第2章 青春ど真ん中

 サニー1000(19〜20歳)

 習志野の2年間のうち実はち3ヶ月だけ1人で住んでみた。同級生の中には地方から来たものが多く1人住まいがうらやましくてしかたなかったからだ。
 彼らは実にノンビリというかゆったり生活しているように見えた。そう、生活感が違うのか。九州出身の人たちは広島や大阪の人たちと、北海道は東北方面の同級生とグループを作っていたようだ。
 彼らの中には薬科や理学部の女のこたちと仲良くやっているのもたくさんいて、ちょっと悔しかった。
  「いいよなあ、ああいう生活〜」
 ある日父に、
 「習志野まで片道2時間もかけて通うのは時間がもったいないから、1人で住みたい!」とお願い。
 「1日4時間、そのぶん勉強するから」。

 しかしいざ1人住まいを始めたけれど、何もできずに即ギブアップしたのでした。

 大学3年(1970年)から大森のキャンパスに変わり、電車通学もめんどうなので、初めて通学用に買ってもらった車がサニー1000だった。これが後で非常に力強い武器になろうとは・・・・
 当時はまだ環八はできていなかったので、多摩堤通りをチンタラ走って通っていた。
 サニー1000! こいつはほんとに良く走ってくれた。当時はガソリンも安くリッター48円くらいだった。今までどれだけ車に乗ったか覚えてないくらいだけど、10万キロ以上乗ったのはこいつだけだ(2年半で14万キロ)。
 いつだったか夕方の帰り道、急にエンストして、雨の中でエンジンプラグを磨いたりしたのもなつかしい。
 たまにスピード違反で捕まったりして、免停中に交番の前を走る時(特に仙川や鵜の木)は、なるべくおまわりさんと目を合わせないように注意しながら運転したのはいうまでもない。
 エイトトラックのカーステレオには、ロックやR&Bの他に、はしだのりひこの「花嫁」、佐々氏勉の「あなたのすべてを」、千賀かほるの「真夜中のギター」、ビリーバンバン、吉田拓郎なんかが入っていた。

 このサニー1000で本格的なラリーやジムカーナにも出場したりしたが、助手席にどれだけ多くのおんなのこが乗ったのかはわからない。


 深沢の桃子ちゃん (21歳)

 1970年春休みのスキー合宿が長野県戸狩(とかり)スキー場であった。当時は低料金の民宿が人気で学生時代はもっぱら民宿ばっかり利用していた。1泊2食付きで500円などというのは今の時代からはちょっと想像もつかないだろう。
 合宿初日の夜、ちょうど戸狩の民宿「油屋」に泊まりに来ていた女子大生2人組が乾燥室にいた。1人はちょっと背が低いけどスタイルがよくてかわいく、小顔の目元が色っぽい都会的美人であった。もう1人は背が高くちょっと大柄なおとなしそうな子だった。
 「かわいい子だなあ・・・」
 気がついたら話しかけていた。
 「ねえ、キミタチさあ、どこから来たの?」
 「東京よ」
 「あ、そう」
 「いつまでいるの?」
 「明日帰るの」
 「エ!? アシタ?」 「東京で会えないかなあ」
 「いいわよ」
 
 偶然乾燥室には他に誰もいなかった。その後のスラロームのポール練習なんかどうでもよく、早く合宿が終わらないかと思っていたのは言うまでもない。
 合宿が終わって、さっそく電話。もちろん相手はかわいいほうの桃子ちゃんだ。当時は携帯電話などないから電話をかけるタイミングが難しかった。下手な時間にかけると親や家族が電話に出て、説明がややこしくなりそうだし。
 うまく桃子ちゃんが一発で電話に出てくれた時は、思わずガッツポーズが出そうになった。
 「覚えてるよね、戸狩であった西田だけど」 「どこかで少し話しできないかな」
 「そうね、どこで?」
 「どこでもいいんだけど・・・」
 「それじゃ、目黒通りのシェルガーデンにしましょう」

 彼女の住まいは世田谷深沢、王選手(現ダイエー監督)のうちのすぐそばだった。シェルガーデンというのは自由が丘のガソリンスタンドで2階がレストランになっていて当時としてはまあまあシャレたところである。 ある朝、サニー1000のカーステレオにバートバカラックなどの洋ものカセットをいくつかセットしていざ出発。生まれて初めての自分にとって歴史的なデートの初日であった。
 シェルガーデンで彼女が注文したものはオニオングラタンスープ、実はそういうものがあることを知らなかった。自分が何を食べたのかは覚えていない。
 シェルガーデンで200円の缶入りのキャンディーを買って、いよいよ僕たちの楽しいデートがスタートしたのだった。


