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 第三部 「ドリームシフト」


 15

 海から吹き付ける風が松林をゆらした。思わず言葉をとめ、それが訪れたほうへ眼をむける。かたわらに立つ城戸が、同じ方向へ視線を投げるのがわかった。
 ふたり、しばらく無言で駿河湾を眺めた。冬特有の透明な青空と、それを映しだしたような海原が遠くつづいている。やがて風が弱まり、木々のざわめきが収まっていく。完全な静けさがもどるのを待って、大津晨一郎は再び口をひらいた。
「父はその日のうちに大船中央署に出頭しました。事件は犯人の自首をもって決着。そう報じられた。あとは誰もが知るとおりです」
 警察は、綾瀬今日也がだしていた辞表をうまく利用した。事件が起こる前から受理していたように振る舞い、殺人を犯したのは神奈川県警の元警部補であった、としたのだ。それでもマスコミは刑事による人殺しと騒ぎ立てた。当然だろう。そちらのほうがより衝撃的、刺激的なニュースになる。「神奈川県警からまた殺人犯」「今度は乳児誘拐殺人」。そんな見出しも躍った。前年の一九八四年、複数の婦女暴行事件と殺人の容疑で逮捕された男も、かつて神奈川県警の警官であったからだ。
「そうした状況下にありながら、母は父と結婚しました。どうやら父は、自首するまえに婚姻届にサインをしていったらしい。彼女はのちにそれを役所へ提出した。親戚から猛反対を受けたようですが、彼女はまったく意志を変えなかった。勘当をいいわたされ、縁を切ると脅されても結婚に踏みきったそうです」
「――静香さんはそうした女性だった」
 城戸が懐古するように口元をほころばせる。
「身体が弱く、ふだんは控えめで奥ゆかしい人なんだがね。それでいて頑固なところも相当にあった。静かに決意を固めると、最後までそれを通そうとする。今日也も手を焼くほどだった」
 今日也。その呼び名を耳にした瞬間、確かな衝撃があった。それは、彼らが古くからの友人関係にあったことを如実にしめす実証にほかならない。幼少期からの付き合いがあった。そう聞いていた話に偽りはなかったのである。
 にわかに胸中がざわつきはじめる。それを無視して大津はつづけた。
「私にとって救いであったのは、母が綾瀬を名のらなかったことです。当時の世間では異例のことだったが、ふたりは結婚で姓を統一するとき、母の大津姓を選択した。弁護士のすすめもあって、そうしたと聞いています」
「八ヵ月後、君が生まれることが分かっていたからだ」
「恐らく、それも理由のひとつだったのでしょう。たしかに翌年の六月、私がうまれた」
 そのとき、すでに大津今日也の裁判ははじまっていた。いま向きあっている城戸芳晴の姿も傍聴席にはあったのだろう。母、大津静香も証言者として召喚されることがあったという。
 その公判において、検察側は懲役一八年を求刑した。対する弁護側は殺意の存在を否定し、業務上過失致死および死体遺棄で争う構えをみせたと聞く。だが、そんな主張が認められるはずもない。警官という社会的責任の大きな立場にありながら、乳児を殺害するという陰惨な事件を起こした。一般に与えた悪影響と、警察組織の信頼を失墜させた責任は極めて重大。そのような解釈におき、懲役一六年が申しわたされた。
「私などより良くご存知でしょうが、父は上告しませんでした」大津がいった。「刑はそのまま確定された。父は刑に服し、一一年後に獄中で死んだ。まだ四〇半ばだったが、脳溢血だったと聞いています」
 それが自分の知る事件の概要だ、と結んだ。
 城戸は終始、表情を変えずに聞いていた。話し終えたあとも同様であった。なにか遠いものを眺めるように大津の相貌を見つめつづける。
「正直なところ、驚きました」
 彼はとてもそうは思えない口調でいった。
「きみは私が予想していたより、遥かに事の詳細につうじていたようだ。情報の性質からいって、マスコミや静香さんが知りえなかったものも含まれている。あるいは和泉巡査部長と話したことがあるのだろうか?」
 かぶりを振って答えた。「母が彼と話をしたようです」
「静香さんが?」
「和泉巡査部長も証言台にあがったひとりです。恐らく判決が確定するまでは、法廷なりで顔をあわせることがあったのでしょう。そうしたとき、かなり詳しいことを段階的に聞きだしたようです」
「その話が、静香さんを通してきみにも伝わった」
「それが全てではありません。いまお話ししたことのなかには、自分で調べて得た情報もかなり含まれています」
 興味をもったのか、彼の片眉がかすかに動いた。
「それは具体的にどのような部分なのかな」
「犯行動機や父の人柄についてがそうです。母はそれらに関して、私になにも語ろうとしなかった。父が出てくるのを待ち、本人の口から聞くべきだと考えていたようです。子ども目で見た限りですが、それはほとんど信念にも近かった。私に語って聞かせたいような素振りもあったものの、それを抑えてこだわりとおしたことです」
「いかにも彼女らしい逸話だ」城戸が肩を揺すりながら笑い声をあげる。「眼に浮かぶようだ」
 しかし、それが裏目にでた側面もある。綾瀬今日也は自由を見ぬまま獄死し、大津静香はそれを知らぬまま他界した。結局、両者ともすべてを語らぬまま去っていったのだ。
 城戸も同じことを考えたらしい。彼らのこだわりは、きみにとって必ずしも幸運な結果をもたらしたわけではないようだ。そんな言葉を口にした。
「しかも、だ。話を聞いたかぎり――これは予想されたことだが――私の認識ときみのそれには多少の相違があるように思える」
 黙って彼を見つめかえした。
 当然、認識の相違はあるだろう。被害者側と加害者側。両者においては、ひとつの事件をとっても全く捉えかたが違ってくる。たとえば母がそうだった。大津静香はただひとり、最後まで夫の無実を信じつづけた。彼を誇りに思っていた。お父さんは立派な人で、みんなから尊敬される警官だった。貴方の名前はお父さんがつけたのよ。――彼女の主張は揺らがなかった。お父さんは悪いことなんてしてません。本当のことはいずれ明らかになる。みんながどう思ってるかは大事じゃないの。帰ってきたらお父さんの話をよく聞きなさい。世間に恥じることなど何もないことが分かるから。
 そう念じて耐えるしかなかったのだろう。大津自身、母のそんな言葉を無邪気に受け入れていた時期もある。物心つく前はそうだった。だが読み書きを習得してからは事情も変わった。世界から客観的な情報が雪崩れこんでくる。それは圧倒的な質量をもつ奔流であった。それでも母の言葉にすがりつくこともあった。だが、思いの力だけでは疑惑を払えない。天秤の傾斜が逆転するまで時間はかからなかった。
 母のことは好きだったが、以来は愚かだとも思うようになった。現実を認めず、妄想にも似た夫の潔白を愚直に信じる。その姿を、ときに冷たく見つめてさえいた。
 彼女はそうした息子の視線に気づいていただろうか。いま、ふと思う。――恐らくは気取ることもあっただろう。それに心を傷めることもあったに違いない。思わず、彼女の墓標と見立てた松の大樹を見やった。
「良かったら、私のほうの話も聞いてもらえないだろうか」
 その声で大津は我に返った。顔の位置を元にもどすと、城戸の視線と正面からぶつかる。彼の表情はかすかに強張っていた。
「長い話になるがね。是非、きみには知っておいてほしいことがある。聞いてもらえると嬉しい」
「こういう言いようは遺族の方に失礼かも知れませんが――父が軽蔑すべき人間であるということは、さまざまな人々から表現もさまざまに聞かされてきたことです。新たな一例が加わるのをいまさら忌避しようとは思えません」
「そうか」いって、彼は考えるように中空へ視線を泳がせた。「持ちだしたは良いものの、果たしてどこから話していいか」
 黙して待つ。やがて彼は顔をもどし、口元のしわをわずかに深めた。「どうだろう。きみは、私と彼の幼少期の話を聞いたことがあるだろうか」
「ないと思います。記憶にはありません」
 城戸は満足そうにうなずいた。では、そこからはじめよう。独り言のようにつぶやき、そして話はじめた。


 16

「私と今日也は気づくとすでに知りあっていた。就学以前だからおそらく四、五歳のころ――あるいはもっと遡れるだろう。それくらいの時から一緒だった」
 眼を細めつつ、城戸は当時に思いを馳せる。
「学年はひとつ私のほうが上だったが、誕生日はそう違わなくてね。彼はそのころから大柄なほうだったし、頭にくるほど自立心が強かった。互いに年齢差を意識したことは一度もなかったと思う」
 つづく話によれば、自宅はほとんど隣家どうしであったのだという。小さな川をはさんで、両家は向かいあっていた。違ったのは規模だけであったらしい。戦後間もない当時は社会そのものが貧しかった。そのなかにあっても、綾瀬家は酷く困窮していたのだという。母と子が掘っ立て小屋に住んでいた。父親はいなかった。
「私はたまに間食することがあったが、今日也は私の家でそれを振舞われると決まって眼を丸くしていたな。一度、チョコレイトの欠片がでたことがあったが、彼はそれを食べなかったよ」当時の悪戯を思いだしたように城戸が笑む。「今日也は私の母に何度も礼をいい、ドロップの空き缶に放り込んで長く保管していた。チョコレイトを所持しているという事実が、彼にとっては特別なことだったんだろう」
 チョコレイトが高価な菓子だった。そんな時代の想像がつくだろうか。城戸の問いに、かすかな戸惑いを感じつつ首を左右した。大津にとっても、母とふたりの生活は決して楽なものではなかった。彼女を亡くしてからはなおさらである。級友たちとは違い、大津はTVゲームのコントローラすら握ったことがない。だがそうしたものとはまた別の世界が語られているのだろう。そんな気がした。
「いまでこそシングルマザーなんて言葉が入ってきて、認知もされているがね」城戸がつづける。「当時はまったく事情が違った。死別したのならともかく、女性がひとりで子育てしていると奇妙な眼で見られたものだよ。私の父親も、今日也とのつき合いにあまり良い顔はしなかった。母は大らかというか、少し変わった人だったから気にしなかったようだが――とにかく今日也は家庭環境と台所事情でずいぶんと苦労していた」
