博物館めぐり (含重要遺跡) - 作成中 -
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       町田市博          居徳遺跡、高知県博
 
     

各地方の中の順は小輩が行った順。 

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飯能市郷土館、入間市博物館
2014/7/6、加曽利貝塚土器づくり同好会で埼玉南西部博物館めぐりを行いました
左 : 埼玉県飯能市郷土館。 小輩、叔父が務めていた企業が数十年前、東京の大田区から飯能市に移転したので飯能市はキューポラのある街みたいに工場が多いのではないかと思っていましたが、バスで行くと住宅が多い所と認識を改めました。

右 : 郷土館ロビー。
左 : 縄文草創期の微隆起文土器が出土したことがあるとのこと。この地に1万年以上人が住んで文化を咲かせていたことがわかります。隆起文が非常に細いので、施文は大変だとブツブツ言っていたら、「親指と人差し指を合わせた先で作った小さな三角形で粘土を引くんです。縄文人の指は土器を作る道具」と学芸員の人が教えてくれました。縄文中期の土器を作った時に口縁の細い線を親指と人差し指で作った三角形で作ったことを思い出しました。

右 : 加曽利貝塚土器づくり同好会の土器づくりに参考にするために、会議室に出土品数点を展示してくれました。その中に縄文晩期の注口土器がありました。他の縄文中期の土器は赤色を帯びていったのに対して白っぽく、粒度が細かく、精製土器でした。郷土館の人に聞いた所、飯能の土器の色はさまざまとのこと。この土器は粘土層の赤土が含まれない部分を慎重に採取したものと想像されます。縄文人の心を察して、土器づくりをします。
 
左 : 入間市博物館。なぜか立派な建物です。林業や製茶産業の歴史を広告するために作られた? ロビーでは紅茶の喫茶方法についてプレゼンテーションをしていました。さすが博物館、紅茶用茶葉の生育について最適気候の話が中にありました。因みに小輩はアッサムを陶器ポットで濃いめに入れてかたくなにミルクティーで飲んでいます(英国人の心をつかみたい)。

右 : いわゆる勝坂式土器がたくさん展示されたいました。籐内式の影響を受けたものが何点か。逆に藤内に影響を及ぼした?
左右 :加曽利E式も何点か。加曽利E式の初期のものがいくつか。同好会で経験が短い人に、「初歩の人のE式みたいですね」と冗談を言っていたら、加曽利E式は千葉県の貝塚を標識としているが、埼玉が発生の地、と加曽利博物館の学芸員の人の声。なるほど、発展する前のものがここにあって、ある程度発展したものが千葉市に伝わって、進化して美しいものが残った ・・・ と理解しました。

左 : 口縁部に立体構造を持った加曽利E式土器。立体構造の加曽利E式は千葉にはあまり見られませんが、北関東に立体(二重、3D)構造もった加曽利E式はあります。胴部/底部も見ると、王冠型や火焔型に発展する可能性もあるのでは。

右 : 加曽利E式と書いてありますが、称名寺式の気配が。


入間市博物館を見学して、土器形式のルツボの地と感じました。ここで生まれた形式が広がって、そこで発展する。ここの土器は他の土器の形式に影響される。 縄文時代の文化は山脈の裾に沿って伝わっていく と言った人の言葉が残ります。

入間市博物館も展示していない土器を用意してくれましたが、車で行かなければならない建物で とのことで、同好会の主要メンバーがそちらに行って撮影/測定。一般会員は博物館だけの見学となりました。深く知りたい人は主要メンバーになりましょう。

 

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上海市博物館 縄文土器があります
全てをしっかり見ると、まるまる1日かかります。
左 : 上海浦東空港から上海市市街まで、リニアモーターカーが走っています。時速400km以上。日本と同様な新幹線網もあり、技術の発展は猛スピード。

右 : リニアモーターカーから地下鉄に乗換えて上海市博物館へ。地下鉄の改札でも博物館の入り口でも持ち物チェックがあります。なぜか小輩の中国語は通じませんが、英語を理解してくれる人が公共機関にはいるので、大きな問題はありませんでした。
左の土器破片に右の説明があります

左画像の左 : 江西省万年県仙人洞遺跡出土土器破片 8800年前

左画像の右 : 広西地域桂林県甑皮岩遺跡出土土器破片 7000年前

施文について、模様がついた棒で叩いてつけたものとの説明がありましたが、日本で同時期に見られる押印文と思われます。
左右 : 種々な土器が展示され、彩色土器/陶器に発展していくことが展示されています。とりわけ文字が書かれた土器が展示され、文字が使われていたことを示しています。 
 
小輩が上海市博物館に行ったのは2005年と2012年です。2005年は桂林県甑皮岩遺跡出土土器破片だけの展示でしたが、2012年は仙人洞遺跡出土土器破片が展示されていました。さらに、2012年6月29日発行の雑誌サイエンス(Vol.336 No.6089 pp1696-1700)に仙人洞遺跡から19000〜2万年前(BP)の土器破片が出土したとの報文が載っていることがわかりました。それに関する資料はinternetで流されていて、http://www.sciencemag.org/content/336/6089/1696/suppl/DC1 で見ることができます。(サイエンスの英語は中国語を基にした英語のようで、中国語を想定して読まなければなりませんが・・・)

