自分史(暫定版)


1979年10月19日生まれ
1984年4月 第二ゆりかご幼稚園入園 4歳
1986年3月 第二ゆりかご幼稚園卒園 6歳
1986年4月 仙台市立西中田小学校入学 6歳
1992年3月 仙台市立西中田小学校卒業 12歳
1992年4月 仙台市立中田中学校入学 12歳
1995年3月 仙台市立中田中学校卒業 15歳
1995年4月 仙台育英学園高等学校入学 15歳
1998年3月 仙台育英学園高等学校卒業 18歳
1998年4月 東北学院大学工学部電気工学科入学 18歳

〜小学校入学

多分幼稚園入園までは実家に預けられる事が多かった気がする。
今は実家に住んでるけど、その時は離れた所に住んでた。
僕が生まれる前は実家にいたらしいけれど・・・。
理由は父方の親戚等から母が辛い思いしてた事。
ノイローゼになってたって・・・。それで実家から出ていったらしい。
この事については後からもふれると思います。
この頃に実家の近くで遊んだ子が今でも友人で、ネットで連絡取り合ってたり・・・。
あとは実家の祖父がよくバイクで僕を親戚の家に遊びにつれていってくれてた。
いろんな所に行ってるみたいだけど、覚えてるのはちょっとだけ。
幼稚園での事なんてほとんど覚えてない。
ただ、無邪気で何も知らないままだった。おとなしい子だったと思う。
その頃家が近くで遊んでいた人たちは名前すら思い出せない。
けど、どんな事してたかっていうのは断片的に思い出せる。
自分の思い通りにならないと泣いてばかりいた。笑われても泣いてた。おかしな子。
あとこの頃は自分の事を名前で言ってたっけ。『○○は・・・、』って
この家にいた頃からけんかを良く見てた気がする。
原因はよくわからないけれど、家の事だったり、僕たちの事だったり・・・したのかな。
『どっちについていく?』って聞かれて、一緒じゃなきゃいやって必死で泣きついてた事もあったと思う。
その時の僕たちじゃどうしていいかわからなかったし、だけど、そんな状態でいるのも辛くって・・・。不安でした。
後に(確か高校の時かな)僕の前にも一人いたんだよ、そう両親に聞かされた事があった気もします。
曖昧な記憶になってるので事実かどうか分かりません。それに今更聞ける事じゃないです。

小学校入学〜小学校卒業

小学校入学を機に転居。実家の近くにうつりました。(通ってた幼稚園もこの街にあったんですけどね)
あの時は実家に住めばいいんじゃないのかなとかそんな疑問すら感じず、
ただ、こっちに転居した事だけで頭がいっぱい。その時から弟と2段ベットを使ってました。
なんか憧れはあったみたいです、2段ベット。嬉しいって思ってた気がする。
小学校ではどうだったんだろう、普通に勉強とかする事さえ新鮮で楽しかったな。
なんか暗いって言われる事が多かった。そうなのかなぁ。引込み思案だったっていうのはある。
自分から話したり、自分の事話さないのはこの頃からかもしれない。
小学校何年かの時にあるアニメがTV放送されて、それがもとでいじめられてた。
ってイジメって言うほどではなかったのかな。ただ、僕はそれをいわれるのが嫌だっただけ。
その事を親に話したら、無視しなさいって。だから余計言葉少なくなってた。
他に小学校時代いわれた事で覚えてるのは相手の立場になって行動しなさいみたいな事。
自分がされて嫌な事は人にはしちゃ駄目だって・・・。なるべくそう行動しようと心がけたけど、できない時も多かったかな。
小学校時代も具体的に何をやってたかなんて覚えてない。
ただ、勉強嫌いじゃなかったな。家に帰るとまず宿題って生活してたし、テストって言われるとわくわくした。
小学校5年になる時かな、祖父が亡くなりました。だけど、それがどういうものかなんて認識できないでいた。
え?そうなんだって思ったくらいだったと思う。悲しいって気持ちはあまり湧かなかった。
それを機に実家に戻る。学区は同じだから転校はしない。
そうそう小学校5年の時に、読書感想文コンクールで優良賞いただきました。
小学校6年の時は今思えばいろんな経験してた。学級委員になったり、
5,6年生で組織される各委員会があって、僕は緑化委員だったんだけど、その委員長にまでなってしまった。
更には町内会に子供会があって、その班長になったかと思ったら、そのままその地区の副委員長になってしまうし。
この時から、まとめる立場とかそういうのすごく苦手だった。
まぁ、この頃のなんてマニュアル通りに進めてればいいから、後の主将なんかに比べたらずいぶん楽なんだけど。
当時はいろんな事心配して神経質になってた。いろんな事が一度に降りかかって辛かったな。
今にすればいい思い出だけど、それからは極力まとめるような立場にはならないように動いてた。
この頃もまだ閉鎖された環境の中で生きていた、今になってそう思う。
後から聞いた話しだと周りの人からは中学受験するんでしょう?って親が言われていたらしい。
その当時はそんな選択がある事自体考えの中になかったけれど・・・。
自分勝手でわがままで、弟を泣かせたり、思い通りにならないと自分が泣いてたり・・・。
小学校時代、実家に移る前に住んでた家までの通学路が妙に印象的。
家が学校から西の方にあって、帰りには西日に照らされながら帰ってた。その時の風景が今でも焼きついてる。
その頃はまだ蛍もいたし、空は今と比べられないくらい星でいっぱいだった。
今は写真でしか、望遠鏡でも通さないと見えないような空がそこに広がってた。
星や宇宙が好きになったのはその時からだと思う。今では天の川なんて見えないけれどその時は確かに見えたんだ。
小学校の卒業証書は和紙が使われてました。



