有年山城跡(大鷹山・八幡山)(201.2m)  
赤穂市  25000図=「相生」


弁慶岩を抱く有年の城跡
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千種川の対岸より望む有年山城跡

 「赤穂岩山三山」というのが、売り出し中である。福浦のビシャゴ岩、尼子岩が突き出した尼子山、弁慶岩を抱く有年山城の3つである。
 今回、その中の1つ、有年山城を訪れた。

 千種川の向こうに、有年山城が見えた。山頂の城跡には、何本もののぼりがひるがえっている。弁慶岩は、木々に緑に囲まれて、岩肌が朝日を浴びていた。ふもとからもよく見えるこの岩は、地元では「さいじょうはん」と呼ばれて親しまれている。

 弁慶岩

 有年八幡神社の鳥居が登山口。風格のある花崗岩製のこの鳥居は、1744年建立という。鳥居の下には、小さな家型の物置がつくられていて、「有年山城 登城案内所」の看板がかかっていた。
 この中に「登頂ルート図」や「八幡山城跡縄張図」などがあった。どちらも丹念に描かれていて、有年の人々のこの山城への愛着が早くも伝わってきた。
 石段を登り、しめ縄をくぐって城跡への山道に入った。

登山口の有年八幡神社鳥居

 地面に表れた岩の間を登っていく。
 石灯篭が立っているところで、左から上ってきた広い道に合流した。

 岩の間を登っていく

 開けたところに、こげ茶に塗られた灯台が立っていた。灯台の下に設置されている音声ガイドの赤いボタンを押すと、中学生の若い声が流れた。
 ここは、有年八幡神社の境内。千種川を航行した高瀬舟の灯台として建てられた。上流からは主に燃料の薪を運び、赤穂の塩などが上流へ運ばれた。当時は灯明皿に油を入れて灯していたという。
 灯台の横に立つと、眼下に千種川が迫っている。千種川は、この下で大きく曲がっていた。河川敷では、たくさんの人がゲートボールを楽しんでいた。
 

 高瀬舟灯台

 八幡神社にお参りし、拝殿から本殿へと回り込んだ。この本殿の石垣が素晴らしかった。
 石はほんのりとピンク色をした花こう岩。切り込みハギの石の形や組み方に品があって美しい。
 その中に、3つの飾り石が組み込まれている。「うさぎ」と「月」と「扇」。「扇」には唐の詩人白居易の漢詩「百練鏡」の一節が刻まれている。
 石垣の左端には、「石工 落地村 見村久吉 作之」の名が掘られていた。
 ここにも、中学生の声による音声ガイドがあった。その説明を聞きながら、石垣をつくった二人の石工がこの石垣に込めた思いを想像してみた。


 扇の飾り石(有年八幡神社本殿の石垣)

 ヒノキにコナラやアベマキ、サカキやヒサカキが混じる林を登っていくと、弁慶岩が現れた。ロープを伝わって岩の中段へと登る。
 岩の側方に、名の由来となった大きさ30cmほどの穴「弁慶の足跡」がある。弁慶の足跡は各地にあるが、ここでは、飛び蹴りしたのにちがいない。
 岩の表面にモザイク模様が見られた。1~10cmほどの角張った岩が組み合わさって、その間を細かい粒が埋めている。ハイアロクラスタイトだった。水中に噴出した溶岩が水に急に冷やされ、砕け散った岩石がかたまってできた。
 弁慶岩の上から眺望が開けた。千種川の水面が青い空を映している。数時間前にこの岩を見上げたところが向こう岸に見える。国道を走る車の音が絶えずここまで上がってきた。

弁慶岩「弁慶の足跡」 弁慶岩からの眺望 

 弁慶岩から急な坂を登っていった。カナヘビが落ち葉の下に隠れる音がときどき聞こえる。ホオジロが大きな声で鳴いている。ヒヨドリが、登山道を横切った。
 休憩所があって、千種川に向かってベンチが一つ置かれていた。ベンチの横には、「おのおのがた 一休みして参ろうぞ 城主」の立札。サービス精神いっぱいの登山道である。
 休憩所から道はさらに急になった。丸太階段やロープがつけられていた。
 曲輪の一番先端らしきところに低い石垣が馬蹄型に残っていた。ここには、「見張台」の標識がかかっていた。
 見張台を過ぎると、しだいに傾斜がゆるくなってきた。いくつかの曲輪跡の平地を越えていくと山頂に達した。

