プ ロ フ ァ イ ル |
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ワイワイグッチ(yygucci)の歴史 | |
高2の時の臨書(隷書) |
歳 | 出 来 事 | 備 考 |
1953年 | 東京都世田谷区に生まれる。 父方のルーツは奈良県桜井市。三輪明神と三輪そうめん。 母方は鳥取県境港〜米子の弓浜半島がルーツ。夜見ヶ浜とも言う。 |
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2才 7ヶ月 |
弟が生まれた日について、微かな記憶あり。 | |
4才 | 隣(木の塀の下をくぐって行く)の下宿生、六さんとあっちゃんに遊んでもらう。水族館に連れていってもらった記憶が強く残り、夢にも出てきた。何処か判らなかった。大学の時、井の頭公園の水族館であることをつきとめた。 | |
5才 | 近所のおねいさん;ふじこちゃんに、映画「ノンちゃん雲に乗る」に連れていってもらう。ワンワン泣いて、映画館から追い出される。 小学6年細野君の悪ガキチームに加わる。徒党を組んで、渡辺さんちのブザー鳴らしをして逃げた。渡辺のばあさんに捕まった事があった。 |
妹が生まれる。 正幸ちゃんが北海道から引っ越してくる。 |
6才 | 幼稚園で正幸ちゃん、正志ちゃんと同じ組になり、普通の子になった。悪ガキチームにいたことから、メンコは強かった。 幼稚園では毎回立候補して、劇の主人公をやった。在幼稚園最後の劇では、他の子にやらせなさいと梅沢先生に言われた。 |
正幸ちゃん、正志ちゃんの家は、炭鉱会社の社宅だった。広い庭だった。 |
7才 (小1) |
1年の時、カンニングを大沢先生に強く怒られた。それ以来カンニングをしていない。 | 8才から習字を習う。先生は、翠軒流・影山磐渓。 |
10才 (小4) |
佐々木先生が作った水泳クラブで夏休み中、ほとんど毎日泳いだ。喜多沢と私が、500m泳がされた。地区の大会に出て、6年生と競泳した。八丈島出身の佐々木先生は生徒に根性を教えた。喜多沢と私を育てた。しかし、PTAの評判は悪く、転任した。 | (8年後に、佐々木先生の教育が正しいことが証明された。) |
11.12才 | 蟻をじっと見ていた。数時間見ることもあった。 陸上400mリレーで尾上君とともに区の大会に出た。 |
11才(?)の時、明治神宮の書初めで、特選になり、受賞式に行った。 |
13才 (中1) |
生物の実験で、水酸カルシウムの溶液に二酸化炭素を吹き込むと、まず白濁し、次に透明になった。なぜかを一生懸命調べた。 地理は望月先生(若い女性の先生)だった。一生懸命勉強したので、高校在学中/大学受験時に地理を勉強しなくて済んだ。偉大な先生。 |
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14才 (中2) |
夏休みの宿題で、縄文式土器のレポートを書いた。このHPのルーツ。 酒屋の息子・大場と星の話しをしょっちゅうしていた。フレッドホイル著「天文学の最前線」を読んで、核物理学を頭に詰め込んだ。平方根の求め方を参考に、立方根の計算方法を考えたのも大場と。微積分もやった。 |
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15才 (中3) |
「おまえはにんじんだ」と言う竹田先生に、独断で1年間美化委員長をやらされた(普通3年生は後期には委員長をやらなかった)。 学校で一番汚い教室は我3Fだった。委員会で「3Fの委員注意して下さい」などと私が言っていた。校長先生と一緒にごみ箱を作って配った。 | 15才の時、師範直前の段で2段特進。2ヶ月かけて6文字の勉強をした結果。 |
16才 (高1) |
一番近い高校を選んだ。学校群制度で2校が1グループだった。他方の学校だったら自転車通学できたのに、電車通学をした。 自宅から駅、駅から学校は毎日全力疾走。体力がついた。 冬に父死亡。 |