「彼にはなぜ父親がいなかったんでしょう」
 大津がたずねると、城戸は綺麗に剃られた口ひげのあたりをなでた。「そうだな。私も詳しいことは聞いたことがない。あいつは自分のことを話さない男だった。まあ、死別でないことは確かだ。それは誰かから直接聞いた。離婚もしていなかったと思う。恐らく外に別の女性があったのだろう、というのが私の勝手な考えだがね」
 うなずいてその仮説を受け入れ、話の腰をおったことをわびた。城戸は微笑で応じ、落ち着いた語り口でつづける。低く、深みのある声であった。
「我々が中学生だったとき、今日也の母親が体調を悪くしはじめた。家計を支えるため、あいつは働きだしたよ。新聞配達や酒屋の手伝いをしていたようだ。学校を休む日もしばしばで、来ても授業中は眠っていることが多かった。だが問題はなかった。あいつは恐ろしく頭の良いやつで、教科書は一度読めばだいたい覚えてしまえた。読んできて、必要があると思ったらその部分は起きて講義をうける。あとは眠って英気を養う。それで成績はいつも上位だった」
「頭の出来は、私に遺伝しなかったようですね」
「そういう表現を含め、きみは今日也の特性を驚くほど継承して見えるがね」城戸がにやりと笑った。「きみのことを多少しらべさせてもらった、と言わなかっただろうか。成績のことも私はある程度、把握している」
 黙秘権を行使するほかなさそうだった。人間の知性と学業的な実績とはまったく結びつかない。定期考査で高得点をあげる者が、人を殺めて生涯を棒にふったという実例もある。大津が好成績をおさめてきたとするならば、それは奨学金を得るための対策が効果をあげたからに他ならない。同じ事を実行すれば、誰でも大津以上の結果を残せただろう。
「ともかく、今日也はそうした少年だった。あいつに対する周囲の評価は、だから常に両極端だった」
 つまり一目おくか、嫌悪感を抱くかであったのだという。ふたりは小、中、高と同じ学校に通ったが、城戸の眼にその傾向は徐々に強まっていったように見えたらしい。
「高校二年のときだったかな。当時、我々は少しおかしなくらいバイクにあこがれていた。あれはもはや崇拝に近かったよ。とにかく身震いするほど格好の良いものだと信じこんでいてね。私の従兄が足代わりに使っていたんだが、これの後ろにそれぞれ乗せてもらったのがきっかけだったのだと思う。以来、なにか違った世界を見るための道具だと感じるようになった」
「話をうかがった限りだと、父は単車など手にできる環境になかったように思えますが。城戸さんはともかく」
「私もそうだったよ。我々は大型の外国車に羨望の念を寄せるようになっていたからね。とてもとても。――だから、現実的なもうひとつのものに夢中になった。高校生くらいの年代なら当然のことだが、我々は異性にも特別な関心を払っていた。特定の心当たりも、もちろんあった。それが、きみのお母さんだった」
 期待通りの反応を見たのだろう。城戸は大津の顔を眺め、愉快そうに眼を細めた。そして言葉をつぐ。
「我々三人は、つまり一〇代から共通の知人どうしであったのだ。どうも、きみはそれも聞いていなかったようだね」
「初耳です」大津は認めた。
「予想はされたことだ。私も、両親の馴れ初めについて詳しく聞かされたことはないよ。見合いでなく、自然な出会いによる意気の投合であった、と祖父母から小耳にはさんだ程度だ。どこの家庭でも、恐らくはそんなものなんだろう」
 たしかに、思春期の自分について熱心に語る親というのは珍しいのかもしれない。だが問題はそこにはない。彼らが出会ったきっかけこそが重要なのである。いまのところ、彼らにそれらしい接点は見えてこない。
「これは知っているだろうが、静香さんは生まれつき身体が丈夫なほうではなかった。幼い頃はなにか特殊な肺炎を患って、病院通いをしていた時期があるという」
 そのことは聞いていた。首を縦にして城戸に伝える。
「彼女は肺の治療のために、神奈川まで遠征していたんだ」城戸がつづけた。「彼女は静岡県の出身だが、当時、あちらには最適な治療を行える環境が揃っていなかったのかもしれない。今日也は今日也で、体調を崩した母親を病院に送り迎えしていたからね。そのときに出会ったんだ。私も後日、面白い少女に出会ったと彼から紹介してもらった。我々はすぐに打ち解けたよ。コンビがトリオになったような感覚だった。三人でつるむようになった」
 彼はそこで間をとると身体のむきを変えた。浜辺から吹き付ける風を正面から受けられる角度である。大津は、そのななめ後ろに位置することになった。彼の視界からはほとんど外れているはずである。
「しかし、この土地は一見の価値があるな。たいへん眺めが良い。三保を訪れたのはこれが初めてだがね。若者の姿が結構みえるから驚いたよ。羽衣伝説など聞かない世代だろうに」
 彼はそうして海を眺め、やがて話を再開した。
「――身体こそ弱かったが、静香さんは本当に魅力的な女性だった。きみのような若者にはまだない感覚かもしれないが、あのころの若い娘というのは本当にまぶしいくらいでね。いま思い返すと、なにか奇跡的なことのようにも思えるが――ともかく、私も今日也も夢中になった。どうしたら彼女にもっとも信頼される理解者となり得るか。毎日そればかり考えたよ。浮かれきっていた」
 だが、間もなくそれが絶望感に変わった。まったく口ぶりを変えず、城戸は穏やかにそういった。
「彼女は今日也に惹かれつつある。それをはっきり理解したからだ。あいつは自然体だったからね。私のようなアピールを好まなかった。自慢や虚栄が嫌いだった。必要なかった、ともいえる。静香さんはそれを解する聡い人だった。一流の女性は、なにより人を見る眼に優れている。本物を見抜く。私が眼中になかったのは当然だった。しかしそこが若さといったところか、悪あがきをしてね。バイクを買って、逆転のきっかけにしてやろうと思った。そんなことで彼女の気を引けると思ったんだな。それで、私はその年の夏休み、西に飛んだ」
 そのころの中国・四国地方は自動車産業の拠点になっていたという。各社が工場を構え、血眼になって労働力をかき集めていたらしい。最大半年の短期契約。採用された段階で、どの工場からでもまず一万円が支払われた。
「それは――」驚きながらいった。「当時の貨幣価値を考えると相当な額だったのでは?」
「相当な額だった」城戸は即座に軽くうなずいた。「高校で買っていたパンが二〇円くらいの時代だったからね。だから、なかには悪いのがいたよ。契約するだけで一万もらえると聞くや、入って辞めての繰りかえしで荒稼ぎしようと目論んだらしい。――もちろん、そうした人間は業界のブラックリストにのる。そうそう上手くはいかないものだ」
「どういった仕事だったんですか」大津が訊いた。
「簡単にいうと、自動車の大まかな組み立てだった。主だった部品を集めて形にする。誰にでもできる仕事だ。しかし、誰にでも継続できる種の作業ではなかったな。なかにはプロの世界でレスリングをしているのがいてね。若手だから収入が少ない。トレーニングをかねて、といって働いていた。彼は四日目の業務を終えた時点で辞めたよ。ほかに、私は三日で八キロ痩せた人間を知ってる。あれは凄まじい仕事だった。契約の最大延長が半年に設定されていた理由を骨身にしみて理解したよ。どんな人間も、半年以上つづけたら廃人になる。汗がね、結晶化するんだ。頭から冗談でなく煙のようなものがあがってね。着ているものは一日で廃品になる。身体を破壊するためにある仕事だった」
 城戸は夏休みの間、それをつづけたのだという。その工場において上位から六番目の記録となった。当然、同時期に入った者は誰も残っていなかった。稼いだ額は、手取りでも平均的な社会人の年収に匹敵するものであったらしい。
「帰ったときは体型がまったく変わっていてね。今日也や静香さんはもちろん、家族さえ仰天した。だが、その金で念願の単車を買えた。 <ノートン社> という、いまでは幻あつかいされているところのものでね。卒倒しそうなほど格好よく見えていた。稼いだ金のほとんどを注ぎこんだが、それで自分の魂に等しいものが得られるなら安い、とさえ思った。だから、納品された日などはガレージにこもったね。後ろに静香さんを乗せている情景を想像していた。周囲の誰も持っていない最高の単車だ。間違いなく気を引ける。夏休みの間、今日也にリードされていた分を取り返して釣りが来る。確信しながら手入れをして、その晩はガレージに泊まりこんだ。親には呆れられたが、シートにまたがって寝た記憶がある」
 奇妙な話であった。綾瀬今日也と城戸芳晴は、のちにまったく違った女性を巡って対立してもいる。たしかに、こと男女においては何が起ころうとまったく驚くに値しない。三人の関係にひとり女性が加わり、男たちがそろって気を変えた可能性もある。しかし彼らの人間性を見る限り、それが想像しにくいのも事実だった。
 大津の混乱を知ってか知らずか、城戸は静かにつづける。
「結局、後ろに彼女を乗せて走ることには何度か成功した。が、目論みそのものは大きく外れたといえる。いま考えれば当然のことだ。しかし、当時は本当に意気消沈した。本当に悩んだよ。そんなときだったかな。今日也の母親が、今度は脳溢血で倒れた」
「たしか、父の直接的な死因も脳内の大量出血だった」
「そうだな」城戸が首をひねり、大津を一瞥した。こんなことを言えば、君を不安にさせてしまうかもしれないが――。いいながら、顔をもどす。「ふたりとも若くしてそうした不幸に見舞われている。どちらも常人には耐え切れないほどのストレスを抱えて生きていたことは事実だが、なにか遺伝的な問題と関係があるのかもしれないな」
「そうかもしれません」
「しかし、彼の母親の場合は命を取りとめてね。今日也はもちろん、私も静香さんも大いに喜んだんだが……」
 城戸が口をにごす。それで、なんとなく分かったような気がした。後遺症の三文字が脳裏をよぎる。声にして確かめると、彼はゆっくりとうなずいた。
