神撃部隊 月読

特別編

「Noel」

 


今は道理で判断できない時代だ

愛の花が鮮やかに咲き乱れている

もしマリヤが道理にとらわれていたなら

幼子の生まれる余地がなかっただろう

ーマドレーヌ・レンゲルー

(訳・矢口以文)

 


ぷかぁ

 

灰色の空に、薄紫の輪が一瞬存在を主張して、溶けるように消えて行った。

フィルターぎりぎりにちびた煙草を親指と中指でつまんで、ほんの少し躊躇する。

 

 

あとひと吸い・・・できるよな。

 

 

フィルターがじりじりと焦げ、雑味が混じり始めてようやく彼は煙草を人差し指で弾き飛ばした。

 

息を止め、瞼を閉じて天を振り仰ぐのは、幼さの残る面差し。

いっぱしに不精ひげを伸ばしてはいるが、それはまだ柔らかく、まばらだ。

 

ふぅううううううっ

 

紫煙は、やがて冬の白い吐息に変わる。

頬のほんの一点が、

ぽつり、と冷えて。

その感覚に、彼はふと、目を開けた。

 

「あ」

 

思わずこぼれた、声。

 

雪。

 

羽毛のような淡雪が、最初は数えるほど、そしてついには空の鈍色を純白に塗りこめてゆく。

 

背中の傷が疼いた。

 

眉間と鼻先にしわを寄せ、しかめ面をしてみる。

「あの時」と同じシチュエーションを作ってみる。

涙でくしゃくしゃになりながら

初めて・・・そして、最後に見せてくれた笑顔を、想い返してみる。

 

 

そうだ・・・笑うと、目がなくなるンだよ・・・・

 

 

 

コネコ。

 

本当の名前は、わからない。

 

背中の傷が、疼いた。

胸の奥、自分でもよくわからない場所がちくちくするのは、多分気のせいだ、と思う。

 

 

 

「・・・・?!」

 

かすかな、しかし聞き覚えのあるノイズが、彼を引き戻した。

エンジン音だ。それも複数。

慌てて視点を地平へと移す。

 

「やべ!!」

 

かなりの数の車両が、思いのほか接近してきている。

舞い落ちる雪が防音壁となり、距離感を阻害したのだ。まったく、彼らしくないミスといえた。

とはいえ、普通の人間であれば防寒ジャケットの衣擦れさえ耳障りに聞こえる静寂のなかで、

ましてや車影などようやくおぼろな点としてしか確認できまい。

 

並外れた・・・いや、もはや人間離れという言葉が相応しい知覚。

 

ビリュウク・・・狼。

ホークアイ・・・鷹の目。

ヴェスプ・・・スズメバチ。

 

彼に与えられた、賞賛と畏怖の入り混じる、数多の称号。

 

だが。

彼を知る者は、そのどれもが「彼」の本質とはかけ離れていることに戸惑う。

そして、結局はひとつの呼び名に帰結してしまうのだった。

 

親しみと、憧憬を込めて。

 

キッド、と。


「ゴスペル!!おい、聞こえるか!!」

 

キッドは、哨戒塔の下部に設けられた粗末な休憩室に向かって怒鳴った。

音声伝達管は現在のところ、渡り損ねたツバメが巣を掛けている為に無期限使用停止状態である。

 

「ゴスペルってばよ!!やべぇよ、こっちに車が向かってきてる!!」

「・・・なんだぁ?今日は何の日か知ってんだろ?まじめに働いてる野郎なんざ世界でたった一人だってぇの。」

 

隙間だらけではあるがそれなりに暖を取れる室内から、間延びしたダミ声が返ってきた。

 

「あっ!また飲んでやがんな?勘弁してくれよ、怒鳴られんのは俺なんだぜ!」

 

すでに足首まで降り積もった雪を蹴り上げ、毛皮の帽子を頭からむしりとり、少年は歯噛みした。

 

「大体、あんた真面目に働く日なんて、あンのかよ・・・とにかくさ、確認してくれって!!」

「よく見てみろや・・・トナカイのまちがいじゃねぇのか?そら、聞こえねぇか?・・・ホー、ホー、ホー!!」

「ファック!」

 

ぱんっ

 

雪に阻まれ、妙にくぐもった破裂音。

キッドの右手には硝煙の立ち昇る旧式の火薬式リヴォルヴァが握られていた。

 

「ぐわぁあああ!なぁにしやがる、このクソ餓鬼がぁ!」

 