芸術で書道を選択、山口ほうしゅん?先生から教わる。但し、1時間目は毎週サボり。故、5はもらえなかった。 |
17才 (高2) |
天文部の部長をした。東京都心では星が見えず、陣馬、御岳山などでキャンプをし、観察した。山に登らざるを得ず、体力増進のために、部活の日は新宿御苑の周りをマラソンした。天文部は運動部になった。 | 隷書を習う。山口先生は実力者だった。高校生に教えたいため来ていたとのこと。 |
18才 (高3) |
駿台夜間部に通った。本多と数学の試験で100点を何回取れるか競争した。 | 16か17の時、書道師範になる。 |
19才 (大1) |
大学には2年間自転車で通った。英語の語源として、ラテン語が重要と感じ、理科系であるにもかかわらず文学部に行って、ラテン語を勉強した。文学部の人間の語学力に驚いた。寝言がドイツ語という女の子もいた(誰が聞いた?)。 学園祭の後夜祭で日本酒を2升近く飲み、次の日、地球が自転していることを実感した。その後半年、日本酒は飲めなかった。(安い)ブランデーを飲んだ。 |
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20才 (大2) |
森口先生からフォートランの講義を聞いた(半分以上の講義は若い先生が行った)。教育コンピュータ・メルコム(三菱)を使い実習した。円周率パイを計算するプログラムをブルーバックス「パイの不思議」を読んで作った。1000桁計算させた。 有機化学の教科書に炭化水素の異性体数の表が載っていた。長助教授に頼んで、パスワードを使わせてもらい、計算した。プログラムがなかなかうまく動かず、いらいらして歯を1本折ってしまった。 |
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21才 (大3) |
コンピュータを使わせてくれる講座の単位を他学科に取りに行った。金属の材料工学、計数学科の数値計算、理学部化学科の・・・・・。遊びました。 | |
22才 (大4) |
分子軌道法のプログラムを移設した。HITAC何番という超高速マシンで使っていたものを、FACOMに移設した。篠田助手(当時)の考えに基づき、サブルーチンを作り、分子軌道のエネルギーを原子に振り分けて論議することが出来るようにした。4年なのに夏休みは数日でした。 | |
23才 | 技官をやった。INDO/MINDO(つじつまの合う分子軌道法)で遷移金属を入れて計算させようとの計画の下、色々な先生と話し、作成を試みたが、収束しないまま終わった。 | |
24才 | 会社に入社した。前年はオイルショックの後遺症で、不採用の企業が多く、企業の中には自宅待機まで出た年であった。 | |
27才 | 結婚。千葉県稲毛に住みました。 | |
30才 | 米国デラウェア州に共同研究のため単身赴任。デラウェア州には日本人がほとんどおらず、4ヶ月英語だけの経験をした。最後は日本語を話すのが難しかったが、帰国後1週間で完全に日本人に戻った。 | |
研究所にパソコンを導入する際に、データ処理システムをベーシックで作成した。4人のコンピュータ委員でプログラムを作ったが、中心部分を私が作り、基本的な機能をまとめた。積さんは裏ワザに長けていた。 | ||
35才頃 | 始めて個人のパソコンを買った。PC9801U2の中古です。 | |
35才 | 千葉市貝塚町に自宅を建てた。ここを選んだのは、不動産屋が案内してくれた時、近くでキジが鳴いたから。 | |
37才 | 静岡に転勤。自然に恵まれていた。よく川原でバーベキューをした。 | |
39才 | 北海道に転勤。食べ物が安く、おいしかった。 | |
40才 | 東京に転勤。OAプログラム外注か、自社開発か の意見を求められた時、自社でできると発言したら、戻ることになった。 | |
42才 | 秋、母死亡。 |
母のカタミの蘭亭帖を繰返し臨書。 |
当ページは、前田享史氏、小菅氏の勧めにより、作成しました。