本名: 岡田信之(おかだ のぶゆき) 通称: 岡ちゃん
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生まれ:1955年2月3日 東京生まれ | |
(節分と言うこともあり子どもたちには福の神の化身だと説明しているが,鬼の化身ではないかという輩もいる。) | |
好きなもの: | |
ヒ ト | やはり奥さんが1番(この人を一番にしないと何かと差し障りがある!?)2番目は4人の息子達,3番目は我が教え子達(だけど,子どもはみんな好き!だから先生になった!) |
食べ物 | 刺身(特に好きなのはタコ,一部にはタコの天敵と言われている。小笠原時代はよく磯で捕ってきて食っていた。)と酒(アルコールが入っていれば何でもOK…しかし,秘密基地オープンに向けて体調管理のため一大決意をして断酒…つ,つらい!) |
その他 | 1.野外で遊ぶこと |
特に夏場の川遊びと礒遊び…喰えるものを捕って食べるのが最高!普段熟睡できないのにテントの中だとよく眠れる。不思議〜! | |
2.機械いじり | |
生まれついての機械好き。小学生の時にラジオを作って以来電子工作も大好き。コンピュータも早くから使っていた。秋葉原は心のふるさとだったがオタクに占拠されて以来あまり行かなくなった。昔のアキバが懐かしい! | |
3.もの作り | |
大工仕事など大好き!そのため所有する工具の数は尋常ではない。かなり投資している。これが岡ちゃん秘密基地の財産となっている。秘密基地には専用の作業場があるので,いつでもすぐに作業ができ夢のよう!作業場に入るだけでニヤけてしまう!端から見ると気持ちわりぃ〜! | |
音楽 | 実はJAZZが好き。(顔に似合わないと人は言う。もちろん演歌だって大好きです。) MJQ(モダン・ジャズ・クァルテット)のミルト・ジャクソンのビブラフォンの大ファン。名曲『朝日のようにさわやかに』が愛聴曲。M・ジャクソンというと一般的にはマイケル・ジャクソンだが,岡ちゃんにとってはミルト・ジャクソンなのであります。 |
好きな言葉: | |
『工夫』という言葉が大好き。あれこれ考えて何度も挑戦する。なかなかしぶとく簡単には諦めないので,考えすぎて眠れなくなることもしばしばある。でも,どうしてもうまくいかないときは酒飲んで寝ちゃう!(おかげで飲み過ぎて体はだいぶガタが来ている!) | |
信条: | |
興味のあることは何でも独学で学んでいく。人に教わることはたやすいが,独学は回り道が多いため,試行錯誤の繰り返しで時間がかかる。若い頃は平気で徹夜していろいろなことを独学していた。そんなことをしているから若くして体にガタが来ているのだ。でも,困ったときの解決方法をたくさん身につけられるので回り道も悪くない。 | |
略歴: | ||
1955 2 3 | 東京都練馬区関町にて小学校教師の父と専業主婦の母との間に長男として生まれる。安アパートでままごとのような生活だったと母は回想している。ベビーベッドの代わりは柳行李だったとか。(柳行李と言っても今の若い人は知らないか?) おかげで,狭いところにはまっているのは今でも落ちつく。狭い家住まいにはもってこいの習性である。 |
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1956 7月 | 弟 次男(現在 フランス パリ郊外にて日本料理店を経営)誕生 お産の時は父の実家である群馬県高崎に預けられていた。田舎暮らしの醍醐味を覚えたのはこの時であった。 |
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1959 2月 | 弟 三男(現 会社員 横浜市在住)誕生 このときも高崎の父の実家に長期間預けられていた。おかげで3人の兄弟の中で祖母に一番かわいがられた。羊のエサやりなどを日課としていたと祖母から聞かされていた。すでに田舎暮らしの片鱗が見られる。 |
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1961 4月 | 練馬区立S西小学校 入学 1年生の時に学級委員になったことで,精神的に追い詰められた?のか原因不明の腹痛に悩まされる。病院で人生初のバリウムを6歳にして飲む。以後,今でもバリウムを愛飲している。 遊びと言えば専ら秘密基地作り。掘っ立て小屋みたいなものをしょっちゅう作っていた。結局,オヤジとなった今になっても,秘密基地にこだわっているので,あまり進歩していないことになる。 5年生の時に父に教わりながら初めて真空管ラジオ(4球高1ラジオ)を製作。すっかり電気工作の虜に。電子部品のガラクタ集めは日課のようだった。 6年生の時には児童会副会長に。あまり人前に出るのは得意ではなかったが,なぜか友だちから推薦されてしまい,追い詰められて引き受けるという損な性格が顕著に。 この頃にはすでに教師になると心に決めていた。 |
