第1章 まだまだ子供かも
アイビールック (14歳)
あの日、僕はがんばってためたお小遣いをにぎって 、立川のデパートの2階のメンズショップ「春木屋」に走って行った。
前から欲しくてたまらなかったレジメンタルストライプのネクタイ。あの色柄のそれはまだそこにあった。初めて買ったラコステのポロシャツもたしかこの店だった。
ナンパな雑誌「メンズクラブ」のモデルがつけているのと同じやつ。いくらだったか忘れたけど、生まれて初めて買ったネクタイ。
1963年駒場東邦中学2年の春だった。
「あのー、これ、このネクタイください!」すぐ出てきたおじさんが僕をチラっと見て、なんでこんな子供がと思ったのかも知れない。「はい、これね、これモノは良いよ。」「他には・・・?」。
でもボタンダウンのシャツはあったけど、上着はまだ持ってなかった。
「い、いいです〜。」
黒地にゴールドと赤の細いストライプが入ったネクタイが入った紙袋を抱きかかえて、「ヤッター!!」と叫んだのでした。
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僕の家は東京都下国立(クニタチ)市にある。
このころ、小学校同級生で6年のころから気になっていた帰国子女「ちえこちゃん」というこがいた。背が高くて、ちょっと近付きにくいハイソな感じのこだった。彼女は立教女学院という私立校で、僕と同じ井の頭線だったけど、少し通学時間帯がずれていて、なかなか同じ電車に乗れなかったのです。 朝、吉祥寺駅で待っていてもなかなか彼女は来ないし、学校はこっちは駒場、むこうは三鷹台、始業時間の関係です。
ネクタイを手に入れて1週間後、その日がきた。ま、僕もコドモだった。いきなり彼女に会いたくなって、いよいよネクタイをしめて行く日を勝手に決定。 上着は持ってないので友達に借りたベージュのジャケット。でもネクタイの締め方がわからない。
母に「ネクタイってどうやって締めるの?」。「ん〜?」と思ったんでしょう。母も「ナニ〜 ケンジもこんな歳になってきたのか〜?」とビックリしたのは間違いなかった。
ある日曜日の朝、いきなり杉並の彼女の家におしかけ、むこうもビックリ、「え、何・・? どうしたのニシダ君?」。彼女はその日用事があるらしく、夢にまで見た初めてのデートはあっけなく幕切れ。上着&ネクタイ作戦は徒労に終わったのはいうまでもなかった。
ちなみにこの年、「白い野ばらを捧げる君に〜♪」という三田明の「美しい10代」という曲が出たように記憶している。
井の頭線 (15歳)
駒場東邦は私立の男子校である。通学方法は中央線吉祥寺駅から井の頭線に乗り換えて、駒場駅(現駒場東大前駅)で降りて、あとは歩き。
渋谷方面あるいは三宿、用賀方面の生徒は、玉川線(ほんとに卵みたいな丸っこい電車、現地下鉄半蔵門線)の大橋駅を利用していた。
渋谷周辺には青山学院、実践女子、聖心女子、東京女学館、三軒茶屋には昭和女子と女子校が多く玉電で通ってくる同級生がうらやましくてしかたなかった。
そっちはどちらかといえばオジョーサマ系に対して、井の頭通学組は、国学院久我山、国士舘、二階堂など体育系のゴッツイ女子プロレスラーみたいなのが多かった。
かといって、国立から新宿、渋谷まで遠回りするわけにもいかず、井の頭線の緑色の電車に6年間乗ったのでした。
電車の中でも期待していたような出会いはほとんどなく、同じ車両に乗る同級生の遠藤や寺園たちと、たわいも無い遊びやイタズラにふけっていた西田少年だったのです。
クラブは写真部、美術部、ワンダーフォーゲル部だったけど、あまり部活に熱中した覚えは無く、もっぱらスキーに夢中になっていた。 冬休みになると世田谷の坂下、福島、目黒の村上たちと、新潟の浦佐や遠くは北海道の定山渓にまでスキーをかついで行った。
スキー以外では、ビートルズの「プリーズプリーズミー」「抱きしめたい」の衝撃が強烈で、山水のステレオでそれこそレコードが擦り切れそうになるまで聞いていた。 僕はすぐ影響されるタイプなんで。即安いガットギターを買ってきて、ジャラジャラ鳴らしたりしてたけどやはりエレキギターが欲しくなっていったのだった。
禁じられた遊び (16歳)
そのころのギターの練習曲といえばイェペスの「禁じられた遊び」が超有名。指使いがなかなか難しく簡単には上達しない。