建付けの悪い扉をぶち破るように、小屋から男が飛び出した。

すでに初老の域に達しているだろう黒人の偉丈夫である。

手にしているのは無残に砕けたヴォトカの壜だ。

 

「キッド!てめぇよくもよくも・・・俺を殺す気か!」

「生きてるじゃねぇか。壜の位置にアタリつけたんだから。」

「だからだよ!」

 

ゴスペルは黒い肌になお一層暗い、墨でひいたような皺を顔の一点に集めて、酒壜のなれの果てにほおずりした。

 

「最後のヴォトカがぁああああ・・・俺は何を支えに生きて行けばいいんだぁあああ・・・」

 

少年は深いため息をつきながら、すでに胡麻粒ほどの大きさになった車群を凝視する。

無論、ゴスペルの言葉が彼一流のジョークであることは承知の上で、しかし、今はツッコミに時間を割いている場合ではない。

 

「まじでヤバいぜ・・・トラックとジープ合わせて20台・・・一個中隊かよ・・・arfは・・・いないな・・・。」

「どれ・・・。」

 

言葉尻はのん気だが、さすがに少々切迫した面持ちで、ゴスペルはライフルの光学スコープをズームした。

 

「・・・おい・・・ありゃあ・・・」

「俺、みんなに知らせてくる!」

「待て、キッド・・・命が・・・つながったぜぇ。」

「ああ?」

「言っただろ。今日まじめに働いてる野郎≠ヘたった一人だってよ・・・よぉし、みんなに伝えろ、キャラバン≠ェ来たってな。」

 


「一体どういう風の吹き回しだ?引く手あまたのキャラバン≠ェこんな辺境の貧乏キャンプに、

 しかもクリスマス・イヴに御到来とはよ。ええ?ビォンデッタ。」

 

ゴスペルが相好を崩す。

 

「近頃は不景気でねぇ・・・おっきな組織はあらかたEPMに潰されちまったから。」

 

大胆に胸の開いたドレス。肩には民族色豊かなショールを掛けている。

ビォンデッタ、と呼ばれた中年の女は、スラブ系の黒い濡れたような瞳にけだるい光をたたえながら微笑んでみせた。

 

キャラバン

 

定住地を持たない、外人部隊やキッドたちのようなレジスタンスキャンプを顧客とする、商人のコミュニティ。

食料品から雑貨、嗜好品、酒場での余興から、そのあとの「おたのしみ」まで手広く扱っている。

特筆すべきは、その構成だ。

50人からなるメンバーすべてが女性なのである。

そして、それを束ねているのがこのビォンデッタだった。

 

トラックから降りた女たちは、めいめい身繕いや商品の点検をはじめた。

打ち捨てられた村は、今宵だけ、むさくるしいレジスタンスの寝所ではなく、甘い香り漂う歓楽街に変わるのだ。

キャンプの男たちは喜色満面で女の作業を手伝ったり、話し掛けたりしている。

下心見え見え、しかしそれはやむを得まい。

彼女たち自身も「商品」ではあるが、売買の成立には犯すべからざる不文律が存在するからだ。

「商品」が「買い手」を選べるのである。

 

ビォンデッタの「商品管理」は、あらゆる点で行き届いていた。

購買意欲をそそる容姿から、話術、疾病の予防にいたるまで。

だが。

「こころ」だけはモノとして扱わない。

男と寝るかどうかの、最終的な決定権は彼女らに委ねる。

自分を売ったアガリはあくまで自己申告。

そうでなければ、いかに生業とは言えこれだけ大勢の女たちをまとめて行くのは至難の技であろう。

 

ゆえに、男たちは涙ぐましい努力を続けていた。

相手に気に入られなければ、待っているのはいつもの冷たいシュラフなのだから。

彼らの辞書に、真剣、という言葉を見つけ出せるとしたら、今日を置いてほかにはない。

 

「それにしても、用意周到だねぇ。まるであたしたちが来るのがわかってたみたいじゃないか。

中古の衛星センサーでも手に入れたのかい?」

「ふふん、そら、あそこで迷子みたいにきょろきょろしてる若いのがいるだろ。奴がうちのエースだよ。あいつがお前たちを

めっけたんだ。20キロも先のトラックを、肉眼で、な。」

 

その口調にはまるで一人息子を自慢しているような響きがあった。

 

自分のことを話していると気付いたのだろう。

キッドは中指を立てたあと、すぐにはにかんで微笑んだ。

 

