SIREN!物語

 

【著者紹介】

代女(Daisuke)さんは、Moon Dancerの前身バンド「SIREN!」のドラマー。
1977年当時の記憶を元に、この「SIREN!物語」を代女さんの視点から書いてくださいました。
(2000年2月より掲示板に連載されたものを転載しております。)

 


 

<<中目黒時代前−下田君との事−その1>>

 その頃の代女君はいろいろなバンドを掛け持ちしていて、でもやっぱりハードロックとプログレばっかりでしたが、その中にJethro TullとKing Crimsonのコピーバンドがありました。その時のベースが下田君だったわけです。このバンドは明けても暮れても21世紀の精神異常者を練習していて、全員が20世紀の変態異常者になっていました。

 

 <<中目黒時代前−厚見君からの電話>>

そのバンドは余りに21世紀の…ばかり練習するので、全員嫌気がさしてしまったのか、自然解散しました。変態異常はその後一人を除いて(ワカルネ?)殆ど全員が治癒したと聞いています。暫くのち、ある日突然アツミトイウモノナンデスケドダイスケクンイマスカという電話が掛かってきたのでした。聞けばケムタの紹介(厚見先生は下田君をケムタと呼んでいたのでした)との事。ケムタはプログレとかハードロックというよりもジャズ系のヒトでしたから私の当時のポリシーである重音楽系のコネとは思えず、まぁ折角電話を掛けてきたのだから、ドラム修行にいろんなバンドもやらねばならぬし、ちょっと会ってやるか、という今となっては恐れ多い事ですが、あんまり気乗りせずに会いに行きました。彼は中目黒駅の改札を出た所を待ち合わせに指定してきました。

 

 <<中目黒時代の幕開け−厚見君との待ち合わせ>>

それは1977年のある夏の日、私は自慢のロンブーとロキシーのジーンズにラメTシャツという、如何にもコイツは、という服装で中目黒に向かいました。体重51kgでした。因みにJUN君は47kgで、風邪をひくと彼女より体重が軽くなるので健康に注意しているとの事でした。今これらの体重をを信じるヒトは彼の周りにも私の周りにもいません。地方のヒト(むーぐーさん!!)に判りやすいように言いますと、中目黒とは渋谷の近所で住宅街です。東急東横線と地下鉄日比谷線で行ける場所で、渋谷生まれで世田谷育ち、当時カノジョのヨッコ(当時港区在住)並びにJUN君(大田区在中)とのデートにいつも渋谷を利用していた私にとっては行動半径内です(JUN君、オリックスによく行ったよね、待ち合わせ時刻10時27分とか指定して。JUN君と私は異常に時間に正確な男でした。ムキになってました)。

 

 <<厚見君らしきヒト発見>>

例によって時間ぴったりに登場した代女君は、改札の隣にある本屋に約束とおりに向かいました。私は奥の方に行って少しエッチな雑誌などをパラパラと関心なさそうに、しかし視覚中枢は全開という男性本能に忠実な体制をとりつつ厚見君の登場を待ちました。視覚中枢が1点に集中している関係で周囲の変化に気がつくのが遅れ、フト我に返ると入り口付近の酷いエッチ本に視覚中枢全開中の如何にも怪しげな男の姿を視界に捕捉しました。今では詳しく思い出すのは不可能ですが、クソ暑い夏の昼下がりというのに季節感のない、やはり黒っぽい服で登場したと思います(私は背中にSparksのロゴの入った、女モノサイズM、白+ピンクのラメシャツだったのですが。ウーン今考えると私の服装の方が危険)。その男はカーリー長髪で、何となく私の琴線に触れるものがありました。「君、…。」

 

 <<ところで、好女と代女の関係は>>

突然ですが大事な事を書き忘れてたので書きます。好女君は私の中学からの古い古い親友です。それまでは1969年のデビューで出会って以来(私はマセテたので、小学校3年から洋モノ音楽を聴いていました。クラスに話の通じるヤツは当然皆無で寂しかった!!)L.Zep以外の音楽を拒否していた私ですが、彼にELPやChicago、そして偉大なるK.Crimsonを無理やり聞かされて道を踏み外す事になったのでした。折りしもアポロ11号が人類初の月面着陸した頃です。彼も20歳頃の体重は50kg台半ばであったと思いますが、途中、ほぼ2倍の約0.1トンまで膨らんだ経験があるようです。有名な話としてはケガをして入院中にお見舞いのケーキ1ホールを丸ごと一気食いした事で、そりゃ太るわ。角砂糖をポリポリ食ってたの好女君だっけ?彼は甘党です。私が彼から学んだ大事な事は、効率よく食物カロリーを体内に備蓄する方法です。

