シャツの襟にひっかかっていた髪が落ち、さらりと揺れた。
 声をかけるべきか。逡巡をはさんで口を開こうとしたとき、ようやく松島巡査部長の硬直がとけた。最初に右手の指先がうごく。それはなにかを恐れるように、閉めたばかりのドアに伸ばされた。喉の鳴る音がし、やがて把手をつかむ手に力がこめられる。投げこまれていたコードが転げ落ちてきたが、彼女はまるで構わなかった。腰を屈め、わずかに生まれた隙間からなかを覗きこむ。
 今度は気配ではない。短い悲鳴がはっきりと届いた。胸を押されでもしたかのように彼女が二歩、後退する。和泉はよろめくその身体を背後から支えた。そのまま自分と場所を入れ替えさせる。半開きになった扉を全開にした。
 最初に感じたのは腕に触れかかる冷気であった。冷蔵庫が無人の部屋でひと知れず稼動していた証拠である。そして冷凍室は内容物をひたすらに冷却しつづけてもいた。
 なかが空でないのは一見してわかった。窮屈そうに小さな人型がおさまっている。人形かとも思ったが、そうではない。直感がそう告げていた。小さな冷蔵庫の狭いフリーザに納まる、かつて人間であったもの。死体である。
 それは、水色の子供服を着ていた。


 10

 内線三三一番に連絡をいれたのは和泉だった。係長に話を通そうとしたのだが、彼は席を外していた。結果として、第一報をうけたのは大田刑事課長ということになる。課長は話を聞くや、署長、副署長、県警幹部をひきつれて現場へ飛んできた。どういうことだ。なんのつもりだ。それが彼の第一声であったように記憶している。例によって自分に対する悪質な嫌がらせだと解釈されたのだろう。とはいえ、今回ばかりは彼を責めるわけにもいかない。課長個人に対するものであったかを別にすれば、これは明確に警察組織への嫌がらせに他ならないのだ。
「――それで、冷蔵庫を開けてみる気になったのはなぜです」
 背後から質問がとんでくる。最初は首を捻って応じていたが、すでにその努力は放棄していた。パイプ椅子に座ったまま、冷たさを失ったスポーツ飲料の缶をもてあそぶ。
「私が開けたわけじゃない」和泉はぞんざいに応じた。「最初にそれに気づいたのは松島巡査部長です」
「では、どうして彼女は冷凍室を開けるようなことを?」
 和泉を取り囲む警官は五人を超えていた。ほとんどが県警本部の刑事だが、大田課長も包囲網の外側から睨みをきかせている。
「冷蔵庫の電源コードがコンセントに繋がったままだった。外に運び出すため、彼女がそれをとりはずした。冷凍室に放り込んだのは邪魔だったからでしょう。無造作にぶらさげていると、運ぶときに気が散る」
「なぜ、あの部屋の冷蔵庫に子供の遺体があったと思いますか」
「それは、やった者に私からも問いかけたいことです」
 即座に別の方向から質問が投げかけられた。「あの部屋に稼動する冷蔵庫があることを誰が知っていたと思うね?」
「署員の大半は知っていたでしょう。あそこは住人がいなくなって以来、物置のような扱いを受けていた。使わなくなった備品を放り込むために入ったことのある人間は少なくない。新顔の私が知っていた。それがなによりの証明でしょう」
「では、赤ん坊をあそこに隠したのは署員の誰かだと?」
「それがそうとも言えんのだ」
 口をはさんだのは、意外にも大田課長だった。全員の視線が彼に集中する。
「あの部屋は、市の広報紙に写真つきで載ったことがある。年に一、二度に限られるが、署内見学だとかいって子どもの大群が我々の職場を荒らしにくることがある。その際に撮影されたものだ」
 彼が苦々しげにいった瞬間、和泉もその事実を思いだした。今年の場合、該当する行事は春先に執り行われている。幼稚園児が「おまわりさんの職場見学」などと称して署内を見てまわったのだ。ときには親の労働風景を見せようと、警官の子供を集めて同様の企画が催されることもあるらしい。
「我々にとっては大変な邪魔なのだが、広報の一環だといわれれば仕方がない」大田課長が眉間にしわを刻みながらつづける。「そういうわけで武道場で簡単な集会を開き、裏の駐車場でパトカーを見せてやり、署員が寝泊りする寮部屋を公開し……といったことに協力している次第だ。通例、広報紙のカメラマンも同席して、あとで記事にする。寮部屋のサンプルとしては、例の空き部屋が好都合ということで毎回、披露されているのだ」
 本部刑事たちの顔つきが変わった。
「その広報紙を拝見できますか?」
「現在、手配させている」質問を予測していたのだろう。課長は言下のもと言った。「バックナンバーは保存されることになっているから、すぐに出てくるはずだ。市の方にも確認をとっている」
「和泉巡査部長は、いまの話をご存知で?」
「署内の者なら全員が知っていますよ。事前に連絡がくるし、朝礼などでも話題になることです。ときによっては、見学にくる子どもの世話を手伝わなければならない」
「貴方が部外者だったとして、部屋の写真が掲載された広報紙をたよりにあの冷蔵庫までたどり着けると思いますか」
「なぜ私にそんなことをお聞きになるのかわからないが――」
 和泉は質問の主と眼を合わせ、表情を変えずに応じた。
「広報は、使われていない部屋があることを知る材料、その部屋の具体的な位置を類推する材料にはなりえたでしょう。それで充分だったのかもしれない」
「それはつまり?」
「死体を置いていった者が、最初から空き部屋の冷蔵庫に放り込もうと考えていたかは不明です。署のどこかに置いて、我々を嘲笑うことができればそれでよかったのかもしれない。実際、トイレから死体が見つかったとしても同程度の大きな騒ぎになったでしょう。だが、犯人はたまたま広報紙を見ていた。そして寮の空き部屋にあたりをつけ、忍び込んだ。偶然に冷蔵庫を発見する。動いていることを知り、せっかくだから利用した。そういった解釈もなりたつということです」
「なるほど。考慮に値するかもしれない」
 だが、小休止を挟んで和泉の負担を減らそうという試みについては、まったく考慮する気がないようだった。根掘り葉掘りの事情聴取がはじまって、もうどのくらい経つか。ぼんやり考えながら時計に眼をやる。瞬間、わが眼を疑った。二三時を半時間も過ぎている。思わず椅子から腰が浮きあがった。
「話を元にもどしましょう。遺体を発見したときのことですが」
「それより、すこし休ませてもらえないだろうか」和泉は県警の質問を遮って言った。「身内に電話させてほしい」
 即座に課長が叱責の声をあげる。「ばかも休み休みいわんか。きみは事の重大さが分かっておらんのか」
「――まあ、いいでしょう。大体の証言はとれました」
 ノートを閉じながら、県警のひとりが意外な口を開く。
「どのみち細部についての検証は、現場で再現しながらやらないと難しい。つまり鑑識の作業が済んでからということになる」
 しかし、と彼は強調した。今夜の予定は変更してもらう必要がある。準備が整い次第、迅速につづきが行えるよう待機。「その間は仮眠をとるなり身内と連絡をとるなり、好きにしてもらって結構です。しかし、署内からは一歩も外に出ないでください」
 諒解をしめし、和泉は小会議室をでた。彼らの気が変わらないうちに最寄の休憩所へ足をむける。会えなくなったことを千鶴に伝える必要があった。
 途中、通りかかった例の寮部屋は、いまや「現場」として扱われていた。出入口には制服姿の立番がみえる。周囲への接近は署員といえど厳しい制限をうけざるを得ないのだろう。課長らの話のよれば緘口令も敷かれたらしかった。だが、署に出入りしているマスコミに事を隠しとおせるかは大いに疑問である。彼らはすでに異変を察知し、場合によっては真相に近い情報を手にしているだろう。
 休憩所には先客がふたりいた。どちらも婦警で、いずれも背中をまるめて肩を寄せあうように座っている。その片割れは、和泉にスポーツ飲料を投げ渡した本人だった。彼女にもらった缶には、まだ手をつけていない。握りしめたまま存在を忘却していたのである。
 ふたりには声をかけず、和泉はまっすぐ公衆電話に足をむけた。硬貨を投入し、ダイヤルをまわす。呼び出し音を聞きながら婦警たちに眼をやった。和泉の存在に気づいていないかのように、ふたりは無言で床をみつめていた。微動だにしない。
 予想していたとおり千鶴の反応は早かった。通話状態にはいり、丸みのある彼女の声が耳朶に触れてくる。はい、和泉です。遅くにすみません、光司です。――いつものやりとりが、いつものように行われた。
 次に聞こえてきたのは、深いため息だった。
「来られなくなったのね」
「そうです。申しわけありませんが」
「なにがあったのか聞ける?」
 しばらく言葉をさがした。刑事としてもっとも不都合な瞬間である。地方公務員としての守秘義務。捜査上の都合。関係者としての道義。さまざまな事情から、たとえ身内にも話せないことが多くあるのだった。
 長すぎる沈黙に、彼女のほうが忍耐をきらした。再び深く嘆息する。
「例によって理由は教えてもらえないのね」
「すみません。事件に進展があったんです」ようやくそれだけ搾りだした。「局面が変わったせいで、私の予定にも狂いが生じました。今夜は時間を自由に使えないんです」
「そう」平坦な声だった。「――わかった。私なら大丈夫だから。何となくそんな気もしてたし」
「本当にすみません」
「そのかわり、光司にはしっかり仕事をしてもらいます。絶対に赤ちゃんを見つけて、早奈子さんに返してあげて。可及的速やかに」
 大丈夫だから。心配ないから。二年前から、彼女がよく口にするようになった言葉である。自分がそれを言わせている。そう実感するたび、過去に選択した道の正当性を疑いたくなる。
 夫を失い、彼女がもっとも他人の支えを必要としているとき、和泉は刑事課からの誘いを受けた。かねてからの希望が聞き入れられた結果であった。しかし、話をうければ制服時代とは比較にならないほど勤務時間が不規則になる。千鶴が必要とする瞬間、そばにいてやることが難しくなるのは明白だった。だがそのときも彼女はいった。私は大丈夫。心配しないでいいから。
 気持ちの揺れを気取られまい。本人のそんな努めと裏腹に、千鶴は義弟の迷いを察知したのだった。そして、和泉は刑事課に転属の話を受けた。どこか後ろめたさを感じながら今に至っている。
 ――ふと、耳元でプラスティックのきしむ音がした。その発生源に気づくまで数瞬を要した。受話器のあげる悲鳴である。知らぬうちに関節が白く浮きでるほどの力が指にこもっていたのだった。
 千鶴の声が聞こえてきた。
「本当に気にしなくていいのよ。実はいま、高橋さんが持ってきてくれた写真を見てたところでね。彼女、もう私のうちに来てるの」
 意図的にトーンをあげた、明るい口ぶりである。いまはその厚意に甘えることにした。もう、いらしてるんですか。平静を装いながら、そう返す。支えるべき者に、実は支えられているのではないか。決してはじめてもつ種の疑念ではない。
「城戸さん夫妻が写ってるの、やっぱり何枚かあったのよ。私は旦那さんのほうの顔を知らなかったから、教えてもらってたの」
「――そのことで、ひとつお聞きしたいと思っていたことが」
「なに」
「当時、城戸夫妻の周囲で警察に詳しい人間はいませんでしたか」
「どういうこと?」
「つまり、警察に関心をもつマニアのような人間です。警官にあこがれて資料を集めていたり、警察無線の傍受を趣味にしていたり。あるいは親や兄弟が警官である者、警察組織を取材したことのあるジャーナリストなども含めて、なにか心当たりはありませんか」
「私にはわからないけど……ちょっと待って。彼女に訊いてみる」
 彼女の気配が遠ざかったのが受話器越しにわかった。しばらく待つ。物音がして、再び千鶴の声が流れてきた。
「あのね。それとはちょっと違うかもしれないけど、旦那さん――芳晴さんの知り合いに、本人が警察官だって人がいたみたい。結婚式でも仲人を頼まれてたひとなんですって。詳しい話が聞きたいなら、高橋さんにかわるけど」
 是非そうしてほしい、と告げた。義姉が諒解をしめし、また受話器が置かれる。ふたたび生まれた沈黙のときを、いささか意外に思いながら受け入れていた。もともと空振り覚悟で発した質問だっただけに、この展開は完全な想定外である。
 とはいえ、恐らくその警察関係者は、今度の誘拐とはなんら関係がないのだろう。通常、警官が通うことのできる大学は一校のみ。すなわち、キャリア組の教育機関である警察大学校に限られる。つまりその人物は国大内部の人間ではありえなかったのだ。あったとしてもOBであった、という可能性が精々だろう。城戸夫妻とも登山という共通の趣味を超えた付き合いがあったかは分からない。なんにしても、一〇年後に発生する誘拐事件の犯人像としては考えにくかった。
「――お電話かわりました。高橋です」
 聞こえてきたのは、低く落ち着いた女性の声だった。すこし気だるげな雰囲気があるが、言葉の運びには高い教育と理知が感じられる。
「夜分に申しわけありません。和泉光司と申します」
 簡単な身分と担当業務、千鶴との関係などを添えた。
「今回はなんと申し上げて良いのか、捜査にご協力いただけるそうで」
「私がお役に立てるかはわかりませんが」
「義姉の話によると、高橋さんは学生時代の城戸夫妻と懇意にされていたとのことですが」
「芳晴さんとは学年が違ったのですが、奥さん――早奈子さんとは約三年にわたって同じ大学の同じ学部にいました。彼女の場合、アメリカで学位をとっていましたし、マスターコースのひとだったので学年という意味ではこちらも微妙なんですけど。でも同時期、ワンダーフォーゲル部に在籍しておりましたのは事実です」
「彼らとはどの程度のお付き合いをされていたのでしょう」
「ほとんどは学内だけの付き合いでした。卒業後はOB会で数えるほど会っただけでしょうか」
 質問を投げてから反応が返るまでの時間――いわゆるレスポンスタイムがはやい。打てば響くといった感じだった。
「在学中は、週に一度会う程度でしたね。もともと活発な部ではなかったものですから。どちらかというと山行の一、二週間まえに集中して集うといった形をとっていたように記憶してます」
 ただ、準備不足がときに生命の危険にすらつながる活動であっただけに、短い時間のなかでも育まれるものはあったという。パーティ内での信頼関係は常に重要視されていたらしい。彼女はこれを「凝縮された絆」と表現した。
「――それで、城戸夫妻の交流のあった警察関係者のことですが」
「学外の男性でした」質問されるのを予測していたのかもしれない。そう思わせる速度でこたえが返った。「芳晴さんの古い友人だとかいう話を聞いた覚えがあります」
「ワンゲル部とはなにか関係があったんですか」
「うちのワンゲル部、当時の何年かは特に大変だったんです。ストの影響で開店休業状態だった時期もありまして」
「ストというと、学生運動?」
「ええ。ですから部外の飛び入りを誘ってなんとか体裁を保ってたようなこともあったんです。事実上は部外活動といえたかもしれませんね。登山を趣味とする方との合同企画といった感じでしたから。安全性の面からも、個人でのそうした活動は部の方針として本来は禁じられていたんですが――そうも言っていられない時期でした。とにかく、芳晴さんがその方をよく連れてきてたのは事実です」
「彼の名前は分かりますか。勤務先や階級などは」
「ごめんなさい、もう一〇年も前のことだから。記憶にあるのは、城戸さんたちが在学中、もう警察にいたみたいだってことだけです。だから年齢的には幾つか年上なのかも」
 本人たちに訊けば確実なことが判明するだろう、と彼女はつけくわえた。かなり古くからの友人関係であったようだし、早奈子夫人とも当時からずいぶんと打ち解けた間柄であったのだという。
「その三者の間で、なにか確執や諍いのようなものは?」
 そういった話は聞いたことがない。そう前置きしたうえで、彼女はしばらく沈黙思考した。「学外の方だし、正直なところ仲人さんのことはなにも知らないに等しいんです。だから、うかつなことは言えないんですけど。でも、噂はあったような気がします」
「どんな噂です」
「よくある興味本位の話です。想像というか邪推というか、そんな下世話なものなんですけど。早奈子さん、あのとおり綺麗なひとでしたから。芳晴さんとその仲人さんが取りあってるんじゃないかって」
「ねえ、光司」
 突然、声が義姉のそれと入れかわった。
「このことって、なにか捜査に関係があるの?」
「もうニュースになっているでしょうが、犯行声明が本署に届いたんです。単に声明をだしたいなら、もっと手っ取り早くリスクの小さな手段はいくらでもあります。しかし、送り手はあえて今回のような方法を選んだ」
「そうね。TVでも警察への挑戦だっていってた」
「警察のメンツを潰すのにもっとも効果的な方法はなにか。声明文の送り主は、それを知った人間です。グリコ森永事件と同じだ。あの事件の犯行グループは警察無線を傍受し、県境を越えた広域捜査の不備をついて逃げ切った。警察組織をよく観察、よく研究している」
「ああ、だから――」
「警察に異様な関心を抱く一般人はいるものです。似せて作った制服を通信販売で買ったり、ときにそれを着用して警官そのものとして振舞う者もある。実際、それが露見して逮捕された愛好者もあるくらいです」
