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小学校に入っていた頃であろうか?それとも幼稚園頃(幼稚園という教育制度はその頃から始まった)であろうか、私の裏山は中津明神山(1540m)があり、7月頃山開きという行事があり、高知県側と愛媛県側から老弱男女が御来光を拝みに日の出前から頂上に登山していた。頂上には小さな祠があり、その年は何か行事があり、撒餅等があったように思う。
母と二人の姉(幸枝・信子)であったと思うが、記憶に残っているのは、頂上から1kmも降りてない下山の折りの状況であったと思う、彼女達の足についていけず、30〜40cmの丈の熊笹の小道(当時の私の身丈からすると胸のあたりまであったと思う)で、霧が出て周囲の景色の変化に恐怖感を抱き私はその場に蹲っていた・・・・・・・・・・暫くして、信子姉さんが引き返して来て、ひどく怒られ下山した記憶がある。 私がたぶん生まれて初めて自然に相対し、感動し畏怖の念を持った出来事であったろう。
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| <幼少の頃> | <高校時代天狗岳の私> | <上高地> | <常念岳からの穂高連峰> |
高校j生活での思い出は、バレーボール(当時は9人制)で2年生の時、郡大会での優勝し、3年生では惜しくも決勝で某中学校に敗れ、県大会を逃した思い出があるがやはり東京オリンピックであろう。
国道33号線を聖火ランナー(伴走として)に参加出来た事が思い出される。又、三年生になった年に新入生全員を集めて体育館での部活紹介であり、山岳愛好会(山岳部には成っていなかった。)の紹介をマイクを使って数分間「会」の紹介をした思い出がある。 当時の記録を見ると一番出てくる事は食べ物のことであり、やはりその頃の食べ物に恵まれていなかった事が伺える。この記録については学生時代のコーナーで紹介しています。
社会人に成ってからの私にとっての自然への感動を思い出すと、私が就職(名古屋)をして1年目の秋、北アルプスの山行である。メンバーは上司のT氏(癌で40才半ばで死去)さんと同年代の友人と3人で、丈念岳〜蝶ヶ岳〜上高地の縦走であった。 丈念岳のコル(峠)にたどり着いて眼前に広がった槍ヶ岳〜南岳〜前穂高の山並みを見た時、私は身震いがした(確かにその時の感じは身の毛がよだつと言ったものであった。
名古屋での二年目の春に名古屋山岳会に入会し、色々な山,そして友人に恵まれて登山活動は私にとって生活の一部となった。 その後の名古屋山学会での記録はどうであったろうか? 確かにより大きな感動を求めて、その当時の名古屋山学会のモットーである「オーソドックスで、アカデミック」な山行を目指したものであったが、私の性格上あまりスポーツとしての山行には疑問を感じる所があった。
そんなことを現す記録としては、盆休みであったと思うが、会員は剱岳或いは錫丈岳等の様な岩登りの計画を出しているのに、私は二泊三日で愛知川(三重県の鈴鹿山系にある石灰岩の非常に美しい、流れの緩やかな川)に昼寝という私にとっては、はかなり鮮烈に思い出される山行である。 ・・・・・・いずれにしても名古屋山岳会のモットーは欠片も無かったように思う。
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撮影者は・・・・・?
そのような山行で問題になったのは、私が初めて冬山合宿のリーダーとなって新人を連れて北岳の集中登山であった。計画は新人の男子は、くだらん尾根(ボーコン)を登り北岳へ登頂,そして私とロートル(中年いや壮年)の二人、一人は大学の教師であったと思うが三人で若い女性の新人4〜5名をノーマルルートで北岳へ登頂するという計画であった。
問題となったのは、私がベースキャンプで女子用トイレを雪の中で建設するのを手伝っていた事と、酒(ウイスキー・ブランディー)を並べて写真を撮っていたのを他の山岳会(山岳連盟)のメンバーが目撃していた事が話題になったのである。
振り返ると私の登山の記録で思い出されるのは、一番に、細径さん(三菱重工勤務)と登った黒部渓谷の「奥鐘山西壁」である。{このサイトにて紹介している}入会して4〜5年経っていたと思うが、黒部源流にてビバークして早朝、黒部渓谷を渡渉して岩に取り付き13ケ所程度のオーバーハングを越え、最後の3〜4mの大きなハングの下で二日目のビバークをして、早朝より最後のハングを越す時には丁度、真下に前日の朝、渡った黒部渓谷があった。そしてブッシュ混じりの岩を夕方まで攀じ登り奥鐘山山頂付近の潅木帯でビバークし、早朝下山、欅平に下りた。
次には、夏山合宿の記録である。毎年の様に夏山合宿は富山県の剣岳と決まっていた。
入山方法は色々あり、ベースキャンプも剣沢二俣或いは三の窓と色々あったが、剣沢上部にある三田平が一番多かったように思う。
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その三田平から剣岳を見上げると、頂上直下に菱形をした岩盤があり通称「ダイヤモンド・ヘェース」と呼ばれ当時、岳人の憧れの的となっていた。それを当会メンバーの祖父江と登り(その時は核心部)は祖父江がトップで登った。しかし私も一度はそのルートの核心部をトップで登りたく、次の年であったと思うが、GDM(長野の山岳会)との交歓合宿でその希望が達せられた。
槍ヶ岳には、春・秋とそして正月にいづれも北鎌尾根と言う槍ヶ岳へのアプローチには最も困難とされているルートで頂上へ登っているが、最初(社会人としての最初の山行)の丈念岳のコルでの感じた感動は無かったようである。
記録として残るのは、元気の良い大学生を連れて春に北鎌尾根から槍ケ岳〜北穂高を経て涸沢までを1日で縦走した事があるが自分自身あまり感動は無かった。 唯一、感動した思い出は、アラスカ遠征の数時間である。それは、マッキンレーの登頂を終え、カヒルトナ氷河まで下山し、7/23日、2名は荷下げ、そして2名はカヒルトナピークの登頂で私一人での行動となった。
夕方PM.700時頃から、ガソリン・ラーメン等の荷下げに一人でカヒルトナパスへ向かった。峠に着く頃(PM11時頃)は丁度、夕日が沈み周囲の山々は夕日に映えて荘厳なほどに美しく輝いていた。その時、本当の孤独感(現実に私が生涯に於いて、他の生き物から一番離れた所に居た)を味わい自分自身が本当に愛おしく感じられた。
50代半ばになった私しにとって、山の記憶を思い起こしてみると幼少の頃の「明神山の思い出」と社会人と成って初めての、「丈念岳から見た穂高」の感動が忘れられない。 いや、まてよ!
そう言えば、まだこのサイトに登場していない、忘れられないお方がいました、長野県においでます「小池君」(昭和53年に未踏のヒマラヤのダウラギリU峯に登頂した)です晩秋の前穂高東壁を一緒に登って頂きました。右のその時の写真ではないかもしれませんが・・・
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| 剱合宿の下山でのスナップ |
私の人生も、エピローグに近づき、山岳の景色以上に魅力ある渓谷の美しさに出会う事となる。山道を歩くのと比べ自分で判断し、塑行しなければならない場合が多く新鮮な気分である。地質学的にみれば渓谷美も水の浸食を経て変化し、その過程の一コマである姿に魅了された次第である。