  ドライブ 
 
 桃子はとにかく目立つタイプの美人だったので大学の友人たちからも羨ましがられていた。 
 同級生からは
 「桃子ちゃんかわいいよなあ、いいなあ西田は」などとよく言われていた。しかしまだ肝心なセレモニーはまだだったのである。
 「これはなんとかしないと・・・・」少しずつアセリが出ていた。
 ある日
 「今日うちに遊びに来て!誰もいないから」
 「え? ホントにいいの?」
 ついにこの日が来たのだった。彼女の大きな家の近くに車を駐め、初めて家の中に入った日のことは一生死ぬまで忘れることはないだろう。まず最初に驚いたのは今では当たり前になっているテレビのリモコンだった。彼女の父親は松下(NATIONAL)系の社長だそうで、試作品のリモコンがおいてあったのだった。離れたところからテレビのスイッチが入るというのにビックリしたが、そんなことにかまっているわけにはいかなかった。
 彼女の部屋は2階にあり、整頓されたいかにもおんなのこの部屋という感じで、半ズボンをはいた熊のぬいぐるみがおいてあった。
 いつのまにか2人はベッドの中で一緒になっていた。気がついてみると窓から夕方の淡い光がさしていて、向かいの林の影がのびてきていた。

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 じきに彼女も自動車の免許を取り、親にモーリスのミニクーパーを買ってもらっていた。
 友人滝口が
 「おい西田!また桃子ちゃんが来てるぞ」
 「え?」
 講義室の窓から下を見ると
 「ダ〜リ〜ン!!」と叫びながらミニクーパーでキャンパスの中に乱入してくるのだった。

 彼女のミニもよく運転したが、遠出のドライブはサニー1000(写真)が多かった。第3京浜で横浜、鎌倉に逃げ、時々富士五湖あたりでノンビリしていたのでした。


 桃子の家出

桃子は某女子大学生で、お互いの勉強もあったので毎日というほどは会えなかった。それでもしょっちゅう愉快なデートを楽しんでいた。
 田園調布駅前に「ケンタッキーフライドチキン」ができたと聞くと真っ先に食べにいったり(その頃ケンタはめづらしかったのです)、夏休みは東海汽船で新島まで海水浴に行ったりと、ま、青春を謳歌していたかも知れない。
 でも彼女のうちはわりとカタイ家だったようで、時々父親の仕事関係で幸之助さんのパーティーなどにも出ていたらしい。
 ある雨の日曜日の夜、事件が起こった。 その日は桃子とはデートの約束はなく、朝から大学の友人とどこかに遊びに行っていた。 夜7時頃1人でサニーで帰ってきたら、なんとガレージに桃子が立っていたのだ。 
 夕方からドシャブリの雨になり、桃子はかなりビッショリ濡れていた。
 「えぇ〜! 桃ちゃん、どうしたのー?」「今日は約束してないよねー」
 彼女は泣きながら
 「うん、今日パパと喧嘩して家出してきたの」「今すぐ私をどこかに連れて行って!」
 そう急に言われても困るが、向こうもそうとうの覚悟で飛び出して来たのだろう。ここはなんとか助けたかった。
 彼女を車に入れ
 「わかった、ちょっと待ってて!」
 少し離れた自宅まで走って行き、今からまた急に出かけるからといって、お小遣いをもらい着替えも持って引き返した。
 サニーで出発はしたものの、さてどこへ行けばいいんだろうか。
 「いったい何があったの? でも今からどうしようか?」
 ささいなことで喧嘩したらしかった。 家出する時に少しでもお金になるかと思ったらしく、ゴールドのアクセサリーなどをわしづかみにして来ていた。
 「どこでもいいから遠いところに行きましょう!」
 「わ、わかったー、よーっしレッツゴー」
とりあえず鎌倉方面まで行ってみようということになったが、だいぶ夜もふけて、朝比奈峠のラブホでお泊まり。
 しかし翌朝2人で冷静になって考えてみたら、やはりお互い学生だし、2人だけでやっていけるわけもなく、
 「今はまだ無理だよね、2人だけで生活なんてできないし。」
 その日のうちに世田谷まで送り届けていたのだった。

 桃子とはしばらく楽しく愉快な日が続いた。
 


 渋谷でナンパ (23歳)

 1972年8月26日土曜日、同級生Uと何かおもしろいこと無いかと車2台で渋谷に出かけた。
 NHK前の公園通りの信号が赤になって止まった時、ちょうど反対側の喫茶店「ナカタニ」の2階の窓からこっちを見ている女のこ3人のグループの1人と目が合った。
 信号が変わって20m進んだところで、車を止めた。
 「今のこたち、どうかな・・・?」
 「ま、いちおうあたってみるか」
 車をおいて、2人で歩いて、ナカタニの2階まで入っていった。
 「あのーう、さっき僕たちを呼びましたよね、アナタたち・・・」
 「えー、やだぁ〜、呼んでなんかないわよー」
 とかいうようなキッカケから話しが弾み、いつのまにか某実践女子大生グループと仲良くなってしまっていたのでした。
 こちらも同級生牧野(静岡)や滝口(和歌山)などどんどん紹介したりしてかなり大人数のお遊び集団が次第にできていった。
 その中で抜群に美人のやすこちゃんというこは、S堂のモデルもしていたほどで、こちらの狙いは当然のごとく、そのこだったのはいうまでもない。
 彼女の家は横浜の磯子というところで、ちょっと遠かったけど、ここで頑張らなくては他の男に負けてしまう。遠くても2,3度首都高で送り迎えしているうちにあっという間に仲良くなってしまい、あとはとんとん拍子だった。
 彼女はおとなしいけど、とても気立ての良い子だった。
 