「そんな人がいるの」千鶴が感心したように鼻を鳴らした。「じゃあ、今度の誘拐犯もそういうマニア的なひとなのかもね」
「本部はそうした可能性も含めて捜査しています。いま言った偽警官は、制服に夏用と冬用があることを失念していたためにボロがでました。夏に冬用を着てうろついていたところ、本物に職務質問されてしまった。今回の誘拐犯も似たようなミスを犯してくれるよう願いたいところです」
「でも、高橋さんが知ってるのは本物の警察官よ。マニアが騙ってたわけでもないと思うけど」
「彼の写真はありますか?」
 ちょっと待って、という声がかえった。高橋女史に訊ねているのだろう。しばらく間が空いた。
「訊いてみたけど、たぶんあるだろうって。結婚式で仲人してたって言ったでしょう。そのときの分も含めて、学生時代の写真はアルバムごと全部持ってきたそうだから。でも、城戸さんたちならもっと確実に、しかもたくさん保管してるんじゃない?」
「城戸家は我々のほうでも当たってみます。そちらはそちらで探しておいてもらえますか。今度うかがったとき見せてもらえるとありがたい」
「わかった。整理しておく」
 和泉は礼をいい、約束を守れなかった詫びを添えて通話を終えた。意図せず、大量の吐息が口から漏れだした。実際のところ彼女と会えるのはいつになるか。綾瀬の辞表が脳裏に蘇る。あるいは、彼が辞めようというのも似たところに原因があるのかもしれない。警官をつづけることで負担をかける人間があるのかもしれない。
 スポーツ飲料の缶をあけた。中身を一気にあおる。喉を鳴らしながら休憩所の片隅に眼をやった。婦警たちは相変わらずの格好で沈黙している。松下巡査部長をもうひとりが力づけている、といった構図らしい。くず入れに空き缶を放り込み、ふたりの元に歩み寄る。手が届く範囲に近づくまで、彼女たちは和泉の存在に気づかなかった。大丈夫かと一声かけると、松島巡査部長はわずかな間だけ白い面をあげた。すぐに視線を落とす。その背をさすりながら、同僚の婦警が首を左右してみせた。
「彼女、あのくらいの子供がいるんです」
 和泉はうなずいて返した。そんなことを聞いた覚えがある。同じ年頃の子を持つ人間にとって、あれはより衝撃的な光景であったのだろう。そこに県警たちの無慈悲な事情聴取が行われたなら、気の強い女性でも憔悴する。刑事は身内が相手であっても追及の手をゆるめることはない。
「彼女をよろしく頼みます。話をきくにしても、なるべく時間をおいてからにするよう上にかけあってみますので」
 松島巡査部長にかわって同僚の婦警が礼をいった。会釈をのこして彼女たちのもとを離れる。廊下にでて自室のほうへ歩きだすと、すぐに背後から呼びとめられた。聞き覚えのある声に振りむく。
「綾瀬警部補はどこか知りませんかね」
 今朝、車の後部座席にのせた県警の片割れだった。
「知りませんね」
「そうか。――まあ、それはいい」
 彼はさりげなく周囲をみまわし、人影がないことを確認すると和泉に一歩寄った。最初から綾瀬の居所などどうでも良かったのだろう。話のきっかけとしたに過ぎない。そういう人間の仕草だった。
「あれから彼の様子はどうだっただろうか」彼がいった。
 静かに相手を見つめかえす。
「なぜそんなことを報告する必要があるんでしょう」
 平静を保っているのは首から上と声だけだった。体内を循環する大量の血液が、その流速をにわかにあげたような感覚がある。手のなかに電話があれば、間違いなくまた軋み音をたてただろう。自分でも理由はわからなかった。産着の小ささに衝撃を受けたからか。母親の虚ろな表情を見たからか。義姉との約束をこの数日のうちに幾度も反故にしてしまったからか。綾瀬が辞表を出すことを知ったからか。それでなお、過去の諍いを持ちだして陰湿な嫌がらせを続けようとする者たちのせいか。わからない。しかし、疲れきっていたはずの身体が熱を帯びている。
「どうして彼は今のような位置にいると思う」和泉の変調に気づいたようすもなく、県警の男がいった。「仮にも本隊の警部補だった人間が、だ」
「私には見当もつかない話ですね」
 彼はもう一度周囲をうかがい、人気がないことを確認した。それでも声量を絞り、トーンを落としながらいう。
「なにも政界がらみのネタに首を突っ込んだ、などという格好のつくものじゃないんだよ。ただ、あの男は経理について口を開きすぎた。それだけのことだ。刑事ドラマのネタにもならん話だよ」
 いっている意味は理解できるな。そう問うような視線が和泉にむけられる。
 意味は理解できた。不正経理。参考人呼出簿のでっちあげ。偽造領収書の作成。誰にでもわかる。恐らく国内の全警察官が知りながら、長年にわたって眼をそむけ続けてきたことだった。一種の禁忌である。
 それは和泉の経験上、他課の係長クラスに声をかけられることからはじまる。大抵、狙われるのは事情を知らない若手。あるいは上にいくため、なりふり構っていられない人間たちであった。場所としては食堂や休憩所など、ある程度くつろいだ空間が選ばれやすい。
 ――きみはしばらくご無沙汰だっただろう。お互い気持ちのいいものではないが、そろそろ一筆頼むよ。
 愛想笑いとともに差し出される紙片は、架空の領収書である。
 参考人を署に呼び出して事情聴取すると、警察には手当の支払い義務が発生する。取り調べに応じた市民は、その拘束時間や移動距離に応じて日当や交通費を受けとることができるのだ。しかし一般人の多くはそうした制度自体をしらず、知っていても警官が申し出なければ自ら求めてくるようなことはしない。警察はそうした現実や制度の穴を最大限に活用し、裏金をつくってきた。
 制度の存在を伏せて支払いを回避。あるいは、電話帳から名前を拝借して架空の参考人を創造。公金を着服。いずれも古くから日常的に行われてきたことである。あまりに日常風景に溶け込みすぎ、罪悪感すら薄れていく。そんな種の行為だった。
 警察もな、結局は営業職なのよ。それが、このシステムを生みだした者たちの言い分である。和泉が実際、その耳で聞いた言葉でもあった。
 ――上の人間が来りゃ、接待。県警が出張ってくれば酒盛り。ネタ元には情報と引き換えに見返りをだす。必要なことだが、書類にしちゃうと業務と関係のないただの飲食費でしょ。捜査費用として請求なんぞできない。しても金はおりない。だから、こうして金つくらなきゃならんのよ。
「市民グループは税金泥棒だの公金横領だのいうがね」
 眼の前の男が、そっくり同じような調子でいった。
「それは見方が偏りすぎているというものだ。軽度のスピード違反と同じだよ。法定速度を多少逸脱した速度を出さないと、逆に道路が混雑して危険なことがある。だから五キロ前後の違反では交通課もうるさくは言わない。ルールからは外れたことかもしれないが、必要だから黙認されているという事柄は世に多くある」
「経理の問題もその一例に過ぎないと?」
「そういうことだ。実際、きみも身に覚えのあることだろう。納得はできないまでも、妥協すべき線だと思ったからこそサインに協力してきた。そうではないのか」
 質問の形をとってはいたが、返答を求めたものではなかった。聞くまでもない。答えなど決まりきっている。そう考えていることを如実にしめす笑みが、彼の口元に浮かんでいた。己の優位を疑わない者の表情であった。
「人間を相手にする商売だ。ものを贈って、酒飲ませて、そうやって雰囲気と信頼関係をつくった上でないと仕事ができないこともある。だからシステムとして生きつづけてきた。綾瀬は、そうした事情を無視して安い正義感に飛びついたわけだ。組織の一員であるという自覚を欠き、警察をいわば裏切る行為に走った」
 それに対して上層部がとった処置は容易に想像できる。内規を利用しての吊しあげ。警察組織の常套手段である。殺人容疑のかかった人間を交通違反などの別件で捕らえ、強引に取調室へ引っ張り込む。やり方は同じだ。綾瀬の場合は、ほかの些細な規則違反をあげつらわれ、あるいは捏造され、それを根拠として所轄に飛ばされたのだろう。
「経理について不用意な口を開いたものがどうなるか。綾瀬警部補は、その実例として残された。そういうことですか」和泉はいった。「本部で将来を嘱望されていた人間でもただでは済まない。そういう話を浸透させることで不穏分子を牽制する。違うだろうか?」
「それだけでは片付かんよ。飛ばされたあとも監視下におかれる。部下が揉め事を持ちこむのを極端に嫌う人間のもとに配置される。そうした上で、首に鈴をつけておく」
「そこで私に白羽の矢がたった」
「その通りだ。我々はその役割をきみに期待している。行確のつもりで彼についていてもらいたい。そう思っている。もちろん、相応の見返りは期待できる話だよ」
「お断りします」
 想定していなかった反応だったのだろう。そのために経理の話を持ちだしたのだ。これにまさる圧力はない。そういった計算があったはずである。
 彼は面食らったように眼を瞬いた。が、すぐにその動揺も消える。
「これは上からの指示だ。君の意思は関係がない。それが分からないわけでもないだろう?」
「そんなことよりもっと解せないことがある。私が知るかぎり、警官を恐れる者は犯罪者のなかに多いのです。綾瀬今日也は警官だ。貴方がたもそうなら、なぜ過剰なまでに彼を警戒するんです。正しいことをやっていると信じるなら、そんな必要はない」
「解せないのはこちらも同じだ」紫煙を吐くように、彼は深く嘆息した。「なぜそうまでして彼の肩をもつ。私はただ本部の意向で動いているだけだ。県警察の総意にしたがって綾瀬警部補の動向に気をつかっているに過ぎない。それに背を向けてまで綾瀬に与することになんの意義がある」
「――私の質問には答えていただけないようだ」右足を軽く後ろに引き、それを軸にして身体を反転させた。「刑事が刑事の監視など聞いたこともない。どうしてもというなら監査の正式な手続きを踏まれてやるといい」
「きみは彼の下についたことで毒されたようだな。上の意向に従わないというなら、綾瀬と同様、相応の覚悟がいると思うが?」
 沈黙でこたえた。そのまま歩きはじめる。綾瀬を探す必要があった。探しだし、話を聞かねばならない。問題はすでに彼だけのものではなかった。
 せいぜい後悔しないことだ。背後から言葉が浴びせられた。


 11

 刑事課や給湯室に綾瀬の姿はなかった。時計をみれば、すでに日付がかわっている。一瞬、帰宅した可能性を考えた。彼は独身者だが、寮外でのひとり住まいを許されている。かつての綾瀬には病床の母親がおり、彼女の介護を理由に借家暮らしが認められたのだった。その母親とも他界して久しいはずだが、彼は未だに転居を考えるつもりがないらしい。そのアパートは逗子にあると聞いていた。
 帰宅の確認は電話で行えることだったが、かわりに地下へおりた。綾瀬は署内に残っているだろう。そのような予感がある。
 地下は普段を考えれば極めて騒々しかった。廊下を行きかう人間があとを絶たない。恐らくは城戸夫妻を迎えいれる準備のためだろう。検屍が終われば、子どもの亡骸は地下の小部屋に運び込まれる。司法解剖にまわされるまえに、そこで両親による身元の確認が行われるはずだった。彼らの証言がなくとも指紋で明らかになることだが、警察は確認手段が複数ある場合、そのすべてを試す。
 人の流れに逆らって歩いた。食堂に近づいたとき、出入口からかすかに光が漏れだしているのがみえた。営業時間はとうの昔に終わっている。明日の仕込みをするにも早い。ガラス張りのドアに寄り、なかを覗きこんだ。奥の一角にだけ蛍光灯がともされていた。感覚としてスポットライトにちかい。その空間だけ闇に浮かびあがっている。
 ドアを押しあけ、足を踏みいれた。光の下には男がいた。スーツの背中を入口側にむけ、椅子に腰を落としている。テーブルにはプラスティック製のコーヒーカップが置かれていた。
「以前、知人から無理に本を読まされたことがあるんです」
 先客の隣席に近づき、ゆるやかに言葉を紡いだ。
「機械の助けがなければ生きていけない少女が主人公で――奇妙な話でした」
 綾瀬は顔を上げ、そして戻した。彼の正面には地下でありながら外を覗ける窓がある。視線はそこに置かれていた。同じ方向へ眼をむけながら、和泉はつづけた。
「いわゆるサイエンス・フィクションというやつだった。彼女は脳を取り出され、船の制御系に接続されるんです。彼女が船を管理する。考えるだけであらゆる部分を操作できる。だから主人公にとって、船体そのものが自分の身体だということになる。とはいえ、中身は普通の少女です。精神的な問題を抱えることもあった」
 船となった少女は、トラブルで親しい乗員を失う。そりの合わない相棒に腹を立て、また別のときは恋愛を経験する。生きることに疲れ果てた同種の船と出会い、衝撃をうけることもあった。
「航海は危険のともなう、基本的には厳しいものです。歓びもあるが、苦痛や挫折を味わうことのほうが多い。それでも、彼女はその仕事を究極的には楽しんでやる」
「それが――?」
 静かな声がした。綾瀬の目線は、窓の外に固定されたまま動いていない。風景は夜闇に黒く塗りつぶされていた。
「彼女には劣等感がなかった。自分の身体がふつうの人間とは大きく違うことを問題視することがなかった。むしろ、誇りにさえ思っていた。だから、つづけられた。特異な立場に置かれた人間が意志を通しつづけるためには、彼女と同じものがいる。物語の外の世界でもそれは変わらない」
 沈黙がおりた。ほぼ同時に、蛍光灯が痙攣するように瞬きはじめた。点灯していた二本のうち、片方が唐突に力尽きる。古ぼけた生き残りも、既に照明としての役割を半ばも真っ当しきれていない。綾瀬の姿が薄闇に沈んだ。
 それを待っていたかのように、静寂が破られた。
「俺がもっと若かったころ――まだ本部にいたときの話だ」
 独り言をつぶやくように、綾瀬がいった。
「ある卒配の新人が厚木の警ら課にまわされた。俺が近所に住んでいることを知って、家に押しかけてきたことのある子だった。警官になりたい。心得を教えてくれ。そういわれて、少し世話をしたことのある相手だった」
 暗がりのなか、綾瀬の手元で物音がした。なにかヴィニル製の包装が破りとられるようなざわめきである。いくらかの間を置き、綾瀬の顔が光で浮きあがった。口元には煙草がくわえられ、右手につままれたマッチは先端が黄色くゆらめいていた。
「一年ちかく経ったときだった」綾瀬がいった。「その新人が青い顔をして飛んできた。話をきくと、架空の領収書にサインをしてしまった、という。刑事課古参の主任に頼まれた。なんのことか分からず、いわれるままに書いた。あとで先輩に教えられて、それがなんだか知った。必死の形相だったよ。大変なことをしてしまった気がする。これは犯罪ではないのか。自分はどうしたらいいのか。ほとんど涙声でうったえていた」
 闇の中で、煙草の赤い光だけが蛍のようにゆれ動く。聞こえてくる低い声は、その光そのものが発しているようにも思えた。
「知ってのとおり、領収書のでっちあげは当たり前に行われてることだ。送致権をもっている部署なら、本店でも支店でも例外なくやってる。日常的な光景になりすぎて、多くの人間からは罪悪感すら薄れてしまってる始末だ。――それでも新人時代は、誰しもがその実態に疑問をおぼえる。能天気にそれを上にぶつけさえする。だが、その上司に必要悪だと断言されれば黙るしかない」
 俺もそうだった。彼は穏やかな声で認めた。
「確かに一理ないこともないからな。今回の捜査本部をみてもわかる。設営や維持にかかる費用はすべて所轄もちだが、それらが必要経費として上から降ってくるわけじゃない。署員の積立金を崩し、それでも足りない分は無理にでもひねり出すしかない。そのために裏でやりくりする。いざという時にそなえた主婦のへそくりみたいなもんだ。そう考えれば妥協もしやすい。自分にいい訳がたつ。多くの場合、幹部たちの酒代に消えているのが現実であったとしても」
 赤い光が大きく動き、蛍光灯から降る明りが吐きだされた紫煙を照らしだした。遠くで小刻みな足音が鳴りひびく。それが止むと、調理場から聞こえてくる業務用機器の駆動音だけが場に残った。
 つぶやくような声が聞こえてくる。
「必要悪。自分にいい聞かせながらやってきたことだ。だが、高校を出たばかりの坊主が泣きながら駆け込んでくる。これが自分の志した警察の実態なのか。社会に貢献できる仕事ではなかったのか。その年代ならではの真っすぐな言葉で問われる」
 俺はこたえられなかったよ。囁くようにいい、綾瀬は小さく息をついた。自嘲するような薄い笑みが口元だけにうかぶ。それが気配でわかったような気がした。
「本当に必要だと信じるなら、なにも知らない新人を利用するのはなぜだ。確信犯として自分の手を使えばいい。逆らえない人間を選んで話をもちかける必要などない。だが、上はそれをやっている。正しいことといいながら平然と他人を巻き込み、共犯者意識をうえつけて口を封じている。必要悪の一言では到底かたづけられないものを、俺はその新人の姿に見せられた気がした」
「――それで、告発を?」