コードもCやAm、G7はすぐ押さえられたが、FやB♭がうまくできなかった。
「よっし、これでFができた!」と思っても、指の1,2本が完全に弦を押さえきれていないので、きれいな和音が出なかったのである。
「ああ、エレキギターが欲しいなあ。」 エレキならネックが細く複雑なコードも簡単に押さえられるんじゃなかと思っていた。
1965年(昭和40年)になると、ビートルズ、ベンチャーズの後を追って、アニマルズ、ビーチボーイズなどが登場、日本中がエレキブームで加熱していったのだった。
しかし残念なことに、そのうち世の中では、エレキ=不良というようなムードが出てきて、なかなか親に「エレキを買ってくれ」とは言い出せず、後に銀座の山野楽器で買った「白いガットギター」でひたすら練習したのだった。
駒場東邦は進学校である。なぜかエレキを学校に持ってきてはいけないという決まり?があった。しかし1年に一度だけ堂々とエレキOK!の日があった。
それは秋の文化祭である。階段教室を飾りつけてステージにし、にわかバンドが出演、他校の女子学生にも、そこそこに人気があった。
「いいなあ、あいつらー!」と後ろのほうの席であまりうまくない演奏をボーッと眺めていたのでした。
初恋 (17歳)
当時は加山雄三を中心としたエレキブームと同じくらいの勢いで「フォークソング」が全盛となっていた。
「ブラザーズ フォー」「キングストン トリオ」「ジョーン・バエズ」「PPM」などの影響を受けて、「ブロードサイド フォー」「ワイルドワンズ」などのカレッジフォークが出てきたのも確かこのころだった思う。
高校2年の秋、近くの一橋大学に犬の散歩に行くと、兼松講堂という大きな建物の中で、二人の女の子がギターを抱えてボブディラン(PPM)の「花はどこに行った」を歌っていた。
男子校の野郎だけで歌う曲に比べて、女性だけの声のそれはとても新鮮でかわいらしく聞こえた。
「可愛い子だなあ・・」
無意識のうちに話しかけていた。
「いつもここで練習してるの?」
「ここでは初めて」
「その曲僕たちもよくやるよ」
「・・・・・」
「何年生?」
「高2・・・」
女子美術大付属高校の「K・孝子ちゃん」との出会いであった。
聞くと彼女の家はうちのすぐそば、国立駅の北側だった。それからというものは美術部の宿題の油絵をノンビリ描いているどころでなく、「たかこちゃん」にのめり込んでいったのだ。
今までは朝の通学時の中央線は苦痛であったが、急に楽しくなった。一番前の車両、前から2個目ドアの右側。ここが僕らの毎朝のデートの場所だった。
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国立から吉祥寺までのわずかな時間(彼女の学校は杉並にある)、いつも混んだ電車の中でフォークソングや絵の話題、テレビの「0011ナポレオンソロ」などの話をしていたと思う。
時々お互いの写真を交換したりして、ま、順調に交際が続いていった。 と自分ではそう思っていた。
やがて春休み、孝子ちゃんの友達グループと一緒に蔵王にスキーに行くことになったのだ。もちろん何かを期待していたのはいうまでもない。
泊まりはホテルか民宿だったか忘れたが彼女たちとは別だった。 天気も良く一緒に春スキー楽しんだ。ただそれだけだった。
なんとなく悶々として、帰京し、翌日電話で、
「今度は僕たち二人だけで遊びに行かない?」
「え! 西田君とは友達でいたいの、これからもよろしくね」
「・・・・・」
以降、女性の友達というのは、まだできていない。
体育祭
男子校の駒場東邦では、体育祭がいい青春のエネルギーのはけ口になっていた。中学1年に色分けというのがあって、赤組、白組、青組、黄色組の四つに分かれる。
そして6年間この色は変わらないのだ。メインは中学では騎馬戦、高校では棒倒しだった。
特に棒倒しでは毎年怪我人が出るくらいの迫力で、体育祭が近づくと各組いろいろな作戦をたてて必勝を狙っていた。
また応援にも力が入っていて、僕は青組の応援団に入り、同級生の中村といっしょに「ひょっこりひょうたん島」の大きな「トラヒゲ」のデコレーションを作り上げた。青組はなぜか強く、高3の年も連続優勝したのだった。
やがて大学受験が迫ってくると、学年全体の雰囲気がだんだん変わってきた。