「身体の一部にマヒが残ってしまってね。長期入院、定期的なリハビリと専門的な治療、検査。さまざまな処置を必要とするようになってしまった。それで今日也は学校をやめて働きにでる、と言いだした。一〇代の若者が <金の卵> と呼ばれていた時代だ。中学卒業ていどの学歴でも仕事はそれなりにあった。だが、私も静香さんも止めたよ。あいつは才能のかたまりだった。道を選べば大成することは眼に見えていた。せめて高校は卒業すべきだ、と説得にまわった。それでも聞き入れようとしないのでね。私は少しまとまった金を綾瀬親子にわたした」
 その金の出所は明白だった。受けとった親子にとっても同様であったのだろう。
「なんとか誤魔化そうと思ったが、無理があった」城戸は自嘲的な笑みを浮かべて言葉をつぐ。「今日也は、私のガレージからノートンが消えていることに気づいた。愕然とした表情でしばらく私を見ていたよ。直後だったかな。私は彼が涙を流すところを二度だけ見たことがあるが、その貴重な一度が訪れた。あいつは言った。正直、もう駄目だと思っていた。母親を介護しながら働いても、あれだけの金は稼げなかっただろう。だから、お前はふたり分の命を救ったことになる」
 そこで口をつぐみ、城戸は力なく首をふった。その顔には、なにか諦念の情ともいうべきものが浮かんでみえる。
「今日也の言葉を聞きながら、私は冷や汗のようなものを流していたよ。そんな立派なものではないことを一番よく知っていたからだ。大切にしていた単車を売り、友人とその母親のために使う。そうした行為が意中の女性に与える心的な影響、それを私は考えていた。渡した金の上には打算がのっていた」
「しかし――」
 口をひらきかけた途端、彼がそれを制した。
「たしかに、どんな金であれ彼らの役にはたった。だが、私は彼と眼を合わせているのが苦痛だった。正視できなかった。そうした私に、今日也はただ頭を下げつづけた。顔をあげてくれと頼んでも従おうとしなかった。金は必ず返す。何年かかるかは分からないが絶対に返す。本当にすまん。ありがとう。顔を伏せたままそう言った。私は返済の必要などないと返しかけたが、今日也はそれをさえぎった」
 お前や家族になにかあったとき、必ず俺を使うと約束してくれ。
 それが彼の口にした言葉だという。
「恩を返せる機会がうまれたなら、どんなことでもさせてほしい。彼はそう言った。それから二度、ありがとう、と繰りかえした。言葉がきれ切れだったのを覚えいる。私には重たく感じられるほどのものがあった」
 城戸は海原から視線を上方へスライドさせた。水平線と蒼穹との境界あたりにそれが向く。風は冷たさと鋭さを増しつつあった。
 しばらく動きを止めたあと、彼はコートのポケットに手を入れた。抜きだしたとき、小さな巾着袋のようなものが握られていた。口を開き、中身をつまみあげる。現れたのは銀色の金属片であった。名刺大の長方形で、薄い文庫本ほどの厚みがある。城戸はそれを二つに分解し、片方にオイルライターの火を近づけた。無言ですべてを元の位置にもどす。ゆっくりと話を再開させた。
「恩を返す。私は、彼のその言葉を直接的に解釈はしなかった。彼は大げさな表現で、自分にそうした強い意思があることを伝えようとしたのだ、と考えた。そうすることで私に対する感謝の念をしめそうとしたに違いない。そんな風に思ったものだから、私は彼の提案を受け入れた。彼の気がすむようにしてやるべきでもあったしね。それが後々に起こすことなど、想像だにしていなかった」
 その言葉の意味を考えだしたとき、不意に頭のなかで警鐘が鳴りはじめた。もうひとりの自分が内なる声で騒ぎたてる。これ以上は聞くべきでない。直感がそう告げていた。城戸が言おうとしていることは、恐らくこれまでの全てを破壊するに足る衝撃力を秘めている。
「――話を本題にもどそう」
 彼はそういうと、身体ごと大津へむいた。
「今日也の刑が確定したときのことだ。きみは知らないだろうが、私たちのもとを和泉巡査部長がおとずれたのだ」
 まばたきを止めて、彼の顔を見かえした。たしかに聞いたことのない話である。というより、刑が確定して以降のことはメディアから得られる以上の情報を手にしていない。
「彼は未消化の疑問をいくつか抱えていた」城戸がいった。「判決が出たことで一応の決着がついたようだが、あの事件には矛盾点が幾つかある。それが彼の主張だった。私を訪れたのはその点を明確にするためだった」
 すこし考えていった。「恐らくは、通報を受けた父が現場に駆けつけたときの反応についてでしょう」
 それはもちろん、大津のなかにもあった疑問である。
「父と貴方がたは古くからの知り合いだった。にも関わらず、和泉巡査部長のまえでは初対面のようにふるまった。終始貫徹され、名刺の受け渡しさえ行われた」
「そうだ。和泉巡査部長もその点を大変に気にしていたね」
「たしかに奇妙ではありますが、まったく説明のつかないことでもない」
「きみはどのように考えたんだろう?」
「これは想像ですが」乾燥した唇を湿らせ、いった。「和泉巡査部長がタクシーを呼んでいる間、父は貴方に電話したのでしょう。あるいは別のタイミングを利用したとも考えられる。間違いないのは、事前に連絡がとられていた点です。父が現場にむかい、事件を担当する。そうした話が到着前にいっていたのだと思います」
 問題は、両者の関係が周囲に発覚した場合である。事件関係者と交友がある者は、恐らく上層部の判断で捜査から外されるものだろう。私情がはいるのを防がねばならないからだ。
「父は担当から外されるのを恐れ、初対面のように振舞うよう指示をしたのではないでしょうか。犯人である彼にとって、自分が起こした事件を自分が担当できるというのは都合が良かったはずだ。捜査の進展を生の情報で逸早く知ることができる。父が犯人だと知らない貴方がたにとっても、知人が担当者の位置につくことは歓迎された。結果、合意が得られて演技が行われた」
「なるほど、悪くない仮説だ。説得力がある」
 が、真実ではない。みなまで言わずとも、城戸の口ぶりがそれを物語っていた。順を追って話していこう。いって、彼は言葉をつぐ。
「八五年のことだ。知ってのとおり、当時の私はすでに妻がいて、子どもがあった。妻は学生時代に知りあった日系アメリカ人。もちろん、静香さんではなかった」
 思わずさえぎった。先ほどからあった疑問をぶつける。「父と貴方は、その日系アメリカ人の女性を巡って過去のような対立関係に至ったと聞いています。だが、話によれば父と母の関係はそれなりに良好だったようだ。父は、どのような経緯で心変わりしたのでしょう」
「それも和泉巡査部長から問われたことのひとつだが――結論として、今日也は一度も心変わりなどしていない」
 そういうことだ、と彼は至極あっさり言いきった。
「さっき話した金銭のやりとりの件。あれで今日也が私に頭をさげるあたりを、静香さんは端から見聞きしていたらしい。そして、それは決定打になったようだ。本人から聞いた話だよ。そのときの今日也を見て、彼女は彼への気もちを固めた。そのように言っていた。静香さんは即座にその決心を今日也に伝えた。彼はこたえた。以来、ふたりは上手くやっていたよ。静香さんは一時期、静岡に帰っていたがね。距離を隔てていても問題はなかったようだ」
「それでは話が合わない」
「当然だろうね。片方は、噂話をモデルに捏造された偽りの情報だから。今日也が口にしたのがそれだよ。つまり、私と彼が早奈子を巡って争ったというような事実は一切、存在しないのだ」
 それどころか、と彼は薄く笑みながらつけ加える。
「当時、今日也と静香さんは婚約にちかい合意をすでに交わしていた。早奈子などまるで眼中になかったさ。あるはずもない。私の存在に遠慮がなければ、彼らはとうに式を挙げていたはずだよ。こちらが身を固めるまで律儀に待っていたのだ。私が静香さんへ抱いていた思慕の念は、どうもふたりに筒抜けだったらしい」
 鳴りつづける警鐘は、もはや内側から頭蓋を割るほどの勢いになっていた。ある帰国子女を巡った男女の問題が、一七年まえの事件の遠因となった。それが前提である。争奪戦に敗れたことが綾瀬今日也を凶行に走らせる原因となった。そのはずなのだ。そうでなければならない。
 風が漂わせるように城戸の声が聞こえてくる。
「そして、忘れもしない一〇月六日のことだ。あの日、私は自宅の書斎で仕事関係の書類を整理をしていた。商品の管理情報をまとめていたのだったかな。パソコンが普及する前だったから、ペンを握りしめて机に齧りついていた。夕暮れどきに至って、少し休憩をいれようかと思ったころだった。二階の別の部屋から、なにか重たいものが落ちるような音がした。
 ただね、幼い子どもが二人もいると、家庭内は運動会が毎日行われるような騒ぎだ。ちょっとやそっとの物音では動じなくなる。私が様子を見にいったのは、作業に区切りがついた、しばらく後のことだった。廊下にでたとき、最初に子ども部屋に眼がいった。戸が少し開いているのに気づいたからだ。それでのぞいてみると、床に息子が横たわっている。それも体勢がおかしかった。そもそも彼はベッドで眠っているはずだったが……そのベッドのかたわらには椅子が寄せてあり、二歳になる娘が立っていた」
 二歳の子どもは何でも試したがる。他人にできることは自分にも可能だと信じ込んでいる。臨場した刑事たちに、かつての城戸はそう語っている。公判でも記録として残されたことだ。その言葉が頭のなかで渦巻き、さまざまな情景を同時に浮かび上がらせていった。叩き落された皿。ぶちまけられたシリアルとミルク。その後片付けに追われる父親とふたりの刑事。
「当時、祥平の体重は七キロあったがね」城戸がいった。「あのベビィベッドは枠を外側に下ろせるようになっている。二歳児は驚くほど親のすることを見ているものだ。おむつを代え、洋服を着せるときに母がとる手順を――私たちも知らなかったことだが――正確に真似ることができたらしい。いずれにせよ、舞子は母親の真似事をしたがったようだ。そして、いつも母がするように弟を抱こうとした。だが、七キロの身体を回転させるのが精々だったのだろう。本人は結果として生じた現象を、椅子の上から不思議そうに眺めていた。なにも分かっていなかった。私もそうだったのかもしれない。奇妙な崩れかたをしている息子を見て、ブレイカーが落ちるように思考が弾けた」
 気づくとシャベルをもって汗にまみれていた。城戸はそうつぶやいた。周囲は鬱蒼とした雑木林であったという。今泉台の東方に広がる山林地帯である。城戸は掘られた穴の縁にいた。かたわらには土のかぶさった息子の姿があった。