「そんな立派なものじゃない。次の日、厚木にいって警ら犯課長とあった。本部に帰って、彼に言ったことを同じように自分の周囲でもくり返した。それだけだ」
 だが、相手の反応はそれを黙して拝聴とはいかなかったはずだ。そうでなければ県警にみられる今の態度はありえない。綾瀬がこの場にいることもない。彼に眼をむけ、無言でそれを指摘する。
「まあ、相応の波紋はもたらされたようだったな」
 綾瀬は認めた。内部告発という形で外に漏らしたわけでも、マスコミにリークしたわけでもないんだが。そういってつづける。
「それでも経理の話は禁忌のひとつだった。やってることは、コソ泥同然のせこい公金横領だがな。しかし、本庁や察庁を含めて成立している組織としての犯罪なんだ。それについて騒ぎはじめた人間を放置というわけにもいかない。すぐ上司から呼び出されたし、何日かすると監視がつくようになった。作る書類の量が増えもしたな。若手に任される種類の仕事が俺のところにも入ってくるようになった。二、三週間すると例の新人からも電話がかかってきた。硬い声で余計なことはしないでほしい、といわれたよ。自分まで巻き込まれる。もうこの話に関わるのはご免だ、といっていた」
「しかし」思わず口をだしていた。「それは外から――」
「圧力がかかったんだろうな。しかし、俺のやり方もまずかった。近い筋の人間が調べられることまで計算にいれるべきだった。上から締め付けられれば変わってしまう人間性があることを考慮しておくべきだった。その電話で聞いた声は、まるきり別人みたいだったよ。立派すぎる上司など迷惑なだけ。組織のなかでもっと器用に振舞える人間が自分には必要なのだといっていた。抑揚のない、押し殺したような口ぶりだった」
 狙った者に圧力をかけることに関して、たしかに警察は極めて秀でている。「これを口外すれば大変な事態に発展するのではないか」。そういった漠然とした不安感の植えつけ。組織に背を向けるリスクの強調。
 警官を作る、というのは組織に逆らえない人間を作ることと同義なのだった。管区学校が訓練生にまず徹底して叩き込むのは精神教育にほかならない。
 いかにも刑事が考えそうなことだわ。城戸祥平を発見した婦警の言葉である。和泉に直接向けられたものだった。似た台詞は、様々な知人の口から聞かされてきた。そしてはじめて気づく。いつのまにか自分の頭には、警官としての思考が染み付いてしまっているのではないか。
 それを振り払うことは容易でない。また、そうしようとした者については外部からの強力な圧力がかけられる。狂人の集団のなかで唯一、正気に目覚めた人間は――だが周囲から異常心理の持ち主と断定される。綾瀬が語っているのはまさにその実例であった。
「それからしばらくして、また上司に呼び出された。小部屋には見慣れない背広が課長と立っていた。俺がネタ元に差し入れをわたしたことが問題になっている、という。警察官として不適切な人間関係なんだそうだ。それで監視が強まった。目に付く場所に見張りがたち、外では尾行がついた。取調べで俺から激しい暴力をうけ、自白を強要されたといいだす被疑者もでてきた。押収品の一部が紛失し、なぜか俺のロッカーから見つかった。そうして査問にかけるだけの充分な根拠が作られていった」
「それで――」乾燥のためか言葉が喉につかえる。間をおいて言いなおした。「それで、ここへ異動に?」
「それでここに異動がきまった」
 それも交通や警らではない。送致権をもち、偽造領収書と縁の深い刑事課である。あくまで偽造に加担せよ。そうした上からの強要が誰の眼にもみえる人事であった。加えて、そこには不穏分子を極端に嫌う性質の課長がおり、そして綾瀬よりキャリアの浅いものが係長席に就いている。
「なぜ、つづけてきたんです」
 赤い光が灰皿に押し付けられて消えた。再びマッチの炎が周囲を照らしだす。深く息をはく音が聞こえた。
「お前さんのいう船とは違って、俺には先がなかった」
 ずいぶんしてから、彼がいった。老兵は人知れず消えていくのみだ。そうつづけられる。
「とはいえ、その前にやれることがあった」
「やれること?」
「無形の財を示す言葉は常に使い古されてる。はがし忘れたカレンダーみたいなもんだ。年が変わるたびに見向きもされなくなる。挙句、だんだん色褪せていく。とはいえ、悪しき慣習が残りつづけるんだ。別のものが少しくらい引き継がれても悪くはないだろう」
「どういうことです」
「ただの詩稿だよ。ここで腐心して練り上げてたやつだ。構想段階では、これでも佳詩になりそうな予感を持っていたんだが」
 そこで言葉をきると、「来たぞ」とつぶやき、綾瀬は立ちあがった。なにが、と問いかえすより早く身体を反転させる。怪訝に思いながらその視線の先を追った。
 入口まえを横切っていくスーツ姿があった。見覚えのない男である。恐らく県警のスタッフだろう。が、綾瀬の関心は別にある。男の後ろに二人の男女がつづこうとしていた。寄り添い、男が女を支えるような構図でゆっくりと通り過ぎていく。こちらの横顔には、いずれも心当たりがある。
 城戸夫妻だった。


  12

 子どもは城戸祥平であると断定された。
 その報告が和泉の耳に届いたのは半時間後であった。呼び出しがかかり、現場で死体発見当時の状況を再現説明させられていた最中である。
 両親の遺体確認で確定となった。指紋の照合結果からも間違いない。そのような知らせであった。死亡推定時刻は不明。死因は頭部の強打と推定されるという。目立った外傷がないため脳挫傷ではないか、とのことだった。行われたのは簡単な検屍に過ぎない。機械の故障原因を外から眺めて推測するに近しい検分である。分解して正確なことを突き止めるのは、法医学教室の仕事であった。司法解剖である。はっきりしたことはこの段階で明らかになるだろうが、日が昇り大学が開いてからの話になる。
 和泉が実況検分から開放されたのは午前四時すぎである。その後、さらに一時間半を費やして報告書を作成した。ようやく床についたときは朝日が顔をだしていた。
 二時間の仮眠をとり、七時半に起きた。着替え、シャワー室にむかって頭に熱湯を降らせた。普段ならこれで大方の眠気を払えるはずである。が、この日は別だった。最終手段として冷水を浴び、重いまぶたを何とかこじ開ける。この手段が必要になること自体が一種の前兆であった。あと一日徹夜が続いたら、強制的な眠りにはいらざるを得ない。肉体からの無言の予告である。
 浴室からでた廊下で、背後から声がかかった。
「和泉。お前、もうメシは食ったか」
 振りむくと、珍しい姿があった。となりに四〇がらみの女性を従えた係長の長身である。女性の顔には見覚えがあった。記憶がたしかなら係長の細君である。新年の挨拶回りで訪ねた際、手の込んだ雑煮を出してくれたのを覚えていた。あれから一〇ヵ月経つが、今年もっとも味の良かった料理のひとつとしてその地位を保持しつづけている。
「食事はこれからですが」
 和泉がこたえると、係長が夫人に手を伸ばした。彼女が抱えていたタッパウェアをわたす。バケツリレーのような要領で、それが和泉の眼前へ突きだされた。
「こいつが」といって隣の夫人を一瞥する。「着替えのついでに持ってきたんだが、洒落っ気だしてサンドウィッチなぞこさえやがったのよ。凝るのはいいが、いつも明後日のほうへいくから困る」
「こさえてきやがったとは、失礼な言いかただと思いません?」
 夫人が口周りの笑いじわを深める。同意を求めるような眼が和泉にむけられた。
「たまには変化があったほうが良いかと思って、ひとが丹精込めて作ったのに。そもそも、単なるサンドウィッチじゃなくてクラブハウスサンドよ。それ」
「なんであろうと、こういう若いもんむきのは合わん。スカスカしてて食った気にならんのよ」
「こういってるけど――」夫人はおどけたように両の眉をうごかした。「本当は、子どもみたいにチーズが食べられないの」
 彼女のように、着替えや差し入れを届けるため署に顔をだす女性は多い。古参の妻ともなると新人より課内の事情に通じていることがある。若手から、上官に対するような敬意を集める女性も珍しくなかった。彼女たちも彼らを息子のようにかわいがる。
 対照的なのは新妻であった。彼女たちは、たびたび宴会の笑い話を残すことさえある。勝手が分からず、着替えにバスローブを持ってきた娘については古くから課で語り継がれていた。
 女房の質が警官としてのキャリアをものがたる。そうした側面は、決して皆無ではない。
 ――千鶴が署を訪れたことはなかった。一度もない。頼めるわけもない。
「一緒に、課長へ密告してやりませんか」和泉はいった。「ドーナツやサンドウィッチの類が好きなんです。係長が洋食を罵倒していたと聞いたら、激怒して停職処分にしてくれますよ。家にいる間は、たまっていた雑用、力仕事、なんでも存分にやらせるといい」
「よけいなことは吹き込まんでくれ」係長がさえぎった。「署から子どもが出てきたってんで、勝手に歩き回ろうとするようなやつなのよ。お前に挨拶しておきたいからとか言ってたが、俺について来たのだって目的は別にあったに決まってる。のせると本当に停職ものの騒ぎを起こしかねん」
「まってください。その、子どもが出てきたというのは――」
「俺が喋ったんじゃないぞ。もうニュースになってるようだ」
 係長が夫人に視線を送る。彼女はうなずいて認めた。断定的な報道ではなかったが、TVにおける一部の早朝ニュースで確かに扱われたらしい。「署内から被害者発見か」といったニュアンスで伝えられたのだという。
「で、その件でな」係長が表情をひきしめながらいった。「捜査会議のまえに課員だけを集めてね、ちょっとしたミーティングやりたいらしいんだよ」
「要するに朝礼でしょう」
「朝礼なら終わった。そのあとのことだよ。どうも、吉岡さんも呼んでるらしい」
 その名前には聞き覚えがあった。鑑識の係長である。
「ちょっとした捜査会議になりそうですね」
「県警ぬきの、内輪版だな。とにかく、それ部屋に置いたらすぐ講堂にこい」
「何時からなんです?」
「全員集まった時点ではじめるよ。そもそも、職員全員が七時半にいっぺん集合させられたんだ。署長が特別に訓示たれたいってんで、直々にお出ましになったんだぞ。参加してないのはお前だけだよ」
 和泉は、遺体の発見者として一晩じゅう検分で拘束されていた。そのために連絡がいかなかったのだという。
「顔出せなかったんでお前は知らんだろうが、昨夜も各課で緊急会議がひらかれたんだ。子どもが出てきてから、どこでもそうだよ。いまもお偉いさん方は集まってなんかやってるらしい」
「わかりました。五分でいきます」
「三分だ」
「では、三分で」それからクラブサンドのタッパを夫人に掲げてみせた。「これ、ありがたくいただきます」
「容れ物は返さなくていいから。そのかわり、今度おあいしたとき感想を聞かせてね」
 約束する、と返答して部屋に戻った。
 スタッフを集めての朝礼、引継ぎ時の申し送りなどは警察でも極めて日常的なものである。そのあたりは一般省庁や企業と変わりがない。しかし今朝のそれは普段と違ったものになったのだろう。署長が出てきたがる理由もわかった。寮の冷蔵庫から男児の死体が出てきた――。根拠はそれで充分である。幹部は眠れない夜を過ごしたに違いなかった。単に運の問題だが、経歴に消えない汚点が刻まれたのである。挽回の手段は、被疑者の早期検挙しかありえない。兵隊たちに発破をかけたくもなるはずであった。
 猶予は三分。部屋のドアをしめるや、新型の電気ポットを利用してインスタントコーヒーをいれた。室内唯一の贅沢品である。湯は既に沸いていたため時間はかからなかった。一口すする。
 それから、係長夫人にもらった容器をひらいた。なかを見た瞬間、ふたをもった手が思わずとまる。まるでなにかのパズルだった。どれだけ詰め込めるかに挑戦、といった具合である。サンドウィッチのすし詰めを見るのは初めてだった。
 苦労してひとつ摘み上げ、齧りつく。驚くべきことに本物の七面鳥が使われていた。歯ごたえのよいレタスが水気を弾けさせる。チーズの香りとトマトの酸味が口のなかにひろがった。それらをコーヒーで流し込む。もうふた切れ手にとって、それらを齧りながら部屋をでた。
 講堂は多目的ホールの別称である。署内でもっとも大きな部屋のひとつで、もっとも外部の人間に対して開かれた空間でもある。ここ数日は記者会見の場としても活用されていた。
 和泉がドアを開けたとき、室内には一〇人前後の男たちがそろっていた。大田刑事課長、強行盗犯係長、綾瀬などを含め刑事課の面々が顔をそろえている。全員が窓際の一角に固まって立っていた。
「なにをやっていた。新入りなら慎ましく行動できんのか」
 課長が彼一流の挨拶をなげかけてくる。謝罪のことばと微笑とで受けながし、同僚たちとも簡単に声をかけあった。
「これで全員かね。課長、はじめましょうや」
 係長の言葉に、大田課長は鼻を鳴らすような声で応じる。課員たちの顔を見回し重々しく口を開いた。
「なんども言われていることだが、昨夜、本署独身寮の一室から誘拐されていた男児の死体がみつかった。我々はこの事実を極めて重く受けとめる必要がある。もちろん、各位そうした認識は充分にあると思うが、それを確固たるものにするため朝の忙しい時間帯にこうした場を設けた。個々がその意味をよく考えたうえで、しばらくつきあって欲しい」
 一気にいいきり、かたわらに目配せがされた。うなずき返したのは一見してベテランと分かる胡麻塩頭の男だった。あちこちに染みのある薄汚れたトレイナーに、安物のジャケットを羽織っている。警官には相応の雰囲気が感じられるものだが、彼は別だった。吉岡隆昌。本署刑事課鑑識係の長である。城戸祥平の検死を担当した者のひとりでもあった。
「とりあえず、そうだな」彼は咳払いをはさんでつづけた。「なんでもいいから質問してくれませんかね。それに本職が答えていくということで」
 即座に「死因」という短い質問があがる。吉岡は「特定には至らなかった」とかえした。
「左側頭部を強打したのではないか、というのが現時点では有力な線ですな。とはいっても、外表所見に致命傷と断定できるものが見つかったわけではなくてね」
 目立ったものといえば少量の鼻血のみであったという。これが頭部を強く打ったのではないか、という推論につながったらしい。「単なる勘なのだが」と前置きした上で、彼はつづけた。どうも、首も傷めていたようにも感じた、という。
「首なんて分かるの?」知能暴力犯係の主任が軽く首をかたむける。「軽めのムチウチとかだと、医者でさえ患者の自己申告を信じるしかないとかいうけど」
「明らかに折れてるとかだと分かりますな。しかし、今回のはそこまで派手じゃない。だから勘、ということで」
「頭部の強打だとして凶器は?」
 綾瀬が問いかけた。みずからすぐに「地面か」と言い添える。吉岡の視線がちらりと綾瀬をむき、その口元に微笑をうかべた。
「外傷にも種類があってね。鈍器で殴られたものと、転んで打ったものとでは特徴が違ってくる。これは開けてみないとはっきりしたことは分からんのだけどね。まあ、普通は骨や脳の傷つきかたが違う。今回のケースだと――外から見たかぎり――もしかしたら転んだ感じに近いのかな、とは思ったね」
 転倒により、頭部を強打して死亡。これはパターンとして珍しくはない。だが、赤ん坊はその限りにないだろう。吉岡は補足的にそう指摘した。乳児は座るのが精々であり、その状態で倒れこんでも致命傷に至ることはまずない。あるとすれば、テーブルの角や尖った積み木にぶつけたときだろう、と結ばれる。
「しかし、そういう鋭角なものにぶつかったなら、わりとはっきりした外傷が残るのでは?」後ろのほうから声が飛んだ。
 吉岡がうなずく。「そう。だから、今回のケースはそれとはすこし違うかもしれない。でかいフライパンみたいな平たいもので殴られたか。もしくは、もちあげられて頭から落とされたか」
「死亡推定時刻のほうはどうか」大田課長が仏頂面で問う。「特定はできなかったと聞いたような覚えがあるがね」
「これはもう、検死だけでは完全にお手上げですな。冷凍室に放り込んであったから、常識的な公式がまったく当てはまらない。開いても正確な絞込みは難しいかもしれませんな。ミルクしか飲まない人間なんで、胃の内容物がうんたらという考え方も通常よりむずかしい」
 ただ、明らかなこともあるという。ひとつは、別の場所で殺されて運び込まれたこと。死んでから動かされるまで何時間か経っていたこと。そして、一度地中に埋められたことである。
「埋められた?」課長があごの贅肉をゆらして吉岡に眼をむけた。
「あとで払うなり拭うなりしたんでしょうが、取り切れなかった土や泥がいろんなところからボロボロ出てきてる。耳、口内、爪のあいだ。衣服からも検出されてますな。それをピンセットやらでいちいち掻き出してね。えらい時間がかかりましたわ」
 これは土の上で転がした、といった程度の付着ではないという。相当量の土砂を塗さなければ同じような状態にはならない。土葬、埋葬といったイメージが近しいのではないか。それが吉岡の主張であった。
「その成分やふくまれる微生物の種類から、どこの土かは特定できるだろうか」
