ちょっとしたコラム      
              
 03.5.24付


不死鳥村田(ロッテ)、復活の開幕11連勝

 1985年春、一人の投手が本格的カムバックを目指していた。その投手の名は村田兆治。自他共に認めるロッテオリオンズのエースとして活躍していた村田は通算156勝を挙げていた。不動のエースだった村田の体を異変が襲ったのは3年近く前の82年5月の事だった。1975年にセーブ王と防御率1位、76年には21勝した上に2年連続防御率1位。81年にも19勝して最多勝利と数々の栄光に輝いてきた村田はその82年も好調な投球を見せていた。

 開幕から2完封を含む3連続完投勝利をマーク。しかし、4試合目となった4月20日の日本ハム戦ではヒジ痛を起こして4回降板、初黒星を喫した。5月7日に17日ぶりの登板で8回1/3を投げ4勝目を挙げるが、これがこの年最後の勝利となった。次の試合も慎重に間隔を空け、中9日で17日の近鉄戦に先発した。しかしヒジ痛が再発し、わずか1イニングで降板。これ以後、村田はヒジ痛との闘いの日々が続き2年以上マウンドから遠ざかる事になる。

 あらゆる治療を試みた末、まだ日本ではタブー視されていた「利き腕にメスを入れる」事を決意。フランク・ジョーブ博士の執刀で、左腕の腱を右腕に移植する手術を行った。
 そしてリハビリの日々を経て84年8月12日の西武戦で17−1と大量リードの9回にマウンドに上がり、818日ぶりの登板を果たす。9月25日の日本ハム戦では復帰後初先発して5回を投げた。結局この年は5試合に登板したが0勝1敗。真の復活は1985年シーズンに持ち越しとなった。

 ・・・そして85年4月14日の対西武戦。復活を目指すマウンドに村田は上がっていた。主砲・落合が2本のホームランで4打点を挙げ、村田を援護する。9回表、すでに投球数は100球を大きく超えていた。ジョーブ博士には「100球まで」と言われていたにもかかわらず、この試合に懸けていた村田は投げ続けた。最後の打者・スティーブを打ち取りゲームセット。投球数は実に155球に達していた。82年5月7日以来、1073日ぶりの通算157勝目であった。

<85年4月14日・ロッテVS西武>
西武 0 0 0 0 0 0 0 2 0   2
ロッテ 0 0 0 0 0 3 1 2   6

 初勝利を皮切りに5月26日まで7試合連続して中6日で日曜日の登板が続いた。いつしか「サンデー兆治」のニックネームが付いていた。4月は3試合連続で完投というタフネスぶりを見せ付けた。村田の登板試合は打線の援護もあった。5月5日の南海戦では実に17得点で余裕の6回降板、4勝目を手にした。5月19日の南海戦は10安打を浴びる苦しい投球だったが、救援した梅沢が打者8人をパーフェクトに抑えた。
 26日の阪急戦では4試合ぶりに完投し、早くも5球団全てから勝ち星を挙げた。 

 梅雨時の6月に入るとローテーションが崩れて日曜日の登板はなくなった。しかし相変わらず出れば完投で連勝を伸ばし続けた。7月7日の南海戦に勝って、何と5試合連続の完投勝利。81年以来自己2度目の開幕11連勝を達成した。これが3年近く勝っていなかった投手の投球であろうか。まさに村田のマウンドに懸ける気迫が生み出した11連勝であった。
 この連勝中はとにかく落合がよく打った。11試合で41打数18安打19打点、打率.439、8本塁打である。落合だけでなくチーム一丸となって「村田投手に勝たせよう」というムードが生まれていた。

 7月14日の西武戦。ついに連勝が止まる時が来た。中6日で先発した村田は初回にいきなり4失点。5回にも2失点でKOされた。4回0/3で11安打6失点。それまで村田の登板日は平均7点の援護をしてきた打線もこの日は郭泰源に6回まで3安打に抑えられるなど1点止まり。結局1−7の完敗だった。前回の11連勝が止まったのも西武戦という奇妙な因縁だった。

 結局この年の村田は17勝5敗の好成績でシーズンを終え、カムバック賞を受賞した。17勝はリーグ4位、勝率.773は自己最高でリーグ3位。防御率は4.30とやや不満の残るものだったが、リーグ本塁打が1000本を超え、チーム打率.270以上のチームが4つもある打高投低の状況の中ではまずまずだった。何よりシーズンを通して先発投手として投げられた事が大きな収穫であった。しかも100球制限をものともせず、24試合の先発で10試合に完投している。ちなみに2002年の個人最多完投はセが8完投、パが7完投である。時代が違うとはいえ、復帰していきなり二桁完投の村田には凄みを感じざるを得ない。

<開幕11連勝の足跡>
    投球回 内容 被安打 奪三振 四死球 自責点
4/14 西武○6−2 9 完投 7 8 7 2
4/21 南海○7−4 9 完投 7 5 3 4
4/28 日本ハム○8−5 9 完投 5 2 4 3
5/5 南海○17−5 6 先発 4 4 2 3
5/12 近鉄○6−3 7 先発 4 4 4 3
5/19 南海○6−4 6・1/3 先発 10 1 5 3
5/26 阪急○6−2 9 完投 6 8 4 2
6/12 南海○3−1 9 完投 6 6 2 1
6/20 近鉄○7−3 9 完投 9 4 6 3
6/27 西武○5−4 9 完投 11 2 6 4
7/7 南海○7−2 9 完投 7 4 2 2

 右ヒジを故障するまでに156勝を挙げていた村田は、この85年の17勝で通算173勝として消えかけていた200勝への希望が大きく膨らんだ。翌86年8勝、87年に7勝、88年に10勝を挙げて198勝とした。そして89年5月13日に史上21人目の200勝投手となった。翌90年も40歳にして10勝を挙げるが、余力を残しながらその年限りで引退した。現役最後の登板は90年10月13日の川崎球場。王者・西武を相手に通算215勝目を完封勝利(降雨5回コールド)で飾り、最後まで男の美学を貫いた。

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