嫦 峨 山   (265.8m)       御津町                   25000図=「網干」
旧室津街道から海を見下ろす稜線を歩く

大浦湾を隔て嫦峨山を望む 室津漁港

 大浦湾の向こうに嫦峨山(じょうがやま)が見えた。雨上がりの日差しの中で、嫦峨山はその眉型のゆるやかな稜線を、冬の瀬戸内海に浮かべていた。

 嫦峨山は、谷崎潤一郎の『乱菊物語』に出てくる。
 『乱菊物語』は、室津の遊女「かげろう」と羅綾の蚊帳を収めた黄金の函を縦軸とするならば、播磨を治める赤松家と代官浦上家の確執を横軸とした、波瀾に富み、しかもロマンに満ちた物語りである。この中で、鮪六(しびろく)という海賊が、海鹿馬(あしかうま)という怪獣に乗って、唐荷(からに)島から家島へ向かうくだりに、次のような情景が描かれている。
 「見る見るうちに藻振りの鼻も七曲りの断崖も、うしろに遠く靄のうちに消えかかって、たった今出て来た唐荷島さえが最早や墨絵のように淡く、その上の方に遠山眉を描いているのは、嫦峨山の頂きであろう。」

 嫦峨山……不思議な響きのするこの名の山を一度訪れたいとかねてから思っていた。

室津街道から見る室津の海岸線
 室津の街から細い道が北へ上っていた。旧室津街道である。
 江戸時代、参勤交代のため海路で瀬戸内海を旅した西国の大名は、室津で上陸し、この道を通って東をめざしたという。明治になって使われなくなり、長らく荒れていたが、最近になって地元の有志の人々によって復元・整備が進められている。
 竹やぶの中の急な坂は、すぐに緩やかになった。竹やぶはやがて雑木に変わり、道は等高線に沿うようにして山の斜面の雑木の中を縫っていた。道に積もる落ち葉は、昨夜の雨にしっとりと濡れている。ときどき残る古い石垣やいくつかの井戸の跡が往事を偲ばせる。
 峠の近くで、視界が開けた。南西に海が見える。曲がりくねった海岸線。赤松鼻、金ケ崎、金ケ崎の沖に小さく浮かぶ君島と蔓島……。遠くに小豆島の山影が浮かんでいる。
 
 峠で旧室津街道に別れ、そこから嫦峨山に向かった。最近になって刈り込まれたと思われる明瞭な細道が、山頂まで上っていた。嫦峨山の山頂は、ササと幾種類かの灌木の中にあった。三等三角点のすぐ横には、三角点測量で使われた木の杭もそのまま残っていた。
 三角点のすぐ近くに、直径1m深さ1m程度の大きな穴が4つあいている。これが、室津街道の登り口で会ったおばあさんの言っていた航空塔の跡なのだろう。戦争が終わってその塔は取り壊されたという。そのおばあさんは、「嫦峨山には、わたしらはもう、よう上らん。」と言って、私を見送ってくれた。

稜線より家島諸島を眺める
 山頂から北東へのびる尾根にも、小道が続いていた。尾根の上の露岩に立つと、点々と浮かぶ家島諸島の島々が見える。男鹿島の右には、陸続きのように連なる家島、坊勢島、西島。さらに右の手前には、小さくこんもりと浮き出た三つの唐荷島。「中の唐荷島」は、「沖の唐荷島」に点のように小さくくっついている。
 西にやや傾いた陽に、瀬戸内の水面はまぶしく光っている。その水面のところどころに、空に浮かぶ積雲が影を落としていた。

 古くからの歴史に彩られた室津の港の背後に迫る嫦峨山。嫦峨山の名は、中国神話にみえる月の女神「嫦娥(じょうが)」につながる。嫦娥は、夫である弓の名手「げい」が西王母からもらい受けた不老不死の霊薬を盗んで月に奔(はし)り、月の精になったという。
 静かな月夜、
瀬戸内の海原に小舟がかすかに揺れる。舟から陸を見やれば、室津の灯の上にゆるやかな曲線を描く嫦峨山が月明かりに浮かび上がる。海の見える稜線を歩きながら、そんな情景を思い浮かべていた。


※次のホーム・ページを参考にさせていただきました。感謝します。
 とんび岩通信
  「嫦峨山と室津街道(御津町)」に、鳩ヶ峰から嫦峨山への記録があります。また、嫦峨山の名の由来についても、述べられています。
 はりま・室津(むろつ)  「よみがえる室津街道」に、室津街道復元と整備の記があります。シーボルトの江戸参府記も紹介されています。

山行日:2002年1月27日

山 歩 き の 記 録
海産物店「堀市」駐車場(国道250号線34m標高点前)〜室津街道登り口〜(室津街道)〜嫦峨山分岐〜嫦峨山山頂(265.8m)〜260m+ピーク〜228mピーク〜160m+コル〜(地形図実線路)〜国道250号線「名田忠山荘」入口〜(国道250号線 七曲り)〜駐車場
 

室津街道入口付近の竹やぶ 雑木の中の室津街道

 「木村旅館」の東に室津街道の白い標柱が立っているが、さらにその東の国道250号線から山側に上っている急な舗装路が室津街道の登山口である(ゴミステーションがある)。すぐに、切り開かれた竹やぶの中の山道となる。少し、不明瞭な部分もあるが、赤い矢印のプレートが旧室津街道であることを教えてくれる。急坂の道は、やがてなだらかになり、竹やぶも雑木に変わる。地形図には、明治時代に開かれた「屋津坂」が破線で描かれているが、旧室津街道はこの屋津坂の少し東、山の斜面の高いところを通っている。道は、等高線に沿うように曲がりながら北へ延びていた。
 鳩ヶ峰の少し南東で道は分岐している。真っ直ぐ行けば、室津街道を北へ下りていく。右に上れば、嫦峨山の山頂につながる。ここで旧室津街道に別れ、嫦峨山をめざした。道は、御津町と揖保川町の町界に沿って、山頂に上っていた。
 山頂には、「ダイセル播磨工場」の大きな標柱が立っている。揖保川町側は、ダイセルの私有地となっていて、ここから先の尾根沿いにはずっと有刺鉄線が張ってあった。
 山頂から、町界尾根を北東に歩いた。山頂の次のピーク(260m+)のやや手前から、道は尾根をほんの少し離れ海側についている。このあたりが、海への眺望が開けている。228mピークを越え、ロープの備えられた急坂を下りると、広い鞍部に出た。この人工的にならされた平坦地には、「自然観光農園開発事業」の大きな看板が、二つ折れに壊れて立っていた。ここから、地形図の実線路を通って、海岸の国道まで下りていった。
 「七曲り」の海岸線を走る国道を歩いて、車を止めていただいた海産物店へ帰った。
   ■山頂の岩石■ 白亜紀 天下台山層群  流紋岩

流紋岩の露頭
(260m+ピーク西、縞状構造が見える)
 室津街道から嫦峨山の山頂までは、ほとんど岩石が露出していない。しかし、山頂から北東に延びる尾根上には、好露頭が多かった。この尾根に分布する岩石は、白亜紀末期の火山活動によってできた流紋岩で、天下台流紋岩と呼ばれるものである。流紋岩に特徴的な縞模様(流理構造)が、明瞭な部分が多い。斑晶として、多くの石英、それに長石が含まれている。石基は、緻密でたいへん硬い。やや褐色がかった暗灰色をした岩石である。

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