ikedamotohisa



■池田元久 略 歴

1940年 12月20日に神奈川県で生まれ
1959年 神奈川県立湘南高校卒業
1964年 早稲田大学政治経済学部卒業
1964年 NHKに政治部記者として入社
1990年 衆議院総選挙にて初当選(旧神奈川4区)
1994年 神奈川大学経営学部国際経営学科講師
2009年 6回目の当選を果たす
2010年 菅直人内閣の財務副大臣に就任
    内閣改造により経済産業副大臣に就任
2011年 衆議院厚生労働委員長
The Democratic Party of Japan  Member of the House of Representatives   Motohisa Ikeda official web site
 
 

                                    2011年12月19日
福島原子力発電所事故
3月11日〜15日/2011年
メモランダム(覚え書)


                                 池田 元久
                                 経済産業副大臣室

3月11日(金)

午後2時46分地震が発生した後、東電福島第一原子力発電所では約1時間後に全ての交流電源を失い、さらに非常用炉心冷却装置による注水もできなくなり、経済産業大臣に通報した。これを受けて午後4時45分、経産省で緊急災害対策本部が開かれ、現地対策本部長として派遣が決まった。
午後5時、作業服、帽子、半長靴を持ってとるものもとりあえず車で出発。まさにスクランブル(緊急発進)だった。
しかし、交通大渋滞で先導予定のパトカーと出会えず、上野駅近くまで2時間かかる。途中で松永和夫経産省事務次官に電話し、自衛隊のヘリコプターを手配するよう指示した。
ようやくパトカーの先導がつき、防衛省・自衛隊市ヶ谷基地へ。
この間、NHKラジオで原発の状況などを聴きながら、同行の原子力安全・保安院の黒木慎一審議官から説明を聴く。

防衛省では、小川勝也防衛副大臣から自衛隊の活動状況を聴く。
ヘリコプターは福島第一原発付近に着陸することを検討したが、現地の状況から、航空自衛隊の大滝根山分屯基地に向かうことになった。

午後10時過ぎ、標高1192mの山頂にある大滝根山分屯基地に着陸。
大滝根山分屯基地付近は厚い積雪、自衛隊車で山を下りる。
麓の街は、道路に一部ひびが入り、道路沿いの家は一部が傾いていた。電灯も消え、人の姿も見当たらなかった。暗い沈黙の街。

午前0時前、福島オフサイトセンターに到着したが、停電しており、隣接の福島県原子力センターへ入る。


3月12日(土)

現地には、保安院の福島第一原発と第二原発の原子力保安検査官事務所の検査官の他、東電、地元消防職員が集まっていた。
直ちに横田第一原発原子力保安検査官事務所長から、原発(プラント)の状況について聴く。しかし、原子炉内の温度、圧力、水位などのデータは計器の故障などにより、計測不能のものが多かった。

電話の連絡も容易でない状態。ようやく繋がった衛星電話で海江田経済産業大臣に現地到着を報告した。

海江田大臣らが午前3時にベント実施について記者会見をするという連絡が入った。
内堀雅雄福島県副知事、黒木審議官、ヘリコプターに同乗して来た原子力安全委員会の職員らと協議した。
事故対応でベントは「定石」であるとしても、ベントを実施した場合、周辺住民に与える影響は大きいので、データを出来るだけ正確、迅速に把握するよう東電の吉沢班長、横田所長に指示した。
松永次官に電話し、ベントに関連しプラント(発電所)のデータの把握に努めていること、ベントは一義的には事業者の判断で行うべきことを伝えた。

午前2時半前 東電班長より1号機の原子炉のデータ(格納容器の圧力上昇など)の報告を受け、ベント実施を了解した。

午前4時過ぎ、菅総理大臣が福島第一原発を視察するとの連絡が入った。未だかつてない原発事故の現場を見たいという気持ちは分かる。
しかし、今回の大震災は原発だけではない。稀に見る大津波、地震であり、テレビ画面が繰り返し伝えるように、家、建物、船が流され、そこに居た人々の安否が気遣われる状況だ。こうした災害では、人々の生存の可能性が高い初動の72時間が、決定的に重要だ。
指揮官は本部に留まって、人命の救出に全力を挙げ、同時に通信手段の整っている本部で原発事故の対応にあたるべきだ。
また、どうしても現地視察に来るのであれば、重責を担っている本部長(総理)に万が一のことがあってはならないので、視察先は第一原発ではなくオフサイトセンターにすべきだと考えた。
このような考えを黒木審議官に東京へ伝えるように言った。(しかし後で聴くと、現地対策本部長の見解は保安院止まりで、総理には届かなかったようだ。)