 綾瀬のその問いに吉岡が無精ひげを撫でる。しばらくして、可能だろうと答えた。ただし、と即座にいい加えられる。ある程度の時間がかかることは覚悟する必要があるだろう。
「それから、これは大きいと思うんですがね。赤ん坊の遺体の一部から、城戸家の誰のものでもない指紋が検出された」
 瞬間、全員の視線が吉岡に集まる。
「そりゃ、間違いないの?」
 しばしの沈黙を挟み、係長が眼を細めながらいった。
「たしか、殺された日は風呂に入ってたはずだろう」
 城戸祥平を入浴させるのは父親の仕事であった。事件当夜も例外でなかったことは、初期の捜査会議で報告されていた。父親は帰宅後、いつもとほぼ同じ二一時頃に息子と入浴をすませている。同日、祥平少年は家族以外の者と接触していない。したがってその身体に指紋をつけられる人物は絞られる。具体的には、旅行中の祖父母をのぞく三人の家族のみだった。父、母、そして二歳の姉である。
「あと一〇分もしたら本部の捜査会議で話がでるんでしょうがね」
 講堂の壁掛け時計を一瞥して吉岡が口をひらいた。
「第三者の指紋はひとりぶん。とくに右の親指だと思われるものは状態がよかった。状況からまず犯人のものに間違いない」
 すでに照会にまわしてあるため、前科があればすぐに個人が特定できるはずだという。近年はコンピュータが高速化してきているため時間はかからない。すでに上層部には検索結果が報告されているかもしれなかった。
「しかし、どうも収まりが悪いというか。バランスがおかしい」
 誰かの囁きがきこえた。それは和泉の考えとも完全に同調している。犯行声明しかり、署への死体遺棄しかり――これまで犯人のやり口には高度な計画性がうかがえた。そこにきて、今回の不用意とも思える指紋である。遺体に埋められた形跡があるというのも分からない。なにか、ちぐはぐな印象を拭えないのだった。
 今回のようなケースに限らず、どんな現場からでも解釈に困るようなものが一つは見つかる。事件当時、その場に居合わせた者にしか説明しきれない事がら。取調べなどはこれを基本に進められるといっていい。話をしているうち、「こいつは知っているな」という感覚が得られればそれは有力な容疑者となるのだった。
 指紋や土の件は、そうしたキィポイントになるかもしれない。そんな予感があった。
「犯人は複数かもしれんな」
 ぽつりとつぶやく声がする。みると、係長が眉間にしわをよせていた。根拠を問う声に、彼は一瞬の思考時間をはさんで語りはじめる。
「最初からそうする予定だったかは知らんがね。とにかく、犯人グループの誰かが死体をどこかに埋めた。ところが、それじゃまずいと考えたグループの誰かが掘り起こした。なにかトラブルが生じたんだろう。計画通り進めたがる人間と、変更したがる人間で割れたのかもな。埋めて、出して、ここまで運んできた」
「仲間われや計画の急な変更で死体の遺棄場所が変わったと?」
 知能暴力犯係のほうから声があがった。口ぶりからすると係長の説に懐疑的な立場の捜査員らしい。彼はつづく言葉でそれを裏付けた。
「例の声明文に、被害者は凍餓の荒野に葬られる――とかいう既述があったでしょう。冷蔵庫のなかから被害者が出てきたこともあって、その部分は遺棄場所を暗示したものだったのではないか、という意見も一部からあがっている。つまり、やはりあれは本ボシからのものだった、ということですな」
「仮説としては面白いですが」和泉は慎重に口を開いた。「実際はどうだろうか。死体が放置された場所なら、どこでも荒涼とした寒々しい光景にみえてくる。凍餓の荒野という抽象的な表現は、いわば必ず現場の状況と合致するものだともいえます」
「どっちにしても」暴力知能犯の係長が諌めるような口調で割って入った。「もし複数犯なら、本部の主力路線が消える。愛人との痴情がもつれたって話なら、その愛人の単独犯だろう。共犯者の存在はケースとして考えにくい」
「そちらのほうはどうなのだ」課長が睨めるような視線を発言者にむけた。「父親と秘書とが有力視されていたようだが」
 あの線は駄目ですよ。すぐにため息交じりの声がかえった。そのような噂があったが、彼らに特別な関係があったという事実は出てきていないという。捜査本部が当初からもっとも力をいれて突っ込んできた話だ。現時点でなにもでないということは、恐らく本当になにもなかったのだろう。そもそも秘書は事件当夜、千葉に出張していた。向こうの友人と遅くまで飲んでおり、現場不在証明がはっきりとしている。
「となると、あとは不審者の目撃情報だけか」
 係長のつぶやきに、吉岡の眉が動く。「そんなのもあるの?」
「いやね、城戸家のちかくに更地があるんだわ。その周りによく車が止まってるらしくてね。客が来たときに付近住人がそこを勧めてるらしいんだが」
 事件当日も、クリーム色の小型車が停められていたという証言があった。やはり、早い時期から本部に持ち込まれた情報である。ただし、その車両が止まっていたのは日暮れ前の限られた時間帯のみ。城戸祥平が連れ去られる何時間も前に走り去っている。本部では人員をさき、よくそこに停められる車をすべて洗いなおしているらしい。しかしナンバーまで明らかになっているものは少数で、いまだ半分ほどしか特定には至っていないようだった。
 ――よくない兆候だった。同じことを考えがあるのだろう。自然と誰もが口を噤み、場に重い沈黙がおりる。
 捜査本部が設置される事件は、ほとんどの場合が早期解決という形で決着がつくものだった。初動捜査の結果から大まかな方針を決定し、そこに大量の人員をつぎ込んで一気に検挙にこぎつける。これが常道なのである。逆に、明確な捜査方針をたてられず長期化するようだと迷宮入りの可能性が高くなってくる。新しい情報がはいるたび犯人像が明確になってくれば問題はない。今回は逆であった。時が進むにつれ混迷の度合いが深まっていく。
「とりあえず、現状はこんなところだ」
 大田課長の低い声が静寂をやぶった。
「話はすでに単なる未成年者略取ではない。殺人に至った。しかも被害者は乳児だ。これがどういうことか? 分かりきっている。被疑者を挙げられなければ、我々は警察官を名乗る資格を失うということだ」
 課長は一気にまくしたてると、そこで言葉をきった。個々の理解度を確かめるように課員の顔をみまわしていく。やがて満足したように再び口を動かしはじめた。
「問題は山積している。遺体が署内から出たこともあって、警察関係者にも疑いの眼がいきかけている始末だ。状況は最悪といっていい。犯行声明の出どころを含め、あらゆるネタに再検証の必要性がでてきている。あるいは捜査方針の転換がはかられることもあり得るだろう」しかし、と彼は声量をあげて強調する。「本部の首脳にも面子がある。簡単に路線を変えたのでは指揮官としての資質を疑われる恐れが出てくるからだ。結果、消えそうな線にもしがみついて柔軟な対応ができないかもしれない。そうして未解決のまま解散となった本部も多い」
 そこで所轄だ、というのが課長の主張であった。所轄には県警とは違ったやりかたがある。小回りがきく。
「ただし、これは個人の無軌道な行動を奨励するものではない。県警の人間と悶着を起こすことも、本部の方針から逸脱することも禁ずる。だが、あくまで事件の早期解決が最優先である、ということだ。各自、そうした自覚をもって捜査にあたってほしい。言っていることはわかるな」
 その言葉を最後に解散が宣言された。時計を見れば八時半になりかけている。本部の正式な捜査会議がはじまる時刻であった。張り詰めた緊張感をそのままに、課員たちが講堂をあとにしていく。ひとりで考え込む者があり、同僚と熱心に話しこむ者があった。
 彼らのあとに続こうとしたとき、背後から呼び止められた。同時に綾瀬の名も呼ばれる。何事かと振り返ると、大田課長が無言で手招きしていた。いつもの仏頂面だが、こころなしか眉間のしわが普段より深く刻まれているようにも見える。なにか、と問いかけるより早く、彼はみずから口を開いた。
「きみたちは捜査会議にでなくてよろしい。特令がでている」
 思わず綾瀬と顔を見合わせた。自分に視線がもどるのを待ってから、大田課長が喋りはじめる。
「昨日の話だ。交番勤務の若いのが、商店街にあるパチンコ屋から出てきた男に職質をかけた。センターで総合照会したところ、それが大阪府警から指名手配されていた男だと判明したのだ。女性を対象にした詐欺の常習犯だよ」
 男に話をきいたところ本人であることを認めたため、逮捕して拘置してあるとのことだった。大阪府警には昨夜の時点で連絡がいったらしい。今日の午後、新幹線で送り届けるという話になったという。
「今回のような場合、うちの職員が護送を受けもたねばならん。そういう規則だ。知ってのとおり、取調べの優先権は手配をうった者にあるからな」
「それで――?」綾瀬がたずねた。
「この忙しい時期だが、手配犯の護送には最低で三名の人員を割かざるを得ない。当然、ひとりは引っ張ってきた本人。同課からその補助。それから、三人目は綾瀬警部補に頼もうということになったのだ」
「ちょっと待ってください」和泉は思わずさえぎっていた。「押さえたのは警らの人間でしょう。護送は彼らがやればいい。本部設置事件のさなか、なぜ刑事課の主任クラスが指名を受けるんです」
「本部からの指定なのだ」うなるような声がかえった。
「県警がですか」
 予想はしていたが、言葉として明確にされるとやはり衝撃がある。陰湿なやり口であった。鈴をつけられないなら、不穏分子には外にいてもらう。そうした首脳部の意図が透けて見える。
 とはいえ、県警も綾瀬がスタンドプレイにでることを本気で危惧しているわけではない。あくまで見せしめなのだ。組織の意向に反した者は徹底した圧力をかけられる。永遠につづく。それを周囲にアピールするための処置なのだった。
「まあ、いいさ」苦笑するように綾瀬が唇をゆがめた。ちょっとした旅気分だ、と肩をすくめてみせる。
「そうならないことは知ってるでしょう。手配犯の絡みのことなら私にも経験がある。逃亡を警戒して気を張りつづけなければならない。神経を使う仕事だった」
 無論、手配犯の確保自体は立派な手柄である。グリコ森永事件の犯行グループを職務質問などで引っ張った場合は、二階級特進も夢ではないという噂もあった。だが、これは極端な例にすぎない。得るものもあるが、それ以上の負担がかかる。そういうこともあり、現場ではさほど歓迎されていないのが実情だった。
「残念だが決まったことだ」
 大田課長が話を打ち切るようにいい、その視線を和泉にむけた。
「きみにも本部の仕事から離れるよう指示が来ている」
 予想していた言葉だった。綾瀬の排斥に手を貸さないと宣言した以上、首脳部はだまっていまい。
「綾瀬警部補がもどり次第、組んで通常業務にあたってもらう。彼が大阪にいっている間に、義姉さんのところへ行って来いとのことだ」
「どういうことです」
「どうもこうもない。言われたとおりにやれ。業務命令違反できみたちが査問にかけられる分はかまわん。大いにやれ。しかし、私を巻き込むことだけはしてくれるな」
 話は以上だ。一方的にそう切り上げ、彼は足早に講堂から立ち去っていった。取りつくしまもない。室内には和泉と綾瀬のみが残り、朝特有の静けさがもどった。
「――和泉」
 綾瀬がうつむき加減の顔をあげる。静謐の破壊を恐れるような、小さく穏やかな声音だった。
「お前さん、俺のむかしの件で県警となにか接触があったのか」
「なぜそんなことを訊くんです」
 綾瀬はそれにこたえず、穏やかな微笑をみせた。再び沈黙がおりる。窓にちかい電線に小鳥が舞いおりるのが見えた。なんとはなく、ふたりしてそちらに視線をむける。小鳥は首をきょろきょろと回し、旋律的な鳴き声を披露した。朝にふさわしいささやかな高音だった。
 しばらくして綾瀬が唇をひらいた。課長の口から出た義姉のことを問われる。
「千鶴さんだったか。彼女になにかあったのか」
「いや、今回の事件がらみなんです」
 ここ数日の電話によるやりとりについて説明した。綾瀬は表情を変えずに聞き、最後にちいさくうなずいて見せた。
「そういう小さな線はこれからも大切にしたほうがいい。思いもよらないところから糸口がつかめることもある」
「今回は望み薄のようですがね。犯人が警官なら、署の冷蔵庫に死体をいれる真似なぞしないでしょう。関係者に眼がむくことは眼に見えている。自分で自分で首を絞めるようなものだ」
「そうでもないさ」綾瀬は薄っすらと笑んでかえした。「お義姉さんのところにいったら、帰りに俺の自宅によってくれないか」
「しかし大阪に行くんでしょう」
「恐らく宿泊費はでない。日帰りになるだろう。案外、先に仕事が片付くのは俺のほうかもしれないぞ。お前は、そのお義姉さんの友人から話を聞くまで帰れない。彼女が時間をつくれるのは終業後だろう。結局、夜になる。――俺の部屋の場所は知ってたな?」
「知ってますが」
 怪訝に思っていたところが表情に直接でたのだろう。綾瀬が苦笑する。
「大したことじゃない。ただ、遺産の整理とでもいうかな。お前さんには世話をかけたし、譲っておきたいものが二、三ある」
 辞表を出した人間も整理でいろいろと大変なのだ、と綾瀬は眼を細めた。その言葉で棚上げにされていた話題を思いだす。彼が辞表の話をもちだしたのは昨日の午前である。いま口にされたことが事実なら、物はすでに係長か課長にわたっているはずだった。
「……なぜ、やめるんです」
 しぼりだした声はわずかにかすれていた。
「まあ、それを含めてな。次に会ったときゆっくり話そう。俺の帰りが遅れた場合は、家の者にことづけておくから、受けとるものだけ受とっておいてくれ」
「家の者――?」
「そうか。言ってなかったな」
 綾瀬の眉がかすかに動き、思いだしたようなつぶやきが漏れる。既に公然の事実だと錯覚していたのだ、と取り繕うような補足があった。
 その言葉は、暗に綾瀬が公安の監視対象でありつづけている事実を物語っていた。情報がいったん外に漏れた時点で、あらゆる人間に知られたものだと仮定する。そうした思考癖がつく生活を彼は送ってきたのだろう。最悪の場合、自分も似た境遇に追いやられるかもしれない。はじめて背筋に冷たいものが走った。
 綾瀬の声が聞こえた。
「いま、一緒に暮らしている人間がいる」
 天気の話をするような口ぶりであった。つづく話によると、相手は静岡県出身の女性で、一〇年来の知己なのだという。いささか驚きを感じながら名前を問うた。
「大津静香という。静かな香りと書いて静香。三保の松原を知ってるか。羽衣伝説で知られた清水市にある半島なんだが。彼女の実家がそこにあってな。機会があれば出むいて、あちらで式を挙げようと思っている」
 かつてからそうした合意は存在していたのだ、と彼は軽い口調でつけくわえた。
 ――合意。式。
 それが結婚を意味していることに気づくまで、和泉の思考はしばらくを要した。


  13

 午前中は、窃盗犯に関する送致資料の作成に追われた。
 通常、大事件の発生にともない街中に警官が配置されると、その期間の犯罪件数は減る。とくに前科のある者はそうした当局の動きに敏感で、臨時休業をきめこむケースがほとんどである。しかし、すべての犯罪者が完全になりを潜めるわけではない。素人が短絡的な犯行に及ぶケースはいつでも存在しうるのだった。警ら課が大阪から逃げてきた手配犯をつかまえ、同課の同僚がバイク泥棒に手錠をかけてくる。
 忙しいときに限って誰かが無駄な仕事を増やしてくれる。我々に対する嫌がらせのために、こちらの都合をわざわざ無視して犯罪に走ってくれるのだ。課長のそうした言い分には、ときおり賛同したくもなるものだった。
 雑務を片付けて署をでたのは昼食後であった。当然、目的地は義姉の住まう山ノ内だった。事件の発生した今泉台の南に位置する地区で、ひっそりとした住宅街である。自家用車を持たないため、千鶴を訪れる際は鉄道を利用するのが常であった。
 署を出ると松竹撮影所方面へ足をむけた。二〇分後、駅構内の売店で全国紙、地方紙の朝刊を一部ずつ購入する。持ってきた小さな紙袋に放りこむと、ホームにでた。ほとんど同時に列車が滑り込んでくる。
 車内は割合すいていた。空席に腰をおとして地方紙をひろげる。乳児誘拐殺人に関連する記事が紙面のほとんどを覆い尽くしていた。昨夜の遺体発見は、どうやら朝刊に間にあったらしい。「署内から乳児の死体」「内部事情にくわしいものの犯行か」印象的な見出しがおどっている。それらがトップを飾っていた。
 反面、内容はうすい。署の独身寮から城戸祥平と思わしき男児の死体がでた。部屋は空き室で普段から施錠もされておらず、出入りは自由にできた。現在、県警が遺体の身元を急ぎ確認している。場所が場所だけに、署内の構造をある程度しっていた人間の仕業かもしれない。まとめれば、それだけで済むものでしかなかった。冷蔵庫やフリーザといった単語はでていない。発行部数トップの全国紙も確認したが、この件に関しては同様であった。本部が伏せたのか、マスコミ側に自粛をうながしたのか。単に事実関係の確認が間に合わなかったとも考えられる。死体の件が記者会見で正式に公表されたのは、朝刊が配達されたあとのことであった。