「なんとまぁ、お日様みたいに笑う坊やだこと・・・でも、なんだね、ああいう子に惚れた女はきっと難儀だよ。

じぶんの嫌なところ、醜いところ、全部照らし出されて・・・なのに、あったかいもんだから、

つい、夢、見ちまうんだよ・・・それがずっと続くんじゃないか、ってね。」

「おいおい、いんちきタロットはやめたんじゃなかったのかよ?それとも、旅の途中で啓示でも受けたか?」

 

ジプシーの女王は、魔女の顔つきでゴスペルを見つめた。

 

「こういう商売長く続けてると、嫌でも、ある程度男の行く末は見えるようになるものさ。

・・・それにしても、ほんとにしあわせな気分にさせる笑顔だねぇ。

あの坊やに、女の夢、放り投げない度量がありゃいいんだけど・・・。」


キッドは崩れかけた漆喰の壁にもたれかかり、いつもとは違うキャンプの風景をぼんやりと見つめていた。

華やいだ空気。

香水の甘やかな香り。

トーンの高い笑い声。

そのどれもが、少年の胸をときめかせ、内側から熱い痺れをもたらす。

それなのに、彼はどうしても女たちの前まで踏み出すことができないでいた。

 

キッドの中に、欲望が染み込まない場所がある。

麻痺にすべてをまかせ、溶けてゆけないのはそのせいだ。

そこには、涙に濡れた笑顔が張り付いていて・・・・。

 

彼はポケットの中を探って、舌打ちした。

 

 

さっきのが、最後だったっけ。

 

 

空になった煙草のパッケージを忌々しげにねじり、足元に落とした。

 

「1ドルでいいよ。」

 

ふいに新品の煙草が目の前に差し出された。

ガラスビーズを幾重にも連ねたブレスレットが、じゃらん、と揺れる。

浅黒いが、きめの細かい肌としなやかな手首だった。

 

おずおずと視線を上げる。

 

 

うわ、美人。

 

 

ビォンデッタと同様、スラブ系の大きな黒目がきらきらと輝いている。

ほんの少し上向きかげんの鼻梁、それに続く勝気な口元。

きついウェイブのかかった腰にまで届く黒髪。

歳は、23〜4といったところか。

やはり胸元の大きく開いた白いドレスを着ていた。

 

「どうするの?買うの?買わないの?」

 

さぞかし間抜けな顔をしているのだろうと思う。

キッドはあわてて紙幣を彼女に差し出すと、ひったくるように細い腕から煙草をもぎとった。

ごくり、とつばを飲み込んできびすをかえし、その場を後にする。

胸の鼓動はもはや臨界に達していた。

 

「ちょっとお待ち、ねぇ、お待ちったら・・・待ちなさいよ!!」

 

肩に手を掛けられるまで、女が自分を呼び止めているとは気づかなかった。

振り返るまでもなく、ガラスビーズが何者かを語る。

 

「なに?値切るやつはたくさん見たことあるけど、ここでは値を乗せるのが粋なの?」

「え、ええ?」

「煙草一箱100ドルはいくらなんでもボリ過ぎよ。下心があるのかと思えば、ウサギみたいに逃げちまうし。

もしかして・・・・天然?」

 

しわくちゃの100ドル札が、キッドの鼻先で揺れる。

 

「俺の全財産!!」

「やっぱり、天然、か。」

 

女は嘆息して紙幣をキッドに握らせた。

 

「あいにく、つり銭がないの。」

「あ・・・じゃ、これ返す・・・」

 

煙草を渡そうと差し出した腕を、しかし女は首を振って押し返した。

 

「ほんとはね、それ、売りもンじゃないのよ。あたしの煙草。あげるわ。」

「待ってくれ。そんな訳には・・・。そ、そうだ、誰かに両替してもらって・・・」

「七面倒なことは嫌い。煙草一個にぐずぐずしたくないし。じゃあね。」

 

遠ざかる細い背中を、キッドはただ見送るしかなかった。

 

かすかな、花の香りが彼の鼻腔をくすぐる。

掴まれた肩口に残る彼女の移り香だった。

 

それだけあれば、一人で寝るのも悪くは、ない。

 

空想ではなく、現実の香りなのだから。


夜。

急場造りのバーは、まさに宴たけなわといった感じだ。

手当たり次第に声をかける男たちを、女たちは表向きはにこやかに、しかし冷静に品定めする。

一夜だけといえども、恋の相手なのだ。

例え金が絡むにしろ、少しでも満足できるにこしたことはない。

そういう意味で、キャラバン≠フ女たちが買い手の男に囁く睦言は、あながち演技や嘘ばかりではないのである。

ただし、彼女等の恋のスパンは非常に短い。

それだけのことだ。

 

 

なんで、俺こんなとこにいるんだろ。

 

 

キッドはささくれた板を組んだテーブルに頬杖をついて、グラスの氷を揺らした。

ゴスペルに無理やり連れ出されたのだ。

 

昼間、あれほど華やかに見えた女たちが、今はなぜか色あせて映る。

 

やがて少年の瞳は、知らず知らずのうちに、誰かを探しはじめていた。

だが、誰を?