「ふりかえると、近くに妻が立っていた。憮然とたたずんでいた。私が連れてきたのだろう。車を使ったに違いなかったが、まるで覚えていなかった。我に返るや、急にシャベルが重く感じられた。改めて息子を見下ろしたとき、自分が無意識になにを考えていたのか知ったよ。保身だった。息子のことが世間に知られれば、舞子は死ぬまで弟を殺した罪の意識に苛まされることになる。家族は好奇の視線にさらされるだろう。最悪、家を売って引っ越す必要もある。仕事にも影響するかもしれない。こういうとき、その人間の本性がでるのだろう。私が知らぬ間に考え、とっていた行動がそれだった。馬鹿げた話だが、祥平を埋めて隠せば全てを誤魔化しとおせると思っていたらしい」
 城戸は聞き手の反応をうかがうように言葉を止めた。時が流れる。どれくらい経ったかわからない。海を見下ろす静かな松原では、時を計りにくい。城戸は氷結から解けたように潮風を肺にとりいれ、またのど骨を上下させはじめた。
「我に返ってしまえば、それ以上の作業を進めるのは不可能だった。私はあわてて息子を掘り返し、妻をつれて家に戻った。両親は海外旅行中だったのでね。相談をもちかけることもできない。私は今日也に電話した。息子が死んだ。なにが起こったのか理解できない。どうしたら良いのか分からない。気づくと私は泣きながら喋っていた。彼は飛んできたよ。同居中だった静香さんも一緒だった。彼らは私に事情を説明させた。祥平を埋めようとした山にも案内させた。今日也は最初こそ驚いた表情していたが、それからは冷静そのものだった。ときおり事務的に短い質問をはさむだけで、あとは無言のまま我々の説明を聞いていた」
 ――まずいことをしたな。話を聞き終えた彼は、最初にその一言をもらしたという。
 小細工をせず、そのまま警察なり医者なりに連絡していればダメージは最小で済んだ。死因は恐らく脳挫傷あたりだろうが、外から見た限り判断は難しい。検屍にまわされ、恐らくは行政解剖の運びとなるはずだった。結果、事故として処理されただろう。二歳の子どもが関係しているとなれば警察も気をつかう。マスコミも自粛する。そもそも大きなニュースにはならない。周囲から奇妙な眼でみられるようなことには、ならなかったに違いない。
「だが、死体をあちこちに移動させてしまった。死斑というものの痕跡で、検死官は簡単にそれを見抜くだろう。彼は私たち夫婦へ語り聞かせるように言ったよ。埋めて隠そうとしたことも絶対に発覚する。そうも指摘された。被せた土が鼻孔や口内、ひょっとすると肺あたりにまで入り込んでいるだろう。行政解剖は、頭から臓器の末端まで全身をくまなく調べる。不自然な量の土が体内から見つかれば、事故の可能性は信じてもらえなくなる」
 そうしたとき、死因を特定するための行政手続は中断される。かわりに事件性を加味した司法解剖へと移行するらしい。少なくとも綾瀬今日也は、警官としてそのように告げたのだという。
「もはや子どもの起こした単なる事故でとおすのは無理だろう。無理に事実を隠そうとすれば、警察は殺人と見て捜査本部をたてる。子どもを被害者とした事件は大きくマスコミも取りあつかう。当局は、犯人を吊しあげるために血眼になるだろう。――その話を聞いたとき、私たち夫婦は卒倒しかけたよ。妻は半狂乱になって、私の軽率でお粗末な小細工をなじった」
 静香さんが鎮めてくれなければ、どのように収拾をつけていたものか。ため息の混じりそうな声で城戸はつぶやいた。うつむきかけた顔をあげ、寂寥感のただよう笑みを浮かべる。
「それでもね、私はひとつのことばかり考えていたよ。正直なところを警察に訴えれば、恐らくは死体を隠そうとした程度の微罪に問われるだけで片づくだろう。だが――」
 だが、マスコミは殺人と同様の解釈をするに違いない。城戸の言葉を聞くまでもなく、それは大津も容易に想像できた。城戸は事業を起こしていた。円満な家庭があった。そこで起きた事件である。メディアは舌なめずりして飛びつく。
「私は殺人犯と同様の扱いで報道されるだろう」城戸がいった。「家族は殺人犯の妻であり、娘としての烙印を押される。仕事も家も将来も、すべてを失う。言ってしまえば、大津君。きみをとりまくような環境に突き落とされると考えたのだ。だから、今日也にとりすがった。なんとかならないものか。家族を守る術はないだろうか。妻から侮蔑の視線を浴びようと、私は見苦しくあがいた」
 城戸が危険な沈黙をつくった。その瞬間、内なる声、脳内で鳴る警鐘、経験に裏打ちされた直感。すべてがその主張を強めた。耳をふさげと狂気的な勢いで叫びまわる。その男に次を語らせるな。これ以上しゃべらせるな。聞けば、もう後戻りできなくなる。
 そして、城戸が言葉をつむいだ。
「私のうったえに、今日也はずいぶんと長いこと考えていた。特に土の件は、これが殺人であるという見方を強める。やはり事故で押しとおすのは難しい。ならば、殺人に近いものがあったとするしかない。だが、その場合もいずれ警察は城戸家に疑いの眼をむける。お前の家族に累がおよばないようにするには――今日也は静香さんに視線をやりながら言った。警察に満足のいく成果をあげさせるしかない。犯人を用意して、差しだす以外にないだろう」


 17

「それは、おかしい」
 思わず声を荒げ、つづけようとする城戸の言葉をかき消していた。しかし、それきり言葉がのどにつかえる。城戸は大津のそうした反応を、なにか重要な意味を持つもののように注視していた。
「それは……なぜ、いまごろ」やっとの思いでそういった。「――いや、ともかくそれは決定的におかしい。私にはまったく理解できない話です。想像の範囲を逸脱しすぎている。貴方のおっしゃることは全てが万事、父の供述内容と矛盾している」
 言葉が出はじめると、今度はそれが止まらない。なにかに押されるようにしてたたみかける。
「お子さんを死亡させたのは夜中に不法侵入した父であったはずです。夕方に――しかも娘さんの手によるものだといった話は、公判でさえでてこなかった」
 城戸が怪訝そうな声をあげる。「きみの言いかたは、なにか父親が殺人犯であることを願っているようにも聞こえるが」
「それが私の半生だった」
 落ち着きをとりもどし、大津は低くいった。
「それが私の理解であり、周囲の認識だったんです。そこから生まれたものは、これまでの暮らしと常に同化していた。これまでそうして生きてきた。それが私の人生だった」
「そうか……」彼が相貌に影が兆す。が、すぐに得心のいった様子でうなずいてみせた。「たしかに、そうなのかもしれないね。きみの人生の根幹としてあったことだ。私はそれを不用意に揺るがそうとしているのかもしれない。きみにとっては、これまでの人生を否定されるようなものだ」
 その眼に複雑な色がやどった。落ちかけた視線が持ちあがり、遠慮がちに大津へむく。黙ってそれと対峙した。城戸は恐らく、もっと単純に考えていたのだろう。暗がりのなかに曙光がさしこむようなものだ。どん底に住まう人間は誰でも手をさし伸べる。そのような認識があったに違いない。
「それでもやはり、きみには知っておいてほしいと思う」彼がいった。「これからのこともある。そのためには必要不可欠のことではないだろうか」
「これから――?」
「先がある、ということだ。きみ自身、そのことを考えたことが無いわけではないだろう。私はきみについて調べたといった。それを生業とする人間すら雇ったんだ。逗子から居を移したあとは、ほとんど行方知れずになっていたからね。住民票の移動をたどり、学校関係者から情報を買い、そうしてきみの暮らしを知った」
 父が喜びます。ずっと探していたから。ふと城戸舞子のそんな言葉を思いだした。最近になって、ようやく満足のできる報告がきた。その意味もようやく理解する。よもや金を使ってまでいたとは考えてもいなかった。それほどの価値を見出せる暮らしでもなかった。
「調査を担当した者は、それこそ人間に対する認識を根底から覆されたような顔をしていたよ。本物の悪意を知ったからだ。きみをとりまく環境には、驚くほどの密度と粘度でそれが存在していた。私のような年齢の人間にとっても衝撃的だったよ」
「本人たちは悪意だと思っていないからです」
 城戸は厳かに首肯した。「そうなのかもしれない」
 城戸が用いた手段で転居先をわりだし、周囲に告発文や雑誌の切り抜きを送る人間がいた。どこに移ろうとも、付近住人に大津家の実態を把握していてもらおう。そう思ったのかもしれない。
 彼らはそうした自らの行動に正義を見ていた。自分を駆り立てているものが義憤であると信じて疑わない。だから加害者家族にとってもっとも凄惨な仕打ちを与えることができた。いつのときも、自覚のない者こそが一番恐るべき行動をとる。
「だがその中にあって、きみには一貫してとられる姿勢があった。調べていく過程で浮きぼりになったことだ。自分なりの綱紀というのかな。きみは生きかたに一定のルールを設け、それに従った生活を送ることを最も重要視していた。少なくとも私にはそのように見えたのだが、違うだろうか」
 彼は最初から返答を期待していなかったのだろう。問うような視線を投げるが、すぐに自ら話をつなぐ。
「だから、君にとって周囲の評価はさほど重要ではなかった。むしろ自分が自分に下す評価に深い関心がはらわれた。それは分かる。どんな努力をしても、他人は <人殺しの息子> の一言できみを断じてしまえるからだ。そうした環境下で生きていくには、自分のなかに確固たるものを持つしかない。
 しかし、それでも――加害者家族という事実は生涯ついてまわる。人は事件の記憶を薄れさせていくかもしれないが、被害者やその親族は決して忘れることはない。きみの努力は絶対にむくわれない部分もある。そのことはきみ自身、よく理解していたはずだ。ならば、その世界のなかで自分を立てつづける意義などどこにあったのだろう」
 城戸は口を閉じ、投げかけた言葉が相手に浸透するのを待った。充分な間をとり、「なぜだろうか」と問う。