中学校入学〜中学校卒業

中学校に入学してからは急に世界が開けた感じがしました。
科目ごとに先生が違う事、部活動を通しての縦のつながりがあった事・・・。
中学時代は部活の思い出くらいしかない。それも毎日毎日疲れきる日々。
部活はソフトテニス部。なんとなーく入ったんです。団体競技よりは個人競技の方がよかったし。
2年の夏休みまではひたすらコートの周りに立ってボール拾うだけ。
自分達の練習なんてほとんどできないまま。部活終了の時間が毎日待ち遠しかった。
先輩も引退してやっと自分達の練習ができるようになって・・・、
その頃のソフトテニスって前衛後衛ってわかれてて、前衛はボレー、後衛はサーブって感じで練習してて、
始めは僕は後衛だったんだけど、途中からダブルス組む都合上前衛に転向して・・・。
思うようにはいかなくて、練習に出るのも辛くって、泣いたりもしたな。
でも、なぜか辞めようって気にはならなかった。なんかすごく悪いイメージがあったから。
中総体はもともと出たくなかった。もう少しで選ばれる所で、僕は自分で自分を見放した。
嫌だった・・・。代表になる事とか。責任にのまれそうだし。
結局中学時代の参加大会は1回か2回だけ。戦績は1勝。勝って当たり前のような相手から。
部活で楽しい思い出、探してみたけれどどうしても思い出せない。苦い思いばかりしてたみたい。
でも、あの辛かった日々も今にしてみれば懐かしく思えるから不思議。
中学時代の成績は上がりもせず、下がりもせず。最初のテストで100番くらいだったのが
最後の方では20番くらいになってたかな。得点はいつも5教科で350前後。
この時は英語が痛かった。ちょうど担当した先生が休みがちだったせいもあってか
どんどん苦手に・・・。50点以上なんてとった事なかったですから。
まぁ、当時テスト前でもまったく勉強しなかったせいもあるんですけど。
いつもそのテスト前の休憩時間にテキスト見るくらいだったと思う。
3年の最後のテストかな、確か。以前からこれで英語さえいい点とればもっと成績よくなるって友達に言われてたし、
英語、勉強したんです。そうしたらいつもより5,60点上がって順位も20番くらいに。
中学時代から音楽の時間嫌だったな。小学校の時ってみんな声高いから気にならないけど、
中学校だと・・・ね。変声期ってものがあるでしょ?僕にはあったのかどうか・・・。
まったく歌いませんでした。一人だけ声高いとかっていうの嫌だったから。
初めての受験は私立2校、公立1校。この時もうちょっと勉強していればよかったなぁ。
まともに計画立てて日々積み重ねる勉強なんて結局できなかった。
それでも安全圏の滑り止めだった私立2校は無難に合格。公立は結局勉強も思うようにいかず落ちました。
まぁ、こんなもんかなと落ち込みもしなかった。それで育英に入った。
今にして思えばこれが転機だった。高校時代、いろんな事があって僕は変われたんだと思う。