 

彼は、それが黒く輝く双眸と、紅いガラスビーズの持ち主であることに気付き、ひどくうろたえた。

 

「ヘヘェイ、キィッド。今日こそチェリーとオサラバさせてやるぜぇ。」

 

ご機嫌な様子でゴスペルがテーブルに帰ってきた。両手には金髪とブリュネット、二人の女を抱えている。

 

「きゃあ、かわいい!!ほんとに食べちゃっていいの?ゴスペル。」

「ああ、もお、むしゃぶりつくしてやってくれや。」

「ねぇねぇペネロピ、順番決めなきゃ。や、ふたりいっぺん、てのもあり、よね。」

「ちょちょ、ちょっと待ってくれ!!ゴスペル、なに考えてんだ!」

 

ヴォトカを壜でラッパのみしながら、黒人兵は歯をむき出した。

 

「ああ?なんだ、不満か?二人ともむちむちのぷりんぷりん、しかもこの器量だぜ。」

 

粒ぞろいのキャラバン=B二人がその中でもトップクラスであることくらいは、いかに半可通のキッドといえど理解できた。

 

「それは・・・確かに・・・そうだけどさぁ・・・って、違う!!」

「金か?心配すんな。俺からのクリスマス・プレゼントだ。一年間よい子だったからな。」

「いいかげんにしろ、この酔っ払い!!」

 

席を立とうとした刹那・・・花の香りがした。

 

呆然と、振り返る。

 

なにもかもが、ストップモーションに変わった。

 

まず見えたのは、手首の紅いビーズブレスレット。

 

その上を、いかつい手が撫でまわしている。

 

たどりついた黒い双眸は、おそらく、ずいぶん前からキッドを見つめていたに違いなかった。

なぜなら、彼女は、彼とぶつかった視線を、そらそうとしなかったからだ。

 

粘りついた時間が、女の、やんわりとした拒否の声を合図に動き出す。

 

「・・・兄さん、ごめん・・・ちょっと、気分じゃないの・・・」

「いいじゃねぇか・・・なぁ、金なら、ほら、たんまりとな・・・。」

 

瞬時に、体内の血液が沸騰した。握り締めた拳は、なのに、ひどく冷たい。

理不尽な激情が、キッドを支配する。

なにをどうしたいのかわからない。

理性が遅れを取る間に、身体は心に従い、動き始めていた。

ゴスペルが慌てて後を追う。

 

「おい、キッド!」

 

 

数枚の紙幣をひらひらさせながらまとわりといている男の背後に立った。

二つの黒曜石がキッドを見つめる。

 

 

おちつけ

おちつけ

 

 

理性は、ぎりぎりのところで追いついたらしい。

拳が、ゆっくりと開かれた。

 

「チャック、すまねぇ。そのひと、俺が売約済みだ。」

「なにぃ?・・・うお、キッドじゃねぇか!!おいおいまじかよぉ!」

「ああ。昼間100ドル手付払った。そうだよな、ねえちゃん。」

 

 

なんて台詞だ・・・アドリブにしたってもうちっとマシな言い方があるだろ、俺!

 

 

「・・・そうよ。待ってたんだから。」

 

まるで用意していたかのような口調だった。口元に浮かんだ笑みが演技なのか、本気なのか・・・キッドにはわからない。

 

「・・・おまえの筆下ろしとあっちゃ、邪魔できねぇなあ・・・。」

 

チャックは、顔を歪めて紙幣を引っ込めた。その様を女は興味深そうに見つめている。

 

 

お人よしのチャッキー・・・俺はおまえをぶん殴るところだったんだぜ。

 

 

ゴスペルがすかさずフォローに回った。

 

「チャーック。じゃ、スワップってことでどうだ?こっちはべっぴんが二人だぜ。」

「えー、あたい坊やがいいなぁ。」

「あたしもぉ。チェリーなんてめったに食べらんないもんねぇ。」

「へェイ、レィディス。いいこと教えてやろうか。こいつのナニはな、ここじゃ一番デカイ。しかも体力はゴリラ並。」

「きゃ、ほんとぉ?」

「ゴスペル、忘れてもらっちゃ困る。テクもいっちばんだぜい!!」

「・・・ああ、そうだったそうだった。じゃ決まりだな、楽しんで来い!」

 