 

 <<そしてJUN君との代女君の関係>>

大学1年生当時、彼の通う某KO大文化祭にバンドで参加したときに、キレイな娘はおらんかぇーと校内探検中ある教室を覗いたらそこに設置してあるプログレ系ドラムセットをポンポコとイタズラする(演奏ではない)、まるでスルメイカの様に厚みのない体型のヤセ男がいて、二言三言しゃべってしまったのが運のツキでした。彼こそは私の平均的プログレ世界観を異常プログレ人生に変えてしまった犯人です。Latte E MieleとかNew Trollsとか勿論Enidとか、あとMark Almondとか有害な音楽を無理やり聞かされてこんなんなっちゃいました。すごく恨んでます。責任とれっ。彼のお陰で異常者になった私は、ついに日本に5人しか現存しないと推測されるGongのファンになったほどです。というわけでJUN君と好女君は私経由で友達になったわけです。私と好女君は肉体関係あり、それ以外は肉体関係無しです。2人とも厚見君とは私経由。

 

 <<厚見君との出会い>>

「君、ダイスケ君?(当時私を苗字で呼ぶヒトはいなくて、確か厚見君もイキナリ名前で呼んでたと記憶してますが、定かではない)。厚見です。今度新しくバンドをやろうと思ってるんだけど、いいタイコを探してたら紹介されたので。これやる曲のデモテープです。またスグ電話するから聞いておいて下さい」「うん」というような会話があったと思います。さてお茶でも飲むことになるのかなと思っていたのですが、テープを渡して彼は去って行きました。僕はテープとエッチ雑誌の表紙を交互に見ながら、まぁとにかく聞いてみっか、ということで帰宅しました。途中つまんないので当時カノジョのヨッコに電話してデートしようと思いましたが、何だか予感がしてまっすぐに帰宅して、テープを愛用のNakamichi 7000ZXL(この名器を知っているヒトはえらい)にセットしたのでした。

 

 <<デモテープの中身とは??>>

Nakamichi 7000ZXLのAutoAzimathを調整するのもモドカシク、早速テープをかけました。当然ですがそこにはDown to the GroundやParty Lifeなど、サイレンの代表的な曲の幾つかが収められていました。そのテープでは歌詞が日本語で、例えばParty Lifeなんかタマゴサンドというタイトルのシュールな歌詞がつけられていました。デモテープの段階で沢村君のギターはすでに Over-Dubされていたのですが、例のミュートを多用した独特の無握力奏法が披露されていました(僕、本人に言った事、これまで一度もないですけど、世界で好きなギタリスト5人リストしろと言われれば、沢村君は外せないと思います。特にタキオンの六本木Pit-Inのライブの時はスゴカッタです。その後タキオンに問題が生じた時、少しタイコのお手伝いした事があったのですが、正直感動しました)。

 

<<デモテープとの競演>>

ハッキリ言って曲を気に入った私は、デモテープとの競演をする事にしました。つまり、自分のドラムプレイをOver-Dubしながら練習するということです。何日かそれを繰り返してシンコペのツボとか押さえて行きました。当時の私のポリシーは聞くのはプログレ、でも演るのはなるべくハードロック(だってプログレは女の子にモテないんだもん)だったので、最初ちょっとキツかった様に記憶していますが、無理やり自分のスタイルに持ち込めばいーじゃんと勝手に決定して、Cozyフレーズ(だっどどどどんというフレーズ、判るヒトにはワカル)とかをバシバシとブチこんで「ひょっとしてダイナシ?」と不安になりながら練習しました。

 

<<最初の音合わせ>>

さて、そうこうするうちに厚見君からいよいよ音あわせをするよーという連絡がありました。場所は、そーです、伝説の中目黒地獄練習所です。まず私のタイコを移動するということが地獄でした。当時のセットは26インチ2バス、タムが13と14、フロアが16と18、それに真鍮製の深胴スネア、そして地獄極厚シンバル12枚というもので、設置すると約4.5畳を必要とし、総重量はスタンドを入れれば軽く100kgを超える、単体ではレズリー様でも勝負にならぬものでした。その後のライブ巡りもいつもこれを移動していたわけですが、大変でした。特に好女君、今更お礼を言います。君はいつもローディでした。地獄練習所は中目黒駅から徒歩3分のあるマンションビルの地下1階、ボイラー室とか配電室とかにはさまれた、結構広い空室でした。

 

<<最初の音合わせ II>>

なぜ斯様な練習所が確保されていたのか?それは、実は私も余り詳しくは関係を知りませんが、当時これらマンションとかビルを所有しているおじさんがいて、このヒトが厚見君を応援していたのです。どこからどう見てもそこら辺の汚いオッサン以上ではないヒトで、私も何回もお会いしましたが「おらぁこーゆー若いモンが何か頑張ってるのが好きなんだにぃ」と、まるで仏様の様なおじさんでした。まだご存命なんでしょうか。当時厚見君は中目黒に居住しており、地獄練習所へ歩いて行ける場所でしたが、これもこのおじさんが提供してくれていたのです。場所は何と、所謂飯場でした。飯場って分からないヒトは辞書引きなさい。飯場に現場のおにぃさん達と一緒に寝食を共にして暮らす厚見玲衣なんて、その後のキレイキレイのイメージから想像つきませんね?

