
男は最愛の妻に先立たれ、生きる希望もないまま
屍のように生きていた。
うつろな表情で仕事をし、食事を済ませ、眠る。
その日もただ流されるままに出勤し、ぼんやりと事務仕事を終え
タイムカードを押す。
帰宅までの三十分がやけに長く感じる。
いや、人生そのものが永遠のようにも感じられる。
男は車の中で呟く。
俺は何の為に生まれてきたんだ。
その時だった。
「そう悲観的になることはありませんよ」
頭の中に直接、語りかけて来るように、その声は響いた。
男はギョっとした。
ラジオのスイッチを確認したが、それは妻が亡くなってから
一度も付けたことはない。
「とうとう幻聴まで聞こえるようになってきた」
男が独り言を呟いたときだった。
「いやいや、幻聴なんかじゃありませんよ」
またもや、その声が脳に伝わるように響いた。
「お前は、誰だっ!」
男は不安と怯えを打ち消すように、大声で怒鳴った。
「そう、大声で怒鳴らないで下さいよ。私は貴方をずっと見て
いたんですよ。おかわいそうに、さぞ、辛いことでしょう。
失ったものはもう元には戻りませんからねぇ。しかしね
貴方は今や、自由の身なんですよ。まだまだお若いし
第二の人生を歩んでみては、いかがですか?」
悪魔は悪魔らしからぬ口調で、軽快に答えた。
その口調のせいか、男は無性に腹が立ってきた。
「馬鹿なことを言うな!俺は妻を愛していたんだ。生きがいや
楽しみなんてあるものか!ひどいことを言う奴だ。
そうか、お前は悪魔だな」
「悪魔と言われると困りますねぇ。人によっては
私のことを福の神と呼ばれる方もいらっしゃいます。
そう興奮なさらずに、私の話を聞いてくださいませんか?」
悪魔は男をなだめるように、言った。