嬌声を上げる二人の女とチャックをいなしながら、ゴスペルはちら、とキッドを見て親指を立てた。

 

「キッド!驚いたぜ。余計なお世話だったな。うまくやれよ、そうすりゃあの娘のことも忘れられる。」

 

相変わらず一言多い。だが、今は噛みつく余裕などなかった。

ほう、とため息をついてキッドもサムズアップを返す。黒人兵はにやりと笑って、再び女たちの中へと消えて行った。

 

女が、自分の背中を見つめているのが分かった。

気詰まりな空気を破ったのは花の吐息をともなうハスキーな声。

 

「キッド、か・・・ジョン・ウェインを気取るのは10年早いわよ。」

「・・・・・。」

 

冷静になって考えてみれば、彼女はプロなのだ。

あれは自分の値をつりあげるテクニックだったのかもしれない。

よしんば本当に気が乗らないのであれば、チャッキー程度の酔いどれは苦もなくあしらうことが出来るのだろう。

彼の手など、借りなくとも。

キッドは己の稚気を恥じながら、なぜ自分がこれほどムキになったのか、

そして、なぜ彼女があんな茶番に乗って見せたのか不思議に思った。

 

唇を噛みながらふりかえる。心臓が飛び出しそうなほどに脈打った。

無言で例の100ドル札を差し出し、のろのろとその場を立ち去ろうとした。

 

苛ただしげな女の声が押しとどめる。

 

「見るだけでおしまい?ストリッパーだって脱がなきゃ金にならないのよ。」

「い、いや、俺は・・・。」

「はっきりして。あたしは全財産はたいても惜しくない女?それとも、100ドル恵みたくなるくらい惨めに見える?」

 

明らかに気分を害しているのがわかった。

取り繕った社会通念や、生半可な憐憫など、及びもつかない世界に彼女たちは生きているのだ。

 

「ごめん・・・俺・・・俺・・・」

 

言葉が続かない。途方にくれたまま、キッドはうつむいた。

その姿は、まるで母親を手伝いながら、却って一番大事なティーカップを割ってしまった子供のように。

 

突然、彼に向かって放射されていた棘の視線が消えた。

かわりに訪れた、やわらかな毛糸玉のような感覚に、キッドはまた、戸惑う。

 

「・・・ノエル。」

「・・・はい?」

「あたしの名前。呼んでみて・・・キッド。」

「・・・の、ノエ・・ル・・・。」

「あたしはねぇ、脱がされながら、名前を呼んでもらうのが好きなの。」

「ひ・・・」

 

混乱。

 

「・・・だめだ・・・だめだよ・・・できねぇよ・・・」

「商売女は抱けない?汚いから、嫌?やっぱり高い所から売女に憐れみをかけただけなのね。」

「ちが・・・違う!!」

 

キッドは、気色ばんで黒い瞳を見つめ返した。

 

「あんた・・・きれいだ・・・すっげぇ、きれいだ・・・」

 

何をどう答えても、きっと違うような気がする。

真実なのは・・・はっきりわかっているのは、ノエルがきれいだ、ということだけだ。

 

だから、汚したくない。

だれの手にも触れさせたくない。

だだっ子の論理。

 

しかし。

綺麗というならば、今宵ここにいる女すべてにあてはまる。

もしもノエルではなかったら・・・チャックを押しのけたりしただろうか?

 

「なんで・・・なんで俺なんか・・・。」

 

ぐい

 

ガラスビーズに彩られたしなやかな蛇が、キッドの右腕にからみついた。

花の香りに思考能力が麻痺した。

黒曜石の中、先ほどよりはっきりとキッドが映る。

 

「言ったじゃない・・・待ってたのよ・・・キッド。」


どこをどう歩いたのか定かではない。

化け物じみているはずの五感すべてに、霧がかかり使い物にならなくなっている。

 

ただ、喧騒が遠のいて行った。

ぬくもりと、花の香りにいざなわれるままに。

 

たどり着いたのは、レンガに囲まれた小部屋だった。

ランプの明かりが、しつらえられたベッドをぼんやりと照らし出している。

ノエルに割り振られた寝所なのだろう。

 

キッドの背中を軽く押して、部屋に入れる。

後ろ手でドアを閉め、錠を下ろした。

 

「キッド・・・」

 

まるではじかれたように、少年が硬直した。

 

「キッド・・・」

 

ほんの一歩、近づく。

 