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1967 4月 | 練馬区立K中学校入学 1年生の時卓球部に入部するも,先輩後輩の上下関係の理不尽さに怒り一週間で退部。ただ威張るだけの先輩が許せなかった。今でも,肩書きだけで人を評価する気になれない。生涯一教師のこだわったのも,「肩書きでは勝負したくない!」という気持ちからだった。 2年生の時に友人Oクンと電子工作クラブを設立。電子工作のおもしろさを他の部員に教えることに…。すでに教員になる宿命を背負っていたのかも?ちなみにOクンも教師になったようだ。(卒業後一回も会っていない。) 3年生の時にアマチュア無線免許を取得 開局を夢見ていたが,資金不足で断念。金欠病はこの時以来,治癒したためしがない。なので専らガラクタを集めての制作活動に力を注ぐ。真空管を100本以上箱に入れてコレクションしており,布できれいに磨いてはニヤけていた。(端から見ればほとんどビョーキ!) 中学校時代は専らガラクタ集め,分解,電子工作に明け暮れたので,技術的にはかなり向上した。 |
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1970 4月 | 東京都立O高等学校入学 高校時代は放送委員会に所属 委員長も務めた。学校行事でも裏方で活躍。この時習得した技術はその後の教員生活でも大いに役立った。この時に親友のKクンと出会う。Kクンとは未だにつきあいがあり,いろいろ助けてもらっている。 |
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1973 4月 | 東京G大学 教育学部初等教育教員養成課程 理科専攻 入学 最も活躍したのは学園祭の時 実行委員もやった。 竹細工の同好会を立ち上げ模擬店もやり,大いに稼いだ。この時の技術も教員生活で生かされることになる。 大酒を飲んでいたのもこの頃から…。一晩で一升は軽く飲んでいた。酔っぱらっての武勇伝も色々あるが,差し障りがあるのでここでは書かない。 教員生活のスタートは島でと心に決めていた。なので仲間内で一番最初に就職先が決まった。 |
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1977 4月 | 小笠原村立H小学校へ赴任 教員生活のスタートを切る。 この学校で現在の妻と出会う。 1年〜3年まで持ち上がりで6人の子どもを指導。理科の授業と称してはジャングル探検に出かけていた。教室内での授業が嫌いだったので校庭のバナナの木の下で授業をしたことも。教室内に座敷を作ったり,とにかく普通のことをするのが嫌いだった。 夕方からは釣りと酒飲みに明け暮れた。二日酔いといえど仕事に穴を開けることはしないというのが酒飲みの仁義と心に決め,這ってでも出勤した。 まだ,巷でほとんどもっている人の無かったポータブルビデオをボーナスをつぎ込んで購入。重い機材を担いで島の中を撮影して歩いた。見知らぬ人から『何の取材ですか?』とよく声をかけられた。 |
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1980 4月 | 大島町立O小学校へ異動 3月に妻と入籍を果たし大島の相当年季の入った教員住宅で新生活をスタート。教師として初めて6年生を卒業させた。悪ガキも結構いたが教師の楽しさを堪能した子どもたちだった。 |
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1981 1月 | 長男 誕生 子育てに夢中になる。大島は子育てにはいい環境だった。自然の中での子育てという考え方はこの時から強くなった。しょっちゅう磯に出かけては子どもを遊ばせていた。子どものビデオ撮影も楽しみの一つだった。このころ,我が子のビデオ撮影をしているのは私だけだった。 |
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1983 4月 | 東京都立S養護学校へ異動 養護学校勤務をしていた父の影響もあり,障害児教育の道に進むべく自ら希望。市原市に学校があったので千葉県市原市の教員住宅へ 以来千葉県民に 。 この頃から,車にキャンプ道具を積んでオートキャンプを始める。オートキャンプがまだ珍しい時代でキャンプ場も少なかった。真冬の沖縄に遠征して誰もいない海岸でキャンプしたこともあった。大きなテントが珍しかったので,のぞきに来た住民もいた。 |