自信なんて持てなかった。自分に見切りつけてばかりいた。
これだっていうもの、見つけられないまま、ずっと・・・。

高校入学〜高校卒業

なぜか入学する前から一人でいいなんて思ってた。今にして思えばなんでこう思うのかって感じだけど。
でも、ある日突然声かけてきた人いたんだよね。
なぜか名前も知ってるの。その理由はその人の友達が僕の中学時代の友人だったという事。
そして、その人たちと一緒に帰るようになって・・・学校にも同じ電車でいくようになって、
友達になってた。でも、その頃の僕は・・・。
高校1年の時に自分の貯金でパソコン買いました。でも、憧れで買った部分が多く、
1年後まではテレビ見るためだけに使われるような状況でした。
高校2年の時にパソコン通信始めた。PC購入時に案内が入ってたPC−VAN(今のBIGLOBEです)
始めた当初は全てが新鮮で、チャットで徹夜なんて事もよくあったな。
画面の向こうに相手がいるって事いまいち実感してなかったせいか、
いろんな事話せてた気がする。それまでの生活では押し込めていた部分。
でもさ、いつのまにかいろいろ変わって、楽しく話すだけじゃなくなってた。

自主規制項目
なんでだろうね、惹かれていくのは痛みと傷と血・・・。
初めて、自分で自分を傷つけたのは中学3年の時、指先に傷つけた・・・
高校に入って何も要らないと思って、そして、終わりばかり頭にちらついて、
いつのまにか、剃刀を手首に当てた。
何回も何回も引掻くようにしてつけた傷、それが始まり。
血が流れて、これで死ねるのかもしれないと思ったらふっと楽になった気がした。
流れてく血を見て、安らいだ気分に浸った。
理由なんて知らない。なぜ自分がこんな行動とるのかなんて・・・。
その頃は暫くすれば痕も消えるような浅い傷。こんなんで死ねるわけないとわかってたけど
その血がいつか、誘ってくれるような幻想を持ってた。
それからずっとそんな生活繰り返す。痛みにも慣れて、鈍くなって感じなくなった。
少しずつ、深く、深くなる傷痕。そんな中でいろんなもの壊してきた。
自分に何も希望のこさないように、自分から捨てていったもの・・・。
おかしくなってた。いやあの時ばかりじゃない、今だってそうかもしれない。
高校時代、楽しかった時期は過ぎて、壊れてく自分。
自分の事を見て泣きたくなるような日々。これで終われると感じた日々。
本当はここで終わってしまえればよかったのかもしれない。
この時なら痛みに耐えて、終わらせられたかも・・・。
・・・今の僕も終わりたいと望んでるのか?わからない・・・。
精神的には病んでたんでしょう。その時だけ・・・?いや、その前から・・・。
生きる意味とか真理とかそういう不変の何かに焦がれて、
何かがあるんだと現実の中で足掻いてた。
だけど、高校時代にはそんな事まで話せる人がいた。
ネットにもすぐ側にも、たくさんの人がいて、僕の話しを聞いてくれていた。
楽しかったな、ただ、そこにいるだけじゃない友人がいたこと。
それでも、答を求める姿勢は変わらなかったし傷は増え続けた。
そうするしかなかった。誰かが答をくれるわけじゃない。
くれたとしても僕が望む答にはなり得なかっただろう、今だから思う。

ネットでのOFF会
高校2年の終わり頃に、よくチャットしたりしてたメンバーでOFF会の企画ができて、
それに参加してきました。場所は東京。学割使っても1万5千くらいかかる交通費。
でも、参加してみたいって気持ちの方が強かったから、そんなにいたい出費だと思わなかった。
2泊3日だったのかな。ついた日は親戚のうちに泊まって、翌日がOFF会でした。
ここでもやはり人見知りしてたし、会話はしても自分からは話しかけないほうだった。
中学生、高校生が中心メンバーっぽかったのに一次会が飲み屋なんですけど・・・。
僕は翌日には仙台に戻って、高校に予定があったから、ノンアルコールでしたけど。
一次会が終わって、夜の道を歩いてたら酔った中年さんに絡まれました。
で、殴られました。怪我とかするほどではなかったけど、それを見てきれたメンバーがいて
思い切り相手に殴りかかってました。で・・・手を骨折するという事態に(後に判明)
2次会・・・というか交通機関が動くまではカラオケBOXで過ごす事に。
この頃はまだ人前で歌うことに抵抗を感じていたので、寝て過ごしました。
朝になって、皆様と別れ、帰郷。
その後も何回かOFF会があり、それに参加したりもしましたね。

