岡本太郎と縄文展

 岡本太郎が40才の時(1951年)、東京国立博物館に行き、縄文式土器(火焔型土器)にめぐりあい、創作のコンセプトを体得したとの話に基づく展示会が行なわれています。 7/28に見に行きました。

【時 期】 2001年7月24日〜8月5日
【場 所】 日本橋 三越 7F
【主 催】 川崎市岡本太郎美術館、NHKプロモーション
【URL】

この展示会は、写真の撮影を堅く断られました。フラッシュを使わない場合でも撮影厳禁とのことです。パンフレットも著作権で無断転載厳禁とのことで、画像がないページとなりました。(左上の画像はチケットをスキャンしました。)

1.  まず、入口には数点の岡本太郎の絵画が展示され、部屋の中央には下記文章が紹介され、火焔型土器(新潟県魚沼郡出土)5点が展示されています。他に水煙土器、把手つき深鉢など(茅野市、諏訪市、山梨県出土)が別に展示され、さらに岡本の作品が展示されています。岡本太郎は1951年に縄文式土器を見ることによって、日本には何千年も前に独自な文化があったことを自分なりに発見したのです。そして、自分が何をすべきか、発見したのです。

「偶然、上野の博物館に行った。考古学の資料だけを展示してある一隅に何ともいえない、不思議なモノがあった。
ものすごい、こちらに迫ってくるような強烈な表現だった。何だろう。−−−縄文時代。
それは紀元前何世紀というような先史時代の土器である。驚いた。そんな日本があったのか。いや、これこそ日本なんだ。身体中に血が熱くわきたち、燃え上がる。
すると向こうも燃えあがっている。異様なぶつかりあい。これだ!
まさに私にとって日本発見であると同時に、自己発見でもあったのだ。」
岡本太郎著「画文集・挑む」1977年

この文章は、岡本太郎が火焔型土器に出遭ってから、26年後に書かれたものです。
次に示す火焔型土器に出遭った翌年に書かれた文章も展示されていました。

「激しく追いかぶさり重なり合って、隆起し、下降し、旋回する隆線文、これでもか
これでもかと執拗に迫る緊張感、しかも純粋に透った神経の鋭さ、常々芸術の本質として
超自然的激越を主張する私でさえ、思わず叫びたくなる凄みである。」

岡本太郎著「みずゑ」1952年2月号「縄文土器論」

2.  次に、土偶と岡本太郎の作品の対比がされています。大阪・万博のモニュメントタワーである「太陽の塔」とハート型土偶は似た所があります。「顔は宇宙だ」。

3.  最後に、岡本太郎がガウディーとピカソの2人から強い影響を受けたことが展示されています。

 おざなりの展示会かと思っていたのですが、論点が絞り込まれた展示会でした。

本日も、おせっかいな説明を、見も知らない人にしてしまいました。
 十日町市笹山出土の火焔型土器の前で、
この土器は国宝なんですよ。但しレプリカですが。と声をかけたことから、中年の女性と話しました。彼女は、岡本太郎の創作の根本が縄文時代の土器にあると知って、驚いて見にきたとのことでした。オーストラリアで、日本の文化を教えている先生とのこと。日本の文化は、大陸から到来した文化/技術をまねて、磨き上げるところに特徴があると考えていたとのことでした。「縄文式土器も大陸から伝わってきたものでしょう」との言葉がありましたが、『違いますよ、縄文時代の技術は日本で独自に発展したものですよと、話し始めてしまいました。火焔型土器は津南町や十日町市付近の狭い領域で短期間(100〜150年間)作られたもので、この地域独自のものです』と紹介しました。縄文式土器の独自のデザインが、日本国中の各地域で発生し、消滅しています。けっして、大陸のまねをしているのでもなければ、日本中に単一な文化があったわけではありません。100〜150年間は、5世代くらい文化が続いたということです。縄文人の平均寿命は30歳くらいだからです。この土器は、「火焔型」と言われていますが、最初に火焔型土器の発掘者が、土器のデザインが炎のようだと考えたからですが、もしかすると、水の流れを表現しているのかもしれません。いずれにしても、火山とか、洪水/信濃川に流れ込む中津川の流れに恐怖を覚えたか、自然の力を表現したいと思う 岡本太郎のような縄文人が、魚沼郡にいたのかもしれません。
あっ、魚沼郡はコシヒカリで有名な所ですね。土地が豊だったから、ユニークな土器ができたのですか?」との質問に対して、コシヒカリは栄養分に富んだ土地だからいい物ができるわけではありません。栄養がよすぎると、葉っぱが大きくなったり背丈が高くなり、いいコシヒカリはできません。栄養分は最初、抑えて、実がつくころに栄養を与えることがコツだそうです。何か、人間に対する教育と似ている所がありますね。そのような作り方を見つけたのが、魚沼の人だそうです。工夫する習慣がある土地だから、昔、土器の意匠の天才が生まれたのかもしれません。火焔型土器が突然なくなったのは、環境が悪くなり、人々が移動したのかもしれません。と応えました。
小輩は、実は、土器の外見にあまり興味はありません。土器の作り方に興味があります。縄文人は、水がもれない土器を作りました。その技術を、他の国で縄文式土器に似た形をしている土器に施されているか関心があります。縄文式土器は原始的な土器と思う人がいるかもしれませんが、縄文式土器に施されている技術は高度ですよ。
新潟県青田遺跡で発掘された漆加工糸だまの話をきっかけにして、漆加工技術は、8000年前の縄文時代に存在したことを話しました。彼女は、日本の文化について、縄文式土器をもとにして学校で新しい話をすることができると言っていました。
話したのですが、小輩のHPを紹介するのを忘れました。残念。(もちろん、名のっていません。)


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