「わーっ!!だめだ、だめだ・・・ノエル、俺には・・・」

 

言いかけて、続きを飲み込んだ。

 

 

 

「・・・好きな娘が、どこかで待っているのね・・・」

 

せわしなく首をふって、キッドはノエルからあとずさりする。

 

「・・・ちがう・・・待ってなんかない・・・俺は、コネコを・・・守れなかった・・・もう、どこにいるかも・・・わからない・・・。」

 

喉がからからに乾いていた。背中と、胸のどこかがちりちりする。

 

「でも、あいつは・・・笑ってくれた・・・泣きながら・・・俺は約束したんだ・・・今度は必ず守ってみせるって・・・。」

 

「ヒーロー気取りもいいかげんにして!!」

 

紅い煌きの軌跡を描いて、華奢な両腕が振り下ろされた。

壊れてしまいそうなひたむきさが、少年に放たれる。

 

「あんたは、笑ったままで止まってるコネコのスナップ≠ノ義理立てしてるだけよ!!

でも、彼女の時間は止まってなんかいないわ。あんたとわかれた後だって、その娘には続きがあるのよ!!

ねぇ・・・ねぇ、コネコは生きてるんだって、考えたこと、ある?

一人ぼっちで何回泣いて、寒い夜を何度すごしてるか・・・一度だって思ったこと、ないくせに。

あたしが、きれい、だって?笑わせんじゃないわよ・・・・

そんなこと言えるのは、あたしだからだわ!!

コネコが生きるために、もしもあたしみたいな女になってたら、それでもきれいだ≠ネんて思える?

あんたに・・・あんたに、なにができるっていうの?」

 

「・・・あたしみたいな、ってどういう意味だよ・・・ノエル・・・」

 

うめくような、声。

 

痛い。

 

ノエルの美しさが、哀しみでつくられているのだとしたら。

 

「・・・俺・・・うまく言えないけど・・・ノエルを守りたいって思った・・・笑ってほしいって、思った・・・

・・・なら、きっとコネコも守りたいって思えるはずなんだ・・・あいつが、笑い方忘れてたら、教えてやる・・・

だから、だからおぼえておきたいんだよ・・・コネコがどんな風に笑ったかを・・・」

 

少年の、ひたむきなまなざしが、ノエルを捕らえる。

 

「・・・でも・・・あいつは、哀しいから笑ったのか?ノエルは、哀しいからきれいなのか?

だったら・・・だったら、守るって、どういうことなんだ?・・・わかんねぇ・・・わかんねぇよ・・・」

 

ノエルなら、答を知っているような気がした。

 

「あたしを・・・守ってくれるの?きれいだって、笑ってほしいって、思ってくれるの?」

 

白いドレスの、肩にかけたショールが床に落ちる。

ランプの炎が、ゆらめいて・・・。

 

影が滲んだ、刹那。

 

ノエルは、キッドのすぐそばまで来ていた。

まっすぐに瞳をのぞき込む。

 

「キッド・・・女は天使じゃないわ。

想いを育むために身体がある・・・唇も、乳房も・・・そういうふうに出来ているの。

男が女を守るっていうのは・・・心も身体も全部抱きしめて、想いを明日に繋げて行くことなのよ。」

 

熱い吐息が、キッドの頬にあたった。

首の後ろでガラスビーズが揺れている。

 

おずおずと、細い腰に両腕を廻して行く。

それはまるで繊細なガラス細工を扱うかのように。

 

「・・・それじゃ、だめ・・・どこかへ飛んでいってしまう・・・もっと強く抱きしめて!壊れたりしないから・・・。」

「・・・ノエル・・・ノエル・・・!」

「キッド・・・教えてあげる・・・女の身体が、どれくらいあたたかいか・・・どれくらい柔らかいか・・・そして、それが心とは切り離せないことも・・・」

 


「そう・・・かい。ノエルが、あの坊やを・・・因果な話だよ、まったく。」

 

男も、女も、それぞれが様々な形でおさまり、先刻までの喧騒が嘘のように静まった急場作りのバーで、二つの人影がテーブルを挟んでいた。

ゴスペルと、ビォンデッタである。

 

暖炉で薪が、ぱちり、とはぜた。

 

「因果っちゃ、どういう意味だ?」

 

空のグラスにズブロフスカを注ぎながら、ゴスペルがたずねた。

 

「・・・もともと、滅多なことで客を取ったりしない娘だったけど・・・

半年前のことさ。商売で立ち寄った外人部隊で火事があってねぇ・・・武器庫が爆発したんだ。

そこにゃ質の悪い劣化ウラン弾がうっちゃられててさ、ノエルは逃げ送れて被爆しちまったんだよ。

他の娘、逃がすのに夢中でね・・・。」

 