高校3年の音楽の時間、『アマデウス』見たり、テストは自由になんか歌えってやつだったり・・・(^^;;;
そう、ここでカラオケってものが変わったのです(苦笑)音楽のテスト、グループ組むなりして、自由に何か歌うか
演奏するか、みたいのだったんですよね(^^;;;いつもの友達グループで2,3人ずつに別れて何歌うか決めましたね。
んで、僕らは2人になって、GLAYの『グロリアス』に決定。そこに到るまで、『世界が終わるまでは』(?)
とか紆余曲折もあった気もしますけど(2人ともわかる歌ってあまりなかったんだよねぇ)
で、友達とは初めてのカラオケにて練習したです(^^;;;はじめはさぁ・・・やだったんだけど、歌ってみると
違うのね(^^;;;僕、声のボリュームは全然ないもので誰かと一緒に歌うと掻き消されちゃうんだけど、
初めのうちは、誰かに一緒に歌ってもらって、人前で歌うのに慣れるようにしましたねぇ(^^;;;
テストでは緊張しましたけど、地声じゃなくて、普通に声出して歌えてましたねぇ。んで先生から一言、
河村隆一とかも歌えるんじゃないの?とか言われました。はい、歌えます(苦笑)むしろ、
歌の練習してる時に普通に歌ってました(苦笑)(^^;;;今ではキーずれて歌えなそうだけどねぇ(^^;;;
まぁ、それ以来その友達グループでカラオケにも行くようになって、歌うの好きになりましたねぇ♪
ってもともと好きで家では普通に歌ってたりしてたんですけど・・・ね(苦笑)

大学への進学を決めたのは高校3年の11月くらい。
うちの高校からは進学者の多い、今在学中のこの大学。
3年の始めくらいから推薦を意識して、
欠席日数は響くから、なるべく学校やすまないようにしてた。
そのおかげで2,3年次は皆勤賞。
いつの事か忘れたけど、冬の日、登校してから咳がひどくて
咳き込む度に胸が痛くなるほど。呼吸するだけで咳が出そうになって辛かった時があったな。
帰りの電車も学生とかでいっぱいで、仙台に着くまで我慢できなくて
意識なくしかけたというかちょうど意識途切れた頃に仙台についたって感じで、
それまで友達の方によりかかってたりして、なんとか帰った。
顔真っ白だよって言われたなぁ。帰ってみて熱計ったら40度だったのかな。
正確に覚えてないけど今まで出した事ないような高熱だったから驚いたって事は覚えてる。
それでも、翌日が休日だったのかな、確か。それで何とか治して欠席しないように頑張れた。
高校時代のテストも範囲さえおさえれば大丈夫な程度だったから
平均80くらいならキープできた。それでなんとか評定あげて4.4のA判定で推薦に望みました。
他に武器らしい武器なんて何もなかったけどね、英検も3級程度じゃ話しにならないし。
筆記の方は5問中4問解いて、面接へ・・・。面接の練習なんて1回くらいしかしてなかったし
緊張しました。相変わらずプレッシャーとかには弱いんです。
面接の場所は予想してたような所じゃなくて後から気がついたけど誰かの教授室みたいでした。
そこで2人の面接官と面接。うまく喋れなかったな。ただ、話しを作ったりする余裕なんて持ってないし、
思った事をそのまま話してました。部活をしなかった理由とか・・・。そういう事聞かれましたね。
推薦終わった日から、勉強なんてしてなかった。
本当はしなきゃないでしょう?合格通知が来たのとは違うんだから。
でも、なぜか妙に安心しちゃって、まともに勉強手につかない状態でした。
1月後くらいに結果が来てなんとか無事合格・・・。
正直、これで推薦落ちてたら多分ここにはいなかったと思います。
それからの日々も何をするというわけでもなく学校に行って変わらない生活。
今思えばここで教習所に通っておけばよかったんですけどね。
そうそう、いつも一緒に話したりしてた友人7人で卒業旅行突然計画したりしました。
場所は東京。だけど、一人都合つかなくて出席できなくて6人で行ったのか
めちゃめちゃアバウトな卒業旅行です。バイトして資金ためてたなんて事もないし、
1月前くらいに突然計画持ち上がったんですから。
楽しかったー。でも、そこでも一人壊れてた人です、僕は。

