植村直己ふるさと公園(50m)  豊岡市  25000図=「江原」


植村直己の故郷を訪ねて

植村直己ふるさと公園の記念碑と墓標


 日本人初のエベレスト登頂、世界初の5大陸最高峰登頂、単独犬ゾリ北極点到達など、数々の冒険を成し遂げた植村直己は、兵庫県豊岡市で生まれた。(「植村直己年譜」)

 秋の休日の午後、妻と二人で植村直己の故郷を訪れた。

 植村直己の生家は、日高町上郷(豊岡市)にある。円山川右岸のその集落の南の山裾にあるのが、「植村直己ふるさと公園」である。

植村直己ふるさと公園入口

 あたりはのどかな田園風景。公園入口から頼光寺の参道に並行して、道が山に向かっていた。道は、山脚にぶつかったところで、黒く塗られた木道の階段となった。

頼光寺脇の木の階段を登る

 木道の下には小さな池があった。花期をとっくに終えたハスが、池の上に葉を広げている。池の畔には、ミゾソバが淡いピンクの花をつけている。乾いたところには、イヌタデやキツネノマゴが咲いていた。
 木の階段を登ったところにも小さな池。その上をアキアカネが、群れて飛んでいた。秋が日一日と深まっていく。

ミゾソバ キツネノマゴ

 木道が終わり、地道になったところに弁財天の小さなお堂。そこから、道は林の中に入っていった。
 カエデの葉が光を透かした明るい林に、丸太階段の広い道がゆるく上っていた。サクラの葉は紅葉が早く、穴がたくさん開いてオレンジに変わっていた。

モミジの道を登る

 道標のある分岐を右に曲がると、小高い丘が見えた。そこが、植村直己ふるさと公園だった。一番高いところは、石で四角く囲まれて、その中に白い小石が敷き詰められていた。そこに、山をイメージした三角すいのモニュメントと墓標が立っていた。

植村直己ふるさと公園へ

 石のモニュメントには、雪山が彫られたプレートが埋められていた。雪山の上は、「NUNATAK UEMURA 2600M 16 JUNE 1984 DENMARK」と刻まれている。
 植村がマッキンリーで消息を絶った1984年、世界で初めてグリーンランド縦断を成し遂げた植村の偉業をたたえて、デンマーク政府はグリーンランド最南端の無名峰に「ヌタックウエムラ(植村峰)」と命名した。このプレートは、それを記念してつくられた。
 そのモニュメントは、角閃石ひん岩でつくられた。もう一つの面には、「NAOMI UEMURA A BRAVE MAN AND A GREAT ADVENTURER」と、エドモンド・ヒラリーの言葉。

 植村の墓標は、さらに一段高いところに立っていた。消息を絶ってすでに30余年。植村は、今もマッキンリーの氷雪に眠っている。主のいない墓標だけが、ここで静かに故郷の町を見下ろしていた。

記念碑のプレート1 記念碑のプレート2

 墓標から向こう側に少し下がったところに、金属製の壁がつくられていた。植村直己メモリアルウォール。ここには植村の年譜が記されていた。

 植村は、単独行を愛した冒険家だった。マッターホルンに独りで登ったあと、セルビアの近辺に咲いている高山植物を採って歩いた。そのとき、

 「道からはずれた手の届かない岩棚の上に、エーデルワイスの花を見つけたのはうれしかった。誰に見られることもなく風にゆれ、七、八輪の花を咲かせているのだった。そのエーデルワイスの姿は、私を感傷的にした。
 人の目につくような登山より、このエーデルワイスのように誰にも気づかれず、自然の冒険を自分のものとして登山をする。これこそ単独行で登っている自分があこがれていたものではないかと思った。」(「青春を山に賭けて」より)と書いている。

 メモリアルウォールの前の丸い天井からは、高い塔が空に向かって一直線にそびえていた。ふもとからもよく見えるこの塔は、植村の高さへの挑戦をイメージしているという。 

そびえるモニュメント


 墓標を背にして立つと、木々の枝葉の間から、植村の育った上郷の家々が見えた。集落の向こうには円山川の流れに沿って木立が一列に並んでいた。

 植村は、1941年、上郷の小さな農家に生まれた。7人兄弟の末っ子だった。
 「家では米作のほかワラを加工して縄を作り、神戸や大阪地方に売っていた。大人だけでは人手が足りず、小学生のころは、牛飼いや畑の草とり、ワラのそぎ取りを手伝っていた。」(「青春を山に賭けて」より)
 「子供の頃は牛とばかり遊んでいて人なれせず、友達が無性に欲しかったと述懐した。」(「遥かなる人 能勢順 著」より)
 人への強い思慕が、明治大学に入ると足を山岳部に向けさせた。狭いテントの中ならば、いやでも人は自分に話しかけてくれるだろう。そう思ったという。

生家のある上郷を見下ろす

 山を下り、ふもとの田んぼを横切って集落に入り植村の生家をめざした。ソバ畑の向こうの柿の木には、赤く染まった柿の実がたくさんついていた。
 植村の生家には、新しい家が建っていた。植村が住んでいたころの面影はもうない。しかし、家の前に立つ玄武岩の記念碑が、そこが植村生誕の地であることを示していた。
 石碑には、西堀栄三郎(第1次南極観測隊越冬隊長、日本山岳会会長を務める)の寄せた、「牛追いし 里に帰って 名は永遠に ここに生きる」の詩が記されていた。
 植村は西堀を師とあおぎ、 北極点単独犬ゾリ旅の前には六分儀による天測を習うため日参した。西堀は、そんな植村を孫のようにかわいがっていたという。

生家の前の記念碑

 生家からさらに北に歩き、国道を越えてコスモス畑を過ぎると円山川に架かる橋の上に出た。円山川は、静かに水をたたえ空の雲を白く映していた。橋の下には低い堰堤があって、そこを越えた水は下流側で勢いよく流れ、浅瀬に白波を立てた。
 橋の上から、植村が高校1年生のとき、クラスメイトと息を切らして登った蘇武岳が遠くに見えた。

 ひとつの冒険を成し遂げると、またすぐに新しい旅を続けた植村。極地やヒマラヤに住む人々の中で共に生活し、そこで生きる技術を学んだ。大きな窮地に立っても、類まれな勇気と行動力で活路を開いていった。
 いつも大きな夢を描き、挑戦を続けた植村直己は、この地に抱かれて育った。植村の行為はいつまでも色あせない。

生家に近い円山川の眺め

山行日:2015年10月4日

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