午前7時10分過ぎ、福島第一原発のグラウンドで黒木審議官、内堀副知事、武藤栄東電副社長とともに菅総理を出迎えた。一行はそばに待機していたバスに乗り込んだ。前から2番目窓側に総理、その隣に武藤副社長、後ろの座席に斑目春樹原子力安全委員会委員長に座ってもらい、通路を挟んだ反対側に現地対策本部長が座った。総理は武藤副社長と話し始めたが、初めから詰問調であった。「何故ベントをやらないのか」という趣旨だったと思う。怒鳴り声ばかり聞こえ、話の内容はそばに居ても良く分からなかった。
免震重要棟に玄関から入った。交代勤務明けの作業員が大勢居た。
「何の為に俺がここに来たと思っているのか」と総理の怒声が聞こえた。これはまずい。一般の作業員の前で言うとは。
2階の会議室で菅総理は武藤副社長、吉田昌郎第一原発所長から、事故の状況説明を聴き、特に第一原発のベントの実施を強く求めた。吉田所長は総理の厳しい問い詰めに、「決死隊をつくってでもやります」と答えた。
やりとりの合間に、黒木審議官は、第二原発にも原子力緊急事態宣言を発令することと、3km圏内の住民に対して避難の指示をすることについて総理の決裁をとった。
また、総理は、県副知事に対して、住民へのヨウ素剤配布などについて質問した。東電側にだけでなく、副知事や斑目委員長に対しても総理の口調は厳しかった。
総理は会議室を出てから、現地対策本部長の背中に手を置き「頑張って」と激励した。しかし、総理の態度、振舞いを見て、同行した旧知の寺田学補佐官に「総理を落ち着かせてくれ」と言わざるを得なかった。また、政権の一員として、同席した関係者に「不快な思いをさせた」と釈明した。

視察を終わって、総理がこの時期に現地視察をしたことと、現地で総理の態度、振舞いについて、指導者の資質を考えざるを得なかった。かつて中曽根総理が在任中、座禅を組んだことを思い出した。座禅などを組まなくても良いが、指導者は、短い時間であっても、沈思黙考することが必要だ。思いを巡らせ、大局観をもって事にあたらなければならない。そして、オーケストラの指揮者のように振舞うことが求められる。

現地対策本部に戻り、防護服をつけていなかったので作業服、帽子を除染。早速、午前9時、第1回機能班責任者会議を開く。現地対策本部は担当別、機能別に、住民安全班、医療班など7班で構成されているが、夫々の業務開始状況を確認した。

この頃のOFCの要員は40人程。しかし次々と要員が到着し、程なく約140人となる。
スタッフは黒木審議官と山本哲也総括班長を中心に、マニュアルなどに従い業務を執行した。

班長の一人は、父親が津波で行方不明になっていたが、住民の避難支援を担当し、休まず仕事を続けた。

そして午前10時30分から第1回全体会議を開き、安定ヨウ素剤の搬入準備や住民の避難状況の把握、緊急時モニタリングの実施など、オフサイトセンター活動実施方針を決めた。この後、活動実施方針に基づき県や関係市町村に指示を出した。

この間、現地対策本部長は、テレビ会議システムで第一原発、第二原発の緊急対策本部の様子をモニターしながら、毎時間出される東電のプラントのデータや通報、保安検査官とプラント班のデータなどを検討し、状況を把握した。
そして、黒木審議官、内堀副知事、各班の班長らと協議し、武藤東電副社長の話も聴きながら、事故の対応に当たり、現地対策本部の指揮を執った。

午後3時半過ぎ、自衛隊から第一原発で大きな音がしたという連絡が入った。本部に通報した。水素爆発のようであった。オフサイトセンターに緊張が走った。武藤副社長から水素爆発について説明を聴く。容易ならぬ事態と認識した。

午後6時半前、福島第一原発で発生した事態を受けて、総理から半径20km圏内の住民に対する避難指示が出た。避難対象の住民の数は一挙に増加した。
すぐに現地対策本部の全体会議を開き、住民の避難を急ぐため、緊急の対策を決定した。


3月13日(日)

未明、今度は3号機へ注水が出来なくなった。ベントも弁の「開」状態維持が難しく、断続的に実施された。

現地対策本部は午前6時半から機能班責任者会議を開いてプラントの状況について認識を共有するとともに、住民の避難に全力を挙げることを確認した。

その後、除染レベル設定のための打合せ会議を開いた。現時点で放射線量を主に放出するのはヨウ素131、セシウム137などであり、これらは40Bq/cm2または6,000cpm以上を基準として除染を行うことを決めた。

