平手打ち

ばちーん!!
 
静かな森の湖に、鋭く響きわたる平手打ちの音
アンジェリークは目に涙をいっぱい浮かべたまま、今リュミエールに打たれたばかりのほほに手を当てて呆然と立ち尽くしている。

そう。
アンジェリークが、「信じられない」という顔をしている理由は、自分のほほを打ったのがリュミエールだったから。
そのまま、リュミエールは無言で森の湖を立ち去った。
 
  ∞  ∞  ∞
アンジェリークが聖地に女王候補として召されてから、まだほんの数週間の間に。
彼女はリュミエールの事がたまらなく好きになっていた。
自分の居た主星には、こんなにきれいな男の人は居ない。
ひとめ見たときから、夢中になってリュミエールの事を追い続けた。
アンジェリークは、小さな頃から面食いだった。
昔から、透き通るような白い肌と二重で切れ長な瞳の持ち主には、いつもときめきを感じていた。
それに
どうせなら、みんなの憧れの的を手に入れたい
そんな、年頃の普通の女のこには、身近にいる守護聖にちやほやされる事はこの上なく幸せだった。
だから
守護聖のみなさんに積極的に接近し、みなさんに色目を使い、
リュミエール様が本命だという事は、絶対誰にも悟られない様、心を尽くした。
 
誰が見てもアンジェリークは可愛い。
だから彼女は、持って生まれた愛らしさをいつしか、当然の様に「武器」として使う術を覚えていた。
  ∞  ∞  ∞
 
「リュミエール」
突然声を掛けられ、はっとしたリュミエールは手にしていたハープを取り落としそうになった。
クラヴィスは、落ちかけていたハープの端を片手で掴むと、リュミエールの膝の上に戻した。
「虚ろな音色だな。…私の病気がおまえにも移ってしまったのではあるまいな。」
リュミエールは黙って傍らのクラヴィスを見つめた。
「何か、あったか?」
「…いえ。」
リュミエールは、再び俯いてハープを爪弾く。
重たい沈黙。
クラヴィスにとっては重くはないのだが。
「アンジェリークの事か?」
また、リュミエールの手が止まる。
「クラヴィス様。」
リュミエールは立ち上がると、クラヴィスの瞳をしっかりと見つめた。
「アンジェリークの事を、どう思っていらっしゃいますか?」
フッ、とクラヴィスは嘲笑的に吐息する。
「私は、好かぬ。」
「…そう、ですか。」
リュミエールは何か言いたげに、じっとクラヴィスを見つめていた。
「アンジェリークは、ただの人間だ。女王のサクリアなど感じられぬ。いずれ、聖地の誰かと結ばれ地上に戻る身であろうな。」
「あの子に、サクリアが…感じられないのですか?」
クラヴィスが断定的に物を言う時は、その事はまず信じてしまって間違い無い。
その事を良く知るリュミエールであったが、女王のサクリアが感じられない、という発言は少しひっかかった。
仮にも、女王陛下が召し立てた女王候補である。
サクリアが、無いなどと…
「私が、ではないぞ。陛下が、そう言っていた。」
「?!では、何故彼女は…ここに…」
「もともと無かったのではない。消えたのだ。ここに来てすぐに。」
「…そのような事が?」
自分達のサクリアは、いずれ衰えて消えていく。それがサクリアを有する者、全ての運命
しかし、まだ本格的に使われる事すらないままに、サクリアがあっさり消えていく物なのだろうか…
「お前への想いが、サクリアをそう導いたようだ。」
リュミエールは目を見開いて、クラヴィスを見た。
「一体、どういうことなのでしょうか?」
クラヴィスは、目を細めてリュミエールの背中に触れた。
「心当たりはないのか?」
クラヴィスの台詞を聞いた刹那、リュミエールはたった今、森の湖で起こった出来事を反芻していた。
 
 
 