 ゆっくり思案する暇はなかった。気づくと列車のドアが開き、北鎌倉の車内アナウンスが流れている。大船から北鎌倉までは一駅の距離。時間にして三分である。
 降車し、構内踏切にむかった。北鎌倉駅において、ホーム間の移動には線路の横断が必要になる。そうした種の駅だった。駅員が手動で遮断機を動かすのを待ち、渡った。
 駅舎をでると義姉の姿をさがした。北鎌倉の駅前にはロータリィなどない。車を乗り入れることが可能である、というだけの空間が広がるのみである。千鶴のボンネットバンはすぐに見つかった。午前中に連絡を入れた際、「車をだして迎えにいく」といいだしたのは彼女である。予告どおりその姿はあった。車をおり、ドアにもたれるような格好で駅舎から吐き出されてくる人々を眺めている。彼女も和泉の存在に気づいたようだった。軽く手を振ってよこす。距離があっても白い歯がこぼれているのが分かった。
「今度は本当に来てくれたみたいね」
 義弟の接近を辛抱づよく待って、彼女が声を発した。軽く会釈してかえす。電話線を介さない肉声のやりとりは新鮮に感じられた。彼女の声質のよさを損なうことなく伝えてくれる。
「私、貴方が架空の人物じゃないか疑いかけてたところよ。最近、声だけで実物とお目にかかる機会が全然なかったから。光司は光一と同じようにもう存在しなくて、誰かが録音したテープでも使って私と会話してるのかもって」
「似たような疑惑をかけられた音楽家を知ってますよ」義姉と同種の笑顔をうかべながらいった。「コンサートを一度もひらかず、レコードしか出さない。それで怪しまれるようになった」
「たまにはコンサートもやって、ふれあいの機会を作ってもらわないと。交流は大事よ。ファンだって離れることがあるんだから」
「それは気をつけたほうがよさそうだ」
 千鶴が嫣然と微笑む。首の動きで助手席をしめし、「のって」とささやいた。うなずいて反対側にまわる。運動能力にはまったく自信がないと主張する彼女だが、運転技術は高い。アクセルが踏まれるや、車はすべらかに発進した。
「昼食は? 食べてくるっていってたけど」
 フロントを見据えたまま彼女がいった。
「軽くですが、署でとりましたよ」
「例によって書類を書きながらでしょう。食事と睡眠は時間をかけてきちんととらないと駄目よ。疲れてるなら――すぐ着いちゃうけど――それまで寝ててもいいから」
「覇気のない顔は元からですよ。これでも体調はいいほうです」
 微笑で取り繕った。それでも彼女には見透かされるだろう。和泉が韜晦を覚えれば、千鶴は慧眼を養う。その連続こそがふたりの歴史そのものともいえる。
「今日は泊まっていけるの?」
「情報提供者の話しだいですね」座席位置を調節しながらこたえた。「高橋女史から必要な情報をすべて聞き出すまでは帰れない。終電すぎまでかかるようなら、お世話になるかもしれません」
 彼女はいまどうしているかを問うと、仕事にでている、という当たり前の返答があった。
「高橋さん、電話のあと光司に会いたがってた。喋りかたと声から容姿が想像できないって」
「人間に変わった関心のもちかたをする女性らしい」
「そうね。むかしから少し変わったところのある人だったのは確か」悪びれたようすもなく千鶴があっさりと認める。「実物を見るまで我慢するんだって、光司の写真を見たがらなかったのよ」
「なるほど、本当に面白いひとのようですね」
 それを最後に、ふたりして口を噤んだ。千鶴は二年前に買い換えた4WDを軽快に操っていく。信号を避けるため裏道にはいり、滑るように走り抜ける。小型車の利点を最大限にいかした走りであった。
 思えば、むかしから変に車の好きな女性だった。性能や部品のチューンナップには一切関心をもたず、運転だけをただ喜んで引き受ける。そんなところがあった。兄を含めた三人のなかで、最初に免許を取得したのも彼女である。ちょっとした地元名士である千鶴の両親は、玩具を買い与えるように専用の自家用車を娘に贈った。一八歳になった直後のことであった。以来、三人でよくドライヴにでかけたのを覚えている。常に千鶴がステアリングを握っていた。和泉は、運転する彼女の姿を助手席からみるのが好きだった。光一は後部座席に座った。千鶴と最初に知り合い、自宅に連れ込むきっかけを作った人間であるくせ、兄はその点で奥手だったようにも思う。恐らくは、誰もが恋愛や異性の意味を理解はしていなかった。遠い、一〇代のことである。
 シートに背を埋め、なにげなく彼女の横顔を眺めた。艶のある白い肌。すっきりと通った鼻梁。薄桃色の唇にうかんだ淡い微笑。千鶴は驚くほど変わっていなかった。ただ、うしろから身を乗りだしてくる光一の存在が失われた。それだけだった。
「――腕があがりましたか」和泉がいった。
 言葉の意味をはかりかねたように千鶴が首を傾げる。身振りでハンドル操作をしめしてみせた。運転のことだ、と言葉で添える。
「ああ、そっち。料理のことかと思った」
「もちろん、夕食は楽しみにしてますよ。問題は対抗馬も着実に力をつけつつある、ということだ」
「私、誰かとレース中だった?」彼女が問う。直後、思いついたように自ら解答を口にした。「もしかして例の係長さんの?」
 もってきた紙袋を掲げてみせた。「彼女のクラブハウスサンドが入ってます。サンドウィッチなぞパンに物を挟むだけの単純なものだと思っていたが、完全な誤解だった」
「単純なだけでは長く生きられないものよ。同時に奥ゆきを備えてないと。――でも、そんなに美味しいの?」
 食べて確かめればいい。そう返した直後、千鶴がステアリングを大きく左にきった。入った通りの先に彼女の借家が見えてくる。二階建ての小奇麗なアパートであった。年季を感じさせる周囲の一戸建てからは浮いた存在にみえる。
 千鶴は一度のハンドル操作で綺麗な駐車をきめた。自宅の駐車スペースへは必ず前向きに車をいれる。義姉にはそのような習慣があった。排気管をよその家の鼻先にむけるのは、ちょっと遠慮すべきでしょう? 本人がそう語るのを、かつて聞いたことがある。
「もし泊まっていくとして、光司の部屋はどうしようかしら」
 玄関の鍵を開けながら彼女がつぶやいた。光一の私室であった六畳の和室が、高橋女史によって使用されているためである。
「なんだったら私の部屋で寝る?」彼女が明らかに冗談と分かる眼をむけてくる。「大き目のソファがあるけど」
「レコードを置いてある部屋で充分ですよ」
「問題はつかえる布団が一組もないことなのよね」
 通された彼女の部屋は、いつものように整頓されていた。外観から想像されるより内部はひろい。3LDKの間取りは、子どもを設けたときのことを考えたものだった。事実、光一が存命であったなら夜はすべての部屋に明りがともる家庭ができていただろう。
 いずれにしても、和泉にとっては第二の我が家も同然である。勝手も知ったものだった。居間つづきのダイニングに案内されると、テーブルセットの椅子をひいて好きに腰を落とす。四脚ある椅子のうち、当初からの指定席であった。
「高橋女史はいつごろ戻るんです?」
 卓上に置いた紙袋を義姉の方へ滑らせながらたずねた。彼女はそれを受けとり、クラブハウスサンドのつめられた容器をとりだす。
「一〇時すぎになるっていってた。東京を拠点にいろいろ回らないといけないみたい。今日は長野に遠征。夕食は食べてくるって」
「どうも泊まりになりそうな気配だ」
「でも、写真は置いていったから。許可ももらってるし、いまからでも見られることは見られるけど」
 紙袋をたたみ、彼女はタッパウェアをもってキッチンへむかっていく。コーヒーの準備をはじめた。
「写真には持ち主本人も写ってるんでしょう」
「それはもう、当然」
「だったら彼女がもどるまで待ってますよ」
「高橋さんにあわせるってこと?」
 薬缶に水を張りながら千鶴がえくぼをつくる。
「それに何の意味があるのかは知りませんが、あちらは実際に会うまで容姿の確認を自粛するといってるんです。私がさきに写真でご尊顔を拝するわけにもいかない」
 和泉は立ちあがり、レコードを聴かせてもらう、と断った。コーヒーはそちらに持っていくか。千鶴が質問でかえす。できたらそうしてほしいと頼み、ドアにむかった。
 光一は趣味に乏しかったが、唯一の道楽といえるものが存在した。ジャズのレコード収集である。いずれ子ども部屋になるはずだった空間は、彼のコレクションで埋め尽くされていた。なかには既に稀少な存在となりつつある名盤もある。LP盤、ドーナツ盤はもちろん、瓦盤と俗称された古いものも目につく。全体の七割は光一が、残りは和泉が自ら買い集めたものだった。コレクションの増加がとまったのは二年前。以降は、こうしてたまに和泉が利用するばかりである。タイトルが増えることは、今後もうないだろう。
 光一を失って分かりはじめたことがある。死は単に命の喪失を意味するばかりではない。残された人間のなかから、二度と再生不可能な何かを同時にさらっていく。そうした事実であった。
 埃よけの儀式を済ませ、棚から一枚、無作為にジャケットを抜きとった。プレイヤーは父親から譲り受けたものである。まだ「電蓄」と呼ばれていた時代の代物だった。隣にはさらに年季ものの――もはや骨董品にちかい――SP用蓄音機も並んでいる。
 レコード盤をターンテイブルにのせ、慎重に針を落とした。かすかな雑音をはさみ、やがてゆるやかに旋律が流れはじめる。導入部はピアノのソロであった。かたわらの安楽椅子に身体をあずけ、眼を閉じる。ワルツ・フォー・デビィ。スタンダードナンバーと表現される、その世界では極めて一般的な曲だった。「行儀がよろしくない」とジャズを敬遠する義姉が、例外的に耳をかたむける曲のひとつでもある。たしかにクラシックの愛好者にも受け入れられやすい造りであるのかもしれない。問題は、作曲した本人と <ファンクの御用商人> と呼ばれたプレイヤーが競演した盤であるということだ。手に入れたとき、その取り合わせには光一とふたりして驚いた。いつか、千鶴に聴かせて反応をうかがったこともあった気がする。彼女はなんと言ったか。思い出せない。信じがたいほど、それは遠い記憶のように思えた。

 ――身体を揺すられる感覚に我をとりもどすと、周囲はすでに薄闇に閉ざされていた。何度か眼を瞬き、まぶたをこする。廊下からもれてくる光があった。それを背に受け、義姉がそばに立っている。双眸はやわらかく細められ、口元に薄っすらと微笑がたたえられていた。彼女の人柄がもっとも直接的にしめされる表情である。
「そろそろ起きてもらったほうがいいと思って」
 まだ眠った人間に語りかけるような小声であった。笑みの輪郭を強めてつづける。
「高橋さんも、早く話をしたがってるみたいだから」
 言葉をかえそうと椅子から身体を起こした瞬間、かけられていた毛布がずれ落ちた。それで自分が眠っていたことを完璧に理解する。日は完全に落ちているようだった。睡眠時間を推定するが、まったく想像がつかない。
「高橋さんは帰ってるんですか」
 訊いてから、現在の時刻を重ねて問う。じき二三時になる、という声が返った。素早く計算する。一〇時間ちかく眠っていたことになるようだった。
「彼女、お風呂にはいって、いま一番色っぽいところよ。羨ましいことに素っぴんで充分勝負できるひとだから」安心して、と再び眼を細くする。ただし、今度のそれは慈愛に由来するものではなかった。「お腹もすいてるでしょう」
 言葉とともに毛布が剥ぎとられる。彼女はそれを手早くたたみ、返答をまたずして踵をかえした。部屋をでて廊下へむかっていく。立ちあがってレコードプレイヤーを確認した。すでに電源が落とされ、レコード盤も棚にもどされている。インテリアを兼ねたテーブルに冷め切ったコーヒーが置かれていた。それを手にとり千鶴を追う。
 ダイニングにはいると、テーブルセットの一席に若い女性がすわっていた。線は標準的だが、腰掛けていても身長の高さが分かる。こざっぱりとした白いシャツにジーンズ。夜着のかわりか、簡単な服装をしていた。両のほほに褐色の小さな斑点が散っており、同様のものが鼻の頭にもかすかにみられた。湿り気を帯びた頭髪は男性なみに短く刈り込まれていた。
「やっとお会いできたみたいですね」
 飾り気のない笑みとともに彼女が立ち上がった。見立てどおりの長身である。眼の高さは和泉とさほどかわらない。相貌も含め、娘時代は少年と誤認されることもあっただろう。
「帰ったらすぐに対面と思っていたんですけど。なかなかお目通りがかなわないものだから、架空の人間をネタにして千鶴にだまされたんじゃないかと疑いかけいてたところです」
 思わずキッチンカウンターの奥に眼をやった。千鶴と眼があう。高橋に顔をもどしていった。
「その台詞、彼女から仕込まれたものでしょう」
「そそのかされたんです」にやりと笑い、彼女は再び腰をおとした。「待たされたお返しをしてやれ、と提案されて」
「その件に関しては、申しわけありません」
「いいんですよ。報復はなされたわけですから」
「私たちこれから食事なんだけど、高橋さんもなにか食べる?」
 カウンターごしに千鶴が顔をのぞかせた。
「じゃ、ビールとつまみになるようなものがあれば」
「サラミくらいしかないけど」
「サラミ大好物。それにしてくれる?」
 和泉は立ちあがってカウンターを回りこんだ。シンクの周りには盛りつけの済んだ料理が並んでいる。調理自体は何時間もまえに終わっていたものばかりだろう。それを温めなおしたのだった。和食のようである。千鶴はグリルをひらき、焼きあがった秋刀魚を取りだしていた。熱せられた脂が弾け、皮を破って小さく泡立っている。完全に制御された焼き加減であった。
「大体できたから運んでくれる? そこのトレイ使っていいから」
 首を縦に振ってかえし、サラダの器とビール用のグラスを用意した。所定の場所から調味料のセットをとり、人数分の箸をそろえる。高橋女史も手伝いを申しでたが、これは千鶴が丁重に断った。
「光司さんは、普段からそんな話しかたをなさるんですか」
 準備が整うのをまち、高橋がいった。面白がるように眼が細まっている。
「――というと?」
 和泉は所定の席に腰を落ち着けた。高橋と対面の位置関係になる。
「千鶴には敬語だし。どことなく言葉の選びかたが固いような気もするんですけど」
「それは、ハコ長さんの影響なのよね」義姉が口をはさむ。
「ハコチョウ?」
「交番の責任者のことです」和泉が自ら補足した。「警察学校をでた新人が最初にもつ直接的な指導者になります。私の場合、それがたいへん厳格かつ教育熱心なベテランだった」
 最近の若いのはまず口のききかたからしてなっていない。それが彼の口癖であった。派出所は地域の窓口。一流商社の受付嬢より上等な応対がもとめられる。そうした信念にもとづき、新人教育にあたっていたのである。
「そのハコ長に徹底させられたのが言葉遣いの矯正です。友人相手でも謙譲的な言葉を多用。一人称は <私> で統一。普段から丁寧なしゃべりかたを習慣づけていないと、いざというとき流暢に出てこない、というのが指導官の持論だった。うっかり言葉の選択を誤ると即座に拳が飛んできましたね」
「なんか軍隊の話みたい」
 高橋は同意を求めるように千鶴を見やり、声をあげずに笑った。真顔にもどると和泉に視線をもどす。
「お仕事のことは、もうすこし突っ込んだことをお聞きしていいんでしょうか」
「こちらだけ情報をもらう、というわけにもいかないでしょうね」
 公務員には守秘義務がある。関係者の個人に関わることは口外することができない。また、食事時に相応しくない話におよぶ可能性もある。そのように説明した上で、それでよければ、とかえした。
 刑事の仕事はやはり大変なのか。躊躇なく質問が飛んでくる。そう感じることもある、と答えた。
「本人だけじゃなくて、きっと奥さんも大変よ」
 キッチンから千鶴が現れ、高橋の隣席に就いた。ビールを注いだグラスが全員にいきわたる。互いにグラスを鳴らしあった。一口飲み、千鶴が舌をしめらせる。
「光司を見てると、刑事の妻って存在にはつくづく感心させられるわよ。生活パターンなんてないに等しいの。明日は時間をとれると聞いて計画を立ててたら、呼びだしが突然かかって台無しになる。そんなの日常茶飯事なんだから。よく家庭を維持していられると思うもの。本当に」
「――それについて、ご本人の言い分は?」
 サラミをつまみ上げながら、高橋が話をさしむけてくる。
「義姉の表現は控えめだと思いますね。現実に、崩壊する家庭は良くあります。耐えきれなくなった細君が実家に戻ってしまうケースはザラです。そのまま帰ってこなかった、という話もよく聞く」
 妻に対する表彰のことを話した。警官の伴侶として務めあげた女性には、一〇年ごとを目処に警察から労いの言葉がかけられる。とはいえ、賞状を渡すだけの簡単な表彰式が執り行われるだけにすぎない。それでも、積み重ねてきた苦労が回想されるのだろう。泣きだす婦人も少なくないという。同僚の妻には、記念の賞状を家宝のようにしまいこんでいる者もあった。
「でも、醍醐味もあるんでしょう?」高橋がたずねる。「辞められない理由になるような」
「ありますね」
 少し考え、グラスを傾けながら認めた。和泉が自覚するかぎり、彼女のいうような刑事としての醍醐味は大きく二つある。ただしその片方は、他人への説明が極めて困難であった。不可能に近い。極端に感覚的なものだからだ。