いったん浮いたグラスがテーブルに戻った。

 

「・・・おい、まさか・・・じゃ、あの娘は・・・。」

「そう。いままで持ったのが不思議なくらいだよ。ノエルの身体は、もう客が取れるような状態じゃない。

それでも、坊やと寝たってことは・・・惚れちまったんだねぇ・・・。」

「・・・たった半日でか?たかが16のガキに?」

 

ビォンデッタの人差し指が、ゴスペルの額の皺をなぞる。

 

「火種があればろうそくに火を灯すのは一瞬さ。覚えがないとは言わせないよ。」

「・・・含蓄があるな。どちらが火種でろうそくだ?」

「さぁねぇ・・・どっちがどっちか・・・とにかく、ノエルは惚れた男としか寝ない娘なんだ。」

「・・・遠い昔、似たような女がいたなぁ・・・。」

 

薄緑色のグラスをあおって、女が笑った。

とてもせつない笑顔だった。

 

「血は、争えないねぇ・・・。」

 

ゴスペルの視線が固まる。

 

真夜中。

 

二人の間で、静かに、しかしはっきりと時間が流れて行く。

 


・・・ざぁあああ、ざざぁああああ・・・

 

波が寄せては、返す。

 

寄せては、返す。

 

命の、営みのように。

 

心地よい海風が、ノエルの頬をやさしく撫でた。

波打ち際で、キッドが手を振る。

 

ぴく

 

すべてを慈しむような穏やかな微笑が、ノエルの、ほんのすこしふっくらとした顔に広がった。

 

彼女は立ち上がり、愛する青年を呼ぶ。

 

「キーッド!!こっちに来て!早く!!」

 

キッドは駆け寄ってくる。全力疾走で、近づいてくる。

 

「ノエル!大声出すなよ!お腹んなかで赤ん坊がびっくりするだろ!」

「シーッ!あなただって・・・それよりも、ねぇ、動いたの・・・あたしのお腹を蹴ったのよ!」

「ほんとか?すげぇなぁ・・・生きてるんだ・・・生きてるんだな。」

 

日溜りの、笑顔。

はじめて出会ったときから、変わることは、ない。

 

「なぁ、ノエル・・・いまだにわかんないことがあるんだ。」

「なに?」

「お前、俺を待ってた、って言ったよな。なんで、俺なんかを・・・。」

 

ガラスビーズを外した両手が、キッドの頬を挟んだ。

唇が、重なる。

短いが、心のこもったキス。

 

「あなたは覚えてないでしょうね・・・トラックから降りる前、あたしと一瞬目が合って・・・そのとき、あなたは笑ったの。

今とおんなじ、お日様みたいに笑ったのよ・・・そのとき思ったわ。この男と寝たい、って。」

「なんだかなぁ・・・。」

「ねぇ、キッド・・・。」

「もう、その呼び方、やめろよ。いっしょになって何年たつと思ってるんだ?」

「あ、ごめんなさい・・・・・・・。」

 

ノエルは、彼の本当の名前を呼ぼうとした。

 

呼ぼう、と、した。

 

けれど。

 

「抱きしめて、力いっぱい!あたしが消えちゃわないように!」

「ノエル・・・ノエル・・・どうしたんだ?」

 

ざぁあああああん・・・・ざざぁあああああ・・・・

 

波が、寄せては、返す。

 

命の、営みのように。

 

「あたし、ずうっとこうしていたいわ・・・このまま、あなたと抱き合っていたいわ・・・。」

 

キッドは微笑んだまま、やさしく抱き締めた。

はじめての、あの夜のように。

 

「あたりまえじゃないか・・・ずっと、ずっと一緒だ。」

 

そうよね・・・あなたはきっと、そう言うわ。そして、その通りにしてくれる。

 

でも。

 

だから。

 

「ありがとう・・・こんな夢を見せてくれたのは、あなただけよ。」

 


トラックのエンジン音に、キッドは昨夜の甘く気だるい余韻を残しながら目覚めた。

当然のごとく、となりにあるはずの温もりを探し、それが消えうせていることを知って、毛布を跳ね除ける。

 

ノエルがいない。

 

慌てて服を着て、外に飛び出した。

 

Tシャツとジーンズだけの身体を冷気が抱きすくめる。

 