 さきほどからにぎやかな声が聞こえていたが、山頂にはその声の主、4人の女性がいた。地元の人たちで、ここで1時間ほど話をしていたという。
 私が姫路からきたと言うと、ベンチをほうきではいてくれて、あめやチョコレートをくれる。登城記念のカードや山城シールもいただき、登山感想ノートもあるからねと・・・。4人そろっての記念写真をとってあげると、「美女やから、きれいにとれたはずや。」 楽しい人たちであった。
 「ヤッホー」を3回叫んで、山を下りて行った。山頂は急に静かになった。
 きっとこんな人たちが、地元のこの城跡を大切に思い、登山者を迎えるためにたくさんの工夫をしながら山を整備してくれているのだろう。


 有年山城跡山頂

 アベマキの若葉が山頂に木陰をつくっていた。ふもとから吹き上げてくる風が心地よい。
 展望写真パネルが2ヵ所に立てられていて、近くの山や城跡の名前がよくわかった。パネルの「家島群島」の方に目を向けると、海と空がつながった灰色の靄(もや)の中に島影がかすんでいた。
 ここでも、音声ガイドがこの山城の歴史を教えてくれた。
 有年山城は赤穂市内最大の山城で、赤松範資(のりすけ)の三男本郷掃部助直頼(ほんごうかもんのすけなおより)が貞和年間(1345~1350)に城主になったと伝えられている。その後、たびたび城主が変わったが天正7年(1579)宇喜田氏が織田に帰順すると廃城となったと考えられている。


 城跡からの眺め

 山頂から、尾根を北西へ歩いてみた。尾根に沿って曲輪跡が続いている。水堀があって、その先に直径5mほどの大きな穴が空いていた。「大型土壙」の標識がかかっていて、食料庫だったと考えられている。その先にも、これより小さな穴が3つ並んでいた。
 ここから薬師堂へ下る道がついていた。少しこれを下ってみた。石落し用の軍用石があって、そこから下へ曲輪が連続していた。曲輪の数を数えながら下ってから、山頂へ引き返した。


 大型土壙(食糧庫)  南西曲輪群を見下ろす

 山頂から、東へ下った。こちら側にも、井戸跡や土橋など山城の遺構が続く。
 円墳を一つ見てさらに進むと、放亀山1号墳が現れた。登山道がバチ型の前方部の上につながっていて、そのまま後円部へと進んだ。全長38m。発掘調査によって、2段に築成された古墳の形がよくわかるようになっていた。
 この古墳は初め円墳だと思われていた。それが、平成30(2018)年度の発掘調査によって古墳時代前期前半(約1,700年前)の前方後円墳であることがわかった。赤穂市で初めて確認された前方後円墳である。

 土橋  放亀山1号墳(前方後円墳)の上

 古墳をぐるりと回ったあと登山道に戻り、雑木林の木陰の道を下った。樹上でヤマガラやエナガの声がした。今年初めてキビタキの声を聞いた。
 下山口が見えたところでシカに出会ってびっくりした。

山行日:2023年5月10日

有年八幡神社鳥居~有年八幡神社~弁慶岩~有年山城跡~放亀山1号墳~有年公民館裏 map
 有年山城跡へは、四方から道が通じている。有年八幡神社鳥居の登山口には駐車スペースがあって、「登城案内所」に、登頂ルート図や縄張図が置かれている。
 道はよく整備されている。道標や休憩所、説明板や音声ガイドなどが充実していて、楽しく歩くことができた。

山頂の岩石 白亜紀後期 有年層 ハイアロクラスタイト
弁慶岩のハイアロクラスタイト1
岩塊の割合が大きいところ
弁慶岩のハイアロクラスタイト2
マトリクスの割合が大きいところ
 
 登山口から有年八幡神社までは、流紋岩質の溶結凝灰岩が分布している。石英・長石と少量の黒雲母の結晶片をふくむ淡褐色の溶結凝灰岩で、溶結レンズが確認される。
 この溶結凝灰岩に流紋岩が貫入しているところがあった。
 弁慶岩は、ハイアロクラスタイトでできている。1~10cm程度の角礫をマトリクスが埋めている。角礫の占める割合が多いところと、角礫が少なく半分以上をマトリクスが占めているところがある。角礫は灰色をしていて緻密で硬い。流紋岩質で、石英・長石・黒雲母の結晶を多くふくんでいる。
 ハイアロクラスタイトは、見張台まで続く。山頂付近に露頭はない。

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