高校生活は今までで一番充実していた気がする。帰りたい、そう思うのはいつもこの頃。
だけど、卒業っていう時は来た。卒業式なんかに関しては特に思い出深い事もなし。
どんな式だったかもよく覚えてない。

大学〜

そして大学入学
入学当初は途惑う事ばかり。どうすればいいのかなって考えてばかり。
自分の居場所っていうもの探してさ、地に足がつかない感じしてた。
そんな中でオリエンテーションだとかがあって、余計居場所がない感じがしてたなー。
その後、またテニスやりたいなって思ってたからサークルはテニスはじめから考えてたんだけど、
ここで軟式と硬式があったんだよね。
経験からも軟式の方かなぁとか思いながらテニスコートにいってみたら
練習していたのは硬式テニスの方でした。
絶対軟式!って決めていたわけでもなく、その場にいた先輩に話しを聞いてる内に
なんか入部決定みたいな事になっててそのまま入部したんですよね。
はじめは正直土曜日学校に来なきゃないっていうのは面倒でいやでしたね。
今まで高校が週休2日でしたし・・・。それに入部してすぐいきなり王座です。
途惑う事ばかりでしたよ。でも中学時代もそうでしたが
『辞める』って意識は持ってなかったんでなんとか続けていけましたねー。
その年の夏にはいきなり大会出場でした。軟式やってたとはいえ3年あいてますし、
中学時代もそんなにうまかったわけじゃないから、硬式にもなかなか馴染めず緒戦惨敗。
夏休み明けには主務っていう仕事について本格的にサークルの活動に携わりはじめました。
正式に主務になったのはその後しばらくして主将引き継ぎの時にですけどね。
この仕事は主に大会などサークル活動を行う際の学校側に届ける書類を書く事と飲み会の予約等でした。
仕事はじめた頃は面倒だったし、ミスできない事に嫌な思いもしてたけど、
続けていく内に仕事にもなれて苦でもなくなってくるから不思議。
役職決めた際に一番面倒だといわれて、憂鬱だったけれど、やってみればなんとかなった。
えーっと、大学時代やった事といえばサークル活動しか思い浮かばないくらいです。
毎日講義の後は練習でした。そんなに強制されてるわけでもなく楽しかったし上達したかったから練習してました。
大学2年の後期、役職の交代があって僕らの代がサークルの中心になりました。
主将は部員の投票で選ぶのですが、何故か主将に選ばれてしまいました。
それまでなるべくまとめる立場にはならないようにしてきたのに・・・。
それからが精神的に重圧のかかることばかりだったんですよね。
この辺りから、日記は開始されてるので詳しくはそちらを見たほうがわかりやすいかもしれません。
大学3年の夏休み明け・・・突然身体に異常が起こって・・・
いつかは治るだろうと楽観し、我慢して通っていたのですけど回復する気配はなく、
12月には神経外科で検査を受けました。それから転院して心療内科に通院するようになり、
もう一度転院して今の精神科にかかるようになりました。
その間、大学の方はなんとか通っていたんですけど、精神的にも少しずつ辛くなって・・・
段々通えない日も増えてきて、客観的に判断したつもりなのですが、外書購読や卒業研究も進まず、
卒業は諦める事に・・・。そして留年してもう一年大学4年生でいるか、休学するか、退学するか
それで迷いましたが、話を聞いてみると休学では学費の半分を支払わなければならないのに対して
退学は、戻ろうと思えば簡単な試験はあるものの、同じ大学4年から始められるという事だったので
退学を選びました。それからはほとんど外出する事もなくなり、通院だけを続ける日々になりました。
高校時代に酷くなった自傷行為は未だに続いていますし、自殺願望に囚われる事もある。
それが、今でも継続中です。


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