天海(1536年?〜1643年11月13日)
1571年比叡山延暦寺で修行中、織田信長の焼き討ちにあう。
逃げ延びて各地を転々、1588年川越無量寿寺北院に移住、天海を名乗る。
1599年北院住職に就任。北院は川越城の目と鼻の先にあり、川越城主酒井忠利(酒井忠勝の父、家紋が我が家と同じ)は藩内に薬師堂を建てたり仏教を保護していたので親しい間柄と思われます。
住職に成ってから徳川家康と会見。(なぞ)
関が原の戦い(1600年)では徳川家康に近侍。(なぞ)
その後、家康の使者として朝廷と接見。
(1603年。徳川家康征夷大将軍襲名、江戸幕府を開く。)
1607年 比叡山探題に就任。南光坊に住して延暦寺を再興。
1612年 無量寿寺北院を喜多院と改め、再建。関東天台の本山とする。
1613年 家康より日光山貫主を拝命し、本坊・光明院を再興。
1616年 徳川家康死去。
1623年 徳川家光が第3代将軍に就任。
1624年 上野忍岡に寛永寺創建。
1634年 日本の数が制定される。
1643年 108歳で没。5年後、朝廷より慈眼大師号を追贈される。
喜多院の本尊は阿弥陀如来です。
阿弥陀如来の仏教が何だったのか、と考えてみれば阿弥陀如来の仏教が南無阿弥陀仏を唱え、阿弥陀如来や諸仏におすがりする仏教であろうはずはありません。
多分、日本の数が阿弥陀如来が知っていた仏教だと思われます。
この単純仏教+正攻法仏教が阿弥陀如来の実力の秘密だと思います。
天海については色々な憶測もあるようだが天海も阿弥陀如来と同じ正攻法の仏教だな。
大通知勝仏の仏教から本仏覚醒が起きた私までの一連の流れから、私にも阿弥陀如来の実在とその実力が確認できました。
日本を救った実績のある阿弥陀如来の意志に出会う。
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