ノエルは、すでにトラックに乗り込んでいた。特別仕様らしいその荷台には彼女と、ビォンデッタの二人だけだ。

他の女たちは、めいめいが昨晩だけの恋人と別れの挨拶をかわし、それぞれの車に分乗して行く。

 

「ノエル、ノエル!!どこに行くんだ?!昨日、約束したじゃないか。二人で暮らそうって!!」

 

鼻を鳴らして、ノエルは答えた。

 

「・・・全く・・・これだからネンネは・・・100ドル分の恋はおしまい。あんたはいままで通り、コネコちゃんを探せばいいの。」

「ノエル・・・嘘だろ。」

 

トラックの群れが動き出す。

次のキャンプへ流れて行くのだ。

 

ノエルと、ビォンデッタを乗せた車が一番最後に発車した。

キッドは、徐々にスピードを上げて行くトラックに追いすがる。

 

「ノエル・・・待ってくれ・・・ノエル!!」

 

荷台の幌から半身を乗りだし、ノエルは雪に躓きながら走る少年をじっと見つめていた。

 

タイヤの刻んだ轍が、キッドの足をさらう。

 

ノエルは、息を呑んだ。

 

飛び降りたい衝動を、手摺を掴む両腕に力を込めることで押し殺した。

 

少年が雪にまみれた顔を上げて、雪を拳で殴りつける。

 

「ノエル!まだ、俺、本当の名前も教えてない!!」

 

車群はどんどん遠ざかって行く。

もう、追いつくことは出来ない。

 

だが、キッドは叫んだ。

叫ばずには、いられなかった。

例え、ノエルには届かなかったとしても。

 

 

ずし

 

重たい、毛皮の防寒コートが、こわばった少年の肩に掛けられる。

 

「ゴスペル・・・俺・・・俺・・・」

「キッド・・・女はな、生まれたときから女なんだよ。出来あがってるんだ。

それにくらべりゃ、男なんざ、なさけねぇもんよ。死ぬまで半端な未完成品だからな。」

 

無骨な、黒い掌が、キッドを轍から抱き起こした。

 

「女は強い。とてつもなく、強い。でもな、その強さとおんなじぐらい弱い生き物でも、ある。

だから、抱き締めてやるんだよ。守ってやるんだよ。俺たちは、必要とされているんだぜ。」

「・・・でも・・・ノエルは、俺を必要としなかった・・・」

「なら、話は早いじゃねぇか。コネコを見つけろ。是が非でも探し出せ。彼女との約束を果たすんだ。」

 

少年は、声を押し殺して、

 

泣いた。

 

 


「坊や・・・何か一生懸命叫んでたねぇ・・・聞こえたのかい?」

 

どんなに目を凝らしても、白い大地と地平が広がる荒野で、ノエルはまだ幌を閉じようとはしなかった。

ビォンデッタにはその背中しか見えなかったが、娘がどんな顔をしているか、容易に想像できる。

 

「・・・名前よ・・・あいつの・・・本当の名前・・・レイアルン・・・レイアルン・スプリードだ、って・・・。」

「ノエル。」

 

ビォンデッタは、そっとノエルの背後に近づいた。

 

「あの坊やと、残ってもよかったんだよ。お前、昨日はそのつもりだったんだろ?」

「はは。」

 

右腕のビーズが揺れる。

 

「あたしなんか・・・すぐにこの世からいなくなっちまうのに?

あいつは、それでもあたしだけを見続けるんだわ・・・うざったいったら・・・ありゃしない・・・。」

 

手摺を握り締める両手が、震えた。

 

「・・・冷えるねぇ・・・さぁ、そろそろ中にお入り。次のキャンプはまだ先だよ。」

 

幌が、閉じられる。

母親に支えられて、ベッドに向かう歩みが、止まった。

 

豊かな胸に、

冷え切った頬を埋めて、

つぶやく。

 

「・・・ねぇ、ママ・・・あたしね・・・」

「ん?」

「・・・神様が・・・なんであたしを、お召しになるのか・・・わかったわ・・・」

 

ビォンデッタの腕がふいに重くなる。

 

「・・・キッドは・・・レイアルンは、心を二つに・・・裂けないから・・・一人の女しか・・・想えないひとだから・・・

・・・ねぇ・・・あたし・・・。」

 

紅いガラスビーズのブレスレットが、

 

切れて、

 

散らばった。

 

 

すべてを悟ったかのように、ビォンデッタは瞼を閉じた。

 

ノエルを、胸に抱いたままで。

 

祈りの、言葉さえ、なく。

 

 

「・・・あたし・・・天使に、なれるかなぁ・・・」

 

 


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