現地対策本部は、除染基準を県や関係市町村に提示した。

13日夜、プラントの状況は予断を許さないが、3号機を中心に一進一退の状況になった。最初の約2日間(48時間)の現地対策本部の活動状況を、この辺でまとめて「せき止め」て、本省、大臣に報告する必要があると考えた。
現地対策本部の@活動状況、A主要会議、BOFC活動実施方針、C知事・関係市町村長への指示、D汚染除去基準の設定、E同指示、Fモニタリング状況、G除染スクリーニング及び避難等の実施状況をまとめた。


3月14日(月)

14日午前0時過ぎに、以上の報告文書を保安院経由で大臣、本省に送付した。
14日朝にかけて、3号機の注水が滞り、格納容器内の圧力も上昇してきた。発電所長から冷却機能も失われたと通報があった。

午前8時頃、武藤副社長からは現地対策本部長に第一原発に注水する水が足りないので、第二原発に居る自衛隊と地元消防本部の部隊を第一原発に振り向けてほしいとの要請があった。
 現地対策本部長は状況からいって急がなければならないと判断し、直ちに自衛隊の班長、地元消防本部の担当者を集め、状況を説明した。そして午前8時20分、第二原発で活動中の自衛隊の給水車7台と地元消防本部要員を第一原発に配置換えすることを指示した。

午前11時1分、3号機で水素爆発が起きた。建屋が崩れ、第二原発から移った自衛隊員、作業員などが行方不明となった。テレビ会議システムが映し出す第一原発の緊急対策本部の模様を固唾を呑んで見守り、連絡、情報を待った。

しばらくして無事だった作業員が見つかりはじめたが、配置換えをした自衛隊員はどうなったか。
その後、自衛隊員も発見され、結局東電関係者1名が重傷の他、自衛隊員4名を含む10名が軽傷を負ったことが判明した。

昼過ぎ、武藤副社長と話しをして、現在の給水作業では不充分だという認識は同じだった。そこで東電の要請もあり、東京消防庁など自治体消防の専門部隊の派遣が必要だと考えた。
しかし、自治体消防は政府、総務省消防庁の指揮下にはない。そこで、保安院経由など通常のルートではなく松永次官に電話をして、東京消防庁などの専門部隊の派遣をできるだけ途中に人を介さず要請してほしいと指示した。
(しかし、現実に東京消防庁のハイパーレスキュー隊が第一原発に放水を開始したのは19日(土)午前0時半からであった。)

午後6時頃と思うが、東電の班長が現地対策本部長のもとに来て、メモを見ながら、2号機で「18:22燃料棒露出、20:22炉心溶融、22:22格納容器損傷」と伝えた。
2号機は注水不能となり、ベントも出来ない。最悪の展開になるという報告であった。
直ちに本部、保安院長に連絡した。
ついに来るものが来たと感じた。
しかし、その後「ちょこちょこ」ベントが出来た。水も少し入りはじめたと報告があったが、予断を許さない状況だった。
会議を招集して状況を説明して認識を共有、いざというときに備えるように伝えた。
第一原発から約5kmの現地対策本部(オフサイトセンター)は原発の深刻な状況から移転する必要があるという話は以前からあったが、「移転」の話が現実のものとなった。
内堀副知事、東電の小森明生常務(武藤副社長と交代)や陸上自衛隊中央即応集団の今浦勇紀副司令官ら現地本部の幹部と相談し、20km圏のすぐ外側に適当な建物、施設はないか捜した。しかし、150名以上の要員と車などを収容できて、通信手段も確保できるところは無かった。
内堀副知事から、福島県庁の本庁舎5階正庁はどうかという提案があった。県庁であれば東電福島事務所を経由してテレビ会議システムも使用できるということであり、現地対策本部長はこの点も考慮に入れた。
そこで、現地対策本部長は、移転する場合は業務を円滑に継続することが重要であるとして、県庁へ先遣隊を派遣することを決めた。

この後、スタッフを集めて2回目の会議を開いた。現地対策本部長は、現地対策本部を移転するにしても、住民第一であり、20km圏内に残っている住民が居ないか確認してほしい、と伝えた。
この時点で、避難対象住民の避難措置はほぼ終わっていた。
しかし、14日未明まで、双葉地域の病院や介護施設、特養施設に849人の重症の患者や入所者、職員が残っており、14日未明から「救出」を進めていた。
そこで、現地対策本部は、病院などにまだ留まっている患者、入所者の救出などに全力を挙げることになった。
また、会議では、現地対策本部長が内堀副知事を長とする先遣隊を福島県庁に派遣することを指示するとともに、移転に備えて現地対策本部の人員の把握、輸送手段の確認などを行った。
14日午後9時過ぎ、現地対策本部の福島県庁への移転について大臣の了承を得た。