「なぜ、きみは自分で引いた一線にこだわりつづけたのだろう。自覚したことがあるかね。それは静香さんの姿勢と良く似ている。あとで恥じることがないよう行状に注意を払いつつ、きたる日のために備える。母親は夫の出所を待って、そうあった。明確な目標があった。では、息子は何を待っている? 何に備えていたのだろう。先になにか見ていたものがあったはずだ」
 めまいに近い感覚で、自分が長く呼吸を止めていたことに気づいた。耳の内側、こまくのすぐ横で血管が脈打つような音が聞こえる。
 考えてもみなかったことだった。だが肉体的な反応が、城戸の分析の正しさを証明している。何に備えていたのか。いままでの自分のこだわりは、何のためにあったのか。恐らくは無意識のうちに眼をそらしてきた命題なのだろう。明確な言葉にしてしまうのを避けつづけてきたのだ。
 その思考は、聞こえてきた鈴の音で中断された。控えめな目覚ましベルのようなものか遠くで鳴っている。音源を眼で辿ると、木陰の向こうから自転車を押した女性が姿を現した。城戸舞子である。大津と父親の注目を集めるや、彼女は片手を軽く振ってみせた。口元から白い歯がこぼれている。枯れ枝の踏み折られる乾いた音が、徐々に大きくなってきた。
「ふたりとも、まだ話してたの?」
 自転車をとめた彼女は、男たちの顔を見比べた。
「お父さんなんか、家じゃそんなに喋らないのに。こういうときだけ良く口が回るみたいね」
「それでもお前の長電話には負ける」
「大体、なにをそんなに話すことがあったの」娘は父の言葉を完全に無視していった。「初対面なんでしょう」
「お前にも関係のあることだよ。幼いとき、舞子は彼ら親子から大恩を受けた。いわば命を救われた」
「それなら何回も聞いた。だから私も来たんじゃない」
 実際、その回数は中途半端なものではなかったのだろう。彼女の顔のしかめ方から如実にうかがえた。が、次の一瞬にはその表情も変わっていた。好奇心に由来する笑みが浮かべられ、大きな黒目がまっすぐに大津を映しだす。
「でも父は、大恩だとか洪恩だとか抽象的なことばかりで、具体的なことはぜんぜん教えてくれないんです。大津晨一郎に感謝しろ、大津晨一郎を忘れるなって、念仏みたいに言うくせに。だから、もし良かったらですけど――大津さんに教えてもらえたらなって思って。それを楽しみにしてたんです」
「控えなさい、舞子」
 言下のもと、城戸が断ち切るようにいう。
「なによ」彼女は眉間にしわを寄せながら父親を睨めつけた。「これは私と彼との問題です」
「私が少し調子にのりすぎたせいで、大津君を疲れさせてしまった。今日はこのへんで失礼しようと思っていたところなのだ」
 そもそも、と彼は語気をやや強めながらつづける。
「お前の聞きたがっているような話は、語るべき人が語るべきと考えたときに自ずと聞かせてくれるものだ。自分がそれを黙って待つべき立場にあることを心得なさい。お前は大津君よりも幾つか歳を重ねているんだ。彼より無自覚であってどうする」
 その叱責に、娘は反論の口を開きかけた。年頃ならではの、ほとんど反射的な動きだったのだろう。が、それ以上のことは理性で抑えた。小さく嘆息し、「わかった」とつぶやき答える。
「大津君。こちらにはいつまで滞在の予定だろうか」
 城戸がたずねた。先ほどまでとは声のトーンがまったく違う。世間話をもちかけるような気安さがあった。それに誤魔化しようのない安堵感を覚えながら答える。
「できたら一〇日ほどいるつもりです」
 清水に母方の親類があるのだ、と補足した。両親の結婚には反対していたようだが、大津のことはそれなりに扱ってくれる。しばらく宿を借りられる予定であった。
「そうか。で、その後はどうされるのだろう。学校の終業式は二週間後だったと思うが――」
 在籍中の高校で起こったことについても、彼は知っているのだろう。あるいは大津が転校を考えていることも調査済みであるのかもしれない。隠す必要もないことだった。
「式に出てからのことは何も。学校を変えようと考えてるのですが、そのときまでに受け入れ先を探して、あとはそれ次第ということになるでしょう」
「そのことなんだが、どうだろう。ここを離れるときに、もう一度だけ会ってもらえないだろうか。名誉理事としてそこそこ私の顔がきく所があってね。実はもう、学長にきみのことを話してあるのだ。岩手県にある私立高校なのだが、寮や奨学金や特待生などに関する制度も充実している。良ければ紹介させてほしい」
「ねえ」娘が首をかしげながら口をはさんだ。「それって白芳のこと?」
 城戸はうなずきながら、そうだ、と応じた。
「それなら、私も卒業生としてお勧めしますよ」大津をふりむいて彼女がいった。「生徒会のレヴェルがすごく高くて、ある側面では教員や評議会より勢いのある感じ。生徒本位の運営がされてるから、すごく居心地が良かった」
「そういうことなのだ。私の顔を立てる意味でも、とりあえず話を聞いてもらえると嬉しい。さきほどまでのことについても、気持ちの整理がつけばまた違った受けとめ方もできるだろう」
 かなりのあいだ思料し、分かったと答えた。城戸が具体的な日時をあげる。場所はここで問題ないだろうか。その問いにも首を縦にして返した。
「ありがとう。では、その日に」
 いって、城戸は娘を一瞥する。
「私も当然、来るわよ」彼女はきっぱりと言いきった。「今日は結局、なんの話もできなかったじゃない。自転車で富士山と海を見て回っただけ。それも良かったけど、大津さんには次回こそ約束守って時間を割いてもらわないと」
 自転車をありがとう。彼女は思いだしたように付けくわえ、踵を返した。軽く跳ねるような足どりで後姿を小さくしていく。城戸もその背を追うようにして足を踏みだした。が、思い直したのか動きをとめる。身体を半回転させたまま大津に顔をむけた。
「きみは今日也の詩を知っているだろうか」
「詩、ですか」怪訝に思いながらたずねかえす。
「彼にそうした趣味があったのは周知の事実だ」
「たしかに、遺品のノートをざっと眺めたことはあります」
 実際は、そのほとんど全てを暗記していた。公判で資料とされた日記についても同様のことがいえる。
 では、 <ドリームシフト> という題のついた詩については。つづく城戸の質問には、少し間をおいて「そうしたものがあった気もする」と答えた。
「私も一度聞いただけだから、記憶の怪しい部分もあるが」そう前置きした上で城戸はいった。「無形の財を示す言葉は常に使い古されている。時代が波を生むたび色褪せる。しかし潰えることはない。それらはみな、今日から明日へシフトする。――細部はともかく、大体こんな感じのものだったと思う。さほど目新しい内容のものでもないものの、最後になぜか <命名> と添えてあってね。もとは和泉巡査部長に教えられて知った詩なんだが、彼も不思議がっていた」
 和泉巡査部長は、おそらく母から正確な内容とタイトルとを教えられたのだろう。あるいは、ノートの現物を直接みたのかもしれない。そんなことを漠然と考えながら、無言でかえした。
「きみの名前を聞いたとき、ようやく理解できたよ。和泉巡査部長も相当な関心を持ったようだった。今日也らしい気どりようだと苦笑していたものだ」
「――おっしゃることが、よく分かりませんが」
「つまり、あれは詩ではなくてね。命名に添えた、せいぜいが序詩といったものだった。息子の名前の由来を長々と書いたものだったんだよ」
 ふと、城戸の口元に微笑が浮かんだ。
「晨という字は、訓読みすると『あした』となる。つまり、明日という意味があるそうだ。下手な詩を好んでつづけた男だ。今日也はそれを知っていたんだろう」
 だから、きみは晨一郎と名づけられた。
 その言葉が頭に染みわたりかけたとき、遠くからとがめるような叫びが響いてきた。危険なところで思考が中断される。はっとしながら、声のほうへ顔をむけた。ようやく父親がついてきていないことに気づいたのだろう。城戸舞子がこちらをむき、腰に両手をあてていた。距離のせいで表情はわからない。が、声音から推測することはできた。
 なにやってるの。帰るんじゃなかったの。腹式による発声は、鋭さのあるその言葉を周囲に響かせた。思わず、といったようすで城戸が苦笑を浮かべる。彼は軽く手をあげて返し、そのまま娘にむかって歩きはじめた。大津に声をかけることも、振りかえることもない。ただ、自分を待つ家族のもとへと距離を縮めていく。
 黙ってふたりを見送った。
 やがて彼らの背中は、ゆっくりと木陰のむこうに消えていった。


 18

 ひろった宝くじによって、唐突に大金がもたらされたような日々。城戸親子との邂逅以後、そんな時がつづいていた。三日たち、五日たち、一週間がすぎる。それでも転がり込んできたものにまったく実感が持てないのだった。ゼロがあまりに並びすぎた小切手からは現実感が得られない。よく聞くそんなたとえと、恐らくは同じことなのだろう。ひとには永遠に対応できないものがある。時間の流れは、なんら解決の糸口をもたらさないようにも思えた。
 一方で、それとは関係のない何かが、急速に輪郭をおびはじめているのを感じていた。突然、ふってわいたものではない。自分のなかにかつてから存在していた何かである。漠然と周囲をただよっていたそれが、ひとつの形を持とうとしている。そんな感覚があった。
 いずれもが、わずらわしかった。世界の名作童話のような話で、人生をころころと変えられてはたまらない。明確なのは、そのような強い抵抗感である。結局、すべてが今さらな話なのだ。真実は過去を変えることができない。周囲や環境を変える力をもたない。多くの人間たちが関心を抱くのは、自分にとって都合のよい情報なのだった。信じたくないものは決して信じようとされないだろう。
 綾瀬今日也は人を殺してはいなかった。明らかになったのはそんな事実である。だが、どうであれ問題はそこにない。彼がその道を選択したことにより、大津晨一郎の人生に深刻な悪影響が生じた。ただその事実が重くあるのだった。彼が人を実際に殺していようと、潔白であろうと、変わらないものがあまりにも多すぎる。そしてそれらは大きすぎた。

 墓標の杉を頂く丘は、一〇日前となんら変わりがなかった。気象条件さえもあの日を再現しているように思えた。唯一の違いは、大津の到着を城戸芳晴が待ちうけていたことである。右手に黒革の書類鞄を持ち、スーツの上に外套を羽織った姿であった。娘はともなわれていない。