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1985 3月 | どうしても海の側に住みたいという一念で県内の不動産を探し回り,千葉県山武郡大網白里町に一戸建てを購入 家内は次男を身ごもっており,大きなお腹で引っ越し作業。心配した。 | |
6月 | 次男誕生 でかくてパワフルな赤ん坊だった。大網の自宅周辺は子育てにはもってこいの環境。泥んこになって遊ぶ子どもたちに幸せを感じた。 | |
1986 4月 | 江戸川区立H東小学校の身障学級へ 障がい児教育の難しさと厳しさを痛感。心身ともに疲れ果てる毎日だった。この頃から医者通いが始まる。白髪も短期間に一気に増えた。 しかし,ここで教育の表と裏,厳しい現実と理想とのギャップなど学ぶことが多かった。教育の原点を見つめ直すいい機会だったとも言える。とはいえ,辛いことが多かった。 |
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1987 8月 | 三男誕生 女の子を確信していたが男の子が生まれ,がっかりと言うよりはホッとした。男の子の子育ては慣れていたので…。 三男誕生の一週間前に電気カンナで左手薬指を削ってしまう大けが。病院で縫合してもらい,抜糸もすまぬうちに三男誕生という慌ただしさだった。 |
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1990 4月 | かつての上司だった校長に乞われ,再び東京都立S養護学校へ。 校長の退職を祝う会を仕切る。 2年目からは初任者研修という制度が始まり,初任者の指導教員として新任教師の指導にあたった。以来,若い先生の指導をする機会が一気に増えた。 |
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6月 |
四男 誕生 またまた男の子 なにか当たり前のように感じた。 しかし,歳をとったせいか子育てがだんだん大変になってきた。 |
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1993 4月 | 江戸川区立東K小学校へ 実に10年ぶりに通常学級の担任に。 健常な子どもたちに障がいをもった人たちへの理解を深めたいという思いで異動した。以降,福祉教育は私のライフワークの一つとなった。しかし,10年ぶりの健常児に戸惑うことばかり。 5年6年と持ち上がりで卒業させた後,初任者指導教員専任として1年間,二人の新任教員の指導にあたる。若い指導者を育てる大切さをこの時実感した。 |
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この頃,総合的な学習の時間の導入が本格化し,その計画作りに取り組んだ。初任者指導の専任の後は専科教員として理科,図工,総合の試行という三つの教科を担当する自称スーパー専科教員として活躍。総合的な学習の時間は自ら目指す教育と同じ方向性のものだったのでやりがいがあった。 | ||
2000 4月 | 目黒区O健康学園へ異動 総合的な学習の時間の実践の場としては申し分のない環境だった。私のもう一つのライフワーク,自然体験学習の様々なアイデアを生かすには,またとない機会を得たと言える。 |
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子どもたちを連れては海へ山へと出かけて授業をし,充実していた。 しかし,時代の流れの中で健康学園はその役割を終え,閉園となってしまった。 | ||
2009 3月 | 東京都公立学校教諭を退職 目黒区O自然学園 指導員に 退職と同時に自らのアイデアに基づいた『体験学習クラブ 岡ちゃん秘密基地』開設に向けて活動を始める。 |
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2010 2月3日 | 勝浦市南山田の地に『体験学習クラブ 岡ちゃん秘密基地』開設 | |
10月25日 | 岡ちゃん秘密基地併設 オルタナティブスクール『SECRET BASE』開設 | |
11月12日 | 目黒区O自然学園 指導員 退職 | |
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