水の曜日に公園を散歩していたら、アンジェリークに会った。
リュミエールは、女王候補の2人に対して公平に接していたつもりだったが、何故かアンジェリークと遭遇する事が多かった。
アンジェリークは、リュミエールを見かけるとヒマワリのような笑顔で駆け寄って来た。
そして、日の曜日のデートを申し込まれた。
リュミエールにとっては、それは拒絶をする程の申し出ではなかった。
たまには、試験の息抜きにでもなれば…
そんな、親心のような気持ちだったかもしれない。
「いいですよ。楽しみにしていますね。」
そう返答した時のアンジェリークの嬉しそうな笑顔は、とても可愛らしいとさえ思っていた。
日の曜日に執務室に居ると、約束通りアンジェリークがやって来た。
そして、どこに行きたいかを尋ねると、彼女は森の湖に行きたい、と言った。
「恋人達の…」
そんな単語がよぎる。
あそこにアンジェリークと、休日に2人っきりで出かける事。
リュミエールは躊躇した。
アンジェリークが、自分に対して何かを意識した様に接して来ている事も、何となく判っていたし。
まだ、顔を合わせてからほんの数週間。
リュミエールは女王試験に対して真剣に考え、それに関わる執務に懸命に取り組んでいた。
だから正直言って、始めから浮ついていたアンジェリークに対し、軽い苛立ちさえ覚えていた。
でも。
彼女のライバルは女王の資質を備え、英才教育を受けてきたような女の子だ。
もし彼女が、半ば諦めの気持ちで試験を受けているとしても、それを責める事は出来ない。
リュミエールは、極力アンジェリークが試験に頑張って取り組める様に、普段からあれこれと取り計らっていた。
日の曜日だって、せっかくのこの機会に、彼女の試験に対する心持を聞いておきたいと思っていた。
それには、公園辺りが妥当だろうと思っていた矢先。
森の湖・・・
しかし。
どこがいいか、相手に尋ねた以上決定権は相手にあるのだ。
リュミエールは「判りました」と頷くしかなかったのだ。
 
森の湖に他に人影はなかった。
とにかく。
リュミエールは水辺に座って話しでもしようかと、適当な所で立ち止まり、アンジェリークの方に顔を向けようとした。
その瞬間
「…もう、我慢できない…」
いきなり
そう。
予想だにしない出来事が起こった。
アンジェリークが自分にひしと抱きついた。
そして
「抱いて下さい…」
自分の背中に両腕を回し、自分の胸に顔を埋めている女王候補の女の子の口から…
「リュミエール様。私を…抱いて下さい。」
自分の耳に飛び込んだアンジェリークの台詞。
その瞬間
リュミエールの心の水面が波打った。
無意識に手が動いていた。
両手が彼女を自分の身体から引き離し
右手が彼女のほほを打っていた。
後は
空っぽな心のまま
気が付いたら自分の執務室に戻って来ていた。
 
 
 
「…アンジェリークは、これからどうなるのでしょうか。」
リュミエールは、己の右手のてのひらを眺めながらそう呟いた。
「サクリアが消えた以上、試験は中止だな。」
クラヴィスが答える。
「もしかして、一時的に消えただけかもしれない。そう思い、陛下は私とあれを謁見の間に呼び、様子を見る様に指示された。」
クラヴィスは話しながらも、リュミエールの瞳の奥に見える心のさざなみを見つめていた。
「だが、一向にサクリアが戻る気配も無い。恐らく近いうちに、試験は中止となるだろう。」
「わたくしへの…想いの所為で…」
リュミエールは低くうめいた。
「リュミエール。お前が気にする事はない。それどころか。」
クラヴィスは一旦言葉を切ると、リュミエールの腕を軽く掴んだ。
「お前は、ややもすれば被害者となる所だったのだからな。」
 
被害者…
 
アンジェリークは言った
「抱いて」
それが、抱きしめてくれとは意を異にする事。
リュミエールにはあの時それがすぐに判った。
心に芽生えるサクリア
人の心の、丁度「リビドー」が存在する部分にそれは生じる。
サクリアが生まれると、当然リビドーは減っていき、
いずれ掻き消えてしまう。
しかし
サクリアが生まれてもなお
リビドーが増殖し
程なくサクリアを食い尽くしてしまった
アンジェリーク。
普通の人間に、簡単に戻ってしまった女王候補。
 
 
 
程無くして新女王就任の儀が執り行われた。
その時
アンジェリークの姿は聖地のどこにも見あたらなかった。
ただ。
聖地にたったひとつ
アンジェリークの痕跡が残った。
それは
リュミエールの心の中に
女性に手を上げてしまったという
一筋の傷跡となって…
 
         Fin

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