「安心したよ」
 彼は大津のおとずれに気づくと、柔らかい微笑でそれを迎えた。
「きみが来てくれない可能性についても考えていた」
「複雑なことをこなせる器用さに欠けた人間です。せめて単純な決めごとくらいは自分に徹底させようと思ってるんですよ」
 彼が怪訝そうに首をかしげた。「と、いうと?」
「約束は破らない、だとか。そうした子どものようなことです」
「なるほど、確かに単純だな」言葉以上の意味を含ませた笑みを見せ、城戸は話題を変えた。「休暇はどうだったかね」
 頭のなかで簡単に整理してから、やってきたことを伝えた。知りあいの教育関係者と連絡をとった。事情を話し、転校の意志と必要性があることを説明して協力を求めた。それから寮をもつ高等学校を幾つか選び、電話をかけ、履歴書をおくった。まとめればそれだけのことである。
「そうか」小さくうなずき、城戸は手にしていた鞄を胸元に掲げあげた。開き、なかから黄褐色のマニラ封筒をとりだす。ごく自然な動作で、それが大津へ差しだされた。
「これは――?」
「紹介すると約束していた高校の資料、その他だ。岩手県の私立白丘明芳高校についていろいろとまとめてある。かさ張ったものになったから、帰ってゆっくりみて欲しい。学長がよろしく言っていたよ。なかに彼女の名刺がはいっている。裏にプライヴェートな電話番号があるそうだ。そこに是非、連絡してほしいとのことだ」
「責任者は女性ですか」
「理事長兼学長。法人のトップだよ。肩書きをぬきにしても会ってみる価値のあるひとだ」
 封筒を受けとり、頭をさげた。「なにか、かえってお気を使わせてしまったようで」
「どうか、そのような考え方はしないでほしい。舞子をはじめ、我々のために苦渋を強いてきた。どのようなことをしても、きみには償いきれないものがある」
「償い、ですか」
 それは恐ろしく奇妙に響いた。もう長いこと、大津のほうにこそ求められてきた概念である。泣いてわびろ。死んで償え。舞い込んで来る手紙、かかってくる電話にあった言葉だった。
 世界が裏返るとこのような現象も起きる。
「お互い、もうやめにしませんか」
 ぽつりとこぼした声に対し、真意を探るような視線が返った。
「それは、どういうことなんだろう?」
「もう終わったことです」と、答えた。「変わりようがないということは、つまり完結しているということだ。催眠状態にあると、火鉢だと偽って冷たいペンを押しつけられただけで火傷を負うそうです。だが、腕に当たったのがペンだろうが熱した鉄片だろうが、火傷を負ったことに変わりはない。それが消えないという事実に違いがでるわけでもない」
「そうかもしれない」
 城戸のみけんに深いしわが寄せられた。
「しかし、その火傷が持つ意味には違いがあるような気もする。もちろん、私の言えた義理ではないことだ。だが事実だと思う。きみは約束だからここに来たのか? 本当にそれだけの理由でここを訪れたのだろうか。私と顔を合わせさえすれば、それで目的のすべてが達せられたことになるのか」
 無言でふさわしい返答をさがした。城戸がそれを辛抱づよく待っているのがわかる。だが口をついてでたのは、まったく関連性を持たない別の言葉だった。
「父は――なぜ、早々に自首する道を選ばなかったのでしょう」
 言ってから気づいたことがあった。ここ数日の間、その疑問がずっと胸のうちにあった、という事実だ。特に意識することはなかった。しかし頭の片隅で常にくすぶっていたのだろう。
 なぜ綾瀬今日也は、もっと早く出頭しなかったのか。
 誰かに誘拐されたように見せかけることなどなかった。無用に世間を騒がせる必要などありはしなかった。その日のうちに城戸祥平を抱いて警察を訪れればよかったのだ。それが実行されていれば、殺人という重罪に問われることを回避できたかもしれない。あるいは過失致死と死体遺棄、損壊などで済んだ可能性もある。息子も、殺人犯の子として見られることはなかっただろう。
「その疑問は私にもあった」城戸がいった。「架空の犯人をでっちあげるか、最悪でもきみの言ったような手段をとるべきだ。事実、そのようにも主張したのだ」
 だが、今日也はもっと冷静だったよ。城戸は力なく首を左右にふりながらつづけた。
「まず、架空の犯人をでっちあげるのは危険すぎる。彼はそう断言した。失敗したとき、我々は下手な殺人犯より酷い取りあげられ方をすることになる。また、犯人が捕まらず捜査が長期化すれば、捜査員たちの目が血走ってくる。家族も容疑者のような追及をうける。そうした取調べにお前たちが最後まで耐え切れるか。精神は耐え切れたとして、嘘がいつまで持つかという問題もある。短い準備期間で充分な口裏あわせができるか。徹底できるか。まず難しいだろう。そう言われたよ。たしかに、妻はあの事件がきっかけで軽い鬱病をわずらった。今日也のいったように警察を相手にまわしての長期戦は厳しかったかもしれない」
 いや、厳しかっただろう。言い直し、彼は小さく息を吐いた。
「早期の自首については?」大津が問う。
「やはり今日也が首をふった。犯罪の専門家としての見地から無理だと断じられたよ。彼がいうに、ネックとなるのは祥平の死因だった。息子の死因は、外から見ただけでは特定できないものでね。私も落下の瞬間を見たわけではないから、はっきりしたことは言えない」
「公判の場では脳挫傷とされたようですが」
 それは、検屍解剖で明らかになったことであった。
 強い打撃を頭部に受けると脳が揺れることがある。大津も空手をつうじ、程度の軽いものなら経験したことがあった。問題は軽いものではすまなかった場合。衝撃が致死性の破壊力を秘めていた場合である。城戸祥平のケースがまさにそれだったのだ。彼の脳は頭蓋骨の内側にぶつかって、回復不能な損傷を負った。
「これは今日也の受け売りだがね。解剖をすれば、脳の傷のつき方からどんな衝撃を受けたかを正確に割りだせるものらしい」城戸がいった。「転倒や高所からの落下で頭部を打った場合、専門家たちが <対側打撃> と呼ぶ特徴的な傷ができるという」
「それが見つかったため、息子さんの死因は特定された」
「そう」城戸がうなずく。「だが、解剖前はそうしたことが一切、分からなかった。今日也も脳挫傷ではないか、と睨んではいたがね。だが首の骨を折ったのかもしれないし、全身打撲の可能性もあった。落下の衝撃でろっ骨が折れ、それが内臓に刺さったことによるショック死かもしれない。可能性は無数に考えられた」
 たしかに、生後五ヶ月の赤ん坊は身体ができていない。成人では考えられないような死に方をすることもあるのだろう。うつ伏せに寝かせただけで窒息死する赤ん坊もあると聞く。
 大津は顎を軽くひいて納得をしめし、先をうながした。それを受けて城戸が話を再開させる。
「今日也が自首した場合、祥平の死に方についても正確なことが言えないと困る。死因によっては即死であった、と証言せねばならない。だが別のケースでは供述を変える必要があったのだ。しばらくもがいてから死んだ、あるいは痙攣してから死んだ。何分か平気そうにしていたが、突然ぱったりと倒れた。パターンはいろいろだ。事実にしたがって言うことを合わせなければ、矛盾が生じる。県警の職人たちや和泉巡査部長は、そうした点を絶対に見逃さない。それが今日也の言い分だった」
「それで、解剖の結果を聞きだすまで待つ必要があった、ということですか。事実との矛盾がない供述内容をねりあげるまで、被疑者として取調べを受けるわけにはいかなかった……?」
「それが最大の理由だろう。他にも日記の偽造や、現場から私たち夫婦の足跡を消す作業、口裏あわせ、と時間が必要だったからね。今日也は職場の仲間たちに及ぶダメージを最小限におさえるため、予め辞表をだしておく必要もある、と考えたようだ」
 城戸は両手をコートのポケットにつっこみ、頭上を仰ぎ見た。乾いた笑みを浮かべる。
「まったく、組織のトップとして教訓的な話だよ。職人クラスのプロはもっと大切にしておくべきだ。敵にまわすと最も強大な敵になり得る。今日也は終始、冷静だった。あらゆることを考慮したうえで計画を動かした。そして世間、警察、マスコミ、すべてをだましとおしたのだからね」


 19

「――たしかに彼は、あらゆる可能性を考慮して計画を進めたようです」
 では、自分の子どもについて考慮することはあったのか。
 城戸へ視線をおくり、大津はゆっくりとそれを口にした。
「父は計画当初から、私の存在を知っていたのでしょうか」
 城戸は静かに首を左右した。
「今日也が静香さんの妊娠を知ったのは、計画が動きはじめた直後のことだったよ」
 だから、その疑問に対する答えは否だ。今日也は知らなかった。まるで、その日の天気について訊かれたような口ぶりであった。
「なぜ断言できるんです」
「静香さんが懐胎の事実を話す瞬間に立ち合ったからだ」彼が即答した。「事実を知っていて選択をした者があったとすれば、それはむしろ彼女のほうだった。静香さんは最初から妊娠の知っていて、だが今日也を迷わせないためにその事実を伏せた。計画が動きだし、後戻りできなくなった段階で明かすことにした」
 自然と顎が落ち、口から開かれていく。
「母が――」という、意図しない言葉がこぼれ落ちた。
「祥平のことで私たちが相談をもちかけたとき、今日也はずいぶんと悩んでいたよ」
 城戸はそこで言葉をきり、何度か細かく首を縦に振った。これもきみには話しておくべきだろうな。唇の上で小さくつぶやき、やがて声量をあげて語りだす。
「あのときの今日也には、確実に躊躇があった。明らかに何かを決めかねたようすだったよ。そこに静香さんが声をかけたのだ。祥平を埋めようとした雑木林での話だ。彼女は今日也を引っ張って我々夫婦から離れていった」
 私はそれに滑稽なほど不安感をあおられてね。いって、城戸が自嘲的に唇をゆがめる。彼らは通報の相談をしようというのではないか。そのような危惧が彼の頭を占めていたらしい。結局、息を忍ばせて後を追ったのだという。そして話を聞いた。
 話をしたいの。口火を切ったのは静香のほうだった。正直に答えてほしい。そう前置きし、背をむけた同居人に問いかけた。お母さんの時のことを考えていたんでしょう。言っていたことを現実にできるチャンスかもしれない。だから、いま悩んでたの?