 

<<最初の音合わせ III>>

前置きが長くて中々音あわせができませんが、ごめん。飯場で暮らす厚見先生を想像するに、華やかな舞台の裏には他人の知らない努力や過去がある、という好例ではないでしょうか。演歌の世界です。で、とにかくそういうおじさんのお陰で我々は無料で毎日何時間でも練習できる環境にありました。学校の都合とか個人の人生もあって本当に毎日というわけではなかったのですが、1977年10月9日のOddyseyでの初舞台までには数十回の練習ができました。練習が無料とは言っても、皆有り金殆どを楽器につぎ込む生活で、基本的にはビンボでした。実はメンバー4名とも中流以上の家庭の出身ですが、自分で自由になるお金は余りなくて、それを楽器購入に充てていましたから、どうしてもどこかにシワ寄せがくる。私らの場合、結果として食糧事情が悪化していたようです。うー。

 

<<最初の音合わせ IV>>

練習の合間におなかが減る。中目黒駅のすぐ裏手に喫茶店があって、練習の中休み兼反省会を兼ねて遅い昼食「○○セット、あ、僕アイスコーヒーガム抜きね」という状況がしばらくは行われていました。別にビンボじゃないじゃんか、と思うアナタは慌てん坊さんです。初めはこの喫茶店によく行けたのですが(よく覚えていますが、セットはいつも大体[ピザトーストセット、和風ドレッシングサラダ、珈琲/紅茶つき、アイスも可]でした)、中目黒時代の後半は喫茶店には行かず、練習所の向かいのパン屋さんでカレーパンと牛乳という食料になって行きました。勿論パン屋の店先で立ち食いです。当時は不良と思われていた長髪のおにぃさん4名がパン屋の店先で立ち食いしていたので、お店の売上に影響があったかもしれません。ビンボな食料事情は後の並木橋時代にも引き継がれます(泣)。

 

<<最初の音合わせ V>>

まだ音が出ないのです。食料の話でしたね。そろそろ音あわせをしましょう。私は緊張して音合わせに臨みました。音合わせの前にケムタこと、下田君との無事の再会を祝い、そして沢村君を紹介されました。沢村君も一種独特の雰囲気があって、一見文学青年風でした。彼は幼年期を父親の仕事の関係でトルコに暮らしたのですが、そのせいか死海の風の香りのする青年でした。いつか彼が言っていたのを思い出しますが「庄野真代の[飛んでイスタンブール]の歌詞はうそだ。♪光る砂漠でロール〜、という部分、イスタンブールに砂漠はありませんっ」と怒ってました。そして体力なさそうな感じ、握力なさそうな感じがしていました。当時の彼はR大学の1年生で、INというQueenのコピーバンドをやっていましたが、なるほど一途にBrian May大先生〜っ(お目目に☆)という状態でした。

 

<<最初の音合わせ VI>>

さていよいよ音出しです。各自自分の楽器のセッティングを終え、実はさすがにこの辺は記憶が定かではないのですが、多分、ノリが良いということでDown to the groundを最初に演ったと思います。それまでは聞くのはプログレ、演るのはハードロックという私ですから、キーボードがいても決してGuitarより前に出る事はないのが常識でした。それが厚見先生はこのHPにも何回か登場しているGuyaの200Wアンプにオルガン直結ボリューム全開なのです。サイレン結成当初、厚見先生はまだレズリーを所有してなくて(ですから1回目のオデッセイのライブでもオルガン生音です。その直後にレズリー入手)、そしてこのGuyaのアンプというのはお世辞にもいい音ではなく、所謂ドンシャリの鬼(ドンシャリという単語はデジタル時代にはもう死語ですが)でしたが、とにかく馬力はありました。

 