 結局、無難なもう一方を語り聞かせることにした。言葉を選びながら口をひらく。
「これは私服刑事でも制服警官でもかわりないことですが、我々は他人が抱えた問題の解決に手を貸せることがあります。直接的にそういう機会を得たときは、やはり得がたいものを得られる。涙ながらに感謝の言葉をくれる人もあります。その点で警察官は、医者と共通する部分があるかもしれない、といった同僚もいましたね」
「医者?」義姉が怪訝そうな声をあげた。
「私、なんとなく分かるような気がする」
 対照的に、高橋は気だるげにも聞こえる独特の声で理解をしめした。つまり、患者さんを治せたときに得られる笑顔のようなものでしょう。質問というよりは確認といった言葉がかえる。和泉はゆっくりと首を縦にふった。
「犯罪や事故はよく怪我人を生む。我々は医者とも付き合いが深いんです。彼らからいろいろな話を聞く機会に恵まれる」
 ふうん、とつぶやく声が聞こえた。義姉は納得したように何度か小さくうなずき、「たとえばどんな」とつづけた。
「医者もやはり、快方にむかった患者の反応を糧につづけているんです。もちろん、常に結果がだせるわけではない。しかし放っておけば死ぬ一〇〇人のうち、たった一人でも回復させられる可能性があるならやる意味は見出せる。結果として、また生きられる、と生還した患者が笑顔で礼をいいにくる。その瞬間を最高だと思う。医学に携わる人間の醍醐味でしょう」
 良くいわれることだが、警察もしょせんはサーヴィス業なのだ。そう話をつづけた。当然、そこにはサーヴィスの受け手がいる。
「そうした人たちに何らかの形で貢献して、喜んでもらわねばならない。それを実感できなければ仕事でないし、仕事ができなければプロとは呼べない」
 その意味で、いまの世にはプロフェッショナルを名乗るにふさわしい存在が不足しているのかもしれなかった。現実は、プロであろうとする者を組織がつぶす方向へむかっている。
「だったら、今回みたいな事件はなおさら辛いですね。解決しても喜ぶ人間なんていない。救いがないですから。犯人が逮捕されて極刑がくだされたとして、それで赤ちゃんが生き返るわけでもなし」
 高橋のその言葉をきっかけに、話の方向は件の乳児誘拐殺人――すなわち本題へとむかっていった。
 普段なら、義姉の家でそうした事件の話がでることはない。和泉本人がもちかけない限り、千鶴は意図してそれを避けようとするからだ。和泉からそうしろと頼んだことはない。ほのめかしさえしていない。ただ、千鶴が自ら一線を引いたのである。たしかにその気遣いが救いとなることはあった。
「そういえば、御通夜とか葬儀はいつなのかしら」
 思い出したように千鶴がいった。高橋女史も、いわれるまでその疑問に行きつかなかったらしい。小さく眼を見開きながら和泉に視線をよせる。
「通夜は子どもが剖検からもどり次第、という話でしたね。午前中に終わったはずだから、今夜がまさにそうです。本葬は一日あけて明後日に執り行うと聞いています」
「殺されたうえに解剖までされるんですね」
 高橋は包み込むようにグラスを抱え、あわだつ琥珀色の液体を見つめた。それと分かりにくいほど小さなため息がこぼれる。
「被害者を切り刻むような真似はしないでくれ、とよく言われますよ。遺族は迅速に家族をひきとりたがる。彼らにとって司法解剖は死体に鞭打つような、悪質な損傷行為なんです。激昂して我々に掴みかかってくる者もいる」
「家族の同意がないと解剖にはいれないんですか」
 高橋の問いかけに、和泉は首を左右した。
「法的な権限がありますし、裁判所から許可もとる。だから諒解は本来、必要じゃない。しかし、家族に理解を得たうえでという人情もある。彼らに解剖のことを伝えるのがもっとも辛い仕事だ、という警官もあります」
「早奈子さんたち、大丈夫かしら」独りごちるように義姉がつぶやいた。「――今度のことは、どうも実感がわかなくて駄目ね。お葬式のこともいまになるまで全然思いつかなかった。頭が現実的な思考に向かわないみたい」
 不意にうつむきかけていた彼女の顔が上向いた。様子をうかがっていた和泉と視線がぶつかる。
「お子さん、光司の警察署から見つかったんでしょう。ニュースで職員が見つけたっていってたけど。まさか光司は関係してないわよね」
 これには高橋女史も関心をもったらしい。正面から女性ふたりぶんの注視をうけた。
「私は死体がでてきたあと、騒ぎを聞きつけて眼を覚ましたんです。徹夜つづきだったから当夜は自室で寝ていた」
「だったらよかった」千鶴が安堵の表情をうかべる。「刑事だからって、見るべきでないものを見すぎる必要はないものね」
 そうしたものは、なにも子どもの死体だけに限らない。通報を受けたとき一緒に城戸家を訪ねていれば、千鶴もそれを知っただろう。だが、あえて口にすることではなかった。
 グラスに残ったビールを無造作に飲み干す。テーブルにもどしたとき、食卓の皿がおおむね空になっていることに気づいた。時計をみれば日付が変わりかけている。おなじ思考過程をたどったのだろう。千鶴が、旧友と義弟を見比べるようにしながら口をひいた。
「光司、そろそろ写真を見せてもらったら」
「そうですね」
「後片付けは私がやっておくから。安心して高橋さんからいろいろ聞きだしてやってちょうだい」
「なんだか、これから尋問されるみたいな言いかたね」
 首をすくめながら高橋が席を立つ。和泉に目配せがされた。軽くうなずき返し、ふたりして居間に移る。準備はすでに整えられていた。座卓の上には問題のものと思わしきアルバムが揃えられている。大小あわせて三冊あるようで、周辺にも何枚かの写真が無造作に放ってあった。先に高橋が腰をおとし、手近な一冊に手をのばす。
「それ全部が、学生時代の写真なんですか」
 向かい側のソファに腰かけながら問うと、彼女はそうだ、と答えた。アルバムの写真は綺麗に整理されており、メモのようなものが添えてある箇所も目立つ。手をとめ、高橋が顔をあげた。
「時期ごとに分けてあるんですけど、なにから見ます?」
「城戸夫妻とつきあいのあった警官、というのを確認したいですね」
「結婚式のか。それならこれです。豪華専用アルバム」
 いいながら、小冊子型のそれを手渡してくる。受けとったそれは、リボンのあしらわれた華やかな写真集であった。とはいえ、辞典ばりの本格派と比較するとボリュームの面では比べるべくもない。結婚式の写真のみを収めているのなら当然だった。
「拝見するまえにもう一度だけ確認させてもらいますが――」
 アルバムを手元におき、面をあげて高橋と眼を合わせる。
「私は職務でここを訪ねています。これがどういう意味をもつかは今朝の電話でもお断りしたとおりです」
「私たちが城戸家に縁のある人間だという事実が、貴方の上司たちの把握するところとなった――?」
「そうです」顔をみたままうなずき返した。「結果として後日、私以外の捜査員がおふたりを訪問することがあるかもしれません。一度は必ずあると思います。場合によっては写真などを借り受けたい、という要望がだされるかもしれない」
 重要な情報の持ち主と見なされた場合は、署で調書を作成し署名を求められることもある。もちろん拒否することもできるが、警察のしつこさを考えると従ったほうが賢明だろう。そうつけ加えた。
「また、有力な証人と考えられれば裁判に呼ばれるかもしれない。そうしたご面倒がかかるかもしれないことは、ご了承いただきたいのです」
「前にも聞いたことだし、理解してるつもりよ。私の場合、城戸さんたちとは高橋さんを通した間接的な知り合いどまりだけど」
 蛇口を水をとめ、キッチンから義姉が声をあげる。
「それでも話せることがあるなら、話すつもり」
 正面に眼をもどすと、高橋も同意をしめした。被害者家族とは他人でもない。できるだけの協力をするつもりである。そうした意思の存在を口にした。
「そういっていただけると大変たすかります」
 礼をいって軽く頭をさげた。あらためてアルバムに手をかける。高橋の視線を手元に感じながら、表紙をめくった。最初の頁には引き伸ばされた写真が大きく貼りつけてあった。披露宴の情景なのかもしれない。新郎新婦が肩をならべ、微笑みながらキャンドルに火をともしている。一見して城戸夫妻だと知れた。新郎にはまだ青年のなごりが各所に残っている。身体つきも現在と比較して華奢にみえた。新婦の初々しさにいたっては、ほとんど少女のそれである。
「こういった写真は誰が撮影するんです?」
 訊くと、高橋が軽く首をかしげた。
「芳晴さんの会社の同僚か誰かが撮ってたような気がしますね。プロみたいな大きいカメラを構えてた男性がいた記憶があります」
 趣味で心得があるなりしたのだろう、と彼女が結んだ。たしかに、どの頁をみても構図のしっかりした写真が多い。光源の位置や照明の強弱なども計算されているようであった。その一枚一枚を確認しながら重ねてたずねる。
「これがその焼増し分を集めたものだとすると、高橋さんはどういったルートで入手されたんでしょう」
「式も披露宴も豪華だったんですよ。あくまで新婚夫婦が主役なんだけど、参加者が楽しむための趣向も随所にみられて。美男美女だし、そのせいもあってか写真を欲しがる参加者も結構いたんです」
 自分もそのひとりだったのだが、と高橋が口元をゆるめる。
「たしかワンゲル部の誰かが、是非とも後で写真をわけてほしい、というようなことを言いだしたんです。それが直接のきっかけだったのかな。結局、芳晴さんあたりがアルバムにまとめて希望者に配布することを決めたんです。だから、そこそこ出回ってますよ」
「問題の仲人は、参加者に馴染みのある人物だったんですか」
「そんな雰囲気でもなかったですね」
 高橋の受け答えは電話のときと同じだった。問えばテンポよく返してくる。和泉の経験上、こうした人間は総じて頭の回転がはやい。でてくる情報に不整合が生じにくいタイプでもあった。
 仲人に関しては、新郎新婦との個人的な関係で完結していたのではないか。女史はそうつづけた。
「ワンゲル部の関係者も、ときどき顔を見るといった程度の認識でした。両家の親族や芳晴さんの会社関係者と接点があったような感じもなかったですね」
 こうした場では、思いがけない人間関係が明らかになって驚かされることがある。世間の狭さを実感させられる意味からも、そうした発見は記憶に残りやすい。しかし、仲人についてはそれが一切なかったのだという。新郎新婦をのぞけば、彼が誰かと親しげに話をしていたといった光景は見られなかったらしい。
「それで、その仲人の写真はどの辺にあるんでしょう」
 そうですね、とつぶやきながら彼女が身をのりだした。開かれた写真を注視する。やがて、そのすぐ先であったはずだ、と告げた。警官だけあって体格の良い男性だという。スピーチの最中を撮影された写真であるとのことだった。
 頁を二度めくり、それは見つかった。二〇代半ばから三〇あたりか。仲人として引っ張られるには若い男性が写っている。腰から上をズームレンズで撮影したものだった。個人を特定しえる充分な鮮明さがあり、容姿の特徴としては高橋が挙げたものをたしかに備えている。
 突然、血が沸騰するような感覚が全身を駆け抜けた。首筋の産毛が逆立つ。意志とは関係なく、体じゅうの筋肉が引き締まるのを感じた。それは、いつも決まった場面で和泉を襲ってきた。取り調べのなかで、向かいあう人間が犯行を確信させる言葉を発した一瞬。長い張り込みを経て、行方を追いつづけてきた被疑者を捉えたとき。部屋を訪れるや、ベランダから飛び降りて獲物が逃走をはかった瞬間。そうしたとき、寒気にも似た圧倒的緊張感が背筋をつき抜ける。
 仕事をつづける理由となる刑事の醍醐味。高橋に問われたとき答えなかったもう一つがそれであった。アスリートがしばしばいう、その競技における最高の瞬間と同じである。それは味わった者にしか絶対に理解しえない。
 気がついたとき、傍らに義姉の姿があった。手にしたトレイには湯気をあげる三つのカップが並んでいる。怪訝そうな表情をうかべていた。正面の高橋からも問うような視線がそそがれている。
「なにかあったの」
 千鶴の白い手が、和泉の手元にカップを置く。透明度のある黄金色の液体がゆれていた。「写真の人に心当たりでも?」
「いえ――」
 心当たりではない。訪れたのは理解だった。
 紅茶の波紋がきえていくように、血のざわめきがにわかに引いていく。残ったのは奇妙なほどの静けさだった。千鶴や高橋の声が遠のき、眼に映るものから色が失われたような気がした。再度、視線を卓上に戻す。写真を挟みつけるセロファンが蛍光灯の光を弾いている。最初に疑ったような見間違いではあり得なかった。そのことを再認識する。城戸夫妻とは対照的に、彼の容貌は当時からほとんど変わっていなかった。友人たちを祝福するかのように心からの微笑を浮かべている。
 約一〇年をさかのぼった日の綾瀬今日也だった。


  14

 暗がりのなかで夜明けを待っていた。古びたものが特有の芳香を放つ例は書籍だけに限らない。レコード盤もまたそうだった。目蓋を閉じ、それを感じながら安楽椅子に身をあずけていた。思い出したときにグラスを傾けることもあったが、いまはボトルも空になっている。指を動かす機会さえもうない。
 周囲は完全に寝静まっていた。秒針の時を刻む音がやけに大きく聞こえる。囁くような声が聞こえたのは、しばらくしてからだった。最初は空耳だと断じた。が、間を空けてたしかに義姉の声が届いた。
「――光司、起きてる?」
 眼を閉じたまま、起きていると答えた。遠慮がちにドアの開く音がする。猫がようやくすり抜けられるほどだろう。小さな隙間を作ったあたりで、それは止まったようだった。
「入ってもいい?」
「構いませんが、暗いから気をつけたほうがいい」
 また扉のきしむ音が聞こえた。気配がちかづいてくる。落ち着かないのか息遣いがかすかに乱れていた。眼を開けて彼女を見やる。ほとんどが黒い影としてしか認識できなかった。なにかクッションのようなものを抱いているようにみえた。
「明日も仕事なんだから、寝かせてあげないといけないとは思ったんだけど。どうしても話したいことがあったから」
「いま何時です」
 四時ちかくだと思う、という声がかえった。「それからこれ、良かったら使ってみて」クッションが差しだされる。「その椅子、固いでしょ。背もたれに当てると楽になるかもしれないから」
 礼をいって受けとった。言われたように腰の辺りにさしこむ。動いた拍子にずれた毛布をもどし、また眼を閉じた。衣擦れの音が薄闇に染みこむようにして消え、そして沈黙がおりる。しばらく待った。彼女から口を開こうという気配はない。二、三度浅く深い呼吸を繰りかえし、和泉は切りだした。
「話というのはなんですか」
「うん、それなんだけどね」
 居心地が悪そうに彼女の影が小さく震える。
「――私、子どもを作ろうと思ってるの」
 不思議と、それはなんの動揺すらもたらさなかった。まるで予想していた話のように自然と頭に染みこんでゆく。
「再婚するんですか」
「そうじゃないの」静かな、だが素早い否定があった。「私が自分で産むんじゃなくて、なんて言うのか……つまり、誰かを引き取れたらと思って」
「養子?」
「そうね。養子をとる。そういうことになるのかな」
 子どもの探し方、手続き方法。それらは、いまのところまったく分かっていない。これから調べてみるつもりなのだという。そこまで告げると、千鶴は言葉を切った。反応をうかがうような空白をとる。
「光司は、どう思う?」小声が問うた。
「私は反対です」
 暗がりの向こうから、息を呑むはっきりとした気配が伝わった。
「どうして?」
「子どもは、孤独をごまかすための道具じゃない」眼を開いていった。「そのように利用すべきではない」
 彼女が入室して以来、恐らくはもっとも長い沈黙がながれた。そうして生まれた静寂が、なにより雄弁に人の心情を語ることがある。今回がそうであった。
 消え去りそうな声がとどいてきた。
「酷い言い方をするのね」
「言わなければ、連れてこられた子どもがもっと手酷く傷つけられる可能性があります」
「どうしてそんなことが言えるの」
「貴女はひとの親になると言っている。以前の、兄が生きていたころの義姉さんならなれたかもしれない。良い母親になれたと思う。しかし、いまは別人だ。いまは不可能です。精神的な自立を欠いた者は親にはなれない」
「この世の女のすべてが、母親になる資格を完全にそなえた上で子どもを作るの?」
「そうは言ってない」
「光司か言ってるのはそういうことでしょう」
 語尾の震えた声とともに、足が小さく鳴らされる。
「義姉さん」眠る子へ囁きかけるように呼びかけた。「私のような商売をある程度やっていると、すすむ方向を誤った女性をそれなりに見るようになるんです。そして、彼女たちの共通点に気づくようになる」
 それが、孤独の受け入れかたに失敗した点なのだ、と告げた。
 独りで過ごす時間は、内面を育む機会にもなれば、人格を綻びさせる毒ともなる。女性犯罪者の多くは、後者にしてしまった者たちなのだ。