当時若者に人気の週刊誌「平凡パンチ」あたりに載っていた「みゆき族」がよく集まるという原宿の「コンコルド」や新宿の「ACB」にも行ってみたかったけど、なかなか行けなかったのだった。
御茶ノ水(18歳)
高校3年の8月夏休み、クラスの何人かと「駿台予備校」の夏季講習を受けることになった。
予備校の場所は御茶ノ水駅のそばで、近くにオープンエアーの「アンデルセン」というビアガーデン、日仏会館のそばの「船」という喫茶店、駅のそばの「JIRO」などが僕たちの溜まり場であった。
さらに駅前に名前は忘れたが「何でも50円の店」というのがあって、立ち食いでよく焼きソバを食べたもんです。
いつも腹を空かせている高校生にはありがたかった。
たまにダラダラ坂の下の三省堂のそばのパチンコ屋「人生劇場」あたりまで行って息抜き。近くの「美津濃」では高級舶来スキーに、そして楽器屋の窓から見えるフェンダーやギブソン、モズライトのエレキギターに溜息をついていたのでした。
そのうちなぜか講義の合間にしょっちゅう「船」にお茶しにいくようになったのは8月も後半だった。
それは喫茶「船」の美人投票が始まったからだ。ウェートレスたちは胸に名前でなくて番号札だけををつけていて、1人の客が1枚づつ投票できるというものであった。
みんなそこそこ若くてかわいかったけど、その中で25,26歳くらいの一番お姉様で目が大きくてクリっとした色っぽい「2番」に僕は瞬間的にマイッてしまったのだ。
「どうしても2番を優勝?させたい!」 そう思った僕は全員に命令した。「頼む、これからずーっと2番に入れてくれ、お願い!」
初日は皆にアイスコーヒーをおごり、その後もほとんど毎日数人で通いつめ、毎回全員で2番に投票したのでした。
2番のお姉さんも「また皆来てるのね」「あら、こんにちは」とだんだん仲良くなったような感触は間違いなくあった。
で結果は? 実はわからないのです。そのうち夏季講習が終わってしまい、御茶ノ水に行く用事がなくなってしまったからです。
自分1人だけでも行きたかったけど、結局彼女がどうなったのかは不明である。
この頃車の免許を取るのが流行り、渡辺(真)は軽のミニカ、佐藤(文)はオヤジのベンツ、青塚は会社のセドリックで通学してた。
とくに青塚のセドリックの屋根には裸の女のドハデな絵が書いてあって、教室の窓から見下ろせるのでかなり目立っていた。
アッパレなヤツラだった。
習志野
1968年4月から2年間東邦大学医学部進学科は千葉県習志野キャンパスに通うことになったが、かなりの田舎でつらかった。
入学式の1週間くらい後、ふと学食で見かけた薬学部テニス部の2年生に人目ぼれ。やや細めでおとなしそうな感じの美人「杉山さん」だった。
テニス部の同級生イズミ君に「ねえ、あそこのあのこいいね! テニス部でしょ。いいね!」
「ん?あの人? ああ杉山さんね、四街道だよ」
「ええ〜! ヨツカイドー?」
そんな地名はもちろん知るわけはなく地図で見ると彼女のうちはとんでもなく遠いところだった。
なかなかデートまでこげつけず、結局半年以上もたってから2,3回お茶を飲んだくらいで終わりというなさけない結果でした。
じゃあ、習志野でいったい何をやっていたのか。そのころは学生運動が盛んで、しょっちゅうバリ封(バリケード封鎖)があり、朝、大学に行っても中に入れなかったりということが結構多かった。しかたなく朝から麻雀をしたり、総武線で引き返し都心のジャズ喫茶で時間をつぶしたりしていたのでした。
映画「卒業」のサイモンとガーファンクルの影響からか、バンジョーを買って仲間とフォークソングのグループを作ったり、スキー部でしょっちゅうあちこちの山に滑りに行っていた。
何故かニシダ家には「自動車運転免許は18歳になったらすぐとること」という家訓?があり、自分も即普通免許を取得。
(ちなみに母親は今でもまだ普通2種や大型2輪免許まで持っている)
初めて乗った車は家のマークU。 重いクラッチを踏みながら京葉道路を走ったりしてました。
このころ街には布施明の「マイウェイ」、森山良子の「思い出のグリーングラス」、六本木に踊りに行くと、サム&デイブの「HOLD ON I'M COMIN'」が流れていたと思う。
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