<<最初の音合わせ VII>>

Guyaの200Wx2段積みアンプは、当時オレンジ、ハイワットと並んでギター小僧の憧れの的であった、マーシャル100Wx2段積みx2連発より明らかに耳に悪い大音響を吐き出す公害マシンでした。MarshallといえばJimmy Page尊師、Richie Blackmore教祖、そして成毛滋教授を思い出します。Hi-WattはThe Who、Orangeというと私らの世代はWishbone Ashかなぁ。高中正義選手もミカバンドではOrange多用してました。そんなことはさておき、オルガンもさる事ながら、Korgのシンセがまたキツかったです。厚見先生ファンの良い子は皆さん気がついていると思いますが、厚見先生のシンセのビブラートは先生の歌い方と同じですね。あの頃からそうでした。ウーーーーーー〜〜〜〜と、後半になるとキツクなる、例のアレです。1曲目の音合わせの時、私は何だか至福感に包まれました。

 

<<最初の音合わせ VIII>>

皆は僕の音が大きい大きいと文句を言うのですが、厚見先生のKorg正弦波Guya200W至近距離直撃を密室で受けてごらんなさい。正弦波というのは入力信号に対して出力音圧が最も大きい、一番破壊力のある音色ですが、これを厚見先生は効果的に繰り出してきました。ていうかぁ、あの頃のKorgのシンセでは正弦波と矩形波位しか基準波がなかったのかもしれませんが。これに生身の体で勝負を掛けていた、体を張っていた私をウルサイというのは間違いで、これはやはりエライと言うべきです。電気的に増幅できるのに沢村君とケムタは既に戦いを放棄していたのです。なぜ戦うのか、それは目立ちたいからです。小学校6年生から始めたドラムでしたが、そしてJohn Bonham大尊師のおられるイギリスの方へ向かって毎日お経を唱える私でしたが、生まれて初めて強敵に出会った気がしました。

 

<<最初の音合わせ IX>>

1曲目の5分強の戦いが(何故か戦いであって、演奏とは呼ばない)ダイスケ君、音大きいじゃんー、と厚見先生はにこやかに、そしてやや警戒心を込めた目つきで感想を述べておられました。明らかに目立ちパーセンテージを食われてはマズイという本能の表れでした。私の26インチのツーバスセットは当時一番音がデカイと言われていた、Pearl President Exportというファイバー製のドラムで(DoobieのJohn Hartmanとかアメリカ系の外人に愛用者が多かった)、しかも全部一番直径の大きいヤツで揃えて、ソンジョソコラの木製ドラムとは鍛え方が違う逸材でしたが、うーん、いつもこんなもんだけどねぇーと答える私の息が切れていた事を厚見先生は気がついていたのでしょうか。今でもナゾです。

 

<<最初の音合わせ X>>

この中目黒の練習所は地下室で右隣がボイラー室、向かいが配電室という環境で、窓もなく、従って人間が長時間生息する様には設計されていませんでした。冬ならば少しは良かったかもしれませんが、夏で、窓がなくて、Guyaのアンプは発熱が酷くて、そして平均年齢が20歳に満たない4人の熱いハートがそれに拍車をかけて室内に熱気を篭らせました。せめてもの救いは低カロリー食を強いられた我々自身の肉体が余り発熱する余裕がなかったことでしょうか。でも今思い出して見ると辛かったという記憶はなくて、毎日曲が完成してゆく喜びと充足感だけが思い起こされます。当たり前だよねー、僕なんかは途中でDrop-Outしたとは言っても、厚見/沢村という日本の誇るMusician(厚見先生はともかく、沢村選手はもっと、今の100万倍くらい評価されるべき)と一緒に演ってたんだもん。

 

<<最初の音合わせXI>>

このWEBを覗いているヒトには今、あるいは嘗て楽器をやったヒトが多いと思うけど、自分が仮にDrummerで演奏していて、同じステージの左前方を見ると厚見玲衣がEmersonスタイルで派手派手にKeyboardsを、右前方を見ると沢村拓がStratocaster Old Modelを力なく弾いているという Situation、想像して御覧なさい。私が選ばれた異能者ということではないとは思いますが、結果的には選ばれなければ座る事の出来ない席を与えられていたわけですから、上記<<X>>に書いた「至福感」が理解できると思います。目を瞑って想像してみて下さい。さて、最初の音合わせは無事に終わって、このメンバーでやって行こうという事になったわけです。最初の音合わせ中には事件はなかったのですが…(ワクワク)。ここでイキナリ断筆宣言!!なぁーんて、筒井康隆先生じゃあるまいし、心配ご無用。

 

To アルツ代女様 from ろーでぃー好女

厚見先生が当時ご使用されていたシンセサイザーKORG 800DVには、(1)三角波(2)矩形波(3)鋸歯状波(4)パルス波コーラス(5)ピンクノイズ(6)ホワイトノイズの7つのオシレーター×2系統が装備されており、正弦波は三角波をVCFで加工して作っていたと推測されます。

 

 


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