「化学反応みたいなものなんです。向き合いかたを誤った場合、孤独はなにかと結びつきやすい。結合して悪性の精神的要素に変わる。話を聞いていて、いつも思うことです。彼女たちはいつも、犯行に至った理由のどこかに孤独感を潜在させている」
「なにが言いたいの」苛らいだ声があがる。「なにを言わせたいのよ。貴方はなんでそんなに平気な顔でいられるの。実の兄をなくしたのに」
 その言葉は徐々に怒気を帯び、激昂したものになっていった。返答の間を与えず彼女は畳みかける。
「私は悲しむわよ。寂しいから。そう認めればいいんでしょう。なにがいけないの。寂しいの。独りでいたくない。光一のいた暮らしを取りもどしたいの。孤独との付き合いかたなんて知ったことじゃない。もう嫌なのよ。光司はいい。刑事になりたかった。ちょうど良くなれた。あとは仕事してればいいもの。人のためになったって、それをひとりで誇りに思ってれば済むもの」
 最後のそれは悲鳴にも近かった。
 かえせる言葉などなかった。刑事になりたかったのは事実だ。子どもの頃からの念願だった。兄の死と前後して、機会が巡ってきたことも千鶴の指摘どおりである。そして、彼女のそばについてやれる時間を仕事に費やす道を選んだ。胸のなかで、常にしこりとしてあったことだ。
「義姉さんの言うとおりです」気づくとそう口にしていた。「反論の余地もない。義姉さんの大丈夫だという言葉に甘えて、異動の話をうけた。だから本来、私にはなにを言う資格もない」
 予想した険しい声はなかった。かえったのは嗚咽であった。
「ごめんなさい――」
 かすれ声が彼女の口からこぼれる。
「こんな風じゃなかったの。こんなこと言うつもりじゃなくて」
 賛成してもらえると思ってた。つぶやき、千鶴のシルエットが揺れた。肩口が棚に接触し、レコード盤の一部が音をたてて落下する。
「私、どうしたらいいの」
 どうすればよかったの。ともすれば聞き逃しそうなほどの小声が聞こえた。こたえるべき言葉をさがす。ふと、思い出されるものがあった。
「義姉さんのような反応も、亡くなった人間の重さを表現するひとつの方法なのかもしれません。悲嘆に暮れることができるのは、つまりそれほどの思いがあったからなんでしょう。だから、それはそれでいいのだと考えたこともある」
 鼻をすする音が聞こえる。同時に、話に耳を傾けているのが気配でわかった。理性はすでにもどりつつある。それを悟りながら、和泉はつづけた。
「しかし、兄が残したのはなにもレコードの山だけじゃない。考えてみれば、彼の存在が我々に与えた影響は大きなものです。若いころからのつき合いだ。私や義姉さんの人格を形成するに不可欠な要素もあったでしょう」
「――そうね。あった」幾分、おちついた声がかえった。「そんなこと、改めて考えたこともなかったけど」
「この部屋の収集品は、鑑賞することも、売って金にすることもできる。遺産は運用できるものです。恐らく、無形の財についても同じことがいえる」
 遺産の存在にすら気づけないのでは哀れとしかいいようがない。腐らせるのは、誰にとっても最もつまらないやり方である。
「つまり、それをいかせということ?」千鶴がいった。
「いかせばいい。彼の残したものでどれだけのことができるか、これからの生きかたで証明すればいい。後世にも残すべきだと思うのなら、子どもに伝えればいい」
 上に足せるものがあると考えるなら、新しい伴侶を迎えるのも悪くはない。ごく自然と、そうも思った。千鶴が決めたのなら自分はそれを祝福するだろう。
 ときが経ったのだ。義姉に対する感情は、かつてとは明確に違ってきている。いま、そのことに気づかされつつあった。
「それが光司のいう自立ということなの」
「それが私のいう自立です」
「むかしの私は、いい母親になれるかもしれないと思われてたのね」
「そう思えました」
「精神的な自立を欠いた人間は親になれない。継承すべきものを知らない人間に子どもを育てる資格はない。そういうことね」たしかめるように千鶴がいった。「残ったものがなにかを考える生きかたをしないといけない。自分もなにかを残せるように。光司の言ってることは、そういうことなんでしょう」
「私の言ったことじゃない。最近、他人から聞いた話の受け売りです。私自身、偉そうにいいながら体現できているわけではない。ただ、参考にすべき考えかただとは思います。我々は、お互いにそうした生きかたを心がけるべきなのかもしれない」
「無くなったものばかり気にするのじゃなくて?」
「無くなったものばかりを気にするのではなく」
「そうすれば」と彼女はつづけた。「いつかは光司にも、子どもを作ることを賛成してもらえる――?」
 微笑みながらこたえた。「もちろんです」
 長い静けさを経て、再び彼女が涙しはじめたのがわかった。だが、身にまとった気配は以前とまったく異なる。自分を哀れむような泣きかたではなかった。
「でも、若すぎた。もうすこし、一緒にいたかった」
「私もです」

 窓の外が白みはじめた。彼女はしゃべりつづけていた。光一との思い出、感銘をうけた彼からの言葉。その生活が自分にあたえた変化。思いおこし、言葉にするたび彼女の微笑は深まった。
 それが一時的なものなのか、持続するものなのかは分からない。しかし出口にはたどり着いた気がした。きっかけはつかまれたのだ。
「ごめんなさい。結局、寝かしてあげられなかった」
 さしこみはじめた陽光に気づき、千鶴が眼を細める。
「せめてうちではゆっくりしてもらおうと思ってたのに」
「いいんですよ。それより顔をあらってきたほうがいい。義姉さんにこんなことを言いたくはないが、ちょっと酷い顔だ」
 笑いながら指摘する。朝日が露にする千鶴は眼を充血させ、まぶたを赤く腫らしていた。
「なんだか今日は、そういう酷い言いかたばかり」
「突拍子もない提案に驚かされると地がでるんです」
「年下のくせに、生意気な義弟ね」
 彼女は不満げな顔で立ちあがり、洗面所へ駆けていった。一〇代のころはよく使っていた捨て台詞である。その背を苦笑しながら見送った。
 署にもどる必要があった。綾瀬の自宅へ寄るまえに、やっておくべきことがある。宿泊用に備えてある衣類に着替え、千鶴が用意した朝食をとった。高橋女史が起きだしてくるのは八時ごろだという。挨拶はあきらめるよりほかなかった。
 朝の北鎌倉駅は学生の占有物である。その規模、外観に相応しからぬ恐るべき混雑をみせる。それを回避するため、七時を少しまわったころで義姉の家をでた。
「子どものこと、私なりにもう少し考えてみる」
「そうすると良いですよ」送り届けてくれた車からおり、ドア越しにこたえた。「まだ三〇前だ。もう少し時間をかけたところで遅すぎにはならない」
 彼女が微笑みながらうなずき返す。ドアを閉めると、軽く手が振られた。応じた瞬間、アクセルが踏みこまれる。次はいつごろ来られるか。すがるような口調で問われなかったのは、いつ以来だろう。考えながら改札にむかい、列車にのった。いくぶん早い時間帯だが、それでも車内は大変な混雑をみせていた。大船までの三分間、全方位からの圧力にさらされる。
 圧迫感は精神にも及んでいた。通勤電車とは関係がない。時間との戦いがもたらすものである。捜査本部は、すでに警察関係者にも疑惑の眼を向けているはずだった。表立っては動いていないが、その路線で捜査を進めている別班も組織されているだろう。彼らが国大ワンゲル部と交流のあった警官の存在にたどり着くまで半日から一日。写真を入手して個人を特定、容疑を固めるまでもう半日。どんなに遅くとも今夜の捜査会議がリミットになる。
 大船駅からは昨日と同様に歩いた。この時間帯のバスは、選挙前に出される候補者の公約にたとえられることがある。すなわち、まったく信用がならない。恒例の渋滞を尻目に通りを歩いた。
 署についたのは八時前だった。あいかわらずマスコミの群れが玄関付近を占拠している。裏にまわり、入寮者用の通用口を利用した。二階にのぼり、まっすぐに綾瀬のデスクにむかう。課内は無人に近かった。課長や係長の席は空いており、綾瀬本人の姿もない。綾瀬に関しては、まだ大阪からもどっていない可能性もある。もどっていたとしても署には顔をださないだろう。恐らく自宅で和泉を待ちつづけるはずである。
 机の引出しをあけ、考えた末にペンを一本拝借した。数日前、封をやぶるのをみた新品である。ハンカチで包みあげてポケットにつっこむ。そのまま鑑識係に足をむけた。デスクは無人だが、作業室のほうには詰めている人間がいるはずであった。ドアを開けると、予想していた姿がスチールの机に就いていた。身長は平均より一五センチ低いが、体重は一五キロ重い。そうした体型の持ち主だった。
「和泉ちゃんじゃないの。また、今朝はずいぶんと早いな」
 彼が丸い顔をむけてくる。肉が頬を張りあげているせいで、年齢にまったく想像がつかない。熊井基文巡査部長。交番勤務四年、刑事課三年。その後、和泉とまったく同じ時期の異動で現職に就いた男である。年齢が近く、趣味が一致しているせいで懇意にしていた。
「この前のドーハムはよかったよ。 <ジャズ・プロフェッツ> だっけか。もうひとりサックスが入ってたやつ」
 パイプ椅子を軋ませながら彼がいった。
「マイナー調のもいいけどさ、吹きまくってるほうがむしろ本領なんじゃないの? なんかそんな感じだよね」
「同感だな」ドアをしめ、そこに背をもたれさせながら調子をあわせた。「彼については誤解が多いと思う」
「なんか、他に面白いネタはない?」
「実は、ケニィ・ドリューの古い盤がでてきたんだ」
 昨夜、義姉の家に泊まってきたことを告げる。彼はそこの一室がコレクションの保管場所になっていることを知っていた。二度ほど、千鶴の諒解を得て案内したこともある。
「ドリューねえ」息をはきながら熊井があごを持ちあげた。彼の場合、首の存在が判然としない。胴体がなだらかに頭部と接続されているようにみえた。「ドリューはあまり評価してないんだよね」
「意外だな。どちらかというとタイプかと思ってた」
「初期のは悪くないんだよ。というか、すばらしい。ただ、最近のになるとね。泣きたくなる。実際、パウエルは泣いてんじゃないの。曲目で買わせるようになると、どうも気が萎えるよ。あれはプロデューサーにも責任があるんだろうけどさ。名演が名曲を定義する世界でしょうに」
「まあ、そういう見解もあるようだ」
「で、見つかったってのはどんなやつ?」
「六〇年代のあたまに吹き込んだブルーノートだな。 <アンダーカレント> のオリジナル盤。聴いてみると、これが全篇気の抜きどころのないハードバップの名盤なんだ」
 ほう、という感心したような声がきこえた。熊井がかすかに腰を浮かせ、またもどす。興味をもったときにでる無意識の動作であった。が、その一連の動作は着実に椅子の寿命を縮めている。
「面白そうだな。その時期のなら是非聴きたい」
「はやくプレイヤーの修理を済ませるといい。準備が整ったらいつでもお貸しするよ」
「ありがたいね」いって、熊井が唇のはしを吊り上げる。「で、俺はなにをすればいいんだ?」
 二歩半の距離を縮め、ポケットのなかのものを取りだした。相手もプロの鑑識官である。指紋の付着をさけ、ハンカチごと丁重に受けとった。問うような視線が下から投げられる。
「内密に頼みたいんだ」和泉はいった。「出所は訊かないでもらえるとありがたい。指紋をとりだして、例の乳児からでたものと照合してもらえると助かる」
 熊井の眼が見開かれる。「例の乳児って、冷蔵庫のやつか」
 そうだ、と応じるや彼が再び口をひらいた。
「状況を考えると確かな約束はできんぞ。頼まれたことはやるし、俺からは報告もしないがな。合致すりゃ、所轄から大金星だ。上の者から探りを入れられたら答えないわけにはいかない」
「もちろん、それは構わない。迷惑をかけるつもりはないんだ。どうあれ、遅くとも明日には上に知らせるつもりでいる。できる限りの協力をしてもらえれば、あとは無理を言うつもりもない。問題が生じたら私の名前をだして責任を回避すればいい」
「そうか。まあ、そういうことならやっておこう」
 礼をいい、所要時間をたずねた。いまの作業にひと区切りつけたらとりかかる。三〇分はかからないだろう。のんびりした声がかえる。それから思いついたように、「結果がでたら知らせにいってもいいが」という提案があった。
「それは是非、お願いしたい。課のデスクにいると思う」
 ドアを開け、強行盗犯係にもどった。宣言どおり自分の席に腰を落とす。課にはちらほらと出勤してきた者たちの姿がみえだしていた。出入口付近には係長の姿もみえる。県警の捜査員となにか話込んでいるようであった。朝特有の活気と喧騒が目覚めはじめている。
 引出しから書類の雛形をとりだし、昨夜の報告書の作成にとりかかった。千鶴、高橋、城戸夫妻それぞれの繋がりを整理し、入手してきた写真を何点か添付する。高橋と城戸夫妻が同じフレームにおさまったものが主であった。一目で彼らの客観的な関係を説明、および証明できるものでなければ資料として価値は小さい。ワンゲル部のものはネガがあるということで譲渡された。返却の必要なし、と書き添える。対して、結婚式のものは借用したものであることを明記した。その後、本人たちから聞きだした話の要点をまとめていく。
 近くに人の気配を感じたのは、七割がた書きあげたときであった。係長が広辞苑級のファイルを複数抱えて歩いてくる。和泉のかたわらに寄ると、それをデスクに落とした。乾いた騒音があたりに響きわたる。課員たちの視線が集まった。和泉は腰かけたまま、顔をあげて説明を求めた。
「これ、県警からのお達しね」係長が積みあげたファイルに手を置く。「あっちから持ってきた、顔写真つき前科者リストの一部」
「――これが?」
 答えるかわりに係長はスーツのポケットを漁った。なかから無造作に束ねられた大量の写真がでてくる。彼はそれをファイルと同じように卓上へ放った。「こっちは、事件後に城戸家周辺で見られた野次馬たちの写真なんだそうだ。見比べてみて欲しいんだと」
「なるほど」
 綾瀬を大阪へ使い走りに、和泉は雑用に。県警のやり口は徹底している。憤りや不快感を超え、もはや感心するしかない。
「お前、なんかあったのか」素早く周囲を見回してから、係長が声をひそめる。「まさか、上の人間を刺激するような真似したんじゃないだろうな。課長からクギ刺されてただろうに」
「特別なことをしたつもりはないんですが」
「課長に知られたら、今度はクギじゃ済まんぞ。ナイフで刺されかねん。その机に縫いつけられるぞ」
 係長は盛大なため息をつき、窮屈そうにシャツの首もとをゆるめた。疲労を隠そうとしない口調で、その件に関してはもういい、とつぶやく。「それより茶、いれてくれ。目一杯しぶいやつな」
「諒解」
「とにかく、面倒は起こさんでくれよ。俺もどやされる」
 うなずきながら席をたち、給湯室にむかった。薬缶をコンロにかける。湯が沸くまでの間、シンクにたまった食器類を洗った。本部設置で大所帯になったせいだろう。流しの混沌ぶりは普段と比較にならない。第二法則へのむなしい抵抗を終わらせ、茶葉と豆を用意した。係長に要望どおりの緑茶と、自分のためにコーヒーを淹れる。
 デスクにもどったとき、離席前にはなかったメモの存在に気づいた。ボールペンで走り書きがされている。熊井が訪れたのだった。彼は、言葉どおり半時間以内に仕事をやってのけたらしい。読みにくい照合結果の報告に、筆記体で <Drew> のサインが添えてあった。
 椅子の背もたれから上着をとる。コーヒーと書きかけの報告書をおいて刑事課をあとにした。逗子市は、鎌倉市の南側に隣接する海沿いの街である。鉄道の選択がもっとも時間の節約になるだろう。署をでた。大通りにむかい、一時間まえに歩いた道を逆にたどった。駅につくと改札をくぐり、最初に来た列車に乗りこんだ。鎌倉、北鎌倉を経由し、逗子。一五分ほど車体に揺られた。
 駅舎をでると、逗子の上空は薄い黒雲に覆われていた。既にもうしわけ程度の雨粒がぱらついている。が、駅周辺を見る限り、まだ傘をさそうという者は少ないようだった。隣り合わせているにも関わらず、鎌倉と逗子の天気が同時刻でまったく違う、ということは珍しくない。両市住人の誰もが知る現象であったが、その理由を説明できる者は少ないのだろう。ロータリィを少し歩き、はじめに眼についたタクシーにドアを開けさせた。
 綾瀬のアパートは小坪区と新宿区の境界付近にあった。実際に訪れたのは初めてのことである。一棟型の集合住宅で、集合ポストから察するに世帯数は六。少なくとも築一〇年は数えるであろう二階建てであった。建物を取り囲むように駐車場が広がっており、綾瀬のスペースにはクリーム色の小型車が停められている。
 彼の部屋は二階のようであった。階段をのぼってふたつめのドア脇に「綾瀬」の表札がある。その前で立ちどまり、通路の手すりに肘をかけた。海があるはずの方向を眺める。眼下には静かな景色が広がっていた。微風の吹きつける向こうから、原付バイクの駆動音が遠く聞こえてくる。
 ドアに向きあい、インターフォンのボタンを押した。
 送話器がとりあげられる気配はない。少し待つと、扉が内側から直接ひらかれた。がっしりとした手首がみえ、広がっていく隙間から綾瀬の相貌が明らかになる。彼は紺色のシャツを羽織り、綿製の白いズボンをはいていた。口元には来客のための穏やかな微笑が浮かんでいる。