「今日也はしばらくして、渋々といったようすで認めたよ。そのことで迷っていた。気持ちはあの時と少しも変わっていない。だが、どうするのが最も正しいのか判断がつかないのだ。彼はそう言った。正直な話、私はふたりが何のことを問題としているのか分からなかった。だが、彼らのやりとりが進んでいくうちに理解した。愕然としたよ」
「――ふたりは約束を覚えていた」
「そうだ」城戸がうなずく。「約束を覚えていた。静香さんの言葉を聞けば明らかだった。どうして迷う必要があるのか。すでに決めていることなのに、なぜ逡巡するようなふりをするのか。責めたてるように彼女は言った。私のためか。そうも訊いた。今日也がはっきりとした言葉で認めたあとは、声を荒げて怒鳴りはじめた。恐らく後を追っていなくても、私たち夫婦の耳に届く声量だっただろう。そんなに器用な人間のつもりでいるのか。彼女はなじるように叫んだ。今日也は、自分が人殺しの汚名をきることになった場合、背負うことになるであろうリスクを列挙して返したよ。自分の信念を貫くといえば聞こえは良い。だが、大勢の人間に迷惑をかける。傷つける。お前も巻き込むことになる。そう結んだ」
「彼女が怒鳴ったんですか」
「大声を張り上げていたよ」
 確認の問いがあるのを予測していたのだろう。言下のもと、城戸はうなずいてよこした。そして、ふと笑みながらつづける。
「驚くのはわかる。私も、あんなふうに声を荒げた彼女をみたのは初めてだった。だが事実、彼女は語気を鋭くして今日也に詰めよっていった。確かに貴方は逮捕されるかもしない。私は殺人犯の女だって後ろ指さされることになるかもしれない。でも、それは何年かのこと。彼らはやがて事件のことなんて忘れてしまう。私たちのことも頭から消えていく。――そのとき残るのは、自分たちだけなのだ。それが彼女の主張だった」
 これが本来の意味での殺人事件ならば、彼女の主張は通らなかっただろう。他人に家族を殺された事実を持つ人間は、決してそのことを忘れないであろうからだ。しかし、このときの彼らは知っていた。事故の被害者は存在しても、被害者家族は存在し得ない。
「最後に残るのは、自分たちだけなのだ。彼女はくりかえし主張していた。他人や環境は関係ない。自分たちの問題なのだ。すべきと感じていることをしなかったなら、そこに罪悪感と後悔が巣くう。自尊心を失って、己を蔑みつづける人間が残る。それでは生きていかれない。そこまでいって、彼女は急に声を細めた。それが強く印象に残っている。いつもの落ち着いた声音で添えた。――私は、やるべきだと思う。はっきりと、そういった」
 呆然としながら聞いていた。大津の知る生前の静香からは想像もできない話である。だが確かに、息子とふたりであったときの彼女はそれが仮の生活であるかのように振舞っていた。夫が戻ってからこそが真の解放の時。そう信じていたような節がみられた。
「しばらく経って」と城戸がつづけた。「自分に嘘がつけない体質というのも善し悪しだな。今日也がそういった。そして、つらい思いをすることになるかもしれない、とつづけた」
 それは恋人を振り返りながらの、だが自分に言い聞かせるような口ぶりであったという。対する彼女の返答は、大津夫婦の生きかたそのものを象徴したようなものだった。彼女はこういった。
 でも、彼女の成長していく姿を見るたび自分を誇りに思える。自分の選択を疑うようなことがあっても、あの子を見るたび確信を新たにできる。
「そして、もどってきた今日也は私に言ったのだ。約束を覚えているか。そう、問うた」
「母は、そのとき自分の子どものことを言わなかった……?」
「彼女が話したのは、今日也が署の空き部屋に祥平の遺体を運んだあとだった。そのとき、残る者は二人でなく三人だと訂正した。娘のこともそうだが、静香さんはきみがいれば今日也がもどるまで待っていられると思ったのだろう。もちろん、息子にはつらい思いをさせることもあるだろうが」
「その子は、両親と同じように誇りをもって生きていける」
 城戸は小刻みに何度か首を縦にふった。「あるいは、そのような考えがあったのかもしれない」
 あの子を見るたび確信を新たにできる。
 その言葉で、城戸舞子の容貌が脳裏に浮かびあがった。鮮明に思い起こす。彼女は日の当たる場所を歩んできた人物だった。全身に生気をみなぎらせた、健全で快活な女性だった。眼は世間に対して真っすぐに見開かれ、初々しい好奇心に満ちていた。たえず人生を楽しむ者の微笑がたたえられていた。そして、左手の薬指に指輪が輝いていた。
 なにより彼女は、初対面の人間に対して恥じることなく名乗ったのである。うつむき、声を落として唱えるのではない。相手と眼を合わせ、なにかの称号であるかのようにそれを口にしたのだ。それが可能な人生を送ってきたのだ。
 ――瞬間、ようやく理解した。
 ただ、それが望みだったのかもしれない。漠然とした、だが確固とした希望として自分のなかにありつづけたのは、それだったのだろう。何を待って自分を保ちつづけたのか。備えて一貫したものを堅持してきたのか。城戸に問われた、その答えである。

「はめを外してはしゃぎ過ぎたのか、娘は風邪で熱をだしてね」
 ポケットから両手を抜きだし、彼は鞄を開いた。なかから小さな封書をとりだす。
「大したことはないんだが、きみにうつすわけにもいかない。渡してくれといわれて、手紙を預かってきたんだが」
 手渡された封筒から便箋を抜きだした。広げてみると、手書きの丸文字が短い文章を綴っている。先日は会えてよかった。今回は体調を崩したので約束を守れない。その謝罪をはさみ、次に会えるときを楽しみにしている、と結ばれていた。
 顔をあげ、ゆっくりと頭上を振り仰いだ。
 事件後、母の祖国に渡った少女。アメリカで奔放に育ち、伴侶を得ようとしている女性。真実を永遠に知りえない者。大津の知る世界の外側にある存在といえた。
 再び、便箋に眼を落とす。その文面は、明日の訪れに希望を抱く人間のものだった。確信を抱かせるに充分な生気に満ちている。
「私も次に会えるときを楽しみにしています、と舞子さんに伝えてください」
 城戸は笑顔で応じた。「伝えよう」
 手紙をたたんで、封筒にもどした。右手でその滑らかな感触をたしかめながら、大津はもう一度、口を開く。
「どんな事情があったにしても――」
 城戸の視線を感じつつ、充分な間をとってからつづけた。
「その事情をこうして知ったとしても、父のとった選択を安易に支持することはできません。ある意味では、はっきりと道を誤っている。理解をしめすことは難しい」
 もしかすると、それは時間が解決してくれる問題なのかもしれない。しかし、この一七年間をとおして積みあげられてきた彼への不信感は、形を変えたとしても、やはり生涯残るだろう。
 城戸は沈黙を守ったまま、静かに言葉を待っていた。恐らくはこの一七年間をつうじ、彼は待ちつづけていたのだろう。視線を合わせたままそれに応える。
「しかし、認めなければならないこともあります。私は長く、無実の罪を根拠に父を蔑視してきた。同様に彼の無実をうったえつづける母を白い眼で見ることもあった。ですが、それは誤りでした。
 ――たしかに、父のとった行動は犯罪そのものだった。倫理的にも大きな問題があったといえる。しかし、もし自分が同じ立場に置かれたら、どうであったか。この何日か、常に頭を支配していたことです。果たして、彼が選んだ道を選択肢のなかに含めることができたか。約束を守りとおすことができたか。そう考えたとき、彼を一点において評価しないわけにはいかなくなる。私にはできないことをやったからです」
 城戸は、大津が出したその結論に懐疑的な見解をもつようだった。表情が物語っている。友人と見なした男を過大評価しすぎる種の人間なのだろう。
 気づかなかった風を装って、大津はつづけた。
「なにより、彼らは少女の人生を守った。私の偏った人生経験がそう思わせているだけなのかもしれない。しかし、それはなにか価値のあることだったと思えるのです」
「そうだ」厳かな首肯があった。「大きな価値があった。あの子は明るく育ってくれた。周囲に雰囲気を与えるような存在になった。そして嫁いでいく。だが、きみのご両親の助けがなければ、彼女にとっての今はなかった。同じ名前をもった全く別の人間になっていただろう」
 そうなのかもしれない。あるいは、違った環境下にあっても今と変わらぬ朗らかな人格を獲得していたかもしれない。どちらでも良いことだった。
「他にも今日也が守ったものはある」城戸がつづけた。「他人にはどうか分からないが、私には重大な意味を持つことだ」
「単純な決めごとのことですか」
 彼が微笑で返す。「きみの言うように、子どもにでも理解できる単純なことだ。しかし、その徹底には時に非常な困難がともなう。私のような俗物には特にそのことが言える。だが、それでも今日也は破らなかったよ」
 その是非を問う資格は、恐らく当事者たる大津たちにはない。しかし城戸の言い分を認めることくらいは許されるだろう。綾瀬今日也は偽りの真実を大衆に信じ込ませた。それによって社会に大きな混乱をもたらし、警察組織の権威を失墜させた。業務をつうじ犯罪者たちから得た情報をもとに、犯行動機と過去をでっちあげ、それを記した日記を偽造した。父親として、息子になにひとつ恩恵をもたらさなかった。払われた犠牲はあまりに大きい。
 だが、ひとりの少女を健やかに育んだ。なにより過去の宣言は実行に移され、そして貫徹された。
 ――約束は守られた。



 エピローグ

 詰所の守衛に仮の許可証を提示し、門をくぐった。白丘明芳学園の内部に入るためには、たとえ休日であろうと一定の手続きを踏む必要があるらしい。
 大津も人並み以上に転校を経験してきた身の上である。全国のさまざまな学校を見てきたつもりであった。が、こと安全管理の水準において本校に比肩しうる例には心当たりがない。城戸親子の見せた自信は、このあたりにも由来していたのだろう。
 とはいえ構内に足を踏み入れれば、そこにはありふれた学園風景が広がっていた。違和感があるとすれば喧騒のなさくらいだろう。春休み中ということもあってか、すれ違う人影は少ない。その分、周囲の眺めを楽しみながら歩いた。道順は頭のなかにある。まっすぐに中央会館と呼ばれる施設をめざした。
 目的としていた褐色の三階建てはすんなりと見つかった。ドアに手をかけると、施錠はされていない。石造りのフロアを横切り、案内窓口に歩み寄った。見てきた限り、この学園には総じて言えることがある。細部にまで行き届いた手入れの良さだ。それがもたらす清潔感は、なにか高グレードのホテルを連想させた。採光性に優れた一面ガラス張りの壁に、柔らかそうなソファ。開放感のある三ツ星級のロビィである。
 応対にでてきたのは若い娘だった。制服なのだろう。桜色を基調とした事務服を着ている。用件を伝えると、席を立ってカウンターを回りこんできた。ご案内させていただきます。当たり前のように、そう告げられた。必要ないと断るものの、聞き入れる気配がない。結局は礼をいい、その背を追うことになった。