15日午前0時過ぎ、先遣隊(20名)は福島県庁に到着した。
内堀副知事は、未明であったが業者を呼んで県庁5階を整備した。


3月15日(火)

この間も、2号機の格納容器の圧力は上昇し、ベントを試みるが難航した。
午前6時10分、2号機で爆発音がし、炉下部の圧力抑制室が損傷した。

一方、午前6時半、4号機でも爆発音がして建屋に大きな穴が二つ開いた。4号機は原子炉に燃料棒が入っていないだけに、驚くとともに事態を憂慮した。

15日午前9時半、現地対策本部の福島県庁への移転が正式に決まった。(文書で手続きを踏む)

現地対策本部長は移転先の状況、整備の模様など内堀副知事から聴き、労をねぎらった。

双葉地域の要救助者のうち、自衛隊が大熊町の双葉病院にまだ重症の患者など96人が残っていることを確認し、救出したとの報告を受けた。

現地対策本部長は午前11時前、双葉地域の要救助者全員の救出などを改めて確認し、移転開始を決定。現地対策本部要員は車列を組んで福島県庁へ出発した。

・ 原子力安全・保安院は当初、原子力災害現地対策本部長が陸路で現地に入ることを予定していた。
・ また、オフサイトセンターの非常用発電機が当初故障して立ち上がらなかった。
・ 通信機材が僅か(衛星電話2本、うち1本がTV会議とFAX兼用)、本部、大臣等との連絡が支障をきたした。
・ 大臣への報告、意思疎通は問題なかったが、保安院、本省の対応が遅れたものがあった。
・ オフサイトセンターは法律で定める緊急事態応急対策拠点施設であるが、要員の仮眠設備が無く、深夜に机に突っ伏して睡眠をとる状態だった。食糧はレトルトのカレーとご飯のみ、一日2食だけであった。

(以上6項目について、一時帰京した翌16日、保安院に改善を指示した。次頁参照。)

原子力安全・保安院などの対応を見ると、冷戦後いわれたデタント(緊張緩和)ぼけに陥っていたのではないか。
過去に過酷な事故は無く、何となく原子力安全神話のムードに包まれていたといってもよいのではないか、と思われた。



<上京後の原発事故対応フォローアップ>


3月16日(水)

副大臣(現地対策本部長)は一時帰京した翌16日(水)午後、原子力安全保安院を訪れ、現地対策本部について初動対応、通信機材の不足、情報連絡伝達の不徹底、設備・食糧の不備など6項目の改善を指示した。

 また、副大臣は、原子力安全保安院に対して、今回の原発事故によって地震、津波で電源が全て失われたことを反省し、応急的措置として、全国の原子力発電所について、高台に空冷の非常用発電機を置くとともに、貯水プールとポンプも備えるよう提起した。
 原子力安全保安院は、3月30日(水)、副大臣の提起した事項を中心に緊急安全対策を実施した。


3月17日(木)

 さらに副大臣は、3月17日(木)未明、経産省の製造局と商務流通審議官に対して、放射線防護服など事故対策で必要な物品の洗い出し、確保を指示した。


3月18日(金)

また、18日(金)にはINES評価レベル5への引き上げについて充分な説明を欠いたとして、保安院に注意した。



<その他の取り組み>


 16日(水)夜、政務三役の協議を受け、逼迫している石油等の安定供給確保についてグランドデザインを作成するよう指示した。
 21日(月)18:40記者会見し、東北地方、関東圏でのガソリン、軽油など供給を確保するための緊急の措置と拡大輸送ルートの選定を発表した。


 19日(土)昼、副大臣は大臣に、大規模な災害であるので企業に対して、社宅の開放を含む震災復興支援を要請してはどうか、と提案し、経産省として企業、業界団体に要請をした。



                                        以 上


 
 
  ■経済に活力、雇用を生み出す
安心できる社会を実現する
情操自立心を伸ばす
■通勤、通学の混雑をなくす
■行政、財政のムダをなくす
■地球環境を守る
 

 

経歴
池田元久の経歴
実績
池田元久の実績の一部
活動報告
池田元久の活動報告誌
■写真館
池田元久の活動等の写真

  ■東京事務所
〒100-8982
東京都千代田区永田町2-1-2
衆議院第一議員会館1004号室
TEL:03-3508-7391
FAX:03-3508-3631
■横浜事務所 MAP
〒241-0022
神奈川県横浜市旭区鶴ヶ峰2-30
TEL:045-371-1000
FAX:045-374-0100
 
produced by studio ONE8 Copyright (C) 2006 Ikeda Motohisa office All Rights Reserved