「遅かったな」彼がいった。
「仕事を増やしてくれたのは誰です」
 綾瀬の表情が苦笑に変わる。「それはすまなかった」いって、彼はドアから離れた。身振りで入るようにうながされる。和泉は玄関に足を踏みいれ、後ろ手にドアを閉めた。
 通されたのは八畳ほどの居間であった。ここまで、同居しているという女性の姿は見えない。玄関にそれらしい靴がなかったことを思いだす。問うと、買い物に出かけているという答えが返った。
「ガサ入れが終わったら、彼女はここを出ることになるかもしれない。良かったら引越しを手伝ってやってくれないか。ご覧のとおり大したものは置いてないが、男手が必要になることもあるだろう」
「自分が手伝う、とは言えないんでしょうか」
「できるならそうしたいんだがな」彼は肩をすくめ、狭いダイニングの食卓に歩み寄った。置かれていた何冊かの大学ノートを手に戻ってくる。「座ってくれ。長い話になりそうだしな」
 あごでしめされたソファに腰を落とした。ノートを手渡される。綾瀬はそのまま和泉のまえを横切り、ひとりぶんの空間をあけて隣に座った。
「学生時代からつけていた日記だ」彼がいった。「お前さんに預ける。用が済んだら本部の連中に渡してくれ。動機面での資料になるだろう」
 手にした日記に眼を落とした。全部で四冊ある。一番上になったそれは大部分が茶色く変色していた。なにも書かれていない表紙を見つめつづける。
「――城戸夫妻とはいつから?」
「長いな」綾瀬がいった。「とくに旦那のほうとは三〇年近いつき合いになる。あいつのほうが一学年うえなんだが、幼い頃はそんなことなど関係ない。家が近かったんでな。かなりの間、毎日顔をあわせるような時期がつづいた」
 当時を思い起こしているのか、どこか遠くを見るようにその眼が細められた。それがふとゆるみ、横へ移動する。和泉のうえで止まった。
「やはり、媒妁の写真か?」
 彼がたずねた。小さくうなずきかえす。
「それがきっかけだった。性質の悪い仮説が浮かびましたよ」
「往々にしてそういうものが真実であったりするんだ。現実は大抵の場合、性質が悪い」綾瀬が肩を軽く揺すって笑う。すぐに収めると、表情を引き締めていった。「仮説を検証してみる気になった要素はなんだった」
「いろいろあります」
「たとえば?」
「まず思い浮かんだのは、通報があった日のことです。主任は早い時間帯から署にいた。非番あけの逗子住民が、上階で寝泊りしている入寮者より早かった。それでも、そのときは何とも思わなかったものです。役職が役職なだけに早くから連絡がいったのだろう、と考えた程度だった。しかし、別の見方ができることに気づいた。出勤が早かったのは事前に知っていたからではないのか。一一〇番があることを予測し、備えていたからではないのか――」
 城戸舞子の反応についても同様である。そうつづけた。あの娘は、綾瀬を見るなり飛びついていった。その場では、笑って冗談のネタにしたほど些細なことに思えた。だが、予め顔見知りであったと考えれば別の側面が見えてくる。
 死体の遺棄場所についても再検証が可能だった。あれは本当に警察組織への挑戦のためだったのか。――そうではない。そこに罪悪感があったからだ、とも考えられる。
「それとなく空き部屋があることを誰かに話せば、自然と休憩室や仮眠室に使おうという流れになってもおかしくない」和泉はいった。「反応が悪ければ自分で提案すればいい。主任の肩書きを出せば、他課の若いのを自由に使える。簡単に冷蔵庫へ誘導することができた」
「なんだって誘導する必要がある。罪悪感、とか言っていたが」
「発見を早めたかった、と考えれば筋はとおる。冷凍室が選ばれたのは遺体の腐乱をさけ、できるだけ綺麗な状態で親元に返したかったからであったとすれば? そこからは犯人なりの罪の意識が見えてくる。角度を違えればそういう仮説もでてくる」
 綾瀬が膝の上で両手を組む。わずかな沈黙のあと、落ち着いた口ぶりで「決め手になったのは」ときいた。
「主任が意図して遺体に残した指紋です。署に寄って熊井巡査部長に照合をたのんだ。主任の新しいペンを拝借してね。結果は合致。おかげで彼には貴重なレコードを貸す羽目になり、ここに来る時間も遅れることになった」
 綾瀬が薄っすらと笑む。それは悪かったな。短い謝罪の言葉があった。
「私の仮説が正しいのなら、犯人は良心の咎にさいなまされていた。だから意図的に物証を残し、意図的に早期解決へいざなうための仕掛けを設置してまわった」
 言葉をきり、綾瀬の横顔に眼をやった。
「……なぜ、殺したんです」
「信じてもらえないかもしれないが」
 組んだ手がかすかに揺らされ、彼の顔が天井をむく。
「あれは事故だった。抱きあげて、自分が考えたことに酷く動揺した。それで手元が狂った。子どもは頭から落下して、気づくと死んでいた」
「城戸家の所在、家族の生活パターン、子ども部屋の位置。知っていたということは、まだつき合いはつづいていたということだ。あの夜、なぜあの家に?」
「ワンゲル部の関係者に話を聞いたのなら、知ってるだろう」
 いってから、綾瀬は和泉の手元を眼でしめした。それにも書いてあるが、とつづける。
「当時、部内でそういう噂がたっていたことは知ってる。早奈子さんをはさんで俺と城戸が対峙。構図として本当にそれはあった。現実的に結婚、という考えがあったからな。一〇代のころと比較して、その争いはより熾烈であったとさえいえる」
 しかし、結果は現実がしめすとおりである。争奪戦の対象となった帰国子女は、城戸の姓を名のるようになった。彼女がなぜ綾瀬を選ばなかったのかはわからない。だが、不意に脳裏をよぎる言葉があった。
 立派すぎる上司はいらない。器用に振舞える人間こそが自分には必要なのだ――。
 綾瀬にそう告げたのは、巡査を拝命したばかりの青年である。とはいえ、彼だけの専売特許というわけではない。和泉は経験上、似た台詞を若い女性が口にし得ることを知っていた。
 立派すぎる男はいらない。妥協のできる人が必要だった。折れたり曲がったり。そうしてしまったことを嘆いて、弱さをさらして。そんな人間らしさを見せてくれる人といたかったの。彼女たちが別れの理由として持ちだす理屈である。
 あるいは、城戸早奈子も同じような思いをもったのかもしれない。そのために綾瀬を忌避した可能性もある。そうでない可能性もある。いずれであれ、恐らく和泉が知ることのない事実であった。
 当時のことを語りはじめる綾瀬の声が聞こえてきた。
「もうずいぶんと昔の話に思えるが……ふたりが婚約したと知ったとき、俺はそれを祝福したよ。仲人を頼まれ、引き受けもした。争っている頃から結果は見えていたからな。もともと勝てる気はしていなかった」
 それから彼は、ふと和泉に顔をむけた。俺の母親が倒れたとき、黙って金を渡してくれた人間の話をしただろう。確認するように問う。
 照明の落とされた食堂で語られたことだった。ずいぶんと古い話のようにも思えるが、実際は二日前の出来事にすぎない。思いだしながらうなずく。「――ええ、覚えています」
「あれは城戸のことだ。あいつはそういう男なんだ。なにもなくたって尊敬できる人間だ。そのうえ、命に直結するような大恩もある。だから彼女が城戸を選んだのも当然だと思えた。素直に思ったよ。悔しさがなかったわけじゃないが、それ以上に納得もできた。そのころは、俺も仕事が充実してたしな」
「以後のつき合いもずっと?」
「連絡はつづいていた。とはいえ、何年か前までは年賀状や歳暮のやりとりが精々。あとは、たまに山行で顔をあわせる程度だったな」
「前から思っていたんですが、そのサンコウというのは?」
「いわゆる登山だ。ワンゲル関連の趣味だよ。学生時代ほど頻度では無理だが、社会に出てからもお互いにつづけていたからな」綾瀬はなつかしむように語る。「会う頻度があがったのは俺が大船に配属されてからだ。今泉台はノビが多いだろう。空き巣捜査の関係で、近くまでたびたび足を運ぶようになった。ついでに顔見せにいく機会は飛躍的に増えたよ」
 うなずける話だった。大船への異動が決まるまで、綾瀬は本部勤務であったのだ。いまとは比較にならない激務のなかにいたのだろう。城戸のほうも事業規模の維持拡大に忙殺されていたはずである。
「――何年か前までは、俺も城戸も順調だった。互いに充実していた。しかしやはりといったところかな。俺のほうが一方的につまずいた。そのへんは、お前さんも知ってのとおりだな」
 綾瀬は自嘲的な笑みをうかべる。
「だが、城戸は違う。あいつは別だ。子どものころからそうだった。健全な両親、家庭、財、人望、人格。俺が漠然と思い描く理想の人間像は、いつもあいつと重なっていた。本部で充実していたころは少しだけ近づけた気もしたが、それも幻だった。俺が唯一のありどころを失っても、あいつは依然と充実していたよ。すべてを持っていた。最高の伴侶に寄り添われていた。豪邸を建て、両親を招いて。事業は日の出の勢いだ。県外にまで支店をだしていた。得られた利益は地元に還元され、社会福祉に貢献。愛らしい娘もある」
 疲れたように彼は深く嘆息した。あるいは生気さえ一緒に吐きだされたのかもしれない。肩がすこし萎んでみえた。
「――対する自分はなんなのだ。そう思ったよ。思わされてしまった。俺は将来をなくした警官だ。生活はまるで政治犯のように絶えず監視され、まともな家族もない。城戸が豪邸の主なら、俺はその周囲をうろつき回って寄りつくコソ泥相手に吠えるだけの番犬だ。終わりの見えないそうした生活に、正直なところ疲れ果てていた」
 組んでいた指を解き、彼は自分のてのひらを掲げ見た。
「俺はたぶん、人生ではじめて自分を哀れんだ」
 それは現実に重さをもつかのごとく、場の空気に深く沈んでいった。行方を見送るように綾瀬が視線を落とす。想像もしたことのない彼の姿だった。著しく現実感を欠いた光景だった。
「きっかけがあったとすれば、彼らに第二子が産まれたときだったのかもしれない」
 ぽつりと彼がいった。
「もう手のつけようがない。その子を見て、ふとそう感じた。あいつはより充実し、より俺を惨めな存在にするだろう。そう思ってしまった瞬間、なにか毒のようなものが自分のなかに広がるのを感じた」
「だから――殺そうと思ったんですか」
 その問いは、彼の耳に届かなかったのかもしれない。あるいは和泉の存在さえもう眼中にないのだろう。綾瀬はただ淡々と自分の発したい言葉だけを口にしつづけた。
「当時、俺はすでに静香との同居をはじめていた。結婚の話も何年か前から進んでいてな。ある日、それがかなり具体的なところまでいった。場所や日どりも決まった。俺もいよいよ所帯持ちになる。風向きが変わる。そんな実感がうまれてきた」
 綾瀬はいったん言葉をきり、微妙に声のトーンをかえた。
「そのとき、ふと思ったんだよ。俺はなにかを得ようとしたとき、城戸がなにかを失ってみたらどうなるだろう。あいつはどんな顔をするだろう。一度くらいそんなことがあったって良いはずだ。俺はずっと城戸の引き立て役だったんだ。権利がある。転げ落ちたあいつの面を拝む資格がある。そんな思いつきがあった。それはそのときに限って、極めて魅惑的な考えのように感じられた」
 化学反応。結合。悪性の化合物。それが犯罪へと至る。――昨夜、千鶴に話したばかりのことである。人間になら誰にでも起こり得ることだった。たとえ綾瀬でも。たとえ警官であったとしても。人はその可能性を潜在させている。
 彼の感じていたものは孤独だったのだろうか。麻痺しかけた思考で思いを巡らせた。
 あるいは、そうだったのかもしれない。それはある種の孤独感であったのかもしれない。彼もまたそれの受け入れ方、むきあい方を誤ったのかもしれない。
「考え出すと止まらなくなった」
 綾瀬は両の膝にそれぞれ肘をついた。組んだ手に眉間のあたりをおしつける。くぐもった声がつづいた。
「正直、自分が恐ろしくもあった。と同時に、まったく別の感覚もあった。あれは何と表現したらいいか……一種、寒気のような興奮と高揚感だったな。狂いはじめているという実感は当然あったが、それを冷静に受け止めているもう一人の自分もいた。いずれにせよ、とった行動は狂気そのものだった」
 気づくと、俺は息を荒げて暗い小部屋にいた。綾瀬はそう語った。月明かりをたよりに眠る子を見ていた。抱き上げて、自分がその子になにをするつもりで来たかに気づいた。
「そして、そこで醒めたんだ」
 信じられるか。そう問うような視線が、和泉にむいた。無言で応じるよりほかない。やがて綾瀬は顔をもどし、うつむかせながら話を再開した。
「いきなりだった。酔っ払いが車にひかれかけて、一瞬のうちに酔いから醒める。そういった感覚に近い。突然、我に返った。驚愕が感電したみたいに身体が跳ねあがらせた。そして、子どもが腕から零れていった」
 綾瀬の眼には、そのときの光景がまた残っている。脳裏でなんども繰りかえされている。そんな感じのしゃべり方だった。行為の代償として咎を背負うことに疲れ切った表情であった。
「婚約者の――大津さんはそのことを?」
「知っている」低い声で彼がいった。「なにをとち狂ったか、俺は遺体をもってここに帰ったんだ。両手に抱いて」
「ここというと、この部屋に?」思わずたずねかえす。
「この部屋にだ。本当にどんな思惑があってのことか、いま考えても分からない。気づいたらそうしていた」
「彼女はなんと」
「一晩かけてふたりで話し合ったんだが、彼女は終始、泣きながら自首するよう訴えていた。ところが、当の俺はまだ自分が人を殺したということに実感が持てずにいてな。時間がほしい、と答えた。少しでも頭がまともに働くようになったら彼女の言うとおりにする。約束して、自首のタイミングを遅らせることにした。冷蔵庫に保存しておくことを考えついたのはそのときだ。蒸発して痕跡は消えたんだろうが、ドライアイスも一緒に入れておいた。その気になれば、自首と同時に遺体を警察にわたせる。それがベストな選択のように思えた。そんな浅慮がベストだと感じられるほど、俺はおかしくなっていた」
 語り終えた綾瀬を、和泉は長いこと眺めた。現実感がわかなかったのも当然だろう。聞いている第三者でさえ信じられないような話である。情景をまったく思い描くことができない。この男は本当に綾瀬なのか。自分はなにか大きな誤解のなかにあるのではあるまいか。そんな疑惑の念すら浮かんでくる。
「犯行声明は?」
 訊かれた声に、綾瀬はゆっくりとかぶりをふった。「俺とは無関係だ。公にも指摘してきたとおり、あれは愉快犯が便乗して書きあげたものだろう」
 和泉は立ちあがり、静かに綾瀬を見下ろした。
「辞表は、組織と関係者への波紋を抑えるために?」
「そうだな」彼が顔を伏せたまま乾いた笑みを浮かべる。「日付の欄は空白にしておいた。一ヶ月前に受理していた、とでも発表すれば面子も保てるだろう。犯人はあくまで元警官ということになる」
「――私をここに呼んだのはなぜですか」
 しばらくの沈黙があった。
「さあな」綾瀬がいった。「ただ、お前にはきちんと話しておきたかった。たぶん、ゆっくり話せるのは最後になるだろうからな」
「捜査本部も遊んでいるわけじゃない。恐らくは今日じゅうに私がたどり着いた結論へ至るでしょう」
 いまこの瞬間、礼状を懐に忍ばせた捜査員たちがなだれ込んできておかしくない。そう胸中でつけくわえる。
 やや間をおき、たずねた。
「時間は切れた。どう決着をつけるつもりです」
「約束どおりにするさ。もう、他にできることもない」
 しばらく考え、「信じましょう」と応じた。婚約者に残す言葉もあるだろう。
 眼の前の男は、すでに自分の知る綾瀬今日也ではないのかもしれない。そうした思いもある。だが、それでも彼は約束を守るだろう。本人の言葉どおり、これが最後になるのだ。守るだろう。それだけは信じられるような気がした。
 署で待ってる。そうことわり、ドアにむかった。ノブに手をかける。半ばほど扉を開きかけたところで、ふと思い出されることがあった。
「――あのときの詩はできあがったんですか」
 振りかえって問いかけた。
「署の食堂で、作りかけだといっていた詩稿です」
 声に綾瀬が顔をあげる。やがて、ゆっくりとうなずいた。内容を問うまでもなく、彼は自らそれを暗唱しはじめる。黙して聞き届けた。
 短く、簡素な詩だった。
「タイトルのようなものはあるんですか」
「そうだな。あるといえるのかもしれない。ただ、たぶんこの場には響きとして相応しくないな」
 分かるような気もする。自分が彼の立場にあったら、同じように思ったかもしれない。理解した証として小さくうなずいてみせた。
 再び背を向けたとき、名を呼ばれた。踏み出しかけた足と、ノブにかけた手をとめる。そのままの姿勢でつづく言葉を待った。
 やがて、「ありがとう」という囁くような声が聞こえた。気のせいかとも思えるほど微かな声だった。
 それは空間全体に染みゆくように消えていき、そして静けさがもどる。何度かの深い呼吸をはさんで、和泉は口を開いた。振りからずにいった。
「引き継ぐには早すぎた。もっと教えを受けたかった」
 静かに扉を閉め、歩きだした。



つづく