 滑るに昇っていくエレヴェータのなかで、学費についての簡単な確認をとった。寮生活の実情や奨学金、特待生制度についても話を聞く。いずれも、学校を決定する上で最も重要視すべきポイントである。大津にとっては特にそうだった。
 城戸から受けとった書類のなかには、預金通帳も含まれていた。大津晨一郎名義の、身に覚えがないものである。振り込まれていた金額は常軌を逸したものといえた。この高校の学費を賄うどころではない。海外へ留学し、ドクターコースを修めるにしても充分すぎる額であった。あるいは彼なりの償いのつもりなのだろう。が、容易に手をつけられるものではなかった。これまでどおり、力が及ぶところまで独力でやっていく。恐らくは、それがベストであるに違いなかった。
「――こちらです」
 そう言って事務員が足をとめたのは、三階に上ってしばらくしてからだった。白い手が眼前の扉を叩く。内からの返事を待って、彼女は半歩下がった。落ち着いた造りの分厚いドアがあらわになる。中央部にプレートが掲げられており、学長室とあった。事務員が慇懃にこうべをたれ、歩み去っていく。
「失礼します」断りながら、大津は室内に足を踏み入れた。
 簡素だが面積のある部屋であった。向こう正面にどっしりとした木製の机が構えられている。そこに小柄な女性の姿があった。他に制服をまとった生徒らしき男女が三人。胸に鳥をかたどったと思わしき校章のようなものを付けている。
 彼らが一瞬前まで雰囲気のよい談笑のなかにあったのは確実だった。まだ仕舞いきれていない微笑が、複数の顔に残留している。
「噂の主の登場ね」
 立ち上がった学長は、それでなお座っているように見えた。単に短躯であるだけでなく、身体全体が枯れ枝のように細い。高齢者と呼ばれる域に達した女性で、頭髪は見事なほど真っ白だった。深く刻まれた無数の皺のなかから、驚くほど澄んだ両眼が覗いている。そこには、新たな出会いに際した好奇心がたたえられていた。
 学長兼理事長、千種勝子。資料によれば、自身も当学の卒業生である。一四代目の生徒会長を務めたらしい。当時、白芳は女子校だったのだと聞いていた。
「紅茶はどうかしら?」
 彼女は穏やかな微笑を浮かべ、返事も聞かずにポットを傾けだす。卓上には白い陶器のティセットが並んでいた。よく見れば三人の制服たちもカップをそれぞれ抱えている。
「私は面接が行われると聞いてきたのですが――」
「そうですね」学長はおどけたような表情をみせた。「でも、お茶を飲みながらだと面接にはならない、なんて法はないでしょう。それよりも、おかけになって下さい。その椅子は貴方のために用意させてもらったんですよ」
 戸惑いながらも言葉に従った。入れかわるように、制服姿の男子生徒が立ち上がる。彼は学長からティカップを受けとり、大津に寄ってそれを差しだした。予め段取りがされていたかのような流れのよさである。礼を添えて紅茶を受けとった。
「うちの学校はね、少し他とは違ったところがあるの」
 革張りの椅子に腰を落ち着けると、学長がいった。カップに口元を寄せる大津へ嬉しそうな視線をむける。
「共学のような形をとっているけど、女子と男子が別の校舎に分けられているし、カリキュラムもそれぞれ違うのね。生徒会も――うちでは <候鳥会> と呼んでいるのだけど――歴史的に少し特徴的な形態をとっています。ここに来てもらっている三人は、その <候鳥会> の六三期を代表している子たちなの。女子側からひとり、男子側からひとり、調整役としてひとり。合計して三人、会長がいるのね」
 紹介された三人が、各々の反応をよこす。二人いる女子のうち、片方は礼儀ただしく会釈をむけてきた。もうひとりは、ただ嫣然と微笑む。さきほどの男子生徒は黙って眼を細めた。
「生徒会と聞いて一般的に想像される組織より、彼らはちょっとだけ大きな権限をもっています」学長がつづける。「たとえば、貴方のような学生を特待生として推薦することもできるの。教育者として不適切にふるまう教諭に関しての報告も理事会にだせる。近隣の市町村にもよく知られた学校行事があるんだけど、その企画運営も彼らが一手に引き受けてくれているんですよ。かなりのお金が動きますが、その管理も任せています」
 だって、アメリカには一〇代の市長が三人もいるんですから。学長は、いたずらっぽく口元をほころばせた。
「現役の高校生が会社をおこす例に至っては、それこそ世界中に数え切れないほど存在するわけですものね。ちょっとした学校行事の運営なんて、そんなに大層なことでもないでしょう?」
 白丘明芳学園が特殊な校風で知られる理由。それを理解したような気がした。トップがこうした人間なら、作られるものもユニークになるだろう。
「貴方のことを話したところ、彼らは三人は強い関心をしめしました」紅茶を一口含み、学長がいった。「是非、貴方に学びたいのだそうよ。だからこうして、この場にも同席してもらうことにしたの」
 思わず三人の会長に眼をやっていた。礼儀を忘れた無遠慮な凝視である。彼らは余裕のあるたたずまいで、それを正面から受け止めていた。たしかに二〇前の人間としては不相応とも思える落ち着きがある。
「――権限があると、いろいろな活動ができます」
 不意に女子生徒のひとりが口を開いた。その行為は、室内に存在するすべての視線をさらっていく。
「不登校やいじめの問題についてもそう。 <候鳥会> は伝統的にこれらの事柄について熱心に取り組んできたつもりです。最近ではその風説が他県にまで渡って、学校組織にうまく適応できなかった生徒が全国から集まるようにもなっています」
 完全に、人前で語りなれた口ぶりであった。初対面の相手を前にしてもまったく淀むことがない。
「特殊な事情を抱え、学園生活を営むうえで密度の濃い経験をしてきた人たちは、ですから私たちにとっての教師と同じです。ひとりでも多くから話を聞いて、学ぶべきところを取り入れたいと考えています」
 そこまで言うと、彼女は相手の理解をたしかめるように間をとった。学長はカップをかたむけ、物語を聞くように眼を細めている。
「大津さんはご存知ですか? 北欧には、日本でいう不登校の概念がないんです」
 驚きながら首を左右した。初耳です。そう素直にかえす。
 女子会長は薄く笑んでそれを受け入れた。
「スウェーデンやデンマークといった国々にそうした概念、言葉がないのは、そもそも必要がないからです。それを生まないシステムができあがっているからなんです。日本が抱える問題を話すと逆に驚かれる。――だから <候鳥会> は、過去に設定された教育上の限界を一切信じません。世界を見回せば、それを超えた環境を作りあげている例がたくさんあるからです。そうした事実を認識するためには学習しつづける姿勢がなければいけません。ですから私たちは、常に未知のものに対して強い関心をよせています」
 彼女は口先だけでないことをすぐに証明した。事件や犯罪に影響を受けた人間の就学状況。教育業界からうける非情な仕打ち。それらが原因で起こった過去の訴訟に至るまで、収集した情報を並べたてていく。一夜漬けで得られるものではない。現場の声を直接聴取したとしか思えない事情にまで通じていた。
 そのうえで、彼女はそれが自分たちの見落としていた分野であることを認めた。しかし、と急いでつけくわえる。大津晨一郎の協力をもって自分たちは開眼するだろう。犯罪被害者や加害者家族の受け入れにおいて、より良い制度と環境をつくりあげていけると確信している。そう結ばれた。
「須藤さん」
 不意に学長が口をはさんだ。喋りつづけていた女子会長を一瞥して、柔らかな笑顔を見せる。「こういう奥手そうな人には、もっと直接的な言葉を投げかけないと駄目よ」
 そして彼女は、大津に顔をむけた。
「つまりね。この子たちは、貴方を <候鳥会> に引きずり込もうとしてるの。今までに、そういう活動を経験したことはある?」
「――いえ」
「では、興味はどうかしら」
 咄嗟には答えられなかった。無言で時を浪費する。
 きみには、将来の希望のようなものはあるのだろうか。松原での別れ際、城戸に問われたことを思いだしていた。正確にどんな言葉を使ってそれを伝えたかは覚えていない。酷く説明に苦労したという印象のみ、いまだに鮮明である。
 話を聞き終えた城戸は、苦笑にも似たものを浮かべていた。なにか、王国のことを言っているようにも聞こえるな。それが彼の第一声であった。きみが築こうとしているのは、幼いころの自分を集めた小さな国家なのだろう。
 事故、犯罪、悪意、暴力、不運。これらに虐げられる幼い者たちに、機会と環境とを提供する。たしかにそれは、国家の建設にも似た大それた事業なのかもれしない。
 だが、世界は広いものである。同じ時代に同じ年代の人間が同様の試みに挑んでいるのである。しかも、大津よりはるかに現実的な領域において。
「これは――須藤さん」
 気づくと、学長が満足そうな笑みをたたえていた。
「どうも脈はありそうよ」
「それは良いですが、理事長」沈黙を守っていた男子生徒が指摘した。「彼から書類、受け取ってませんよ」
「ああ、そうだった」
 学長が驚いたように軽く手を打つ。駄目ね、歳をとると。自らのミスを楽しむような口調でつぶやく。
 大津は無言で立ちあがり、転入試験に必要とされる書類を渡した。当然、受験票や履歴書の類も含まれている。彼らがそれを参照しつつ進められていくのが、面接として本来の姿であったのだ。
「そういえば、私はまだ自己紹介もしてなかった気がしますね」
 学長が、確認するように三人の生徒会長をふりかえる。
「していませんね」男子会長が代表して応じた。「我々のことは話の流れから紹介していただきましたが。彼は、貴女が誰なのかすら状況から判断するしかなかった」
「学長室にいるから学長だとは限らないですからね。そういう安易な思い込みが一番、いけません」
 彼女は、なにか納得したようにうなずきながら言った。
「じゃあ、改めて仕切りなおしましょう」
 学長の居住まいが正された。それで気づいたことがある。彼女は年齢を考えると、信じがたいほど背筋の伸びが良いのだ。小柄な体格のむこうに何か奥行きのようなものを感じるのは、そのせいもあるのだろう。
「私は本学の学長と理事長を兼任している千草勝子といいます。今回の面接は私の責任のもとに行われるものです」
 学長が口を閉じるや、四人の注目が自分に集まるのを大津は感じた。――お前の番だ。そう無言で告げている。
 かつて、この手続きが苦痛でならなかった。居を移すたび同じことを強いられてきた。大勢の前に立たされ、それを求められるのである。まるでなにかの刑罰のように。
 だが、時は流れているのだ。一七年が経った。子が育ち、自らの家庭を築くに至るだけの時間である。その間、恐らくはいくつかの継承と復権とが成された。変わりつづけるものがあり、変わらないものがある。
 静かに息を吐いた。顎を引き、胸を張る。膝のうえで、握った手に軽く力を込めた。注がれる視線を受け入れる。まっすぐに彼らを見つめ返す。思ったほどの抵抗感はなかった。
 大津はゆっくりと口を開き、そして、生を受けて以来の念願を果たした。