 J女子大はちょうど青学の裏あたりにあり、渋谷、青山がだんだん我々の活動の拠点となっていった。


ジムカーナ

 
スバル1300に乗っていた滝口といっしょにカーレースのB級ライセンスを取得したのは「チームラットフィンク」というカークラブに入ってすぐだった。本格的なラリーやジムカーナを主催したり、筑波サーキットまで行ったりしていた。
 ジムカーナというのはフラットな路面に円錐のパイロンを立てて複雑なコースを作り、時間を争う競技である。現在の西武球場ができる前はあそこは広い空き地だったので、みんなでそこにジムカーナのコースを作り夢中になって競走していたのだった。クラスは違うがダントツの速さでいつも優勝していたのはホンダのS800だった。
 
 ある日クラブの会長が渋谷の「でん」というクラブに連れて行ってくれた。そこはホストだけがいる小さな店でいわゆるホストクラブのハシリのようなところである。当然客は女性が大半であった。当時流行っていた絨毯バー形式でギターの弾き語りもあり、朝までやっているなかなかユニークな店だった。まだ今のようなカラオケが無い時代である。
 早い時間帯の客はOLが多く、遅い時間になると、あちこちからいかにもどこかのホステスといった感じの女性が集まってきていた。
 すぐ店の人と仲良くなり、酔っ払ってギターなども弾かせてもらったり、歌の上手な常連の女の子たちともすぐ友達になっていった。しかしこちらの目的はあくまでもナンパなので、あんまり常連客ばかりをかまっているわけにもいかなく、そのへんのナンパバランス感覚を磨くには「でん」は、いいトレーニングになったのかも知れない。

 このころ「でん」でよく歌った曲はCCRの「雨を見たかい?」、モップス「たどり着いたらいつも雨降り」、スサーナ「サバの女王」、アダモ「雪が降る」、三善英史「雨」など・・・・オカマっぽい曲多し。 


 パーティー&スキー (24歳)

 やすこちゃんグループとのお遊びは結構長く続いた。軽井沢の東邦大学の山荘に20人以上で押しかけて大騒ぎしたり、野沢温泉にバスを仕立ててスキーツアーに行ったりしていた。
 またパーティも多く、青山の某レストランを借り切って楽器などを持ち込んでは、騒いでいたのだった。
 この年(1972年)12月3日のデートは忘れられないドライブとなった。
 愛車がもうじき10万キロになるというのでシャンペンを用意して東京を出発。東名御殿場ICで降りてちょっと走ったところで見事10万キロ達成。ボンネットにシャンペンをかけて記念撮影。(当時のスケッチブック→)
 そのうちやすこちゃんも自動車免許をとってワーゲンのビートルを買ってもらい、第3京浜が彼女の通学路になっていった。

 1973年3月、志賀高原でスキーの大会があり、試合が終わった後、どうも遊び足りない気がしていたので、友人Tと2人で丸池(志賀高原のメインのスキースロープ)に宿の予約もせずにナンパに行くことにした。
 アルペンのスキー板10本、ディスタンスの板6本を屋根に載せたまま、とりあえず車は適当なホテルの駐車場に置いて、さっそく「お仕事」開始!
 天気が良いのもあってか、ウハハ〜 いることいること。協議の結果あまりスキーは上手ではない(下手なほうが良いのだ)が、かわいい2人組をチェック。 こっちの狙いは背が高くてショートヘアで美人のほうだ。
 
 楽しく滑ったりお茶したりした後、
 「夕食どう 一緒に?」
 「ごめんなさい、予定があるの」
 「え!じゃあその後は?」
 「いいわよ、一緒に飲みましょう〜」
 「お〜っし、やったあ〜」

 彼女たちのホテルを確認して、いったん別れた。
 このころはスキー場のホテルはどこも満員で予約なしではまず泊まれなかった。どんなことがあっても彼女たちの部屋に泊めてもらわなければならない。
 Tに
 「今晩どうだろう、あのこたち・・・?」
 「ま、だいじょうぶだろう、その気になってるみたいだし」

 張り切って約束の時間に彼女たちの部屋に行って驚いた。 なんと20人くらいの大部屋だったのだ。聞くと100人くらいの団体で来ているという。
 「そんなあ〜、先に言ってくれよー!! ったく〜!」と泣きたくなったが、今さら他を探すわけにもいかず、大部屋で宴会。関係ない人たちがたくさん見ているせいか、ほとんど盛り上がらず、すぐお開き。
 最後は仕方なく入り口のそばの布団部屋(押入れ)に丸くなって寝たのだった。この時熟睡できたのかどうかは記憶が無い。

 しかしこのままではおさまらず、目的の彼女とは高崎(彼女は群馬県に住んでいた)や蒲田などで数回デートしたのだった。



 
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