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尖石遺跡
左:「尖石遺跡」の由来となったとんがった石。尖石遺跡の南端にあります。石器を磨いたと言われる痕があります。この石の南を小川が流れます。

右:尖石遺跡。画像のほぼ中央に住居址を石で囲んだものがあります。住居中央の炉は数個の石で組まれていたが、ノキは石では囲まれていなかったとのこと。
左:縄文ビーナスです。胸からお腹にかけて金ウンモが光っています。八ヶ岳近辺でも、縄文中期初葉、胎土にウンモを含む土器が作られたとのこと。ウンモを含む粘土が使われたのか、ウンモを練りこんで土器を作ったのかは不明とのこと。さらに、尖石遺跡で出土する土器の粘土は何処のものかは不明とのこと。

右:西洋の容器みたいな土器もあります。なぜこのような独創性を土器に施したのか。縄文中期に中部地方の人口が増え、石器製造の改良に培われたアイデアが多くの人の共有財産になり、この創造性が土器の造形に発揮されたとのことを井戸尻に次いで、あらためて感じました。
左:仮面の女神。大型土偶です。埋葬されるように埋められたもののようで、片足が取れていた以外は完形で出土しました。

右:仮面の女神が出土した中ッ原遺跡。柱列穴に穴径に合う柱を立ててあります。どのような構造物であったか不明であるため、ただ柱を立てて、復元としたとのこと。
左右:すっきりした線を使った土器です。
左:この浅鉢は内面に装飾が施され、磨かれていて、口縁以外の外面は装飾がありません。この浅鉢は内面に意味があります。
学芸員の話では、食物などを盛るのに使われたとのことだが、内面に「焼く」機能を持たせ、模様を見ながら調理したのではないかと想像。この浅鉢を復元して、ドングリクッキーを作ってみよう。

右:尖石遺跡に阿玉台式土器があります。ここで出土することは稀とのこと。関東地方と何らかの関係があったことを示しています。例えば、黒曜石と干し貝の物々交換など。

 

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井戸尻遺跡 山梨県との県境に近い長野県富士見町 縄文農耕論を唱えた藤森氏ゆかりの遺跡/資料館
左:井戸尻遺跡の石碑です。遺跡の中央にあります。

右:住居址の向うに段丘が広がります。住居のクボミは50cmくらいあります。冬は寒いから妥当。
左:縄文人はヤマモモも採取したでしょう。

右:井戸尻遺跡の東に湧水があります。集落が存在するためには湧水が必須。
左右:浅鉢がやや多い。千葉市では、大型貝塚で浅鉢が出土することは稀で、内陸の遺跡ほど浅鉢の出土が増えますが、井戸尻考古館の学芸員によると、この地方で深鉢に比べて浅鉢が特に多いことはないとのこと。
井戸尻/曽利付近では人骨が発掘されたことはありませんが、松本近辺の遺跡で発掘された人骨のコラーゲン分析によると、ドングリなどの木の実を多く食べていた。ドングリを調理するのに浅鉢を使ったのではないかというのが小輩の想像ですが、ここでも回答は得られませんでした。右の浅鉢は内面の装飾が外面より優っている。
左右:藤内式土器は底部に逆台形の構造を持ちます。茨城県の縄文中期遺跡で出土する大木式土器の一部に、底部の逆台形の構造を持つものもあります。
しかし、長野県の縄文土器の文様は独創性が強い。器形のゆがみや模様のシンメトリのこだわりがあまりありません。千葉市の縄文土器は対象性にこだわりすぎて、堅苦しい感じを覚え始めました。
小輩は8/21、加曽利貝塚博物館で藤森栄一著「縄文の世界」を34年ぶりに読みました。今でも新鮮な考えに接することができた と学芸員に話したところ、藤森栄一の縄文農耕論その後を書いた「甦る高原の縄文王国」を紹介してくれました。打製石器にこめられたアイデア、その創造性が土器の造形に表現された。そんな感じです。
カエルのモチーフについて宗教的な説明がありましたが、小輩はそのような解釈は好まないので、ここらへんはカエルがさぞかしたくさんいるんだろう、かなり食べたんだろう、そんなことはありませんか と話しました。
左:水煙土器。重要文化財になっている水煙土器は写真を撮ることができませんが、このように指定されていない水煙土器がたくさんあるようです。
なぜ、縄文中期に長野県/山梨県が栄えたのか、富士見町教育委員会「坂平遺跡発掘調査報告書」平成16年に井戸尻考古館の考え方が書かれているので、参考にして欲しいとのこと。\5000弱の本なので、博物館などで見せてもらおう。

右:オミナエシが満開でした。

 

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